戦争裁判 チャンギー刑務所の実態

シンガポール法廷①
沼田真蔵の冤罪
チャンギー刑務所の実態
冤罪はこうして作られ、無造作に重刑が科せられた
構成・編集部

■チャンギーは野蛮、地獄の世界 
まず、シンガポール英軍事法廷で終身刑の判決を宣告され、のち巣鴨プリズンに移送されて釈放された沼田真蔵・元陸軍伍長の手記を掲げよう。
昭和二十六年、巣鴨に収監中に書かれたものである。(原文のまま。適当に改行した)
--私は英国人をけっして日本人以上に人道的、かつ。人権尊重の思ひの深い文明人であると思っておりません。
 したがって民主国家が、現在の共産党主義の、ことごとくに非難しているようですが、私は其のすべてに、もっともだと思ふものでは有りません。
民主国家、いやしくも大英帝国と名乗る支配かにあった私達、私も身を切る思ひの作業隊並に刑務所生活を経験してきたものであります。今又借釈放の件で未決十ケ月も英人の手で刑務所に監禁された私に、未決間の証明が無いと言われ、現在悩んで居るもので有ります。
 あの十ケ月が私にとって二年もの長きに感じ今の数千倍の苦しみで有った事を忘れることは出来ません。
 作業隊の当時は日曜日すらなく、朝四時に起され、少しばかりの粥をすすって六時までに一里離れた現場まで歩くのでした。昼休三十分の後は、午後六時までシヤべルを持って我身の哀さにこらい乍ら、時の早く過ぎる事のみを祈りました。
 或る日はコンクリートにひざまずいて、たわしと石鹸でゆか洗いでした。幾度故意に、あつい湯を打掛けられた事か又或日は、深く土を掘って又元の様に埋めるのです。そして又掘るのでした。これは何を意味したものでしょう?
 其の後戦犯として、チヤンギー刑務所に入られて栄養不良のため足もがくがくと、眩暈すら感じました。当時を私は殺人給養であると言いきる事ができます。なぜならば、あの刑務所の生活を少しでも経験のある人々は口をそろえて同意される事と私は信じます。
 私の目にありありと消えさらぬ二十一年のクリスマスでした。私達を正しく立たしておいて、クリスマスのプレゼントだとステッキの太いので手当りブロックの我々を、殴打して走るのです。もうれつな殴打にステッキも析れて、英人大尉の去った後傷み苦しんで居る、友を労わりつつ、国破れて武器を失ひ生死のさかいも人の自由となって居る我身の哀さに泣いてこらえました。
 其の外、死刑の宣告を受け、諦めようとつとめても苦しく仏に縋って居るあれらの人々はただ執行の日を待つのみの友に何の罪があって毎夜の様に殴打しなければならなかったのか。頭上の何処かの監房からもれて来る呻き声は、まるで野蛮の世界です。地獄の世界で、けっして文明人の住むチヤンギーでは有りません。
 水の拷問で其の場で死んで行った友も有ります。あの死刑囚を減刑になったから喜ぶべしと知らせて、家族に喜びの手紙まで書かして、死刑の確定を言渡した例すらあり、裁判はこれ又一方的報復手段の外何ものもでもない。
強調文
 私は思ひ考えれば考えるほど、何故に戦犯として現在にいたり、悩み苦しまなければならぬのか。
この事を多くの人々、より廣く世界の人々に批判を求めたいものであります。
 私は願わくば皆様がもっとも勝れたる文明人であると思われるなれば、「人道何々」と、もっともらしく宣伝せずして戦勝国が敗戦国に与へた、
報復なりと言って下されば、私はこの様に悩むことはないでありましょう。

