イギリスの捕虜・戦犯収容所

イギリスの捕虜・戦犯収容所
判決後も吹き荒れた暴虐の嵐

■容赦ない暴虐行為の日常化
 イギリスが開設した軍事法廷は次の十一ヵ所である。
 シンガポール
 マレーシアのジョホールバル、
 クアラルンプール、タイピン、
 アロールスター、ペナン
 ビルマのラングーン、メイミョー
 ボルネオのゼッセルトン、ラブアン島
 香港

 合わせて千人近い人々が裁かれ、二百二十三名が死刑判決を受けた。
 戦犯容疑者の摘発に当たったのは、英軍の戦犯調査局である。シンガポールでは、昭和二十一年の六月ごろまでに二千名以上の容疑者が収容されている。
 英軍においても収容者の虐待は、ごく日常的に行われた。次の例は、特別に烈しいというものではなく、各地に共通して一般的に見られた光景である。
 「香港のスタンレー監獄に入ったのは、二十年九月二十五日。同十月二日にNo1コマンド部隊に交代してからは、虐待の連続史であった。最初は一日中監禁されており、午後一回、運動と称して一名ずつ引き出し、長さ五十米のコンクリート廊下をぐるぐるかけ足させる。速度が遅れると、やにわにムチをふりあげて叩く。倒れそうになると、さらに激しく打つ。すっかり叩きのめされて監房に入る。

 収容されて来る者は、九龍の収容所から香港の渡船場まで四キロを行軍中、倒れそうになったり、よろめいたりする者を遠慮会釈なく棍棒で頭、手、背とところ構わず殴られるので、スタンレーに着いた者のうちには十名くらいの怪我人が必ずあった。棍棒で頭を叩かれた者は一~ニセンチの裂傷がある。三角巾で応急に治療しても、流れる血は頬を伝わる。

 二十二年正月二日、八十名の容疑者に集団処罰が加えられた。褌一本の裸体にして、小雨の降る中を屋外に連れ出し、コンクリートの冷たい歩道に五分間うつ向けに寝かせ、つぎに温かい水でシャワーを取らせ、再び雨中で運動、体操。この間三十分。全身は冷えて歯はカチカチと鳴り、鳥肌が立って唇の色は失せた。

 二十一年正月も虐待の連続。特にエドヮード伍長は監房を一つずつ開けていって拳闘の実地指導を行った。直立不動させ、二言三言しゃべって気をそらせ、急に拳をもって鳩尾をついた。我々をノックダウンするにはこの鋭い一撃で充分だ。『ゲラップ(get up)』の怒声で立上るや、また一発。声の出る
余裕がない。

 二十一年二月初め、日本から到着したN大佐はその翌日にはもう顔が変形していた。同大佐はしばしば暴行の対象となり、坐骨神経痛が再発して松葉杖をついて断頭台に登った殴打により耳の変形した者はほかに二名。そのうち一名は五十過ぎの老人であったが、耳に血腫ができ、残忍な英台湾人通訳と十五年の刑を言い渡された日本マレイ混血青年の場合、判決後、二人とも英領植民地の市民権を有することが判明した。そこで、先の判決は取り消され、改めて普通法院の管轄に移されて審理を受けることになる。その結果、同一の事案で反逆罪に問われるのだが、刑罰は通訳に四年、混血青年に十五ヵ月が宣せられた。戦犯なるが故に量刑がいかに重くされているかを示す好例ではなかろうか。

 では、イギリス軍事法廷が裁いた事件のうち、注目すべき二、三の事件を具体的に追ってみよう。
 観光地として知られているマレーシアのペナンでは、およそ前近代的で乱暴な裁判が行われた。すなわち、終戦の約一年後に被告として起訴された三十五名は、十把ひとからげにして被告席に座らされた。特定の事件と個々の被告の関係が検証されることがなかった。三十五名に唯一共通して関連あることは、ペナン憲兵分隊に勤務したことがあるということだけ。種々雑多な事件を寄せ集めて一件としたものだ。

 この三十五名は、昭和十七年四月一日から終戦までの全期間もしくは一部の期間、ペナン憲兵隊に服務した。この間に分隊長は二人。先の分隊長時代にのみ服務した者、後任分隊長時代にのみ服務した者、両方にまたがる者、わずか一分月余しか勤務しなかった者、臨時に通訳に雇われた者とさまざまであった。

