アメリカの捕虜・戦犯収容所

検証・捕虜収容所の実態
敗者・日本将兵が味わった
屈辱と報復の暴虐
●構成」小林峻・(ジャーナリスト)

 一斉に銃を置き、連合国の捕虜となった日本軍将兵。彼らを待ち受けていたのは、収容所での屈辱的な処遇であり、理不尽な戦犯裁判だった。米・英・蘭・仏の各収容所と戦犯裁判で日夜くりかえされた、非人道的行為を検証する

アメリカの捕虜・戦犯収容所
際立つグアム監獄の残虐性

■然えさかる復讐の感情
 
アメリカがBC級戦犯裁判のための法廷を開設した場所は、横浜、上海、マニラ、中部太平洋上のグアム島とクエゼリン島の五カ所である。ここで戦犯に問われた被告の総数は約千四百人。横浜が最も多くて一千人を越え、次いでマニラ二百余、グァム百余名となっている。その結果、処刑された人はおよそ百四十名である。
 どの法廷にも共通するのは、程度の差こそあれ、アメリカの日本に対する復讐という感情である。
 マニラ法廷では、それがフィリピン人の反日感情と結びついた。フィリピン人たちの反日感情はすさまじいばかりで、その典型的な例が中田善秋(刑期三十年)の手記に見られる。
 ニ十歳ぐらいのフィリピン人インテリ女性が、中田を弁護する証人として法廷に立った。彼女は中田の弁護人の質問に答え、中田が彼女の義兄や彼女の友人の弟を救出したことを証言してくれた。
そこまでは順当だったのだが、しかし、そのあとに続いた弁護士とのやり取りが予想外であった。
 「では、被告中田は死刑に価すると思いますか」
 「はい」
 「なぜ、そう思いますか」
 「なぜなら、彼は日本人ですから」
 終戦直後のフィリピン人たちの反日感情は、まったく論理を寄せつけないほど昂ぶっていた。
 フィリピンでは、戦犯容疑者として逮捕された者が四万名、重湯しか給与されない粗末な待遇のために、そのうちの二万名もが死んでいったといわれる。戦犯第一号となった山下奉文元大将をはじめ、マニラ法廷に引き出された被告たちは、アメリカ軍とばかりではなく、こうしたフィリピン人の反日感情とも戦わねばならなかった。

 元陸軍中尉・日高重美は昭和十九年一月、情報将校として所属部隊とともにフィリピンのセブ島に到着、ゲリラ討伐隊と行を共にしたことがあったが、そのことで戦後、告訴される。討伐隊はゲリラ四名を殺害したが、日高は命令によって情報将校として同行しただけで、殺害には加わっていない。が、告訴によれば、非武装の一般市民を故意かつ不法に殺害したというのだ。
 裁刊には、検事側証人としてフィリピン警察隊の地区隊長が出てきた。討伐隊がゲリラ討伐を実施した地区の隊長で、日高被告とも熟知の間柄。この隊長がまったく嘘の証言をしたのである。つまり「私は討伐隊が引きあげてきた時、日高中尉と面談しました。日高中尉は、いまゲリラを討伐して殺してきたといい、この刀で斬ったのだと軍刀を抜いて、鮮血したたる刀身を私に見せたのです」と証言した。むろん、被告はゲリラを殺害したこともないし、隊長に軍刀を抜いて見せたこともない。

 では、隊長はなぜこ人な嘘の証言をしたのであろうか。
 彼は戦時中、ゲリラ討伐等において日本軍に積極的に協力した。自分の妻がゲリラの襲撃にあって負傷、身体障害者になっていたというせいもあったようだ。
 そのために終戦後、彼はフィリピン政府により死刑判決を受けていたのであった。こうした境遇から解放されるかもしれないという一縷の望みを、日高らに対する偽証に託したものと判断せざるを得ない。
 米軍検事は、隊長のこの弱昧に便乗した。そして、先の嘘の証言をなさしめたというわけだ。ここでは、フィリピン人の反日感情とアメリカ人の復讐心がうまく連携しているのである。
 こうして日高元中尉は、マニラ法廷において終身刑を宣告される。この隊長が唯一の証人となった結果であった。

■グアム監獄の虐待の数々 
アメリカの復讐がもっとストレートで露骨な形態をとるのは、グアムの監獄においてである。それは、被告や囚人に対する虐待となって現われた。
 虐待は連合軍各国のどの収容所にも共通して見られるのだが、グアムの虐待ほど残酷をきわめたものはない。アメリカ人というよりも、人間がいかに性悪な生き物であることか、グアムの虐待を知って深い絶望感に襲われる人も少なくないだろう。

