同胞4万救出作戦

国際派日本人養成講座( H16.08.15 )から引用
地球史探訪:同胞4万救出作戦

 内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、
日本軍将兵が立ち上がった。



■1.蒙古での玉音放送■
 昭和20年8月15日、張家口第2国民学校6年生の富田豊
は、強い日射しの照りつける校庭に級友たちと土下座していた。
夏休みだったが、正午に天皇陛下の玉音放送があるというので、
登校を命じられていたのだった。

 張家口は蒙古連合自治政府の一都市で、北京から2百キロほ
ど北西、万里の長城の関門にあたる。8月9日、ソ連軍が日ソ
中立条約を破って、満洲と同時に北方から内蒙古にも侵入して
くると、これらの地域に住んでいた邦人が、内蒙古の最南部に
ある張家口に逃げ込んできていた。

 玉音放送は雑音が多く、言葉も難しいので、小学生にはよく
分からなかった。校長先生も沈痛な面持ちで「大変な事態にな
りました」と言っただけだった。訳がわからないまま、不安を
抱きつつ家に帰ると、母のいとが泣きながらミシンを踏んでい
た。「どうしたの」と豊が聞くと「日本が戦争に負けたのよ」

■2.「これに対する責任は一切司令官が負う」■

 その15日夜、駐蒙軍司令官・根本博中将は、張家口の宿舎
で眠れない夜を過ごしていた。ソ連軍はその前日には張家口北
西44キロの張北にまで迫っていた。満洲に侵入したソ連軍に
関する情報ももたらされていた。

 ソ連軍は、在留邦人に対して、婦女子は手当たり次第に
暴行したり、着ている衣服や腕時計まで掠奪している。拒
否するものは容赦なく射殺するなど、暴虐の限りを尽くし
ているらしい。

 日本は降伏したが、このまま手を拱いていて、ソ連軍が張家
口に侵入すれば同じ地獄絵図が繰り広げられる。北方27キロ
にある丸一陣地にてソ連軍を食い止めつつ、時間を稼いで、邦
人4万人を北京・天津方面に脱出させなければならない。

 日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら、罪に問われるであろう。
その時は、一切の責任を負って自分が腹を切れば済むことだと、
覚悟が決め、根本中将は丸一陣地の守備隊に対して、命令を下
した。

 理由の如何を問わず陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅
すべく、これに対する責任は一切司令官が負う。

「軍司令官は、たとえ逆賊の汚名を受けても4万人の同胞を救
うためには、断乎としてソ連軍を阻止する決意だそうだ。」そ
ういう噂が口伝えに広がると、陣地内の将兵の士気は、一挙に
高まった。

■3.ソ連軍、現る■

 迫りつつあるソ連軍は、外蒙騎兵を含め、総員4万2千。戦
車・装甲車4百輌、砲6百門を持つ機甲部隊である。それに対
して丸一陣地を守るのは約2千5百名。重火器としては迫撃砲、
速射砲など数門づつあるのみだった。陣地とは言っても、小高
い丘を利用して所々にコンクリート製の機関銃座を設け、その
前面には幅6メートル、深さ4メートルの対戦車壕があるだけ
だった。

 8月19日、未明。細雨のなか、低くたれ込めた朝霧の彼方
から無数のエンジン音が響いてきた。煌々ととライトを照らし
た敵装甲車軍が朝霧の中から現れた。

 陣地前面の鉄条網付近には「ワレ抗戦セズ」という意思表示
の白旗が掲げられていたが、それを無視してソ連軍は戦車砲、
迫撃砲、機関銃による猛射を始めた。

 日本軍陣地の方は積極的戦闘は禁止されているので、応射は
厳禁していた。第一線将兵のはらわたは煮えくりかえっていた。
参謀の辻田新太郎少佐が停戦交渉をしようと、4人の軍使に大
きなシーツで作った白旗3本を持たせて陣地から送り出すと、
その白旗をめがけて撃ってくる。軍使の一人が耳たぶを打ち抜
かれて倒れた。「何という軍紀のない敵か」と辻田少佐は激怒
して、軍使たちを引き返させた。

■4.「一時避難」のニセ命令■

 20日午後、富田家に隣組を通じて通達が来た。「今晩一晩、
情勢が悪いので一晩分の非常食を持って、国民学校の校庭に集
まれ」という「一時避難命令」だった。いとは、わずかな着替
えと1食分の弁当を持って、豊と清美(8歳)、章三(5歳)
の手を引き、2歳の伊久代を背負って、夕方、差し回しのトラッ
クに乗った。夫は市内警備に動員されていたが、どこの家も同
様に男手は徴集されて女子供だけだった。

 トラックは学校でなく、駅に向かった。何千というほとんど
母子のみの群衆が押し合いへしあい、貨物車に乗り込んでいた。
子供はみなで尻を押し、引っ張りあげた。実は「一時避難」と
はニセ命令だった。引き揚げ命令を出せば、少しでも多くの家
財道具を持って逃げようとする。そのために集合が遅れ、また
持ち込んだ荷物で駅前は大混乱になる。短期間で4万人を脱出
させるための駐蒙軍の苦肉の策であった。

