朝鮮出身者はエリートだった 満州国軍軍官学校で「日系扱い」に

エリートだった朝鮮出身者
【満州文化物語(30)特別編】2016.8.21 産経新聞

 満州国軍の兵力は約15万(終戦時)。建国時(昭和7年)に交わされた日満議定書で満州国の国防は日本軍(関東軍)に委託されており、満州国軍は補佐的に一翼を担うことになる。

 当初は張学良配下の旧東北軍などの軍閥、日満混合の靖安(せいあん)遊撃隊ら雑多なメンバーで構成されていたが、自前で士官(満州国軍では軍官と呼んだ)を養成する軍官学校を設立し、軍隊としての体裁を整えてゆく。

 もちろん日本が“首根っこ”を押さえる形ではあった(日本人は指揮官のみ)が、軍官学校は満州国を構成する5族(日、満、漢、鮮、蒙)すべてを受け入れた。日本人軍官の上官に中国人が就(つ)いたり、モンゴル人騎兵部隊を日本人指揮官が率いるユニークな軍隊になったのである。

■日本陸士を受けたが…
 満州国の首都新京(現・中国長春)に創設(昭和14年)された陸軍軍官学校には、5族のうち蒙(モンゴル人)を除く4族が在籍。漢、満族と生活習慣などが相いれない蒙族のみ、彼らの居住地域にあった興(こう)安(あん)(こうあん)軍官学校で養成された。

 新京の軍官学校においても日系と満系(漢、満)との区別(選考方法や所属区隊)はあった。その中で日本統治下の朝鮮出身者(鮮系)は1期~6期まで満系に加えられていたが、19年12月入校の最後の7期は日系扱いに変わった。

 この変更は5族協和を謳いながらも、日本が厳然と頂点に君臨する満州国のヒエラルキー(階層的秩序)に微妙な変化をもたらす。国軍内では「鮮系がその次になった」と見る向きもあったからである。
 同時に鮮系志願者の選考制度も変わった。たとえば、韓国大統領になった2期生の朴正煕(パクチョンヒ)は満州国軍の試験を受けて入校しているが、7期生は日本人志願者と同じく日本の陸軍士官学校(予科)などを受験した中から“廻(まわ)し合格”というべきシステムで軍官学校の門をくぐっている。

 金光植(キムグァンシク、88)はそのひとりだった。
 昭和2(1927)年、日本統治下の朝鮮南部・麗水(ヨス)近郊に生まれた金は光州西中学(旧制)へ進み、成績優秀者だったがゆえに教師や配属将校から日本陸士予科の受験を勧められる。軍人としてはエリート中のエリート。極めつきの「狭き門」だが、朝鮮出身者に道が閉ざされていたわけではない。洪思翊(ホンサイク=陸軍中将・陸士26期、フィリピンで戦犯として処刑)のように陸軍大学校へ進み、将軍に登り詰めた人もいた。
「(朝鮮でも徴兵制度が始まり)いずれ兵隊にとられる。軍学校へ行けば勉強ができるし、その間に戦争が終わるかもしれない。ただ積極的に志願したわけではなく、配属将校や先生に言われるがままだった」

 19年5月、金は地元で行われた日本陸士予科の試験を受ける。同じ中学から受験した朝鮮出身者は10人。このうち学科試験をパスした金ら4人が、京城(現・韓国ソウル)へ向かい、朝鮮軍司令部で身体検査・口頭試問を受けた。

 ところが、しばらくたって届いた通知は、思いもしなかった「満州国陸軍軍官学校に推薦する」。同中からの合格者は結局、金ひとりだけだった。満州には縁もゆかりもない…。
一方で“廻し合格組”のプライドをくすぐる制度があった。予科は満州の軍官学校だが、本科へ進むときは日本の陸士で、予科から陸士に進んだ生徒と同じ教育を受けられる(軍医、獣医専攻は除く)。満州国陸軍軍官学校5期生なら日本陸士59期相当、同6期生→同60期相当である。トップエリートだった日本陸士組とそこで肩を並べることができるというわけだ。
 19年12月、17歳になったばかりの金は、酷寒の満州に向かう。

■多かった北の出身者
 満州国陸軍軍官学校に在籍した1期から7期までの鮮系生徒は全部で48人。同期間の日本人生徒は約1400人だから鮮系生徒がいかに選び抜かれたエリートであるか分かるだろう。

 鮮系48人のうち、日本陸士(本科)留学組は34人である。その制度は時代によって揺れ動く。軍官学校の前身、中央陸軍訓練処(奉天)時代には5期の丁一権(チョンイルグォン=後に陸軍参謀総長、首相)は日本陸士へ進み、55期相当になっているが、9期の白善●(=火へんに華)(ペクソンヨプ=朝鮮戦争の英雄、韓国軍初の陸軍大将)のときは陸士への留学制度自体がなかった。

 そして、軍官学校2期の朴正煕のように鮮系は成績優秀者のみ(朴は首席)、留学できる時代を経て、戦争末期には軍官学校の鮮系生徒ほぼ全員が日本人生徒と同じく、陸士本科へ進むシステムに変わる。

 ただし、6期までの鮮系生徒は、最初から満州国軍志望だった、ことを忘れてはならない。
丁も白もそうだが、彼らの出身地は朝鮮の北部(現在の北朝鮮地域)や朝鮮族の居住地だった朝満国境付近の間島(カンド)地域が多かった。地理的に近く、満州という地に親しみがあったのである。それは、新たな可能性を求める道でもあった。満州国建国(昭和7年3月)を機に起きた“満州ブーム”は日本人だけを突き動かしたのではない。日本統治下の朝鮮出身者もまた満州ブームに沸き、農地や仕事を求めて広大な新天地を目指したのである。

 満州国軍官学校のつながりは地域だけでなく「タテ」(先輩後輩)「ヨコ」(同期)も強かった。
 金光植が終戦直後、軍官学校日本人上官の機転によって危うくシベリア行きを免れ、鮮系先輩の手引きで丁一権率いる新京の「朝鮮保安隊」に加わるのは前回書いた通りである。

 京城に戻った後、軍事英語学校(後に韓国陸軍士官学校)に入ったのも、朝鮮戦争(1950~53年)のとき、いったん軍から離れていた金を呼び戻したのも満州人脈であった。軍官学校出身者は学校の所在地から「同徳台」と呼ばれ、韓国軍内の主要人脈のひとつとなってゆく。

 1961年5月、朴正煕が軍事クーデターを起こし、政権を奪取したときも多くの満州人脈が支えている。だが後には、少なくない軍人が大統領になった朴から疎まれ、失脚させられてしまうのだ。

              =敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)

終戦翌年、中国の内戦に…「満蒙開拓義勇軍」の日本人少年が駆り出された背景とは?

【満州文化物語(15)】2016.1.17 産経新聞

 終戦から約8カ月が過ぎた和21(1946)年4月、満州国の首都だった新京(現中国・長春)をめぐる中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)の攻防戦が始まった。

 日本人の引き揚げはまだ始まっておらず、新京の知人宅に身を寄せていた満州国陸軍軍官学校7期生で、17歳の西川順芳(のぶよし)(87)は中国人同期生に引っ張り出され、国民党軍の少尉(小隊長格)になることを余儀なくされてしまう。

 西川は、自分の小隊の兵士として連れてこられた約60人の素性を知って驚いた。彼らも満蒙開拓青少年義勇軍=〈文末別項参照〉=の日本人少年だったからである。つまり、指揮官(西川)も兵士も「全員が日本人」だったわけだ。

 少年らは15、16歳。東北や北関東の農家の次男坊、三男坊が多かった。満蒙開拓団に加わるため、大望を抱いて渡満して間もなく終戦となり、ソ連軍(当時)侵攻後に国境付近から命からがら逃げてきたらしい。

 「僕(17歳)よりも年下で体も顔もあどけなく、本当の子供だったね。軍服などなく、開拓団の作業服みたいな格好そのまま。ただ、軍事訓練も受けていたから小銃の扱い方ぐらいは知っていたんです」

 なぜ中国の内戦に、開拓義勇軍の日本人少年までが駆りだされたのか?

 西川への参加要請は当時、国民党軍の主力が依然、南方にいて兵力、特に指揮官が不足していたからだ。西川は「重慶から来た少尉」という触れ込みで日本語の使用を禁じられ、中国語で指揮を行うことを命じられる。同様に国民党軍に加わった日本人の国軍・軍官学校出身者は複数いたが、先輩のひとりが日本人勧誘の“仕掛け人”だったことに気付く。

「少佐クラスの元満州国軍憲兵(日本人)で中国語はペラペラ、かねて満州国軍の満系将校とのつながりも強かった。私や義勇軍の少年を引っ張ってきたのは彼のアイデアでした。少年たちは食べ物にも事欠く避難生活だったから、この“仕事”に飛びついたんでしょう。軍隊に入れば飢えることはありませんから」

■敵方部隊にも日本人兵
 西川と開拓義勇軍の少年約60人による日本人部隊には旧日本軍の三八式小銃と1人80発の弾が支給され、新京駅近くの最前線の守備に就かされた。

 21年4月10日、夜明け前。突然、向かい側のビルの屋上から、西川らが土嚢を積んだ陣地に向けて擲弾筒(てきだんとう)が発射された。数発が着弾し、轟音を立てて炸裂したのを目の当たりにした少年たちは脅えたように震えている。まだ10代半ば、実戦経験などない。

 周囲が明るくなったころ、駅方面から別の轟音が聞こえてきた。その光景を見て西川は腰を抜かす。戦車1両と、黄色っぽい八路軍の軍服を来た20人ほどの兵隊が見えたからだ。

 「八路軍には戦車などない、と思っていたからね。よく見ると、それは日本軍の軽戦車だった。おそらく途中で鹵獲(ろかく)したのでしょう。(八路軍には)戦車を動かせる人間もいないから、操縦する日本兵ごと奪ったのだと思います」

 指揮官の西川とて、1年半ほど前に満州に来たばかりの17歳の少年である。戦車の登場に中国人のふりも忘れて、思わず日本語で絶叫していた。

 「解散だ! 逃げろ!」

 義勇軍の少年60人は、戦車を見て、くもの子を散らすように逃げた。それっきり消息はわからない。

同じ日、内地では女性に参政権が与えられて初めての総選挙が行われている。復興の槌音(つちおと)が高らかに響いていたころに満州ではまだ、日本人が中国の内戦を戦わされていたのだ。

■「最年少」の収容者
 そのころ、軍官学校の同期生のほとんどがシベリアの収容所へと送られ、地獄の底のような苛酷な環境で重労働を課せられていた。最初の冬(昭和20年~21年)を越せずにバタバタと死んでいったことは、前回も書いた通りである。

 茨木治人(はると)(89)は約80人の同期生とともに、バイカル湖に近い、イルクーツクの収容所へ送られ、鉄道建設工事に就かされた。「(同期生は)まだ17、18歳でしょ。回りを見渡してもそんな年代はいない、収容者の中でも一番幼いわけです。体力がなくて栄養失調になり、下痢が止まらなかった。同期生が一緒におり、励まし合えることはせめてもの救いでしたね」

 茨木は旧制浜松一中の出身。赤い夕日と広大な大地に憧れ、母親の反対を押し切って満州へ来たが、わずか8カ月で終戦。そのままシベリアへ抑留されてしまう。約370人同期生のうち、抑留で非業の死を遂げたのは80人以上。皆まだ10代の少年だった。

 戦後、茨木はシベリアでの遺骨収集に参加。今も語り部として祖国への帰還を果たせなかった同期生の無念を伝え続けている。

■軍再興の「夢物語」
 新京における「国・共の内戦」はあっけなく終わった。2方面から入城してきた八路軍はたった2晩で新京を制圧。国民党軍に加わった日本人将校の中には戦死者も出た。

 彼らの中には、国民党軍と手を取り合い、満州に残っていた国軍や軍官学校出身の日本人を集めて、もう一度、軍を再興しようという「夢物語」を描いていた者までいたという。

17歳の「国民党軍少尉」西川は、八路軍の追っ手を気にしながら、急いで「中国人」から「日本人」へ戻らねばならなかった。

 「申し訳なかったが、日本人居住区の住宅で“強盗”を働いた。拳銃を突き付けて背広と靴を要求。僕は軍服のままだったから相手は国民党軍の敗残将校だと勘違いしたでしょうね」

 背広姿に着替えた西川は公園の池につかって隠れながら何とか八路軍をやり過ごす。「国民党軍少尉」はたった3週間で終わり、手元には支度金の1千元(米半年分)がそっくり残っていた。=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

     
◇満蒙開拓青少年義勇軍
 満州経営の先兵となるべく内地から移住した10代半ば-後半の若者で構成され、昭和13年から20年までに約8万7千人が参加した。多くはソ満国境付近の辺境に入植した開拓団に入って、農業や警備に従事した。末期には「戦時要員」として関東軍や勤労挺身隊にも派遣された。ソ連軍との戦闘や自決、病気などによる死者は3割近い約2万4千人。満州全体の邦人死亡率(1割強)に比べても高い。

なぜ17歳の少尉は、終戦後も戦い続けたのか 「満州国軍」の真実

【満州文化物語(14)】2016.1.3 産経新聞

 今から70年前の昭和21(1946)年4月。終戦から約8カ月が過ぎた旧満州国の首都、新京(現中国・長春)で、17歳の「少尉」西川順芳(のぶよし)(87)は「新たな戦争」の最前線に立たされていた。

 前年の夏、日ソ中立条約を一方的に破って満州へ侵攻してきたソ連軍(当時)は、約60万人の日本人をシベリアへ抑留。日本人が築き上げた財産・設備を奪えるだけ奪った後、21年4月に新京から撤退してゆく。

 「跡目」を争ったのは中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)である。当時の中国を代表しソ連とも条約を結んだのは国民党だ。ところが“裏でつながっている”のは八路軍の方。しかも、重慶軍の主力はまだ南方にあり、戦うにも兵力が足りない。

 そこで、西川に声が掛かった。元満州国陸軍軍官学校(士官学校)7期生。昭和19年12月、16歳になったばかりの西川は神奈川・湘南中学(旧制)から4修(※旧制中学は本来5年間だが、4年でも上級学校の受験資格があった)で新京の軍官学校へ入り、大望を抱いて満州の大地を踏む。

ところが、わずか8カ月で終戦。五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成される軍官学校生徒は反乱や逃亡が相次ぎ、17、18歳の約360人の日系(日本人)生徒のほとんどはシベリアへ抑留されてしまう。

 満州に縁者がいた西川ら約40人は軍官学校幹部からシベリア行きの前に「離脱」を認められたものの、新京から出られない。知人宅に身を寄せ一冬越したたところへ満系(中国人)の軍官学校同期生が突然、訪ねてきたのである。

■今さらヨソの戦争に
 「お前、7期の西川だろう。一緒に来いっ」
西川に重慶からきた国民党の中国人将校のふりをして、小隊を率い、八路軍と戦え、というのだ。
 21年4月、新京の周辺はすでに八路軍が包囲していた。兵力が足りない重慶軍は旧満州国軍の元将兵も動員して対抗しよういうのである。だが、西川には同期といえ、その満系の生徒とは一面識もない。しかも、戦争が終わってすでに半年以上たっているのだ。

 「今さらヨソ(中国の内戦)の戦争になんて加わりたくなかった。だが、(戦争に負けた日本人の元軍人である)私が断れば密告されて、どんな目に遭うか…。従うしかない。後は条件闘争だった」

支度金は1000元(お米半年分)、階級は少尉、60人の部下をつけること…。重慶軍側は西川の条件を飲み、西川は小隊長格として重慶軍の軍服を着る。軍には、同じように参加した軍官学校の日系の先輩や同期が何人もいた。

 西川が言う。「参加した日本人それぞれ、断れなかったことや支度金にひかれたこと以外にも理由はいくつかあるでしょう。満州国軍の元同僚(満系)に『義』を感じて参加した。あるいは、その戦いに『日本再興』の夢を見ている人がいたかもしれません」

■最初の冬を越せずに
 同じころ、やはり10代の若者であった軍官学校の同期生(7期)の多くはシベリアの収容所で、最年少級の抑留者として「地獄」を味わっていた。

 零下40度、50度にも下がる酷寒の地。家畜のエサ並みのひどい食事で重労働に就かされる。事故や栄養失調、劣悪な環境で伝染病が蔓延(まんえん)し、「最初の冬(昭和20年~21年の冬)」を越せずに、次々と同期生の若い命が失われていった。

 軍官学校7期生、小池禮三(れいぞう)(88)は新京でソ連軍によって武装解除され、20年10月、チタ州ブカチャーチャの炭鉱にある収容所へ送られた。18歳。長野・諏訪中学(同)の出身。同じ所には約250人の同期生が収容されている。

「(満州国軍へ入るとき)一人息子だからオヤジが反対してね。でもあのとき(19年12月の入校時)は内地より満州の方が安全だと思われていたんですよ。終戦後、武装解除され列車に乗せられた後も、てっきり内地へ帰してくれるもんだと…。シベリアなど夢にも思わなかった」

 前年の冬に旧制中学などを出て満州へ来たばかりの7期生の体はまだ子供並みといっていい。さすがにソ連側も石炭を掘る仕事は無理と見たのか、小池ら7期生は掘った石炭を有蓋(ゆうがい)貨車に積み込む仕事を担当させられる。それとて辛い重労働だ。最初の犠牲者が出たのは20年の大みそか。積み込む作業中に足を滑らせた同期生が石炭に埋まるようにして死んでいた。

■母を思い逝った友
 それは「悲劇」の序章に過ぎない。その冬、シラミを介在した発疹チフスが大流行する。大人になりきっていない幼い体、粗末な食事に劣悪な環境。高熱を発し、下痢が止まらない。7期生の若者は治療も薬も満足に与えられないまま、バタバタと倒れてゆく。

 「重症者は(別の場所の)野戦病院へ送られたり、収容所内の病棟へ入れられたが、あまりにも患者が多すぎてほとんどはただ、寝ているだけ。下痢が止まらなくて便は垂れ流し、高熱が脳症を誘発し、気がおかしくなった者が続出しました。それはもう悲惨な状況でしたね」

小池には水戸出身の同期の最期が忘れられない。病床を見舞った小池に彼は、やせ細った体、消え入るような声で問うてきた。
 「東はどっちだ? 体を向けてくれないか」

 彼は、口の中で一言だけつぶやいた。

 「おかあさん…」

 翌朝、小池が再び見舞うと若者はもう冷たくなっていた。同じ18歳。水戸弁が印象的な男だった。どれほど故郷へ帰りたかったろうか。ひと目、愛しい母に会いたかったろうに…。

 ブカチャーチャの収容所では約250人の同期生のうち実に80人以上の若者たちが亡くなっている。

 一方、新京の最前線にいる西川は連れて来られた「部下」を見て驚く。彼らもまた10代の日本人の若者だったのである。さらには、敵として戦う八路軍の中にも日本人がいた。その話を次回に書く。=敬称略、隔週掲載。

(文化部編集委員 喜多由浩)

◇満州国軍
 昭和7(1932)年3月1日に建国された満州国の軍隊。同国の理念である五族(日、満、漢、鮮、蒙)によって構成され、総兵力は約15万(終戦時)。同年9月の日満議定書によって、日本軍(関東軍)との共同防衛を約し、同時に交わされた日満守勢軍事協定案で「第三国の侵略にあたって両国軍は日本軍指揮官による統一指揮で行動する」とされた。士官学校にあたる軍官学校は新京(日系、満系)と興安街(蒙系)にあった。

溝に転落し動けない母娘をメッタ刺しに…甦る“恐怖”の記憶

溝に転落し動けない母娘をメッタ刺しに…甦る“恐怖”の記憶
【満州文化物語(7)】2015.9.27 産経新聞

■最後の旧制「旅高」
 昭和25(1950)年に廃止された旧制高校は全部で35校しかない。入学できたのは同世代の約1%。総定員が帝国大学のそれとほぼ同じだから、旧制高校に入った時点で“帝国大学へのチケット”を事実上保証される超エリートだ。

 一高から八高までのナンバースクールから始まり、静岡、松本、大阪など地名を冠した学校、さらには成蹊、甲南などの私立高ら内地(日本)に33校。外地につくられたのは、旅順高(関東州)と台北高(台湾)だけである。

 旅順高は昭和15(1940)年、最後の官立高等学校、外地では2番目として、日露戦争の激戦の地であり、軍港と学術都市の性格も併せ持つ旅順に開校した。通称は「旅高(りょこう)」。ここへ満州・関東州各地から秀才が集まってくる。

 1回生には、寮歌(逍遙歌)『北帰行(ほっきこう)』の作者でTBS常務を務めた宇田博(うだひろし)や『アカシヤの大連』で芥川賞をとった作家、詩人の清岡卓行(きよおかたかゆき)がいた。宇田は父親が奉天農大の学長で新京にあった満洲建国大学予科を経ての入学、清岡は大連一中(旧制)の出身だが、2人はともに旅順高を中途退学して一高(東京)から東大へと進んでいる。

 旅順高が存在したのは、たった6年弱(6回生)でしかない。内地の高校が昭和25年3月まで命脈を保ったのに対して、外地の学校は終戦後しばらくして閉鎖を余儀なくされたからだ。

■恐怖で動くこともできず
 藤田康夫(やすお)(91)は旧制の撫順(ぶじゅん)中学から旅順高の3回生として入学している。京都帝国大学工学部土木工学科に進み、戦後は河川工学が専門の技術官僚として要職を歴任した。もし日本の敗戦がなければ、満鉄の幹部技術者になった可能性もあっただろう。

 父親の政一(まさいち=昭和19年59歳で死去)は満鉄が経営する撫順炭鉱(礦)に勤めていた。自宅は、日露戦争の英雄、東郷平八郎から名前を採った東郷採炭所の社宅。昭和7(1932)年、日本政府が満州国を承認した日を狙って抗日ゲリラ、匪賊(ひぞく)の大軍が炭鉱を襲った「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」(同年9月15~16日)が起きたときは撫順・永安小学校の2年生。父親の友七郎(ともしちろう)が、楊柏堡の診療所の責任者を務めていた濱口光恵(はまぐちみつえ)(91)とは、幼稚園、小学校の同級生である。

 東郷は楊柏堡事件で激しい戦闘が行われた場所である。銃や槍(やり)、太刀、油に火を放って襲撃してくる抗日ゲリラらに、炭鉱職員の在郷軍人らでつくる防備隊や自警団は懸命に防戦した。藤田の父親も長男の康夫に「お母さんを頼むぞ」と声を掛けて職場へ向かう。母と姉、康夫が残された。

 「『ワーワー』と勝ちどきを上げる匪賊の大声が窓越しに聞こえてきた。とっさに母と姉が部屋の畳を窓に立てかけて、防御体制を取ったのを覚えている。私は恐怖のあまり、腰が抜けてしまったようにずっと動けなかった」

 激戦は早暁まで続く。日本人は民間人5人が死亡。逃げ遅れた姑(しゅうとめ)を嫁が背負って逃げる際に誤って工事中の溝に転落、動けない母娘2人を匪賊が槍で容赦なくメッタ突きにし、姑が亡くなる(嫁は負傷)という残忍なケースもあった。

一方、抗日ゲリラ・匪賊側にも死者が出る。「翌朝、社宅の庭に(ゲリラの)死体が横たわっていたのを見た。腰にぶら下げたブリキ缶には油でぬらしたウエスがあり、『あれで放火するつもりだったんだ』と思うと、改めて恐ろしさが甦(よみがえ)ってきた」

