朝鮮戦争、軍事クーデターにも関与した「人脈」とは…
【満州文化物語(29)特別編】2016.8.7 産経新聞
終戦とともに、うたかたのごとく消え去った満州国。日、満、漢、鮮、蒙の5族で構成される国軍幹部を養成した陸軍軍官学校(日本の陸軍士官学校に相当)に後の韓国軍主要メンバーが名を連ねる「満州人脈」があった。
その数、約50人(新京の軍官学校のみ)。日本統治時代の選び抜かれたエリートであった若き将校や士官候補生は戦後、韓国軍の創設に加わり、同胞が血で血を洗った朝鮮戦争(1950~53年)を戦い抜く。
やがて、彼らの中心円には大統領(1963~79年)に上り詰めた朴正煕(パクチョンヒ、軍官学校2期→日本陸士留学)が座る。朝鮮戦争前、北と繋がる南労党員とされた朴の命を救ったのも、朴が政権を奪取した軍事クーデター(61年)にも満州人脈は息づいていた。
金光植(キムグァンシク、88)は、その軍官学校、最後の生徒(7期生)である。
終戦後、日本人上官の機転でシベリア抑留を免れた17歳の金は、韓国軍創設メンバーが集まった軍事英語学校(後に韓国陸軍士官学校)に入校。朝鮮戦争にも従軍した。金の体験と証言は、満州を源流とする、ひとつの「韓国軍裏面史」と言えるだろう。
■祖国のために尽くせ
71年前の昭和20年8月末の新京(現中国・長春)。ソ連軍(当時)の満州侵攻から約3週間が過ぎた、かつての満州国首都には約8カ月前に軍官学校に入校したばかりの日系(日本人と朝鮮出身者)7期生約370人が残されていた。
満州国軍5族のうち、満系(中国人、満州人)、蒙系(モンゴル人)の軍人や生徒は反逆したり、とっくに姿をくらましている。
日系生徒らはソ連軍によって武装解除され、旧日本軍施設に軟禁されていた。このときは知るよしもなかったが、間もなく彼らはシベリアの収容所へ送られ、地獄のような抑留生活を強いられることになる。
朝鮮出身の7期生は4人で、軍医、獣医を除く地上兵科の生徒は金光植1人だけだった。
「お前は、一刻も早くここを抜け出して国(朝鮮)へ帰れ。新しい国造りに力を尽くすんだ」
金は満州国陸軍軍官学校予科6連長(中隊長)の及川正治に呼ばれ、意外な言葉を告げられる。9月1日にはソ連軍による最終点呼があり、それ以降はもう離脱するのが難しい。
学校幹部は満州内に縁者を持つ日本人生徒にも離脱を認め、点呼直前の同日未明、約60人が夜陰に紛れて新京の街へ散った。ただ、多くの生徒は「残った方が安全だ」と判断し、明暗を分けることになる。
「及川連長の言葉は胸にしみた。私は3度鉄条網をくぐり抜けて脱出した」
金には、行くあてがあった。新京の朝鮮出身者ネットワークである。彼らはすでに20年の早い時期から日本の敗戦を見越して、秘密裏に会合を重ね、金も何度か呼ばれていた。
金は軍官学校先輩の手引きによって新京中心街に本拠を置く「朝鮮保安隊」(約400人)に合流する。リーダーは軍官学校の前身、陸軍中央訓練処出身(5期)の丁一権(チョンイルグォン、後に韓国陸軍参謀総長、首相)。金は中尉の階級をもらい、行動隊長格として、朝鮮独立を訴える街頭デモや軍事訓練の指揮を執った。
同年9月末、金は満州に残っていた約2000人の朝鮮出身の避難民とともに列車で京城(現韓国ソウル)に向かう。
■帰還が遅れた朴正煕
京城を目指していた朝鮮出身軍人・生徒の一群は満州からだけではない。
終戦直後、日本からは姜文奉(カンムンボン、軍官学校5期、日本陸士に留学中。後に韓国陸軍中将)がリーダーとなった朝鮮出身の一団が帰路を急いでいた。日本陸士に在籍していた生徒や、姜のように満州国軍官学校予科から日本陸士本科へ留学していた約20人である。
