【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(7)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(7)
京城帝大の「終戦」 なごやかに引き継いだ日朝師弟
2018.2.25

 東亜同文書院は、近衛篤麿(あつまろ)(首相を務めた近衛文麿の父)の提案で、上海につくられた。明治34(1901)年から終戦まで外交官やビジネスマン、研究者など多くの中国のエキスパートを送り出している。同じようにロシアの専門家を育成する目的で後藤新平(初代満鉄総裁、東京市長)の肝煎りで満州に創設されたのが哈爾濱(ハルビン)学院(後にいずれも大学に昇格)だ。「命のビザ」の杉原千畝(ちうね)は同学院で学び、教鞭(きょうべん)も執っている。
 日本が外地(台湾、朝鮮、満州など)に設けた学校は終戦で順次、閉鎖を余儀なくされた。愛知大学は、それらの学校から引き揚げてきた教員・学生の受け皿となるべく、東亜同文書院最後の学長だった本間喜一が中心になって昭和21年、愛知県豊橋市につくった学校である。
 愛知大草創期の教員名簿を見ると、東亜同文書院出身者と並んで、台北、京城の両帝国大学の元教授が多い。最高裁判事を務めた園部逸夫(いつお)(88)の父親で台北帝大教授(行政法)だった園部敏もそのひとりだ。逸夫は昭和4年、父が京城法学専門学校で教えていた関係で朝鮮で生まれ、旧制台北高校から終戦後、四高(金沢)へ転入、京大へ進んでいる。
京城帝大(城大、予科を含む)教授→愛知大への転出組は10人以上だ。民法などを担当した松坂佐一(さいち)(監事、予科長、教授)は後に名古屋大総長、経済原論などを受け持った四方(しかた)博(理事、教授)も後に岐阜大、愛知県立大の学長になった。“京城帝大人脈”が、多くの枢軸ポストについていたことが分かる。
 ◆引き揚げ時期で明暗
 京城帝大予科に在籍していた学生も内地(日本)の旧制高校などへの転入を迫られる事態となった。
 昭和20年4月、約14倍の高い競争率をくぐりぬけてせっかく入ったばかりの城大予科(理科)1年の山田卓良(たかよし)(89)は4カ月で終戦を迎え、翌年、旧制佐賀高へ転入、大阪帝大へと進んでいる。やはり、終戦の年に予科(文科)へ入学した船越一郎(89)は、旧制松江高→九州帝大へ進学した。
 山田の集計によれば、終戦時、城大予科に在籍していた日本人463人のうち、内地の旧制高校へ転入したのは313人。山田は、「六高(岡山)など空襲で校舎が焼けて受け入れられなかった学校もあったが、ほぼ全国の高校が受け入れた。特に朝鮮と近い九州の高校(五高、七高、福岡高、佐賀高)は多かった」という。
ただ、米軍が占領した朝鮮半島の南半分(現在の韓国)のように、終戦翌年にほぼ引き揚げができた地域はよかったが、ソ連(当時)軍占領地域(満州=現中国東北部や朝鮮北半分=現北朝鮮)は引き揚げが遅れたり、シベリア抑留によって大きなハンディを背負わされたりした。日本へようやく戻れたときには、受け入れてくれる学校がなく涙をのんだ人も少なくない。
 福岡の旧制中学、伝習館から昭和17年に城大予科(文科)へ入学した宮本弘道(94)は、法文学部在学中に入隊、終戦後4年間、ソ連に抑留され、ようやく引き揚げてきたときには、GHQ(連合国軍総司令部)によって旧制→現在の新制への学制改革が進められていた。「城大法文学部の先生が東大法学部へ移っていて声をかけてくださったが、今さら新制大学かと思い、行かなかった。戦争がなかったら、高等試験(現在の公務員上級試験に相当)を受けて官僚になっていただろうね」
 ◆朝鮮学生も悲痛の涙
 終戦時の城大の様子については多くの記録が残されている。「紺碧(こんぺき)遙(はる)かに-京城帝国大学創立五十周年記念誌」は、《終戦の日、教授・職員・学生約二百名が集まってラジオ放送をきいた。約百名の学生中、朝鮮人学生もいたが、ともに「君が代」を合唱し、敗戦に悲痛の涙をしぼった。しかしその翌日には、大学内の朝鮮人職員をもって「京城大学自治委員会」が結成され、朝鮮人学生も参加した。山家(信次)総長に学内の警備、文化財の保管責任の委譲を要求し、学内の室の鍵(かぎ)を求めた。十七日には大学の門に太極旗が掲げられ、表札には、新しく「京城大学」と書いた紙がはられ、医学部の表札からは「帝国」の二文字が消された》と記している。
終戦を予科の寮で迎えた船越は翌日、汽車で実家があった朝鮮中部の群山へ帰った。「終戦の日も寮で夕食を食べ、みんなで雑談をしていたくらい。群山へ行くと、暴動もなく街は落ち着いていた」と話す。
 11月初めには城大の日本人教授の解任式が行われた。後任には朝鮮人の助手や教え子が就くケースが多く、《なごやかな師弟愛の中に、教授は後継者にノートや資料を渡し、自分の図書の保管を依頼した》(同記念誌)とある。
 こうした「事実」を知る関係者も少なくなった。城大の関東地域のOBが毎月1回集まっている「一水会」は現在も続いているが、往時数十人の出席者も今では、宮本、船越、山田ら数人のみである。=敬称略、日曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
予科の看板と校旗
内地の旧制高校へ転入した京城帝大予科生
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