サハリン残留韓国人への支援問題

East Asia News Watch
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戦後60年、薄れる「家族再会」の趣旨 理由見えず…いつまで続く
特集部 喜多由浩

いったいこの“奇妙な支援”は、いつまで続くのだろう? 日本によるサハリン残留韓国人への総額六十億円以上に上る支援のことである。当初は、冷戦で祖国へ帰れなかった人たちが家族と再会するための補助金だった。それが、一部勢力の声によって「戦後補償」のように位置付けられ、支援はエスカレート。戦後六十年近くたち、当事者が減ってしまった今もやめられないでいるのだ。

≪至れり尽くせり≫
 今年八月末、ロシア・サハリン(旧樺太)に住む韓国人(朝鮮民族)のために、日本が資金を負担した文化センターの起工式が行われた。総工費は約五億円。センターには、ホテルの機能やレストランも設けられるという。
韓国では、サハリンから永住帰国した人たちが住むアパートや療養院の整備が続いている。二〇〇〇(平成十二)年に韓国・安山に開設されたアパート(五百戸)の建設費は約二十七億円。療養が必要な人の定住施設には療養院があり、現在さらに増設中だ。
これだけではない。サハリンに住む韓国人は一定の条件を満たせば家族との再会のために日本の負担で韓国へ一時帰国することができる。一九八九年の開始以降、ひと通り希望者が一時帰国をしたため、数年後には二巡目が行われ、現在は三巡目に入っているという。
三年前からは逆に、韓国へ永住帰国した人たちが、サハリンに残っている家族・親族に再会するための「サハリン訪問」への支援も始まった。まさに、至れり尽くせりではないか。

≪日本が“火をつける”≫
 こうした支援活動は、八九年に日韓の赤十字によって設立された「在サハリン韓国人支援共同事業体」によって行われている。
共同事業体とはいっても、永住施設の建設費や一時帰国者の渡航費などを負担しているのは、もっぱら日本側だ。現在までの日本側の拠出総額は約六十四億円(韓国側は土地代や年金の形で永住帰国者の生活費などを負担)。日赤国際救援課などによると、「『帰りたい』という人がいる以上、今後も支援は続ける」という。

 冷戦などによって、長く帰国を許されなかったサハリンの残留韓国人が家族と再会する事業(当初は日本で再会)は約二十年前、日本にいる民間人によって始められた。当初は公的な支援もなく、費用は個人で負担するしかない。少しでも国庫で負担しようというのが、支援の趣旨のはずだった。
だが、一部の勢力によって起こされた裁判などの過程で、「日本によって四万三千人がサハリンに強制連行された」「日本人だけがサハリンからさっさと引き揚げ、韓国人だけを置き去りにした」などと、事実とかけ離れたことが声高に叫ばれ続けていた。

 国会でもこうした間違った認識を前提とした質問が繰り返され、日本が支援を行っても、「まだ足りない」「責任は日本にある…」と追及した。これに呼応して韓国側やサハリンの韓国人からも、日本の責任や補償を求める声が強まり、支援はいつの間にか「戦後補償」のように位置づけられ、野放図に増えていったのである。

≪本来の目的はどこへ≫
 問題は他にもある。数年前にサハリンを訪れた産経新聞の記者は、現地の韓国人からこういわれた。「私たちは戦前、自分の意思でサハリンへ来た。それなのに日本のお金で韓国へ連れていってくれるとはありがたいことだ」サハリンにいる韓国人(朝鮮民族)は何も、日本時代に募集や徴用で渡った人たちばかりではないのだ。支援の対象者を実際に選ぶ作業は、韓国やサハリン側に任されており、日本側はチェックする手段がないという。

 韓国への一時帰国は、すでに何年も前から、本来の目的であった家族再会は隅っこに押しやられ、付き添い役の二世、三世が主体となった“買い物ツアー化”が指摘されている。
夫とともに残留韓国人の帰還運動を続けた堀江和子さん(七七)は、「本当に祖国へ帰りたかったお年寄りたちはもうほとんどいない。日本に支援するお金があったら、ほかの困っている人たちに回すべきではないか」と話している。

 サハリン残留韓国人問題について、「日本の責任がまったくなかった」というつもりはない。ただ、支援はもう十分したのではないか。「理由のない支援」や「実効性のない支援」に多額の税金が注ぎ込まれるのでは困るのだ。(特集部 喜多由浩)

■サハリン残留韓国人問題と日本の支援
 日本時代にサハリン(旧樺太)へ企業の募集や徴用などで渡った韓国人(朝鮮半島出身者)の多くが戦後、ソ連(当時)によって帰国を認められず、数十年間、当地にとどめられた問題。当事者の1人であった強調文e="color:#0000ff">朴魯学氏(故人)と妻の堀江和子さんらが昭和30年代に日本へ帰還して、同胞の帰還運動を開始。
当時はソ連と韓国の間に国交がなく交渉は難航を極めたが、ソ連のペレストロイカや冷戦の終結も
“追い風”となり、日本での家族再会や韓国への永住帰国が順次、実現した。
日本政府は一貫して「法的責任はない」と主張してきたが、この問題が関係各国を巻き込んで政治問題化していくなかで、「人道的な見地からの支援」がふくらんでいく。

