北朝鮮帰国事業の実態

朝日新聞 2000年8月2日号

在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総聯)は1日、記者会見を開き南北朝鮮閣僚級会議で合意された「総連会員の在日朝鮮人の韓国訪問推進」に歓迎を表し、今月15日の「光復節」にも訪問を実現することを目指して準備をはじめたことを明らかにした。徐萬述・総連中央常任委第一副議長が会見し、
「在日同胞の98パーセント以上が南出身者で、故郷への帰還や肉親との再会を果たせずにいた。合意は南北会談の輝かしい結実。みな感激と昂奮に包まれている」
と合意を歓迎した。また、会員から訪問の希望が殺到しており、可能なら、祖国解放記念日の8月15 日に最初の訪問を実現するために準備に入ったことを明らかにした。




北朝鮮帰国事業の実態
朝鮮総連が鳴り物入りで展開した帰国事業。『教育も医療も無料の社会主義祖国』 『地上の楽園・共和国』とのうたい文句を額面どおりに信じて、九万数千人の在日朝鮮人(日本人妻を含む)が北に帰った。


(1)北へ渡った南出身の貧しい人たち
「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫


終戦当時、日本には二百数十万人以上の在日朝鮮人がいた。そのほとんどは、終戦直後の引き揚げ事業や自力渡航で朝鮮半鳥に続々と帰還して行った。遅い時期に日本に渡って来た者、あるいは強制連行で無理やり連れて来られた者。これらの朝鮮人ほど帰国を急いだ。地縁・血緑など祖国とのつながりが強く残っていたからである。比較的早い時期の渡航朝鮮入は引き揚げようにも、祖国にはすでに住居もなければ、耕す田畑もなかった。頼りにすべき親類縁者とは、長い年月の間にすっかり関係が希薄になっていた。私の祖父母の場合は、後者のケースに該当する。

おまけに大半の朝鮮人の故郷である韓国でコレラが大発生したり、米軍の軍政下で社会混乱が起きた。さらに朝鮮戦争(50~53年)の勃発が、帰るべき祖国を灰燼に帰してしまう。様子眺めをしたり、帰るに帰れなくなった朝鮮人が日本に多数とどまった。この60万人ほどが、現在の在日韓国・朝鮮人の基数となる。

ところが、終戦から14年経った頃に突然、第二の引き揚げブームが起きた。1959年12月14日、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還が始まった。日・朝両国の赤十宇社の協定(59年8月13日調印)によるものだった。一般に「帰国事業」と呼ばれるものである。以後、3年問の中断期(68~70年)をはさんで、84年までに果計で約9万3000人余りが北朝鮮に永住帰国した。その中には、日本人配偶者とその子供も含まれる。当時の日本は、いまと違って、父系血統主義を採っていた。その国籍法によれば、厳密な意味での日本人は約6600人だった。その内「日本人妻」と称される人たちが約1800人いる。数は少ないが「日本人夫」もいた。

この「帰国事業」は、いまから考えてみると、奇妙なものだった。在日朝鮮人は、その98パーセントが「南半分」、つまり今の韓国出身である。だから、厳密にいえば、北朝鮮は故郷ではない。守るべき祖先の墓もなければ、頼るべき親類縁者もほとんどいない、「異郷の地」だった。だのに、この人たちは北朝鮮へと「帰った」そのせいもあってか、韓国政府は、「帰国事業」という用強調文語を使わない。「北送事業」と呼んでいる。「帰国者」も「北送者」と称する。ともかく、歴史上でも稀に見る性格の「大量移住」だったことだけはまちがいない。

それだけに、その背景や動機には、複雑なものがある。この点で、帰国事業は大きくふたつの時期に区分できる。
68~70年の中断期をはさんで、ちょうど前期と後期にわかれる。大半は前期の帰国事業で「北」に渡った。
その帰国者たちの背景と動機は、次の三点に尽きる。
(1)日本での生活難と将来への不安、
(2)韓国政府による事実上の「棄民政策」、
(3)北朝鮮政府による荒唐無稽な「地上の楽園」宣伝だった。
帰国者の動機は単純だった。同時に、その単純さは、重苦しい現実を反映している。

