ロシア人・朝鮮人に「性奴隷に」された日本人女性の悲劇

ロシア人・朝鮮人に「性奴隷に」された日本人女性の悲劇
              歴史通 17-April 大高未貴
「北鮮二侵入セル『ソ』兵ハ白昼街道ニテ通行中ノ婦女ヲ犯ス」(高松宮日記)
◆封印された日本婦女子の悲劇
 数年前、私は埼玉県大宮市の墓地「青葉園」に立つ青葉地蔵尊で行われた供養に参加した。拙著『強欲チャップル 沖縄集団自決の真実』に詳しいが、集団自決の真相について取材を進める中、戦時中、渡嘉敷島に赴任していた皆本義博元中尉から「沖縄の集団自決は決して軍命令ではなく、人間としての尊厳を守るため、ある意味自発的なものでした。あの不幸な時代、集団自決は沖縄だけの現象ではなく、ソ連軍の侵略をうけた満洲や朝鮮半島、そして樺太でも起こったものなのです。来週、満洲で自決という非業の死を遂げた従軍看護婦二十二人の供養があるから取材に来ませんか?」とお声掛けいただいたのがきっかけだった。
 恥ずかしながら、皆本氏からそのことを聞くまでソ連軍の蛮行といえばせいぜいシベリア抑留程度だったので、あらためて青葉地蔵尊の由来を調べながら震え上がった。
  「昭和二十一年六月二十日の満洲・ 新京(長春)。旧ソ連軍に留め置かれ、長春第八病院で働いていた松 岡喜身子さん(七七)ら二十数人の従軍看護婦は、絶望のどん底にいた。
  その夜、ソ連軍の要請で軍の救護所へ仲間六人と”応援”に行っていた人鳥はなえ看汲婦(二二)が、十一発もの銃創を受けながら一人逃げ帰り、救護所の実態を伝えて息を引き取った。「日本人看護婦の仕事はソ連将校の慰安婦。もう人
を送ってはいけません」
 大島さんの血みどろの姿に、喜身子さんはぼうぜんとし、涙も出なかった。「ロシア人は日本人を人間とすら扱わないのか……」。だが、悪夢はその翌朝も待っていた。二十一日月曜日午前九時すぎ、病院の門をくぐった喜身子さんは、病
院の人事課長、張宇孝さんに日本語でしかられた。「患者は米ているのに、看護婦は一人も来ない。婦長のしつけが悪い」「そんなはずはありません。見てきます」胸騒ぎがして、看護婦の大部屋がある三階に駆け上がった。ドアをノックしても返事はない。中へ飛び込むと、たたきには靴がきち人とそろえてあった。線香が霧のように漂う暗い部屋に、二十二人の看護婦が二列に並んで横たわっていた。(略)「死んでいる……」。
 満州赤十字の看護婦は終戦時、軍医から致死量の青酸カリをもらい、制帽のリボン裏に隠し持っていた。机上には、二十二人連名の遺書が残されていた。〈私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます〉」(産経新聞 平成七年六月二十九日)
 悲劇は朝鮮半島にも及んだ。『高松宮日記』にもこう書かれている。
「北鮮二侵入セル『ソ』兵(白昼街道ニテ通行中ノ婦女ヲ犯ス。汽車ノ通ラヌタメ歩イテ来ル途中、一日数度強姦セラル。二人ノ娘ヲ伴フ老婦人(カクシテ上娘(妊娠、下ノ娘(性病二罹ル。元山力清津ニテ(慰安婦ヲ提供ヲ強ヒラレ人数不足セルヲ籤引ニテ決メタリ、日本婦人ノ全部「強姦セラル。強要セラレ自殺セルモノ少ガラス」(『高松宮日記 第八巻 昭和二十年十月二十三日』中央公論社)

