終戦直後の日本 対馬と朝鮮

「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
対馬と朝鮮


 玄界灘のこの一孤島が、韓国の独立とその動乱のため、最近改めて世界の注目を浴びるに至り、日本の国境としての役割も、また仲々重大になつて来た。それには左の四つの要因がある。

1、大韓民国建国早々、李承晩大統領は、対馬はもと韓国の領土だから、日本から返還して貰ふつもりだと言ふ突如たる声明。
2、北鮮軍の軍隊訓練スローガンに「朝鮮を制するものはアジアを制す」「次に対馬から日本へ」などとあることが伝へられ、南北いづれの政権も独立後の海外発展策として、対馬を窺ふやに感ぜられたこと。
(中略)
 李承晩大統領が、賠償金とともに対馬を要求したことは、いたく日本人を刺戟して今日に及んで居る。(中略)しかしこれらの戦争犠牲を差引きしても、朝鮮と日本との場合はその方針はあくまで搾取ではなくて培養であつただけに朝鮮側のプラスは大きい。併合前と最近の写真を比較してみれば、あらゆる面に於いて一見明瞭である。それが戦勝国と同じに賠償とは何だ――と云ふのが日本側の主張である。

 さらに対馬が韓国の領土であつたなどとの証跡が歴史的にも全然ない。このことは李承晩大統領の突然の声明に、まづ韓国側が驚き、韓国新聞界の論調も、軽率なる大統領の声明を責めること頗る急であつて議会では問題となり、委員会を作つてこれを調査することとなつた。そこで議員数名と、野の学者崔南善などを加へて、対馬が韓国の領土たりしことありしや、否やを慎重捜査したが、全然かかる証跡はないのみか、日本の倭寇に先んじて彼の地より刀伊の賊がしばしば対馬に侵入し…(中略・元寇に言及)…かかる大事件とともに、対馬は古来より、日鮮間の連鎖となつて外交上に重要な位置をずつと占めてゐたのである。

 今は二つに分かれてゐる島ももとは一つであつた。それを人工で開鑿(かいさく)して島を二つに割つたことこそ、対馬が昔から日本のものであり、且は又日鮮間に於ける外交交渉、ひいては一朝朝鮮と事ある場合に備へる措置であつたことを歴史は明確に証明して居る。即ち対馬における大事件は、東岸ではなくていつも西岸に起こるのであつた。

 前記倭寇の場合も、又その前の刀伊の賊や、慶尚道元師朴○の政略、李従茂の侵入等その他の諸事件も、大抵は朝鮮側の積極的攻撃が基本となつてゐるのである。そこで寛文十二年、時の対馬守宗義真が徳川幕府に申請許可をうけて志賀○広に工事監督を命じ、三万五千人の人夫を使つて、約二百日間に仕上げたのが浅海(浅茅)湾東端の「大船越の掘割」である。即ち首都のある東岸から西岸へ最も速やかに且能率的に出る近道を作つたのであつて、島を二つに割る目的ではなかつたのである。(○の漢字は表示できず)

 首都は古来から東岸のみであつた。それは日本本土との連絡上必然的な結論であり、島としての地勢、環境を考へての選択ではなかつた。時の主権者によつて若干の奠都(てんと・都をさだめる)は行なはれてゐるが、いつもそれは日本に近い東岸のみである。初め今日の厳原(いづはら)附近が早くも首府となり、応永の頃宗貞茂は北方佐賀に都を移し、文明年間宗貞国は厳原附近の中村に還り、亨禄元年宗将盛は全石城(金石城?)に居た。
 
