終戦直後の日本 警察襲撃と朝鮮人のシャブ・コネクション

「朝日新聞記者の証言5 -戦後混乱期の目撃者-」 菅野長吉 昭和56年 朝日ソノラマ

(引用1)
「あらゆるものはヤミに走った」といってもいい過ぎではなかった。戦時中は「国家総動員法」という基本法があって、あらゆるものが総合的に統制運用され、子どもにまで「欲しがりません、勝つまでは――」といわせた。それが20年12月20日に廃止されると、あらゆる物資がせきを切って暴騰した。都市の人口は日毎にふくれあがり、食糧不足から餓死者も出る有り様だったから、抑えようがない。東京では、むしろこれに拍車をかけたのが、警視庁が21年1月21日からはじめた主食とその加工品の取り締まり強化である。

当然、非合法商法が横行しはじめた。しかも、当時の取り締まり当局には、これら非合法行為を防止するための物もカもない。これに眼をつけたのが、戦勝国人なりとする一部の第三国人の〃特権〃乱用と、裏街道を生きるテキ屋集団である。彼らは正常ルートを通すべき物資を巧みに横流しし、第三国人はその立場を利用してあらゆる物資を動かす。場所には困らない。大都市の要所はほとんど焼け野原となっていたから、集団のカによれば簡単に占有できた。

こうして東京では、上野、新橋、新宿、池袋、渋谷などに急造のマーケットが建った。ヤミ物資の市〃ヤミ市〃である。ここには、配給では手に入らないあらゆる物資が公然と氾濫したから庶民は目の色をかえて集まった。

ヤミ商人たちは、禁制品や統制品を公定価格の10倍から20倍という法外な値段で暴利をむさぼったから、やせ細る庶民とは反対に、日に日に肥え太り、集団もその環を拡げてゆく。繩張りを主張する集団間の争いもはげしくなり、治安問題となってきた。手を焼いた警視庁は、ヤミ市の〃自治強化〃のため地区単位に組合を結成させたが、これがかえってボスを台頭させる結果になり、勢力を助長させた。

新宿の尾津組、新橋の安田組などは、組合員と称する配下が3000とも4000ともいわれた。また当時は第三国人に対する警察の捜査権も確立していなかったから、第三国人は勝手なことができた。一時期、この大集団に対して、確かに警察は無力で、ヤミ市の治安はそれら集団の自治に委せざるをえない事情にあった。彼らが自らを〃夜の警察〃と自負していたのもこういうことからである。
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(引用2)
戦後日本の特殊な存在として第三国人というのがあった。今やこの呼称は全くの死語となったが、戦後混乱期には国民生活に大きな影響を持った。第三国人というのは、日本のポツダム宣言受諾によって、日本の帰属から離れることになる朝鮮、台湾などの出身者で、戦前から日本に居住していた人たちに対して、講和条約の発効まで一般的につかっていた非公式な呼称で、この人たちは日本人てはないが、かといって外国人でもないという特殊な立場にあった。

講和条約発効までの限られた期間ではあったが、これら第三国人に対しては、日本の裁判権行使もあいまいだったところから、彼らの一部には、治外法権があるかのような優越感を抱かせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した。

富坂署襲撃事件
昭和20年も押しつまった12月26日と29日の両日、場所も同じ小石川区(現文京区内)駕籠町の路上で、けん銃強盗事件が連続して発生した。警視庁捜査一課と富坂署が合同捜査をし、都下三鷹町の朝鮮人3名を容疑者として逮捕、富坂署に留置した。

翌年1月3日、トラック3台に分乗した朝鮮人約80名が同署に乗りつけ「朝鮮人を留置するとはけしからん、即時釈放しろ」と要求、拒否すると、一団は署内に乱入、電話室を占拠して外部との通信連絡を断ったうえ、いす、こん棒などをふるって署員に襲いかかり、ついに留置中の朝鮮人を奪取して逃走した。警視庁は直ちに犯人捜査に当たったが、第三国人に対する捜査権の不明確さから不徹底なものになり、捜査員を歯ぎしりさせただけで終わった。