まっさきに挙げられるべき理由は「貧困」である。高度経済成長の恩恵にあずかるまで、在日朝鮮人の生活は困窮をきわめた。たしかに、1950年代は、日本人もそれはど豊かでなかった。だが、在日朝鮮人の場合、差別が貧困にいっそう拍車をかけていた。なかでも、在日朝鮮人をひどく苦しめたのが雇用差別だった。大手企業への就職などは夢のまた夢。中小零細企業でも、正規採用ははとんど望めなかった。

パチンコ屋や飲食業の店員、臨時雇いの工員、そして日雇い労働者といったところだった。おかげで、貧困にあえぐ世帯が多かった。このあたりの事情は、被差別部落の場合と似通っている。だが、在日朝鮮人は外国人だという点が決定的に違った。法制度による差別を受けることになるからだ。
(中略)
これで「貧乏をするな」と言うほうが無理というものだろう。おかげで、在日朝鮮人の生活保護率も高かった。私が生まれた54年末の数字を見てみよう。当時、生活保護を受ける在日朝鮮人は約13万人だった。実に、朝鮮人全体の約23パーセントにのぼる。日本人の場合は2パーセントだった。

(2)左翼陣営が煽った北朝鮮帰国事業
「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫

当時の日本共産党は、武装闘争のせいで、支待者を大きく失っていた。そんな共産党にとって、元党員を含む在日朝鮮人の存在は大きかった。家の軒先に選挙用のポスターを貼るにも在日朝鮮人はこころよく応じた。共産党と労働党・朝鮮総連との友好協力関係は、77年頃まで続く。

日本政府は、治安維待の観点から、この左傾化した在日朝鮮人運動を嫌った。そんなときに、北朝鮮政府と朝鮮総連の主導によって帰国事業が始められた。日本政府にとって、「渡りに船」の出来事だった。「厄介者払い」ができるからである。帰国事業に対する日本政府の積極的姿勢。そこには、こんな経済的、政治的な思惑が込められていた。

なお、この積極的姿勢を指して、日本政府による「民族浄化」政策だった、と主張するむきもある。だから、帰国者の悲惨な運命に日本政府と日本赤十字社が相応の責任を負うべきだという。こんな奇論を、帰国事業を担当した朝鮮総連の元幹部が待ち出した。韓国の一部言論機関も、さも大発見であるかのように、これを書き立てた。見当違いもはなはだしい。たしかに、帰国者が向かったのは「南」でなく、「北」だった。日本政府も費用面で援助をした。

だが、韓国政府が棄民政策をとらず、民団が帰国事業を実施していたら……。日本政府は同じように援助しただろう。行く先が「南」であれ「北」であれ、日本政府にとっては、どちらでもよかったからだ。何でもかんでも日本政府のせいにすれぱよい、というものではない。これを聞いて誰より驚くのは、北朝鮮当局であり、朝鮮総連だろう。

帰国事業は、北朝鮮政府が立案し、朝鮮総連が音頭を取った。日本政府は何らの強制措置も採らなかった。日本赤十字社は、帰国希望者に対し、「自由意思」によるものかどうかをチェックした。韓国政府と民団が、帰国事業の実施に反対し、「人道に反する」と抗議活動を行っていたからだ。このことに疑いをはさむ余地はない。

実際、「帰国要求運動」はすさまじかった。「熱病」のような勢いで日本全土の在日朝鮮人を覆った。「帰国熱」の伝播は、北朝鮮当局と朝鮮総連によって、用意周到に練リあげられたものだった.。まずは、13回目の祖国解放記念日(58年8月15日)に合わせ、神奈川県で朝鮮総連が帰国希望の手紙を金日成首相(当時)に送った。

