終戦直後の日本 多くの暴動に積極的に関与した共産党系在日朝鮮人

多くの暴動事件に積極的に関与していた在日朝鮮人
戦後日本に居残った朝鮮人の中に共産党系の者が多数いた。
「韓国・北朝鮮総覧1984」 1983年 原書房


(戦後間もない時期、朝鮮人半島引き揚げ者が次第に減少していったことについて)
この原因について篠崎氏は「朝鮮内における政治上、経済上の不安定から帰国後の生活が不安であること、コレラ病流行、これらの情勢が誇大に朝鮮人間に伝えられたこと、携行金品に制限があったこと」などをあげている。

さらに日本赤十字社では「その大部分は日本共産党が扇動したものである。日本共産党は戦時中完全に弾圧されていたが、連合軍の進駐とともに解放され、当時の社会事情を利用して急激にその勢力を増していった。1946年2月、金天海日本共産党中央委員(在日朝鮮人)は、その機関誌「前衛」第1号に、"在日朝鮮人は日本に定住し革命に参加せよ" という指令を載せ、日本政府が引き揚げの努力をしている最中にこれに反対する態度をとった。」(一部在日朝鮮人の帰国問題)と、その引揚げ者減少の理由を指摘している。

金天海は在日朝鮮人のカリスマ的指導者で彼の影響はすこぶる大きかった。宮崎学著「不逞者」に登場

日本共産党の尖兵として騒擾(そうじょう)事件を起こす。当時、共産党は一国一党の時代で在日朝鮮人が多数参加していた。



「体験で語る解放後の在日朝鮮人運動」 姜在彦 1989年 神戸学生青年センター出版部
(1951年1月に非合法的に結成された民戦に対する日本共産党の指導方針が出され)
在日朝鮮人は日本の中の少数民族であり、日本革命の同盟軍であるとされたわけです。したがって、日本革命を成し遂げることなしには、在日朝鮮人の問題は何一つ解決できないとされたわけです。だから我々は、日本共産党員として、まさに日本の革命をやることが、朝鮮の革命と在日同胞の地位向上に寄与することになるんだと考えたわけです。

(中略)
この時の在日朝鮮人の運動について書いたものに、鄭東文氏の「転換期に立つ朝鮮人運動」(日本共産党関西地方委員会、1949年10月)があります。この鄭東文という人は、共産党の民族対策部の人で、中央委員会のメンバーの一人でした。「転換期に立つ朝鮮人運動」は、少数民族は独自の中央組織を持つ必要はない、各地域の組織に属して日本の組織と連帯し、日本の革命を遂行すべきだ、と言うようなことを述べています。

だから実際、朝連(在日本朝鮮人連盟)が解散させられたのち、皆地域の朝鮮人協会であるとか、学校のPTAにはいれ、ということが言われていました。そしてPTAを革命化せよ、地域を革命化せよ、という、読み方によっては、朝連解散を喜んでいるようにも取れる方針でした。だから、少数民族の組織というものはすべて末端の組織において日本人と連帯しながら、まず第一に日本革命を遂行するのに大一義的目標をおくべきだ、というものでした。

他方、民戦(在日本朝鮮統一民主戦線)は次第に公然化してきます。そして、非公然組織として祖国防衛委員会(祖防委)、その傘下に祖国防衛隊(祖防隊)が作られました。当時の在日朝鮮人の組織の中ではこの祖防隊が中核的な役割を果たし、民戦はこの中核を包むオブラートのような組織でした。

祖防委は、
(1)日本が朝鮮戦争の基地になっており、戦争で使われる米軍兵器を修理していたことから、それを中止させ、しかも輸送を阻止する実力行動を行う。
(2)親子爆弾(北朝鮮に向けて殺戮兵器として使われた爆弾)が大阪、特に在日朝鮮人の零細企業でたくさん造られていたことから、これを阻止する、というような中核的なことをしておりました。

