この死からの脱出-私の引揚体験記 その2

■病める父に青酸カリを飲ませ  山村文子(21年10月満州・チチハルより引揚)

 一九四五年八月に入ると、北満州のチチハル市の関東軍の動きが、私の目にもなんとなく異常に感じられました。トランクや柳ごうりだけの軍家族が、軍用トラックで、どんどんどこかへ移動して行くのです。やがて、ソ連参戦、満州里、ハイラル等から、民間人婦女子が着のみ着のまま、なかには寝まき姿のままで逃げて来た人もありました。

 城内に住んでいた私が、「日本八街の方に移るように」と申し渡されたのは、十四日の夜でした。しかし日本人街に私達の避難する余地はありませんでした。行き場所のない婦女子三百名ほどが広場に集められ、一人の将校から、「この聖戦を勝ちぬくためご早天近くの工場に行って働いてもらう……二名の男子引率者をつける……」との訓示を受けて、貨車に押し込まれたのは、八月十五日の夜明けでした。このとき、すでにこの将校は、自分の家族を南下させていました。敗戦を知ってぃたのでしょう。

 子供を背負い、前に荷物をぶらさげ、着こめるだけ着こんだ私のそばで、中国人の友人は、チチハルに残るよう熱心にすすめました。しかし、私は関東軍の言葉を信じておりましたので、私の働きがお国のためになると思いました。訓示に従わないのは非国民となると思っておりました。
 北満州の大平原を走る、私たちの乗った貨車めがけて、ソ連の飛行機が機銃掃射をあびせてきました。そのたびに私達は平原に散らばって、大地に身をふせました。地平線までつづく大地と空、停車したままの貨車と駅舎、静まりかえった八月十五日のひるすぎでした。駅舎の水をもらいに行っていた一人が帰ってくると、「よくわからないけど………戦争まけたらしいの。駅長さんから聞いたの……」と、とぎれとぎれに伝えました。

 大地に寝ころんでいた一同は、「まさか……」と、起き上がりました。「うそよ……」と言って、私たちはふたたび横になりました。駅舎にたしかめに行った引率者か、「広島に新型爆弾が落とされ、天皇陛下のお言葉があったそうだから、ほんとうらしい……」と帰ってきました。
 「チチハルを出るんじゃなかった」と、後悔しましたが、家に帰れるとほっとしておりました。しかし敗戦を迎えた安達から、二日目につれてこられたのはハルビン駅でした。線路の横では、関東軍の物資がどんどん焼かれていました。つかれきった私達は、乾パンを噛みながらぼんやりとその火を見ておりました。私たち女、子供、老人の一団が、二名の男子引率者に逃げられたのは、収容所に入ってまもなくのことでした。

 こうして、職なく、家なく、金なく、祖国の保護からも捨てられた私たちの共同生活がはじまったのです。持ち金を出してメリケン粉を買い、一日二食、だんご汁を作ることになりました。何日食いつなげるかわかりませんが、のばせるだけのばさなければということになり、親指大のだんごが二、三個入った塩味だけの汁が、空缶などに一ぱいずつ。こんな日が二十日もつづいたころには、浄化してない水を飲んだためもあって、ほとんどがパラチフスにかかり、ふらふらしておりました。

 その上に毎夜のように、土足のままふみこんでくるソ連兵。囚人兵がまず満州に入ってきたとかで、銃でこづいて時計を取りあげ、着ている物まで「ダワイ、ダワイ」と、はぎ取ってゆきました。栄養失調で動く力もなくなった助い子供達が、まず眠ったまま動かなくなっていきました。収容所の庭には、毎日、土まんじゅうが増してゆきました。娘が「お父さんお薬よ……」と、上部から渡された青酸カリを飲ませました。

 「えろろ・・・にがいな・・・」とつぶやいた中風の老人が、目を白黒させてこと切れました。父親の瞼をそっととじてやりながら、娘は涙を落しました。私の一歳半の息子も、骨と皮になって、「オブ、ちょうだい」という言葉を最後に、逝ってしまいました。

 ソ連軍の鬼畜行為
「お母ちゃん助けて!!」と泣きさけぶ娘がソ連兵にかかえてゆかれ、「私が行くから……私が行くから・・・」と、追いかける母親の必死の抵抗もむなしく、下半身が血だらけになって母親に負われて帰って来たこともありました。ハルビンの日本の出先機関にも行きました。しかし、「日本がなくなったいま、何か出来ますか」との言葉が返ってくるだけでした。こんななかでも、それ相当の地位にあった人々の家族は、金を持たされて出たらしく、街にあふれている食物を買って食べておりました。
 こうして日本に帰るまで長い流浪の旅で、人間のみにくさ、美しさを知りつくしました。きたない日本人も多くいたあのときに、規律正しい八路軍から暖かい心を受けたことは、終生忘れることはありません。

 いまも、敗戦で死んだ一般の日本人が、旧満州の広野で、街で、眠りつづけております。またあの混乱の中で親を亡くしたり、ほぐれたりした子供たちがたくさん満州に残ってぃます。生きていることへの感謝を、これらの方々へのお役に立つよう、生きてゆこうと思っております。


■姉ちゃんのお骨を首にさげて      金田雅博  当時・満州安東在住、引揚後島根県 (安来市立赤江小学校六年生のとき執筆)