■平頂山の負傷者も治療 
 福島市の学校法人「東稜学園」理事長を務めた小原満夫(90)は、最も奥にある老虎台の社宅にいた。ゲリラ・匪賊はそこへも迫ってくる。消費組合に勤める父親は夜中、銃声に気付くと、防戦のために飛び出していった。

 「家に残されたのは母と2人の兄。自宅の地下に掘った場所に隠れていた。夜中にそっと外へ出てみると、死体が折り重なっているのが見えたことが忘れられない」

 藤田、濱口、小原も当時、小学生だったが、記憶は驚くほど鮮明だ。それだけ恐ろしく、生々しい体験だったのだろう。惨殺された夫の死体を目の前にして、錯乱状態になった妻の姿もあった。濱口は「一生忘れられない。父が『気を確かに持って。あなた(妻)しか(夫を)確認できないんですよ』と懸命に支えていたそうです」

 翌9月16日、反撃に出た関東軍の独立守備隊は「ゲリラらに通じていた」として平頂山集落の住民ら多数を殺害する(平頂山事件)。だが、濱口の記憶にあるのは、父親が診療所で、満人と呼んでいた集落住民のけがの治療にあたっていた姿である。

■語られ続ける「反日」
 戦後、平頂山事件だけが虚実取り混ぜた反日プロパガンダとして語られ続けている(しかも、日本人の手によってだ)のに、きっかけとなった日本人殺害事件(楊柏堡事件)は、今もほとんど知られていないことは前回、書いた。

 しかも、戦犯裁判で平頂山事件とは無関係とされる撫順炭鉱の元炭鉱長ら7人が死刑になった。その名誉も回復されていない上、炭鉱労働者に苛酷な労働を強いた揚げ句、無数の死体を穴に捨てたという「万人坑(まんにんこう)」や「コレラ防疫惨殺事件」など事実無根の話まで拡散され続けている。

 これでは約40年にわたって営々と撫順炭鉱を築き上げた日本人はたまらない。たとえ「作り話」でも、いったん報道されてしまうと、別のメディアに次々と引用され続けてしまう。

 「(事件を体験した)私たちが声を上げて、『真実』を次代へ伝えないといけないんですよ」

 80年以上の時を経て、おぞましい記憶の封印を解いた濱口や藤田の思いはまさしくそこにあった。=隔週掲載、敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃

“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃
【満州文化物語(6)】産経新聞

■満鉄が作った未来都市
 「世界一の露天掘り」と謳(うた)われた撫順(ぶじゅん)炭鉱(礦)は、日露戦争(1904~05年)の勝利で採掘権を得た日本によって本格的な開発が始まった。良質の撫順炭の埋蔵量は約10億トン、ピーク時(昭和12年)の年間出炭量は約1000万トン。頁岩(けつがん)油(オイルシェール)、人造石油、金属、セメントなども生産する一大化学コンビナートであり、経営する満鉄(南満州鉄道)にとって鉄道事業と並ぶ収益の2本柱だった。

 満鉄はこの地に、当時の内地(日本)から見れば“夢のような未来都市”を築いてゆく。都市計画で整備された市街地には広い幹線道路が通り、学校、病院、公園、公会堂、野球場、プール、冬はスケート場ができた。

 社宅街は瀟洒(しょうしゃ)なレンガ造り。炊事はガス、トイレは水洗でタイル張り、電話はダイヤル式の自動電話。特筆すべきなのは画期的なスチーム(蒸気)による「地域暖房」だ。ボイラーから各戸にパイプを張り巡らし、外気が零下10度、20度にもなる真冬でも室内はポカポカ。熱い風呂はいつでも使用可能…。東京や大阪の大都会でもこうした生活が一般化するのは、高度成長期以降のことだろう。

 まだ初期の1909(明治42)年に渡満した夏目漱石が『満韓ところどころ』に撫順の街を見た驚きを書き留めている。《洒落(しゃれ)た家がほとんど一軒ごとに趣(おもむき)を異(こと)にして十軒十色とも云(い)うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある。坑員(こういん)の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来(き)て眺めたいものばかり…》

■汚名だけ着せられて
 この近代的な炭都が抗日ゲリラの「標的」となった。今から83年前の昭和7(1932)年9月15日夜から16日未明にかけて未曾有(みぞう)の大事件が起きた。その6カ月前に建国された満州国を日本国が承認した日に合わせて「反満抗日」を叫ぶゲリラ、匪賊らの大軍が撫順炭鉱を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が惨殺された。いわゆる「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」である。

 殺されたのは同炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人の民間人ばかり。炭鉱施設や社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所は操業停止に追い込まれた。

 撫順を守る関東軍の独立守備隊は翌16日、反撃に出る。抗日ゲリラに通じていた、とされる平頂山集落の住民らを殺害した。これがいまなお“反日プロパガンダ”に使われ続ける「平頂山事件」である。

 戦後、平頂山事件を“悪名高い事件”として一般の日本人に知らしめたのは1970年代初めに朝日新聞の本多勝一記者が書いたルポであろう。中国は現場に記念館を作って日本軍の“残虐ぶり”を訴え、生き残りである住民は、日本政府を相手取った賠償請求訴訟を起こした。

 だが、虚実取り混ぜて仰々しく喧伝(けんでん)されてきた平頂山事件に比べて、きっかけになった抗日ゲリラ部隊による撫順炭鉱襲撃、日本人殺害事件(楊柏堡事件)についてはほとんど語られたことがない。

 これでは公平さを著しく欠くだけでなく、平頂山事件の全容をつかむこともできない。特に先に襲撃を受けた「楊柏堡事件」の被害者や家族にとっては平頂山事件の汚名だけを着せられたまま釈明の機会さえ満足に与えられなかった。

■殺戮、放火、破壊…
 濱口光恵(はまぐちみつえ、91)の父、友七郎(ともしちろう、昭和35年、69歳で死去)は楊柏堡事件当時、撫順炭鉱の楊柏堡採炭所にあった診療所の責任者を務めていた(撫順医院看護手)。

 その夜、光恵は「仲秋(ちゅうしゅう)の名月がきれいに出ていた」と記憶している。採炭所内のクラブで厄年を迎えた男たちの“厄払い”の宴席が開かれていた。やがて夜も更け、各戸に流れて2次会を楽しんでいたころに異変は起きた。

 「皆さん、これは実弾の音ではありませんか…。すぐに家に帰ってください」

 友七郎がゲリラの襲撃を知らせる味方の小銃の発砲音に気付く。各戸に張り巡らされた地域暖房のスチームのパイプをガンガンと打ち鳴らす「警報」が慌ただしく続いた。もう間違いない。

 そのとき、銃を携帯していたのは友七郎だけ、ほろ酔い加減の男たちは防戦のため、武器を取りに走り、光恵は母親と一緒に避難所である坑道内へと向かう。

 「『ヤー、ヤー』という大声、襲撃を知らせるのろし…外へ出るとあたりは騒然としていました。私たちは、炭鉱の人の先導で坑道に入り、エレベーターやトロッコを乗り継いで、地下深い安全棟の休憩室まで必死で逃げた。残してきた父のことが心配でなりませんでした」

翌9月16日付、満洲日報号外はこう報じている。《深夜の炭都はたちまちにして物凄(ものすご)き戦闘の巷と化し、炭鉱事務所、社宅は焼き払われた。死傷者多数…泣き叫ぶ男女の様はまさにこの世の修羅場》

 銃、槍(やり)、太刀で武装した抗日ゲリラや匪賊は、殺戮、放火、破壊の限りを尽くす。光恵がいた楊柏堡の社宅には約80家族、約300人が住んでいた。間一髪で坑道へ逃げ込んだが、あと一歩避難が遅れていたら、全滅の危険性もあったという。

 翌日、診療所の責任者だった友七郎は犠牲になった炭鉱職員や家族の検視を行っている。

 「非常に惨(むご)い状態で、耳や鼻をそぎ落とされ、目までくりぬかれていた…顔が分からず、ご本人と特定するのが難しかったと聞きました」

 撫順の日本人に、やり切れない思いが残った。抗日ゲリラに通じていた、とされる地元住民の多くは炭鉱で働く労働者である。これまで彼らと家族の暮らしを支えてきたのは炭鉱の日本人ではなかったのか、それなのに…。

 事件の証言者は光恵だけではない。それは次回に書く=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

◇■平頂山(へいちょうざん)事件
 昭和7(1932)年9月16日、前夜、抗日ゲリラ部隊に撫順炭鉱を襲撃された日本側の独立守備隊が、ゲリラに通じていたとして近くの平頂山集落を襲撃し、住民らを殺害した事件。犠牲者数は中国側が主張する約3000人から、数百人とする説もある。昭和23年、中国国民党政権下の瀋陽で行われた戦犯裁判で事件とは無関係とされる元撫順炭鉱長ら7人に死刑判決が下された。

隠された西洋史 〜 人種差別と奴隷制

■■ Japan On the Globe(964) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

地球史探訪: 隠された西洋史 〜 人種差別と奴隷制

 ヨーロッパ人の強欲非道の歴史を隠してしまえば、真実の世界史も日本史も見えなくなってしまう。

■1.ボストン公共図書館の半旗

 ボストンの中心街に聳えるボストン公共図書館は1848年創設、その面積は東京ドームより広く、いかにもアメリカの国力を誇示するような広壮な建物だが、その正面に何本も並ぶ星条旗がすべて半旗になっていた。

 最近、白人警官が無抵抗の黒人を射殺する事件が相次ぎ、全米各地で抗議デモが広がる中、ダラスで黒人容疑者に狙撃されて死亡した5人の白人警官に弔意を示したものだろう。

 一方でボストンでは街中で白人と黒人のカップルをよく見かけた。ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学など一流大学があるせいか、なんとなく黒人も知的な顔立ちの人が多いような気がする。しかし、こういう進んだ光景は全米でもごく一部の地域だけで、人種差別はいまだに米国全体を悩ませている宿痾である。

 ただ米国人の名誉のために付け加えれば、米国ほど人種差別の問題に悩まされつつ、その解消のために努力してきた国もない。

 アメリカの13の植民地は1776年に独立宣言を発し、連邦国家として出発したが、その当初から、黒人奴隷に依存したプランテーション農園を経済基盤とする南部諸州と、黒人の少ない北部諸州では奴隷制に関して対立していた。

 建国の父たちは、この点にこだわっていては一つの国家としてスタートすることは不可能と判断し、憲法では奴隷制を表立って取り上げることなく、南部諸州の既存の制度を守ることを憲法上の権利として、国家統合を優先したのである。

 この矛盾が表面化した1860年代の南北戦争、その最中のリンカーン大統領による奴隷解放宣言、1950年代からの公民権運動と、200年にわたる努力がなされてきた。それでも根絶し得ないほど、人種差別の問題は根深いと言わざるを得ない。

 実は我が国も、明治維新以降、人種差別の渦巻く近代世界に漕ぎ出し、差別されている有色人種による唯一の近代国家として戦ってきた。この視点なくしては、我が国の近代史における苦闘の足跡は見えてこない。

 この足跡に関しては、拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』の中で述べたが、今回はそれを補完するために岩田温氏の『人種差別から読み解く大東亜戦争』[1]をご紹介しよう。

 この書は書名の通り、人種差別との戦いが大東亜戦争の発端であったことを述べている。その本論は、同書に直接あたって貰うこととして、ここでは同書の前段となっている、人種差別と奴隷制が常に西洋とともにあったという史実を見ておきたい。

■2.奴隷制と共存していたギリシャの民主主義

 ギリシャは西洋文明の源流、特に民主主義の発祥の地として高く評価されているが、実はその民主政治は奴隷制と共存したものであった。哲学者アリストテレスは著書『政治学』で次のように奴隷制を擁護している。
__________
 自然によって或る人々は自由人であり、或る人々は奴隷であるということ、そして後者にとっては奴隷であることが有益なことでもあり、正しいことでもあるということは明らかである。[1, p44]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 人間には生まれながらに知性に欠けた人々がおり、そうした人々は「奴隷であることが有益」で「正しい」ことだ、とまで言っているのである。

 ちなみに、奴隷を英語では“Slave”と言うが、これは中東欧のスラブ語での「スラブ(言語)」を語源とする。ギリシアとの戦争に負けたスラブ人の捕虜が戦利品として奴隷とされたために、ギリシャ語で「スラブ」が「奴隷」の意味となり、そこからローマ帝国のラテン語経由で、ヨーロッパの諸言語に広まった。

 そのような奴隷は当然、市民には含まれず、民主主義の対象とも考えられていなかったのである。


■3.「神が真黒な肉体のうちに善良な魂を宿らせたはずはない」

 ヨーロッパ人はアフリカ大陸の黒人と接触することで、この人種差別を一層強めたようだ。近代的な司法、行政、立法の三権分立の原則を説いたモンテスキューですら、著書『法の精神』で次のように述べている。

__________
 現に問題となっている連中は、足の先から頭まで真黒である。そして、彼らは、同情してやるのもほとんど不可能なほどぺしゃんこの鼻の持主である。

 極めて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない。[1, p55]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ヨーロッパ人は、科学やキリスト教などを持つ自分たちが「足の先から頭まで真黒」な黒人よりも優れた存在である事は当たり前の事だと考えた。

 ローマ教皇ニコラウス5世は1452年、アフリカの地中海沿岸部を征服してアフリカ王と呼ばれたポルトガル王アルフォンソ5世に対して、異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。人種差別と奴隷化に、キリスト教のお墨付きが与えられたのである。


■4.「キリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業」

 西洋人の強欲非道ぶりは、コロンブスによって新大陸に展開された。コロンブスがバハマで出会ったタノイ族は温和で、武器の存在すら知らなかった。コロンブスは感激して、次のように記している。

__________
 さほど欲もなく・・・こちらのことになんでも合わせてくれる愛すべき人びとだ。これほどすばらしい土地も人もほかにない。隣人も自分のことと同じように愛し、言葉も世界で最も甘く、やさしく、いつも笑顔を絶やさない。[1, p80]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この「愛すべき人々」をコロンブスは捕らえて、奴隷としてスペインに連れていった。さらに圧倒的な武力で脅して、タノイ族に金の採掘を命ずる。採掘作業のために、畑作業が出来なくなった結果、深刻な饑餓が起こり、5万人の原住民が餓死した。

 同様の強欲非道は、その後、さらに大規模にくり返された。1532年、フランシスコ・ピサロ率いる200人未満のスペイン人の一隊がインカ帝国にやってきた。彼らは奸計をもって、皇帝アタワルパを捕らえ、莫大な金銀を身代金として巻き上げた上で、処刑してしまう。さらに住民たちを搾取し、虐待、殺戮した。

 ピサロによって傀儡皇帝とされたマンコ・インカは次のようにスペイン人に語ったと伝えられている。

__________
 私は心から君たちに好意を寄せ、友人になりたいと願って数々の親切をしてきたのに、君たちはそれをすっかり忘れ去り、わずかばかりの銀のために私の願いを無視し、挙句の果て、君たちの飼っている犬に対するよりも酷い仕打ちを加えたのだ。・・・結局、銀を欲するあまり、君たちは私と私の国のすべての人びとの友情を失い、一方、私や私の部下は君たちの執拗な責め立てや甚だしい欲望のために宝石や財産を失った。(ティトゥ・クシ・ユパンギ「インカの反乱」)[1, p74]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ピサロらの悪行を、従軍司祭として見たラス・カサスは「この四○年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業のために男女、子供合わせて1200万人以上の人が残虐非道にも殺されたのはまったく確かなことである」と述べている。(ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』)[1, p76]

 ヨーロッパ人たちは愛を唱えるキリスト教を信奉しつつ、その仮面の下では、ローマ帝国の崩壊以降、何世紀にも渡って内部抗争や、異教徒との戦争をくり返しており、その過程で他には例を見ない強欲非道ぶりを身に付けたように思われる。


■5.「彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ」

 強欲非道ぶりに関しては、北米に入植したイギリスも負けてはいない。1606年、144人の入植者をバージニアに送り込んだが、多くが病や寒さで死亡してしまう。彼らにトウモロコシの栽培を教えて、助けたのがインディアンだった。

 インディアンの族長が「武器を船においていらっしゃい。ここでは武器は要らない。われわれはみな友人なのだから」と言ったが、返ってきた言葉は「トウモロコシを船に積め。さもないとお前等の死体を積むぞ!」

 彼らはインディアンを「人間」とは見なしていなかった。インディアンの村々を襲撃し、食べ物を強奪していった。1610年に、植民地の住人2人がインディアンによって殺害されると、イギリス人は報復措置として二つの村を焼き尽くし、女子供に至るまで殺戮した。こうして、血で血を洗う復讐合戦が始まったのである。

 入植者たちは、神によって新大陸が与えられたと信じていたので、異教徒のインディアンを殺す事は神の意思に従うと考えた。
キリスト教の指導者コトン・マザーは、ピクォート族の戦士たちを殺戮し、生き残った女子供を奴隷として西インド諸島に売却した。彼は誇らしげに「この日、われわれは600人の異教徒を地獄に送った」と記している。

 以下のインディアンの言葉を読めば、ヨーロッパ人の強欲非道ぶりがよく分かる。

__________
 白人の中にも善良な人間がいることは認める。しかし、その数は悪意を持った白人の数に比べると比較にならない。白人たちは圧倒的な力で支配した。彼らはやりたい放題のことをやった。人間はみな同じように大いなる精霊によって作られたのにもかかわらず、彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ、従わないものたちを殺した。白人の誓いはいかなるものも守られたためしがない。(デラウェア族パチガンチルヒラス)
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■6.大西洋奴隷貿易

 17世紀中葉には、キューバやハイチなど、カリブ海諸島でサトウキビのプランテーション(大規模農園)が広まった。ヨーロッパで飲茶の風習が広がり、砂糖の需要が高まったからである。

 しかし、このプランテーションには大量の労働力が必要であり、地元の原住民人口が激減していたことから、熱帯の気候に強いアフリカの黒人が奴隷として大量に連れてこられた。

 アフリカの奴隷商人たちが、ヨーロッパ人から購入した銃で大陸内部の村々を襲撃し、捕まえた原住民を海岸部でヨーロッパ商人に売り渡す。奴隷は奴隷船にすし詰めにされて大西洋を越えてカリブ海まで運ばれた。

 その後、北米大陸の南部でも綿花のプランテーションで黒人奴隷を輸入するようになった。16世紀から18世紀の300年間で、奴隷貿易により大西洋を渡ったアフリカ黒人は900万人から1100万人と学界で推定されている。まさに世界史的な悪行である。


■7.日本の植民地化も狙ったポルトガル

 ポルトガル人は、日本にもやってきて、布教を始めた。マカオなどと同様に、最終的には植民地にする事を狙っていたのだ。しかし戦国時代で戦い慣れていた信長や秀吉、家康は、彼らの企みを見抜いた。

 信長は宣教師たちがキリシタン大名を育てているのを知り、布教を許したのは「我一生の不覚也」と後悔したが、鉄砲部隊や鉄製軍艦などで宣教師を威嚇して、「日本は征服が可能な国土ではない」と諦めさせた。[a,b]

 ポルトガル人たちは布教のかたわら、日本人奴隷を海外に売り払っていた。秀吉はイエズス会の宣教師ガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人は日本人を購い奴隷として船に連れていくや」と詰問している。さらに教宣教師たちが、九州のキリシタン大名を焚きつけて寺社を焼かせているのに激怒し、宣教師追放令を出した。[c]

 キリシタンとの冷戦は、その後の徳川幕府にも引き継がれて、キリシタン禁制と鎖国の政策がとられた。島原の乱[d]という戦闘もあったが、ヨーロッパ人の毒牙から我が国の独立を守ったのは、この反キリシタン政策の功績であった。


■8.西洋の強欲非道と戦った日本の400年

 18世紀以降の産業革命によって、ポルトガル、スペインに替わって、イギリスやフランス、オランダなどが台頭し、アジア、アフリカを植民地化していった。またカリフォルニアまで開拓したアメリカは太平洋を越えて、アジアへの触手を伸ばしつつあった。

 こうして、アメリカからの黒船が来た時に、すでにアジア、アフリカで完全な独立国と言えるのは、日本とタイぐらいしかなくなっていたのである。

 幕末の「攘夷」とは世界を植民地化しつつあるヨーロッパ人の強欲非道から我が国の独立を守る事であった。その戦いは日露戦争から大東亜戦争まで続く。国際連盟創設の際は人種平等条項を入れようとして欧米諸国に拒否され[]、またカリフォルニアの日系移民が差別を受けた。

 これらに対する国民的怒りが大東亜戦争の発端となった。この経緯を岩田温氏の著書は詳しく辿っているので参照されたい。

 近代世界史から、ヨーロッパ人の人種差別と奴隷制という強欲非道の行いを隠してしまえば、キリシタン禁制は宗教弾圧であり、鎖国は文明世界から国を閉ざした愚かな政策であり、幕末の攘夷は無知愚昧なスローガンであり、大東亜戦争は軍国主義による近隣諸国侵略としか見えない。それでは真実の世界史も日本史も見えてこないのである。
(文責:伊勢雅臣)

「朝鮮雑記」日本人が見た1894年の李氏朝鮮

「朝鮮雑記」日本人が見た1894年の李氏朝鮮
本間九介著 (祥伝社・1800円十税)

 国家の近代化とは何か  
                                      書評 古美術鑑定家 中島誠之助
 この本は東京経済大学図書館に収蔵されている120年前の朝鮮旅行記の現代語訳である。
 監修者はアジア主義研究の第一人者であるポーランド生まれの歴史学者、クリストファー・W・A・スピルマン。
巻末に付録の解説を先に読むことをおすすめする。

 二本松藩(現福島県)出身のリポーターが朝鮮半島をくまなく探訪して、日清戦争直前の明治7(1894)年に 「二六新報」という当時の日刊紙に連載した紀行文だ。写真の代わりに筆者による風物スケッチが挿入されている。
 有名なイギリスの女性旅行家、イザベラーバードの「朝鮮紀行」より4年早く刊行された、先駆的紀行文なのだ。
伝えられていることは、単なる旅行記という範躊を超えている。明治の開明期を生きた若き日本人の率直な目が、国家の近代化とは何かを問いただしているのだ。

 全編158項目の一つ一つ、どれをとっても興味の尽きることはない。里謡、葬礼、娼妓、地方官、市場、寺院、気候、古美術、婚姻など、どれも現代の私たちの日常生活につながるものがある。もちろん、19世紀末の世界観と価値観にたって書かれていることを理解しなければならないが。

 筆者は当時の朝鮮王朝治世のもとで国民である韓人たちが不合理に苦しみ、その揚げ句に無気力なその日暮らしをしているありさまを偽らずに記述している。
 根底にあるのは、批判ではなく同情である。朝鮮半島の人々が理不尽な状況に耐えなければならないのは、どうしてなのか。筆者はその原因を、腐敗した李王朝とそれを支える清王朝にあるとみている。
 文中に豊富に登場する漢詩や熟語の解説も勉強になる。この本は現代日本に生きる私たちにも暗黙の警告を発しているのではないだろうか。