このような在日朝鮮人の動きがあった一方で、1951年10月、日本共産党は第五次全国協議会を開き、軍事方針を決定することになります。これにより、朝鮮人の祖防委と日本共産党中核自衛隊で、パルチザン闘争を準備することとなります。

それ以降、大阪では吹田事件、東京では宮城前の血のメーデー事件が起こることになります。デモ隊が流れ込んで宮城前を血に染めたこの事件ではかなりの人が負傷したり、逮捕されたりしました。今でもあの時の写真を見てごらんなさい。先頭に共和国(朝鮮民主主義人民共和国)の旗が翻っています。警官隊の壁を実力突破する先頭に立ったのは朝鮮人なんです。

それから名古屋の大須事件ですね。これらはみな、先ほどの方針から出ているわけです。みんな本気でパルチザン闘争をやるつもりだったわけです。最近、宮本顕治氏が言ったところによれば、「中国共産党がこれを強制した」というわけですね。

中国共産党によれば、革命後まだ間もない時期であったので、アメリカの力が中国に集中するのを防ぐために、アジア各国の共産党にあえてこのような闘争を要求して、その力を分散させようとしたのでしょう。当時アジアの共産党は、中国革命を守るのが国際主義的義務と言われていましたから。そこで日本も本気でやろうとしたわけです。




暴動は彼ら自身が認めています
「韓国・朝鮮人と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房
「朝連」と日本共産党


一般犯罪のほかに、在日朝鮮人に対する日本人の嫌悪感、警戒感を強めさせたものに、北鮮系の活発な政治運動がある。在日朝鮮人は終戦の秋10月、「在日朝鮮人連盟」という自治団体を結成した。この団体は、当時在日朝鮮人社会の最大の問題であった本国への引揚げを主とし、日本人、朝鮮人間の摩擦防止、同胞の福利厚生などを目的としたもので、当初は社会事業団体的性格をおびたものであったという。

しかし、徳田球一、金天海らの日本共産党幹部らの政治犯がいっせいに出獄してこれを指導するにおよび、「朝連」は急速に民族主義運動、さらには革命的、暴力的傾向に傾斜していった。もともと、朝鮮独立運動と日本共産党との関係は戦前から深いものがあった。労働者の解放、植民地の解放、そしてその連帯をモットーとする国際共産主義運動は、第二次大戦後各国植民地の独立運動に多くの実例を見るように、植民地解放運動に甚大な影響力をもっていた。日本共産党の綱領にも「(日本のすべての)植民地の完全独立」がうたわれていた。日本の革命と朝鮮の独立は一体のものと理論づけられていたのである。

「朝連」の左傾に反対するものは、これを離脱して、この年11月、「朝鮮建設促進青年同盟」を結成した。翌46年11月には「在日朝鮮居留民団」と改称し、今日の、在日本大韓民国居留民団へと発展した。しかし当初は「民団」の勢力は徴々たるもので、「朝連」は在日朝鮮人の7~80%を占め、強力な活動を展開した。

だが暴力的不法事件を続発させたため、「暴力主義団体」として、1949年9月には「団体等規制令」によって解散させられ、金天海はじめ主要幹部は公職追放処分となって表面から姿を消した。組織の基盤を失なった左翼系在日朝鮮人は1950年6月、折から勃発した朝鮮戦争を契機に、「祖国防衛中央委員会」と、その戦闘的実動部隊として「祖国防衛隊」を各地に設け、翌1951年1月には「在日朝鮮統一民主戦線」(略称「民戦」)を結成した。

「民戦」は日本共産党の完全な指導下に、「反米」「反吉田内閣」「反再軍備」の三反戦術を唱導し、その綱領自体にも「日本の主権打倒」をかかげたのである。1951~52年の日本共産党の極左武力闘争では、「民戦」=在日朝鮮人は常にその突撃隊の役割を果たしたといわれる。『法務研究』にのった森田芳夫氏の論稿によると、1952年だけで北鮮系の日本警察に対する不法行為は134件にのぼり、当時「日本の国民の在日朝鮮人に対する警戒心は異常に高まった」のである。