 ぽくは満州熱河省承徳で生まれた。(略)ここでは五つのときまでいた。つぎは奉天にかわっていっった。(略)姉ちゃんは国民学校二年生だった。妹の公子は三つで、弟の康博ちゃんは生まれたばかりの赤ちゃんだった。(略)ぽくたち日本人は満語を知らなくても、満人が日本語をよく知っていてとても親切だった。奉天には一月から八月までいて、つぎにかわったのは安東だった。(略)五日目に終戦になった。そして九日目にトラックに荷物を乗せて(略)出発したが、途中の北鮮(註・亀城)で日本人は通行禁止にあってそこで一年間くらした。亜麻会社という(略)きたない工場をかりて、土間にかますを三枚ずつ重ねて、その上にアンペラをしいて、そこで八百人もぎっしりつまって集団生活をしていたので、(略)いろいろ悪い病気がはやって、三つから下の赤ちゃんは殆んど死んでしまった。毎日のように小さなおかんが山にうめられるのを見て、ほんとうにかわいそうだった。そのときぽくの弟のわいい康博ちゃんも、。ジフテリヤで病気になってから三日めに、ぽっくり死んでしまった。まるまるふとっていたので、死んでもねむっているようなかわいい顔をしていたので、山へうめるのがかわいそ
うでならなかった。(略)

 とうもろこしのこなでおだんごを作って食っていた。それも一日二回だから、とてもおなかがすいているけれど、そのおだんごをたべかけると、とてもまずくて食べられなくてこまった。『略』もうこれから先、いつまでもいられないので、ふとんや着物を売って自動車賃をつくって、鉄道本線(註・定州駅)まで出ていったが、そこでロシヤ兵が汽車に乗せてくれず、また、いた所へ追い返されてしまった。しかたがないので、野宿をしながら歩いてでた。(略)十八日間、その間の苦労といったら口にも筆にもとてもいいあらわすことができない。途中で大人二人と子供一人が死んだので、かわいそうだったが、川原にうめて来た。

 この時うちの姉ちゃんは病気になったのをむりに歩かしたので、鳥目になって、夕方になると目がみ
えなくなった。妹の公子をおんぶしているお母さんの両手に、姉ちゃんとぽくはつかまって歩いた。お父さんはその一団の責任者であったし、病人のたんかをかついでいたので、家の者のめんどうはちっとも見てもらえなかった。(略)保安たいに荷物をけんさされた。ときどきにせ者がいて切れものを全部とられた。(略)かぽちゃを川原の石にぶっつけて、さじで小さくきってにてたべた。(略)やっとの思いで三十八度線の近くまでくると、あちらこちらの道からひきあげ者がたくさん集って来て、二千人ぐらいの人数になった。そこで三時間ぐらい道路にずらっとならんでけんさをされて、通行ぜいをとられた。その間にぽくたちの前にいた人がマラリヤがおこって道路の上でぶるぶるふるえていたが、みな自分たちもくたくたにつかれているので、どうしてあげることもできず、かわいそうだったか、水をのましてあげることぐらいしかできなかった。(略)

 ここから十分ぐらい歩くと大きな道路に出たので、皆やれやれといって休んでいると、そこへ天幕村から日本人の世話係の人がむかえに来てくださった。「皆さんおかえりなさい。みなぶしに帰られてよかったですね」といわれたときには、みなうれしなきにぽろぽろないた。(略)出発してから屋根の所で安心してねることが出来ると思うと、米軍のありがたさがしみじみとうれしかった。(略) 一週間ののちコレラのうたがいのない者だけ貨物列車で釜山までおくられた。釜山から六千トンの貨物船に乗せられたときは、これで内地へ帰れるといって、みなうれしさのあまりなみだをうかべた。

 あのときのうれしさは、いまだにはっきりとぽくは思いだすことができる。その日の夕方なつかしの内地の博多についた。明後日はいよいよ上陸というときコレラ患者が出たので、上陸は二週間のばされた。(略)姉ちゃんはえいようしっちょうのため、他の者より先に上陸させてもらって福岡の病院に入院した。姉ちゃんにはお父さんがついて伝染病の病室に入れられたので、姉ちゃんには窓からでないとあえなくなった。

 入院してからIカ月目にとうとう死んでしまった。その朝、窓から早く早くといわれて二略)ぽくと妹は手のぬけるほどお母さんにひっぱられて、姉ちゃんのへやへ行ったときには、もう死んでしまっていた。死ぬ前にははれていた顔が、死んでからすっかりはれが引いて、もとの姉ちゃんの顔になっていた。かんごふさんにアルコールできれいにふいてもらうと、「ほんとうにきれいでロウ人形のようだ」といって、同じ室の人がなみだをこぽしてくれた。せっかくここまで帰っておりながら……ほんとうにかわいそうだった。そのよく日、姉ちゃんは小さな箱の中の骨となってしまった。ぽくはこのかわいそうなお姉ちゃんのお骨を首に下げて、おばあさんの家に帰った。

 〈付記〉この作文の原稿は、当時の担任が保有されていて、昨春小学校の百年祭に発表され、初めてこのような思い出を書いていたことをしりました。 父 金田豊吉
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