■中国人少年虐待殺害の容疑 
この手記をしたためた沼田真蔵は、中国人殺害容疑で戦犯に問われたのだった。しかし、はっきりとした冤罪であった。その経緯は次のようなものであった。
 沼田は航空機整備兵で、開戦後まもなくシンガポールで、第三航空軍第十六野戦修理廠所属となり、発動機工場に配属された。そのうち、チヤンギーの陸軍飛行場建設にたずさわるようになり、現地人労働者の世話係をやらされた。仕事がなかった当地の華僑をはじめ、マレー人、インド人が大勢応募してきた。
 そうしているうちに、レンタル・アブドロカニーというマレー人が、沼田の右腕となった。職場での統制や、必要な人員の確保にあたって協力を惜しまなかった。そのレンタルがかわいがっていた者に、ホー・コク・オン(呵恩)という英国と中国人の混血人がいた。そつがなく、優男で、沼田のお気に入りになった。
 そのホーがある日、リオ・シン・チエン(梁新田)という十二、三歳の中国人を連れてきた。孤児だという。労務者の宿舎に迷い込んできたので、日本軍に内緒で世話をしてきたが、隠しおおせるわけがないというので、温情をもって世話をすることを許してもらいたいというわけであった。
 沼田は、その申し出を自分限りの判断で許したのだが、沼田の上官は宿舎からの追放を命じた。
しかし、氏は、ひょっとしたら日本軍の華僑粛清で父母を失った犠牲者かもしれないという同情心もあって、工場に併設されていた工芸学校の校長に嘆願し、宿舎起居の許可を得たのだった。
 そうぃう経緯があったので、リオ少年は沼田によくなつき、氏の宿舎にもほとんどフリーパスに近い形で出入りしていたのである。
 ところがある口、リオ少年は死んでしまうのである。そのために、戦後、右腕とばかり思っていたホー・コク・オンから、「少年殺害」の罪で告発された。ホー・コク・オンは、抗日諜報員の一人だったのである。沼田はそのことを、戦犯容疑の予備尋問の途中でやっと思い出したのである。
 沼田の記憶によると、その尋問は次のように進められた。
ー(一九四六年) 一月七日、またしても、チン大尉の呼び出しがあった。今度の通訳は華僑である。相当慣れた日本語で早口にしやべる。
 「お前は、マレー人のレンタビン・アヘブドロカニーなるものを知っているか?」
 「イエス!」
 「彼は死んだヨ。絞首だ! それから中国人教師のリー・チョン・ボー
(梨鍾波)を知っている

 「ノウ、知らない」「日本の技術学校の教師だ、覚えはないか?」 「ノウ!」「では、中田少年リオ・シン・チエン(梁新田)は知っているね?」
 「イエス、孤児の少年だ?」「そうです、そうです。その子を連れてきたホー・コク・オン(何国恩)もちろん、知ってるね」「よく知っている!」レク・チェン・ヒアンは?
リー・シオン・ギョは? と後から後からたたみかけて来るが、よく覚えていない。そんな雇いの男もいたような気がするけれども… 『何だ。今日はチャンギーの発動機工場のことーー
  あの少年の死亡のことか、そんならはっきりしているし、手続きも完全だ! アブドロカニーは、対日協力祖国反逆罪でやられたのか、可哀そうなことをした……」
 その時、チン大尉が、書類をかかげて、威圧するように立ち上がった。
 「ユー、コーポラル・ヌマタ! お前は梁少年を虐待致死せしめた件により、柯国恩その池三名により、告発されている!」
 何回も練習したのだろうが、聞きとり難い日本語だ。通訳が同じことを繰り返す。
 「ノウ! ノウ!」
 烈しく叫んで立ち上がった途端、書類をもったままの手が振りおろされ、鼻血がパッと散った。
つづいて胸元へ左手のフックーー
  そんなバカな事が、ある筈がない……。
 「お前は知っていたはずだ! あの少年が写真を盗みに入った真実の動機をナ………だから殺ったんだ! そうだな!」
 抗議をしようと身動きすれば、足蹴が来る。顔を上げようとすれば、また鉄拳の雨だ。通訳のげんこつまで降る始末だ!
 「お前、本当に最後まで、柯国恩の正体を知らなかったのか?」
 知らなかった…本当に今の今まで、知らなかったーーあの混血人め。お人好しの自分が、全くもって情けない。そうだ、彼は諜報謀略員だったのにちがいない!