騒動の自認
だが朝総連系の朝鮮人はこれらの騒擾(そうじょう)事件、反日運動を、日本の警察のデッチアゲと反論する。そこで彼らの機関紙(誌)の中から、暴動騒乱を彼ら自ら立証する、いくつかの記事の「見出し」などを掲げておこう。

「新朝鮮」(祖国防衛中央委員会の機関誌から)
○ 弾薬輸送列車を妨害
○ 軍需工場基地に果敢な工作 西日本全域で祖防闘争激発 竹槍で6里のデモ (1952.3.30)
○ 神奈川で税務署、軍倉庫を焼打ち!! (1952.4.15)
○ 某町では、警察署長に先制攻撃をかけ、警察署の机を、持っていた斧でたたきながら……
 婦人たちも米原駅公安室に押しかけて公安官のネクタイを締め上げながら、「お前達が強制追放列車を送り、武器輸送を護衛するけだもの野郎だ……」と吊るし上げた。(1952.5.20)
○ (警官は)吊るし上げられ、コソコソと逃げ出した。これをみた一同胞青年は、「逃がしてたまるか」と4町も追いかけ、奴らをどぶの中に突き落とし、上から馬乗りになってコテンコテンに叩きのばした。一方、同胞は夜、約50名が本署に押しかけ…… (1952.7.5)
○ 火炎ビン飛ぶ中で大村収容所を再攻撃
○ 所長の顔は傷だらけ 目黒婦人実力で愛国者奪還 (1952.7.15)
○ 雨をついて枚方兵器廠に進出 2000トンプレスを爆破 (1952.7.20)

武闘の果て

このような武装闘争の連続は1954年にはいると様変りした。前年3月のスターリンの死以後、朝鮮戦争の休戦、ジュネーブ会議の開催とつづき、国際共産主義運動は、その過激な革命主義の矛を一時収めたからである。

日本共産党も運動路線を変更し、「日本と朝鮮の国交正常化を実現し得る新組織をつくれ」という非公然通達を流した。この結果、民戦は解散し、翌1955年には「在日朝鮮人総連合」が結成され、この組織は、いわゆる「朝総連」として今日も続いている。そして朝鮮民主主義人民共和国の方針により、「朝総連」は「日本に存在する朝鮮公民として節度を堅持し、日本の内政には一切干渉しない」との方針を確立して、その運動もひとまず沈静化するにいたった。これまで、日本の内政に干渉してきたことを自認したわけである。

「日本の中の三十八度線」の著者李瑜煥氏は、この武装闘争について次のように述べている。
当時頻発した日共系暴力事件の前衛、尖兵として犠牲に供せられ、前科ものとして在日朝鮮人の犯罪率を高め、経済的に貧困化し青年学徒で勉学を中途で放棄しなければならなくなったものは無数で、その犠牲はあまりにも大きかった。そればかりではなく、今日の日本人の対韓国・朝鮮人観に、暴力的で粗暴だというイメージを植えつける大きな要因にもなっている。

(中略)
「朝総連」は、戦後の日本のほとんどの騒擾事件において共産党とともに主役を演じ、団体等規制令で解散させられた「朝連」の後継者であることは誰の目にも明らかである。現に「総連」の議長韓徳銖氏は「朝連」の有力幹部であったという。
朝鮮人は、自分たちだけが半世紀ばかり昔の日本人の悪虐な行為を忘れないつもりでいるかもしれないが、多くの日本人も、少なくとも日本政府は、わずか30年前、朝鮮人が日本国家を転覆する意図をもって暴動をおこし、革命を呼号したことを忘れてはいないのである。朝総連系の主張していることには、それだけをとりあげれば一応もっともといえることも皆無ではない。しかし国際関係において彼らが置かれている立場、そして彼らがしてきたことを考えれば、彼らの議論は大部分その基礎を失うであろう。
「大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

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