 こうして満洲、朝鮮半島から心身ともに傷を負った日本人女性が駆け込んだ先の一つが福岡の二日市保養所だった。いまは当時の悲劇を鎮魂するための水子供養地蔵を中心とした二日市保養所跡があり、跡地建立趣旨にはこうある。
「昭和二十∇二年の頃 博多港には毎日のように満州からの引揚船が入っていた。其の中に不幸にしてソ連兵に犯されて妊娠している婦女子の多い事を知った旧京城帝国大学医学部関係の医師達は、これら女性を此処-旧陸軍病院二日市保養所―に連れてきて善処した。(略)児島敬三」
 父親もわからぬ青い目をした異国の赤ん坊を産んで育てることもできず、上陸寸前に博多湾に身投げした女性もいたという。そこで不遇な女性の自殺を防ぐため、引き揚げ船には医師も同乗し、傷を負った女性たちに、。上陸したら二日市で手術できますから心配しなさんな‘と声をかけてまわっていたのだ。この行為は当時、堕胎が禁じられていた日本で、超法規的措置として秘密裏に引揚女性の堕胎が認められたという。とはいえ、終戦直後の物資不足で麻酔すらない状態での手術だった。
 この悲劇を裏付けるため、引き揚げ船内で配られた一枚の呼びかけ文を紹介する。
 「不幸なるご婦人方へ至急御注意口‥ 皆さんここまで御引揚になれば、この船は懐かしき母国の船でありますから先づご安心下さい。さて、今日まで数々の厭な想い出も御ありでせうが茲で一度顧みられて、万一これまでに『生きんが為
に≒故国へ還らんが為に』心ならずも不法な暴力と脅迫に依り身を傷つけられたり、またはその為身体に異常を感じつつある方には再生の祖国日本上陸の後、速やかにその憂診に終止符を打ち、希望の出を建てられる為に乗船の船医へこれまでの経緯を内密に忌憚なく打ち開けられて相談してください。本会はかかる不幸なる方々のために船医を乗船させ、上陸後は知己にも故郷へも知れないやうに博多の近く二日市の武蔵温泉に設備した診療所へ収容し健全なる身殼として故郷へご送還するやうにしておりますから、臆せず、惧れず、ご心配なくただちに船医の許まで御申し出ください。財団法人 在外同胞援護 救療部派遣船医」千田夏光氏が書いた『皇后の股肱』の中にご一日市・堕胎医病院々という章があり、当時の様子がよく描写されている。妊娠六ヵ月、七ヵ月の中絶手術は母体へのダメージも大きく、手術後命を落とした女性もいた。中には泣き声をあげる胎児もいて、その声を聞くと母性が目覚めかねないので医師たちの手で胎児の息をひきとらせている。昭和二十三年に閉鎖されるまで約九百名もの女性が門をくぐり、手術を受けた女性は四百六十二名、うち十名が命を落としているというのだ。
 二日市保養所跡に慰霊碑を児島敬三氏が建立したきっかけも、上述した千田夏光氏のルポを読んで衝撃を受けたからだという。貴重なルポルタージュだと思うが、南京については東京裁判史観そのもので、臼井勝美電気通信大学教授の「日中戦争」などを孫引きしながら『日本軍の通過した後に処女なしと言われる』などといった針小棒大な証言をサラリと織
り込んでいるところに千田氏の視点が伺える。又、従軍慰安婦に関して千田氏は麻生徹男軍医を慰安所発案の責任者であるとはのめかすように描いている。その件に関して私は麻生軍医の娘である天児郁氏に福岡で取材し、千田氏が天児氏に謝罪した話や彼女に宛てた手紙なども見せてもらったことがある。彼女は「千田氏の不正確な執筆や検証もない孫引きによって書かれた本がジョージーヒックスなどによって引用され、さらにクマラスワミ報告に採用され、国際社会に慰安婦問題が歪んだかたちで広まってしまった」と怒りを隠さなかった。
