体験記 抑留ー引き上げ・復員その1

一億人の昭和史 日本占領 1降伏・進駐・引き上げ から抜粋

■三十八度線  朝日 望

「さあ行こう」押し殺した男の声が暗闇の中から聞こえた。昭和二〇年一〇月初め、夜中の一時ころだろう、待ちに待った脱出の日がきた。朝鮮人の船を買収し北緯三八度線を海路突破するのだ。しかし本当に船に乗れるのだろうか、密告され全員逮捕されるのではないか、期待と不安を胸に二キロほど離れた港に向かった。

一〇〇人くらいはいるだろう。当時一七歳の私を頭に四人の弟妹と母の六人家族だ(父は十九年に死亡)。おとなたちに遅れまいと四歳の末弟の手を引き必死に歩いた。港にはソ連軍の目を逃れるため、防波堤の石垣の下に十トン足らずの小さな漁船が二隻あった。

 それを見ると整然と並んでいた列が急にくずれ、われ先にと乗りこみ始めた。おとなたちは自分の妻子を乗せるため人を押しのけ暴力を振るっている、小さい子供が泣き出す、私たちはじっと順番を待った。小さい船倉がすぐいっぱいになった。まだ数家族が残っている。おとなたちは「荷物を捨てろ」「もっとつめるんだ」と怒鳴りながら狂ったようにわが子を人の頭の上に投げ込む。どうにかみんな乗りこみ、私たちが最後に乗りこもうとしたそのとき「乗るな、もういっぱいだ」「お前らは残れ」の怒号。

 「私たちだけです。乗せて下さい。子供ばかりです。助けて下さい」。船べりをつかんで母は泣いて頼んだが、その手は冷たく払いのけられた。つかんでもつかんでも払われ、蹴とばされた。船はエンジンの音を押し殺し、沖に向かった。これがいままで生死をともにした同じ日本人だろうか。私は涙も声も出ず立ちすくんだ。どのくらいたったろうか、ふと我にかえったとき、聞こえるのは母のすすり泣く声と波の音だけだった。私は静かにいった。 「さあ元気を出そう。収容所に戻ろう、死ぬなら一緒だ。明日があるさ」。それからIカ月後、同じ港から脱出できた。(長野市在住)


■アクチブ  石川末隆
 アクチブ(活動分子)たちは、疲れきった捕虜を砂浜に並べ「これから第一、二、三分哨で、ソ連官憲の厳しい所持品検査がある。それに引っかかったら後戻りになる。そうならぬように正直に、針、ハサミ、ロシア紙幣を出せ」と、わずかの所持品全部を没収し、分哨に誘導する。

 そこには日本兵が朱に染まって倒れ、その背後では、財閥が酒池肉林に溺れている宣伝ポスターがあった。分哨に入るとソ連検査官が、我々の背を申し訳なさそうに触り「カネがあるか」「ない」と答えると「よしよし」と簡単に全員通過。わずかの所持品を没収された捕虜が「にっくきアクチブめ、日本船に乗ってみろ、海底に叩き込んでやる」と砂を蹴飛ばす。

 アクチブたちは毎日、焼けつく砂浜に我々を引っ張り出し、ソ連賛美、天皇、軍閥、財閥、地主を罵倒し、思想教育をする。そして数日後、我々は小雨の降るなかを岸壁目指したが、さして波浪はないのに、天候不良で船が接岸できぬと、またも幕舎に追い返された。

再び数日後、岸壁に行く。 日の丸をなびかせた船が接岸している。ソ連兵が人名の頭文字だけ読むと、我々はタラップを駆け上がりマストにしがみつき「おおっ、日本船には日の丸があるぞっ」と叫んだが、船員に「敗戦は事実か」とは恐ろしくて聞けなかった。我々はソ連の謀略にひっかかったのではあるまいか。ヒョッとするとこの船は捕虜交換船ではあるまいか。我々は生きて虜囚のはずかしめを受けた。日本軍の状況をソ連に提供したという想定のもとに、処刑されるのではあるまいかと、新たな恐怖におののくのであった。          (益田市在住)


■夫を失う 深山小百合
 旧満州国の安東市で苦しい難民生活一年ののち、持ちこがれた引揚の旅か始まった。第十三大隊、一行三〇〇〇人。老若男女を交えたこの多人数を引率する幹部も大変だったであろうが、一年間こじき同様の難民生活に心身ともに弱り果てた人々は、気力だけで足を引きずっている状態の人が多かった。出発後三日目 かすかな月明を頼りに、岩角にしがみつき、木の根にすがり、ずるずるとすべり落ちそうになるのを必死に手にさわるものに何でもしがみつき爪を立て、山中をあえぎあえぎ登った数時間。夫は一家四人の衣類や乏しい食糧を詰めた重く大きなリュックを背負って四歳の長男の手をひき、私は二歳の二男を背負って、互いに呼び交わしながら、命からがらの行軍であった。途中落後者が多く出た。"もうどうなってもいい、捨てて行ってくれ″という老婆もあった。

 ようやく平野に下り、荒れ果てた建物ながら雨露をしのげる宿を得てホッとしたのもつかの間、極度の心身の緊張がゆるんだ夫は、かねて栄養失調で衰えていたところへ心臓発作を起こし、わずか数時間で絶命してしまった、三四歳の若さで。この驚きと嘆きは一生忘れ得ない。

 安東市を出てまだ数日、先の長い引揚の旅の途中だというのに。翌日、空はよく晴れて、こんな悲しい出来事があるなどウソのように思われた。アンペラに包まれた夫の遺体は、すでに凍結しているので浅く掘られた土の中に埋められた。幼い長男が「土をかけたら出られなくなる……」と泣いた。無一物の難民生活一年、中国軍の激しい使役に疲れ果てていた夫。恋しい故国を一目見ることもかなわず異国の土になった夫。私は三十四年間、夫を思って泣いてきた。 (茨城県波崎町在住)
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