 満洲では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画した
が、居留民会が数時間での出発は不可能と反対し、11日になっ
ても誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗
せざるをえなかった。これが居留民の悲劇を呼んだのである。

 夜になっても、なかなか列車は出発しない。雨のそぼ降る中、
無蓋汽車にすし詰めの母子たちは濡れ鼠になって出発を待った。

 その頃、張家口から数十キロ南方の線路では、八路軍(中国
共産党軍)に爆破されて脱線した機関車と客車数両を日本軍の
一隊が必死になって取り除こうとしていた。4,5時間かかっ
て、車両を線路横の谷間に落とした。「これで汽車が通れるぞ」
「居留民たちが、やっと帰れるぞ」 疲れきった兵士たちの中
から声があがった。

 夜10時頃、北の大地の遅い夕闇の中を居留民を満載した一
番列車が通る。線路際に立って見送る兵士たちに、無蓋汽車の
上から両手を合わせて頭をたれる婦人の姿が、シルエットとなっ
て浮かんだ。

■5.白兵戦■

 その頃、丸一陣地にソ連軍が侵入を開始していた。約2百人
が対戦車壕の西端を回り込んで、背後に回ろうとした。その近
辺を守っていた増田中尉は、ただちに中隊の先頭に立って、
「突撃」と大声で呼号した。

 そのとたんに、機関短銃を打ちながら前進してきた敵兵と鉢
合わせとなり、反射的に軍刀を横になぐと、敵兵の首はころり
と落ちた。それから後は無我夢中だった。倒れた敵兵の死体を
飛び越えて突進し、血刀を振るって斬りまくった。

 8人目を斬り伏せた時、その後ろにいた敵の中隊長らしき人
物が何か叫んだ。「後退せよ」とでも言ったのだろう。敵は潮
の引くように一斉に退却した。増田中尉がほっとして腰をおろ
したとたん、全身に激痛が走り、立ち上がれなくなった。身体
の数カ所に銃弾が貫通して、血だるまになっていた。軍刀はひ
んまがって、鞘に入らなかった。

 陣地最右翼からも、ソ連軍が侵入してきた。手榴弾の投げ合
いのあと、日本軍は白ダスキをかけた銃剣突撃で、敵を撃退し
た。

■6.「元気で帰れよ」■

 豊の弟、5歳の章三は出発前から風邪気味だったが、列車の
中で40度もの熱を出した。母のいとは夜は自分の身体で雨か
ら守り、昼は手ぬぐいを顔にかけて烈日を少しでも遮ろうとし
た。持参した弁当もすでにない。

 駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦
心していた。17日頃から軍の倉庫にあった米や乾パンを沿線
の各駅にトラックで大量に輸送していた。(これが「軍が先に
逃げたとの誤解を与えたらしい。)

 トラックに乾パンを満載して、陸橋の上で待ちかまえ、通過
する列車に次々と乾パンを投げ入れた。駅で停まると国防婦人
会の人たちが炊き出しのおむすびを差し入れた。

 豊の乗った列車が、一面のリンゴ畑を通ると、警備の日本兵
たちが駆け寄って、「元気で帰れよ」と口々に叫んでは、リン
ゴをもいで列車に投げ入れてくれた。豊はその一つを受けとめ
た。赤いリンゴを噛みしめると、甘酸っぱい果汁が歯に染みた。

■7.「兵隊さん、これ食べて頑張って下さい」■

 八路軍の鉄道襲撃は執拗だった。周囲の山から居留民を満載
した無蓋汽車に銃を撃ちかけてくる。北京から急遽、救援にか
けつけた第118師団の将兵も、防戦に駆けずり回った。

 8月21日、張家口から約40キロ東南の宣化の駅では、広
い駅構内の何本もある引き込み線に引き揚げ者を満載した列車
20本ほどが一時停車していた。物資輸送のために山本義一軍
曹と部下20人がそこを通りかかった時、八路軍が襲撃してき
た。

 山本軍曹は「こりゃ、エライこっちゃ。どうせ死ぬなら、日
本人のために死のう」と部下たちに呼びかけ、応戦。やがて3
百メートルほど離れた川岸まで撃退した。

 しかし、八路軍は何度も襲撃してくる。撃ち合って二日目、
疲れ果てて、もう持ちこたえられん、とあきらめかけた時、
5、6歳のイガグリ頭の男の子が、大きなカバンをひきずるよ
うにして小走りに走ってきた。その子を目標にして、八路軍の
追撃砲弾が周囲に炸裂する。山本軍曹は思わず、その子を横抱
きにして窪地に飛び込んだ。

「兵隊さん、これ食べて頑張って下さい」と、男の子はカバン
の中からいくつもの焼きお握りを取り出した。山本軍曹の顔は
泥と涙で、目の下が真っ黒になっていた。男の子の励ましに疲
れも吹き飛んで、まもなく八路軍を撃退させた。