しかしこの事件は、第三国人にさらに不当な自信を持たせる結果となり、「警察何するものぞ」とする不正行為を続発させることになった。
(中略)
ヒロポンとカストリ
覚せい剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場といった感があった。ヒロポンやゼドリンといった覚せい剤は、戦時中、軍需工場で作業能率を高めるために使われていただけで、一般には手に入らないものだったが、終戦によってこれが大量に放出されたことから、街娼や博徒、芸能人が使いはじめ、中毒者が増えていった。

悪化した中毒患者は幻覚、半狂乱といった症状を呈するようになり、これが原因で各種の犯罪を引き起こす事例が多発し、治安上の問題に発展した。特に第三国人らが製造するヒロポンは家内作業で密造するため不潔で、また患者らの要求に応じた即効性のある粗悪品だったから、品質の点でもさまざまな問題があった。覚せい剤密売の巣窟とみられていたのは、台東区浅草松濤町の部落で、約130世帯、230人の住民のうち約半数が朝鮮人で、覚せい剤の売りさばきを主な業としていた。

厚生省は23年7月、これらの覚せい剤を「劇薬」に指定し、自由販売を禁じた。しかし需要は増加する一方だったところから第三国人がこれに目をつけた。なかでも製造容易なヒロポンの密造販売を組織的にはじめたから、覚せい剤の害は急速に一般青少年層にまで拡がっていった。

この覚せい剤とともに大流行したのがカストリの密造である。米不足からの酒不足に悩む大衆は、この安い酒に群らがった。工業用アルコールを主原料とした〃原子爆弾〃とよばれた酒の弊害が叫ばれはじめた当時で、このカストリはたちまち大衆酒場の寵児(ちょうじ)となった。家内作業で容易に密造できることが、製造量を激増させた。

これに対し警視庁の取り締まりは、執拗に波状的におこなわれた。われわれもこれらの密造密売の実態を報道するため、何度もこれに同行したが、部落総掛かりの防衛体制にはおどろくべきものがあった。女、子どもも部落の監視員で、警官の出動を知ると、幼い伝令が金切り声で飛び回る。ドブの臭いのする物置小屋から密造桶が発見されると、泣き叫びながら警官に武者ぶりつく。

摘発されたカストリは直ちに現場の路上や溝に棄てられるが、その濃密なにおいで部落中はむせかえるばかり。まさにカストリ戦争、ヒロポン戦争だった。ヒロポンの密造所があるという伊豆の山奥に行ったことがある。ほとんど小道もない山奥に、二つ三つと小さな小屋があり、炭焼き小屋のように煙をあげている。小屋の中には蒸留器らしいものがあるだけ。追いつめられた第三国人らの、これが最後の砦だった。




「渡日韓国人一代」 金鍾在 述 玉城素 編 1978年 図書出版社
(著者の金鍾在は1916年渡日、戦後東京韓国学園初代校長をつとめた。)
戦後、一時に職を失った在日朝鮮人同胞は、生計を支えるために、いろいろな仕事にたずさわったが、そのうち数多かったものに酒の密造がある。朝鮮の伝統的な手法による濁酒(マッカリ)の製造もあれば、旧日本軍隊の隠匿物資の工業用・航空用メチルアルコールを加工してアイデアル・ウィスキーと名づけて販売する者もあった。

そのメチル酒を飲んで生命を失ったり失明したりする騒ぎが頻発したため、日本治安当局も米進駐軍の力を借りて一斉検挙に乗り出した。手入れを受けた各地の朝鮮人集落は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。警察に挙げられたり起訴されたりする者も続出した。

三国人の覚せい剤密造は警察の力により日本では壊滅したが、彼らが莫大な利益を手にする手段を手放すわけがなく、韓国を製造拠点として日本へ密輸を始め、我が国は再び覚せい剤に汚染されることになるが、驚くべきは日本人を食い物にして平気という韓国人の道徳観念である。




