シベリア抑留

国際派日本人養成講座 から引用
地球史探訪: シベリア抑留

「ここにおれがいることを、日に一度、
かならず思い出してくれ」
■転送歓迎■ H19.12.02 ■

■1.真っ白の凍原の中にうずくまる黒い杭の一列■

 50トンの有蓋貨車の中は二つの檻に分かれていて、それぞ
れ日本人40人、白系ロシア人30人が詰め込まれていた。車
内には火の気もなく、まるで冷凍庫だった。5日間待たされ、
囚人貨車が20両ほど連結されると、列車は走り始めた。昭和
20(1945)年12月15日のことである。

 満洲側の最後の駅・満洲里を過ぎてしばらく行くと「オトポ
ールだ!」と騒ぐ声が聞こえた。シベリア最初の駅である。誰
ひとり、自分たちの行く先を知らなかった。石原吉郎は車両の
腰板の隙間から外をかいま見た。

 なにもかも一様に黒ずんで見える貨車の内部とは対照的
に、貨車の外側はいきなりまっ白であった。満洲里通過以
来すでにおなじみの凍原が、一望のもと荒涼とひろがって
いるだけの、文字通り空白であったが、やがてその空白な
視野をおびやかすようにして、傾いた杭の黒い一列が不意
にうかびあがって来た。それは、異様としかいいようのな
い光景であった。

 音という音が死に絶えたような風景のなかで、立つとい
うよりはむしろうずくまっているような黒い杭の、息をの
むような単調なたたずまいは、一種沈痛な主張のようなも
のを私に連想させた。[1,p72]

 真っ白の凍原の中にうずくまる黒い杭の一列、それは石原た
ちシベリア抑留者の今後を暗示しているかのようであった。

■2.日本人狩り■

 昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って、
満洲に侵攻した。北満の荒野に点在する総数27万人の日本人
開拓団は悲惨な状況に追い込まれた。8月12日、東安省哈達
河(ハタホ)開拓団が避難の途中、ソ連軍に取り囲まれ、婦女
子421名が集団自決するというような悲劇が各地で起きた。
ソ連人による殺戮、強奪、強姦が至るところでくり返された。

「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について」
というスターリンの極秘指令が9月2日に発せられた。労働に
適した日本人捕虜50万人を捕らえ、関東軍から押収した戦利
品の中から衣服、食料などを与えて、シベリアの地で強制労働
をさせる、という内容だった。各地でソ連軍による「日本人狩
り」が始まった。

 ハルピンの関東軍特務機関で、傍受したソ連の無電を翻訳す
る仕事をしていた石原吉郎(30)も、捕まった一人だった。

■3.アルマ・アタ■

 ハルピンで囚人列車に詰め込まれてから40日、石原の一行
がたどり着いたのは、中央アジアの高原地帯の街、カザフ共和
国(現在のカザフスタン共和国)の首都アルマ・アタであった。
海抜4千メートルを超える天山山脈の向こうは新彊ウイグル自
治区である。

 強制収容所は2千平米ほどの敷地で、高さ3メートルの板塀
と有刺鉄線で囲まれ、四隅に見張り塔が建っていた。ここに日
本人480名、ロシア人220名ほか、朝鮮人、満州人、蒙古
人、ドイツ人などが若干いた。

 全員が三段式の蚕棚のようなベッドが200も並ぶ居住用バ
ラックに押し込められた。四隅にはペチカがあったが、零下
30度の真冬の極寒を防ぐにはあまりにも無力で、収容者たち
は、外套も着込み、靴も履いたまま横にならなければ、寒さを
防げなかった。

 第2次大戦の痛手がひどかったソ連ではもともと食料が不足
していたが、収容所ではさらに所長が食料を横流ししたため、
黒パンが一日350グラム、朝夕2回の薄いカーシャ(粥)か
野菜スープというのが、ほとんど毎日のメニューだった。

 栄養失調と強制労働による消耗、発疹チフスの流行などで、
次の夏までに2割近くの抑留者が亡くなった。

■4.民主運動と内部抗争■

 収容所の中では、ソ連共産党の指導のもと、「民主運動」が
組織された。石原の収容所でも二人の日本人が推進役となった。
彼らはほとんど作業をせずに、作業現場への往復に、赤旗を立
てて、「インターナショナル」や「スターリン賛歌」の音頭取
りをしたりした。その一人・山田清政三郎は、『ソビエト抑留
紀行』という小説風の記録を残しているが、そこにはこんな一
節がある。

 朝は目が痛いほどの、一面の太陽の炎。天山山脈のうね
りをも包んで、あくまで深く澄み切った、中央アジア高原
の円天井・・・強烈な紫外線に、裸体で挑んで、或いは鶴
橋を振り上げ、或いは円匙を突きさし、或いは採石を堆
(うずたか)く積んだターチカ(手押し一輪車)を走らせ
る、たくましいラボータ(労働者)たちの姿・・・[2,p88]