 ともあれ二日市保養所について調べてゆくうち、意外なことに気付かされた。保養所に駆け込んだ女性達への加害者の大半はソ連兵だと思っていたのだが、なんと朝鮮人の方が多かったというのだ。
「二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、施設の開設から二ヵ月間で強姦被害者の加害男性の国籍内訳は、朝鮮二十八人、ソ連八人、支那六人、米国三人、台湾・フィリピンが各一人だった。一九四七年の施設閉鎖までに五百件の堕胎手術をおこなった』(『戦後五十年引き揚げを思う』)
 また終戦直後、朝鮮北部の興南にいた鎌田正二氏はこんな証言をしている。「ソ連兵や朝鮮保安隊の掠奪と横暴は、残酷をきわめた。
 夜なかに雨戸を蹴やぶって侵入してきたソ連兵は、十七になる娘を父親からひったくるように連行。
 娘は明け方になり無残な姿で、涙もかれはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった」(『潮』一九七一年八月号)
 日本が敗戦国となったと同時に、一部の朝鮮人は手のひらを返すように残忍な加害者と化して日本人に危害を加えたのだ。余談になるが″慰安婦強制連行‘について朝日新聞ですら虚偽と認めた吉田清治氏は福岡県出身で、戦後は山口県下関の門司港を拠点に活動をしていた。吉田氏は労務報国会で朝鮮人狩りをしていたのではなく、日雇い労務者の仕事の振り分けをしていたに過ぎない。引揚船の割合は福岡の博多港と長崎の佐世保が最多で、門司港は使用されず近くの仙崎港が使用されていたが、いずれにせよ北九州に押し寄せてきた引揚者の悲劇は吉田氏も聞き知っていた筈だ。にも関わらず。私か朝鮮人女性を強制連行して慰安婦にした”などという創作話を、一体どんな心境で吹聴していたのだろう。
 日韓合意後、韓国人慰安婦の中には日本からの見舞金を二重取りした女性もいる。アジア女性基金から約五百万、和解金約一千万、合計一千五百万もの大金だ。方や近現代史家・秦郁彦氏の推計によると従軍慰安婦の約四割をしめていた日本人慰安婦には何の補償もされていない。ちなみに朝鮮人慰安婦は約二割。つまり慰安婦問題の本質とは、女性の人権問題ではなく、外交問題に発展させて。戦後補償産業”の恩恵に預かろうとした活動家たちが、吉田清治や韓国人慰安婦などを利用したということにつきるのではなかろうか? こうした倒錯した歴史の担造の罪深さの陰で、日本人婦女子の受難は封印されてきたのだ。
 日本婦女子の悲劇の痕跡は北方の地・樺太にも刻まれていた。一九四五年戦争末期の八月八日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して対日宣戦。翌九日、突然ソ満国境線を破り日本軍への攻撃を開始した。その最たるものはソ連軍が迫る中、九人の電話交換手だった女性が集団自決した真岡事件が有名だ。
 大本営は一九四四年三月「決戦非常措置要綱」を発令し、電信電話部門に関しても徹底的な強化推進の方針を打ち出していた。真岡郵便局でも非常体制が取られ、残留の募集に応じた二十一人の交換手が交代で二十四時間業務にあたっていたという。八月二十日、真岡沖に現れたソ連艦が艦砲削撃を開始し、真川の町は幟火に包まれた。その直後、九人が青酸
カリを飲んで集団自決を果たしたのだ。彼女たちは、生きたままソ連兵に見つかったら、どのような陵辱を受けるかわかっていたのであろう。
 私か彼女たちの苦渋の選択が、決して妄想に起因するものなどではなかったことを確信したのは、終戦直後、満洲から朝鮮半島経由で引き揚げてきた開勇氏の壮絶な証言を聞いたからだ。

