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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(11)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】
◎家族と引き裂かれ友は殺された(11)「赤化・北朝鮮」に残された邦人
 北朝鮮の初代最高権力者、金日成が初めて公に朝鮮の民衆の前に姿を見せたのは、終戦直後の1945年10月14日、平壌で開かれた集会でのことだった。当時、33歳。伝説の抗日の闘士「キムーイルソン」の登場を待ちわびていた数万の民衆は、あまりの若さを訝(いぶか)しがり、「偽者じゃないか」と騒ぎになったのは有名な話である。
 金日成は、朝鮮半島の北半分を占領したソ連(当時)によって。”仕立てられた”リーダーだった。だが金は、ソ連派、中国派、国内派(南労党派)などの政敵を次々と粛清・排除し、’次第に唯一無二の独裁体制を固めてゆく。日帝の軍隊をさんざん打ち破った。百戦百勝の鋼鉄の霊将”などと神格化を図り、社会主義にはあるまじき「三代世襲」を正当化する荒唐無稽な物語が紡がれた…。
 金日成が登場したころ、朝鮮の北半分には、30万人を超える日本人がいた。技術者や工場労働者も多い。
朝鮮半島の南半分が「農」中心の地域とすれば、北は「鉱工業」の地域であったからである。
 朝鮮と満州(現中国東北部)の境を流れる鴨緑江水系の電源開発を進め、当時、東洋一と謳われた水豊ダム(発電容量70万キロワット)などを建設。その電力を利用して、やはり東洋一の化学コンビナート、興南工場がつくられた。さらに、戦前の日本の最高水準の技術・人員を投入して多くの鉱山、工場が北半分で開発・建設されている。
 終戦直前に侵攻してきたソ連軍は。火事場泥棒”のごとく、めぼしい設備や機械を、せっせと鉄道で持ち去ってゆく。
残された工場などは各地に設立された人民委員会の管理に移され、朝鮮人が日本人を使って稼働を続けさせた。
 米軍が占領した南半分との境界である「38度線」はすでに封鎖されており、残された日本人は動くに動けない。さらに、陸続きの満州からも大量の避難民が押し寄せていた。
 作家、新田次郎の妻、数学者の藤原正彦(74)の母である、藤原ていが書いた『流れる星は生きている』は、3人の幼子と満州の新京(現中国・長春)から朝鮮半島を経て日本へ引き揚げるまでの生き地獄のような日々を綴った不朽の名作である。暴行、略奪、飢餓、疫病、寒さ、疲労、避難民の対立…朝鮮北部だけで3万人以上の日本人が亡くなったという。
 そして、懸命に命をながらえながら引き揚げを待つ日本人も、赤化されてゆく社会で「南半分」とは違う恐怖と苦しみを味わわされることになる。
■「僕は生きたい」
 佐藤尚(86)は、日本海側の港町、清津の中学(旧制)2年生だった。両親と兄、妹の5人家族。ソ連軍が侵攻してきたのは昭和20年8月13日、関東州の旅順高(旧制)に通っていた兄を除き、4人が清津の自宅に残っていた。
 海上からの激しい艦砲射撃に続いて次々とソ連兵が上陸してくる。避難勧告が出されたその日の夕方。銃弾がビュンビュンと飛び交うギリギリの状況の中で、尚は、父親から。究極の選択”を迫られる。
 「私たちはここ(清津)に残る。お前はどうする、生きたいか?」
 母親の病が重く、動かせる状態ではなかった。すでに医師もいない。妹は逃げるには幼すぎた。つまり、1人で逃げられる可能性があるのは、13歳の尚だけだったのである。
 「僕は生きたい」と答えた尚に父は、幾ばくかのお金と食料、衣服をリュックに詰めて裏口から送り出してくれた。ひたすら歩き、何とか無蓋貨車に乗り込んで南下を続け、途中で親類の一家と合流。南との境にそびえる金剛山を、ようやく越えられたのは、翌年の6月のことだった。
 そして、尚は、ある避難民から家族の最期を聞かされることになる。別れた翌日の8月14日、父は、母と幼い妹に薬を飲ませて見送った後、ソ連兵に撃たれて亡くなっていたという。
 「ギリギリの判断だったと思う。私かもう少し、小さかったら、1人では帰れなかっだろう。あまりにもつらい経験なので長い間、誰にも話せなかった」
 両親と妹の遺骨がどこに眠っているのか。尚は、それを知るすべもない。
■子供のおもちゃなのに
 平壌一中(旧制)3年生だった藤澤俊雄(87)は同級生と一緒に突然、平壌の警察署から呼び出しを受けた。遊び道具として、車の廃品からつくった模造品の短刀を所持していた容疑だったという。
 「人民委員会傘下の保安隊だったのか、警察だったのか…短刀で朝鮮人を襲うつもりじゃないか、と疑われたようでした。殴る蹴るなどはなかったが、友人のことをしつこく聞かれた。
たまたまそこに中学の校長先生がいて『日本人だろ、毅然としろ』といわれたことを覚えています」
藤澤は半日で帰されたが、一緒に引っ張られた友人はいつまでたっても帰ってこない。やがてその友人が警察で殴り殺された、と人づてに聞き、藤澤は愕然とする。「たかが子供のおもちゃですよ。素直に話さなかったのか、態度がよくなかったのか、事情は分からない・・・私も紙一重の命だつたんでしょうね」
 満州との国境の街・新義州中(旧制)2年の太田房太郎(86)も、保安隊による銃撃事件に遭遇し、若い学生が殺されたところを目の当たりにする。後に「義挙事件」として知られることとなる、共産主義者に反発する朝鮮人学生が起こした蜂起事件だった。
 太田らは、事件の鎮圧にあたっていたであろうソ連兵に誰何される。「トラックの上で機関銃を構えたソ連兵に『ストーイ(止まれ)』といわれ、日本人か、朝鮮人か、と聞かれたんです。たまたま学生服を着ていて学生証を持っていたので解放されました」
 だがこのとき、一緒にいた朝鮮人の保安隊員から日本語で「行け、だが後はどうなっても知らんぞ」といわれたときは、生きた心地がしなかったという。「若い学生を容赦なく撃ち殺したのを見ていましたから。
 命からがら家にたどり着き、両親の姿を見たときは張り詰めた緊張が一瞬にして解けたようでした」=敬称略、日曜掲載
  (文化部編集委員 喜多由浩)

金日成・金正日の銅像に参拝する一般市民
朝鮮時代の佐藤尚さん
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