 在サハリン韓国人支援共同事業体の支援によって、今年3月までに延べ1万4678人が韓国へ一時帰国、1497人が永住帰国した。また、韓国からサハリンへの家族訪問では今年3月までに1577人が参加。サハリンではマイクロバスの提供なども行われている。

産経新聞 平成16(2004)年10月25日[月]
 凛として サハリンの同胞を救った夫婦 朴魯学・堀江和子(1)

北朝鮮による拉致被害者や家族の報道が今、連日のように新聞やテレビで流されている。
「私たちも同じような立場になっていたのかもしれない」堀江和子(七七)はそう思うと胸が詰まった。長い間、母国の政府が関心すら持たず、救出に動こうとしなかったという意味では、拉致被害者もサハリン残留韓国人問題も同じだ。“祖国から忘れられた存在”ほど悲しいものはない。海を隔てたすぐそこに自分の国があるのに…。

◆◇◆

 終戦まで、樺太(現サハリン)には四十万人以上の日本人がいた。酷寒の不毛の地に、日本人が鉄道や道路を通し、産業を根付かせたのである。和子は昭和二(一九二七)年、樺太・西海岸の真岡(現・ホルムスク)で生まれた。
十一人兄弟の三女。大正期に樺太へ渡り、製紙会社に勤務していた父が十七年に亡くなるまでは、暮らしぶりも良かったという。
すべてを変えたのは終戦、そしてソ連軍の突然の侵攻だった。和子はその日のことをよく覚えている。「ぼろぼろの格好の兵隊が行進していた。腕には日本人から奪った腕時計がいくつも巻いてあり、万年筆や着物を欲しがる兵隊もいた。言葉も分からず、とにかく恐ろしかった」
やがてソ連軍は日本人が築いた施設を次々と接収し、住民には職場復帰を命じた。もちろん、だれも出国はできない。そして翌年、ソ連が行った人口調査で「日本人」と「無国籍者」とされた朝鮮半島出身者は完全に区別された。これが“悲劇の第一幕”であった。

◆◇◆

 朴魯学(パクノハク)(昭和六十三年、七十五歳で死去)は大正元(一九一二)年、日本が植民地支配していた朝鮮半島の生まれ。新聞広告で見た樺太人造石油の労務者募集に応じて、樺太に渡ったのは昭和十八年のことだった。
当時、樺太の給与水準は内地(日本)や朝鮮半島と比べても高水準で、それに魅力を感じて、海を渡る朝鮮半島出身者が少なくなかった。もちろん、「強制」ではなく、自分の意思である。戦争のために国民の動員を可能とした徴用令が朝鮮半島で施行されるのは十九年九月になってからだ。ただ、徴用を見越して募集に応じた人もいないではない。
朴は後に和子に、「一家のうち、いずれ誰かは(徴用に)行かねばならない。弟が病弱なので私が行った」と語っている。終戦を迎えて、朴は真っ先に故郷(現在の韓国)へ帰るつもりだった。妻と三人の
子供がいたからだ。だが、終戦から一年たっても、ソ連当局からは帰国について、何の沙汰(さた)もなかった。そんなとき和子との縁談話が持ち上がったのである。当時、兄の家にいた和子にとっても、帰国のメドが立たないまま、兄の世話になっているわけにはいかなかった。

 二十一年九月、朴と和子は結婚する。朴に妻と子供がいることは秘密だった。このことが、後に和子や韓国の妻、そして朴自身を苦しめることになるのである。

◆◇◆

 皮肉なことに、結婚から程なくして、和子は日本人の引き揚げが始まることを知った。二十一年十一月、「米・ソ引き揚げ協定」が結ばれ、日本人の引き揚げが決まったのである(二十四年までに、約三十万人の日本人が帰国)。だが、引き揚げの対象に「無国籍者」となった朝鮮半島出身者は含まれていなかった。当時、米占領下にあった日本はこの決定に関与していない。というより関与できなかった。だから「日本が朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」という指摘は事実でない。
(中略)
【サハリン残留韓国人問題】
日本時代に、企業の募集や徴用などで、樺太(現ロシア・サハリン=元来、日本の固有の領土であり、現在も帰属が決着していないという主張もある)に渡った朝鮮半島出身者約1万人(終戦時)が戦後も帰国を認められなかった問題。そこには、日本人妻約1000人もいた。
冷戦構造のなか、当時のソ連が友好関係にあった北朝鮮に配慮し、国交のない韓国への帰国を認めなかったためとされている。サハリンには戦後、北朝鮮地域などから2万人規模の派遣労働者が渡っており、これを含めた人数が一部で伝えられたことがあるが、彼らは日本とは関係がない。

 日本人妻は昭和30年代に夫や子供とともに日本への帰国を認められたが、それ以外の朝鮮半島出身者は出国できず、朴魯学・堀江和子夫妻らの帰還運動によって、帰国の道が開かれるまで、何十年もの間、サハリンに取り残された。
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