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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (38)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(38)主体思想研究の第一人者 朝鮮大学校元副学長の慟哭 2018.9.29

 朝鮮大学校(東京都小平市)の副学長を23年にわたって務めた朴庸坤(パク・ヨンゴン)(90)が密航船に揺られ、“海峡を越えて”、朝鮮半島から日本へ渡って来たのは、戦後の昭和23(1948)年、6月18日のことである。

 北緯38度線を挟んで米ソ両国が進駐し、事実上、南北に分断された朝鮮半島は混乱状態が続いていた。民族の独立を目指し、南朝鮮労働党(後に北朝鮮・朝鮮労働党に統合)の活動家となった朴は、モスクワ留学も決まり、前途洋々に見えたが、ぬれぎぬのスパイ容疑をかけられ、故郷に居づらくなってしまう。

 20歳の朴はひそかに、日本へ渡ることを決心。小さな船に詰め込まれ、済州島を経て、瀬戸内海の広島・尾道に上陸した。「尾道は警戒が緩く、まったく怪しまれなかった」という。

 愛知県内の親類宅に身を寄せた朴は、20年10月に結成された在日朝鮮人団体「在日本朝鮮人連盟(朝連)」愛知県本部の仕事や朝連の民族学校の英語講師をして糊口(ここう)をしのぎ、愛知大に編入する。同大は上海にあった東亜同文書院の系譜を引き、外地から引き揚げた教員・学生の受け皿として戦後創設された学校で、優秀な人材がそろっていた。朴は、東京帝大出身のマルクス経済学者、林要(かなめ)らに師事。学部、研究科(大学院)を経て助手となり、11年にわたって同大に在籍し、研究に打ち込む。

 そのままいけば、同大の教授になるか、故郷(後に韓国)に帰って、経済学の研究者として穏やかな人生が待っていただろう。だが、ふとしたことで始まった朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)、そして北朝鮮との関わりが朴を激動の渦に巻き込み、「主体(チュチェ)思想」研究の日本における第一人者として、その学者人生をも大きく変えてゆく。

◆ない交ぜの在日社会
 朴の後半生をたどる前に、終戦後の在日社会について説明しておきたい。戦争が終わり、日本に200万人以上住んでいた朝鮮人のうち、約140万人が朝鮮半島に帰った。ところが、混乱と貧困によって再び日本へ舞い戻ったり、朴のように、新たに日本を目指したりした朝鮮人らが“ない交ぜ”になって形成されたのが後の「在日朝鮮・韓国人」という存在である。

 日本の行政機関も、混乱していたらしい。戦後にやってきた朴が後に外国人登録を行ったとき、「戦前から親類方に住んでいた」と申告すると、役所側は詳しく調べもせず、すんなり受理されたという。

 前述の「朝連」は在日の権利擁護、帰国支援を目的に結成された。故郷を目指しながら、朝鮮語ができない日本生まれの2世らのために国語講習所を各地に開設、その後身が現在、総連傘下となっている各種の朝鮮学校である。やがて、在日の志向は帰国→定住へ。団体は朝鮮半島の分断とともに韓国支持の在日本大韓民国民団(民団)と北朝鮮支持の総連に分かれ、政治的な性格を強めてゆく。

 ◆帰国事業参加から一転
 朴の人生を変えたのは、34年から始まり、約9万3千人の在日朝鮮人や日本人配偶者・子が北朝鮮へ渡った帰国事業である。

 朴には、交際中の日本人女性(現在の妻)がいたが、故郷に連れて帰ろうにも名家出身の父親が「日本人の嫁」を認めるはずがない。ならば一緒に帰国事業に参加して北朝鮮へ行き、社会主義国家建設に加わろう、と総連の窓口に申し込んだ。資本主義に対する「社会主義の優位」が信じられていた時代である。夫妻は、35年早々の帰国船に乗り込むはずだった。

 ところが、もう一度“賽(さい)の目”は転がる。

4年前(31年)に東京朝鮮中高級学校(日本の中・高に相当)に間借りして開校した「朝鮮大学校」が34年6月から、東京都小平市の約2万坪の新キャンパスに移転しており、規模の拡大にともなって教員の増員に迫られていた。

 総連は急遽(きゅうきょ)、朴の帰国を取りやめさせ、幹部教育機関である中央学院へ送った上、新装なった朝大教員となることを命じる。思いもかけないことだったが、組織(総連)の決定に逆らうことなどできないし、朴自身も若い学生たちを教えることに魅力を感じた。

 まさに、運命の分かれ目であったろう。帰国事業参加者は資本主義の毒に染まった日本からの帰国者として差別を受けただけでなく、スパイ容疑などの冤罪(えんざい)を着せられ、政治犯収容所に送られた人も珍しくない。監視・密告が横行し、“地上の楽園”という宣伝文句とは全く逆のひどい暮らしに疲れ、多くがボロボロになって死んでいった。

 ◆朝大生の帰国を暴露
 朴は49(1974)年に初めて訪朝するまで、その実態を知らなかった。だから47年に北朝鮮の初代最高権力者、金日成(キム・イルソン)の還暦祝いとして、朝大生200人を北へ帰国させるよう指示が来たとき、逡巡(しゅんじゅん)する学生・保護者を説得して回り、背中を押したのである。

 女性映画監督、ヤン・ヨンヒ(53)の長兄(当時朝大1年)も、このとき帰国した。長兄は、後に心身を病み、60歳を前にして亡くなったという。「朝大生200人帰国」の事実は長く秘密とされた。

朴が初めて訪朝したとき、ひそかに宿泊先まで会いに来た元朝大生は、恨み言ひとつ言わなかったという。朴はひとり慟哭(どうこく)する。取り返しのつかないことをしてしまった、と…。平成19年、テレビ番組で朴は、この事実を初めて公にする。そして北朝鮮からすべての称号などを剥奪された。「自責の念ですよ。いつか機会があれば、話すべきだとね。帰国事業は、総連最大の事業だった。ちゃんと総括すべきでした」=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   


【プロフィル】パク・ヨンゴン 
昭和2(1927)年11月、日本統治下の朝鮮・全羅南道和順郡(現韓国)生まれ。23年、日本へ渡り、愛知大でマルクス経済学を学んだ。35年、朝鮮大学校の教員となり、政治経済学部長、副学長を歴任。朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)傘下の在日本朝鮮社会科学者協会(社協)会長、総連中央委員などの要職を務め、日本での「主体思想」研究の第一人者となった。

 2000年代になって主体思想が北朝鮮の金一族独裁に利用され、ゆがめられたことや、北朝鮮へ朝大生約200人が金日成の「還暦祝い」として帰国させられたことを論文やメディアで公表。北朝鮮から与えられた称号や20年以上務めた朝大副学長の役職などを剥奪された。主な著書に『ある在日朝鮮社会科学者の散策』『主体的世界観』など。
朴がはく奪された称号と勲章
パク・ヨンゴン
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