一方、中国にいた朴正煕は引き揚げが遅れてしまう。満州国軍将校(終戦時は中尉)として同国南西部の熱河省で関東軍部隊と八路軍討伐作戦にあたっていた朴は終戦後、北京へ行き「大韓民国臨時政府光復軍」に加わる。だが、米国は光復軍の帰還を認めず、引き揚げ者として朝鮮南部・釜山へ着いたときは終戦から1年近く(1946年5月)が過ぎていた。
韓国軍創設の主要メンバーとなったのは満州国軍系、日本軍系、中国系の3つである。発足時の「地位」は旧組織での階級や年齢ではなく、基本的に“早い者勝ち”であった。
もともと朴には年齢的なハンディがある。師範学校卒業後、教員を経て軍官学校入校は異例に遅い22歳。さらに引き揚げが遅れたために、46年9月に改めて入った警備士官学校(軍事英語学校の後身)は2期の入校となってしまい、後の思想問題もあってずっと“年下の上官”に仕える悲哀を味わう。
そのことが朴に、軍事クーデターを起こさせるひとつの要因になった。
それぞれの地から引き揚げてきた若き将校や士官候補生は軍事英語学校や警備士官学校の門をたたく。金光植も誘われるまま、軍事英語学校に入る。米軍が不偏不党の方針を打ち出したために、そこには共産主義者も交じっていた。彼らは20代、30代の若さで創設間もない韓国軍のリーダーとなり、満足な装備もないまま1950年6月25日、突然攻め込んできた北朝鮮軍と対峙することになる。
◇金光植(キム・グァンシク) 昭和2(1927)年、日本統治時代の朝鮮全羅南道・麗水(ヨス)出身。88歳。光州西中学(旧制)から19年12月、満州国陸軍軍官学校に7期生(最後の入校生)として入校。戦後、韓国・軍事英語学校、海軍士官学校を経てソウル大学卒。漢陽大学長などを務めた。
◇満州国陸軍軍官学校
日、満、漢、鮮、蒙の5族からなる満州国(昭和7年3月建国)の国軍軍官(士官)を養成する学校として昭和14年、新京に創設。終戦まで5族のうち、蒙(モンゴル人、興安軍官学校に在籍)を除く4族の若者が学んだ。
=敬称略、隔週掲載
(文化部編集委員 喜多由浩)
終戦とともに、うたかたのごとく消え去った満州国。日、満、漢、鮮、蒙の5族で構成される国軍幹部を養成した陸軍軍官学校(日本の陸軍士官学校に相当)に後の韓国軍主要メンバーが名を連ねる「満州人脈」があった。
その数、約50人(新京の軍官学校のみ)。日本統治時代の選び抜かれたエリートであった若き将校や士官候補生は戦後、韓国軍の創設に加わり、同胞が血で血を洗った朝鮮戦争(1950~53年)を戦い抜く。
やがて、彼らの中心円には大統領(1963~79年)に上り詰めた朴正煕(パクチョンヒ、軍官学校2期→日本陸士留学)が座る。朝鮮戦争前、北と繋がる南労党員とされた朴の命を救ったのも、朴が政権を奪取した軍事クーデター(61年)にも満州人脈は息づいていた。
金光植(キムグァンシク、88)は、その軍官学校、最後の生徒(7期生)である。
終戦後、日本人上官の機転でシベリア抑留を免れた17歳の金は、韓国軍創設メンバーが集まった軍事英語学校(後に韓国陸軍士官学校)に入校。朝鮮戦争にも従軍した。金の体験と証言は、満州を源流とする、ひとつの「韓国軍裏面史」と言えるだろう。
■祖国のために尽くせ
71年前の昭和20年8月末の新京(現中国・長春)。ソ連軍(当時)の満州侵攻から約3週間が過ぎた、かつての満州国首都には約8カ月前に軍官学校に入校したばかりの日系(日本人と朝鮮出身者)7期生約370人が残されていた。
満州国軍5族のうち、満系(中国人、満州人)、蒙系(モンゴル人)の軍人や生徒は反逆したり、とっくに姿をくらましている。
日系生徒らはソ連軍によって武装解除され、旧日本軍施設に軟禁されていた。このときは知るよしもなかったが、間もなく彼らはシベリアの収容所へ送られ、地獄のような抑留生活を強いられることになる。
朝鮮出身の7期生は4人で、軍医、獣医を除く地上兵科の生徒は金光植1人だけだった。
「お前は、一刻も早くここを抜け出して国(朝鮮)へ帰れ。新しい国造りに力を尽くすんだ」
