【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(5)

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(5)
「外地初」となった京城帝大 豪華な教授陣と恵まれた設備
2018.2.11


 京城帝国大学とは、どんな学校だったのか。
 大正13(1924)年、帝国大学では6番目の創設、外地としては初めての帝大で、大陸(満州、朝鮮)唯一の総合大学…。大学本部、法文・医・理工の3学部、予科、付属病院、各種研究所、図書館、運動場などを合わせた敷地面積は計約40万坪に及ぶ。
 教授陣の顔ぶれも豪華だった。15年に学部が発足したときの医学部長は、赤痢菌の発見で知られる志賀潔(きよし)(後に総長)、法文学部長は、哲学者の安倍能成(よししげ)(後に旧制一高校長、文相、学習院長)。学校運営に年間300万円(現価で60億円前後)以上(昭和16年度)の予算が組まれた。
 朝鮮よりも15年早く、日本の統治が始まった台湾は、先を越されて悔しがったらしい。予科の国語教授(生徒監)だった近藤時司は同窓会誌で次のようなエピソードを披露している。「(朝鮮総督府の)政務総監が台湾総督府の総務長官と一緒になり、京城に帝大をつくるのだと、得意になって話した。当時予算は台湾が黒字で、朝鮮は赤字(※歳入の不足分を日本政府が補填(ほてん)した)だった。赤字の朝鮮がやるのなら台湾も…」。台北帝国大学の創設は遅れること4年、昭和3年のことだった。
同じ大陸で日本が強い影響力を行使した満州など現中国東北部には、奉天(現瀋陽)に満鉄がつくった満州医大や、旅順工大などいくつも名門単科大学があったが、帝国大学も総合大学もできなかった。
■全朝鮮青年の登竜門
 京城帝大の「特色と使命」について、学部開設を目前に控えた大正15年3月の帝国議会答弁で、湯浅倉平総長(事務取扱)はこう答弁している。
 《朝鮮の古代に発達しております支那大陸の文化、これを朝鮮がわが国に紹介し伝達をいたしました。(略)京城に設置されます帝国大学におきましては特に朝鮮の文学、朝鮮の歴史、これ等(ら)の点につきまして内地の各大学と異なった点に格別の注意をなすことになっております》(『紺碧(こんぺき)遙(はる)かに-京城帝国大学創立五十周年記念誌』)
 朝鮮の伝統を生かしつつ、朝鮮に生まれ、朝鮮の近代化に尽くす人材を育成する-この方針は、予科設置時にも貫かれた。基本的に上部の大学(この場合、京城帝大)にのみ進学する大学予科ではなく、当初はどこの帝大にも進学可能な高等学校(旧制)を設立する話があった。だが、それでは「内地(日本)からの受験生が殺到してしまい、朝鮮の学生の教育機会が奪われてしまう」として、予科(2年制、後に3年制)になった経緯がある。
伝統的に「文科」優位の意識が強い朝鮮においては特に法文学部の人気が高く、高級官僚の登竜門であった法学科の昭和4~17年の卒業生数は、日本人350人▽朝鮮人339人とほぼ拮抗(きっこう)。高等試験(現在の公務員上級職試験に相当)に合格して、朝鮮総督府の官僚や判事・検事の道へ進んだ朝鮮人も多かった。ちなみに同時期の医学部卒業生数は日本人647人▽朝鮮人240人で、こちらは圧倒的に日本人が多い。
 内地から京城帝大を受験し、朝鮮建設に身を投じた日本人も少なくない。
 戦後、警察官僚となり、埼玉県警本部長、大分県副知事などを歴任した坪井幸生(さちお)は、大正2年生まれ。大分の中津中学(旧制)から京城の親類を頼って予科に入学、京城帝大法文学部法学科に進学し、昭和11年の高等試験行政科に合格。キャリア官僚として、朝鮮総督府に採用された。同期生は13人。うち朝鮮人は2人、出身大学は多くが東京帝大だったという。
 坪井が京城帝大の思い出を書き残している。《朝鮮における唯一の大学であり、全朝鮮の青年学徒の登竜門…朝鮮全域から数多くの俊秀が集中してこの予科の入学を志願して殺到した》《法(学)科の教授の陣容は充実していた…関係職員の数は在学生の総数をはるかに超えていたのではあるまいか。整備された物的設備と充実していた人的構成は、当時の他の大学にもあまり類例を見ない恵まれたものであった》(『ある朝鮮総督府 警察官僚の回想』から)
■自分の力でできた?
 “お人よし、おせっかい”の日本にしてみれば、「ここまでやってあげた」感がにじみ出ている。だが、統治された側はそうは取らない。当時、朝鮮人の手によって、民立大学成立の動きがあったのに、「京城帝大によって潰された」。入試においても、「日本語能力に劣る朝鮮人学生には不利な科目(古典など)があった」「朝鮮人入学者に一定の制限が設けられていた」などと、虚実織り交ぜた非難が当時からあったのである。
 こうした感情面の行き違いはある程度は仕方がないと思うが、では、京城帝大はなかった方がよかったのか? そうではないだろう。朝鮮側の当事者たちの経験と思いを次週に書きたい。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
京城清涼里にあった予科の校舎
9校の帝国大学
志賀潔
安倍能成
スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

http://depot3.blog75.fc2.com/tb.php/204-5695bd00

«  | HOME |  »

プロフィール

野生馬 太郎

Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


最新記事


カテゴリ

戦争裁判 (13)
満州開拓団 (2)
戦後処理 (4)
朝鮮半島引揚げの惨事 (4)
終戦直後の混乱 (9)
北朝鮮への帰還運動 (2)
シベリア抑留 (4)
慰安婦 (16)
その他 (7)
未分類 (1)
サハリン(樺太)韓国・朝鮮人残留 (3)
終戦時の朝鮮半島 (1)
韓国軍 (5)
日本人捕虜虐殺 (1)
空襲被害 (6)
海外からの引揚 (9)
日本占領 (1)
ソ連軍の暴虐 (3)
慰霊 (1)
戦場の実相 (8)
在日 (5)
韓国の売春事情 (9)
アメリカ (2)
メディア論 (2)
高級幹部 (2)
負け犬の心理 (2)
中国の不条理 (14)
歴史認識 (10)
北朝鮮 (2)
台湾 (3)
北海道が危ない (0)
満洲 (15)
韓国・北朝鮮の国民性 (2)
国家 (1)
朝鮮人強制連行 (1)
国家の軸 (1)
共産党研究 (1)
政治家のあるべき姿 (1)
中国人とは (1)
日本の伝統文化 (2)
朝鮮総督府 (25)
危機管理 (8)
韓国とは (8)

月別アーカイブ


最新コメント


最新トラックバック


検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QRコード