体験記 抑留ー引き上げ・復員その2

一億人の昭和史 日本占領 1降伏・進駐・引き上げ から抜粋

■ 南十字星の下 妹尾英男

 北部マレーのビドル収容叫にいた私たちが、シンガポールに移送されたのは昭和二〇年の暮れであった。シンガポール島の西端ジュロンと呼ぶ一帯は、丘陵と湿地帯からなる荒蕪地である。敗戦直後、シンガポール在留の日本人はいち早くこの地にバラックを建てて集団生活を営んでいた。ほどなくマレー半島、スマトラの一般邦人も逐次送られて来て、いわば内地引湯の中継地となっていたが、ピーク時には、四、五万人にも達していたであろう。
一棟に約三〇人が起居できるバラックが整然と建ち並んでいて、集会所、野外劇場まで設けられていた、英軍は概してシビリアンには寛大で、ビドル収容所で味わったような強制労働も、ここでは行われていないようだった。
炊事の手伝いや、水汲みの使役に出る以外は、麻雀などで時間をつぶすのが日課であった。

 マラッカ海に日が沈み、シンガポールの街の灯が夜空に映える時刻になると私たちは香りの高い英国煙草をくゆらしながら、野外劇場をひやかしに出かける。出場者にはクロウトもいて、なかなかにぎやかなものだった。なかに丸顔のひどく歌の上手な少女がいて私たちを驚かせたが、この娘が久保幸江さんだとは後日知ったことだった。ジュロン抑留所での三ヵ月間は、私の人生の中でもっとも屈託のない安逸の時だったかもしれない。独身者の気楽さで、私はシンガポール残留を希望した
がいれられるはずもなく、翌二一年二月、廃虚と化した故国に帰還した。(神戸市在住)

■ 抑留列車 高崎初喜
 私たちは放心したように線路の上に立っていました。ここは北朝鮮の咸興より、二つ三つ南に下がった小さな駅でのことです。

 二〇年一〇月、ソ連軍発行のパスポートを手にした私たちは内地の土を踏める日が近いことを信じつつ清津駅をたちました、二両の貨車に二〇〇人もがつめこまれました。男は数人のみで、あとは女と子供でした。だが、やっと、ここまで来たときに、「機関車に牽引力がない」との理由で私たちの貨車二両を切り離して、列車は行ってしまいました。

 食料と水を求めて私たちは朝鮮人の村へ行き、戸をたたきました。「イルブンサラミ(日本人)には分けるものがない」と、かたく戸を閉ざし、屋外にある井戸のポンプまではずして家の中に持っていってしまいました。
 一日、二日とむなしく日は過ぎました。そして.三日目がきました。線路のはるかかなたに機関車の煙が見えたのです。みんな大喜びで手を振リました。間もなく列車はこの駅に止まりました。そのとき銃を持ったソ連兵が一〇人くらい降りて来ました。貨車には日本の軍人が捕虜として乗せられていました。言葉をかわすことはできません。黙ってお互いのあわれな姿を見つめあい、涙がほおを伝いました。兵隊さんたちも泣いていました。やがて、その貨車は北に向かって動き出しました。

 そのときです。「捕虜の身にこんなものはいらない」と叫んで毛布、財布、果糖などを私たちの貨車に向かって投げてきました。 「日本へ生きて帰れよ!」、「子供を死なすなよ!」と口々に絶叫しました。はたしてあのときの兵隊さんの幾人が、日本の土を踏むことができたでしょうか。  (金沢市在住)

■ トラック 金子正七 
終戦の日から一週間後、この新京にもソ連兵が進駐してきました。二五日、私と同僚の小野田さんが満州自動車の社用のトラックに乗って南嶺方面に物資の調達に行った帰り道、人影もまばらな官庁街の大通りを横道に曲がった途端、二人づれのソ連兵にバッタリとぶつかってしまいました。さっと自動小銃をかまえたソ連兵はトラックに停車を命じました。なにごとか声高にしゃべっているのですが、さっぱりわかりません。近づいて来てステップにあがり、さかんに新京駅の方を指さしています。そっちへ走れということらしいので仕方なく、ノロノロと車を走らせました。