金は満州国陸軍軍官学校予科6連長(中隊長)の及川正治に呼ばれ、意外な言葉を告げられる。9月1日にはソ連軍による最終点呼があり、それ以降はもう離脱するのが難しい。
学校幹部は満州内に縁者を持つ日本人生徒にも離脱を認め、点呼直前の同日未明、約60人が夜陰に紛れて新京の街へ散った。ただ、多くの生徒は「残った方が安全だ」と判断し、明暗を分けることになる。
「及川連長の言葉は胸にしみた。私は3度鉄条網をくぐり抜けて脱出した」
金には、行くあてがあった。新京の朝鮮出身者ネットワークである。彼らはすでに20年の早い時期から日本の敗戦を見越して、秘密裏に会合を重ね、金も何度か呼ばれていた。
金は軍官学校先輩の手引きによって新京中心街に本拠を置く「朝鮮保安隊」(約400人)に合流する。リーダーは軍官学校の前身、陸軍中央訓練処出身(5期)の丁一権(チョンイルグォン、後に韓国陸軍参謀総長、首相)。金は中尉の階級をもらい、行動隊長格として、朝鮮独立を訴える街頭デモや軍事訓練の指揮を執った。
同年9月末、金は満州に残っていた約2000人の朝鮮出身の避難民とともに列車で京城(現韓国ソウル)に向かう。
■帰還が遅れた朴正煕
京城を目指していた朝鮮出身軍人・生徒の一群は満州からだけではない。
終戦直後、日本からは姜文奉(カンムンボン、軍官学校5期、日本陸士に留学中。後に韓国陸軍中将)がリーダーとなった朝鮮出身の一団が帰路を急いでいた。日本陸士に在籍していた生徒や、姜のように満州国軍官学校予科から日本陸士本科へ留学していた約20人である。
一方、中国にいた朴正煕は引き揚げが遅れてしまう。満州国軍将校(終戦時は中尉)として同国南西部の熱河省で関東軍部隊と八路軍討伐作戦にあたっていた朴は終戦後、北京へ行き「大韓民国臨時政府光復軍」に加わる。だが、米国は光復軍の帰還を認めず、引き揚げ者として朝鮮南部・釜山へ着いたときは終戦から1年近く(1946年5月)が過ぎていた。
韓国軍創設の主要メンバーとなったのは満州国軍系、日本軍系、中国系の3つである。発足時の「地位」は旧組織での階級や年齢ではなく、基本的に“早い者勝ち”であった。
もともと朴には年齢的なハンディがある。師範学校卒業後、教員を経て軍官学校入校は異例に遅い22歳。さらに引き揚げが遅れたために、46年9月に改めて入った警備士官学校(軍事英語学校の後身)は2期の入校となってしまい、後の思想問題もあってずっと“年下の上官”に仕える悲哀を味わう。
そのことが朴に、軍事クーデターを起こさせるひとつの要因になった。
それぞれの地から引き揚げてきた若き将校や士官候補生は軍事英語学校や警備士官学校の門をたたく。金光植も誘われるまま、軍事英語学校に入る。米軍が不偏不党の方針を打ち出したために、そこには共産主義者も交じっていた。彼らは20代、30代の若さで創設間もない韓国軍のリーダーとなり、満足な装備もないまま1950年6月25日、突然攻め込んできた北朝鮮軍と対峙することになる。
◇金光植(キム・グァンシク) 昭和2(1927)年、日本統治時代の朝鮮全羅南道・麗水(ヨス)出身。88歳。光州西中学(旧制)から19年12月、満州国陸軍軍官学校に7期生(最後の入校生)として入校。戦後、韓国・軍事英語学校、海軍士官学校を経てソウル大学卒。漢陽大学長などを務めた。
◇満州国陸軍軍官学校
日、満、漢、鮮、蒙の5族からなる満州国(昭和7年3月建国)の国軍軍官(士官)を養成する学校として昭和14年、新京に創設。終戦まで5族のうち、蒙(モンゴル人、興安軍官学校に在籍)を除く4族の若者が学んだ。
=敬称略、隔週掲載
(文化部編集委員 喜多由浩)
スポンサーサイト
Comment
コメントの投稿
Trackback
http://depot3.blog75.fc2.com/tb.php/153-37c112f4