この死からの脱出-私の引揚体験記 その1

■海を渡って38度線突破  小西静子(二十年十一月 北鮮・清津より引揚)
 
 北鮮の清涼から南鮮へ向けて出る最後の引湯列車、それも四両連結の貨車でした。二十年十一月初旬、日々厳寒に向かうこの土地に見切りをつけたのです。 ほんとうに着のみ着のままでした。ソ連軍の切断作戦のためこの町もしだいに反日のきざしが強くなって来ました。きょうまで何百里歩きつづけたことでしょう。地下足袋もいつしかすり切れ、家から持ってきた主人の鬼足袋も十里ほどで足裏が血に染まってきました。衣類もぼろぼろ、背中の子供も投げ出したくなるような重さでした。胸は負い紐で傷が痛みました。いまはただ汽車に乗り、たとえ少しでも内地に近づくことが出来ると思えば、狂喜にも似た気持ちで一杯でした。運転手は北鮮の人とソ連兵だったようです。しかし期待していた列車は、二、三の駅を走っては二日も三日も止まったきりで動こうとはしません。夜ともなればソ連兵が貨車を破って侵入し、いつもの略奪です。私達はきょうまでそんなことは馴れていますが、ただ婦女子を襲うことだけが恐かったのです。またあるとき北鮮の人がわめきながら車の中に乱人して来て。
 「この汽車は我々のものだ。日本人は降りてしまえ」と叫び一人の男がソ連兵をつれて来ました。窓口で事情を話していた日本の男の人が銃で殴られ、ただ無言のまま立っております。鬼のような形相のソ連兵が、こんどは私達に銃口を向けました。「皆さん伏せて下さい」と一人の老人が叫びました。薄笑いさえ浮かべてソ連兵は車から降りて行きました。

 さて八十名あまりの人がI貨車にすし詰め状態のまま、ちょうど1ヵ月ぶりに私達はキンコウという町へ降ろされたのです。久しぶりに駅で手足をのばし、コンクリートを床に夜を明かしました。さて虎の子のお金も千円になり、金の切れ目は命の切れ目にならぬよう、一日も早く京城へ脱出したい心でいっぱいでした。

 キンコウから南鮮へ山を越えて鮮満の人々が歩いております。日本人は私達二組、みんなで八名でした。服装もチマとチョゴリでした。でもこの単独突破は朝鮮の少年に見破られ、「ヤッポン助だ」とソ連兵に密告されて捕まり、とうとう失敗してしまいました。

 さて待望の二度目の突破の日がやって来ました。昭和二十一年二月四日、それこそ劇的な死にもの狂いの1ページでした。当時、私達は地理的に有利な海州の高台に収容されていたのです。明けても暮れてもみんなと脱出の話ばかりでした。この海州の引き潮を利用して対岸へ渡れば南鮮でした。その決行の夜がいよいよきょうなのです。

 その夜は淡い月光が私達を祝福するかのように……星も光っておりました。すべての準備を終えて私は子供を背中に、鍋を首にぶらさげました。手に食糧です。主人の後につづきます。みんな息を殺して保安隊の詰所を通り、村のあぜ道を静かに抜けて息をつくひまなく引き潮の海上に走り出したのです。 無人の海はなにか無気味なほど閑静でした。あちこち大きな沼がまるで怪物のように口を開け、視野のつづく限り暗黒の別世界のようでした。後方の女の人が悲鳴をあげています。人々のざわめき。銃声が二度、三度聞こえました。朝鮮人の案内人が逃げようとしています。私は無意識にその人の手をつかみました。「あんたは私達を見殺しにするのですか。この海の真ん中で私達はどうしたらいいの」と哀願したのです。
 「奥さん、向こうのほうに灯が見えるね。あれはソ連の飛行場。早く逃げなさい」そうこうするうちに、半分くらいの人が前進するのを諦めたのか、背後に人影はありません。もちろん案内人もいなく月は
雲にかくれて、あたりは暗くなってきました。ふと前・を見ますと、藤本さんが幽鬼のように立っております。連れて来た女の子三人が見えないのです。問いつめましたら、「みんな沼にはまって死んでしまった」と男泣きしています。瞬間何か冷たいものが私の背筋を走ったのです。

 後方から小山さん一家四人が近づいて来ました。お題目を唱えています。もう何時間すぎたのか。それより飛行場の灯の遠いこと。近くに見えては私どもを嘲笑するように明滅しています。だんだん疲労も激しくなり、足もとが浮いたようになってきます。睡魔がおそってきます。ふと夢の中で子供の泣き声がしたようでした。

 立って前方を見ますと、右の方向に黒い長蛇の列がうごめいて見えます。そして赤ん坊の泣き声が聞こえてくるではありませんか。私は懸命に泣き声の方へ走り寄り、うしろの男の人に助けて下さいとすがりつきました。それはこの土地の引揚者の人達でした。
 「御苦労さんでした。どこから来たのですか。私達のあとから離れないでついて来て下さい」とまるで神様の声のようでした。海を渡りきったところに大きな川が流れています。腰まであったと思います。無我夢中で渡り、やっと岸へ上陸することができたのです。待望の三十八度線脱出が成功したのです。時刻は夜も白む午前五時ころでした。