同県は韓徳銖(ハンドクス)議長のお膝元だった。これを受けて、金日成は高らかに歓迎演説をする。58年9月9日、10回目の北朝鮮建国記念日のことだ。演説内容は、帰国の援助と帰国後の生活保障だった。これで帰国熱に一気に火がついた。帰国の早期実現を求める集会が、全国各地で開催される。その回数は二千回以上にのぼった。

北朝鮮の楽園ぶりを紹介する宣伝物が、在日朝鮮人家庭に洪水のように配られる。地方自治体への請願活動も活発に行われた。早期実現を求める自治体決議が続々と採択される。その数は、46の都道府県、290の市区町村に及んだ。日本の左翼・進歩的知識人やマスコミも、率先して帰国運動の援護射撃を引き受けた。

なかでも有名なのが、寺尾五郎氏の北朝鮮訪問記(『38度線の北』新日本出版社)である。紙の銃口からは、「人道主義」と「社会主義賛美」の銃弾が、雨あられと撃ち出された。北朝鮮政府は素早く、日本政府との交渉をまとめた。熱病が冷め、集団催眠が醒めてしまわないうちに、トボリスク号とクリリオン号のソ連船二隻を配船した。1959年12月14日、凍てつくような冬の日である。
(中略)

背中を押されるようにして、約10万人が永住帰国した。また、在日朝鮮人の家族として6000人余りの日本人も船上の人となった。ところが、帰国者を待ち受けていた運命は… 「温かい歓迎」どころか、祖国の「ひろい懐」で、労働党と現地住民の"狭い心"にさいなまれた。差別と監視の"洗礼"を受け、密告と粛清の対象とされた。

日本での朝鮮人差別から逃れたい。日本では発揮できない知識や技術を祖国に役立てたい。そんな純粋で崇高な思いは、完全に裏切られた。帰国者の夢と希望は、北朝鮮当局の空約束によって、ものの見事に打ち砕かれる。実態は、国家ぐるみの大々的な「詐欺事件」であり、「殺人事件」だった。帰国者の居住地と職場は、労働党によって一方的に決定された。本人の経験や能力、夢や希望とは、まったく無関係だった。

また、「日本出身者」という埋由で、労働党への入党は難しかった。70年代までは、庶民にとって党員への近道である人民軍への入隊も拒否された。信用ならない連中だから、というわけだろう。もっとも元日本共産党員は別扱いだったようだ。党員証を持っていれぱ、自動的に労働党員になれた。だが、元日本共産党員であることが、のちにかえって災いを招く結果となった。粛清時に、"宗派分子"の汚名を着せる格好の口実とされたからだ。

必然的に帰国者の生活は苦しくなる。売り食いに次ぐ売り食いの末、とうとう日本からの"仕送り"で生き廷ぴるしかなくなった。ほとんどの者は「生き甲斐」を失い、その日その日を、ただ生きるだけとなった。もちろん、例外もいる。一握りの朝鮮総連の大幹部の肉親がそうだ。留学中、私はそんな人物に出全ったことがある。朝鮮総連の韓徳銖議長の甥っ子だった。彼は破格の待遇を受けていた。私の留学先の社会科学院に勤める研究者だった。だが、仕事もしなければ、勤務先にもほとんど顔を出さない。それでいて、一般の帰国者とはかけ離れた生活ぶりだった。金正日御用達の煙草(ロスマンズ)を吸っては、日本製の自家用車を乗り回す。特別待遇と多額の仕送りのたまものである。

なにより帰国者の気持ちを重くし、暗くさせたのは、日本出身者への厳然たる差別の存在だった。地方の工場や拡山、農場に強制的に分散配置された帰国者たち。この元在日朝鮮人は、"キポ"(帰胞)や"チェポ"(在胞)とさげすまれた。

(3)北へ帰国した親族は人質同然となった
「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫

「帰国事業」は、労働党と朝鮮総連が展開した、60年代初頭にはじまる北朝鮮への大々的な帰還運動である。以来、68~70年の中断期間を挟んで、59年(12月)から84年までに約9万3000人が北朝鮮に永住帰国した。これには、在日朝鮮人に同行した約6600人の日本人の配偶者や子供が含まれる(内、日本人妻は約1800人)。