 私たち二人はここで捕まってシベリアヘでも送られたら一大事だと目くばせしながら、脱走のチャンスをうかがいました。ソ連兵の任務はどうも自動車の徴発のようでしたが、とられてたまるかと大和魂がちょっと頭をもたげました。二人のソ連兵はヤケにしっかりと車につかまっていて、ふリ落とす機会もなくて、とうとう新京駅の見える所まで来てしまいました。なんと駅前の広場にはソ連兵がウジャウジャといました。そして徴発された自動車の列がずーっと続いていて私たちのトラックはその最後尾につけるように命じられました。しっかり停車したのを見定めて二人のソ連兵はステップから降りると前列の方へ報告に行くらしく、駆け足で車から離れました。「それ、今だ」とっさにバック! フルスピードで逃げだしました。二人は後ろから飛んでくるかも知れない弾丸の恐怖も忘れて、顔を見合わせて思わずニッコリと笑いました。

 しかし、トラックをカムフラージュして草むらに隠したかいもなく、中国人の密告で三日後、ソ連に召し上げられてしまいました。      (東京都在住)

■ トイレ 榎本 侑
 日本敗るの悲報全聞いたのは保定の陸車病院であったが、私の原隊である保定幹部候補生隊は、当時のいわゆる国共内戦で国府軍に加担し、ハ達嶺方面に出撃していたため、原隊復帰のできない私はそのまま北京に後送され、ここから内地帰還の部隊を編成して復員するということになった。 昭和二一年の一月、私たち日本兵を満載した無蓋貨車は、天津を目指して、折からの寒風をついて走ったのだが、長時間停車したり、またノロノロ運行などして、某夜、廊坊という駅に到着した。ところが、なんたることか、トイレで用を足しているうちに、復員列車は私を残して出発してしまったのだ。

さあ、たいへん。駅分哨の国府軍に尋問され、翌日、一般中国人の汽車で天津へ行くより方法がないという。だが、天の助けか、国府軍の装甲列車を見つけ、これに便乗、どうにか天津の駅までたどりつくことができた. これからがまたひと苦労。一目で日本兵士分かる軍服、しかも支給されたばかりの新品のものを着ているため、部隊の集結地を求めて市内を歩く私のあとを中国人がゾロゾロついてくる。身辺の危険を感じた私は人力車を見つけて、とにかく日本人のいる所へ連れてゆけというのだが、とんでもない所で降ろされて、べらぼうに高い料金を請求される始末。
 やっと日本人部隊の集結している集中営にたどリ着いたが、トイレの一件は笑えぬ大きなミステークだった。   (田無市在住)

■ 愛馬葬送曲 伊藤武雄
 異様な沈黙の列が続いている、南国の灼けた道に重苦しい列は延々と続いている。一頭、一頭、軍馬は兵に引かれてやがて丘の小道を登る。ときどき兵は愛馬の一肩を撫で首筋をたたいて、はげますがごとく慰めるがごとく呟くが、その目は暗く沈み、足どりは重い。やがて丘の中腹まで登ると視野が広がり、左側に地隙に似た断崖があって板の仮橋がかかっていた。その上に馬をとめ、一握りの青草を与える。それを無心にむさぼる馬に一発の銃声。いななく間もなく愛馬は谷底に転落し、やがてかすかに地響きがはい上がってくる。

 銃声は、軍馬への厳粛なる葬送曲であり、儀式の進行の合図でもあった。兵はみな唇をかみしめ、涙をこらえ、嗚咽を必死に押さえ、その冥福を祈るばかりであった。丘の下から愛馬たちは一列に登ってきつつあるが、銃声のたびに軍馬の耳は一様にビクンとはするけれど動揺はまったく見られず、さすが砲兵部隊とともに六年有余の砲撃戦を経験した強者としての貫録十分で、たのもしい限りだが、数刻の後に迫る運命を思うとき、哀れさが倍増されて涙があふれた。 こうしてこの日約一〇〇〇頭の軍馬が心収拾ならずも射殺され、バンコク郊外のナコンナヨークの丘は鬼哭啾々の霊場と化した。昭和二〇年一〇月四日のことである.。            (北九州市在住)