◆皇軍兵士が見たソ連軍の蛮行
 「東は虎頭 北黒河 興安嶺の峰越えて 襲ひきたれしソ連軍 げに恐ろしやその姿鉄輪迫る修羅の途 避難する身 に襲ひきて 縦横無尽に踏みにじり 悲惨の極みに血は流る 聞くも語るも血の涙 屍は積りて 山を築き 血汐は流れて川をなす修羅の巷か 地獄谷(略)我をあざむき襲ひくる ソ連の蛮行 許すまじ 恨みつくさん時くるや 恨 み返さん 時くるや」(日本人避難民悲歌)
 この歌は元陸軍憲兵伍長の故開勇氏からいただいた資料の中にあったものだ。
 初めて開氏を知ったのは、。靖國神社に参拝中の元日本軍兵士(開勇)が中国人の暴漢に襲われる、といったニュースがきっかけだった。
 二〇〇八年、開氏が靖國神社を訪れた際、突如中国人の暴漢に襲われ、持っていた日の丸を奪われ、国旗を足で踏まれた上に竿を折られたという。開氏は自らの命を顧みず、奪われた国旗を取り戻すために中国人に歯向かった。何故ならその日の丸には鬼籍に入った戦友たちの名前が記されていたからだ。
 日本の老人に対する中国人の暴挙は産経新聞やチャンネル桜などで報道された程度で、中国に抗議した政治家もおらず、うやむやとなってしまった。この事件後、私は開氏の戦友たちへの想いや彼が体験した戦争を記録せねばと思い、彼の元を訪ねた。横浜の自宅の部屋には天皇皇后両陛下の写真が飾られ、居住いも正しく、矍鑠(かくしゃく)たる様は、さすが元皇軍兵士と思わせるに十分だった。
 開氏は大正十五年、富山県生まれ。昭和十九年に陸軍憲兵学校を卒業し、その年の十二月に北朝鮮の羅南地区・清津の憲兵分隊に赴任している。
 悲劇が始まったのは翌年、昭和二十年八月九日、ソ連軍侵攻により、南方に主力兵を取られていた慶興分隊、清津守備隊は瞬く間に全滅。北朝鮮では天皇の玉音放送がなされた十五日以降もソ連軍の爆撃が続き、日本軍が正式に武装解除したのは、その数日後で、開氏が語る地獄絵図は、その混乱の中で生じていたのだ。
しかし、ソ連の正規軍がやってきても、北朝鮮にいる日本人の受難が終わったわけではない。

