この死からの脱出-私の引揚体験記 その4

■盲人と唖者の逃避行     近藤正兼 (21年4月北鮮・咸興より引揚)

 昭和二十年八月七日、予期しなかったソ連軍の進撃をうけ、私たち朝鮮、満州、ソ連の三国国境警備の朝鮮咸鏡北道慶興警察署署長以下百余名の警察官は、国境を死守するためわずかの武器であったが、怒濤のようなソ連軍に抗するにはあまりにも少数でありました。それにもまして住民保護が本来の使命でもあり、ソ連軍の追撃は隣の青鶴部隊に任せて、住民安全退避に全力を尽した。住民のしんがりとなってソ連兵の追撃を受け、家族達とも七日の夜から別れました。

 倒れる同僚の屍もそのままに農家の納屋に倒れ込み、そこの主人から戦争の終結を知ったのです。「早くお前達も避難民の群に紛れ込まなければ、自警団に捕まってソ連へ送られるから、早く逃げよ」とズボンとシャツをもらい、一路南下して羅南の方に線路ぞいに歩いた。食糧も金も持っていません。道ばたの馬鈴薯畑を掘り、とうもろこしやその茎の汁を吸って歩き、夜は橋の下や大きな本の下で眠りました。疲れと飢えを訴える子供達に、大人は食糧を得るために道ばたの農家や、先に引揚げた日本人住宅にはいっては、食糧を盗みました。そのため、村落ごとに自警団が日本人を寄せつけないようにしていました。

 その上ソ連兵の暴行略奪です。ピストルや自動小銃で女をさがす。なんの拒む力もない日本人は、死ぬよりつらい苦しみに耐えねばならない。女という女は、みんな丸坊主に刈り上げ、男装してはソ
連具の目から逃れようとしました。 私は別れた妻子の安否をきづかい、南へ南へと歩きつづけているある日、ふとしたことで妻と娘らしい人が咸興にいると聞いた。すぐ行ってみると、紛れもなく妻と娘が栄養失調で病み細った身体でうずくまっているのであった。「おい、おとうさんだぞ元気を出せ」。母娘はしばし声も出ず大きく瞳をあけロをパクパクさして従りついた。三人はただ必死に抱き合いました。娘は泣きながら坊主頭で、どんなに長い不安の旅であったかを話した。病気になった母とともに、幾度か死を決したという。

 「もう大丈夫だ’。おとうさんが来たからには、親子三人で日本へ帰るのだ。頑張ろうね」 しかし避難民には医者はいたが薬がない。それに食物はなにIつない。私は毎日街中を食糧を探し求めて民家の軒に立つやら、農家に行って手伝って食物をもらっては’それを粥にして三人で食べ、神仏に感謝したものです。やがて冬の寒さである。零下三ト度は、身一つで逃げ廻って来た人々にとって死を強制する寒さである。咸興に集まった二十数万の中の老人子供は、この寒さで次々と死んでいった。妻の衰弱した身体には、この寒さはあまりにもひどかった。ついに十二月八日、魂だけ先に日本海を渡り黄泉路に旅立ちました。
 せめてもの安らぎは、別れ別れになった親子が偶然にもめぐり逢い、わずかではあるが親子三人で暮した日々の想い出であった。包むもの十らなく、寒さに固まった妻の亡骸を背負って、裏山の防空
壕に納め、一握りの土を娘と二人で被せて、山を降リたのでした。

 それから八ヵ月後、「おとうさん、日本のお餅が食べたいね」といいつつ栄養失調の末死んで行った娘の遺体を抱き、呆然自失の私を叱る神の声を聞いた。この苦しみ抜いた二人の死を日本の故里の母達に知らすことは、自分に課せられた使命である。必ずや二人の霊が守ってくれると信じました。
 そのころ、咸興で盲唖学校の生徒だった二人の青年と知り合いになった。二人は、日本内地に渡りたい、連れて行ってくれというので、私が唖者となりその盲人二人と元の盲唖学校生徒が故郷へ帰る
という証明を手に入れ、朝鮮人避難列車へ乗り込みました。二人の盲人を連れた、唖者で朝鮮人姿の私は、朝鮮山脈を越して平塙へ出ました。そこから先は汽車が出ません。そこで二人の手をひいて開城まで歩きました。

 道中、保安隊に、「連れの者ぼ日本人だろう」と審問を受けること再三です。唖者である私に、なんの応答が出来ましょう。あるところでは拷問で兵隊だろうと責められる。が私はただ「あわ、あわ」と手まねで盲人の手を引くだけです。そうすると盲人二人が頭を振り口を揃えて、「お前達、同志の発行した証明が信用できぬか」と、朝解語でまくしたてたので、どうにか通り抜けました。

 妻や娘の霊に念じながら幾度か難関を通り抜けて、三十八度線の山中に入り、米軍陣地を発見したとき、私ぼ両手を上げて駆込んだのです。私はもう唖者ではない、日本人だ。直ちに開城日本人世話会へ連れて行かれました。そうすると盲人は朝鮮人だから内地へ渡れないという。さあ困った。結局三人は開城の町で一ヵ月あまりさまよいつづけ、民家の前に立ち、人々の喜捨を受け、かろうじて生命をつなぎました。

 やがて京城の盲人委員会の救いの手がのび、二人はそこにはいることになった。が私は日本人なので彼等と別れねばならなくなりました。二人は「私達は京城で暮してゆけますから心配なく。あなた一人だけならなんとかして日本に帰れるだろうから、一日も早く帰って下さい。いずれ国交が回復したときはあなたを尋ねて行きますから」と涙ながらに誓って別れました。

 思えばあれから約三十年、二人の生死もまだ尋ね得ません。こうして二人と別れた私は、幸い日本鉱業の人達と知り合い、そこの工員として日本に帰ることができました。いま朝鮮にねむる妻子の霊
に合掌する私の心に、ニ人の魂は生きています。毎朝、誦唱し奉る般若心経を納受し拾い、有縁の土へ成仏なさしめ給え。合掌。
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