■ 水飢饉   飯豊 正五
 商工省から第一六軍軍政部付文官として派遣された私は、インドネシアのバンドンで終戦を迎え、その後、同地で強制使役をつとめたうえ、二十一年四月、ガラン島に島送リとなった。シンガポールから五時間ほどの赤道直下の無人島であるこの島は〟餓乱島″ともいわれたようにヤシの木すら育だない荒涼たる小島である。ここで四○日間、餓死寸前に追いこまれるまで過ごしたあと五月二五日、復員船となった空母「鳳翔」で帰国することになった。

 ところが、出航してまもなく、海水を浄化して真水に変える給水装置が故障してしまった。シンガポールに寄港できない当時、次の寄港地は台湾の高雄で、およそ一週間はかかるという。わずかの真水を貯蔵した給水タンクが五〇〇〇人を超す日本兵の命の綱となったのである。酷熱の南シナ海上、スシ詰めのカイコ棚の船室………そして水は一日たったコップ一杯、であった。

 なんとかして水を・・・というわけで舷側からバケツをロープにつるしてくみあげようとしても、二〇ノットのスピードである。バケツが水面にはねあがるだけ。せっかくくみあげてロにすると、そのあまりの塩からさに吐き出してしまうほどだった。

 窮余の策として、給水タンクの漏水に目をつけ、夜半、水泥棒に出かけるとたちまち見つかってリンチを受ける始末。はてはコップ一杯の水が腕時計や万年筆と交換というふいたらくとなった。この相手の甲板員は日本人船員であったと記憶するが、人間には水が食物より優先するとはいえ、浅ましい限りであった。          (東京都在住)

■ 星条旗    八子 淳次
 ホノルルから船で復員した。二一年十月のことである。復員船の中ではいまだ勝ち組の苦悩があった。祖国の無条件降伏が信じられないというのである。これはマッコイ収容所の暑い夏から始まっていた。「負けたという証明もないのに、なんで負けたと君たちは信ずるのか、陛下に申し訳がないではないか」というのだ。係員がいくら事実をありのまま説明しても、納得しようとはしない。「日本が負けたというその証拠を見せろ」「アメリ力から借りた船だなどというが、日章旗を掲げているではないか」と叫ぶ。

 やがて浦賀へ着いた。湾の水は青く美しかったが一隻の駆逐艦が片隅で傾いていた。恐るべき敗戦の事実がしだいに明らかになってゆく。赤十字から来た老看護婦が「皆さん、ほんとにご苦労でございました」と優しく出迎えてくれた。母のような声であった。それから広場へ出たら、アメリカで見慣れていた星条旗が、高々と中央に翻っているではないか。「畜生!」「ガッデム!」というやけくそまぎれの声が流れ、祖国はもう完全に星条旗の下に置かれているのだという感懐が、我我の胸を秋風のように寒々と吹き抜けてゆく。

 それから広場ではMPの手による所持品検査。タバコ三個と日用品は没収されない。だが、禁制品のUSAの記号入りの軍隊毛布を二枚、隠し運んできたヤツがいたのには仰天した。それは皇道派だかなんだか知らないけど、いつも立派な言葉を吐いていた男であった。
         (新潟県南蒲原郡在住)

■ 便器運搬   時岡弘志
 私たちは、第八七飛行場大隊の兵士として、スマトラのコタラジャで終戦をむかえたが、引湯の途中、シンガポールで現住民のストにあい、その代替要員として日本人作業隊となったが、幕舎の表門には、ジャパニーズ・プリズンと大書してあり、収容所はジョホールバルを指呼の間にのぞむゴム林の中にあった。

 作業隊は毎日幕舎から英印兵の引率で、徒歩で作業に出かけたが、ある中国人民家から七、八歳のこどもが小走りに出て来て、親しげに紙巻きタバコようのものをニワトリに餌をやるようにぱらっとまいた。日本兵は将校も兵士も先を争ってそれを拾ったが、実はそれは白い紙を巻いただけのものだった。