■8.堂々たる行進■

 20日夕刻から始まった張家口からの4万人脱出は駐蒙軍と
鉄道関係者の必死の努力で、21日夕刻にはあらかた完了した。
丸一陣地にもその知らせがあり、辻田少佐はその夜、闇にまぎ
れて撤退しようと決心した。19日未明からのまる3日間ソ連
軍を食い止めて、消耗の極みに達し、もう一日ともたない状況
だった。

 まずトラックで、負傷者を送り出す。その後、1箇小隊づつ
隠密に陣地を離脱した。幸いにもソ連軍はすぐには追撃してこ
なかった。夜間の白兵戦で日本兵の強さに恐怖感を抱き、その
夜も夜襲を恐れて、前線から後退していたために、日本軍の撤
退に気がつかなかったのである。また3日間の戦闘で予想外の
大損害を受け、積極的進撃の意欲を失っていた。

 一行は山中を歩き、ようやく6日後の8月27日に万里の長
城にたどり着いた。長城のもとでは、一行の到着を知った中川
・駐蒙軍参謀総長以下の将官等が出迎えた。一行は疲労を隠し、
堂々と胸を張って行進した。戦死者約70人の遺体から切り取っ
た遺髪や小指を、飯ごうや図のうに入れての行進である。出迎
えた中川参謀総長はこう手記に書き残した。

 暫くの後、後衛(帰着した一隊)、整々たる縦隊を以て
帰着す 士気旺盛なるも、長き頭髪と髭とは無言に長期の
労苦を示す 小官感極まり落涙あるのみにして、慰謝の辞
を述ぶる能わず

■9.緑したたる森に赤い鳥居■

 富田母子を乗せた列車は、ふだんなら10時間ほどで着く所
を3昼夜もかけて24日午後、天津に着いた。そして日本租界
の中の小学校に収容された。熱を出していた章三は、市内の病
院で手当を受けたが、翌日、亡くなった。9月に入って、よう
やく合流した父は、それを聞いてがっくり力を落とした。

 蒙古政府の日本人官僚たちは、天津でも引き揚げ者たちへの
食料や衣服などの供給に必死の働きをした。丸一陣地で戦った
将兵の一部も、武装解除された後に、天津で帰国の船を待って
いたが、旧日本軍の物資倉庫に忍び込んでは、米や毛布を盗ん
で、引き揚げ者たちに差し入れた。警備のアメリカ兵たちは見
て見ぬふりをしてくれた。

 10月に入って、引き揚げ者たちの間で発疹チフスが流行し、
富田家でも栄養失調で体力の弱っていた清美(8歳)と伊久代
(2歳)が相継いで亡くなった。

 10月16日、引き揚げの第一船、江ノ島丸に乗船。弱って
いた豊は父の背におぶわれてタラップを登った。船中でも安心
感から、急速に病状を悪化させて水葬に付される人が相継いだ。
豊が「ボクも死ぬんだろうか」と母に聞くと、「何を言ってま
すか。もうすぐ内地ですよ。日本ですよ。」と励まされた。

 江ノ島丸が対馬沖にさしかかると、緑したたる森に赤い鳥居
が見えた。引き揚げ者たちはデッキに鈴なりになって泣いた。
生きて帰れた、という実感が湧いた。

■10.35年目の初対面■

 昭和56年1月25日、愛知県豊川市。古い農家の一室から、
耳慣れぬモンゴルの歌声が響いた。

アルバン トングル チルクデ ナルジョー

 歌っているのは、47歳になった富田豊。ピンと背筋を伸ば
してそれに聴き入っている老人は、元陸軍少佐・駐蒙軍独立混
成第2旅団参謀、辻田新太郎、71歳だった。昭和20年8月
20日の夕刻、豊は母に連れられて、張家口の駅の引き揚げ者
の渦の中にいた。辻田少佐はその時、丸一陣地の戦闘司令所で、
どうしたら引き揚げが完了するまでの3日間を持ちこたえるか、
考えてあぐねていた。

 それから35年目にして、ふたりは始めて出会った。辻田が
旧陸軍軍人の親睦雑誌に書いた記事が、偶然、富田の目にふれ、
一読、感動を抑えきれずに、辻田への感謝の手紙を書いたのが
きっかけだった。

 いや、下手な歌をお聞かせいたしました。こんな歌を今
うたえるのも、あの時、辻田さんたちに頑張って頂いたお
かげですよ。

 歌い終わって深々と礼をして、こう言う富田に、辻田は答え
た。

 いえいえ、私どもは、軍人としての義務を果たしただけ
です。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(203) 終戦後の日ソ激戦
 北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、
千島の日本軍が立ちふさがった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 稲垣武、「昭和20年8月20日 内蒙古・邦人4万奇跡の
脱出」★★★、PHP研究所、S56

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