◆ケダモノ以下の囚人ロシア兵
「敗戦と同時に北朝鮮に南下してきたロシア兵(ソ連軍)はケダモノ以下でした。当時、日本人は民間人も含め、我々兵士と共に、家を朝鮮人に奪われて、学校や工場などで避難民生活をしていたのですが、ロシア兵は。ヤポンスキー・マダムーダワイ(日本女性はいるか?)と、若い女性を捜し回り、見つければ、その場に押し倒し、集団強姦です。しかも物陰でなどという配慮など一切ありません。当然、目の前で娘や妻が犯されるのですから、父親や夫は止めに入ります。そ
うした場合、即、射殺です。我々兵士も武器を取り上げられており、如何ともしがたく、それはもう地獄絵図でした。だから、顔に泥をなすりつけ、頭を丸刈りにする日本女性もいましたが、奴らの目から逃れるのは難しかったようです。
 この先遣隊は、殺人犯や強盗犯で編成されたいわゆる。”囚人部隊゛だったようで、その後、正規軍が入ってきて、状況は少し改善されました。日本軍もロシア兵も同様ですが、正規軍は厳しい軍律がありますから、民間人に不法な事をしたら軍法会議にかけられ極刑です。だから、人前で強姦するような乱暴なことはしません。とにかく囚人兵レベルの低さといったら……。人相は凶悪そのもの、やることなすこと人間ではないのです。なにしろ日本人の前でズボンをおろして平気な顔で排泄するのですからあきれるばかりです。正規軍のロシア兵は。あいつらは、死ぬ運命にあった死刑囚もたくさんいる。ここまで生きられただけもうけものだ”と吐き捨てるように言いました。まあそれでも、正規軍がきてからは、目にあまる強姦や殺戮が減り、我々日本人が少しは助かったのも事実です……」
 元憲兵伍長・開勇氏は、そこまで一気に語り、大きく息をついた。満洲や朝鮮半島にいた多くの日本兵がソ連に捕えられシベリア抑留となったが、開氏はアルチョム収容所から南の古茂山収容所に送られるため五百キロ歩かされている時に、ソ連軍警備兵の目をかいくぐって必死の脱走を試みて成功したのだが、南下する際、朝鮮人の保安隊に、日本軍の敗残兵と見破られ、再びソ連軍に引き渡されてしまった。下着に所属部隊と名前が書かれていた(戦死した際の認識票代わりに日本兵は皆そうしていた)のが致命的だった。ちなみに当川りの北仙川では、人民似安隊だの特別警備隊と名乗る朝鮮大武装自警団が践厄し、街道に関所のようなものを設け、日本人避難民から通行料だといっては金目のものを強奪したり、日本兵を一人当たり約五十円でソ連軍に売り飛ばしたという。私は三百人の日本兵とともに、再びソ連兵に連行されることになったのですが、その道中でのことです。山道を芋虫のように地べたを這いながらこちらに進んでくる奇妙な人間の姿を日にしました。近付いてみると、両手と膝に草履をひざにも草履をくくりつけ、四つん這いになってそろりそろりと歩む老婆でした。゛おばあさん、どうしたのですか?”と問うと、”息子夫婦は先に逃げたのですが、匿ってもらっていた朝鮮人に家を追い出され、私一人、南鮮へ行くところです。腰が悪いので、こうして進むしかありませんや”と言います。さすがに我々は絶句しました。助けてやりたくても、連行される身の我々にはどうしてやることもできません。
堪り兼ねた兵隊の一人が。”親を捨てて逃げるだなんて”と呟くと、”息子夫婦には私か頼んで逃げてもらったのです。無事に内地に帰ってくれればいいんです。恨んでなんかいません。戦争に負けたのですから゛と言い残し、やがて老婆は見下ろす私たちを後に、南に向かって、そろりそろりと這って行き、私たちも無言のまま北へ歩き出しました。しばらくして思わず後ろを振り返ると、黒い豆粒のようになった老婆が、峠の向こうに消えてゆくのが見えました。涙なんて出ませんが。戦争に負けるとは! 心も死ぬことなのだとつくづく思い、足だけでなく心までずっしりと重くなりました。