この帰国事業は、いま考えれば奇妙なものであった。上述のように在日韓国・朝鮮人の98パーセントは南出身である。したがって北朝鮮に地縁や血縁はない。終戦直後の46年の帰還希望調査でも、約98パーセントは現在の韓国を帰還地に選んだ(厚生省調ベ)。しかも60年代初めといえば、朝鮮戦争の荒廃から、北朝鮮がようやく復興しはじめた矢先である。たしかに当時、民族差別による日本での生活難には厳しいものがあった。だが、常識的に考えれば、北朝鮮での暮らし両きが良かろうはずのないことは容易に想像がつく。それでも、60~61年の2年間に全体の約7割が永住帰国した。

在日朝鮮人が北朝鮮に渡ったのは、たぶんに政治的動機による。日本社会での差別と蔑視への反発を下地にした社会主義への憧れである。一方、在日朝鮮人を引き寄せたのも、労働党と朝鮮総連の政治的動機だった。労働力と技術者不足の解消という側面もあったが、たぶんに政治宣伝の色彩が強かった。

実際、金日成は帰国事業を指して「資本主義に対する社会主義体制の優越性の勝利」と宣言した。ここに悲劇がはじまる。帰国者約十万人といえば、朝鮮籍と韓国籍を合わせた在日韓国・朝鮮人の全人口の6~7人に1人に相当する。単純計算すれば、身内の誰かが北朝鮮に帰国したことになる。政治宣伝の熱病がおさまると、労働党は帰国者を厄介者扱いしはじめる。資本主義思想の流入を恐れ、「社会主義建設の否定的要素」と規定した。厳しい監視と差別に反発する帰国者は殺されるか、強制取容所に送られた。生き残った者はすさまじい貧困にさらされた。

こうして在日韓国・朝鮮人は、帰国した親族を見殺しにするか、仕送りをするかの選択を追られた。多くは後者を採り、30年以上もせっせと仕送りを続けている。帰国者は完全に「人質」となったのである。70年代半ばに西側銀行団への借全返済が滞りはじめると、労働党は在日朝鮮人の親族訪問を解禁する(79年)。83年に完全に利払いもできなくなるや、在日朝鮮人との合弁事業を発表する(84年「合営法」制定)。
いずれも帰国者を「人質」に、在日朝鮮人と有力商工人から、より大々的に金品を巻き上げる算段だった。合弁会社への在日朝鮮人の投資は総額130億円(92年現在)にのぼるが、そのほんどは失敗に終わっている。

最近では、仕送りをするのにも心配の種が増えた。経済破綻で悪化した治安のため、仕送りのある帰国者が強盗に襲われ、一家皆殺しになる事件が起きるようになったからだ。日本や韓国、それに朝鮮総連が送ったコメが党幹部に横取りされる。それを闇市場で帰国者が仕送りの日本円で買って飢えをしのぐ。そんな光景を親族訪問で目の当たりにして、「これまでなにをしてきたのだろう」と心の中で悲鳴をあげる。

仕送りに疲れ果て、帰国した親族の餓死と引き換えにしてでも、独裁者への経済支援を断ち切る在日朝鮮人が増えてきている。こんな眼に遇わされても、在日朝鮮人は朝鮮総連にとどまらざるをえなかった。「社会主義祖国のために」という労働党-朝鮮総連の決まり文句。帰国者を人質にとられた在日朝鮮人にとって、これは文字通りの「殺し文句」と聞こえたからである。一方、朝鮮総連の幹部たちは、帰国事業という取り返しのつかない大罪に恐れおののき、労働党との心中を決め込む。これが朝鮮総連の組織内部での反抗を封じ込め、自浄能力を喪失せしめる最大の要因となった。

『大日本史番外編朝鮮の巻」から引用
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