「シャブ! -知られざる犯罪地下帝国の生態-」 趙甲済著 黄民基訳 1991年 JICC出版局
(著者の趙甲済氏は韓国の新聞記者であった)1970年代、釜山で警察詰めの記者生活を送りながら、私は、シャブ(覚せい剤)がもたらす途方もない利ザヤに目がくらみ、灯火に飛び込んでくる虫のように密造・密輸に群がる数多くの犯罪者たちと出会い、興味を抱くようになった。そして、日本の組織暴力団が背後勢力としてからみ、国際的な規模と機動性をもったシャブ犯罪の取材に興味をもちながら取り組んでみて、初めて問題の深刻さに気づかされた。

私は1984年1月、シャブ問題を取材するため日本へ出向いた。当時、日本で流れているシャブの大部分は韓国から密輸入されたものだった。日本の警察はシャブ犯罪を最大の社会問題として考え、その対策に総力を傾けていた。わずか数十名の専従員をもって、数千人のシャブ犯罪者たちを追いながら、泥沼にはまりこみ、犯罪者たちの誘惑に乗ってもがき苦しんだりしている韓国の捜査の実情はあまりにも安易だった。

当時、韓国の政府やマスコミは、シャブ問題を「対岸の火事」を見物するように見ていた。数百万人にものぼる日本の常習者たちが常用しているのは、ほとんど韓国で作られたシャブだったが、韓国では、常用者が少なく、日本への密輸出で多額の外貨を稼いでいるのではないかという安堵感が広がっていた。当時の韓国のシャブ対策はあまりにも心もとなかったのである。シャブ事件の被告人の弁護を担当して「シャブ密造者は外貨を稼いでくる愛国者だ」と語る弁護士さえもいた時代である。

(中略)

70年代の韓国社会でシャブ密造・密売が巨大な"犯罪産業"に成長した背景は何だったのか?(中略)次にシャブ犯罪に対する「罪の意識の欠如」をあげざるを得ない。70年代、釜山で社会部記者としての生活を送った筆者は、こんな話を大真面目に語る警察官や公務員と多く出会った。

「率直に話そう。ヒロポンの密輸がなぜ悪いのか?日本の奴らに目いっぱいヒロポンを送りつけ、奴らみんなヒロポン漬けにすれば胸の内がスッキリするではないか」
「密輸といえば、密輸入を思い浮かべるのがわれわれの実情だ。だから、われわれも密輸出できるものをもっていれば自慢すべきことになるではないか。ハハハ。ヒロポンだって密輸出して貿易の不均衡を改めなければ」

「ヒロポン製造者愛国者論」を展開する弁護士の例をあげるまでもなく、こうした考えをもった人々が当時相当いたことは否めない事実である。日本人が50~60年代、対馬を対韓密輸基地として幇助・育成したことを思い起こせば、また、その対韓密輸のもとで育まれた韓国の密輸組織が、今度は逆に日本に向かってシャブをまき散らすようになった「ブーメラン現象」を確認するなら、そのことを内心、小気味よく感じる人々が現れもしよう。

シャブ犯罪に対するこうした「民族感情」が犯罪者と捜査官の行動に相当な影響を及ぼした可能性がある。この「民族感情」は、シャブ犯罪者を庇護する人々の罪悪感を薄れやすくし、取り締まり自体をを緩慢にさせる要因にもなっているからだ。

(中略)

コリアン・コネクションの根本を掘り起こすのも今回の取材の重要な目標だった。田村研究員の背景説明はかなり説得力があった。すなわち、第一次シャブ乱用時代に、在日韓国人が数多く関係したという事実である。

1954年のケースをみれば、検挙されたシャブ事犯のうち、韓国人は14%(在日韓国人は日本の人口の0.5%)だった。密造犯のなかでは55%、密売犯のなかでは21%が韓国人だった。鄭銀宗ら多くの韓国人密造技術者たちが韓国に逃げ出し、密造技術を広めた史実は第一章で述べたとおりである。暴力団の世界にも韓国人は多い。民族差別の問題を刺激するおそれがあるため、詳しいことは書き控えるが(中略)彼らは親戚のある韓国によく行き来することができ、シャブの密輸ルートを構築するのに有利な立場にいたというのが田村研究員の説明だった。

「大日本史番外編朝鮮の巻」から引用
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