殴る蹴るはもとより、およそ思いつく限りの虐待がなされた。たとえば、こんな具合であるー。

◎独房のドアは、上部が有刺鉄線で格子づくりになっていたが、そこに力いっぱい押しつけられた。
そのために、左腕には何カ所も刺が食いこんで出血、いくつかは傷痕となって何年も残った。
◎眼かくしをさせられて、獄舎の廊下を走らされた。当然、廊下の端で転落してしまう。それを見て、米兵の曰く「非はお前自身が招いたのだ」。
◎収容者一人一人に口を開けさせ、金歯を入れている者がいれば、それを釘抜きで取ってまわった。
拒絶すると、棍棒で叩かれたのである。当人ばかりでなく、全員が叩かれたケースもある。
 日本人同士で拳闘をやらされた。手加減をしていると、米兵は「模範を示してやる」といって、力いっぱい頭、胸、腹を殴ってみせる。そうなると、仲間同士で力いっぱい殴りあわざるを得なくなる。

◎独房から用便に行く時は、房のドアの手前に座り、番兵に向かって合掌して願い出る。ドアを開けてもらうと、再び座って合掌し、「サンキュー、べリーマッチ、サー」と礼を言う。駆け足で用便に行き、もどってくると、ドアの外側に座って拝み、またも「サンキュー、ベリーマッチ、サー」。房内に入って施錠されたあと、またまた合掌して「サンキュー、ベリーマッチ、サー」と言う。 これを一ヵ月半も続けてやらされた。
◎獄舎の一棟全員が、ドアの前で不動の姿勢をとらされ、目を開けたままドアの網につけているように命ぜられた。開いた目に何がなされたか。唾を吐きこまれたのである。
◎少女のような顔と体つきをした某海軍大尉は、米兵が見回りに来るごとにきまってやらされることがあった。「あなたは私を好きなの?」という英語に節をつけて歌わされ、ワイセツな格好で腰を振らせらたのだった。

◎手淫を強制したり、被告の口中に陰茎を挿入し射精する番兵がいた。ある兵曹は二晩も夜中に拳銃をつきつけられて、二人がかりで無理矢理それを口の中に押しこまれた。また、別の若い兵曹は、ある夜これを強要され、「許してくれ」と泣いて抵抗した。しかし、強引に引っぱって便所へ連れこまれたという。
◎ある海軍大尉は、草刈作業をする時、首に縄をつけて引き回された。また、ある海軍中佐は、ペンチで生爪をはがされた。
◎感電死した兵曹もいる。ある日の午後、便所のドアの把手に手をかけた瞬間に感電、即死したのだ。

当局からは何の説明もなし。虐待の嵐が最高潮に達していた析だけに、いつか我が身にもという恐怖感を収容者に与えた。

◎一棟の十四名全員が犬、猫、虎、鶏、豚の鳴き真似をやらされた。かつての将官、佐官、尉官が子供のような番兵の命令にしたがって、「ワンワンワン」、「ニャーゴオ、ニャーゴオ」、「コケコッコー、コケコッコー」と一斉にやらねばならない。
◎六十有余歳の睦軍中佐は、よく裸でヮイセツな踊りをやらされていたが、その日はシャワーを使って
素裸のままこれをやらされ、非番の米兵たちが大勢おしかけて来てワイワイ笑いながら見物していた。そして翌日、その中佐は判決により処刑されたのだった。
◎父島の海軍指揮官であった元海軍中将は、全戦犯の眼前で白昼、炎天下において屈辱的な虐待を受けた。褌ひとつの裸体に靴をはかされるという奇妙な格好で独房より引き出された彼は、四陳の収容所の中庭に置かれた給水タンク自動車に駆け登らされたのである。少し離れたところから助走させ、その勢いで自動車を乗り越えさせるのだ。
これを何十回となくくり返しやらされた。元中将は相当に肥満体であったから、回を重ねるにつれ、気息エンエンとなって、ついにへたばり起きあがれなくなってしまったのである。彼はグアムでの判決は終身刑だったが、他の法廷で死刑判決を受け、蘭印で処刑された。

◎別の元海軍中将も元海軍大佐とともに同じような屈辱を味わわされている。
 二人はやはり白昼の炎天下、独房より引き出されてバケツを二個ずつ持たされた。防人用として二練の収容所に一つずつ備えられていたドラム缶に水を運ばされたのである。約百メートルも離れた水浴場からバケツ二十四杯分を運ぶとドラム缶は一杯になった。しかし、これで終わったのではない。二個のドラム缶が満水になったとた人、番兵たちは放水して缶を蹴かえし、再び満水にするよう命じたのだ。これを何回となくくり返し、ついに二人が倒れるまで続行したのである。このような虐待を受けて、元中将は刑死していった。

