「抗日史観」を国家の「背骨」にせざるをえない韓国の「お家の事情」

国際派日本人養成講座 地球史探訪: 「お家の事情」の歴史観

■1.中国への謝罪要求は?■
 1992年の中韓国交樹立時、朝鮮戦争で中国人民解放軍が朝鮮半島を蹂躙したことに対して、中国政府が謝罪をするという情報が韓国外務省筋から流され、韓国マスコミが大騒ぎをした。
しかし駐韓中国大使・張庭延はテレビで「そんなことはあるはずがないし、これからも絶対に遺憾の意を表明する必要はない」と一喝し、それ以来、韓国マスコミは、謝罪に関して一切報道しなくなった。

 朝鮮戦争は韓国軍約42万人、民間人106万余人が命を失い、1千万人の離散家族が生じたという韓国近代の最大の悲劇である。

 日本政府に対しては、韓国の政権が変わるたびに居丈高に朝鮮統治に対して謝罪要求をする一方、中国に対してのこの及び腰は一体なんなのだろう。この明白な二重基準の根底に潜むのが韓国の特異な歴史観である。この点を知らずに「日本が心から謝らないから、いつまでも許してくれないのだ」などと考えているようでは、日韓のすれ違いがこれから先も続くだけである。

■2.日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった■
 韓国の特異な歴史観というのは、その建国の事情にからんでいる。韓国の国定教科書「中学国史・下」では次のように書く。

 われわれが光復(JOG注:独立)を迎えることができたのは、連合軍の勝利がもたらしてくれた結果でもあるが、この間、わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実でもあるということができる。

 確かに大東亜戦争勃発当時に上海にあった「大韓臨時政府」は、日本に対して宣戦布告をしたがそれきりで、内部抗争を続けるのみであった。

 そのために「大韓臨時政府」はアメリカにも中国にも承認されていなかった。せめてドイツ占領下のフランスでのレジスタンスのようにゲリラ戦でも行っていれば、連合国の一員と認められる可能性はあったろうが、それすらもなかった。

 終戦時、朝鮮独立派のリーダーの一人・金九は重慶で祖国上陸を夢見て韓国光復軍を編成し、訓練を積んでいたが、日本降伏の報に接して、天を仰いで長嘆息し、次のように言ったと伝えられている。

 韓国軍は日本軍を打ち破ることは一度もなかった。わたしは、日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった。

■3.2日間で下ろされた太極旗■
 それでは韓国の「光復」はいかにもたらされたのか? 昭和20年8月15日に終戦を迎えると、朝鮮総督府の遠藤柳作・政務総監は朝鮮語新聞「中央日報」社長・呂運享と会い、一切の統治機構を韓国人の自治組織に引き渡すことを申し出た。

 呂運享は、その日の夕方、自らを委員長とする「朝鮮建国準備委員会」を組織して、総督府から治安維持の権限を引き取り、放送局や新聞社などの言論機関を引き継いだ。建物という建物には、民族の旗「太極旗」が翻った。

 しかし連合軍は8月16日に総督府に機密命令を発し、しばらく朝鮮統治を続け、統治機構を保全したまま連合軍に引き渡すように命令した。18日、総督府はやむなく行政権を取り戻した。太極旗が下ろされ、ふたたび日章旗が掲げられた。

■4.蚊帳の外の「朝鮮人民共和国」■
 朝鮮側は激怒したが、なすすべはなかった。呂運享は半島全土に「朝鮮建国準備委員会」の支部を作らせ、ソウルに1千名余りの代議員を集めて、「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言したが、米ソ両国はこれを無視した。

 9月8日、米軍が仁川に上陸すると、「朝鮮人民共和国」の代表が迎えたが、まったく相手にされず、逆に500人ほどの朝鮮人が太極旗を掲げ、花束をもって米軍に近寄ろうとしたら、米軍が勘違いして発砲し、多数の重軽傷者が出る有様だった。

 9月9日、アメリカ側は沖縄第24軍団ホッジ中将、第57機動部隊司令長官キンケード大将、日本側は朝鮮総督・阿部信行大将、朝鮮軍管区司令官・上月良夫中将との間で、休戦協定が結ばれたが、朝鮮側はまったく蚊帳の外に置かれていた。

 ルーズベルト大統領はヤルタ会談で、朝鮮半島は独立させず、連合国による信託統治とし、その期間は20年から30年くらい必要だと述べていた。

■5.日本と一緒に大東亜戦争を戦った朝鮮■
 なぜ米国はこれほど徹底して朝鮮独立勢力を無視したのか?
一つは韓民族としてまとまって国家を運営していく準備があるのか、という疑問があった。現実に「光復」後も朝鮮独立のリーダー達は内部抗争に明け暮れ、呂運享も、その政敵だった宋鎮禹も、そして「暗殺の神様」と言われた金九自身も、政争の中で暗殺されている。

 もう一つは、韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、めざましい働きをした軍人たちである。まず陸軍中将まで栄進した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人として最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満洲国軍中尉だった。

 こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神社に祀られている。

 一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。

「(日帝は)戦争協力のため韓国の人的・物的資源の収奪に狂奔した」と韓国の高校国史は書くが、目立った反乱もテロもゲリラ活動もストライキもなく、これだけの戦意の高揚を見せつけられれば、それをすべて日本軍国主義の強制によるものと見なすのは事実として難しい。