 寛文六年宗義真の時に棧原に居し、これを府中と云ひ、明治維新ののち厳原と改名したのであつて、いづれも日本への最短距離東海岸に存在すること申すまでもない。日清役ののち、日本海防衛の必要上、軍艦を通すべき水路開鑿の必要に迫られ、新しく「万関越の掘割」をつくつて、東西海岸間の軍事的交通の便ををひらき、これによつて日本本土との連絡は一層緊密を加へて行つたのである。
(中略)
 さて対馬が日本を代表し乍(なが)ら日鮮間に於ける通交の媒(なかだち)をし、一方朝鮮海峡の利権を握つてゐたのは四百年の永きに及んだ。その間日鮮の間に取り交わした重大な条約が三つある。一つは嘉吉条約(癸亥)、二は永正条約(壬申)三は慶長(巳酉)条約である。(括弧内は朝鮮側の記録)これはみな日本人の朝鮮貿易と倭寇に関係が深いのである。由来日本人が彼の地に行つて貿易に従事したことは、ずつと昔からあつた。

 しかし高麗の晩年までは大したことはなかつたが、恭愍(きょうびん)王のとき(1352年)対馬の宗経茂に米一千石を贈つて来た。李承晩大統領が対馬へは、朝鮮より食糧の不足を送つてゐた――と云ふのはこのことである。これは対馬を根拠地とする倭寇が、朝鮮の本土至るところに上陸して、掠奪をやることにはほとほと手を焼き、宗経茂を通して何とかこれら辺民の宣撫工作をやりたいものとの高等政策の一つであつて決して領民への食糧補給ではなかつた。

 李朝になつてからは、倭寇の鎮定に特別の懐柔策を用ひる様になつたので、我も我もと土産を持つては朝鮮に行き、どつさりと返礼を貰ふ。一種の情誼貿易である。爾来これらの方策が効果を挙げて来たのと、日本では豊臣秀吉の倭寇厳禁で、あれほど高麗朝を悩ました倭寇も、李朝に至つては中絶したのであつた。それは後日譚であるが、個々の民間情誼貿易がかくの如くして発展して行つたのでは、朝鮮側でも立ち行かぬことになるので、そこで国営貿易として、この情勢に制限を加へようとしたのが嘉吉條約(1443年)である。

 その条約で対馬の宗氏から、年々五十艘の船を朝鮮に送ることとし、朝鮮からは馬の飼料として米、大豆二百石を年々宗氏に贈ることとなつた。それを歳賜米と云つたので、李大統領が対馬を属国のやうに考へたのであらう。
(中略)
 元来対馬は山岳地帯が多く、平野が少なく耕作地に恵まれない為、昔から人口と食糧のバランスがとれないのである。…米が極めて少ない為、全体のカロリーから云つて漸(ようや)く一万八千人を支へるに過ぎない。然るにそのときの人口はその倍で三万二千人であつた。四百年の永きに亘り朝鮮貿易に全力を注いで来たのはもつともなのである。

 貿易の方法はその時々の条約や、習慣等によつていろいろであつたが、進上品にしても、求請品にしても回賜別福と云ふ先方の返礼品や歳賜米にしても、交換率まで決めた官営貿易であつた。又物々交換を前提とする民間貿易も、日本人の朝鮮滞在中の糧米供給にしても、皆それらの貿易代金決済済みの枠と比率のうちで行はれて居る。そこで如何なるものがその輸出入品であつたかと言へば、対馬から銅鉄、鑞鉄(錫と鉛の合金・はんだ)、丹木、明礬(みょうばん)、日本朱、紋紙、黒角(黒い水牛の角)工芸品等で、朝鮮側から主として木綿、米、大豆、小豆、人参等であつた。

 然るに時代の降るに随つて、木綿の質が下がり、寸法をごまかし、又米の中に砂や石を交へたり、水を加へて桝目をふやしたり、甚だしいのは渡すべき米を渡さないので、享保十三年に書かれた対馬側の文献をみると「二十ケ年程の間、未収二万俵に及び、埒(らち)明き申さず」などと書いてある。是等の取引はすべて朝鮮に於ける和館で行はれた。それは単に商売の形式でなく、外交的儀礼と秩序の上に行はれてゐたのは面白く、官営貿易の面目躍如たるものがある。(中略)しかし如何なる角度から研究しても対馬が朝鮮の所属であつたと言ふ結論は出ないのである。

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