 以上のような虐待は、不起訴になって帰国した者などの通報によって総司令部の知るところとなり、
訓育の結果、収容所の米職員全員が交代させられる昭和二十二年人月まで続いたのである。
 ただ、ここで付記しておかなければならないのは、すべての米兵が虐待行為をしたのではないということだ。なかには、少ないながらも良心的な米兵もした。
 「こいつ、アメリカ人を何人も殺しやがったんだ」と、アメリカ人番兵が元少佐を虐待していた時、見回りに来た米人下士官はその番兵に対してこう諭したという。
「彼は指揮官の命令に従った。もし君が君の中隊長から敵を殺せと命令されたら、君はどうするか。自分なら命令に従って殺すだろう。君の場合も同じだと思う。彼らもそれと同じ立場だ。可哀想ではないか。親切にしてやるべきだとは思わぬか」
 下士官の理解ある言葉に喜んで、元少佐はつい涙ぐんでしまうのである。

■不合理に便乗した処罰の拡大
 横浜法廷で裁かれた事件のうち、最も復讐的なケースといわれているのが石垣島事件である。
 すでに米軍が沖縄本島に上陸を始めていた終戦の年の四月十五日ごろ、事件は石垣島において発生した。

 同島海軍警備隊は、石垣市街を盲爆していた米攻撃機一機を撃墜し、落下傘で降下した搭乗員三名を捕獲した。警備隊司令が三名を取り調べたうえ、部下に処刑を命じた。命令に従い、隊員は分担してその日のうちに二名を斬首し、一名を刺殺したものである。戦後、GHQあての投書によって事件は発覚した。
 米側による初期調査において、元警備隊の上官たちの間で責任のなすり合いが発生し、隊内の指揮系統が不明瞭なものになった。また、日本側弁護団の策動が加わって、ますます事件は不明瞭なものになっていった。つまり、誰が誰に命令を出したのかということがわからなくなったのだ。

 そのために、起訴の段階では、四十六名の被告による”共同謀議”上は司令から、下は軍籍に入ってわずか十五日という一兵卒に至るまでの”共同謀議”が行われたということにされた。階級の上下に厳格な日本の軍隊の実態から考えると、あるまじきことである。
 復讐にはやるアメリカ側が、日本側の醜態に、これ幸いと便乗したといえるだろう。
 裁判の結果もまた、きわめて不合理だった。
 上官たちは、処刑を命令し、強制し、実行せしめたということで有罪となった。一方、部下たちは、命令によらず、自由意志で共同謀議し、実行したことが有罪とされた。これでは、上官たちは存在しない者に命令をくだしたということになるだろう。
 
 このような不合理によって、判決は多数の死刑宣告を導き出した。四十六人の起訴者のうち、死刑宣告を受けた者の数は実に四十一名にも達したのだ。
 アメリカの意図は、不合理を追及して真実を発見することにあったのではなく、不合理に便乗して多数の日本人を処刑することにあったとみるほかない。石垣島事件が最も復讐的といわれる所以である。

なお、四十一人のうち死刑を執行された者は七名、他は再審あるいは再々審によって減刑または無罪となった。

 上級者が責任を免れ、そのために下級者に過重な刑が科せられるという例は、どの法廷でも少なからずあったようだ。横浜法廷では、九州福岡の西部軍が米機搭乗員を処刑した事件の裁判で、そのような事態が発生している。

 同事件において、命令によって二名を斬り、死刑(のち無期に減刑を宣告された元陸軍大尉は、大略、次のように書いている。
 「高級幹部の各々が直接間接に下級者に責任の転嫁をなし、責任の存在をウヤムヤにした。米軍の審理がそれを最后まで究明しなかったことと両々相まって、下士官に至るまで軍司令官と共同謀議して謀殺したるが如き、軍隊としてあり得ない起訴条項が認められた。同種の東海軍、中部軍の執行者が無罪ないしは刑の執行中止の判決を受けたにもかかわらず、西部軍の下級者は高級者の犠牲にされた」

 また、同じ横浜法廷で裁かれた潜水艦事件では、もっと大がかりな責任回避が行われた。
 昭和十八年に入り、ガダルカナル島の撤退作戦が始まる等、戦況が不利となるにしたがって、中央の海軍司令部で明確になっていった方針がある。
すなわち、「撃沈した商船乗員は、情報収集に必要とする者を残して、その他は徹底的にこれを処分すべし」
 この日本海軍の方針に従って、潜水艦隊は何度か敵商船乗員を処分した。
 戦後、これが戦犯裁判にかけられ、横浜法廷で被告四十数名の合同裁判が行われることになった。
 ところが、A級戦犯を裁く東京裁判において、本事件のような乱暴な行為は、現地で勝手にやったことであり、中央当局のあずかり知らぬことだと一蹴されたのである。累が天皇陛下に及ぶことを避ける
のが、当初の一大要件ではあったが、その懸念がなくなってからも、これを口実に責任回避が行われていたのだ。