明るみになり始めた「米軍慰安婦」の真相

週刊文春 平成26年7月10日号 購入紙面(P24-29)の中より(P24-25)を参照

「私は三十年間、『米軍慰安婦』として働きました。その生きてきた過去を振り返ると、あまりにも辛いことばかりで胸が痛い…。今、慰安婦の女性達の多くは貧しくて食べるのもままならない悲惨な生活を送っています。韓国社会では『ヤンガルボ(身体を売る女性の蔑称)』と差別され、人間扱いをされないのです。孤独の中、何度死のうと考えたことかわかりません」と。

 「私たちは『ドルを稼ぐことは国の役に立つことだ。米軍(米国軍人)にはちゃんとサービスしろ』と教えられてきた。あんなに国のために働いてきたのに、韓国という国はなにもしてくれない。それはあまりにも酷いことだと思うのです」と。「こう告白するのは「米軍慰安婦」だったチャン・ヨンミさん(65)だった」と前置きし、インタビュー記事を配している。

朝鮮戦争の孤児だった
「今回、小誌のインタビューに応じたチャンさんは、自身の境遇をありのままに語ってくれた」として、その内容を紹介している。

 云く「私は二歳の時に朝鮮戦争で母と父を亡くした孤児でした。里親のもとを転々とし、十七歳の時には梨秦院(イテウオン)の食堂で働いていました。その食堂のおばさんから『あなたは可愛いから、米軍クラブで働いたらどうか』と言われたのです。でも、身体を売らないといけないと聞いて『できない』と断ったら、『あなたには家がない。私が死んだらどこへ行くの? 私が生きている間にそこに行って働きなさい』と説得され、結局行くことになったのです」と。動機に触れている。

 そして「一九六六年頃のことでした。私が入ったのは、梨秦院にある『ラッキークラブ』というクラブでした。当時は英語もわからないし、米兵は見るだけでも怖いし、とても不安でした」と。その時期を察するに十七、八歳とすれば、通常であれば青春期に在り個々相応の前向きな目標や夢、希望を抱く年齢層ではなかったかと。あくまでも日本人の感覚での察しに過ぎないのだが、そう拝察するほどに気の毒である。

「出稼ぎにきた以上、脱いで稼がなければならない」

 続けて「店は一階がクラブで、二階がホテルになっていた。クラブでお酒を売り、米兵が女性を気に入るとチケットを買い、二階のホテルでセックスをするという仕組みでした。クラブには韓国人の支配人がいました。夕方、仕事に行くと、支配人から『出稼ぎに出てきた以上、脱いでお金を稼がなければならない』、『ローマに来たらローマの法に従うんだ』などと厳しく言われました」と。

 「実は私はそれまで男性経験がありませんでした。だから、最初の三、四回は米兵に呼ばれても『体を売ることはできない』と拒否したんです。とても怖かったから。でも『嫌なら出て行け』と支配人に言われて…。私は教育を受けることができなかったので読み書きもできないし、他に仕事を選ぶこともできない。お金もないし、行くところもなかったから従うしかなかったのです」と。

 以下、事実とすれば余りに痛しいため、告白の内容は誌面のクリップのみに留める。

----------

米軍慰安婦政策を推進した朴正煕大統領(当時)

 週刊文春は、「当時の韓国には「淪落行為等防止法」と謂う法律があり、売春は違法だったが、特例を作り米軍慰安婦政策を推進していたのが朴正煕大統領(当時)だったのだ」と。「昨年十一月の国会で朴正煕大統領がサインした『基地村浄化対策』と言う書類が公表されました。一九七七年五月二日の日付でサインされたこの書類には、基地村が韓国国内に六十二カ所あり、米軍慰安婦は九千九百三十五人と記され、政府が慰安婦を管理していた事実が明記されていました。米軍慰安婦問題で韓国政府が直接関与していた証拠と見られています「在韓ジャーナリスト」と。

 性病管理の事例を記しているが、この内容も上記の誌面のクリップに留めるが。然るにこの米軍慰安婦制度によって、「実際、当時の基地村関係の産業は韓国GNP全体の二五%を占め、うち半分が性産業による収益だったとされる。文字通り、身体を張って韓国経済を支えていたのが彼女たちだったのだ」と。「だが、韓国経済が発展していくと、彼女たちは使い捨てられた」と誌面は記している。

 同制度が経済の“柱”であった時期は、「『お嬢さんたちはドルをたくさん稼いでいますね』と、朴正煕大統領に褒められたという話も聞きました。同僚の米軍慰安婦たちが道路開通の式典を見学にしに行ったら、視察に来ていた朴大統領から声をかけられ、褒められたのです(チャンさん)」と。事実とすれば、それら自国民に対して同政府は国として恩給制度を設けるなりすべきところ、しかし、用が薄くなれば見捨てるという南朝鮮さながらの体質をここでも晒している。
----------

自国民すら捨てる南朝鮮の伝統体質

 恩義ある国に「仇」で返し、自国民すら良いように利用して捨てる。結局は、国の体をなしていない。いわば、李王朝時代から長きに渡り、宗主国に対して定期的に自国民の中から労働用、性足用、食用の各奴隷を頭数そろえて献納していた史実と二重写しにさえなる。それが現在の「南朝鮮」の本質と謂えよう。

 表題のチャンさんは、「約六畳のアパートの部屋で拾ってきた犬三匹と暮らしている。家賃は二万円。現在の収入は生活保護費の四万円だけだという」と。「年を取って基地村を離れてしまうと、私たちは韓国人社会に馴染むことができない。稼いだお金も騙されたり、米軍に盗まれたりして全て失ってしまった。あんなに苦労したのに、年取ってからも『ヤンガルボ』と言われて…」と。
----------

一つでも幸有るこれからの人生を

 チャンさんが、“日本軍慰安婦”の方は「応援してくれる人がたくさんいて、国も面倒をみている。なのに、私たちはあんなに韓国のために働いていたのに国からは何もないのです」と語っておられるが。この点については誤解無きように付記しておくべきと筆者は考える。

 かつて朝鮮人業者らによる民間売娼は存在していたが、“日本軍慰安婦”は「河野談話」がもたらした産物であり、実際には存在しなかったのである。但し、「河野談話」を唯一の足がかりにそもそもが捏造の対日毀損のブラフをもとに謝罪、賠償請求をなすための「具」として“日本軍慰安婦”なる申告者らがこれまで南朝鮮政府に利用されて来ただけの話で、こちらも「用無し」となれば、チャンさんたちと同じ扱いを受けるようになるであろうことは推察に容易である。

 それにしてもしかし、南朝鮮政府、メディアが都合悪しと無視を決め込む状況下で、よくぞ「米軍慰安婦」集団訴訟に立ち上がってくださった。ブーメランを南朝鮮政府へと呼び戻した勇気に敬意を表し、一つでも幸有るこれからの人生をと。遠い国からはるかにお祈りする。

【朝鮮大学校 60年の闇(上・中・下)】

【朝鮮大学校 60年の闇(上)】
地獄の思想教育「祖国守る覚悟示せ」 容赦ない怒声、飲食も許さず 関係者が実情初めて吐露
 4月16日の昼下がり。北朝鮮の主席、金日成(キムイルソン)の前日の誕生日を記念した「日朝友好の集い」が朝鮮大学校内で盛大に開かれた。趣旨に賛同する日本人や、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の南昇祐(ナムスンウ)副議長ら大学関係者が顔をそろえた。
 朝鮮総連関係者によると、参加者らは案内係に促されるまま、キャンパス内の各施設を見学。同大は当初、予定していなかったにもかかわらず、教室の様子を要望に応じて公開するなど、サービス精神あふれるもてなしに終始したという。この時、参加者の一人は、室内で金日成と総書記の金正日(キムジョンイル)親子の肖像画が高々と掲げられているのを見た。
 同大が妄信する金一族崇拝教育の一端が垣間見えた瞬間だった。対外的にいくら取り繕っても、崇拝思想が在校生の体にしっかりと刻み込まれていることがうかがえる。
同大には特別な学部が2つある。朝鮮総連幹部を輩出する政治経済学部と、日本の小学校に該当する朝鮮初級学校の校長を養成する教育学部(3年制)だ。それぞれ金日成と金正日親子のマルスム(お言葉)によって「特別な学部」と定められた。ただ、同大は公の場で認めたことはない。
 両学部の在校生は卒業が近づくと、決まって研修旅行名目で北朝鮮へ渡航する。北朝鮮当局管理下の訓練所に3カ月以上も籠もり、金一族を神格化した革命史や朝鮮労働党の方針をみっちりとたたき込まれる。つまり、思想教育の総仕上げを本国で行うのだ。
 そんな思想に染まっていた政経学部出身の男性が、同大の実情を初めてマスコミに吐露した。男性は同大に教員として戻り、金一族への忠誠を誓う総連傘下の在日本朝鮮青年同盟(朝青)朝大委員会指導員にも抜擢(ばってき)された。エリート中のエリートだった。
朝青は全在校生の加入が義務づけられ、思想チェックは熾烈(しれつ)を極めた。
 同大寮の一室。指導員の男性は夕食後、ある班の在校生6人を床に座らせて仁王立ちになると、ある新入生を名指しした。
 新入生は声を絞り出すのが精いっぱい。容赦のない怒声で畳みかける。

 「敬愛する金日成首領様や金正日将軍様が送ってくださるお金で毎日、勉強できることを忘れたのか。明日の夜までに反省文を持ってこい」

 こうしたやりとりが夜まで続いても、飲食すら許されない。自己批判が足りないと何度も書き直し。来る日も来る日も…。些細(ささい)なことをやり玉に挙げ、長期間の徹底した個人攻撃で相手を支配下に置いてしまう-。金一族への服従を強いる忠誠心を競わせるためにほかならない。
「朝鮮大学校を存続させる選択肢はただ一つ。同大を支配下に置く朝鮮総連との関係を断ち切ることだ。それには今の朝鮮総連指導部に退陣してもらうしかない」     
 朝鮮大学校は4月に創立60周年の節目を迎え、金一族を絶対視した教育が繰り返される一方、その思想教育への反発も強まっている。秘密のベールに包まれた同大の実像に迫る。

【朝鮮大学校 60年の闇(中)】
美濃部亮吉都知事が「援護射撃」 慎重論押し切り学校認可 金日成氏への“手土産”

 「日本のビジネスマンの方ですか」
 昭和47(1972)年春、北朝鮮の平壌中央郵便局。日本から送付された新聞を受け取りに来た共産党機関紙「赤旗」の平壌特派員、萩原遼(79)=当時=は、愛くるしい笑顔が印象的な女性から突然、声をかけられた。
 見れば近くに50人ほどの男女の若者がいる。女性は萩原を貿易会社の駐在員と勘違いしたらしい。
 「いや、新聞社の特派員です。あなたたちも日本から来たのですか」
 朝鮮大学校の在校生約200人が、首相だった金日成の同年の生誕60年を盛り上げるため、北朝鮮が進めた帰国事業に応じて北朝鮮に渡っていたことは知っていた。彼女らが、その在校生たちだったのだ。
 「日本にいる母、家族への手紙をみんなで出しに来たのです」
 会話は5分で終わった。再会を模索したが、彼らの消息はつかめなかった。
 34年12月に始まった北朝鮮への帰国事業には「地上の楽園」といううたい文句に誘われて9万人超の在日朝鮮人らが参加した。
 ところが、実際は食事に事欠いたり、強制収容所に収監されたりする人が相次ぐ。惨状が知れ渡ると、参加者も減っていった。萩原は、同大の在校生が帰国事業の不振を糊塗する“貢ぎ物”としてかき集められたとして「前途ある若者に本当に惨いことをしたものだ」と述懐する。
金一族を支える同大を後押ししたのが当時の東京都知事、美濃部亮吉だ。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)関係者によると、社会主義者を自任する美濃部は46年の秋、訪朝して金日成と2回も会談している。美濃部は一連の会談で社会主義下の平壌の現状を引き合いに出して、「資本主義の負けは明らかである」と断じたという。
 このとき、美濃部は43年に政府・自民党の慎重論を押し切って、同大を各種学校として認可した実績も“手土産”として持参した。各種学校として認可され、同大は固定資産税の減免措置など財政的なメリットを享受することになった。
 認可前の同大は34年に東京都小平市に移転する際、トランジスタラジオ製造工場の建設と偽装して、周辺住民の反対運動を封殺。さらに朝鮮総連は「民族教育は基本的人権だ」「学術研究の機会を奪うな」と主張して、認可実現に向けた大キャンペーンを展開。これに美濃部が応じたのだ。
 金日成は51年、同大の代表団と平壌で面談すると、「朝鮮総連が敵と堂々と戦えるのは、基地である朝鮮大学校を通じ、絶え間なく幹部を養成し続けているからだ」と満足げだったという。美濃部の“援護射撃”で同大の財政が安定し、結果的に総連幹部の育成が進んだ。
私立学校法では、都が認可した学校法人が法令違反した場合、解散を命じることが可能だ。
 平成24年3月、都議会文教委員会で当時、自民党だった野田数が北朝鮮による拉致問題を引き合いに「学校認可は完全に間違いだった」と見直しを求めたが、都側は態度を明確にしなかった。一方で、都は昭和40年に「各種学校として認可すべきではない」との文部事務次官通達を把握しながらも、認可に踏み切った事実を認めた。
 ただ、同大学長の張炳泰は、北朝鮮の国会議員にあたる最高人民会議代議員も兼務。同会議は、核開発を主導した総書記の金正日、第1書記の金正恩父子を絶対視しているが、都私学行政課は「認可基準に違反している認識はない」としている。
 社会主義の勝利を声高に叫んだ美濃部が恩恵を与えて育んだ同大。金一族崇拝思想の醸成が都の庇護下で脈々と続くことになった。(敬称略)

【朝鮮大学校 60年の闇(下)】
非公然組織メンバー育成 あらがえない宿命に悲哀
 朝鮮大学校文学部(現文学歴史学部)を卒業した男性は当時の校内に存在する奇妙な集団に気づいた。
彼らは週に3、4回、放課後になると決まって姿を消す。全寮制で寝食をともにする仲間の不審な行動に興味がわいた。
「お前たちは一体何をやっているんだ」
「言えない」
学費・寮費を免除されている「給費生」や、思想・出身成分に優れた「熱誠者」に限って隠密行動が目立つ。
やがて男性は、彼らが空手やテコンドーの厳しい訓練に明け暮れていることを知る。女性の在校生もいた。
「組織を守るためだ」
メンバーの一人が存在理由について絞り出すように放った一言が今でも忘れられない。
実は、こうした非公然組織は同大内にいくつもある。
北朝鮮の朝鮮労働党に直結する組織として、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の各組織を支配下に置いた「学習組」も存在した。複数の組織・集団が重なり合っていることも多い。
 実際に男性の証言を裏付ける事件があった。今年2月、同大の元経営学部副学部長が詐欺容疑で警視庁公安部に逮捕された。公安当局は北朝鮮から直接指令を受けた元副学部長が韓国での工作活動に関わったとみて事件化に踏み切ったが、東京地検は起訴猶予とした。
報道で逮捕を知った同大出身の知人男性は驚いた。元副学部長とは、第1書記の金正恩を絶対視する青年組織「在日本朝鮮青年同盟」で顔を突き合わせていたからだ。「面倒見の良い兄貴分だった。本国からの直接指令で動いていたとすれば、身近な者にも動きは分からなかったはずだ」と振り返る。
 また、同大理工学部の教員の多くは、北朝鮮のミサイル開発を後押しする在日本朝鮮人科学技術協会(科協)の会員を兼ねている。
 同大を起点に、非公然組織メンバーの育成とスパイ工作が疑われる同大元幹部の逮捕が行われたのだ。朝鮮総連が北朝鮮に盲従し、同大を「組織の生命線」として支配下に置く限り、この構造が変わることはない。
 一方で、同大の組織弱体化を物語る動きも活発化している。
 昨年春には、日本の高校に該当する、ある朝鮮高級学校運動部を全国レベルに引き上げた功労者である監督が突如、辞任した。同校関係者によると、辞任の理由は監督の長男が同大ではなく、日本の私大へ進学したためとみられている。
 さらに、朝鮮総連傘下の商工人から財政難にあえぐ同大について、「思想教育にこだわる朝鮮総連と、朝大の運営を完全に切り離すならば、資金援助をしても良い」という声まで上がっている。
実は同大もこうした動きを察知。飲酒、外出許可の基準を徐々に緩和して生活面の懐柔策を施している。加えて、弁護士や公認会計士の資格を取ったり、ファイナンシャルプランナーとして成功したりした優秀な卒業生の存在をマスコミを通じて対外的にアピール。新入生の誘い水として延命を図ろうと必死だ。
 2月に卒業生に配られた創立60周年を記念した朝鮮大学校同窓会会報には卒業生の就職先が列記されている。教員・学校関係34%、同胞団体・機関職員18%、経済団体・金融機関18%。ほとんどが朝鮮総連系の企業・団体だ。
 しかも、卒業生が「金正日(キム・ジョンイル)同志に捧げる歌」とした合唱公演の写真が掲載されるなど、金一族崇拝の念が随所に垣間見える。あらがえない宿命がどこまでも卒業生に付きまとう。朝鮮総連と同大の間に楔(くさび)を打ち込むのは容易ではない。(敬称略)
 この連載は産経新聞 喜多由浩、比護義則が担当しました。

【北海道が危ない(上)】

中国生まれの「反天皇」農場主が帯広で170haを取得したのはなぜか? 朝鮮総連議長らにもお披露目し…

 北海道は平成24年4月、水源地を売買する際、事前届け出を求める水資源保全条例を施行した。それから4年。道内の外国資本の動向を追う。

  3月中旬の北海道帯広市。深い雪に包まれたJR帯広駅から道道216号線を南西へ約30キロ。日高山脈の麓、拓成町に入ると、戸蔦別川沿いに広大な農地が広がる。農場に沿って幅10メートルの道路が整備されている。さらに幅10メートルの作業用道路が敷設されているといい、セスナ機なら離着陸できそうだ。

 農場の入り口からコンクリートの敷石が敷設されたゆるやかな坂道を登ると、左右にグリーンやグレーのバンガロー風の建物が立ち並ぶ。奥にはL字型の建物が建設中だ。関係者によると、バンガロー風の建物は1階が寝室。居間は吹き抜けで2階はロフト形式。1棟に6人は住める広さで、建設費用は1棟1500万円ぐらいだという。

 従業員によると、農場ではヤマブドウやモモ、カキ、グミ、スモモなどの果樹類を育てているという。

 農場の経営者(73)は、複数の企業の会長職を務める地元財界の有力者。「これまでに(東京ドーム約36個分に当たる)170ヘクタールを買収し、最終的には400~500ヘクタールまで広げ、バンガローも年内には7棟建てる。いずれはヘリポートの建設も予定している」と語る。
昨年10月31日、この農場に朝鮮総連の許宗萬議長や議長補佐、朝鮮大学校長、同大教授、それに横浜中華街華僑連合会長らが訪れた。名目は「収穫祭」への参加だったが、実質的には農場の紹介が狙いだったといわれる。地元メディアも同席したが、記事にはならなかった。

 農場の経営者は取材に天皇陛下をののしり、政府の農業政策を批判。「このままでは、日本人は食べるものがなくなってしまう。花崗岩を使った有機農法を進める。北朝鮮は花崗岩を使った有機農法をしているので一昨年、その調査に平壌に行った。朝鮮総連がおかしいというのは問題。自分たちとは同じ遺伝子だから、もっと理解していかないとだめだ」と力説し、「有機農法をやりたければ、ロシア人でも北朝鮮人でも受け入れる」と続けた。

 経営者は中国・済南生まれだという。「華僑に依頼して、農場でとれた農産物を売るルートを探っている。有機農法を勉強したいのなら、中国人にもただで教える。北朝鮮も中国もロシアも関係ない。バンガローは、有機農法に関心のある研究者らのための宿泊施設にする」と強調する。

この農場の農地拡張や北朝鮮や中国との関係は、さまざまな波紋を広げている。

 「この辺は石が多いから農地としては適切ではない。採算が合わないのになぜ?」「農業機材や資材を見ると果樹園としては必要のないものもあり、つじつまが合わない」…。

 農場の内情に詳しい関係者も「純粋に有機農法を追求するのならいいが、朝鮮総連や中国が関係しているとなると…。思想的に反天皇陛下だとすればさらに怖い。これから中国人らをドンドン受け入れ、農場内に住むことにでもなれば、別の大きな問題が出て来る」と表情を曇らせた。

 長年にわたり中国資本による道内での不動産買収を注視している前道議の小野寺秀氏(51)はこう推測する。「中国資本はこれまでは建物や部屋、土地の一部などを買っていたが、最近は集落単位で買っている。自己完結的に生活できるようなものを買おうとしているのではないか。拓成地域には戸蔦別川があり、水源地としては一流。北朝鮮や中国の意向は分からないが、自己完結型の最適なエリアだ」


×  ×

 日高山脈をはさんで西側に位置する平取町。「中国人を中心とした閉鎖的な集落ができるのでは」と不安が広がっているという。
国道237号を北上し、幌尻岳の看板を目印に道道638号へ。国有林の合間を縫うように走る道道は、車がようやく対向できるほどで、民家はない。途中から舗装が終わり、さらに狭くなる。道道に入って約15分、細い山道を抜けると目の前が開けた。豊糠地区だ。幌尻岳の西側の麓に位置し、標高約250メートル。道路は幌尻岳の登り口まで続く。幌尻岳の東側がすでに紹介した帯広市拓成町の広大な農地だ。

 今年春、平取町内に続く道道が開通したが、人里離れた袋小路状態の集落。何者かが意図的に隔離された社会を作ろうと思えば、これほど適切な場所はない。そんな印象を持った。


×  ×

 そんな山間の集落がほぼ「村ごと」買収されたのは平成23年のことだ。ある住民は約10アール当たり10万円で、25ヘクタールの農地を2500万円で売ったという。支払いはキャッシュだった。

 買収したのは、業務用スーパーを全国にフランチャイズ展開するA社の子会社の農業生産法人。平取町の農業委員会によると、豊糠の農地は219万4092平方メートルで、森林や原野を含めると912万1137平方メートル。このうち農地123万3754平方メートルが買収され、原野や山林を含めるともっと増えるという。
農業生産法人は買収の理由について、競売で取得した牧場の牛馬の飼料用牧草を作るため、としている。

 ところが、買収から5年たった今も雑草や雑木が伸び放題。地元住民は「買収後に1回、畑の縁の雑草を刈っただけ。作物は作っていないし、ほとんど管理していないのに等しい」と話す。

 非耕作地のオンパレードで、地元の有力者も「買収した当時は、トレーラーも大型車も入ってこられないような地域。自分だったら、この辺の土地は買わない。売って5年ぐらいになるが、この間、何をしていたのか分からない」と首をかしげた。

 A社は、中国に子会社があり、中国との関係が深いとされる。

 住民の一人は「最初から中国の影を感じていた。村の有力者も『A社が中国と関係があるかどうかは分からないが、だれも買わない土地を買ってくれるのだからありがたい』と、A社が中国と関係があることをほのめかしていた」と話す。「買収後、中国の領事館ナンバーの茶色いバンが、豊糠地区内を走っているのを複数の住民が複数回見た」との証言もある。ある住民は、農業関係の組織で、A社の計画や中国の存在を確認した際、幹部から「命に気をつけろよ」と真顔で警告されたという。

