オランダの捕虜・戦犯収容所 

オランダの捕虜・戦犯収容所
「組織的テロ行為」含め死刑236人

■捕虜をいたぶり尽す残虐非道
 オランダ領東インド(蘭印)地区において、オランダが終戦後、開設した軍法会議は次の十二ヵ所におよんでいる。

 ジャワ島のバタビア
 セレベス島のメナド、マカッサル
 ボルネオ島のバリックパパン、パンゼルマシン、ポンティアナック
 スマトラ島のメダン
 チモール島のクーパン
 ニューギュア島のホーランディア
 アンボイナ島のアンボン
 ハルマヘラ島のモロタイ
 ピンタン島のタンジョンピナン

 ここで裁かれたBC級戦犯は一千人以上、アメリカが裁いた一千四百人に次ぐ。また、死刑二百三十六人という数は、五ヵ国(アメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、フランス)中では最大である。
 
 この戦犯容疑者たちは、オランダ軍などによって残虐な取り扱いを受けた。その虐待の種類は、想像を絶するはどの多岐にわたり、その程度においても苛酷を極めている。
 虐待は武装解除されて逮捕された瞬間から始まり、長期の未決拘留中にも行われ、判決に至るまで続ぃだ。

 たとえば、アンボンで十五年の刑を宣告されることになる森田正一郎(三十三歳、和歌山県出身)
の手記によれば、昭和二十一年四月、モルッカ群島中のセラム島桟橋に出頭させられた森田ら約百五十人の抑留者たちは、オランダ軍兵士による虐待の餌食となった。自動小銃を構えた兵士に、抑留者らは所持品を片っぱしから奪い取られ、黒山の見物人の前で軍靴で背や横腹を蹴られ、鉄拳や銃床、で殴られ、海中に突き落とされた。桟橋から収容所までの約三キロの間では、軍隊式歩調で行進させられ、途中、住民や兵士に棒で殴られ石を投げられ罵声を浴びせられ、頭から血を流すものが続出している。

 さらに収容所に着くや、全裸のまま身体検査を受け、昼食抜きで夕方まで井戸掘りや倉庫建設などの作業をさせられ、夜間は、便器の悪臭が充満する一坪の空間で五人が折り重なって寝かされた。
交代で入ってくる警戒兵にまで銃剣を突きつけられて物資(提供)を強要されたのである。
 この例に出てくるような虐待は、むしろありふれたケースで、蘭印各地で日常的に行われていたといっても過言ではない。

 ジャワの刑務所では、もっと極端なケースも見られた。作業中の着衣を禁じられ、炎天下、もっこ揮ひとつで働かせられたのである。しかも、作業場の出人りに際しては、戸口に居ならぶ看守十数名の前を、揮をはずし局部を見せながら行列して通過させられた。

 アンボンの陸軍病院では、釘抜きで歯を抜かれたという信じられないような話もある。歯痛治療を同病院に申し出たところ、オランダ軍医が口を開けと言う。口を開くと、軍医は背後に隠し持っていた釘抜きで健全な奥歯二本をいきなり挟む。
大きな釘抜きを喰えこんでしまったので声をたてることもできないまま、奥歯を抜きとられた。出血も止まらず、約半里の道を血を吐きながら帰ったのだという。

 また、スマトラでは、酷熱の砂浜で砂取り作業をさせられたが、能率不良ということでオランダ軍下士官に革のムチで殴られた。そのうえ、大腸を凝視しながら砂上で直立不動の姿勢をとらされ、それ二時間も続けられた。南方の太陽をそんなに長く視ておれるものではない。しかし、眼を閉じ顔をそむける者は背後から銃で殴打されたのである。

 このような虐待が続くと、病人、死者が出るのは当然である。さらには自殺者も出、殴り殺された者もいる。

 ボルネオのバンゼルマシンの判決でニ十年の刑を宣告された平野重治(四十五歳、長崎県出身)
の手記には、粗食と減食のなかで働かされ、ついに倒れていった者の個人名が刻まれている。炎天下で処刑者の骨掘り(墓穴掘り?)を昼食抜きで二日間やらされ、その間しばしば殴られ、ついにある夜自殺した藤井という人物、昼食抜きで終日、防空壕崩しをやらされ、発病して死んだ三缶という六十六歳の老人、三日間の病臥で死亡した尾前、長椅子に俯向きに縛られ、棍棒で殴り殺された秦等々、以上は、いずれも未決拘留中の虐待であるが、取り調べ、裁判のプロセスにおいても肉体的暴力や不法、不当な扱いが常態であったようだ。

■取り調べという名の拷問
 裁判が準拠した主な法律は、「戦争犯罪の定義に関する条例」と「戦争犯罪処罰に関する条令」。
いずれも、終戦後の一九四六年に制定された事後法である。かつてヒトラーの事後法を非難攻撃した連合国は、自らもまたあえてその不法を犯したことになる。裁判を構成した三人の裁判官はオランダ軍人だったが、戦時中、俘虜として抑留され、日本人に対する復讐、憎悪の感情が激しい人が多かった。この一事をもってしても、裁判に構成を期待するのは所詮無理というものであろう。不公正を物語る具体例は数多いが、その一端をピックアップして見るとーー。 容疑者の取り調べに当たったのは、オランダ人の警察署長クラスであるが、取り調べに際し拷問にかけられた人が少なからずあった。