 その結果、判決では、現地の司令官以下幹部級十六名が有罪となり、二十数名の者が無罪釈放された

。中央部の上級者が責任を回避し通したことはいうまでもあるまい。
 なお、同じような目にあったのは潜水艦隊だけに限らない。「敵商船乗員は処分すべし」という海軍方針に基づいて、インド洋上で撃沈商船乗員を処分した巡洋艦戦隊の司令官は、戦後の英国による戦犯裁判で死刑に処せられた。その上級司令部である南西方面艦隊司令部の首脳部はその責任を回避したということである。

■「上海軍律会議事件」裁判の″特異性″
 こうしたケースに眼らず、様々な不公平が目立つ戦犯裁判のなかにあって、当時としては比較的に公平に行われたといわれる裁判例が上海法廷には存在した。上海軍律会議事件がそれである。
 昭和十七年四月、米軍爆撃機十六機は東京、名古屋、阪神と日本本土を初空襲して中国大陸へ引きあげる途中、そのうちの二機が落下、搭乗員八名が中国派遣の日本軍に逮捕された。

 これを機に制定されたのが、無差別爆撃をした敵機乗員を処罰する軍律である。最高刑は死刑とされ、軍律制定前の行為にも遡及して適用されるものと規定されていた。
 同年八月、事件を裁くことになった第十三軍は、所定の手続きを経て軍律会議を間く。米搭乗員八名が出廷し、約二時間の審理を行い、続いての評議の結果、八名は死刑と審判された。
 その後、大本営からの命令によって、五名は無期監禁に減刑され、三名に死刑が執行されたのだった。

 戦後、この事件の関係者を戦犯に問うた米軍は、戦死者を除いた四名を上海法廷の被告席に座らせた。第十三軍の司令官、軍律会議審判官二名、第十三軍拘置分所長が被告となった。
 裁判は、冒頭から注目すべき展開を見せる。予断を持った裁判官一名を忌避するという動議が弁護団より出され、評議の結果、それが認められたのである。このような例が他の法廷であり得ただろうか。
 さらに、弁護団は束京、名古屋に出張して弁護資料を収集するため約二週間の休廷を申し出る。
これまた認められたのである。

 アメリカ人の弁護人二名の活動も光っている。検事側証人として、日本本土空襲に参加した米軍大尉が出廷した時、弁護人は決定的な反証を提出した。その大尉が、日本の民家に焼夷弾を投下したという事実を自己の署名入りで書いているが、それは事実かと弁護人は訊問した。そればかりか、その署名入りの書類を証人の眼前につきつけたのだ。検事側は、米軍が無差別爆撃などしていないという前提に立っていただけに、この反証は効果てき面、証人は顔を真っ赤にして立ち往生してしまった。検事や証人よりも、もっと仰大したのは日本人被告たちだったにちがいない。「被告人に有利になり米人の困るような書類を米人弁護人から提出せずともよいのにと我々は驚かされ、裁判はかくあるべきものかとの第一印象を深くきざみ込まれたのであった」と、被告の一人は書き残している。

 二人の弁護人は、こうした書類など弁護資料を熱心に収集したばかりでなく、被告と打ち合わせの時は果物や菓子などの手土産を持ってきてくれたし、タバコも勧めてくれ、被告の言うこともよく聞いてくれて、公私ともに至れる尽せりだった。
そのために、上海の新聞に「弁護人は米人であるか、日本人であるか」とたたかれたほどだという。
 裁判官もまた親切だった。第十三軍の元司令官は、大本営に米人飛行士三人の減刑嘆願の電報を打だなかったと陳述していたのだが、裁判官の一人は再び元司令官を証人台に呼び出して、次のように訊ねた。つまり、参謀長の供述書にある通り、減刑嘆願の電報を打ったというのが真相であり、打たなかったという先の陳述は記憶違いであろうと念を押したというのだ。

 もっとも、元司令官は墟の陳述をして他の三被告に過重な責任がかかっては申し訳けないというので、先の陳述をひるがえすことはなかったそうである。
 かくして、出された判決は司令官に重労働五年、審判官二人にはそれぞれ重労働九年と五年、分所長に重労働五年というもので、当時としてはとても考えられないほど軽い刑であった。被告たちも、「身体が急に軽くなるのを感じたほどで、自動車運転手が致死罪で罰金刑のいい渡しを受けるより軽い感覚ではなかったか」と受けとめている。

 この上海軍律事件の裁判がきわめて稀なースであったというところに、戦犯裁判の過酷さがうかが
えるのである。
『戦争裁判 処刑者一千』戦記シリーズ23 新人物往来社から引用


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[2] よく家で話していました

中田の息子です。
父はよく戦時中の話をしていました。平和が当たり前に感じられる今にすると、大変な人生だったと思います。

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