 彼らの裁判は、先に紹介したような見せ物として演出された。二人一組で手錠をかけられ、トラック六両に分乗して法廷に向かう時、沿道には現地の中国人、欧米人ら群衆が待ち受けている。嘲笑が投げかけられ、「バカヤロウ」などと罵詈雑言を浴せられ、歓声とともに石が投げられる。後任分隊長だった元大尉は、こう記している。

 「トラックより降りる時は、一、二、三と調子を合わせて二人が飛びおりる。姿勢が立直らないうちに、カモンと銃床で尻を突かれる。ヒョロッとよろめく。群衆は喜ぶ。警戒兵は民衆に迎合する如くカ
モンを連呼して後を追い、構内広場に作られたバリケードの囲みへ追い人れる。あたかも鶏を小屋に追い込むようである。群衆は遠巻きに観賞する。ペナン開発の先駆者フランシス・ライトの銅像が吾々を見おろしている。これは全く余分のコースだった。中世の罪人引廻しのやり方だ。
文明の臭も人道の薫りもない」法廷では、五列にヒナ段のような被告席に脹らせられる。傍聴席は超満員である。こうして公判は一カ月続いた。
 検事側証人約七十人のうち、半数は戦時中、日本側の使用人だった人たちだったが、彼らは戦後、厳しい選択をしなければならなかった。それは戦犯裁判の証言台に立つか、対日協力者として被告席につくかという二者択一を追られたものとみられるからだ。

 証人に立った被害者たちには、証言の誇張が目立った。たとえば、ある伍長が取り調べ中に渇きをいやすために氷を被害者にも与えた際、ちょっと戯れて氷の一片を彼の手に載せたことがあった。
それが、戦犯裁判の証言台では、十貫目の氷を腹の上に一時間余りも置いて苦しめたということになっている。

 公判中、最大の争点となったのは、いわゆるペナン島の粛清事件である。
 昭和十七年四月五日、マライ北部駐屯の第五師団は各地の抗日分子を一斉に検問捜索、検挙した。この時、ペナン憲兵隊は命令に基づき、ペナンを担当した同師団所属の大隊の指揮下に一部隊員を入れ、抗日分子の収容に協力したのである。
 起訴状によると、給養、衛生、その他管理の不十分と憲兵の拷問の結果、約千名が死亡したことになっている。

 だが、刑務所の管理が憲兵隊の責任ではないことはいうまでもないし、それよりも千名という数字に
は誇張があった。当時の書類によれば、千名というのは検挙者数である。千名死亡という数字は、偽証による虚構であったようだ。

 にもかかわらで、論告は、「とにかく千名の命が失われている。千名の命に対して三十五名の命は安い。誰がやったかは問題ではない。三十五名は一体となってその責を負うべきである」と、虚構の上に立って算術的整合性を求めたのである。
 はたして判決は、被告二十五名のうち絞首刑二十名、銃殺刑一名、無罪三名、他は五年から十年の有期刑を宣告された。その後、銃殺刑の一名が終身刑に変更されただけで、あとは全部、宣告通りの刑が確定した。
      
■世論が許さなかった″無罪放免″
 香港のイギリス法廷においては、特異な経過をたどった裁判があった。ウィリアム・ハットン事件というのがそれである。
 昭和十八年、上海工部局警察官であったイギリス人ウィリアム・ハットンは、上海憲兵隊に逮捕留置されて取り調べを受けていたのだが、まもなく発狂して取り調べが不能となった。彼は釈放され、病院に入院するが、その二、三日後に死亡してしまったという事件である。

 英軍は、この事件を憲兵隊の拷問の結果だとして、上海憲兵隊隊長であった元少将と同隊の元軍曹を戦犯容疑者として二十数回にわたって取り調べた。しかし、元少将は検挙以来二十七ヵ月後、元軍曹は十三ヵ月後、いずれも証拠不十分として釈放されたのである。
 やがて、香港軍事法廷は閉鎖されることになるが、それとともに二人の元被告は昭和二十三年三月、香港から内地へ帰還し、無事、自宅に帰った。

 これで、一件落着と思われたのだったが、そうはいかなかった。英本国の議会で問題が再燃したのである。
 「元少将を重大な容疑のもとに長期抑留しながら、裁刑も聞かずに釈放するとは何事であるか!」
 というわけだ。新聞雑誌も盛んにこれを書きたて、世論を喚起した。
 その結果、英側としては、すでに閉鎖した軍事法廷を再び臨時に開設せざるを得なくなってしまう。

