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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】 (17)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
(17)京城はなぜ100万都市に 「泥濘」から発展した日本人街 2018.5.6

 韓国の首都ソウルは人口約1千万人、政治・経済の中心、文化・情報の先端。今やアジアのみならず世界の主要都市のひとつだ。この街は、14世紀末以来、李朝の都(漢城)として500年。日本統治時代(1910~45年)は「京城(けいじょう)」と呼ばれ、近代的な都市として発展し、人口(京城府)は終戦前ですでに100万人を超えていた。
 京城帝国大教授として、約15年間暮らした哲学者の安倍能成(よししげ)(1883~1966年、後に旧制一高校長、文相、学習院院長)は、この美しくもきらびやかな都を描いたエッセーをたくさん残している。
 「京城とアテーネ」(昭和3年)には、こうあった。《初めて京城に来た時(とき)私はすぐに何処(どこ)やら希臘(ギリシャ)のアテーネに似て居(い)るな、と思った…(朝鮮)神宮の前から漢江を見おろした景色は、私には、アクロポリスの上から(略)海を望んだ記憶を呼び起こす…》
 安倍が京城に赴任したのは日韓併合から15年以上が過ぎた大正15(1926)年のことだ。もしも、安倍が「前近代的」な因習や伝統を城壁の中に、そのまま閉じ込めたような李朝末期や大韓帝国時代のこの街に来ていたら、果たしてどう感じただろうか?
日韓併合前の明治38(1905)年、ジャーナリストで後に貴族院議員を務めた加藤政之助(まさのすけ)がこの街を綴(つづ)った一文がある。《大通だけは比較的に清潔なりき、ただし市街の裏通りに至りては道幅8、9尺(2メートル半前後)、車馬通せざる所もあり、下水及(およ)び塵芥(じんかい)の腐敗により起こる臭気鼻を衝(つ)いてきたり…城内の見るべき建築物は、景福及び昌徳の二宮、日本の兵営、列国公使館位(くらい)に過ぎず》(『韓国経営』から)
 京城の電気や水道、市内電車を初期に手掛けた欧米人から事業を引き継ぎ、数度の都市計画を経てインフラ(社会資本)を整備し、モダンな大都市に変身させたのは日本人だった。
■朝鮮人が敬遠した土地
 19世紀末、日本人がこの街に住み始めたとき、最初の居留地となったのが、南山北麓の「泥●(やまへんに見)(チンコゲ)」と呼ばれた所だ。文字通りの低湿地で雨が降れば南山から水が流入し、泥濘(ぬかるみ)になってしまう。朝鮮人もあまり住んでいない地域だった。
 この土地を日本人はせっせと改良して道路をつくり、住宅や商店、公的機関を建てた。そこを起点に本町(後の忠武路(チュンムノ))、明治町(明洞(ミョンドン))といった繁華街が広がり、市内を横断する清渓川の南側は日本人、北側は朝鮮人の街として色分けされてゆく。
再び加藤の筆に頼ろう。《(日本人居留地の)家屋は西洋作もあり日本風の二階屋もあり、店は広く小奇麗(ぎれい)に往来繁(しげ)く…日本人の移住する者年毎(ごと)に増加し…明治38年4月の人口は6296人なり…》(同)
 日本人街には、三越、丁子屋(ちょうじや)、三中井(みなかい)といった百貨店が進出、ホテルやレストラン、カフェ、映画館が次々と開業した。モダンガール・ボーイと呼ばれた、おしゃれな若者たちが押し寄せ、中心の繁華街・本町で遊ぶことを、東京や大阪の“銀(座)ブラ”“心(斎橋)ブラ”になぞらえて「本ブラ」と呼んだ。
 父親が朝鮮総督府の建築技師などを務めた正木千代子(91)は、昭和2年京城生まれ、高等女学校を卒業した後は、京城の中心地にあった水産会社に就職している。「本町は内地にも負けない賑(にぎ)やかな繁華街でね。三越、丁子屋などの百貨店にも、よく買い物に行きました。休日はレコードを聴いたり、昌慶苑の桜見物も覚えている。(終戦までは)物資は豊かだったし、空襲もない。ホントにいい街でしたよ」
 清渓川北側の朝鮮人の居住地にも、朝鮮人経営による和信百貨店ができたが、鐘路を中心とした伝統的な商店などは次第に廃れてゆく。朝鮮人の若者たちも、流行の先端で、小ぎれいな日本人街に足を向けるようになったからだ。
日韓併合直後に25万人前後だった京城府の人口は市域の拡張もあって倍々ゲームで膨れ上がり、総督府の昭和17年末統計では約111万4千人(朝鮮人約94万1千人、日本人約16万7千人)の大都市に成長する。朝鮮全体の増加率は2倍強だったから、京城への集中がよく分かる。
 日朝の近代化の差はどこにあったのだろうか。ひとつは儒教の「受容度の違い」だった気がしてならない。李朝500年間にどっぷりつかった朝鮮では、儒学の勉強に勤(いそ)しみ、科挙(官吏登用試験)に合格した者が最上位であり、武人や医者・技術者など実学に携わる者は低く見られ、労働や商行為は蔑まれた。
 京城の商業の中心が鐘路から本町へ移っていったことを、姜在彦は「ソウル」の中でこう書いている。《長い間の町人文化の中で鍛え抜かれた日本人商人との競争で敗北した…》と。
 ただし、私は李朝の王宮(景福宮)正面を遮るように西洋式の朝鮮総督府を建てたり、各地に神社を設けたりしたのはやりすぎだったと思う。90歳に近い朝鮮の古老は「日本統治で朝鮮人が最も拒否感をもったのは、神社参拝と宮城遥拝(ようはい)だった」と打ち明けている。
■楽しげな娼妓の思い出
 京城のもうひとつの日本人街は、南山の南に形成されていった「龍山」だ。日本陸軍の朝鮮軍司令部が置かれ、軍関係者が多い。
 龍山で祖父母が洋品店を経営していた齊藤雄一(86)には興味深いエピソードがある。その店に買い物にやってきた朝鮮人娼妓たちとの思い出だ。京城最大の遊郭は本町東端の新町にあったが、龍山にも小さな花街があり、そこの娼妓がよく店に来ていた。
 「20代くらいで洋装の朝鮮人女性たちが楽しそうに買い物をしていた。(戦時下で)衣料切符が必要だったのに、(慰安婦として)戦地へ行く人には特配があったらしい。まだ(旧制)中学の1年生だった私に『僕ちゃんも早く兵隊さんになりなさいよ』って、笑いながら、からかわれたことを覚えていますよ」
 なるほど、韓国が主張する“強制連行されたいたいけな少女”などとは随分、イメージが違う。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

京城市内
日本統治時代の京城
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