■ “首切りスミス”の遊び半分裁判 
沼田は、チン大尉の手荒な尋問の末、自分にかけられている戦犯容疑の事実を知った。かわいがっていた「飼い犬」に噛まれたという思いとともに、そして歯ぎしりしながら、容疑とされている当日のリオ少年の不審の死もようやく氷解する思いだった。沼田は次のように回想する。
 そうか、呵国恩は抗日諜報員の一人としてわが発動機工場にもぐりこんでいたのか。
 梁少年を突然連れて来たのも、その後の経過にも、現在自分の取り調べにも一々思い当たる節がある。
 梁少年は、あの時十二・三歳だとの言葉に騙されていたが、そうじゃない。自分の手先きを若く言って、俺を安心させるためのごまかしか!
チェッ、・あの混血め!
 あの晩は、俺はぐっすり熟睡しておった。突然の物音に驚いて、頭もとの電燈をひねったが、犯人は咄嗟に姿をかくし逃走した。床にばっさり落ちていたのは、現地労働者の個人写真……」これがばらけて散らばっていた。さては、あれは対日協力者のリスト作りのためかチェッ、あのセラニーめ! 俺は、すぐアブドロカニーとほか数名に非情召集をかけて、犯人捜査をやらせた。暫くすると柯国恩、あいつが少年を連れて謝りにきた。その時は正直な奴じやと賞めたが、後姿でも見られているかも知れぬ、そんなら単純な盗みだと言いくるめた方が得策と思ったに違いない。憲兵への届出を奴はおそれたのだ! チエッ、あのセラニーめ!
 その晩は、そのままあいつの手許で監視させたが、「いつの間にか逃亡しました。許してやって下さい」と謝って来たのもあいつだ。よっぽど俺をお人好しに扱っているナ……。「いや、憲兵隊で捜索する」と頑張ったら、またつかまえましたとつれて来た。
 何とか救ってやろうと思っていただけにカッと来て、胸ぐらを二つ三つ小突いて、「置いていけッ! 俺が調べてやる!」と怒鳴ったら、「今晩私たちでよく事情を調査して見ますから」とのこと。それもいいだろうと軽く許したら、小一時間もせぬうちに、死にそうだと柯国恩めが駆け込んで来た!
 今から思えば、口封じだったのだナ。それから後は、時田軍医と衛生兵に来てもらったがすでにこときれていた………
 沼田の審理は(一九四六年)四月一日と二日の二回、八規に判決言渡しがあった。
 スミス裁判長は〝首切りスミス″と仇名され、恐れられていた。要するにいい加減な態度で終始し、気分によって量刑を変えるような雰囲気を漂わせていた。当日も判決の直前に弁護人の陳述が行われたが、ほとんど聞いていなかった。手元の用紙に何やら書いたり、あくびをこらえたり、居眠りしたり、こともあろうに傍に連れて来ている自分の奥さんとひそひそ話さえしている。
 スミスは最終弁論が終わると、すぐに沼田の名前を呼び、起立させた。

-起立すると同時に「デス・バイ・ハンギング(絞首刑)!」--と傍らの夫人をかえりみてウインク……。総身水を浴びて蒼白となった沼田をにらみ直して、ジェスチャーよろしく、「ハウエバー・アイ・コミュート・インツー・ライフ・インプリズメント(しかし終身刑ですませてやろう)!」
 沼田伍長にも”ライフ“ぶぶっきりと聞こえ、おもわず一礼した。ーー 沼田ぶこの判決直後から、未決拘留から既決のDブロックに収監された。
 翌五月三日、沼田ぶチン大尉から「十五年の禁固刑」に減刑さたことを知らされた。告訴した河国恩から減刑嘆願の手続きが取られ、それが受け入れられたというのであった。