裁判長が英本国から呼ばれ、二人の被告も再逮捕されて、再び香港に移送されたのである。
 再逮捕に当たって、英側の発表したところでは、新たに有力な証拠を得たということであったが、その後、公刑廷に出された証拠も偽り、出廷した証人も偽り。何が何でも両名を有罪にせんがための芝居が裁刑の名のもとに展開された……

 かくして、元小将に終身刑、元軍曹には十二年の刑が言い渡されることになる。英国のメンツあるい
は世論が生み出した戦犯といえるだろう。
 シンガポール法廷では、アンダマン島事件で四十四名という大量の死刑判決が出されている。
 アンダマン島というのは、インド洋南部に位置し、二百以上の島からなる群島。昔からビルマの重罪人の流刑地だったらしいが、イギリス植民地となって海軍基地も置かれていた。

 日本軍がこの島を占領したのは昭和十七年三月のことであるが、十九年ごろからは、戦局が不利になるにつれ、次第に海空の輸送も絶え、日に日に物資・食糧が欠乏するようになる。そこで日本軍は現地人を指導して自給自足態勢の確立に乗り出すが、軍の倉庫や田畑から物品や食糧を盗み出す原住民が多くなった。
 そのような状況下、日本軍部と民放部は、「窃盗者は発見次第、現場の長においてただちに銃殺処分すべし」との命令を全島に通達したのである。

 島内のダンダスという村で原住民百四十八名を指導した元海軍上等兵曹の場合、きわめて良心的に全力をあげて食糧生産に努めている。村民の一人が甘藷を盗んだことがあったけれども、彼は着物の上から軽く尻を叩いて説諭しただけ。ところが、終戦後、この村民がたまたまマラリアで死亡してしまう。
 戦犯裁判で元兵曹は、この一件を合めて四名を殴打殺害したとして起訴された。例によって虚構に満ちた裁判が行われるのだが、原住民の食糧確保に努めたことなどは裁判長も認めざるを得なかったようで、こんな判決をくだしている。

 「お前がアンダマン島進駐以来、よく原住民の食糧を確保せしめたことには誠に感激する。また、法
廷に出頭した態度言語ともに日本軍人の模範とするに足る者である。しかし、お前は殺人罪で起訴されておる故、当然、死刑に価するものであるが、その人格に免じて、終身刑を言い渡す」
 しかし、アンダマン島軍件においては、これは例外的ケースである。容疑者として逮捕された八十二名のうち、死刑判決は実に四十四名に達していた。
 なかでも、海軍が四十名も死刑に処せられたのは、司令官が命令したことを否定し、責任を部下に転嫁したからだ。陸軍では、旅団長が責任を全部引き受けたので、四名の死刑しか出していないのと対照的である。

■戦争の責任は誰が負うべきなのか
 シンガポール法廷において、もう一件、特筆すべき軍件は、昭南憲兵隊による英国人抑留者虐待事件である。
 昭南とは、日本統治時代のシンガポールのことだが、昭南港は日本軍南方作戦の重要基地で、毎月およそ三万人の部隊が出入りしていた。昭和十八年九月。その昭南港に停泊中の日本油槽船六隻が、磁気性機雷の爆発によって沈没するという事件が突発する。

 この捜査に従軍したのが昭南憲兵分隊である。が、数日を経ても事件の真相は明らかにならない。
 これに業を煮やした南方総軍司令部は、そのころ噂にもなっていたチャンギー刑務所の英国市民拘留者の教唆による犯行と断定した。その上で、同刑務所の英市民抑留者の一斉検索、容疑者の検事、取り調べと一般市民容疑者の検索(「一号工作」といわれる)を命じたのである。

 昭南憲兵分隊は同命令に基づき、一斉検索を実施して、無線送信機用とみられる改造ラジオ、短波ラジオなどとともに容疑者五十名以上(のちに百名以上に増加)を検事し、三十余名を軍件送致した。軍法会議の結果は死刑一、十五年から三年の有期刑十数名であった。この間に、容疑者のうち病死者三名、自殺者一名が出ている。