 在京の中国事情通はこう指摘する。「海外で活動する中国企業の背後には中国共産党がいると考えた方がいいが、中国と関係のある日本企業も同じだ」
そもそも農業生産法人が、山奥の僻地を集落ごと買うことにどういう意味があるのか。しかもなぜ、荒れ地や耕作放棄地になっているのか。

 こんな疑問を農業委員会や農業生産法人の責任者に投げかけると、返答は「今も餌用の牧草を作っている」。

 あまりの不可解さに一部住民の間でこんな臆測が流れている。「地目(宅地、山林、田、畑など不動産登記法上の土地の分類)を変更すれば、住宅や工場を建てられる。農地を荒れ地にしておいて、『雑種地』に地目変更するつもりではないか。変更すれば、誰でも自由に買えるようになる」

 一方、農業生産法人の責任者は中国との関係を否定した。中国の影がちらついただけで判断するのは危険だが、先の中国事情通はこんな警鐘を鳴らす。

 「中国人からすると、将来的には日本人と結婚をして中国人の血が流れている子孫を増やすという大きな狙いがある。そのためにはまず、地域に拠点を作ることが優先される」




◆水資源保全条例
北海道庁は外国資本による道内の水源地買収を監視するため、平成24年4月、水資源保全条例を施行。水資源保全地域を指定し、同地域内にある土地を売却する場合、事後届出制だったのを、土地の持ち主は契約の3カ月前までに売却先の氏名、住所、土地の利用目的を道庁に届ける事前届出制にした。ただ、強制力はない。現在、58市町村169地域、11万9861ヘクタールが保全地域に指定されている。
 一方、外国資本の森林などの売買は規制がないため、道庁は22年度から独自に、外国資本が資本金の50%以上を占める企業についてはその動向を注視している。だが、中国と関係のある日本企業が買収しているケースや、中国企業が日本企業を買収し、そのまま所有権を引き継ぐケースもあり、実態把握が困難なのが実情だ。

【北海道が危ない(中)】

中国が観光施設“爆買い” 進むチャイナタウン化 住民に危機感「中国人の街ができてしまう」   


 四方、雪化粧に包まれたJR北海道石勝線のトマム駅。車窓からは1千ヘクタール(東京ドーム213個)を超える総合リゾート施設が広がる。「星野リゾートトマム」(占冠村)だ。

 この日本を代表する総合リゾート施設が中国の商業施設運営会社「上海豫園旅游商城」に買収されたのは昨年秋のことだ。買収額は約183億円。それまで星野リゾート(長野県軽井沢町)が20%、外資系ファンドが80%の株式を保有していた。上海豫園旅游商城の大株主は、上海の中国民営投資会社「復星集団」(フォースン・グループ)。復星集団は日本での不動産投資を積極的に進めているとされ、トマムの買収も復星集団の意向が働いたとされる。

 占冠村の中村博村長は不安を口にする。「買収は寝耳に水だった。中国企業の会長は『トマムにも投資する』と言っているが、具体的にどういう投資がなされるのか分からない。水の問題と乱開発が心配だ。網掛けをきちんとして、水資源の確保と乱開発は防がないといけない」

 道庁関係者によると、トマム地域は水資源保全地域に指定されておらず、トマムの水源地も買収されたという。
星野リゾートトマムの買収を仕掛けたとされる復星集団はトマム買収以前にも、隣のリゾート地「サホロリゾートエリア」(新得町)で宿泊施設を所有するフランスのリゾート施設運営会社「クラブメッド」を買収しており、サホロリゾートも実質、中国資本の傘下になっていた。一瞬のうちに、日本が誇る2つのリゾート地が中国資本の手中に収まったことになる。

 新得町の浜田正利町長は「最初は台湾と聞いていたが、値段の都合で中国に行ったようだ。もっと高く買ってくれるところがあれば、再び売りに出すかもしれない」と話す。

×  ×

 北海道に中国人観光客が押し寄せるようになったのは平成20年に北海道を舞台にした映画「非誠勿擾」(邦題「狙った恋の落とし方。」)が大ヒットしたのがきっかけだといわれる。

 世界屈指のパウダースノーで有名なスキーリゾートであるニセコ(倶知安町、ニセコ町)も、オーストラリアやニュージーランドのウインタースポーツ好きでにぎわっていたが、中国系が増えて今では60%を占めているという。
22年にはニセコの山田温泉ホテルが7億円で中国資本に買収された。「大きなローマ字で『KOBAN』と書かれ、日本語で小さく『交番』と書かれている地域もある。歩いているのは白人か中国人で、日本人を見つけるのは珍しいぐらいだ」(道庁関係者)

 長年、中国資本の動向を注視している前道議の小野寺秀氏は「24年4月の水資源保全条例施行後、国営企業のような大きな会社が堂々と顔を出してきたので、雰囲気が変わってきたと感じる」と話す。

 そして危機感を強める。「中国が狙っているのは水源地や森林、不動産だけではない。観光施設も買収している。今後、観光地の中国化が進み、利用するのは中国人がほとんどという事態になり、その場がチャイナタウン化するのは時間の問題だ」


×   ×

 フランスのリゾート施設運営会社「クラブメッド」が中国資本に買収された昨年以降、同社がサホロリゾート(新得町)に所有する宿泊施設を訪れる中国人が急増している。

 新得町によると、サホロリゾートの平成26年度の外国人の延べ宿泊者数は5万343人で、中国人(香港含む)が1万4982人でトップ。27年度は上期(4~9月)だけで前年同期の2032人を大幅に上回る7399人に達しており、年度ベースでも26年度を上回る勢いだ。

一方、昨秋買収された星野リゾートトマム(占冠村)は「観光客の国籍は公開していない」と言うが、地元住民によると、中国人観光客が多いという。

 こうした観光需要に伴い、接客のための外国人従業員も増加。占冠村では外国人居住者はここ2年で59人から120人(28年2月現在)と倍増し、人口の約1割を占める。国・地域別で見ると、台湾人が51人、韓国人が28人、中国人は22人だ。

 占冠村の中村博村長は「星野リゾートトマムは外国人従業員が多く、トマム地区の住民の4割を占める。何組かは地元の女性と結婚している。これからも増える可能性は高い」と話す。

 岸田文雄外相は4月30日、中国の王毅外相に、日本を訪れる中国人に発給するビザを緩和することを伝えた。今後、中国人観光客が増加するのは火を見るより明らかだ。

 もっとも、ホテルが整備されて観光客が増えることに不満はない。地域の活性化にもつながる。

 だが、占冠村の住民は「中国資本が中国人をたくさん呼んできて、中国人の雇用を増やす可能性がある。村内では、中国人の街ができてしまう、という噂が立っている」と複雑な思いを打ち明ける。
新得町の浜田正利町長は言う。「日本を守るという意味で、(外国資本による北海道の不動産買収に)制限は必要だと思う。特に土地に関しては国が制限をもうけないと…」


×   ×

 中国人を含む外国人居住者が増えると何が問題になるのか。それは「常設型住民投票条例」だ。

 住民投票には「非常設型住民投票」と「常設型住民投票」がある。

 「非常設型」は、住民の賛否を問う事案ごとにその都度、議会の議決を経て実施に必要な住民投票条例を制定する。

 一方、「常設型」は、投票の資格や投票方法などをあらかじめ条例に定めておいて、どんな些細なことでも請求要件を満たしていればいつでも実施できる。市町村が独自に制定でき、外国人にも投票権が保障される場合もあり、地方行政に直接参画できることになる。

   ×  ×

 北海道庁によると、27年4月1日現在、芦別市、北広島市、増毛町の3市町が、常設型住民投票条例を制定している。
また、179市町村のうち51市町村で自治基本条例が制定されており、このうち稚内市や安平町、むかわ町、猿払村、美幌町、遠軽町の6市町村は自治基本条例の中に住民投票を規定した上で、実施する際の具体的内容や手続きなどを盛り込んでおり、実質、常設型住民投票を認める内容になっている。

 外国人に対しては、この9市町村のうち5市町村が居住期間などの条件付きで投票権を認めている。

 常設型住民投票条例を制定している増毛町の制定理由はこうだ。「町民による自治の重要性を強く認識し、重要な政策の選択に町民の意思を的確に反映させるため、町民生活の基本に重大な影響を与える事項に関し、直接町民の意思を問う」

 投票は日本人のほか、「18歳以上の永住外国人で、引き続き3カ月以上本町に住所を有し、かつ投票資格者名簿への登録を申請した者」とし、外国人にも投票を認めている。

 前道議の小野寺秀氏は明かす。「アメリカ総領事館の職員から、『常設型住民投票条例が制定されると、外国人が自治体の首長のリコールなどができるようになる。それは選挙権を与えたぐらいのインパクトがあり、行政を牛耳ることができる。そのような地域に中国人がドッと入ってくると、中国の思いのままになる』と忠告された」
北海道中部の住民男性はこう打ち明けた。「私の集落では、日本人と結婚した中国人が発言力を強め、われわれの意見に耳を貸さないで強気で押してくる。もし、常設型住民投票条例が制定されたらと、想像しただけでも背筋が凍る」

 町内の農地買収に中国の影がちらつく平取町の川上満町長も「自治基本条例に住民投票は明記されていないが、今後趨勢をみて、必要とあれば入れていく」と条例制定に含みを持たせた。

 こうした流れに、ある町長は危機管理の必要性を説く。「うちには、自治基本条例も常設型住民投票条例もない。今後、必要だという声が出たら、議論はするが、制定されると、根本的に地方自治が揺らぐので危険だ」(編集委員 宮本雅史)

【北海道が危ない(下)】


日本が20年足らずで消滅? 空自基地周辺にも中国の影 ゴーストタウン化した中国人向け別荘地も


 北海道の新千歳空港から車で約15分。千歳市郊外の高台に整備されたニュータウンの一角に高級住宅が立ち並ぶ。障害物はなく、東方に新千歳空港と航空自衛隊千歳基地が一望できる。

 家具・インテリア販売大手「ニトリ」の子会社「ニトリパブリック」が約6億5千万円を投じ、平成22年7月に完成した中国人向けの別荘地だ。約6500平方メートルの敷地内に木造2階建て住宅17棟が並ぶ。建物面積は380平方メートルだという。芝生が敷かれた中庭には中国放送視聴のためか、大型衛星アンテナ3台が設置されている。

 ニトリは1棟当たり平均3千万円で入居者を募集したところ、100人余りが応募、早々に分譲を完了したという。当時、地元では物議を醸したが、それ以降は話題にものぼらない。各住宅の玄関には中国人名の表札があるが人気はなく、この一角だけは無機質なゴーストタウンのようだ。

 道路をはさんだ反対側には広大な土地が放置されている。この土地も同社が買収したものだという。ニトリは当初、1万人の中国人が住めるように、1千棟の別荘を建設する予定だったが、住民の反対などがあり頓挫。ニトリによると、今後、拡張の予定はないという。

複数の住民によると、中国人はツアーのようにまとまって来て、1、2週間滞在して帰ることもあれば、レンタカーで個人的に来ることもあるという。別荘の近くを通ると、中国人が出てきて「通るな」と妨害されるため、いさかいが起きたこともあるといい、警察関係者によれば、この地区の交番の出動件数が道内でトップになったこともあるそうだ。

 購入者は年に何回か来るだけで、ほとんど空き家状態。「最初の頃は子供用の自転車や三輪車を置いていたが、いつのまにかなくなっていた。中国人が買っているので、この先、この地域がどうなるのか心配」と地元の主婦。老夫婦も「所有者を審査しただろうから問題はないと思うが、極端なことを言うと、テロリストが住んでいたとしても分からない」と不安を口にした。

    ×  ×

 新千歳空港には政府専用機が格納されていて時折、訓練飛行が行われている。隣には北の防衛の要である航空自衛隊千歳基地があり、国防上重要な場所だ。

 その新千歳空港の滑走路と千歳市美々の国道36号との間に広大な山林、原野が広がる。土地の管理会社によると、約40ヘクタールあるという。国道脇には「賃貸地」の看板がある。
21年ごろ、この土地をめぐってある計画が進められていた。土地の売却を考えた所有者が設計会社やデベロッパーとともに、中国の要人が来訪した際の航空機を収納する格納庫を建設しようとしたのだ。

 前道議の小野寺秀氏は振り返る。「航空自衛隊の基地がある滑走路と、中国の飛行機を収納する格納庫への滑走路がつながるというのは普通ありえない。設計図を見て驚いた。中国の要望を聞きながら話を進めたようで、中国も乗り気だったと聞いている。途中で頓挫したから大事には至らなかった」

 道庁側は安全保障上の問題を理由に、所有者に売却しないよう要望すると同時に、22年から23年にかけて国に買収するよう働きかけたが実現しなかったという。

 この土地の管理会社はこう話す。「昔は確かに中国から購入の話はあった。怪しい客には売らないが、しっかりしたビジョンがあれば、国を問わずに売る。最近では日本の法人だが、背後に中国の影が見えるケースもある。いろいろな話があり、交渉中だ」
この地域には売地が多い。中央日報によると、韓国電力公社が総事業費約113億円を投入し、来年下半期までに新千歳空港近隣の約109ヘクタールに13万台の太陽光モジュールを設置する予定で、4月20日に着工式が行われたという。

 小野寺氏は長崎県・対馬の海上自衛隊施設の隣接地が韓国資本に買収された例を挙げ、こう警告する。「国として安全保障上重要なエリアを決めて、そこを国が管理するとか、買い上げるとかの方向にしないと手遅れになる。対馬の二の舞いになる」

   ×   ×

 平成27年の海外資本などによる北海道の森林買収は、11カ所(計約107ヘクタール)だった。内訳は中国(香港を含む)が7カ所(同91.1ヘクタール)、シンガポールが1カ所(同2ヘクタール)、英領バージン諸島が2カ所(同2.8ヘクタール)、オーストラリアが1カ所(同11ヘクタール)。利用目的は「資産保有」「不動産開発」「現況利用」などだが、中国資本の場合、「別荘」「投資用」「コンドミニアム」「スキー場」「太陽光発電」がそれぞれ1カ所ずつで、2カ所は「不明」だった。
海外資本による北海道の森林買収は27年12月末現在、26市町村で計1878ヘクタール(東京ドーム約400個分)。道庁森林計画課は所有者の変動があるため、国別の統計は算出できないとしているが、「中国資本が明らかに多いという印象は強い」(道庁職員)という。

 道庁は22年、山林について買収したのが外資かどうかを把握するため、所有者とされる企業2141社にアンケートを行った。ところが、43%にあたる913社は「宛先不明」。道庁は追跡調査を続けたが、所在不明の「幽霊地主」は184社、アンケート総数の9%にものぼり、道内に総計約4万ヘクタールの所有者不明の山林があることが判明した。

   ×   ×

 「外国資本が北海道をはじめ日本国内の不動産を買収し続けると、予想外の落とし穴が待ち受けている」

 こう指摘するのは元東京財団上席研究員の平野秀樹氏(61)。所有者が分からない土地が多いことについて、「グローバルな商圏を舞台に土地の転売が繰り返されていくと、さらに所有者が分からなくなる」と危惧する。
日本では土地を売買しても、登記簿の記載変更は義務ではない。つまり、登記簿だけに頼り、所有者をさかのぼろうとしても、追跡のしようがないのだ。

 平野氏は警告する。「日本の土地は『所有者絶対』の原則が貫かれているので、所在不明の主体に売ったが最後、糸の切れたたこのように浮遊し続ける土地が続出してしまう。国家の主権そのものが脅かされ、モラルハザードが当たり前の社会に成り下がってしまうかもしれない」

   ×   ×

 観光客でにぎわう札幌市中央区の狸小路商店街近くで、再開発計画が進んでいる。新しいビルは地下3階、地上29階建て。敷地面積は3700平方メートルで、建築面積は3200平方メートルだ。

 地元タウン誌によると、商業・業務向け施設は地下2階から6階。7階から29階までは130戸の分譲マンションになる予定だ。

 地元不動産関係者の話では4階から6階までは中国系の店舗が入り、分譲マンションは中国人が購入しそうだという。地元タウン誌も「長年の中華街構想が実現できそうだ」と伝えている。
地元不動産関係者によると、札幌市内のビルに、道内のマンションなど不動産を買いあさっている中国系企業や、買収した不動産を管理する中国系企業が集中するケースが目立ってきているという。前道議の小野寺秀氏は「札幌でも平取町でも占冠村でも、すべて5年ほど前から同時並行で起きている。単発ではなく、一気にきているイメージがある」と話す。

 7年11月8日、参議院の国際問題に関する調査会で、当時自民党議員だった笠原潤一氏(故人)が、「日本という国は40年後にはなくなってしまうかもわからぬ」という中国の李鵬首相(当時)の発言を、オーストラリアのキーティング首相(同)が自民党調査団に伝えた、と報告している。李首相の予言ではあと20年足らずで、日本はなくなってしまうことになるが、北海道での中国資本の動きをみると、不気味な印象を持たざるを得ない。(編集委員 宮本雅史)

ソ連軍の侵略

ソ連軍の侵略

英霊に敬意を!

引揚者と戦没者 

被害者に成りすました加害者 韓国がおびえるオーストリア正史

2014.5.22
◆被害者に成りすまし
 オーストリアは「ナチス・ドイツに併合された、ナチスによる最初の犠牲国」と、先頃まで言い張った。韓国の朴槿恵大統領(62)も「日本が加害者で、韓国が被害者」と、繰り返し強弁する。教科書では「対日戦争」を教えてもいる。しかし、史実は全く違う。近代に入り、朝鮮と本格的に戈を交えてはいない。10年に大日本帝國が併合し、日本と成った朝鮮は、欧州・植民地兵のようにではなく枢軸国・日本の将兵として大戦を戦った。朝鮮人の軍人・軍属は24万2000人以上。志願兵の競争率は62倍強に沸騰した。2万1000柱の英霊が靖国神社に祀られる。今、韓国の反日勢力が最も行きたくない国は90年代以降、枢軸国側で連合国と戦った歴史を一転して認めたオーストリアに違いあるまい。オーストリアを訪れれば日本への“説教”、即ち「歴史を正しく直視し、責任を取る姿勢を持て」(朴氏)が、木霊と化して自らに襲い掛かってしまう。
 だが、小欄の認識は甘かった。韓墺国交正常化50周年の2013年、韓国政府は首都ウィーンで記念行事を催したが、文化・芸術一色だった。さらに3カ月後の9月、朴氏はベトナムを訪れた。ベトナム戦争(1960~75年)中、韓国軍はこの国で民間人や捕虜を大量虐殺し、多くの女性を陵辱したが、謝罪は皆無。日本に執拗に要求する「正しい歴史認識」とは何かを自覚し悩む「墺太利(オーストリア)症候群(シンドローム)」や「越南(ベトナム)症候群」に苛まれる時代は来るのか? その日を迎え、初めて一人前の独立国に昇華する。

 《第三の男》の話をもう少し。映画ではなぜ、多数の人々を死なせる質の悪いペニシリンを闇で横流しするオーソン・ウェルズ(15~85年)演じるハリーが暗躍可能で、ハリーの親友・三流作家ホリー(俳優ジョゼフ・コットン/05~94年)が射殺するまで逮捕されなかったのか…。なぜ、ハリーに怒ったホリーが英軍治安当局の囮(おとり)捜査に協力したのか…。


◆「偉人の捏造」も共通癖
 オーストリアは38年、ナチス・ドイツが併合。独総統アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)を歓迎する国民も多かった。ドイツとして将兵80万人を動員し、30万人前後が戦死した。従って1945年のポツダム会談で、ソ連/米国/英国/フランスが墺全土とウィーンを、それぞれ分割統治する方針が決まる。4地区には軍政が敷かれ、各国の主権が保障された。ハリーは、英軍の捜査権が及ばぬソ連支配地を根城に、地下下水道を使い他地区に潜入して闇商売で儲けた。逮捕には、英国支配地におびき寄せる必要があった。
オーストリアは55年に主権回復し永世中立国と成るが、ドイツのように国家分断の悲劇は回避できた。米英ソ首脳発信の《モスクワ宣言=43年》が影響している。宣言では、大戦中の残虐行為を戦争犯罪と指定し、主に独軍将兵とナチス党員を該当者と明記。その際、墺併合は無効と認定された。以来、オーストリアは宣言にすがり、万人単位のユダヤ人虐殺の暗部を覆い隠す。ところが、国連事務総長を経て大統領に就任したクルト・ワルトハイム(1918~2007年)の独軍突撃隊将校という軍歴が暴かれ、自身は残虐行為を否定したが、大統領再選(1992年)を断念。それでも、ユダヤ社会や国際社会は墺非難を高めていく。結局、首相がイスラエルを訪問し、初めて謝罪する。

 オーストリアの「連合国気取り」は終わった。ただ、ヒトラーを独生まれ、ルートウィヒ・ベートーベン(1770~1827年)を墺生まれと偽るオーストリア人が少なからずいるそう。実際は逆だ。

 「偉人の捏造」。哀れな行為に、日韓併合に反対した初代朝鮮統監・伊藤博文(初代首相/1841~1909年)を暗殺した頓珍漢なテロリスト・安重根(アンジュングン)(1879~1910年)を英雄と粉飾し、歴史から絞り出す韓国が透ける。

◆「連合国気取り」
 しかも、オーストリアがやめた「連合国気取り」も続けて尚、平然としている。韓国の教科書にも載るが、2013年9月の《韓国光復軍》創立73周年、韓国メディアは光復軍について講釈した。

 《英軍と連合して1944年のインパール戦闘をはじめ、45年7月までミャンマー(ビルマ)各地で対日作戦を遂行した》

 韓国光復軍は40年9月、中華民国=国民党政権の臨時首都・重慶で立ち上がった朝鮮独立を目指す亡命政府=韓国臨時政府の武装組織。だが、動員計画は遅れに遅れ、創軍1年目の兵力は300人に過ぎぬ。米CIA(中央情報局)の前身で、レジスタンス活動を支援するOSS(戦略諜報局)協力の下、朝鮮半島内で潜入破壊活動を考えたが、日本降伏が先になった。

 45年8月15日、最後の朝鮮総督は日章旗を降ろし、太極旗掲揚を命じたのも束の間。9月、軍政施行に向け半島に上陸した米軍は太極旗を降下させ、再び日章旗を揚げさせる。以後3年間軍政を実施し、臨時政府樹立など論外であった。臨時政府の金(キム)九(グ)主席(1876~1949年)は個人資格で“故国”に帰り、光復軍も武装解除された。韓国は日本を打ち負かして独立したのではない。米国より棚ぼた式に独立を譲ってもらっただけ。金も自伝で憂いた。
《心配だったのは、この戦争で何の役割を果たしていないために、将来の国際関係においての発言権が弱くなること》

 《何の役割も果たしていない》韓国が戦争責任をすり抜けられた理由の一つは、オーストリアのように“ユダヤによる追及の構図”がなかった幸運。ナチスと「喧嘩」しながらもユダヤ人を守った日本の役割は小さくない。だのに、韓国人は被害者たる“ユダヤ人”を装う。

 ところで、韓国外交官にとり墺駐在は出世街道とされる。国連の潘基文事務総長(69)や金星煥・前外交通商相(60)らはいずれも駐墺大使の経歴を持つ。韓国民からオーストリア正史を遠ざける功績が認められたわけではなかろうが…。(政治部専門委員 野口裕之)

台湾人は漢民族ではない

      「台湾の声」編集長 林建良(りんけんりょう)