◆平壌で三百体の死体処理
 開氏は、北へ向かう行軍の最中、再び脱走を試み、成功。運よく平壌まで逃れた。
「平壌には下平避難民団(関東軍野戦貨物部及び、その指揮部隊家族約八百名)と、横内清津避難民団(下平方面在住者の約二百八十名)の二つの避難民集団がありました。私は清津避難民団に紛れ込みました。
しかし、ここでも十月下旬になると船橋里警察署から。十七歳以上の日本男子はただちに出頭せよ‘と通達がありました。ソ連軍に引き渡され、シベリア送りになるのは当然予測されましたが、男達は皆観念して、警察署に出頭しました。そうしなければ老人や女子供に迷惑がかかるからです。私も。今度こそシベリア送りだ”と覚悟しました。ところが日が暮れ始めた頃。”今日は帰っていい。後日の呼び出しまで待機せよ”といわれ、拍子ぬけしたものです。どうやら、船橋里警察署の署長の奥さんが日本女性で、裏からなんらかの工作をしてくれたようです。あの戦争を生き延びた者は、皆、そうした僥倖(ぎょうこう)に恵まれた者だけです。
 それはともかく、冬の訪れとともに、バタバタと避難民達が死に始めました。劣悪な環境下で栄養失調、腸チフス、アメーバー赤痢、マラリアが蔓延し始めたのです。私は平壌日本人会東平壌支部奉仕葬儀班に参加し、毎日のように死体を大八車に乗せ、十キロ程離れた瀧山共同墓地へと運びました。冬場は雪で轍が凍結し、道がでこぼこでなので、遺体が踊りだします。何しろ遺体をくくりつける紐すら入手困難だったのです。でもそれはまだましでした。春が来て夏が近くなると、遺体の腐乱が速くなり、荷台が揺れるたびにチャポン、チャポンと体液が飛び散り顔や体にかかります。そしてどこからともなく、銀バエがやってきて、我々の周囲を飛び回って離れません。朝鮮人に。日本人、臭いぞ! あっちいけ”と罵られ、石まで投げつけられました。こうした毎日を繰り返していると、人間は少々のことでは動じなくなります。
 しかし、そんな私でも脳裏に焼き付いて離れない遺体がありました。あれはたしか女性の遺体でしたが、死体置き場に行くと、顔全体が筋肉体操でもしているかのように、グリグリと激しく動いているのです。よく見ると、目・耳・鼻・口、穴という穴に巨大な姐が庭いており、その姐が皮膚の下の腐肉を食い荒らしていたのです。それでも、四人の仲間と手足を持って、掛声もろとも遺体を大八車に引き揚げようとしました。その瞬間です。だわだわだわわと尻の穴から赤黒い得体の知れない体液とともに腐った内臓やウジ虫、回虫が滝のように流れ出し、その臭いといったら半端でなく本当に卒倒しそうになりました。
 当然、私もアメーバー赤痢にかかってしまいました。そうはいっても休むことはできません。なにしろ避難所の状況は日に日に悪化してゆきます。死んだ赤ん坊を三日間も抱き続け放心状態の母親、”うどん、うどんはいらんかね~”と、自らの口から吐いた川虫を洗面器にいれて徘徊する気が触れてしまった青年。毎日のように人が死んでゆく光景が日常風景となり心も動かなくなってゆくのです」
 三百体ほど遺体処理をした頃、疲労困信した開氏の様子を見かねた先輩が、ソ連軍将校の集会場となった桜町ホテルを紹介してくれ、そこの住み込みボイラー焚きとなって精神の小康を得たという。
「とはいえ、そこも大変なところでした。日本人の避難民が毎日やってきて、残飯漁りをするのです。もっとも私自身もボイラー焚きの傍ら、肉や魚の骨を誰よりもはやく漁ってしゃぶりついていたのですから浅ましいものです。その頃のことです。
ソ連兵の将校に。日本人女性の家政婦を紹介してくれないか?ぷと頼まれました。。朝鮮人はダメだ。来るたびに必ず、かが無くなる。それも、砂糖一杯とか、じゃがいも一個とかだが、盗まれていると思うと家の中でくつろぐことができない。その点、日本人女性はどんなに貧しくとも、盗むことは決してしない‰その言葉を聞き、私は。戦争に負け、こんな悲惨な状況になっても、日本女性は凛として生きているんだ々と嬉しくなり、何故か故郷の老いた母に無性に会いたくなり、決死の覚悟で釜山を目指しました。どうにか三十八度線にたどりつくと、そこに待ち構えていたソ連兵に、わずかに隠し持っていた時計や地図など、それこそ身ぐるみはがされました。北と西のわずか三、四キロですが、方角もわからず、三日三晩山中を彷徨いました。至るところに死体が転がり、死臭が蔓延していたのを覚えています。
 そして精も根も尽き果てた頃、誰かが。南だ! 漢城(現ソウル)の灯がみえるぞ!と叫びました。ふらつく足で小高い丘に登ると、確かに眼下遥かに街の灯が広かっていました。。助かった! 俺達は助かったんだぞ”避難民達は皆、感極まって泣きました。山を降り、米軍基地の天幕村にはいって、私たちはようやく人間の世界に生還できたのです。釜山から船に乗って博多に復員したのは昭和二十一年九月三日。故郷に帰ると痩せ衰え、死に神のようになった私を抱きしめて、母はさめざめと泣きました。私も泣きました。あの時、再び母にあえてどんなにうれしかったことか、私には生涯忘れられません」。

