フランスの捕虜・戦犯収容所

フランスの捕虜・戦犯収容所
″徹底的復讐”誓う主任検事
■仏探偵局の陰惨な拷問
 フランスが開設した軍事法廷は、サイゴンーヵ所のみである。ここで被告として裁かれた者二百三十名、死刑判決を受けた者六十三名(執行された者は三十余名)を数える。
 仏紙インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)地域の戦犯容疑者は当初、英軍の管轄下に置かれたが、昭和二十一年三月からは仏軍に移管されている。容疑者として収容された日本人は、二十二年末で約六百五十名に達していたが、仏軍が彼らに加えた虐待、拷問は、英軍に劣らず残酷なものだ


 通常、仏当局の戦犯局というところが取り調べに当たったが、ここで使われた常套句「白白しなければ探偵局に送るぞ」は、容疑者を怖れさせた。
探偵局というのは、政治思想関係を主に扱うフランスの警察機関。ここが虐待、拷問の舞台となった。

 よく使われた拷問に三角拷問というのがある。
三角型の台木を両膝の下に敷き、立て膝の姿勢をとらせるもの。両手は後ろで手錠され、全裸のまま痛みに耐えかねて身動きすると、提棒で殴打されたり、尾骨を靴先で蹴られたり。上から押しつけられ、膝の肉が裂けて、痛みのあまり失神した者もいた。
 真っ暗な独房に放置するということもあった。褌ひとつ、両手錠、コンクリートの床の上にムシロー枚で何十日間も監禁する。食事の時さえ施錠されたままである。

 断水断食もよく使われた。やはり真っ裸で両手両足は施錠したまま、三日間とか四日間ぐらい放置れた。頭上に「極悪人の日本人であるから、一切の食物を与えてはいけない」という張り紙をされた人もいる。また、念の入ったことに、断水断食を始める前に、多量の下剤や濃食塩水を飲まされたり、断水断食四日目にニリットル半もの水を飲まされたケースもあった。
 そのほか、種々の電気拷問も行われたし、足裏を自転軍のチェーンで殴られたり、タバコの火を押しつけられたり、死刑を執行する真似で脅かされたり……。

 インドシナに長く住み、安南人を妻にしていた民間の日本人が探偵局に連行されてきたことがあった。開拓者として苦労を積み、財産もかなり蓄えた小地主だったが、なんら戦犯容疑もないのに、独房内で縊死(いし)したという。その妻や一人娘もフランス兵に陵辱された。

 また、二人の将校(元大尉と元少佐)は、目をそむけたくなるはど残酷な拷問を受けた。刑務所に帰ってきた時には、耳の穴から血がふき出していたという。二人はこれに抗議して憤死したが、独房内縊死した元大尉は、石けんに爪で「フランス人の暴状に死を以て抗議する」と書いた遺書を残していた。

 さらにまた、プノンペン停軍場勤務の元准尉ら二十数名の日本軍逃亡兵が捕えられ、収容所に入られた。彼らの全身はいたるところ傷だらけ、病人のように蒼白な顔色だったという。特に厳重に監視され、取り扱われていたが、一週間後にはどこかへ連れさられてしまい、その後の行方は不明。帰国もしていないし、裁判も受けていないから、人知れず葬りさられたものとみられる。
 こうしたことからもわかるように、フランスの戦犯裁判もまた復讐ということに強く支配されていた。

 ガルドンという主任検事は、「私は日本人をボルネオの原住民以下に取り扱うだろう」とうそぶき、また、あからさまに、「日本人に対しては徹底的に復讐してやるから覚悟しろ」と豪語してもいるのだ。
 フランス当局が準拠した法規は一九四四年の大統領特別命令とアルジェリアにおける植民地治安条例。なかでも問題なのは植民地法規の適用で、戦争では当然の行為とみられるスパイ検挙や俘虜の捕獲などが、この法規にかかると暴徒の集団による不法監禁ということに一変してしまうのだ。

 次のような軍情もサイゴン法廷を苛酷にさせた。
まず一つには、日本軍憲兵隊に捕えられたフランス諜報団員や俘虜が、日本人戦犯容疑者を裁く側に参画したこと。さらに、約一世紀近くにもわたりフランスが安逸の夢を貪ってきたインドシナを日本軍のために放棄せざるを得なくなったこと。
第三には、各地法廷でも見られたことだが、日本軍の元上級者たちが責任を回避したことである。
 以下、具体的に判決例をみてみることにする。

■”裁判の公正”装うテクニック
 プノンペンの元憲兵隊長は、探偵局で二日間の断水断食を体験したうえに、気絶するほどのパンチを浴せられているが、その公判では、フランス側の姑息な手段が暴露された。元隊長以下隊員たちが集団で裁かれたのだが、初めから全く無関係な者四名が被告団のなかに加えられていた。彼らに無罪を宣告することで、裁判の公平性を強調しようと企んだのだ。
 だが、この目論見はあえなく崩れてしまう。検事側は、虚構の証人を立てて残虐行為を立証しょうとしたのだが、この証人が、残虐行為の行為者として無罪要員の一人を指名したからである。
 にもかかわらず、判決では七名の死刑、十三名の長期刑が出された。