■台湾人と中国人は同じ民族と見る日本人

 台湾という国を、日本の皆さんは知っているようで知らない。どうせ中国と同じ民族なのだから仲良くやればいいじゃないか、と言う人が少なくない。一般の日本人ばかりでなく、台湾について勉強している学者や研究者でさえ、同じようなことを言う。つまり台湾人は、2%の原住民、13%の外省人(蒋介石と一緒に台湾にやってきた人間)、残85%の本省人(戦前に台湾に移住してきた人間)なのだから、98%はもともと漢民族ではないか、と。

 これは誤解でしかないが、ほとんどの日本人が台湾人は漢民族であると考えている。実は、なによりわれわれ戦後の台湾人が「お前たちはもともと漢民族である中国人なのだ」という教育を受けてきたのだから、日本人がそう思うのも致し方ない面がある。しかし、これは間違いなのである。

 台湾が世界史に登場してきたのはつい最近で、17世紀になってからである。では、それ以前の台湾にはほんの一握りの人間しか存在していなかったのかというと、そうではない。

台湾が歴史に登場したのは1624年で、オランダがアジアとの貿易をするうえでの中継点として登場した。ご承知の通り当時のオランダは、非常に航海技術が優れていて、貿易が盛んだった。今の会社の原型といわれる東インド会社も彼らによってつくられた。当時の彼らは、西洋のものを日本や中国に売り、あるいは東洋のものをヨーロッパに売ったりしていた。オランダはその中継点として、台湾と中国のあいだにある島で、大きさは新潟県の佐渡島の五分の一ぐらいの澎湖島という島を選んだ。

当時の明朝はその島をめぐってオランダ軍と戦い、結局は和解したが、明朝の条件としては、澎湖島は返してもらう、その代わりに台湾をあげるからというものだった。台湾は中国にとって、そのくらい無用のものだった。そして1624年、オランダ人が台湾を統治することになる。それが台湾人が体験した初めての国家としての権力であった。

 著名な統計学者である沈建徳氏の著書『台湾常識』によれば、当時の台湾の人口は50万人だったという。今から10年ほど前までは、台湾では原住民のことを「山胞」、つまり山に住んでいる民族と呼んでいた。しかし、確かに三分の二は山でも、三分の一は平野である。住みやすい平野に人が住まなくて、山にばかり住んでいるなどというおかしなことはない。実は、当時の台湾人のうち20万人は山に、30万人は平野に住んでいたのである。

余談だが、当時の台湾でいちばんの資源は鹿だった。台湾産の鹿の皮がとても綺麗だったので、日本の武士は好んで兜の飾りにしていたという。

■台湾に来たがらなかった中国人

 オランダ人は台湾を統治するために、中国から労働者を輸入する。その数は7千人から8千人で、50万人の中の8千人だ。人口の1.6%にすぎない。

 鄭成功が清に負けて台湾に逃げてきたのが1661年であるから、オランダの統治は38年間続いたことになる。今、台湾人が中国人の子孫であり後裔であるという根拠は、鄭成功がたくさんの中国人を連れて海を渡ってきたことに求められている。しかし、1661年の台湾の人口は62万人であり、中国からやってきた鄭成功一族と彼の軍隊はその中のたった3万人なのである。

 その一族が台湾を統治したのは22年間で、清朝によって滅ぼされた。当時の台湾の人口は72万人になっており、そのとき清朝が連れてきた軍隊はほんの数千人だ。なぜ中国人が台湾に行きたがらないかというと、当時の台湾はまさに瘴癘の地だった。瘴癘とは風土病のことだが、マラリアをはじめ猩紅熱、腸チフス、百日咳など、ありとあらゆる伝染病が台湾に蔓延していた。「台湾に10人行けば7人死んで1人逃げ帰る。残るのはせいぜい2人」という中国の諺が残っているほどだ。

 実際、清朝は2百年のあいだ台湾を統治するが、その間、統治者は3年交替だった。3年交替の統治者で生きて中国に帰れたのはほんの数人、10人を超えていない。もちろん統治者としてやって来るわけであるから、いちばん良い食事、いちばん良い環境、いちばん良い住まい、つまりいちばん良い衛生状況を保てたはずだったが、その彼らがほとんど台湾で死んでしまうほど台湾の風土病は怖かった。

 そして、1895年に日本が台湾を領土としたときの人口は250万人だったが、清朝出身者のほとんどが中国に引き揚げている。だから、このように歴史をたどってみれば、われわれ台湾人が漢民族であるという認識の間違っていることがよくわかるのである。

■税金のために漢民族になろうとした原住民

 清は、いろいろな階級に分けて台湾人を統治した。漢人、つまり漢民族しか苗字を持っておらず、原住民のことは、野蛮人を指す「蕃」を使って「生蕃」「熟蕃」と呼んだ。この戸籍制度は、日本の統治時代まで使われた。

熟蕃というのは漢民族と一緒に住んでいる、人を殺さない野蛮人を指す。山に住んでいる台湾人は首を狩る。そのことを我々は「出草」と言う。自分が一人前の男であることの証明として人の首を狩り、狩った首はお飾りとして自分の家の前に棚を作って並べておく。この首の数が多ければ多いほど立派な男ということになる。私のなかでときどき血が騒ぐのは、その遺伝子のせいかもしれない。

 生蕃には重税が課せられ、熟蕃はやや軽い。漢人はいちばん軽い。そうすると、熟蕃は競って漢人になろうとする。そこで、当時の清朝は「では、あなたの名前は林にしましょう。あなたは王にしましょう」と苗字を与えた。苗字のない原住民は競って苗字のある漢民族になろうとしたのである。生蕃もできるだけ熟蕃になろうとした。だから、台湾人は漢民族であるというのは統治者の政策によってつくられた虚像でしかない。要は名前を漢人風にしただけのことであり、表面だけを見て漢人と言っていたのである。

■血液学からも証明

 台湾の人口は、1624年の50万人から1945年にはざっと6百万人になった。環境などを考慮すると、その成長率は非常に合理的な数字である。清朝統治の2百年間には、台湾に渡るなという禁止令があった。それは、台湾が非常に長いこと海賊の巣になっていたので、人が増えることは好ましくなかったからで、できるだけ台湾に渡らせないようにしようというのが清の姿勢だった。

日本が統治した当時の人口は250万人で、もちろん日本統治の50年間に中国から台湾に移住してきた中国人はほとんどいなかった。正常な人口の成長で、50年間で6百万人になった。1945年に台湾から引き揚げた日本人が40万人いたから、総数としては640万人ということになる。その中にもし中国人がいたとしても、ごく僅かなのだ。

血液学的調査にもそうだし、台湾の馬偕記念病院の血液学の教授である林媽利先生は人間のリンパ球の遺伝子を調べて、すでに台湾人と漢民族の遺伝子がまるっきり違うことを証明している。

台湾人は漢民族ではない。

『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html


B29と焼夷弾

B29と焼夷弾

本土空襲図

本土空襲図

東京空襲焼失地図

東京空襲焼失地図

東京空襲一覧

東京空襲一覧

汚名への反論 No8 聖娼の住む街 

聖娼の住む街 
山西省の朝鮮人娼婦 戦場の美「慰安婦」に敬礼
  元造(つくる)兵団陸軍中尉 冨田茂男(福島県 80歳)
  昭和史研究所會報 第57号 平成14年1月10日号

◆第一話 運城の夜は更けて
 昭和十九年六月発動された西北河南作戦は、中国山西省から、黄河を越えての進撃であったが、霊宝県草廟で右膝関節部に砲弾破片創、右足脹脛部に貫通銃創を受けた私は、陝(せん)県の野戦病院で応急手当を受けた後、再び黄河を渡って、山西省運城陸軍病院に後送された。負傷者を満載したトラックは走り通しで、夜明けに運城に入った。トラックの荷台の上から重厚で大きな軒々が見えて、それだけで大きな街であると感じられた。長い間見た事のない電灯の光がまぶしく、甲斐々々しく働く日赤看護婦達は、これ又何年かぶりで見る大和撫子で、天女のように優しく美しい。裸にされて身体を拭いて貰うにも、二ヵ月近くも風呂に入っていないので、垢だらけで恥ずかしい限りである。
 運城の陸軍病院は清潔で大きくて広い。温堂で負傷した若菜君も先客で来ていた。毛シラミがひどいので、亜鉛軟膏とやらをもらい、足をあげての一番風呂と洒落れたが、死んだ毛シラミがうようよと浮いたので、後から入った者はさぞや迷惑だったろう。
松葉杖での歩行は困難ではあったが、痛みは大した事はなく、若菜君とは別室だったが、将校病室は先任が軍医大尉で、後は中尉二人と同階級が二人という暢気なもので、美しい看護婦がしょっちゅう来てくれるし、戦野の疲れも一挙に脱けたようである。まさに天国と地獄の相違である。たゞ最初についてくれた看護婦が、いつの間にか代わってしまったのが残念であった。
 ところがよくしたもので、早速、朝鮮の所謂慰安婦達が三人連れで、毎日のように見舞いに来るようになり、二十歳そこそこの彼女達に、故郷の娘達の面影が重なったりもした。メンバーは変わる事もあったが、光ちゃんという娘が、童顔の抜けきらない、あどけない顔をしていて、私の一番のお気に入りだったが、この子だけは毎日来てくれて、帰るまで私の枕元で団扇で風を送ってくれる。運城の夏はじっとしていても汗ばむように蒸し暑い。PRも兼ねたサービスであろうが、温かな心も感じられるのである。ニカ月足らずで入院下番となった夜、女達に聞いていた偕行社に行って、これ又何年かぶりのビールの酔いは早かった。
 今考えると、街灯も乏しい暗闇の運城の街で、何とか偕行社の場所が判ったのが不思議である。八月だから運城は夜も暑い。それでも火照った頬に夜風は気持ちよく、ぶらぶらと兵姑宿舎に戻ろうとした道すがら、路傍でなにやら言い合っている、二つの黒い影が見えたので立ち止まった。あまり歯切れがよいとはいえないが、「朝鮮ピー、朝鮮ピーと馬鹿にしないでよっ、天皇陛下、同しじゃないか」という台詞が聞こえ、「貴様!」の怒声と共に、突然飛び出してきた黒い影が、私に纒わりついた。
 「助けて」と黒い影が小さく叫んだと同時に大男が現れて、私に眼もくれず、「こっちに来い」と女に手をのばしてきた。酒の臭いがむんむんとする。反射的に私の手は男の横面に飛んだ。ビールの酔いと、河南作戦で、初めて修羅場をくゞり抜けてきた気負いが、そうさせたのであろう。
 一瞬、男はよろめいたが、直ぐ立ち直って「貴様! 何者だ! 俺は憲兵だぞ」とわめいた。「憲兵なら女を追いまわしてもよいのか。俺は東野部隊の冨田少尉だ」と怒鳴りかえす。病院でも東野部隊の名前は、河南作戦の活動で有名だったので、かなりの威嚇を期待したのだ。「トミタソウエ?」と女は私を見上げる。(朝鮮半島の人たちは、日本語の濁音と、ヨウ音が苦手らしく、少尉がソウエと聞こえる)星明かりで見れば、何とその女は、毎日病院に来てくれていた光子ではないか。
「どうしたんだ」と問いかける暇もなく、男は無言で拳銃を突きつけてきた。軍装はしていないし、まさか、撃ちはしまいとは思ったが、軍刀の柄に手をやる。だが相手は酔っているし、軍刀を抜けば発射されそうなので、抜くにも抜けない。
 折角作戦で生き残ってきたのにと、じりじりと後退した途端、ハタハタと入り乱れた靴音がして、銃を手にした二、三の兵が駆け寄ってくる。「六十九師団の巡察将校だ。何をしておる」と、咎める声も聞こえてきた。男は忽ち身をひるがえして暗闇の中に消え去った。私は思わず敬礼したが、馬上の巡察将校は、何と保定幹部候補生隊で、隣の寝台だった浅井少尉(長野県出身)だったのには吃驚した。彼は勤務中なので、一献酌み交わす事も出来無かったし、彼がその後どうなったか知るよしもない。それっきりで永遠の別れになってしまうのだから、誠に侈いものである。今思うに、教育した初年兵は別として、戦友の出身地の詳しい住所など、誰しもが書き留めておこうともしなかったのは不思議に思えてならない。皆んな生還など考えていなかったのであろうか。
 逢うは別れの運命とかいわれるが、この小編に登場する戦友達を初め、在任中何らかの接点があった数多い戦友達、更に私か教官として接した初年兵達、戦場に於ける出会いというものは、何時も奇遇であり、戦友会等の組織にでも入っておれば兎も角、すべて逢った時が別れで、その後は永遠に巡り会えないという事は、何と儚(はかな)く淋しい事であろうか。我々が黄泉とかに行った時、そのような儚(はかな)い別れをした人達に、時空を超えた霊力と霊感で、是非再会したいものと思っておる次第である。
 翌朝、原隊復帰のため運城駅に行ったが、大豪雨のため橋が落ちて、臨扮(りんぶん)付近で列車は不通との事、天の助けかと嬉しくなって、その足で病院に向かった。今日、病院で、演芸大会が開かれるのを知っていたからである。軍隊という所は、いろんな経歴を待った人の集合体なので、歌や踊りがずば抜けて上手い人が居るもので、それが楽しみだったし、或いは、光子達も来ているかも知れないとの期待もあった。会場は既にいっぱいで、最後尾で立ち見するほかはない。

 あの花、この花、咲いては散りゆ
 泣いても止めても、悲しく散りゆ
 散らずにおくれよ、可愛い野花よ
 わたしは、あてない、旅ゆく乙女

 曲名は戦後に知ったのだが、西条八十の作詞になる名曲を、何回か私の病室にも来た事のある、礼子と呼ばれていたスタイルのよい長身の女が、すばらしい歌声を披露してくれたのには吃驚した。それは彼女達の現実を象徴しているようでもあり、身につまされるものがあった。
 何時のまにか、昨夜の光子が傍に来ており、「トミタソウエ、夕べはアリカト」と。昨夜のいきさつを尋ねても、しょうもないが、憲兵などと詐称した酔漢に絡まれたらしい。
「お前、ジュン県に来ないか」「ジュン県て何処?・」「ジュン県て太原の北の方だ」「行きたい。連れて行って」といわれても、彼女達から、お父さんと呼ばれる鮮人のジヤングイ(娼家の経営者)に、多額の金で交渉しなければならないだろうし、一少尉の身分でそんな事が出来る筈は無いし、金など勿論持ってる訳はない。
 そのまま、何も言う事も出来ず、さりげなく、黙って別れるしかなかったが、純情だった彼女達が、今、何処でどうしておるのやら、まさか、慰安婦訴訟などには参加しては居まいと思うが、何日までも思い出に残る、戦場の女達である。
 今もなお、搦々として哀切を帯びた歌声が、聞こえてくるような気がしてならない。

 あの雲、この雲、日暮れにや帰る
 静かな谷間へ、楽しい我が家に
 いつの日帰ろう、恋しい故郷
 わたしは惨い、さすらい乙女よ。

 彼女たちは普通、総称的に朝鮮ピーと呼ばれ、(日本人娼婦も同じく日本ピーであり、中国人のそれはチャンピーで、私娼である中国人は小盗ピーと呼ばれた)従軍慰安婦などという言葉はその頃は無かったし、軍の庇護を受けていたのは事実だが、すべて鮮人が経営する娼家の娼婦だったのである。ピーとは中国語で、女性の陰部を意味する詞なそうだが、強制連行などという、暗い陰影は微塵にも感じられなかったし、勿論、監視などある筈もなく、彼女達は運命を甘受し、明るく朗らかに、而も逞しく生きておって、兵隊に数倍する報酬を得て、実家に仕送りなどもしておったらしい。

◆第二話 さらば!! 山西
 慰安婦達との私の関わり合いは、これだけでは終らなかった。昭和二十年に入ると戦局はますます悪化し、それに伴って、比較的安泰であった中国戦線も、部隊の移動がしきりとなり、私も今までの中隊を離れて、大隊本部付きとなったのである。本部付きとなると、第一戦で戦うことは少なくなるが、事務的雑用が増えるのである。ジュン県にも時々出張しなければならない。ジュン県は、兵団司令部の所在する大きな街である。そのおかげで、ジュン県から大隊の警備地に、出張サービスすることになった慰安婦達の、道案内兼護衛引率をすることになったのである。一行五人の慰安婦達のお供である。
北同蒲線(きたどぅほ)の原平(げんぺい)から列車に乗る。
列車は殆どが中国人であるが、この時は大分空いて居って、伝令と私か向き合って座ると、早苗と呼ばれていた一番若い子が、私の隣りに座った。隣の席も四人の彼女達が占領した。
 この列車行では対照的に、戦後日本に進駐してきた、米軍のことが思い出される。殺人的な満員電車に乗らねばならぬ日本人を尻目にかけて、特別仕立ての、今で言うグリーン車の、而も四、五人ぐらいしか乗ってない専用列車に、ふんぞり返っていた彼等の姿である。
 現在、日本軍の事となると、すべてを悪し様にいう人が居るが、当時の中国に於ける日本車は、部隊の移動は貨車であり、単独の時は勿論中国人と同じ一般車で、満員の時は将校は立っておるのが当たり前で、何の違和感も感じなかったのである。
 それは兎も角、この時は割と空席があったが、彼女達は何の屈託もなく、列車の旅を楽しんで居るように見受けられた。なにやら判らない朝鮮語でお喋りしているので、悪口を言われているのかも知れない。そのお喋りも長道中に飽きてきたのか、小声で合唱を始めた。

 厭なお方が来る時にや
   三日前から頭痛い
 好きなお方が来る時は
   十星先から靴の音よ
 私のスーチャン知ってるかい
   粋な陸軍少尉殿
 今日も昨日も弾丸の中
   討伐作戦で苦労なさる

 恐らく、洒落気のある日本の兵隊の誰かが作った、戯れ歌なのだろうが、軍隊で粋なと言えば、上等兵か中尉に決まってるのだが、私へのご愛想だったのだろう。内地なら、早速アイスクリームなど買ってあげる所だが、残念ながら、中国では駅も車中にも売店はない。なお、いろんな兵隊ソングも歌ったし、本場の「アリランの歌」も教えてくれた。
 その後、彼女らは大隊本部のある五台を足がかりとして、何日かずつ、分散警備に就いている四ヵ中隊の拠点を慰問して廻ったのである。勿論警護付きである。八路に捕まれば、日本人は勿論のこと、韓国人とて拉致されるか、虐殺されるしかないのである。それでも商売熱心というのか、使命感に燃えてるというのか、山間僻地であっても嫌がる様子はなかった。ジュン県に帰るときも又私か引率したが、この時は列車が満員で、バラバラに乗る外無かったので、余り印象に残ることはなかった。
 昭和二十年の六月、私は本土決戦の中隊長要貝として、造部隊を離れることになった。ジュン県での送別会の夜、彼女達も和服を着て歓待してくれた。涙を流して別れを惜しんでくれたのが思い出される。
 「聖娼」と題する著書があり、「聖娼」とはバビロニアなど、古代社会に実在した女性で、神殿にいて、そこに詣でる男性と交わった、「聖」と「性」を具現した女性なのだそうである。父権的な価値を中心に置いた社会に移行するに従って消滅する。ユング派の分析家である著者、ナンシー・クォールズーコルベットは、聖娼を無意識の中にある元型と位置づけ、現代人の実際の夢を分析しながら、聖娼が現代においてもつ意味を考察する。そのイメージを豊かに感じる事は、現代人が生命力を取り戻す事だという。同時に強固な父権社会で女性性を回復する事だ、と説いているが、私にとっては、彼
女達こそ聖娼だったに違いないと思えるのである。
 この結語として、戦記作家、伊藤桂一先生の著書、『草の海』に述べておられる文言を引用させていただく。
 【戦場慰安婦とは何だろう。私自身の考えで言えば、日本の帝国陸軍大敗戦のなかに、戦場慰安婦の交じった部分だけが、戦争のなかの「美」であったような気がする。香り高く、価値多き慰安婦たちに対し、私は、衷心から敬礼せざるを得ないのである】とー。

 山西去りて 行く身には
 何んの来練は 無いけれど
 ジュン県城の灯り 何日までも
 吾が思いでの 虹となる

 城壁はるか 霞みゆき
 消えて儚(はかな)い 小夜嵐
 見果てぬ夢と あきらめて
 涙で送る 支那娘

 列車の窓に 流れゆく
 夕暮れ迫る 大行(たいこう山脈)の
 紅染めし 山河が
 燃える瞳に 消え沈む

 さらば峠県よ また来るまでは
 暫し別れの 涙がにじむ
 恋し山西の 山々見れば
 空の彼方に 北斗星

汚名への反論 No6 .7 歴戦の元将校{慰安婦問題を語る

歴戦の元将校 慰安婦問題を語る (上)
軍隊と性の機微を思うべし
   元菊兵団・歩兵大尉 井上咸 (川崎市 86歳)
    (平成四年二月十五日講述)
  昭和史研究所會報 第53号 平成13年9月10日号

 戦争中の日本軍の慰安婦・慰安所の問題で、最近韓国側から非常に激しい、しかも執拗な攻撃を加えて来ております。これに対する日本側の対応は、非常にあいまいで、しかも消極的ですね。先方の全く言い放題という状況で問題が推移している様です。そして日本内部におきましても自虐的な読物、情報が氾濫をいたしまして、これに乗せられたかのように一般のマスコミが踊り、何がどう悪かったのかという問題が凍結したまま問題が感情的にエスカレートしていくというような状況のようです。今までのいろんな事、情報を総合してみますと大体、次の様になっているんじゃないかと思います。非常に極端な事ですけれども、先ず戦争中日本、あるいは日本軍は契約的にあるいは組織的に朝鮮人の若い女を一般人と全く見さかいなく突然襲ってつかまえ、戦地に送った。強制連行していった。そして日本軍の兵隊の性の慰みものにしたんだという、全く天人共に許されざる非人道的扱いをやったではないかと。そうしてそれが戦後になっても国として謝罪らしい謝罪もなければ、一銭の補償もしない。簡単にいうとそういう事が中心の様です。

◆この儘では汚点を残す
 もし彼らの言う通りがそのまま通っていきますと、戦争中の実態を知らない日本と韓国の両方の若い世代が、これを信じ、韓国側はいよいよ日本に対する憎悪の念がわきたつでしょうし、又日本側の若い連中も、何と日本の国はひどい国であったか、又軍隊はひどい事をしてくれたんだという気持ちになりますし、恥づかしい汚点が歴史上に定着してしまうんですね。その事が私は非常に当時の当事者の一人として、恥づかしく、申し訳なくて、いてもたってもおられないような状況で最近の新聞を見ている訳です。
 まだまだ実際に戦争を体験して何かの形で慰安所問題を知っている人間が、数は減ってきていますが、各所におるわけですね。特に我々のような一市民ではなく、その発言に責任と影響力を持っているような国会議員などが、民族の恥になるような問題に対してどうして沈黙を守っているのか、私は腹ただしく思うわけです。こういう問題を語る事は、非常に面倒な側面があり、又自分の恥もさらす事になりかねないので、おそらく皆黙っているのだと思いますけれども、そういう事に僕はいてもたってもおられないような腹だたしさを感じる訳です。そこで私のような非常に声の小さい者ではありますけれども、自分の体験した中の事実関係だけでも伝えて、何かの参考にしていただきたいと思ってこういうテープを吹きこんでおるわけです。