 労働を免除された「赤いエリート」とは違って、「たくまし
いラボータたち」には、死亡率2割の環境の中で、天山山脈の
美しい景色など眺める余裕はなかった。石原の抑留エッセイに
は、こうした自然賛歌はほとんど登場しない。

 ある抑留者は、「民主運動」について、こう記している。

 民主運動はさらにエスカレートして行き、日本人独特の
狭量、変更性を帯びていく。・・・内部抗争、つるし上げ、
自己批判の強要、密告、加罰制裁。・・・私たち文民の多
くは、身を縮めて嵐を避け、偽装に腐心した。[2,p89]

 過酷な生活環境の中で、さらにこうした内部抗争をけしかけ
られて、収容者たちは精神的にも極限まで追い詰められていっ
た。

■5.「反ソ行為、諜報」の罪で「強制労働25年」■

 昭和23(1948)年5月、石原を含む約400名の抑留者は、
また鉄格子の監獄列車で5日間揺られて、炭坑の町カラガンダ
に移送された。北カザフスタンの荒涼とした大地に石炭採掘の
ボタ山が無数に並んでいる。ここの採掘量はソ連第3位で、多
数の労働力を必要としたため、18もの強制収容所が設けられ、
日本人抑留者1万人ほど以外に、ドイツ、ルーマニア、ハンガ
リー、ポーランドからの捕虜も使役されていた。

 石原の仕事は、地下の坑内に降りて、採掘された石炭を鉄製
の炭車に積み込み、垂直抗から旧式のウインチで引き揚げる作
業だった。石原は、石炭満載の炭車に跳ねとばされ、肋骨を2
本折るという事故も経験した。治療も受けられず、働きながら
自然治癒を待つしかなかった。

 昭和24(1949)年が明けると、抑留者たちの取り調べが始まっ
た。取り調べは、深夜から未明にかけて、毎晩、行われた。抑
留者が熟睡中のところをたたき起こして精神的に痛めつけ、す
でに用意されていた調書に署名を強要する、というソ連の伝統
的なやり方である。石原は一週間ほど抵抗したが、あきらめて
署名した。

 その後、粗末な木造家屋に設けられた「法廷」に呼び出され、
ロシア国刑法第58条6項「反ソ行為、諜報」で起訴された。
外国人捕虜にソ連の国内法を適用するという理不尽さであった。

 2ヶ月ほど独房に閉じこめられた後、10数人の日本人抑留
者とともに判決を言い渡された。朝鮮人通訳が判決を翻訳した。
「罪状明白」「強制労働25年」といった言葉に石原は、我が
耳を疑った。シベリアでの強制労働25年は、生きて故国に帰
ることはほぼ絶望であることを意味していた。抑留者たちの間
から悲鳴とも怒号ともつかない声が湧き上がった。

■6.もっとも恐れたのは「忘れられる」こと■

 25年の判決を受けてから、故国への思慕が様相を変えた。

 私がそのときもっとも恐れたのは、「忘れられる」こと
であった。故国とその新しい体制とそして国民が、もはや
私たちを見ることを欲しなくなり、ついに私たちを忘れ去
ることであった。

・・・ここにおれがいる、ここにおれがいることを、日に
一度、かならず思い出してくれ。おれがここで死んだら、
おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ。
地をかきむしるほどの希求に、私はうなされつづけた。
[2,p99]

 石原たちはみたび、囚人列車に乗せられ、バイカル湖の西、
バム(バイカル・アムール)鉄道沿線に送られた。ソビエトの
囚人たちの間で「屠殺場」と呼ばれる最悪の収容地帯の一つで
ある。この地域に送られた日本人捕虜は約4万人にのぼり、線
路工事では「枕木1本に死者1人」と言われるほどの多くの犠
牲者を出している。

 ほとんどが永久凍土(ツンドラ)の密林(タイガ)で、厳冬期
には零下40度のマロース(極寒)が、ほぼ一週間の周期で襲っ
てくる。夜明けには地上数十メートルに霧状の氷片がたちこめ、
あたり一面、白い靄(もや)がかかったようになる。10時か
11時頃、ようやく薄日が差し、黒い太陽が見えてくる。昼過
ぎになっても、気温は零下30度程度である。密林は樹氷の花
をつけ、地面は凍って岩盤のようになっている。

 人間が冬の自然に耐えるという段階はすでに終わってい
た。そこでは、人間はほとんど死者であり、その墓標のよ
うに、白く凍った樹木がひっそりと立ち並ぶ。ここでは、
タイガを支配するのは静寂というようなものでなく、完全
な黙殺である。[2,p113]

