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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (23)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(23)日本官憲を代表して責を負う 平安南道「最後の知事」が残した回想録 2018.6.16

 人間の真価は、ギリギリの土壇場に追い込まれたときにこそ、問われるものであろう。とりわけ、国を背負って立つ政治家や高級官僚には「覚悟」が求められる。己の身をなげうって国を、国民を守り抜く覚悟があるのかどうか、だ。
 前の大戦末期には、その覚悟もないリーダーが、保身に走ったり、家族を先に逃がしたり、と醜悪な本性をさらけ出してしまった例が少なからずあった。
 一方で、“貧乏くじ”を承知で「死地」へと赴き、多数の住民を逃がした後に、凜(りん)として死んでいった最後の官選沖縄県知事、島田叡(あきら)のような人もいる。
 同時期に、日本統治時代最後の平安南道知事を務めた古川兼秀(かねひで)も、そんな覚悟を持った官僚ではなかったか。戦後、残された回想録にはソ連軍(当時)侵攻によって追い詰められた日本人を守ろうとして、あらゆる手段を繰り出した知事の苦闘が綴(つづ)られている。
 古川が平安南道知事に就任したのは終戦2カ月前の昭和20年6月。すでに敗色は濃厚であり、朝鮮北部の中心都市・平壌がある平安南道には不穏なムードが漂っていた。回想録にはこうある。《平安南道はキリスト教の本拠と言ってよい地方であって古くからその影響を受けて独立思想が激しい。しかも民族意識が強く凶暴性も秘めており大変だろうとは思った》
 実はこのとき、古川は殖産銀行理事や全羅南道知事になる可能性もあった。《もし家族の意見を聞けば、気候が良くて、内地(日本)にも近い全羅南道を希望したであろうが…、これが最後のご奉公である、とひとり深く期するところがあったのである》
 果たして、20年8月9日、ソ連軍は150万を超える大軍で、満州(現中国東北部)へ侵攻。南下を続け、24日には平壌へ先遣部隊が入ってくる。ソ連軍兵士や一部朝鮮人による非道な行為、国境からは満州の日本人避難民が雪崩を打って押し寄せ、平壌の混乱は頂点に達した。
◆幻の●晩植担ぎ出し
 この短期間で(ソ連参戦から終戦まで)古川は、何をやろうとしたか?
 第1に、平壌や周辺の日本人住民の生命・財産を守ること。そして、行政への朝鮮人有力者の登用。さらには満州からの避難民の引き受け、である。
 朝鮮人登用は敗戦後をもにらんで、スムーズに政権移譲を進め、日本人の生命・財産の保全を図るため、であった。古川は、そのターゲットを、抗日運動の中心人物だった民族主義者でキリスト者の●晩植(チョ・マンシク)に置く。軍部は反対したが、古川は「人心安定には不可欠」と軍を説得し、終戦間際から、●の担ぎ出し工作に取りかかる。
 《こういう事態にあっては、過去の経歴や現在の思想等(とう)を超越して、とにかく道内で最も信望のある朝鮮人の協力を求め、例えばその説話の形式でも民心宣撫(せんぶ)の工作を講じる…場合によってはこちら(日本人)が陰になっても構わない》
 「抗日」運動のリーダーであっても、行政の主導権を渡しても…それで日本人の安全が保障されるのであれば構わない、という捨て身の戦略である。
 だが、すでに日本の敗戦を見越していた●は、古川の誘いに乗らなかった。朝鮮人による建国準備委員会、人民政治委員会を結成し、11月には朝鮮民主党を結成して党委員長に就任。新生・朝鮮のリーダー候補とも目されたが、ソ連と対立し失脚してしまう。古川は共産主義者の玄俊赫(ヒョン・ジュンヒョク)とも秘密裏に接触するが、玄も暗殺されてしまった。

◆避難民は引き受けた
 一方、ソ連軍の侵攻を聞いて満州から南下してきた日本人避難民は増える一方だった。《8月12日に現地師団を通じて満州からの避難民を大量に引き受けてほしいとの申し出があり総督府に連絡したところ、「京城に収容能力がないから、平壌以北で引き受けてくれ、南下は困る。これは(日本陸軍の朝鮮)軍司令部とも打ち合わせ済みである」とのことであった》
 古川は怒り心頭に発したが、手をこまねいてはいられない。《私は義憤を感じ、平壌府民の同情心に訴えて受け入れることにした…当時平壌には3カ月分の食糧しかなく、越冬用の燃料も乏しかったが、朝鮮人有力者に依頼して、地方にある食糧や物資を搬入する努力をした。…平壌に3万人、(付近を走る)京義線沿線に1万人、(平壌南西の)鎮南浦に1万人、という受け入れ割り当てを決め、全部日本人家庭に入れることとした…》
 ソ連軍の平壌入城後の8月27日、行政権は、朝鮮人の人民政治委員会へと移譲される。占領下で命を失ったり、塗炭の苦しみを味わったりした朝鮮北部の日本人は数知れない。状況は、米軍占領下の南部よりもはるかに厳しかったが、古川がこれ以上、策を講じることはかなわなかった。9月7日、ソ連軍によって逮捕され、まもなくシベリアへ送られたからである。
以来、約5年間にわたって抑留生活が続く。実はこのとき、古川ら3人の幹部のみがシベリア行きの飛行機に乗せられたと思い込み、覚悟を決めた。回想録にはこうある。《私たちが日本官憲を代表して責を負い、(シベリアへ)送られたと思い、以(もっ)て瞑(めい)すべし、と考えていた》と。
 次男の武郎(たけお)(80)は思う。「父は、曲がったことが大嫌いだった。青雲の志を抱いて朝鮮へ渡り、私は、すごくいい政治をやったと思う。そして、最後までそれを貫いたんです」=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
                   

【プロフィル】古川兼秀(ふるかわ・かねひで) 日本統治時代最後の平安南道知事(官選)。明治34年、会津の名刀鍛冶、古川兼定(かねさだ)の家に生まれる(12代兼定の次男)。旧制一高から東京帝大法学部卒、高等試験行政科に合格し、大正14年朝鮮総督府へ。黄海道、平安北道警察部長、総督府保安課長、図書課長、咸鏡北道、平安南道知事を歴任した。昭和20年8月、朝鮮へ侵攻してきたソ連軍に拘束され、シベリアに5年間抑留。昭和49年、73歳で死去。駐韓国大使を務めた前田利一(としかず)は女婿(長女の夫)にあたる。
●=恵の心を日に
古川の回想録
黄海道警察部長時代の古川兼秀
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