◆満支から南方まで転戦
 そこで、こういう問題については自分自身も恥づかしい面がでてくるので、一般的には匿名にするようですけれども、それでは腰が引けて迫力もなく、卑怯な事と思いますので、簡単ではありますけれど私のだいたいの経歴と立場というものを申し上げたいと思います。 私は、大正四年、朝鮮の京城、現在のソウルで生まれました。私の父が日韓併合当時、伊藤博文たちと共に朝鮮にわたった役人の端くれで、それで朝鮮の各地を点々といたしまして、従って私の兄弟すべて、かの地で生まれて育っております。私自身も二十三で学校を出るまで朝鮮におり、学校もすべて朝鮮ですごしております。昭和十三年に学校を出るとすぐ、確か二十三の時だと思いますが、現役の兵隊として軍隊に入りました。そしてただちに北満の東部国境付近におりました部隊で、初年兵の教育を受けまして、以後幹部候補生に採用され奉天の予備士官学校を出まして、ただちに当時南支派遣軍といっておりましたが、南方の広州辺りに集結しておりました歴戦の部隊に配属になりました。その付近で局地的な作戦あるいは福建省における福州作戦、あの付近の地域におりましたけれども、大東亜戦争が始まると同時にマレー半島に上陸し、それを縦断して、シンガポールの総攻撃に参加いたしました。その後ビルマに行き、終戦までそこにおりまして、終戦を迎えて約一年間の抑留生活をして、日本に帰って参りました。私は歩兵でありましたので常に第一線の戦闘部隊におりました。最初の頃は、小隊長、中隊長、それから情報関係、それから宣撫関係、ある時期におきましては大隊副官として、実際に慰安所の面倒を見たという時期がございます。それから地域的には最初は満洲、それから南支那それから福州関係ですね。それから大東亜戦争後はマレー、シンガポール、ビルマと各地を転々としながら第一線及び後方の状況もある程度知っております。その他途中で戦傷と病気の為に、ある時期には、野戦病院から兵姑病院、陸軍病院と転々といたしました。

◆軍隊国民が一体だった
 その場合にいわゆる戦地における後方基地、大きな町ですね、例えばラングーン、シンガポール、バンコックだとか、サイゴンだとか、そういった町の状況や慰安所の問題も若干は見聞しておりますので、多少の知識は持っておるつもりであります。こういう人間ですからこの慰安所の問題についても若干のことを語っても必ずしも不適当な人間ではなかろうかと思っております。むしろその状況を知っている我々が、早く実態だけでも伝えておくことが一つの責任ではないか、とさえ思っている訳であります。
 前置きはこの位にして話を進めます。慰安所の問題を論ずる場合に先づ注意を要することは、当時とは非常に状況のかわった現在の時点を元にして判断することはまちがいだと思うわけです。戦争に負けた日本ですけれども、だいたい戦争だとか喧嘩だというものは双方に言い分かあるのですが、一旦負けてしまえば、負けた方が何もかも悪いと、全部罪をかぶって悪者になるんですね。敗戦後の日本で、国の悪口、軍隊の悪い所を話し立てれば、飯の種になった。けれども当時はそういうものではなかった。当時は男の子で健全な心身の持ち主であれば必ず、兵役の義務を果たしたわけで、兵隊になった者は一家の名誉、男子の本懐ということで一旦緩急あった場合には一身を捧げて国の為に戦った訳です。
 そういう者に対しては国民が感謝と尊敬の念でしっかりと銃後で支えていた。そういう一体感があった。戦後は徴兵を忌避したことを自慢話に語るいわゆる文化人らしい者がいる わけですけれども、当時としてはとんでもない事だった。
 今丁度二月ですが、二月で思い起こすことは、二月十五日というのはシンガポールが陥落した日なのです。当時、私はシンガポール攻撃軍の最前線におりまして、その日はいよいよ最後の夜襲をやるということで準備していた。私の中隊は、マレー半島に上陸した時は、だいたい二百名前後の者かおりましたが、二月十五日には将校は全部やられ、私が一人残っており、兵隊が四十名程度おりました。その連中はいよいよ今夜は最後の突撃をするんだといってかまえておりました時に幸いなるかな、向こうの方で手を上げた。陥落した。その時の夜の事を思いますと午後から皆、飛び出て、お互い抱きあって涙を流した事を覚えております。後で知ったのですが、内地では、全国津々浦々提灯行列をして陥落を祝ってくれたそうです。そういった時代なのです。軍隊に対する国民感情には、現代とは全く違ったバックグランドがあったんですね。

◆昔売春業は公認だった
 次に、慰安所の問題ですけれども、戦前は好ましいことではないけれども、遊廓という形で売春業が法的に認められた商売だった。これは非常に暗い面を持っていますけれど、それなりに社会的に一つの役割を果たしておった訳です。一般の者はもちろん、軍隊も日曜日あたりは、皆それを利用していた。そういう時代なのです。各国でも何かの形で売春は残っておりますが、当時は日本では法的に認められた商売であったわけです。そういう事が今では忘れられているのではないか。韓国からの訴えをきいておりますと何か、韓国とか朝鮮とかいった外国の人を日本人がひどい目に合わせたというように聞こえますが、当時、朝鮮人はいろいろ問題はあってもれっきとした日本国籍を有する日本人であったと。それは台湾入もそうですけれども、それが今では何か全く異った外国人を日本人が虐待したという感覚で受けとられるような言い方をしておりますね。当時はあくまでも日本人の中の問題でありまして決して外国人との問題ではない訳ですね。植民地ですから、植民地の人間と本国との人間の間に何かしらの差別があったというのは、厳然たる事実でありますけれども、世界全体を見ても植民地と本国が完全な融和をするまでには大変な経緯や、軋轢、それから長い年月を要するものでありまして、日本の場合の三十五、六年間の朝鮮統治が起こした差別問題については一括してすでに戦後行なわれた日韓の基本条約その他で一応のケリはついているわけです。個別の問題として、いま慰安婦の問題が上ってくるということに、別な意味が感じられるわけです。

 だいたい以上のような事を頭におきながら進めてまいります。最初申し上げましたように最初は韓国から韓国人の慰安婦は日本の為にひどい目に合ったということから問題を発したのですけれども、だんだん問題が拡散していくうちに、何か日本全体の空気をみておりますと、軍隊の慰安所を使ったもの、慰安所そのものがおかした問題だとなりまして、その中で朝鮮人の慰安婦が虐待をされていった、しかもそれは国、あるいは軍隊が直接関与したことが悪いんだと、決して偶発的な、個別の問題ではない、軍の関与そのものが問題であるという話になってきておるようです。この軍隊と慰安所の問題をつきつめていきますと、結局は、戦争と性の問題という大きなテーマにぶつかるわけです。

◆性欲処理は人間の機微
 ご存じのように歴史は見方によっては、戦争の歴史でもあるわけです。戦争といいますと、必ずイメージとして、略奪、暴行がついているわけですね。戦争とそれに関わる人間の性欲の問題は非常に人間的な、暗いけれども人間的な重大テーマです。私が実際に戦争に行ってからの体験談をお話ししますけれども、その前に子供の頃にこういう話をきいた事があります。それは日露戦争の乃木将軍が二百三高地を攻めあぐんでいる時に、どうも兵隊の士気があがらないということで、内地の遊廓の女を貨車いっぱい送れというようなことが言われたとかいう話を子供の頃聞いた。当時は我々、子供がきく位ですから一般の大人の世界では、こういったものが明確な話として、残っておったわけです。現地に私か初年兵として北満のソ連との境を接している小っちゃな部落におりました時に、初年兵ですからあまり深くは詮索致しませんでしたけれども、演習の帰りなどで、小っちゃな部落でしたけれども、赤い敷布団が時々干してあるのがみられた。今に考えれば、ああいう小さな所でも慰安所的なものが、あったんだと思います。
 見習士官になって南支派遣軍に行きました時、先づは着任と同時に、聯隊長が、二十名程いた我々見習士官を前にして訓示した時にこう言った事を覚えています。「お前らは若いからあまり近よるな。しかし我々は(ということは聯隊長クラスですね)性交常習者だ(頭に残るのですがSEXにずっとなじんだ者だということですね)性交常習者はしかたがないが、お前達はああいう所に近よるな」という話を訓示の中でしましたね。非常にびっくりしたわけです。
 それからどんどん前線の部隊に行きました。その時に、新しく内地から着任した大隊長がおりました。今度は歴戦の部隊でしたから広州湾、バイヤス湾を経てきた古い将校を前にして新しく内地から着任したチャキチャキの大隊長はこの連中を叱った。「国軍の将校たる者がこんな不潔な所に出入りするのはけしからん」という様なことを皆の前で訓示しました。それが終りまして歴戦の将校達が三々五々解散していく時に、私はこういう事を耳にしました。その連中は「何だとあの内地から来た青二才。あんな訳のわからん事をいって」と非常に軽蔑の言葉を吐きながら散会していった事を覚えています。

 それからその後日談ですが、これを言ったらその人に申し訳ないんですけれども、実はそれから何年か後でその部隊長の副官をしたことがあります。その大隊長には好かれたんですけれども、驚くことにあんな清潔感を待った部隊長は私か副官をしている時に、非常に私をてこづらせる程、女の問題に関心がありまして、戦地の生活はそんなにも人間を変えるものなのか痛感しました。広東、当時は大きな南支那の町ですけれども、そこを歩いている時に街角である日、日本のかわいい女の子を見かけた。その時に我々を引率していた古い将校が冗談だと思いますけれども、「お前、あんなもんに手を出すなよ。あれは師団長の直接のお抱えだよ」という事を話したのを聞いております。これは事実かどうか知りませんけれども、おそらくそれと似たような事が当時あったのではないかと思われます。それ程戦地における抑圧された性と、その処理をどうするかという問題は、下は一兵卒から部隊長、師団長、軍司令官に至るまで全く同じ切実な問題であったと思いました。

◆慰安所なき場合の悲劇
 そこで私は率直に軍隊における慰安所そのものを不潔だといって非常に罪悪視するものがおるならば、私は次のことを反論したいと思います。それは、健全な若い肉体を持った兵隊が一身を捧げて国のために前線に戦っている場合、しかもそれが長期にわたった場合に、正当に持つている性欲をどう考えるのかと。そういうものは戦争中は一切持ってはいかんのかと。性欲を持つことは悪いし、そのはけ口を求めることは非常に悪いことなのかということをむしろ反論したいと思いますね。いやそうじゃないのだ、性欲は当然あって然るべきだ、又そういう悩みもあるだろうということを認められれば、しからば具体的にどうしたら良いかということをお尋ねしたいですね。これは本当に真剣に、表には出しにくい問題ではあるけれども軍や国が真剣に考えてやる問題だと今でも僕は思います。

 そういった場合いろいろな方法があると思いますけれど、先ず、強固な意志を持って自制しろという事が一つでしょうね。これは立派な建前ではありますけれども、結局何も具体的には軍や国としてやらないということで委す訳ですね。そうすると凶悪な戦闘下において性欲が暴発するということは止むを得ん事情だと思います。現実にソ連の終戦前後における満洲における暴虐ぶり、これは人々が知ってますね。それから米国の占領軍でも日本に非常にスマートにきたように思っていますけれども、その進駐軍と女とのいろいろな問題があります。それからベトナムの戦線において先日の新聞報道にありましたけれども、米国と現地人の女の捨てられた合いの子が数万人いると言っております。そこでそういった問題に何かしらの手を打たなければいかんだろうと思います。

 その場合現地にある慰安所ならば中国にも(当時支那ですね)現地のいわゆる遊廓みたいなものがたくさんありました。それを利用するということが広東付近で、はやっていたようですけれどもそれが問題ある訳ですね。それは衛生上の問題が第一点、また防諜上、どうしても軍の機密が女の□からもれる訳ですね。もう一つは日本の兵隊が中国の女を買うということはむこうの中国の若者からすると耐えられないということですね。それは反対の立場になってみると分ると思いますが、それでテロ事件がままありましたね。爆弾を投げ込むということが頻発しておりました。そういう問題がある。そして戦争中に相手国の現地の女を強姦するということは大変なことなんで、もしこれをやれば一遍に軍の威信というものは駄目になる訳です。私はある時期に宣撫関係をやりましたが、宣撫の実をあげたと思っておりましてもたった一人の不心得者が現地の女を強姦したという事件がありました時に一遍に宣撫関係はパーになるわけです。それ程深刻な事なんです。現地の女を犯すということは。〈井上咸氏略歴〉大正4年京城に生る。昭和13年京城帝大法文学部卒業。朝鮮殖産銀行人行。同年19一月現役入隊(長崎県大村)、直ちに渡満、関来車第12旅団第46聯隊。15年8月奉天甲種幹部候補生隊卒業(見習士官)。南支那派遣軍第18旅団歩兵第55聯隊へ転属(広州、福州作戦)。16年12月大東亜戦開始と共にマレー半島上陸、シンガポール攻略作戦。17年4月ビルマヘ転身。終戦後ビルマ、雲南諸作戦に参加。21年7月(約一年間の現地抑留後)復員。22年3月大正海上火災(現三井海上火災)保険株式会社。元常務取締役。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 歴戦の元将校 慰安婦問題を語る(下)
  慰安婦は大事にされていた
   元菊兵団・歩兵大尉 井上咸(川崎市 86歳)
   昭和史研究所會報 第54号 平成13年10旦10日号

 そういう事をあれこれ考えますと当時内地で法的に許されておった公認の商売である遊廓業を業者とわたりをつけて呼んで現地で軍の管理下におくということは危険な所ですから警備、その他の保護も必要ですし、不自由な所ですからある程度の経済的な食糧その他の調達について面倒みるということもありましょうし、それから使用についても、ある程度の基準を設けて規制の下に商売をやらすというのは当然であって、現地に呼んだ場合、軍の保護におかなければ、商売はできない訳ですよ。しかもその商売は非常に危険は大きいけれども儲けは大きい。これは軍がどんどん進駐して調子よく進んでいくに従っていろんな種類の御用商人が先を争って進出したわけですね。その一つとして、遊廓業が現地に行ったわけですから完全に商売なのです。軍が直接女を集めて、管理して、商売するような事はあり得ない。私の経験では必ず業者、親方がついてきて、それを軍が丸抱え、あるいはその他の方法で管理する。
こう見てくると何ら悪くない。一番合理的な方法ではないかと私は今でも思っています。

 それで戦争における前線における性の問題というものは、真剣に考えるべきであって、兵隊というものは性欲なんかないだろうと思うこと自体が人を侮辱した非人間的な問題だと思っております。これは私自身でなくて私の非常に親しい戦友から聞いた話ですけども、彼はビルマの進攻作戦の時にある部隊長の副官をしていたんです。それで一応ビルマの截定作戦が終りまして警備態勢に入った時にその聯隊長が彼を呼びまして、彼は今でも非常にまじめなかたい男なんですが、これからどういう風に部隊を処理したらいいか訊いたそうです。彼はまじめな男ですから「早速兵隊の健康維持、軍紀の厳正、次期作戦の準備に邁進せねばいかん」というようなことを言ったそうです。これは建前としては模範解答だと思いますよ。ところがそれに対して「何を言うか。そんな事じゃない。早速女の手配をしろ」と言われたそうです。これは建前ではなく、今にして思えば実際に戦闘をくぐり抜けてきた人の実感だと僕は思っております。軍の慰安婦というものはそういう性格のものであったわけです。

◆強制連行到底あり得ぬ
 この前の新聞記事にも、かつて朝鮮の慰安婦だった人の告白と称するものが出てまいりますけれども、その中でこういうものがありますね。
「(女が)十二才の時に北鮮のある村にすんでいたが、突然日本の警察官と軍隊が部落を包囲して否応なしに二十人ばかりの若い女を連れ去った。それから個室に入れられて日本人の監督しかも外には日本兵が歩哨に立って監視している。そのまま現地に送られて」ということになっている。おもしろおかしく書き立てて、しかも何がしかの意図をもって書かれた全くのフイクションだと思います。例えば、私は朝鮮人と二十三まで住んでいて、朝鮮人の友達やら学生、仲間も今なお交際している人もいる状況で、しかも朝鮮生れで朝鮮に骨を埋めるつもりでおった人間ですから朝鮮に対してはかなりの理解をもっている人間ですけれども、今言ったような事は絶対ありえなかったと思います。ということはですね、満洲事変以来朝鮮総督府が一番苦労したのは内鮮融和ということであります。どうかして早く一体にしたいというわけで、今言ったような突然警察官や軍隊が村を囲んで有無を云わさず若い女を引っ張っていったという事はあり得ないです
ね。私の父も最初申し上げましたように朝鮮の各地で、今でいう町だとか村その付近の責任者となった場合もありますけれども、朝鮮人の知事も、かなりの高級官吏もおりましたし、警察官もほとんど朝鮮人だったと思いましたけれども、そういう中でそういう無法な事ができる訳がない。又その事が朝鮮総督府として許される事ではないんですね。そんなことが今になって尤もらしく語られること自体に僕は非常に意図的な何ものかを感じる訳です。遊廓業者、売春業者が、女を集める時はいろいろあったと思います。これは朝鮮の遊廓ばかりではなく内地の遊廓業ですね、それ自体は陰惨な暗い面がありましてね、業者と女の間にはいろいろあったと思います。これを今になると皆軍隊のせいにしておりますけれどもこの問題は、遊廓なり、売春業そのものの問題であって軍隊とは関係ないですね。

◆台湾人に威張る朝鮮人
 では現地ではどうであったかといいますと、私の見たところ慰安婦は大事にされました。慰安婦には朝鮮人も台湾人も日本人もおりました。現地現地で募集したのもおりました。それは商売として経営者、親方がついていて、その親方と軍との関係だと思います。私が現地で管理したというのは、朝鮮人の親方がだいたい七~八名の女を連れてまいりました。これはおそらく上の部隊からの割当てだったと思いますが、作戦を終わりましてある期間駐留した場合に割当てが参りました。兵隊は喜びまして下にも置かないようなお客さん待遇で、建物を造り、食糧その他の調達にも走り回ったり、警備の面倒もみておりました。朝鮮人は当時は日本人ですから現地の人にとっては日本の女ということになっておりますし、特に台湾入に対しては朝鮮人の方が本当の日本人に近いという感覚でむしろいばっていたような状況がありました。

現地の慰安所が兵隊、軍によっていじめられたとか、むちゃくちゃな待遇をしておったとかいうことは私の経験と見聞の中には出てきませんね。むしろ非常に大切にされたと思います。親方の商売としては、危険だけれどももうけの多い商売だったと思います。私の場合は副官でしたから、慰安所のやり方全部に対して責任をまかされていたわけですけれども、他に軍医が二人いて衛生関係を見ていました。ある時こういう事がありました。当時私は若くて物を知らないといいますか、正義感みたいなものがありまして、調べてみますと親方の取り分か六、四とか、七、三位の程度だったと思います。実際に稼せぐ女が三か四取って六か七を親方が取る。そういう配分だったと思います。今考えるとそれがああいった商売の通り相場だったと感じますけれども、当時私は驚きまして、早速親方を呼びつけて「何だ、実際に働いているのは女ではないか。取り分を逆にしろ、比率を逆にしろ」と云った覚えがあります。その後どういう具合いになったか知りませんがかなり改善されたような気がします。

◆敗走中にも慰安婦稼業
  これは一例ですけれども、その後敗戦の間際に部隊全部が総退却をしてジャングルの中を敗退している時期がありました。その時に昔私達が面倒をみた慰安所の一団が、これはもう親方はついていなかったが、女だけで七~八入が兵隊と前後してジャングルの中を逃げていた。たまたま昔の顔なじみの女かおりましてぜひ連れていってくれと頼まれまして、私は彼女らをかばいながら部隊と一緒に逃げた記憶があります。その時ジャングルの中を部隊がかなり無統制に逃げていったのですが、夜になると兵隊がもうお客さんなんですね、ジャングルの中で。私はその時は本当に人間の性欲の強さというものをあきれる思いで見ました。我々は疲労困億でそんな元気はなかったんですが。逃げていく兵隊をまだ客にとる。その時に、だんだん紙くずになったんですが、軍票を山のように風呂敷に包んで首の上に巻きつけておりましたね。そういうことも今、思い出します。最近、敵の捕虜になって非常にあわれな恰好になった慰安婦の写真がありまして、それらしい説明がつけてありますが、あれは部隊全体が故に包囲されて一緒に捕虜になった時の写真だと思います。私の経験では、だんだん戦況が悪くなりますと慰安婦はまっ先に傷病兵と一緒に後方に下げましたね。慰安婦はそういう具合に皆に大事にされて、当時としては彼女達から恨まれることはなかったと思います。兵隊達は感謝して大事にしていたのが実態だと思います。
 
◆強制は国全体にあった
 この慰安所の差別問題以外に、最近は、強制連行だとか、強制という言葉に強いアクセントをおいて非難がなされている。慰安婦は強制というより業者が女を募集して、一つの商売として稼ぎにやってきた。それに対して軍は戦地の危険なるゆえに警備、衛生管理、防諜、軍紀その他を勘案しながらそういう意味での管理をしていたということであって特別に女のしかも韓国の慰安婦だけを無茶苦茶に扱ったということは絶対にないと思います。当時は非常に戦況が悪くなった末期におきましては、日本全体にいろいろな強制的な措置が取らされた。例えば徴用ですね。これは何も韓国人だけに対してだけでなく朝鮮における日本人、内地における日本人すべてがそうであった。台湾においては高砂義勇軍が出るし、沖縄においては学生その他が第一線に立つ。内地では徴用で工場や炭坑に行き、何も朝鮮人だけが強制的にされた訳ではないんです。徴兵の義務などは最もきつい一つの義務ですけれどもこれは当初、朝鮮人には免除されていたわけです。そういう意味ではむしろ逆差別かもわかりませんね。それを今になって朝鮮人、韓国人という所に、また強制という所だけにアクセントを置いて言ってますけれども、これは日本人全体の問題であって、もし韓国人の慰安婦が問題になれば日本人の慰安婦も台湾人の慰安婦も問題になるし、特に敵国であった日本と激しい戦闘をした中国の女もずいぶん慰安婦になっておりましたが、日本が負けた時にまっ先に中国の方から激しい慰安婦の問題について抗議が申し込まれたはずなんですね。それがそうではない。最近になって韓国がうずうず言うものですからフィリピン、その他の所からも、では俺の方
もという形で出てきている。しかしあまり迫力がない。これは韓国のしかるべき人もあまりやりすぎたという事は知っていると思う。