 1930年以来、流刑地以外のロシアを見たことがないとい
う尊敬すべき老トロッキストが、ある日僕の隣でパンを食
いながら、不意に居眠りをはじめた。ゆすぶってみたら、
もう死んでいた。老衰と栄養失調とが、目くばせをし合う
ようにして、この誠実な男のなかに燃え続けていた火を踏
み消したのだ。[1,p133]

 真っ白の凍原の中にうずくまっていた黒い杭のように、「完
全な黙殺」の中で、抑留者たちは一人、また一人と孤独な死を
迎えていった。

■7.老婆の涙いっぱいの目■

 1950(昭和25)年9月、バム沿線の日本人のほとんどが、
ハバロフスクに移送された。石原は最悪の一年を生き延びた
が、衰弱のあまり囚人列車の中ではほとんど昏睡状態だった。

 ここでは労働時間が一日10時間から8時間に軽減され、
食事も一日2回から3回に増やされた。石原は所内の軽作業
をあてがわれた。

 10月なかば、石原は数人の仲間と共にハバロフスク郊外
のコルホーズ(集団農場)に送られ、収穫の手伝いをした。
ここはウクライナから強制移住させられた婦女子だけのコル
ホーズで、男達はドイツ軍に占領されていたときに、逃げず
にとどまっていたという理由で、ほかの強制収容所に送られ
ていた。

 昼休みとなって、女たちは食事の支度を始めた。一人の女
が「おいで、ヤポンスキー(日本人)。おひるだよ」と石原
を招いた。警備兵は見て見ぬふりをしてくれた。

 ジャガイモと人参とわずかな肉を煮込んだスープがあてが
われた。石原には気が遠くなるようなご馳走だった。がつが
つとスープに食らいつく石原の姿に女たちは黙り込んでしまっ
た。それぞれが、自分の夫や息子もこんなふうに飢えている
のか、と思いこんだのであろう。

 私はかたわらの老婆を見た。老婆は私がスープを飲むさ
まをずっと見守っていたらしく、涙でいっぱいの目で、何
度もうなずいてみせた。そのときの奇妙な違和感を、いま
でも私は忘れることはできない。[2,p129]

 老婆の同情に「奇妙な違和感」を感じるほど、石原の心は
「黒い杭」の孤独に慣れていたのである。

■8.「ここではとても死ねない」■

 たまたま収容所にあったソ連の百科事典を見ていたら、日本
に関する記事に海岸の松林の写真が添えられていた。ごく平凡
な風景だったが、石原はしばらくの間、目を離せなかった。自
分はそこに行ってはじめて、安心して死ねる。ここではとても
死ねない、と思った。

 1952(昭和27)年5月、参議院議員高良(こうら)とみが、
ハバロフスクの強制収容所を訪れた。その日、急造の売店には
日頃まったく見られない白パン、菓子、果物、タバコなどが並
べられた。日曜日だというのに、抑留者の大半は戸外作業に駆
り出され、「日曜日には、みんな魚釣りや水遊びに行くんです」
と、まことしやかな説明がなされた。

 それでも抑留者たちは嬉しかった。やっと日本の政治家が来
てくれた。自分たちは故国から忘れられていなかったのだ。

 1953(昭和28)年3月、収容所の四隅の望楼や高い建物に半
旗が掲げられた。やがてスターリンが死んだ、という知らせが
伝わると、抑留者たちは喜びを隠せなかった。

■9.故国につながる日本海■

 スターリンの死を契機に、日本政府との間で抑留者の釈放交
渉が進められた。5月末、石原たちはナホトカの丘の中腹に建
てられた旧日本軍捕虜収容所に移された。そこから見下ろす港
湾の外には、故国につながる日本海が広がっている。

 それから何の説明もないまま、石原らは6ヶ月を待った。短
い夏と秋が過ぎて、ナホトカ湾が氷雪に閉ざされていく。再び、
あの真っ白の凍原に戻されるのではないか、と焦燥に駆られた。

 11月28日正午過ぎ、収容所の窓からほぼ真下に見下ろす
位置に、巨大な日本の客船が姿を現した。彼らを日本に運ぶ興
安丸だった。2台のトラックが忙しく港との間を往復して抑留
者811名を運んだ。

 タラップをのぼり切ったところで、私たちは看護婦たち
の花のような一団に迎えられた。ご苦労様でしたという予
想もしない言葉をかきわけて、私は船内をひたすらかけお
りた。もっと奥へ、もっと下へ。いく重にもおれまがった
階段をかけおりながら、私は涙をながしつづけた。いちば
ん深い船室にたどりついたと思ったとき、私は荷物を投げ
出して、船室のたたみへ大の字にたおれた。[2,p145]

(文責:伊勢雅臣)
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