 戦後、この作戦が裁かれることになる。元昭南憲兵分隊長以下十五名の隊員が不法検挙虐待致死行為で起訴された。
 この裁判もまた針小棒大または虚偽の証言など各種の不公正のなかで進められ、苛烈な判決が宣せられている。死刑八名、終身刑三名、有期刑四名という結果となった。
 この戦犯たちが、数年後、日本に送還されることになった時、シンガポール地区別務長官あてに一通の手紙が届いた。発信人は、かつて昭南憲兵分隊に検挙された英国市民抑留者の一人。手紙はこの裁判の実態のなにがしかをうかがわせてくれる。
 「貴刑務所で服役中の終身刑Aが一号工作実施中、終始親切に取扱われたことを感謝し、今次、本国送還に当たり、この親切に何か酬いたいと思う。

 しかし、貴下はこの私の申し出に対して、それほどの好意を侍つならば、なぜ同戦犯の裁判時、弁護しなかったのかとの疑念を抱かれることでありましょうが、当時、私は本国に帰還中で、マライに居住しておらず、さらにまた、もし当地におったとしても、当時の一般世論の状況より見て、弁護のため出廷することは到底できなかったことと思う。しかし、戦争終結してすでに六年、私は敢然として英国人が前記親切心に感謝しおる気持を伝えたいと思うのである」

 シンガポール軍事法廷で裁かれた事件のうち、最もよく知られているのは、タイメン(泰緬)鉄道建
設に関連する一件であろう。
 実は、この裁判を管理・進行したのはイギリス一ヵ国だけではない。イギリスとオーストラリアの連合という形で行われた。裁判長こそ英国人だったが、陪席判事は英豪一名ずつ、検事も英豪一名ずつという構成になっていた。

 タイメン鉄道というのは、ビルマのタンビザヤからタイのノンブラドックに至る延々四百キロにおよぶもので、戦前に英国が計画した時は、なんでも六年の歳月と数億円(当時の金)を要すると見こまれていたらしい。これを日本軍はわずか一年余りで完成させたのである(昭和十八年十月末完成)。
 それだけに大量の労働力が必要であった。日本軍はもとより、現地人労働者のほかに、多数の俘虜がそのために動員されることになった。

 これに充てられたのか、シンガポールの俘虜約一万名(イギリス人とオーストラリア人)。七千名と三千名の二群に分かれて、鉄道輸送されたのだが、途中から工事現場まで約三百キロは、徒歩による行軍となった。熱地を寝るに家なく貧弱な給与のみで行軍したので、七千名組のほうだけでも二千名が落伍した。フィリピンのパターン行軍とならんで二大「死の行軍」と喧伝されるゆえんである。
 加えて、工事現場ではコレラが蔓延し、医薬品も不十分、さらに赤痢、マラリア、デング熱なども多
発した。しかし、雨期になっても工事は強行され、俘虜は毎日毎日死んでいったのである。結局、工事を終えて無事シンガポールに引き揚げた俘虜数は、七千名組については約四千名でしかなかったという。
 戦後、英豪連合法廷がこの件で起訴したのは、次の二項目である。つまり、俘虜を使役、虐待し、多数の俘虜を死に至らしめたことと、俘虜を不当に処遇し、不良なるキャンプに収容して多数の病者を出し、多大の苦痛を与えたこと。

 起訴された者は、現場の工兵隊の元中尉や鉄道連隊の元少尉、俘虜収容所の元所員など七名。うち四名に死刑判決が出され、三名には有期刑が宣告されたが、のちに死刑の四名は無期と十五年に減刑されている。

 七千名の俘虜を引率した元所員は、死刑判決後、終身刑に減刑されたが、その手記にこう書いている。
「今次の裁判において一番問題になったことは『命令した』『命令しない』『知らない』ということである。命令の性質はどんなものか説明は無駄である。しかし、その命令も表面に現われた言葉や文字だけで解釈すると充分でない。死生を共にする上官と部下では以心伝心というか、口に発せざるに意中が通ずることがある。あるいは、行動そのものが、また眼の動き方、頭の動かし方が命令になっていることがある。命じた者は、なぜ『命じたと言わなかったか。といって、私は命じた人が罪を犯した人とは毛頭思わない。誰がその地位にあっても、かくあったのである。かくあらしめたものは『戦争』なのであり、その時そうすることが絶対であったのである。戦争の責任は果たして誰が負うべきものであろうか」

 戦争の責任は誰が負うべきなのか 
 どの国のどの法廷についても、最後にはこの疑問にたどりつく。

『戦争裁判 処刑者一千』 戦記シリーズ23 新人物往来社から引用
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