◆慰安婦20万人の根拠は
 なおかつ、日本側が、どんどん腰を引いてただ謝ればいいと下がっている。この前の総理大臣(宮洋喜一編集部)の談話の中に「耐えきれないような、筆舌につくしがたい、苦痛を与えた事に対しておわびをする」とか言っていますが、商売ですから、別にそんなに大きな苦痛ではないと僕は思いますけど、外交上の儀礼としても向こうの云いなり放題にだんだん認めていくことは非常に恐ろしいことだと思います。要するに向こうの云い放題の証言だとかに対して、ほとんど迫力のあるこちら側の答弁がなされていない。したがって下手をするとそのままが、我々民族の歴史の汚点として、定着してしまうことを非常に恐れる。従って、国会議員のような責任ある地位、しかも発言力を待った人達が、本当に民族の恥になるような事に真剣に立ち上がらないということが腹だたしい。という事です。それからこの問題は日本人の中に向こうの者に無批判に同調しておもしろおかしく騒ぎ立てる連中がかなりいるということと、マスコミもそれに踊らされているというような感じが非常にします。もっと正確なものを集めて、きっちりとしたもので我々を指導するような大新聞の態度があってしかるべきだと思います。
マスコミは最近になって慰安婦は二十万人か三十万人というような事を報道していますけれども、そういったとてつもない数字をどこから割り出したのか。軍隊でも一ヵ師団が二万~三万程度のものだったと思いますけれども、そうしますと二十万~三十万の慰安婦といいますと十ヵ師団の人数なんです。そういう慰安婦が日本の兵隊にサービスしたということになりますけれども、ご承知のように直接敵と接している、第一線はほとんど慰安所は利用できなかった。たまたま作戦で後ろに帰って、しばらく休養している場合とか、あるいは後方基地の兵隊が利用する訳で、そういった人員がどれだけ戦闘部隊を除けてやったのか、そうしますと何十万という慰安婦がどこでどういうふうになったのか想像もつかないような人員ですね。

◆真剣に考えよ軍隊と性
 私か一番いいたいのは、慰安所の問題を考える場合に一番欠落している視点は本当に健康な若い男子の集団が国家の為に一身を捧げて戦っているそういう人達の当然持っている性欲の吐け口を本当に考えているのかと、国や軍が当然真剣に考えて、又一般の方もその付近を充分に考えていかなければいかんということの視点が欠けているということです。例えばアメリカ軍あたりは非常に豊富な軍資金と兵力を持っておりますからしょっちゅう部隊を前線と交代をさせていますね。映画にもでてきていますが交代した兵隊は後ろの基地に帰って非常に楽しい目にあっているわけです。日本はそれ程の余裕がなかったと思いますね。私の個人の事をいって恐縮ですけれども、昭和十三年に初年兵から始りまして昭和二十一年に帰ってくるまで一回も満期の機会はありませんでした。ほとんど前線に釘づけになっていました。時には作戦ごとに後方に下がって若干の期間は準備期間とか次期作戦の準備とか訓練期間がありますけれども、だいたい前線にはりつけですね。ひどい時には十ヵ月位はもうジャングルの中で敵とずっと対しておりました。そういう状況です。非常に期間として長いんです。そういう人間がたくさんおった訳です。そういう人達の性欲のことを考えているのか。私としてはできるだけ自制して自己管理をきちっとしてやっているつもりですけれども何かの時にいろんな形で暴発するのはやむを得ないと思いまずね。最近の報道で、日本人が先頭に立って慰安所問題を国連の人権擁護委員会に提訴しているとかきいておりますが、もし日本軍の慰安所の問題をあげるのならば、もっともっと世界史的に見て戦争史の裏面の虐殺暴行、各国の軍隊と女の問題をもっと深く切り下げる必要があるのではないかと思います。私は最近の日本のように、性の解放が叫ばれ、性風俗の乱れた時代にあって、戦争にたずさわる者の性欲の処理を正面から取り上げる論議がなされないということが奇異に感じられます。この問題についてはもうすでに時期的に遅かったという気がしますが、今からでも遅くない、日本政府は本当に勇気をもって正面から取り組む必要があると思います。そうして本当に謝罪反省すべき点は十二分に謝罪反省していいと思いますが、何もかも向こうの云いなりに認め、ただ謝っていくというような対処の仕方は今後ともまずい。と同時に望みたい事は、韓国側においても感情的に煽られることなく冷静に抑制のきいた節ということを本当に望みたいと私は思います。

汚名への反論 No5  山西省太原の慰安婦

山西省太原の慰安婦
 悲惨な状況見た事なし「感謝」で接した皇軍兵士
  第六十二師団独立歩兵第十三大 第一中隊上等兵 小島幸雄(守山市 78歳)
  昭和史研究所會報 第41号 平成12年9月10日4号

 (前略)扨(さ)て私は当年七十五才にて滋賀県議会議員連続二十四年その間議長も勤めさせていただき現在は県の選挙管理委員長を勤めさせていただいております。
 私の軍隊歴は昭和十六年徴集現役兵にて昭和十七年二月より昭和十九年七月迄主として中國山西省若しくは河南省に歴戦、最後の京漢作戦(通称河南作戦)に参加後、昭和十九年八月十六日上海呉訟港出帆、同二十日沖縄県那覇港上陸、同二十年三月末米上陸軍を迎え撃ち、現在の浦添市嘉数高地の戦闘で同年四月九日朝機関銃射撃中(筆者は軽機関銃射手-中村)迫撃砲弾の破片で全身三ヵ所に負傷致し出血多量で不思議に生き永らへました。私の所属中隊は中隊長以下九割方戦死、結局最後迄生き残った者は中隊全員百六十余名の内僅かに四名だけでございます。伊藤正徳著『帝國陸軍の最後』(Ⅳ特攻篇)の百七十二頁~百七十三頁に私の所属致しておりました第六十二師団独立歩兵第十三大隊(長・原宗辰大佐)第一中隊(長・青木正暢大尉)の米戦車相手の戦闘ぶりが記述されております。百七十二頁六行目の一個中隊が十数名に減って了った部隊もあったが……というのが私等の中隊をさしております。
 右の戦闘状況は京都新聞″防人の詩‘に悲運の京都兵団証言録に連載され、若杉幸雄上等兵が私のことです。若杉は旧姓です。御一読いただけましたら大変嬉しく存じ上げま
す。
 扨て私の意見でありますが、先ず。”従軍慰安婦”の問題ですが、先ず第一に、”従軍慰安婦”と言う呼称そのものが先生の御説のように不適当で戦中はそのような呼び方を致しておりません。従軍看護婦や従軍記者とは全く違います。軍の動員令に基いて軍属として従軍した人とは違い、遊廓の経営者やそれに類する人に誘われた戦争売春婦で職業として金銭で兵隊相手に春を売った女性のことです。私達は彼女達のことを日本ピー、朝鮮ピー、中國女性のことをチャンピーと呼んでおりました。
 又彼女達のいるところを「慰安所」と言っておりました。
 昭和十七年夏頃山西省太原市に糧秣受領等に山の中からトラックで出てゆきますと二時間余りの外出が許可され、彼女達のいる慰安所へ行くのが何よりの楽しみでした。その為ショートタイム(せいぜい三十分以内)朝鮮女性が当時の金で一円二十銭、中國女性が八十銭でした。日本女性は将校専門で兵隊はその地域に出入出来ませんでしたので、私は専ら朝鮮の彼女と遊びました。
 突撃実行する前に必ず前金で金を沸います。その他に彼女の機嫌を取る為に金の他に下給品のタオルとか花王石鹸等を持っていって彼女に与えました。
 彼女達は夫々京子とか花子とか都とか兵隊の覚え易いように源氏名で呼んでいました。
假令(たとい)三四ヵ月に一回でも馴染が出来て、兵隊達は寧ろ彼女達に感謝の気持を持って好意的に接していたものであります。どの兵隊も懐中には幾らも金を持っておりますのでタダで遊んだような兵隊は私の知っている限り一人もおりません。又若し一人でもそのような不心得の者がいた場合は彼女達が憲兵隊へ訴えましたら首実検をされその兵隊は大体一週間か十日の重営倉に入らねばなりません。上記のことについては外出の前に週番下士官から念を入れて注意されたものです。又彼女達も商売上手というか朝鮮の民謡(アリランの唄等)を歌って聞かせて呉れまして、彼女達もそれなりに楽しく働いていたようで、決して泣きの涙で過していたようには思はれません。言葉が通じませんので彼女達の心の底は分りませんが、以上私の体験を申し上げましたので一人の従軍兵士の体験談として先生のご参考に供した次第でございます。
 従軍慰安婦の問題は戦死した多くの戦友達の名誉に関する重大な問題で、それが又わが國の中高校の歴史の教科書に記述されていることは全く残念至極でありまして、私一人位何を言はれても少しも堪えませんが戦死者に対して誠に申し訳ない気持ちで悲憤やる方ないところでございます。此の上とも”従軍慰安婦”と言ひ、”南京大虐殺”等此の上とも死んだ戦友達の名誉の為、先生の一層の御霊力を亡き戦友の代辨者として折人ってお願い申し上げる次第でございます。
平成八年十一月三日(明治節の佳き日)

汚名への反論 No4 愈安婦強制連行絶対に無し

 愈安婦強制連行絶対に無し
山東省・・略奪と強姦ぱ厳禁
  元独立混成第五旅団 森島隆(前橋市 81歳)
   昭和史研究所會報 第40号 平成12年8月10日号

◆山東省で強姦は不可能
 私は、昭和十五年一月、北支派遣桐第四二七四部隊大島部隊村上隊(独立混成第五旅団司令部 青島第十八大隊大隊本部高密第二中隊中隊本部丈嶺、その後膠県)に現役兵として入隊し、高密において初年兵の教育をうけ、ひき続き青島の通信隊で無線通信と暗号の教育を習得して、十五年九月原隊に復帰した。
 独立混成第五旅団(独混五旅)は、山東省東部地区の治安維持と、膠済線(青島~済南)の警備が主な任務であった。従って、討伐で人民に被害を与えることは、それほど多くはなかった筈である。別紙(省略)のように、一年間の平均討伐出動回数は七・三回八十九日間である。この記録は陸軍中尉(大隊副官)から終戦時には大隊長であった
方の記録であり、一般の兵の出動回数はもっと少なくて年に十日から三十日程度であった。
 治安維持と宣撫工作が主任務であり、討伐に出動しても、略奪と強姦は固く禁じられていた。当時の住民は疲弊のどん底にあり、略奪する物もなかった。それでも軍隊に宿泊された民家は、大きな痛手を蒙るが、もともと山東省の住民は、満洲に出稼ぎに行く人が多くて、最大の被害は、燃料を燃やされることと、卵や鶏を略奪されることであった。
 婦女子が凌辱を受けると言うが、日本軍が部落に入る前にはすでに遠くに逃れてしまい、部落に残っているのは老人と子供ばかりである。私は、兵隊が女を強姦したという話は聞いたことがない。強姦することが出来たとしても、衆人の目の前でやるわけにもいかないし、家のなかでは最中に後ろから攻撃されて、名誉の戦死では、とても強姦をするような雰囲気ではなかったのである。
 山東省は、共産八路軍の勢力範囲であり、独混五旅は、八路軍と対峙していた。八路軍の装備は弱小であり、日本軍が小部隊で行動している時以外は、戦闘を仕掛けて来ることはなかった。
 私か在隊した三年十一ヵ月間に、私か討伐に参加したのは約十回前後延べ六十日程度であり、その内、交戦回数は二回、戦死者は一回で三人であった。あとは全部敵影もなくただ単に行軍をしてきただけであった。私の同年兵で戦死したのは、たったの二人きりであった。
 「朝まで生テレビ」で、済南で婦女子を二、三十人強姦したという兵隊の手記を、真実だと信じきっている大学教授の画面が大きく写しだされたが、少なくとも、当時山東省に駐留していた兵士なら、こんなことは絶対に起こりえなかったことを、誰でも知っている。日本軍の駐留している地域で、師団司令部や旅団司令部の置かれている大都市、済南、青島などでは、在留邦人も多数おり、日本との交流で生計を立てていた中国人が、好むと好まざるとに拘らず、大多数いたのである。

◆拘束なかった慰安婦達
 兵隊は、日曜の昼間しか外出できないから、外出証とコンドームを渡されて、大部分の兵隊は慰安所に駆け込んで排泄(まさに排泄である)を済ませ、兵営に帰るのである。民間の婦女子を強姦できるような環境では全くないのである。
 大都市、小都市(日本でいえば、県庁所在地以上程度)には兵隊はあまり金を持っていないので、軍人専用の慰安所を利用する。慰安婦は中国人(主として兵士)、朝鮮人(主として下士官)、日本人(主として将校)かおり、性病予防のため、その地区の衛生兵が性病検査を実施していた。軍が関与していたとか、軍が連行したとか、慰安婦の自由が束縛されていたとかいうことは、少なくとも山東省では、絶対になかったのである。中国の民間人でも、中国の慰安婦と遊んでいた人達も大勢いたし、阿片窟も営業していたのである。
 県庁所在地以下の市や町に駐留する日本車兵士は、慰安所などないから、生活に困って、自宅で内緒に売春を働いている中国婦人を、斡旋人を通じて、一握りの兵隊が多少の危険を犯して、利用していたに過ぎなかったのである。
 第二中隊が駐留していた掖(エキ)県には、朝鮮人の慰安婦が一人いた。民家に寝泊まりして、兵隊相手に売春をしていたが、なんらの拘束も、不自由もなく快活に生活をしていた。
仲の良い兵隊もいたはずである。何時でも個人の自由で帰国できた筈であるが、当時朝鮮に帰っても生活できなかっただろうから、慰安婦をしてたに過ぎない。 三光作戦などという作戦は、当時日本軍人の誰もが知りもしないし、聞いたこともない。

汚名への反論 No3 朝鮮の慰安所軍の強制絶対なし

朝鮮の慰安所軍の強制絶対なし
    元羅南憲兵隊曹長 中島賓
          (東京・80歳)
正論1月増大号 平成27年1月

◆軍都・羅南の遊郭街
 私か勤務して居た羅南の町は第十九師団司令部の所在地であると共に、咸鏡北道庁の所在地でもあったから、文字通りの軍都であると共に行政の中心地でもあった。
 羅南には、第十九師団司令部、第三十八旅団司令部、歩兵第七十三聯隊、歩兵第七十六聯隊、騎兵第二十七聯隊、砲兵第二十五連隊、兵姑司令部、師団弾薬庫、陸軍病院、偕行社、師団軍法会議、羅南憲兵隊本部等が在り、国境の会寧に歩兵第七十五聯隊、鏡城に輔重第十二聯隊、咸興に歩兵第七十四聯隊、平壌に歩兵第七十七聯隊、羅津に海軍要塞司令部、会文に海軍通信隊、羅南陸軍通信隊等が在って、文字通り軍都として中心的な重要拠点であった。従って羅南在住の将兵の数は戦時編成の壱万人余りの軍人軍属が常駐して居たので、若い将兵の脹り切った性欲の捌け場としての遊廓は必要不可欠の存在であったから、三笠山の麓に日本人経営の山水楼、富貴楼、三七十楼、高尚楼、約四mの通路を距てた南側に冨士見楼、光明楼、三冊楼、阿佐加楼の外一軒と、少し坂を
登った所に朝鮮人遊廓四楼と検疫所があった。
 正確には”三輪の里遊廓街”と言って居たが、三笠山の麓にあるので皆が通称”山‘と呼んで居た。勿論当時は公娼制度があって、性犯罪の防止の必要悪として世界の各国が。公娼制度々を認めて居たから、当時特別に日本だけが従軍慰安所を設けて居た訳ではない。世界的にも立派な商行為と認められて居たのである。
 公娼制度の認可権限は各道府県知事に在ったのであって、軍が強制的に慰安婦を募集したり、売春を強要した事は絶対に有り得ないのである。

◆家庭の貧困救うため
 然し前述した通り、羅南の町には一万人に余る若い将兵が住んで居たから、僅か二百名足らずの娼婦が性犯罪防止の為の防波堤の役目を果して居たのであるが、彼女等は貧困な家庭を救う為に嫌々乍ら自分を犠牲にした人が多かったのであるが、諦観し切った彼女等には「自分の一身を投げ打って一家の危急を救った」と言う認識の方が強かったから、比較的に楽観的で明るい性格の人が多かった。然し僅か二百名足らずの彼女等は不特定多数の兵士の相手をしなければならなかったから、日曜祭日の日等は、狭い道路一杯を埋めて「まだか」「まだか」と押し寄せる兵士を次々に慰安しなければならなか
ったから、一日に”二十人゛”三十人”の兵士を相手にする女の子が多かった。当時兵士一人二円位いの稼ぎであったから、一日に五、六十円稼ぐ女の人も決して珍しくなかったのである。私の給料が其の頃外勤手当てを含めて約六十円余りであったから、如何に彼女等が荒稼ぎして居たかが思い遣られるのである。然し其の大半は前借金との名目で楼主の収入となったので、彼女等は一生借金から抜けられない‘と言う不遇な環境に甘んじなければならなかったのである。然しそれは棲主と娼婦個人との商的な取り引きであったから軍隊が強制的に出来る道理は無いのである。

◆憲兵は命令せず
 但し、性病感染の恐れは十二分に多かったので、日曜祭日の練休日の前の日、娼婦の全員を軍医が検査する必要があったから、憲兵が立ち合いの下に検疫所で身体検査する事だけは絶対に必要であった。勿論此の検査には楼主も立ち合い、憲兵が軍医の診断結果に基づいて「君は明日休みなさい」とか「明日は絶対にコンドームを使用する様に」とか指示する事はあったが、それは飽く迄も性病の感染を予防するのが目的であったのである。又私共は一般サラリーマンと変らぬ服装で棲主の許可の下に遊廓内に入り、兵士の喧嘩や、暴行、傷害等の防止に努めたのであつて、決して慰安婦等に対して命令
や指示した事は一度も無かった。
 此の様に憲兵や軍医が遊廓の検疫や、就業の指示をしたのは性病予防の為の勧告であり、決して強制力を行使したのではないのである。

◆強制連行絶対になし
 茲(ここ)で”朝鮮人慰安婦強制使用”と言う軍部批判について私の見聞した実情に即して述べてみたいと思う。 所謂南方前線に於ける売春の実情に就いてはいざ知らず、少くとも朝鮮の慰安婦の強制連行と言う事件は、朝鮮半島内に於いては絶無であったと断言出来る。
 悪どいブローカーの手に因って巧みに欺まされて南方に連れ去られた慰安婦が居たとしても、それは決して軍が強制連行したものでは無いと思う。恐らく「南方に行けば一遍に高い金が稼げるから」との旨い話に釣られた浅墓な慰安婦が、戦後急に「軍が強制連行した」と豹変した偽りの告白を鵜呑みにしたデッチ上げではないかと思う。
 私の知る限りでは朝鮮人経営の遊廓は四軒あったが、日本兵は矢張り日本女性を好んだから、あれ程犇(ひしめき)きあった遊廓の中にあっても余程日本の遊女に焦れ無い限り、進んで朝鮮人の廓樓に足を踏み入れる日本人は少なく、又その接客振りも矢張りシックリしないと悪評であったから、日本人の樓廓が余程混雑して居ない限り朝鮮人の店は閑古鳥が鳴いて居るのが実情であった。
 又朝鮮には「酒場(スワチビ)」と言う店があって其處で無許可の売春行為が行なわれて居たから、態々高い金を払ってまで、遊廓を訪れる朝鮮人は数少かったのである。
 朝鮮人は押しなべて事大主義的な面が強いため信じられない様な嘘を平気で言う傾向が強かったので、日本軍強制連行の話も「百%眉唾物語ではないのか」と疑い度くなるのである。朝鮮人の家庭では未婚の娘を猫っ可愛がりにして、上流の家庭では娘の一人歩きを絶対に許さなかった。
 それに反比例して「朝鮮の娘は一旦男を知るとダラシが無い」と言うのが″通り相場々になって居る程であったから、軍の強制連行説についても頭から信じる訳には行かないのである。
 此の様な事から考えると南方の慰安婦問題も「嘘から出た実」の様な話しではないかと疑い度くなるのである。
 何はともあれ私の体験や見聞した実情に照しても少くとも朝鮮半島内に於いては絶対に「慰安婦の強制」を強いる行為は無かったと断言して憚らない。

汚名への反論 No2  南方慰安婦の実態

南方慰安婦の実態
  元・海軍中尉 重村賞
  昭和史研究所會報 第31号 平成11年11月10日

◆特要員の効用 
 特要員と言う名称がある。
 特要員と言う名の部隊があった。
無論、内地の事では無い。太平洋戦争中、日本軍が占領し、進駐して居た南の涯の島々の基地の話である。
 では特要員とは何であろう。
 あっさり言うと女-娘子軍-の事である。戦地に進出する娘子軍の事をこう言う名前で呼んだ。
 もっとも商売女が進出するのは、何も太平洋戦争になってからの事では無く、其の以前から満洲は勿論、支那大陸の各地、凡そ小部隊でも駐屯する町や村々、当時の言葉で言えば皇威の及ぶ涯々までも、大和なでしこの姿を見ない土地は無かったと言って過言では無い。
  満洲では鉄路上を銃弾を冒して占領に向う列車の後部には娘子軍が乗って居た事さえあると言う。
 当時満洲や上海へは隣へ行くように気軽に渡れたが、太平洋戦争で占領した各地ともなると、そう簡単には行かない。
 此の娘子軍達がどんな風にして進出するのかと言うと先ず現地からの要求で行く場合がある。
 例えば、作戦や補給の基地になったような町や港へは前線や後方からの往来や宿泊が多い。従って前線から帰って来た将兵達の息ぬき、又是から前線へ出ようとする連中のお名残りの別宴と言ったような事がくり返される訳だ。所が誰もが殺伐な気分である為、つまらない事ですぐ立ち廻りが演ぜられたり、又予備後備の老兵などになると女なしでは夜が過せぬ等と言った猛者も居て現地人とトラブル起すようなこともある。
 現地のパンパンとよろしくやるのも結構だが、たとえマタハリ程の女が居なくても軍機上にもまずい点があるし、又南方の現地人の中には蝋燭病などと言って物凄い性病を待ったのも居て衛生管理上も具合が悪い。従って野放しにして置くより大和なでしこ軍を輸入した方が気分も落ちつくし、軍機上も風紀上も衛生上にも良いと言う結論になる訳だ。こうした土地には現地からの要求が無くても後方の司令部から現地の事情を考慮して送ると言う場合もある。
 だから中には折角粋をきかせた考えで送ったのに、現地の指揮官が受けつけないので宙に迷ったなどと言う例がないではない。

 例えば昭和十七、八年頃トラック島では、折から激化したソロモン戦の為、ラバウル行の娘子軍が停帯して居るのに加えて、マーシャル群島方面に予定されて居た女軍を同方面の指揮官が受入れを拒否した為、トラック固有の女達と合せて約三〇〇名もがせまい島内で氾濫した事がある。
 その次の場合は業者自体が国策便乗のバスに乗り遅れまいとする遠大な計画の下に当局に運動して進出したのも相当多い。が是は勿論金儲けが唯一の目的だから大体大根拠地たる都会地に限られるようだ。