 西田象三(ジャワ 十二年 五十八歳 広島県=順に、裁かれた法廷、刑期手記を書いた昭和二十七、八年当時の年齢、出身地。以下同様)の記録するところによれば、スォーデンというオランダ人取調官は最も非道の人物。答弁が気に入らないというので、西田はこの男に殴られて歯を一本折られ、もう一本は緩んでまもなく脱け落ちてしまった。また、電灯もなく蚊の多い独房に放りこまれたともいう。

 さらに、この取調官は西田の部下にもいろいろな拷問を加えたと、西田は書いている。やはり期待通りの答弁をしないという理由で、六十歳以上の高齢者の顔面を殴打、出血しているのに炎天下、無帽で立たせたり、のちに死刑となったある人物に対しては、蚊の多い独房にまっ裸で入れ、十日以上も放置するという非道ぶり。
 また、西田によれば、別の取調官はのちに死刑となる日本人通訳を糞壷に首までつけて数時間放置したことさえあった。
 
 伊藤友衛(セレベス 無期 四十歳 宮崎県)という元憲兵准尉も、すさまじい拷問を受けている。
伊藤本人の手記によると、取り調べ官二名が長さ一メートル、直径三センチぐらいの棍棒で伊藤の全身をところ構わず殴り、うち一名は興奮逆上して拳銃を技いて安全装置をはずし、伊藤の胸に突きつけて威嚇。続けて、伊藤にキリキリ舞を命じてやらせ、伊藤が目まいで倒れると、野蛮な叫声をあげて再び殴りかかり、特に頭部を強打した。

 その後、チリの半分ぐらい入っているチリ籠を頭からかぶせて不動の姿勢で立たせたが、やがて伊藤が脳貧血を起こして倒れると、二人は伊藤を土足で踏みつけ、蹴り飛ばした。こうして拷問は、実に四時間にもおよんだのだという。

 取り調べ陳述書の作成においても、違法や改ざんが目立つ。読み聞け″をしないまま、署名を強要する例がかなりあるし、「お前は在任中、一名も犯人を逮捕したことはないか」と聞かれ、「毒物詐欺事件犯人として一名の支那人を逮捕しました」と答えたところ、陳述書には「私は一名の支那人を棒で殴りました」と記載されでいたなどというデタラメもあった。

 「英米の法廷とくらべて、オランダの法廷に特徴的なことは、組織的テロに問われるケースが多かったことだ。先述の準拠法「戦争犯罪の定義に関する条例」の第一条第二項に定められた「組織的テロ行為」に該当するケースとして、憲兵隊、俘虜収容所、抑留所、刑務所、警察などはテロの組織体とみなされ、その構成分子まで処罰されたのである。つまり、英米の法廷では、命令の実行者は無罪または減刑処分となるものとされていたが、オランダの法廷では命令者も実行者も同等に罰せられた。

 たとえば、スマトラ派遣の憲兵隊員・木原清一(メダン ニ十年 四十一歳 愛媛県)は、四十件余りの事件で訴えられたが、ほとんどは木原と無関係であった。にもかかわらで、単にその憲兵隊に属していたという理由により組織的テロの罪名で処罰されている。

 次のように、明らかに冤罪と思われるケースも存在した。
 アンボン憲兵隊において検挙取り調べ中であった支那人が病死したことがあったが、憲兵曹長の安村大熊は、この支那人を拷悶死させたとして告訴された。しかし、安村曹長はこの件に無関係であり、実際に取り調べに当たった関係者は全員帰国してしまっていた。安村の名を知っているというだけで、支那人の妻は告訴したのである。アンボンでは対日感情が悪かったにもかかわらで、村長をはじめその他有力者が安村側の証人に立ち、また、日本人も不在証明のため証人として出廷した。だが、結局、安村は死刑を宣告されて処刑されてしまったのである。

 冤罪というよりはデタラメも極まったというべきなのは、遊佐早雄(バタビア 十五年 三十四歳 宮城県)の場合だ。
 その告発状には、遊佐はインドネシア人陰謀団関係者の警察署長スロジョという人物を検挙、拷問致死せしめたとある。しかしながら、戦後になって進駐した英軍の命令によって逮捕された遊佐を拘留したのは、なんと警察署長スロジョ当人なのである。告発が虚偽であることは火を見るよりも明らかだ。