 作業場へ行く途中の道路わきに、旧日奉軍の軍票が山のように捨ててあり、風が吹くたびに空に舞った。我々より少し前にここに到着したものは、全裸でシンガポール市街を走らされたという話を聞いた。 作業場はカマボコ型の大きな倉庫で、その一棟々々にはI〇〇キロほどの米や砂糖、チーズの缶詰めなどがあり、英印兵の監視の目を盗んで、手を血だらけにして缶詰めを開け、むさばり食べた。見つかればもちろんチャンギーの刑務所行きであるが、それほど私たちは空腹だった。

 変わった作業といえば、大小便器の清掃である。六畳ほどのところに溜まっている大小便は炎熱の太陽のため、表面二〇センチほど固くなっていたが、それをスコップでとりのぞいて下にあるのを汲みとった。また、民家の便取りもあった。ある日、私たち二人が重い便器を持って二階の階段をおりていると、頭の上に落ちて来る液体がある。上を見ると同じ日本兵が四階の階段を、あふれた容器を運んでいた。             (玉野市在住)

■ 神霊    影山敏治
 二一年三月、国府軍の進駐で瀋陽(奉天)市内もやや平穏をとり戻した。私は当時、大和区青葉町の出雲大社教奉天分院院長を代行していた。 三月末の朝、軍装の将兵十数人が朝鮮なまりの強い医大生服の男を通訳にして入って来た。なにごとかと玄関に出ると「本日午後四時までにこの建物より全員退去せよ」という。私が「ここは日本人の神廟である。難民救済所として一五〇余人が住んでいる。退去できない」というと彼は「軍の命令である。昨日、営ロより到着した砲兵部隊を駐留させる」。私は「建物はすでに、国民政府瀋陽市公署に接収され、その管理を委任された責任者だ。承諾できない」と説明すると「軍の作戦行動上占領する」といいすてて彼らは引き揚げた。

 私はさっそく瀋陽市公署の邦人財産接収委員の李さんを訪れ相談したが「軍には勝てない」といわれ引きさがるだけだった。苦難! 受難! 時間はすでに正午を過ぎていた。その時あることがひらめいた。一週間前、紅梅町の元幼稚園広場で露天商一〇五店の開店合同地鎮祭をした折、列席した国府軍、宇中校と親交を誓ったことを思い出し、最後の神頼みと夢中ではせ奉じた。宇中校はしばらく腕組みをして思案していたが「督察組へ行きなさい、連絡しておきます。接双書を持奉して・・・」と助言してくれた。奉天ビル隣りの食糧会社跡の事務所へ走り込んだ。中国語で「この建物は督察組が管理する。許可なく立ち入りを禁ず」と書いた文書をいただいたのは三時半。正四時、彼らは現れたが、この文書を見ると即刻退去した。私は宇中校に感謝し、督察組の権力を改めて認識した。
 お陰で八月引き揚げるまで、出雲大社のご神霊と奉天神社のご神霊を無奉奉祭できたのである。
          (島根県斐川町在住)
スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

http://depot3.blog75.fc2.com/tb.php/65-c1c7d9de

«  | HOME |  »

プロフィール

野生馬 太郎

Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


最新記事


カテゴリ

戦争裁判 (13)
満州開拓団 (2)
戦後処理 (4)
朝鮮半島引揚げの惨事 (4)
終戦直後の混乱 (9)
北朝鮮への帰還運動 (2)
シベリア抑留 (4)
慰安婦 (16)
その他 (7)
未分類 (0)
サハリン(樺太)韓国・朝鮮人残留 (3)
終戦時の朝鮮半島 (1)
韓国軍 (4)
日本人捕虜虐殺 (1)
空襲被害 (6)
海外からの引揚 (9)
日本占領 (1)
ソ連軍の暴虐 (3)
慰霊 (1)
戦場の実相 (8)
在日 (5)
韓国の売春事情 (9)
アメリカ (2)
メディア論 (1)
高級幹部 (2)
負け犬の心理 (2)
中国の不条理 (2)
歴史認識 (10)
北朝鮮 (2)
台湾 (1)
北海道が危ない (5)
満洲 (15)
韓国・北朝鮮の国民性 (2)
国家 (1)
朝鮮人強制連行 (1)
国家の軸 (1)
共産党研究 (1)

月別アーカイブ


最新コメント


最新トラックバック


検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QRコード