◆日本人よ、沈黙するな
 その開氏は十年近くかかって仕上げた、一冊の本と分厚いノートと二枚の地図を宝物のように保存していた。ノートには満洲、朝鮮で死亡した軍人千六十八柱の氏名・階級・本籍・処刑場所や自決場所がぎっしりと書きこまれている。自ら政府機関や関連場所を訪ね歩いてまとめたものだという。満洲・朝鮮の二枚の地図には、民間人の死者数がびっしり書き込まれている。その数、満洲・三十五万八千八百人、朝鮮三万四千六百余名。

「気が遠くなるような作業でしたね」と私か問うと、開氏は子供のように照れた笑顔を見せ「無事に復員できた私のせめてもの償いです。この人たちのお陰で、私はいまも生きていられるのですから。最後の使命です」
 開氏にインタビューした数週間あと、私は、(ハルビン、長春、瀋陽、大連と旧満洲の街々を旅した。それらの各都市の抗日記念館には、明らかに握造と思われる写真や蝋人形で、日本軍が悪魔か狂人のように表現されていた。中国共産党が外に敵を作り、国内に不満を封じ込めようとするための施設とはいえ、いかにも常軌を逸したものだった。
 開氏だが冒頭で述べたように、正規の軍人は、たとえソ連兵であっても、民間人に悪魔のような所業は組織だってはしないものなのだ。そんなことを許したら秩序や軍規はバラバラになり、軍としての機能もしないし、敵との戦いもできなくなる。そんなわかりきったことを忘れている日本人がなんと多いことか。
 ベトナム戦争で韓国軍がベトナムに参戦した際、ベトナム人女性を強姦して産まれた混血児が釜山日報によると最少五千人・最大三万人(釜山日報)。又、第二次世界大戦の際、ドイツに侵略したソ連兵に、約半数近くのドイツ人女性が強姦され、そのうち約二〇%の女性から混血児が産まれたという。
 一方、日本軍が駐屯していた東南アジアで現地女性への強姦による日本人の混血児が産まれたという事例はあまり聴いたためしがない。慰安婦制度は、そういった悲劇を防ぐためにも取り入れられたものだった。にも関わらず、″日本軍はアジアの女性約二十万人を性奴隷にした”などといったデマが世界に喧伝されている。
すでにほとんどが鬼籍に入ってしまった日本軍兵士と、性奴隷に既められた慰安婦達、握造された不名誉な歴史を背負わされかねない日本の子供達、彼らの尊厳を守るため、日本人はこれ以上沈黙してはならない。

≪大高未貴≫
一九六九年生まれ。フェリス女学院大学卒業。世界百力国以上を訪問。チベットのダライラマ十四世、台湾の李登輝元総統、世界ウイグル会議総裁ラビアーカーディル女史などにインタビューする。『日韓。円満々断交はいかが? 女性キャスターがみた慰安婦問題の真実』(ワニ新書)、『イスラム国残虐支配の真実』(双葉社)など著書多数。『テレビ・タックル≒ニュース女子』『DHCニュース虎の門テレビ』などに出演している。

スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

http://depot3.blog75.fc2.com/tb.php/167-1a4c7780

«  | HOME |  »

プロフィール

野生馬 太郎

Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


最新記事


カテゴリ

戦争裁判 (13)
満州開拓団 (2)
戦後処理 (4)
朝鮮半島引揚げの惨事 (4)
終戦直後の混乱 (9)
北朝鮮への帰還運動 (2)
シベリア抑留 (4)
慰安婦 (16)
その他 (7)
未分類 (0)
サハリン(樺太)韓国・朝鮮人残留 (3)
終戦時の朝鮮半島 (1)
韓国軍 (5)
日本人捕虜虐殺 (1)
空襲被害 (6)
海外からの引揚 (9)
日本占領 (1)
ソ連軍の暴虐 (3)
慰霊 (1)
戦場の実相 (8)
在日 (5)
韓国の売春事情 (9)
アメリカ (2)
メディア論 (1)
高級幹部 (2)
負け犬の心理 (2)
中国の不条理 (2)
歴史認識 (10)
北朝鮮 (2)
台湾 (3)
北海道が危ない (0)
満洲 (15)
韓国・北朝鮮の国民性 (2)
国家 (1)
朝鮮人強制連行 (1)
国家の軸 (1)
共産党研究 (1)
政治家のあるべき姿 (1)
中国人とは (1)
日本の伝統文化 (1)
朝鮮総督府 (1)
危機管理 (8)

月別アーカイブ


最新コメント


最新トラックバック


検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QRコード