 私達の四十名中八名がこの海の犠牲者になってしまいました。みんな沼に足を取られてなくなったのです。私達の身代りになられた人々の冥福を祈りつつこの記を閉じます。



■ピストル出せと拷問  細野淑子(21年9月満州・チチハルより引揚)

 私の一家十人は、北満のチチハル市に住んでおりました。両親と八人兄妹で、終戦当時、兄は二十四歳で長女の私が二十二歳、一番下の弟は小学校の二年生でした。 日本への帰国が開始されていた昭和二十一年の九月初め、父と母は事情があって八人の子供を残し、一足先に日本に帰国することになりました。半月遅れて子供八人は引揚列車に乗ったわけでした。両親の事情というのは、こんなわけでした。

 昭和十二年から満鉄社員だった父は、大変に大陸が好きで「満州に骨を埋めたい。せまい日本には自分は住めない」とも話して、満州がとても気に入っていたようです。昭和十六年の秋、父がチチハル鉄道局に転任になったので、一家は住み馴れた奉天を離れ、北満のチチハル市に移りました。一家十八は満鉄社宅に落着いて平和に暮していました。その後、戦況はしだいに悪化の道をたどり、「日本は戦争に負けるのでは?」などささやかれる中で、昭和二十年七月、兄は応召され、消息の知れぬまま八月十五日の終戦を迎えました。

 兄は満州にいるのか、南方にでも回されているのか、毎日案じていました。父は当時五十二歳で、体格もよく、働き盛りでしたが、終戦で満鉄が崩壊して父の運命にも変化が始まっていました。満鉄で父が防衛関係の仕事をしていたので、終戦後まもなく中国の官憲から取調べを受けるようになり、何度も連れ出されました。父の仕事の関係上、武器をどこかに隠匿してはいないかというものでした。
父は終戦時、武器は関東軍に引渡し、整理のついていることを申し述べましたが、なかなか信じないのか、ピストルはないかといって押入れの中を必死になって捜したりされました。

 連れ去られた父は「ピストルー丁でもよいから、出したらすぐ釈放してやる」とおどされ、次には拷問を受けました。山口県の萩に生まれ武家屋敷に育った武骨な父は、「ないものはない」と一喝したそうですが、そのたびに拷問が加えられ、若いころ軍隊できたえた体に自信のある父も、全身に青いアザをつくられ放りだされて帰宅するしまつでした。家で養生して体がすこし回復したと思うころ、また顔ぶ
れの違った連中が乗り込んで来て、父をロープでしぼり、町制に乗せてどこかへ連れ去るのでした。そんな父の様子を訴える警察もなく、家族は敗戦のみしめさをかみしめるだけでした。

 そのうち、父の友人や知八が力となって父を助けるために運動してくれましたが、ピストルー丁でも戦利品として入手したい一味によって、父が連れ去られることもわかり、母がお金を包んで連絡の者に渡すと、父は早く帰れるようになりました。しかし、このまま同じようなことをくり返していると、拷問によって父の体がもたなくなるからと、知人の家に父と母はかくまってもらうことになり、社宅をでて四キロ離れた家に移り、静養することになりました。

 そんなとき消息不明だった兄が、ひょっこり帰宅したので、弟妹の喜びようは大変なものでした。北安の山奥で武装解除を受けた兄は、満鉄社員だったため釈放され、南下する貨物列車に身をかくして帰宅、戦友はシペリアに連行されたのでした。

 日本人の引揚も近いという話に、兄は父に代って露店に立って菓子を売り、八百屋を開いたりしながら、引揚の費用を準備しました。チチハル高女の四年生だった妹も男装して兄と露店に立ち、弟たちはソ連兵相手にタバコを売ったりしました。

 二十一年九月十四日、残暑の強い日ざしを受け、重いリュックを背に出発することになりましたが、お隣りの石原さん宅の奥さんが心臓病で歩けないので、担架を造り、四八の男子で持つことになり、兄もその中の一八として病人を連れ、重い荷を背に、七人の弟妹を連れての引揚が始まりました。
 なかでもハルビンと新京間の鉄橋が爆破されているところでは、全員下車して次の駅まで歩いたのですが、その光景は忘れることができません。焼けつくような大陸の陽を受けて、重いリュックを背にした人々は、ただ下をむいたままあえぐように十三キロ余りを歩きました。病八の担架を持った兄たちは、汗を流して}歩一歩進み、途中病人を地に置いてご主八が注射を打つのですが、そのとき病人は弱々しい声で担架を持つ四八の男子に、「本当に済みません」といっておられた言葉を思いだします。

 二十分、三十分と歩くうち、人々はリュックの中から毛布を捨てる人、オーバーを投げる人、終りには食糧まで捨ててゆく人……。隊列は乱れ、弟妹も遅れてヨタヨタ歩いておりましたが、兄はふり返りながら「死にたくなかったら早くオレについてこい」と叱咤したものでした。そして無事萩まで、兄妹八人たどり着きました。

 毎年八月十五日には八人の兄弟が集まり、赤い夕日の満州、重いリュックを背に歩いた十三キロの遺のりの話に花が咲きます。子供と別れ、病院列車で引き揚げた父は、萩に帰国してまもなく他界しました。
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