 富田という元サイゴン憲兵分隊長のケースは過激だ。
 この元少佐には、強制的にサインをさせるべく、一週間にわたってなんと十三種類もの拷問が加えられたという。三角拷問、絶食、断本、火ぜめ、本ぜめ、電気ぜめ、壁土を本に溶かしてのます、心臓部に丸太を激突させる、死刑執行の真似、殴打等々。
 死を決して裁判に臨んだ彼は、こうした拷問を法廷で暴露し、不法裁判を痛烈に非難している。しかも、強制的にサインさせられたことについて、 「私が探偵局において拷問を受け、調書に、サインをしたと思っているだろうが、よくサインを見てくれ。決して私の名は署名していない。署名欄には『とんだ苦労をした』と書いただけだ」と叫んで、裁判官や検事をあわてさせた。 が、元少佐もまた他の隊員とともに死刑判決を受けている。

 同じくサイゴン憲兵分隊特高班員であった元准尉の場合は、甘言によって欺かれた。准尉は戦時中、捕えたフランス探偵局員から同探偵局に関する重要な情報を入手したが、そのことが戦後、この探偵局員にとっては悩みのタネとなった。なぜなら、もし准尉がこれを法廷でバラそうものなら、局員が本国において裁判を受けなければならなくなることは必定だったからだ。そこで、同局員はこの准尉に甘言を弄して、「法廷においてはもちろん、他のいかなるフランス人に対しても、我々が君に提供した情報の件は口外してくれるな。そうすれば、君の生命は保証してやる」と誘った。同准尉は、この約束を守ったにもかかわらず、結局は処刑されてしまったのである。
 むろん、戦時中は日本軍も拷問を行ったことを認める被告もいた。ハノイ憲兵隊で働いた元軍曹は率直にこう記している。
「私はフランス人対日諜報団員を取り調べ中、拷問殴打した。それは、戦場における敵愾心に加えて自己に与えられた任務を遂行せ人とするの熱意により、また彼らスパイ団のため軍軍施設が破壊され、多数の戦友が斃れたことに対する仇討ちの感情により、また彼らに有力なる証拠物件を突きつけても頑として否認し続けたため」

 ところが、裁判長はこれに対して、 「お前がこうぃう非人道行為をなしたにもかかわらず、フランスはお前たちに対し給与、医療設備とともに良い待遇を与えている。取り調べに当たっても拷問はしなかったろう。どうだ」 と、ぬけぬけと突っこ人できた。
 「まことに申しわけありません。フランスは実に紳士的な取り調べでした」
 裁判長の感情を害して自分や同僚の不利にならぬよう、元軍曹は断腸の思いでこう答えざるを得なかったのだという。

 北カンボジアでの作戦が戦犯容疑に問われた第二師団捜索第二連隊は、特異な体験を有する部隊である。
 原大佐に率いられた同部隊は、終戦後の昭和二十年十月以降、いったん捨てた武器を再び手にした。それも、連合国の命令により、連合国のために武力を行使したのだ。戦後インドシナで盛人になった民族解放運動の脅威から、三百余名の連合国人の生命と財産を守り、無軍、連合国側に引き渡したのであった。
 死刑を論告求刑されていた原大佐以下三名に対し、無期という判決が宣告されたのは、前述の功績が認められたからだろう。

 同連隊でもっと特異な体験をしたのは、同連隊に配属されていた小貫元大尉だ。
 終戦直後の八月二十二日、カンボジアのクラチエで発生したフランス人二名の処刑につき、同大尉は日仏両軍の軍法会議でそれぞれ有罪を宣告されたのである。事件が発生した時、同大尉はクラチエに居なかったのだが、事件には大尉が率いる中隊の部下が関係していた。また、フランス人三人が殺害された翌二十三日の事件にも別の部下が関係していた。事件の背景には、同中隊が本来所属していた部隊長から、無条件降伏は敵側のデマであるので、警備、治安確保を強化するよう命令
が出ていたという事情もある。

 まず、八月二日に日本軍の軍法会議が開かれる。
同大尉は、部下を救うために自分の監督下で事件が発生したことにした。師団長をはじめ、上官たちは、大尉やその部下を罪にしないと公言してもいた。ところが、軍法会議の判決は予想に反し、殺人罪で同大尉に懲役十三年を宣告したのだ。
 翌昭和二十一年三月、フランス軍に引き渡されることになった時、小貫元大尉は日本軍の獄舎にいた。言語に絶する不当な処遇ゆえに体重は二十キロも落ち、脚気も患っていたのだが、引き渡される前夜には、なんと毒物まで食わされたらしい。
そのために、失神状態のまま引き渡されたのである。

 フランス軍の法廷において、大尉は事実のみを述べて上官や関係者の取り調べを求めた。しかし、上官たちは大尉に責任転嫁しただけでなく、師団長に至っては検事側の証人に立って、偽証まで行った。判決は終身刑であった。
 こうして、大尉は同一事件について十三年の懲役と終身刑という二重の刑に処せられた。日仏両法廷とも、文明法治国の名にもとる不名誉な冤罪裁判である。
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