■「口惜しかったら、戦争に勝てばよい」
 公判廷でいちばん問題となるのは、反日感情を侍った裁判官の訴訟指揮だろう。

 白土伍郎(アンボン 二十年 三十五歳 千葉県)は、インドネシア人八人を拷問したとして告訴されたが、法廷における証人尋問で告訴内容がすべて事実無根であることが判明した。普通なら、ここで無罪結審となるはずのところだが、裁判長は証人に対し、「あなたは、戦時中の対日協力により十二年の懲役に服務中であるにもかかわらず、今なお日本人に協力するつもりなのか」と脅迫したというのだ。そのうえで、こう誘導訊問をしたのである。
 「被告人が戦時中、インドネシア人の取り調ベに当たって拷問したのを、あなたは初め現認したではないか」証人は結局、これを受け入れ、 「被告人が太さニセンチ、長さ五十センチの棒切れで二・三回軽く殴打するのを見た」と証言するに至った。裁判長は、これに対する被告の反対訊問を拒否して閉廷、白土被告の二十年の刑が確定したものである。

 次の例は、裁判長と検事が連携して有罪判決がくだされたケースである。

 斉藤正吾(アンボン 二十年、三十二歳 愛知県)は、三人のアンボン兵に告訴され逮捕される。告訴内容は言語に絶する拷問虐待を加えたというものであったが、数回にわたる取り調べの結果、事実無根であることが判明して不起訴となった。同僚とともに帰国を許され待機していたところ、交代した新任の担当検事が先の一件を再び蒸し返し加えて新たな容疑も追及してきたのである。
 新任検事はデハースという中尉だったが、斉藤の反論抗議に対して、彼はこんな暴言を浴せたという。
「お前は口惜しいか?口惜しいというのならなぜ戦争にまけたのか。日惜しいくらいなら戦争に勝てばよいのだ。敗戦国民が戦犯になるのは当然である。それとも、お前は日本人ではない、敗戦国民でないというつもりなのか!」

 ここには、この戦犯裁判の本質が如実に露呈されている。
 かくして起訴された斉藤は、公判廷において三人の告訴人と対決、告訴が誣告であることを暴露した。三人のうちの一人は、「実は検察官に強要されて証言したんだ。お前に関する限り全部、作りごとだ。嘘を言ってすまなかった」と、斎藤に謝罪した。ところが、裁刑長はこの証言をひるがえした告訴を詰責したのである。

「お前は、以前に検察に対し供述したことが全部嘘だというのか? もし嘘だとすれば、誣告罪として懲役八年に処さなければならない。だが、何か勘違いをしているのであろう、今ここでもう一度前の証言が真実であることを宣誓できるか」告訴人が裁判官の言うとおりにしたことはいうまでもない。

■無きに等しかった弁護活動
 このように裁刑官までもが敵対する状況にあっては、被告が頼れるのは日本人弁護人しか居ないとはいえ、この弁護士があまり役に立たなかったのである。

 渡辺正司(ボルネオ 二十年 三十八歳 新潟県)
によるとジャワその他の法廷には日本人弁護団がいたけれども、ボルネオ島のポンティアナックには渡辺らの公判が決審に至るまでついに専門家が派遣されることはなかった。
そのために同じく戦犯容疑に問われている同僚の中から弁護人を選ばざるを得なかったのだが、何しろ専門家ではないから、弁護闘争を始めさまざまな不利不都合が生じたは当然である。
 
「仮に日本側が公刑事前に正式弁護士を派遣されていたら、一、二の死刑者を除き減刑もしくは無罪をもって放免せられ得る者があったはであり遺憾に堪えない」と、渡辺は書き残している。

 だが、弁護士がついた場合でも、渡辺の期待は裏切られたに違いない。というのも、弁護活動には様々な制約があって、無きに等しいのが実態であったからだ。弁護士は、人数も少なく、時間の制約や行動制限のために証拠収集も不可能、オランダ語がわからないから法廷で反論することも出来なかった。
 弁護どころか、オランダ側の歓心を買うことに窮々としている弁護士さえいたというのである。

 しかしながら、こうした状況下にあって、自ら進んで弁護人となった栗栖弘臣(のちの統幕会議議長)の活動はせめてもの救いであろう。
 栗栖の世話になった清水利行(マカッサル 二十年 三十四歳 長野県)によれば、栗栖は自らの衣類や私物を売ったり、酒タバコをやめ往復の車代を節約したりして、収容者に差し入れするなどの世話をする一方、裁判資料の収集、整理、公刑対策の指導、弁護文書作成、減刑嘆願、死刑者に対しては遺言の作成、刑場の立ち合い、遺品の整理などに病身をおして奔走したという。

 「裁判に臨んでは、もちろん最大の努力を惜しまず闘ってくださったが、軍事法廷の特殊なる状況下において弁護士の活動は制約されて成果は期待できなかったが、これは弁護士の誠意が足りなかったのではなく、オランダ当局がこれを許さなかったのであって、弁護士栗栖氏の努力と厚意に対しては心から感謝している」
 と、清水の手記には深い感謝の言葉が記されている。


 ともあれ、蘭印地区の戦犯裁刑を支配したものが何であったのか。それは、メダンで十五年の刑を受けた森重義雄の、次の獄中歌に集約されているといえる。

神の御名によりて 裁くと言い放てど
  復習の眼 我は見にけり

『戦争裁判 処刑者一千』 戦記シリーズ23 新人物往来社 から引用
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