◆あばずれと純情型
 こうして何拠かの基地に娘子軍の進出が決められると内地に於ける軍駐屯地や軍港の料亭は、或ひは御用商人顔役等が肝煎りで必要人員を集めるのが常だ。内地の料理屋をそっくり移動したのもあるようだし、新たに募集したのもある。
 其の編成も行く場所、其の要求等でピンからキリまである。
 士官専用のものから、下士官兵用、軍属用、或いは飛行場作りの徴傭工員用と言った工合に分れて居て、其の営業所、営業状況もさまざまである。
 ニッパ椰子で葺いた屋根にベニヤ板一枚と言った家からシュミーズー枚のお姐さんが顔を出すと言う赤線区域そこのけの店もあれば、現地の家を徴発した洋館造りの家で営業して居る所もある。其の又洋館の中を畳敷きに改装した家もあれば、或は幽逡な山蔭に数寄屋造りを忽然と建てて、島田に裾をひいた美人が現われる所もあると言った工合であった。
 戦時中内地で営業して居た料亭も、それはそれなりに多少なりとも軍に関係が無い所は少なかったであろうが、連隊のある町や軍港以外の土地の料理屋もずい分現地に店を出して居た。茅場町の古い料亭其角などもそうであるし、読売新聞の隣の数寄屋寮はマカッサルに大川と言う高級料亭を経営して居て、はるばる内地から椛を空輸して日本酒の醸造までもして居た。
 東銀座で大和と言う赤提灯を出して居るおでん屋は新嘉披のジョホールバルの新喜楽と言う料理屋の後身であるし、有名な岐阜の浅野屋もトラックに進出して居た。だが南の方にだけ話を限定しなければ、中国、満洲方面に店を出して居た家、行っていた娘などは無数と言ってもよく、銀座あたりのバー、キャバレーで全然内地しか知らない女ばかりだと言う店は殆ど無いと言ってもよいであろう。
 では、こうした占領地へ進出する女達はどんな人が行ったのだろうか。
 大きく区別すると大体二種類に分けられる。即ちあばずれ型と純情型である。
 どうせ内地は食いつめた。流れ流れて落ち行く先はという訳で住み替え、住み替え行く女達。 昭和の始頃、私は揚子江を百浬も上った宜昌に居たが、其処に芸者が二人居た。長崎、上海、漢口と住み替えて邦人が僅か三十人位の宜昌に住みついた訳だ。
 又、仏印進駐後西貢で、私か少尉時代に膨湖島の馬公で芸者をして居た女に会った。大阪から台北、高雄、馬公と移って西貢に住み替えたのである。
 こうした人達はだからいずれあばずれの名に恥じぬ人であるが、元来が男にだまされたり、いれ上げたりと言う夫婦善哉型が殆どなので案外気のよい女達が多く、それに芸達者な連中も多い。しかし身体を酷使して居る結果、麻薬中毒の人も少なくなかったようだ。
 もっとも日本の女は昔から天草女の名で、大きく言えば世界に鳴りひびいて居た訳だから、海外雄飛の先輩の名を辱かしめない勇敢な女性は掃いて捨てる程あるのであろう。米兵につきまとう洋パンは何も敗戦後日本女性が突如思想的変化を生じた訳ではなく、南の方にも戦前から新嘉坡あたりは勿論、遠くスエズ辺りまで行って居たし、上海の河向こうには米兵のオンリーが群れをなして住み、其の中の数名は支那事変中米水兵に附いて日本軍爆撃下の重慶にも住んで居た。
 もう一方の純情型と来ると是にも幾種類かあるようだ。好きな人が出征したから私もと言う槨子の葉蔭の再会を夢みるロマンス型や、純真な気持で国策に従う者、或ひは募集者の甘言にだまされた者等である。
 実際現地での仕事も唯給仕だけと言う綺麗なものから、最初から肉体だけを唯一の目的にするものとに分れては居たものの、行く先々の状況、戦況の変化、それに明日を知らぬデスペレートな気分などに支配されて、純情型の夢一筋で無事内地へ帰って来た女性は稀ではないのだろうか。
 こうした娘子軍を私は先にやまとなでしこの名で呼んだが、此の女達の中には相当多数の「トラジの花」や、「ジャスミンの花」も混って居た。
 徴傭工員や下士官兵相手にはむしろ半島出身の女性の方が多かったであろう。
 彼女達は勿論彼女達だけで一単位をしめて居るのだが、日本語は無論出来るし、体格は立派だし、それに当時の人種的感情から言って内地出身の兵に対するサービスもよく、タフで純真であるので一般に好評であった。が半島と言っても余程辺鄙な所から来るらしく、彼女達の日本語が全然兵隊用語その借を覚えこんで居るのは哀れにもほほえましかった。彼女達が戦争の形勢が悪くなってからも尽した沼ぐましい純情な話は各地で数多く伝えられていて、現在の日韓両国の関係を考えると感慨深いものがある。

◆あるエピソード
 次にお伝えするのは実際に特要員として現地に渡り、終戦後引揚げて来て現在新橋駅前の狸小路でビーフンを売り物の台湾料理屋を開いて居る元台南「あづま」の女将の話である。
 「私かマニラヘ渡りましたのは十七年の十二月でした。 私の店は台南にありましたので当時南方進出の気運が強かった頃ですから、高雄、台南と次々に建設される海軍の航空部隊の将校連中がよく遊びに見えました。そんな関係で太平洋戦争が始まってマニラが落ちると直ぐに、台北の海軍武官府にお百度をふんで、現地での営業希望をお願いして置いたのですが、許可が下りましたのは十七年の暮でした。早速私の家に居た妓を中心に十三名の芸者を集め、それに板前、髪結、大工、左官まで全員三十名で其の年中に高雄を出発致しました。
 船は海軍の特務艇で手を延せば右舷と左舷が両手でつなげそうな小さな船に便乗したのです。一行の他に芸者が着る衣裳からそれにすぐお正月ですから紋つきも用意致しましたし、食器、畳、壁土までも用意すると言ふ仲々大所帯でした。途中当に揺れましたが先ずは無事に着いた所は、マニラ市のパコ区バダンバヤンでサンマルセリノのフリーメーソンのお寺を割り当てられました。パイプオルガンのある家でした。

 此の家を改装して料亭にしたのですが、既設の宗数的なものはさわらぬように注意したものの妙な工合でした。
 マニラには海軍関係は士官以上のが私共一軒、下士官兵さんのが他に四、五軒ありましたが、陸軍関係は部隊が多い為士官以上用が広松と言ふのがありました他、下士官兵用は数十軒もありました。其の頃は全くよき時代のマニラで、私共は外出するのにも内地の芸者姿で街を歩いたものでした。
 其の後、バンゼルマシン行きの船で沈められた別府の蔦屋の人が増えたりして芸者は二十名程になりましたが、だんだん米軍の反攻がきびしくなり、十九年九月海軍側の特要員は全員内地への帰還命令が出ました。もっとも陸軍側は引き上げ命令が出ず全員街に残っておりましたが、海軍側は十九年十一月までに氷川丸で内地へ引揚げた訳です。

 私の所も一緒に引き揚げさせましたが、私はもともと海軍のおかげで此の地へ来て、良い時だけ勤め、戦況が悪いと直ぐ逃げて帰るのではあまりにも情けなく思われましたので、陸軍側の方々も残って居る事だし、私だけは残して頂き度いとお願いして、私と弟とすずめと言う芸者と板前だけは、何かお手伝する事でもあればと、皆様と同じく苦労をするつもりで残りました。もう其の頃は毎日のような空襲でしたが、病院のお手伝いなどして過ごして居ります中、十月に入ると直ぐ米軍がレイテ島に上陸し、マニラはもう大変な混乱でした。こうして一月七日私共はリンガエン湾に上陸する米船団がマニラ沖を航進して行くのを眺めながら、三年を過ごしたマニラを棄て徒歩で避退地へ出発しました。もんぺに運動靴、背にリュックサック、両手に包みと言う姿です。
 山道を二週間の行進の間に、包の着換へは一つ棄て、二つ棄て、運動靴は底が破れて、バヨンボンと言う所に着いた時は文字通り着のみ着のままの姿でした。
 早川機関少将指揮の軍部の人達と一緒でしたが、もう此の時は死ぬ覚悟でした。
 八月十七日米軍の飛行機が終戦を告げたビラを撒いて行きました。
 それからカガヤンに集結し、一月五日病院船氷川丸で引揚者として内地の土地を踏んだ訳です」

◆半年で前借金返済
 彼女達は大体当時四、五千円の前借金によって前線に赴いたが、契約期間の標準は1ヵ年位であった。これを早い者は僅か三ヵ月普通六ヵ月位で返済したということであるから、その過重な労苦は到底われわれには想像出来ない。米軍の反撃が予想以上に早かったので、空襲や雷撃の危険に曝される機会が想像以上に多かった。契約期間が切れても、適当な便船がないため、前線で終戦を迎えた者も少くなかった。彼女達の貯金高は相当なものだった。当時五、六千円から一万位のものが普通だったし、中には三万円も貯金した者があったと聞いて、誰も驚く処である。当時の金であるから、今の金に直せば、相当な額となる筈である。これによっていかに彼女達が、前線基地の衆目の対象だったかが判るのである。
 前線の彼女達の相手は勿論軍人軍属に限られたことであるが、この相手の中にも、さまざまなことがあった。何と云っても戦闘機や爆撃機の搭乗員が一番人気があった。あっさりしていて金遣いも荒かった。前線部隊の軍人は休息の時間と給与とが限られていたが、民政部関係の従軍文官や報道部関係の従軍班員は、時問的にも経済的にも恵まれていたので、彼女達を独占する機会もあり、物議をかもす中心となった者もいた。しかし一番ちゃっかりしていたのは、彼女達を直接管理する立場にあった特権階級がいたことである。
 配給や移動を取扱う者が絶対の権能を有していたことは、何処の社会でも、何時の時代でも同じことだった。
 マリアナのような処は別であるが、概ね戦局が悪化し、戦線となるおそれのある処では、一般婦女子の引揚を前以て行うのが通例であった。勿論特要員の撤退も行われたが、この引揚は大陸と違って容易なものではなかった。相当の犠牲者を出したのである。
 占領地には家族の同伴が許されなかったので、艦隊は女の同胞として特要員の送還を重視し、どこの部隊でも、その撤退には意を用いて、慎重を期していた。赴任させる時と同様であった。彼女達の中には、遂に内地帰還の機を逸し、特志看護婦に転身した例もあるが、敵の空襲により戦死した者もあった。
 特要員の大部分は責任者の班長に引率されて、無事内地へ帰還した。現在落着のある生活に入った者も少くないであろうが、大半の者は戦前の生活を今もなお続けているのではなかろうか。若しそうであって、不幸の中にあるならば、いばらの路を切りひらいて、落着のある生活に入っていただきたい。多幸を祈って已まない。
  (「特要員と言う名の部隊」より)

汚名への反論 No1  支那の場合

汚名への反論 No1  
支那の場合
突然、慰安婦に抱きつかれ・・・。
強引な客引きに驚く
  元独混第十旅団一等兵 M・K(匿名希望、北九州市 80歳)
  昭和史研究所會報 第29号 平成11年9月10日号

 昭和十四年頃渡支、初めての作戦行動の折に、山東省章邱県の或る駅(駅名は忘れた)前附近で気付いたこと。初年兵で初めて討伐参加で「色気」どころか命がけの出陣であった。駅前で集結中、駅前から少しはなれた砂ぼこりの路上に而して、土でかためたような支那の田舎の小屋と云った感じ(三坪位)の入口に。むしろ゛かぶら下げてあり、その前に苦力らしき支那人が一人で立っており、兵隊相手にお金をもらっていた。二、三名の古兵殿が丸腰ではなかったが、一二〇発の小銃弾を入れた弾薬ごう付きの帯剣だけはキチット付けてゐるのを見て異様に感じた。寸暇を利用しての″ピー買い々を初めて見た。我々初年兵には無用のことで之からの戦闘の方が気がかりであった。
 昭和十四年八月頃歴城県の或る駅に配属され、更に約四十㎞奥地の部落に駐屯勤務していた頃のことである(人口五十戸位で豊かな感じがした村である)。深夜部落の北歩哨線を交代しての帰り、余り広くない路上でいきなり暴漢ではない、支那婦人の独特の変な化粧の″におい々のする四十歳前後のバーさんに暗闇の中で抱きつかれてビックリした。簡単な誘いがあり、若さのいたりと好奇心で、任務終了報告後、便所に行くと断り、意を決して小屋を訪ねた。”しみ油”でのうす暗い灯りの下、化物のような大きな陰口、足を上げた動作は、二度ビックリ。気分が悪くなり看看料三角(もう)(三十銭)位払って早々と退散した。この部落は、私か引っかかった処がある位で他には無いようでしたが、この種のショートルーピー(人目を盗んでやる)は、大なり小なりあったと兵隊仲間では聴いたことはよくあったが、我々は常に敵襲を予期していたので、女どころではないと云うのが実情であった。
        ◇
 出先中隊の駐屯する処には必ずと云って、支那ピーが四人~五人位近くに住んで居るというのが実情のようでした。但し、兵営よりかなりはなれた処にあった。代金は史料のとおりだったと記憶する。田舎では案外安かったのではないか。若い兵隊は遊び半分でふざけたものが多かった。懸命に通うものは先づ無かった。毎日死を忘れることのない日々であり、自分の身を護ること、襲撃に対する備え等々、反面内地に帰還する心で一杯。之が本心で、一日千秋の想いであった。戦友も1/2は戦死。今日生き永らえていることがありかたく、常に戦友の。御冥福”を祈り現地で至る処で御世話になった。
好意的な支那の方々の事は終生忘れることは出来ません。

高麗・朝鮮王朝時代の「貢女」の実態とは

高麗時代から朝鮮王朝時代まで続いた「恥辱」
娘が候補になると、顔に薬を塗って傷を付けることも


 「娘が生まれたら秘密にしたまま暮らす。他人に知られるのが心配で、隣人にも娘を見せられない。娘を隠していた事実が発覚すれば、村全体が害を被ることになり、親族を縛って取り調べ、屈辱を与える。処女を選ぶ過程でわいろが取り交わされるが、金がある者は切り抜け、金がない者は連れて行かれる」

 高麗時代、李穀(イ・ゴク)=1298-1351=がはるか遠くの元の皇帝に差し出した上訴は、切々としている。李穀が訴えたのは、ことあるごとに中国に献上しなければならなかった「人間の献上品」こと貢女のことだ。恥辱の歴史は、5世紀初めまでさかのぼる。高句麗・新羅から中国の北魏に、女子を送ったという記録がある。貢女の献上が最も盛んに行われたのは、高麗後期から朝鮮王朝時代にかけてだった。ソウル大学奎章閣のイ・インスク人文韓国(HK)事業研究教授は、今月末に出版される『朝鮮人の海外旅行』(文字の甕社)で、『高麗史』と『朝鮮王朝実録』を中心に貢女の残酷な実態をまとめた。

■自害・早婚で抵抗することも
 高麗時代の元宗15年(1274年)、元が140人の婦女を連行したのを皮切りに、忠烈王・恭愍王代に元に対し献上した貢女は170人以上、44回に上った。朝鮮王朝時代にも、太宗から孝宗の時代にかけて、明・清に対し9回にわたり146人が献上された。学界では、中国の高官が私的に連れて行ったケースを合わせると、数千人に上ると推定している。

 中国から、貢女を選ぶ「採紅使」が訪れると、朝廷では貢女選抜機関を臨時に設置し、巡察使が各地を物色して回った。だが、民衆の抵抗は激しかった。孝宗の時代、慶尚道の鄭煌(チョン・ファン)という人物は、娘が貢女候補になったことを知るや、娘の顔に薬を塗って傷を付けた。また、娘を出家させるケースもあった。高麗時代には、乳飲み子を乳母が抱いて嫁がせることまであった。そのため朝鮮王朝時代には、世宗が「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」という法令を公布しなければならないほどだった。

朝鮮王朝時代の太宗8年4月、各地から処女30人が選ばれ、ソウルに移送された。父母を亡くして3年以内の女性や、息子がいない家の一人娘を除いた7人が、景福宮での最終審査に臨んだ。しかし中国の使臣は「美しい女がいない」として官吏を棒で打とうとした。娘たちも指名を避けようと、体に障害があるかのように口をゆがめたり、足を引きずったりした。最終的に、娘たちの父親は全員罷免されたり、流刑に処されたりした。同年7月、再び選抜が始まった。太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者など、選抜から免れようとした者」について、厳罰に処するという号令を下した。

■国内外の権力関係を反映
 貢女たちのほとんどは、他国で人妻や「めかけ」として人生を終えたが、中には皇帝の目に留まり妃嬪(ひひん=君主の側室)の地位を与えられ、権力の道を歩む者もいた。高麗出身の奇皇后は、母国高麗の王位継承に関与するほどだった。貢女出身の妃嬪の父や兄も「皇親」として権勢にあずかった。奇皇后の兄・奇轍(キ・チョル)は、高麗国王と並んで馬に乗り、歓談した。朝鮮王朝時代の太宗・世宗の代に相次いで2人の妹を貢女として送った韓確(ハン・ファク)=1403-56=は、右議政や左議政(共に現在の副首相クラス)などの要職を歴任した。韓確が密通に及んだ事実が発覚した際も、世宗は「罰せられない人物」だとして黙認するしかなかった。

 中国は大陸に新たな権力が誕生したり、国内の国家権力が不安定になるたびに貢女を要求した。高麗や朝鮮の新たな支配者にとって、大国の承認を得ることは最大の急務だった。世宗でさえ、貢女の献上は「国内の利害のみならず、外国にも関係することなので、ただ(中国皇帝の)令に従うのみ」と語った。イ教授は「貢女は、中世国家の欲望と男性の欲望が凝縮された国家間の力学関係から生じた副産物。特定の時期に起こった事件というレベルを越え、その後も“慰安婦”、“洋公主(米兵を相手にする歓楽街の女性)”のように、強大国と弱小国の間で繰り返されてきた」と語った。

全炳根(チョン・ビョングン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版 2011.04.24

“性被害”訴えながら“性産業”担う「中国」「韓国」の現実

“性被害”訴えながら“性産業”担う「中国」「韓国」の現実
2014.5.3

 米国の主要な7都市の風俗産業が年間10億ドル(1030億円)の規模に達することが、米国の非営利団体(NPO)の調査で分かった。売上高で、米国ですでに社会問題化している銃器や麻薬売買の規模を上回る都市があるなど「売春ビジネス」が一大産業になっている実態を浮き彫りにした。一方、売春の温床となり、中国人や韓国人が経営に携わることが多いアジア式の「マッサージパーラー」(性的マッサージ)が全米レベルで組織化しているという。
収入は1週間で最大300万円

 米NPO「アーバン・インスティテュート」が、ワシントンDCやジョージア州アトランタ、テキサス州ダラスなど主要8都市で、米司法省の委託を受けて実施した。性的マッサージや簡易売春宿、高級売春婦によるサービスなどにかかわる客引きや売春婦、警察官ら約260人にインタビューし、売上額などの推計値をはじき出している。

 調査によると、8都市のうち、ワシントンDCなど計7都市の風俗産業の売上高は2007年で9億7530万ドル(約1千億円)。あっせん業者は売春婦に1日400~1千ドルのノルマを課し、収入は1週間で5千~3万3千ドル程度あった。

 個別の都市をみると、07年の売上額が最高だったのはアトランタで、年間2億9千万ドル(約290億円)。銃器(1億4600万ドル)や麻薬(1億1700万ドル)の市場を上回った。また、売春業者の収入は1週当たり3万2833ドル(約338万円)で、これも各都市のトップだった。
アトランタでの主な業態は、ラテンアメリカ系の売春宿とアジア式の性的マッサージ。顧客に対してはいずれもインターネットなどを通じて斡旋(あっせん)され、とくに性的マッサージは全国レベルでネットワーク化しているもようだ。

 一方で、03年と07年の比較で急増したのが、ワシントン州シアトル。5030万ドルから1億1200万ドルと倍増した。業態別では性的マッサージが韓国人や中国人の経営者によって巧妙に組織化されているとされ、不法入国した売春婦を使って売り上げを伸ばした。

売春婦は巡回する。
 性的マッサージの経営を担うのが韓国人や中国人であるとの指摘は、シアトルだけではない。
 米ニュースサイトのビジネス・インサイダー(電子版)によると、ラテンアメリカ系の売春宿と、アジア式性的マッサージはすべての都市にある業態だった。性的マッサージは全米各地に計5千もの店があり、売春婦らは各都市を巡回する。売春婦が巡回するのは、店の顔ぶれを随時入れ替えることで顧客の関心をひくためだという。

 各店舗は組織化され、ビジネスに精通した中国人や韓国人が運営。売春婦については、タイやフィリピンなどから随時、別の仕事を斡旋すると偽って補充し、米国に到着後に性的マッサージを行う仕事を強要しているという。

 そうして得た利益は地元の不動産などにも投資され、資産隠しも頻繁に行われているが、シアトル・タイムズ(電子版)は、利益の多くは韓国や中国、ベトナムに送金されると指摘。シアトルには40、50歳代のアジア人の女性が住む売春宿もあるとしている。

「性産業」の担い手
 慰安婦問題をめぐり、朴槿恵大統領による「反日」行為・発言を、世界で繰り広げる韓国。米国ではカリフォルニア州グレンデールで慰安婦像を設置するなど、誤った歴史認識を拡散しようとする動きを進めている。

 しかし、その一方で、米国の風俗産業の担い手として韓国人が暗躍しているというのは、実に、滑稽な事象でもある。
 “性的被害”を訴える一方で、性産業の担い手になる国…。これもまた、揺るぎのない現実なのだ。

「現代韓国人の国民性格」 

「現代韓国人の国民性格」 著者:李符永(ソウル大学教授)
(1)依頼心が強い
(2)すべきことをせず他人に期待し裏切られると恨んだり非難する
(3)相手も自分と同じ考えだと思い「違う」と分かると裏切られたと思う
(4)せっかちで待つことを知らず「今すぐ」とか「今日中」とよく言う
(5)すぐ目に見える成果をあげようとし効果が出ないと我慢せず別の事をやろうとする
(6)計画性がない
(7)自分の主張ばかりで他人の事情を考えない
(8)見栄っ張りで虚栄心が強い
(9)大きなもの・派手なものを好む
(10)物事を誇張する
(11)約束を守らない
(12)自分の言葉に責任をもたない
(13)何でも出来るという自信を誇示するが出来なくても何とも思わない
(14)物事は適当で声だけ大きくウヤムヤにする
(15)綿密さがなく正確性に欠ける
(16)物事を徹底してやろうとしない
(17)“見てくれ”に神経を使う
(18)「世界最高」とか「ブランド」に弱い
(19)文書よりも言葉を信じる
(20)原理・原則より人情を重んじ全てを情に訴えようとする

«  | HOME |  »

プロフィール

野生馬 太郎

Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


最新記事


カテゴリ

戦争裁判 (13)
満州開拓団 (2)
戦後処理 (4)
朝鮮半島引揚げの惨事 (4)
終戦直後の混乱 (9)
北朝鮮への帰還運動 (2)
シベリア抑留 (4)
慰安婦 (16)
その他 (7)
未分類 (0)
サハリン(樺太)韓国・朝鮮人残留 (3)
終戦時の朝鮮半島 (1)
韓国軍 (5)
日本人捕虜虐殺 (1)
空襲被害 (6)
海外からの引揚 (9)
日本占領 (1)
ソ連軍の暴虐 (3)
慰霊 (1)
戦場の実相 (8)
在日 (5)
韓国の売春事情 (9)
アメリカ (2)
メディア論 (1)
高級幹部 (2)
負け犬の心理 (2)
中国の不条理 (2)
歴史認識 (10)
北朝鮮 (2)
台湾 (1)
北海道が危ない (6)
満洲 (15)
韓国・北朝鮮の国民性 (2)
国家 (1)
朝鮮人強制連行 (1)
国家の軸 (1)
共産党研究 (1)
政治家のあるべき姿 (1)
中国人とは (1)
日本の伝統文化 (1)
朝鮮総督府 (1)

月別アーカイブ


最新コメント


最新トラックバック


検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QRコード