 アメリカから見ても、韓民族は日本と一体となって、戦争に邁進していると見えたはずである。そういう民族を分離独立させたからと言って、すぐに連合国の都合の良いように振る舞うはずがない、と考えるのは、ごく自然だろう。ルーズベルトが2,30年の信託統治を考えたのも、十分理解できる。逆に、朝鮮総督府がアメリカの占領前に慌てて朝鮮を独立させようとしたのも、共に戦ってきた同胞としての信頼感があったからであろう。
■6.アメリカから与えられた独立■
 1945年12月、米英ソ3国はモスクワで外相会議を開き、朝鮮の独立は当面認めず、5年間の信託統治を行うことに決めた。当然、人民の多くはこれに反撥したが、北ではソ連がかつぎだした金日成ら共産主義者がソ連の思惑に従って信託統治案に賛成した。

 米ソは独立政府樹立を担うべき団体の選定で対立し、米国は1947年にこの問題を国連に持ち込んで、国連監視下で南北同時選挙を行い、独立政府を樹立することとした。しかし、ソ連は国連監視団の北朝鮮入りを認めず、南朝鮮だけの選挙となって、1948年8月15日に大韓民国が設立された。これに対抗して、北では9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立された。

結局、韓国が独立できたのは、アメリカが戦争に勝って日本の統治を覆し、3年間の軍政のあとで、ソ連に対抗して国連監視下で選挙を行わせたという経緯による。「光復」はアメリカから与えられたものであって「わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実」と言うにたる歴史事実は見あたらない。

■7.反抗期を持てなかった韓国■
 韓国独立の経緯はインドやインドネシアとはいかにも対照的である。インドのチャンドラ・ボースは、日本軍の協力のもと、イギリス軍から投降してきたインド兵を集めて、数万人規模の自由インド軍を創設し、日本軍とともにインド解放をめざすインパール作戦を敢行した。日本敗戦後、イギリスが自由インド軍に参加した約2万名の将兵を反逆罪で裁判にかけようとすると、インド全土で反英活動が展開され、数千人の死傷者を出したが、2年間の戦いの末、独立を勝ち得た。

 インドネシアも、独立派指導者スカルノ、ハッタを中心に、日本軍の指導のもと、3万5千の将兵からなるインドネシア義勇軍を創設し、日本敗戦後はこれを中核として、再侵略しようとするオランダ軍と4年5ヶ月も戦い、80万人もの死者を出しながら、独立を勝ち取った。

 インドも、インドネシアも、自ら独立を勝ち取ったという厳然たる歴史事実があり、それをそのまま歴史教育で教えれば、子供たちは祖国に誇りと愛着を抱ける。ことさらにかつての宗主国の悪行を針小棒大に教えたり、繰り返し謝罪を求める必要はない。独立国としての自覚を持つには、一種の「反抗期」が必要であり、インドもインドネシアも十分な反攻期をもったからこそ、現在はイギリス、オランダと大人のつきあいができる。

 それに対して韓国の場合には「独立はアメリカから一旦は取り上げられ、数年後に与えられた」では国家の体面として身も蓋もない。だからこそ日帝時代がどれほどひどかったか、それに対して韓民族がいかに英雄的に戦ったかを強調し、そしてそれを裏付けるために事ある毎に日本政府からの謝罪を引き出して、国民に示す必要があるのである。いわば「抗日」を国家の「背骨」にしているのである。

 中国が朝鮮戦争に関して謝罪しなくとも、韓国マスコミが激高しないのは、国家の「背骨」に関係ないからである。また再び謝罪要求をしても、冒頭に紹介したように、にべもなく拒否されたら、かえって韓国政府のメンツを潰すことになる、という事情もある。

■8.敬意と慰霊と感謝と■
 韓国の対日謝罪要求と反日歴史教育は、このような「お家の事情」によるものであり、歴史事実とは相当に距離のある政治的虚構が多分に含まれている。韓国がどのような「国定史観」を持とうと勝手だが、歴史事実に基づかない独断的な史観をわが国が受け入れなければならない理由はない。そのような事をしたら、かえって学問の自由を否定し、正確な歴史事実に基づくべき歴史学の健全な発展を阻害することになる。

 わが国としては、あくまでも歴史事実に基づいた客観性のある史観を持たなければならない。そのためには次の3点がポイントとなる。

 第一に日本による朝鮮統治をどう評価するか。韓国でも日本統治時代の歴史事実に基づく研究が進んでおり、経済史分野では再評価派が研究者の3分の1を占め、国史分野でも動揺が起きつつある。

 現実に日本統治時代のGDP成長率は4.15%と当時の先進国を上回り、人口も2.4倍となるほどの高度成長をしていたという事実があるのだから、客観的な研究をすれば、再評価派が増えるのは当然なのである。この高度成長に関しては日本側の貢献もさることながら、韓民族の努力と能力への敬意が払われてもしかるべきだろう。

 第二に大東亜戦争で日韓が一体となって戦った事実をどう受け止めるか。日本人が靖国神社を参拝する際には、そこに一緒に祀られている朝鮮人2万1千余柱、台湾人2万8千余柱への慰霊も忘れてはならない。

 第三に朝鮮戦争を日本としてどう評価するか。この戦争で韓国側が負けて、北朝鮮のようなテロ国家が今の何倍もの国家規模で玄界灘のすぐ対岸に存在していたら、わが国の平和と繁栄は重大な脅威を受けていただろう。韓国軍が42万人もの尊い犠牲を出しながらも、果敢に戦ってくれた事に対する感謝を日本側は持つべきではないか。

 このような歴史事実を直視すれば、我々日本人が抱くべきは、韓民族に対する敬意と慰霊と感謝の情である。韓国側の「抗日史観」に対し、日本側が表では謝罪しつつ、裏では反撥するというのは、歴史事実に基づかない虚構の関係であり、そこからは真の相互理解も友好も育ち得ない。日本側は「敬意と慰霊と感謝」を表明し、韓国側も歴史事実に基づいた自信と誇りを確立する、というのが真の和解への道であろう。             (文責:伊勢雅臣)H13.05.20
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