■死刑囚墓地でタピオカ芋づくり 
十五年に減刑された沼田への監視は多少ゆるくなった。事務所の雑用係を命じられていて、錠前の修理や水道貯蔵タンクの点検のために時計塔内を一日に三、四回は見回るという”特権“が与えられていた。沼田はある日の夕方娑婆の景色でも見てやろうと時計塔の上によじ上って下を見下ろしてみた。
 かつての日、ここには大日章旗が翩翻とはためき、沼田真蔵百六十ポンド(約七十二キロ)は剣とピストルを腰に、チヤンギーの丘から、こちらを眺めていた。
 あれから、早くも五年も経つのか。いや、囚われの日々は、それを倍する長さなのに……。
 かつての日を憶いながら、発動機工場のあったあたりを眺め、ついで監獄のまわりに目をやったとき、川田真蔵は異様なものに気付いた。外部障壁東南の隅の外側に、何カ所か、横穴が並んで掘られているのだ。
 わずか二百五十メートルほどの場所だからよく判る。郷子の葉が夕日に染まりながら風に揺れる。その合間に横一メートル、縦ニメートルほどの穴が並んでいる。アッと思った。
 あそこが墓地か!
 そう言えば今朝処刑があった!。
 かつてPブロック(死刑囚の入っている部屋)の覗き窓から見た処刑者の、胸を張ってはいたが、影のない悲惨な姿を想い起した。
 まだニカ月も経っていないのや:…沼田真蔵は、首をはげしく振って、下に降りパイプを点険しながら、事務所に戻り、看守の一人に「OK」の介図を送った。……
 沼田は次の日、再び時計塔に登り、昨日の穴が平に埋められていることを確認した。獄中では、絞首刑された遺体をどう処置するかについてさまざまな噂がたっていた。ある者は、遺体は塀に沿って埋められると言い、ある者は遺体を毛布にくるんで放置しておくと、その夕首に現地雇兵か印度兵かが運んで埋めると言う。しかし、沼田のようにはっきりと埋葬地を確認した者は、おそらく居ないだろう。

 一九四七年十月、刑務所の管轄が軍政から民政に移った後、沼田が目撃した埋葬地はタピオカ芋の畑となった。囚人食糧増産の名の下に沼田ら有期刑のものは全員工作に使役された。日本人戦犯処刑者の遺体が埋葬された墓地の上を(遺体はおそらく深く埋められていたであろうから)耕し、いわば彼らを肥料としてタピオカ芋を植えさせられたわけである。
 一九五五年、日本政府の調査団によってこの処刑墓地から遺骨が発掘され、シンガポール日本人墓地に埋葬され、彼らはやっと安住の地におさまった。

■既決後もやまなかったリンチ
 話は前後するが、沼田真蔵が冤罪で、いささか裁判長の気まぐれから絞首刑を免れ、さらに告訴人当人からの減刑嘆願により十五年の禁固に減刑されたという経緯そのものが、シンガポール法廷のでたらめさの一面をよく示している。日十人が事件を起こしたのだから、罪人は日本人なら誰でもよかったわけだ。
 そういうケースの一つとしてアンダマン・ニコバル住民虐殺に関連して、当時アンダマン第十ニ特別根拠地隊の山根仁平海軍上等兵が訴えられた

裁判を一瞥してみよう。
 起訴状の大要は「一九四五年八月、ポートブレア(アンダマンの首都)にて住民一人を虐待殺害した」というものである。山根の十記を簡約要約してみると、その審理の模様は次のようであった。
 私は昭和二十一年三月二十一目無根の起訴状を受けた。同年四月ニ十六日午前十時シンガポール第六法廷にて裁判に附された。裁判には原告側の本人も出頭し居らず、原告の証人と全然関係のない百姓のモランラールと言う印度人一人であった。
裁判長:  彼処の山根という者を知って居るか。
原告首証人: 知って居る。
裁判長:  山根はバチャンシンを殴打して殺したのを知って居るか。又如何にして殺したか、且つお前は見て居ったか、其を詳細を説明せよ。
原告証人: 山根はバチャンシンを二寸角の長さ五尺位の棒で約一時間位で百十打って殺したのを私は見て居りました。
裁判長:  よろしい、控室に行き待って居れ。

 それと同時に私が証言台に呼ばれた。
裁判長:  被告山根は此の事件は無罪と思ふか有罪と思ふか。
山根:   私は必然無罪である。
日本人弁護人: 中根は此の事につき事実無根であるし、日本人の証言三人の確証あり、此の法廷に出頭させて証言させる。
検事:   山根は日本軍がアンダマン島に進駐して以来終戦まで居て、司令部に勤務して居ったが、其の間原住民の有識階級が日本軍によってスパイ嫌疑にて逮捕されたのを知って居るだろう。いや、知っているのだから詳細を説明せよ。
山根:   私は司令部に居ったが、飛行場建設のためジャングル地帯に勤務して居りし故何も知らぬ。
裁判長:  山根は原告証人が証言して居るが、何故殺さなければならなかったのか。
山根:   私は殺したなどと言ふことはない。原告証人は虚偽の証言である。
      (休廷約十五分)
裁判長:  山根は最後に何か言うことはないか。
山根:   私はこの事件のバチヤンシンなど殺した覚えはなく原住民の為、万善を尽して来たもので、原住民一同へ野菜・塩・油・衣類などまでも、無償供与して来たもので、事実無根なる故、尚今一度取調べて下さい。私の言ふ事が虚偽と疑はれるなれば、原告証人を呼びお尋ね下さる様お願ひ申し上げます。
 直ちに原告証人を呼出し、
裁判長:  お前は山根が使用して居った苦力に野菜、塩、油等を与へて居た事を聞いたことがあるか。
原告証人: 山根は使用人に野菜、塩、衣類を無償で与へて居った。私も二、三回貰ったことが或る。
 このあと一時間ほどの休廷のあと、次のような判決言渡しがあったという。
 「山根はアンダマン島進駐以来、よく原注民の食糧を確保せしめたことは誠に感激する。また法廷に出頭し、態度言語共に日本軍人の模範とするに足る者である。しかし貴殿は殺人罪として起訴されて居るゆえ、当然死刑に値するものであるが、君の人格に免じて終身刑を言い渡す」
 その事件の審理時間は、三時間半だった。告訴されているという事実のみが優先して、なかば冤罪と感じつつも、裁判長は出来るかぎり無罪を出さないように、また出来るかぎり量刑を重くするように最初から一定の伜がはめられていたことを十分にうかがわせる裁判例である。

 もっとも、山根の場合は沼田の場合と異なり減刑の処置が取られなかったということもあったのか、チャンギー監獄の既決房に入れられたあとのリンチは烈しいものがあった。山根白身の手記か
ら要約すると、それは、「毎日減食、拷問、殴り込みに遇い、すべての者におぃても、ただ生きているのみの状態にあり、じつに惨酷きわまりないものがありました。両手を上に掲げて焼けつくようなコンクリート上を歩かされ、夜は殴り込みされる」というものであった。
 既決前のリンチもひどかったが、それは既決後も一層烈しくなったとぃう多くの証言がある。例えば伊野権谷下憲兵軍曹は、こう証言している。
 「殴り込みは実に凄惨この上もありませんネ。昼のうちに誰をやるか目をつけてぃるのです‐……あいつは原住民虐殺で裁判、絞首だ、ぃや終身刑だと言えば起訴の段階からはげしく、裁判進行中はより酷い。
 チャンギー監獄から、法廷に進行する看守(監硯兵)が先ず法廷の証人などの証言で興奮して帰ってくるわけーーこれが直ぐ伝わる訳です。
 私と同じ監房にいた憲兵軍曹(名前は忘れましたが……)も、徹底的にやられ、最後には英兵に一階のホール(雨天集合所)に連れ出されて倒れるまで駆け足……… 何日か目の夜は遂に帰って来ませんでした。噂では、翌朝毛布にくるんだ死体らしきものが運び出されたと聞きました」
 このようにして、監獄内のリンチで死亡した例は、ほかにもあるという。
 (本稿は茶園義男著『BC級戦犯・チヤンギー絞首台』に拠った)

「戦争裁判 処刑者一千」戦記シリーズ23 新人物往来社から引用
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