居留民の引き揚げ時期に「大きな差」ができたのは…

【満州文化物語(13)】2015.12.20 産経新聞

 昭和20年8月から9月にかけ、約270人の居留民(在留邦人)を連れて、満州国・興●(=隆の生の上に一)(こうりゅう)から北京へ「奇跡の脱出」行を成功させた関東軍・満州881部隊第1大隊長の下道重幸(げどうしげゆき)大尉(昭和53年、78歳で死去)は自分の家族を別の場所に残したままだった。

 長男の下道重治(したみちしげはる、78)=戦後、姓の読みを「したみち」に改名=は12年、父の任地であった満州北部のハイラルで生まれている。終戦時には、母と妹と3人で、興●(=隆の生の上に一)から約80キロ離れた連隊本部がある承徳(しょうとく)の官舎にいた。

 「(興●(=隆の生の上に一)にいた)父はたまに帰ってくるだけで、めったに顔を見なかった。軍人らしく寡黙な人でね。現代風の父子関係とは、まるで違っていました」

 20年8月9日にソ連軍(当時)が満州へ侵攻、14日に当番兵が重治らの官舎へ来て、「すぐに荷物をまとめる」よう伝えた。真夏なのに重治は着られるだけ服を重ね着して軍家族ら100人と一緒に列車に乗り奉天へ向かう。翌15日、奉天駅のホームで若い兵隊が涙を流しているのを見て日本の敗戦を知った。

 重治らは一転、南下するが、満州国と朝鮮の国境の街・安東(現中国・丹東)で足止めされてしまう。結局、安東で1年あまりを過ごし、日本へ引き揚げてきたのは21年10月である。

「父の消息はまったくなかった。八路軍(中国共産党軍)から懸賞金を掛けられていたような人で、『もう死んでいるのだろう』と諦めていたんです」

 ところが、その父親が家族よりも早く、祖国の土を踏んでいたのだから運命は分からない。

 「奇跡の脱出」行を終えた下道部隊は9月9日、三河で約270人の居留民と別れ、武器を持ったまま北支軍(日本軍)から北京城の警備を命じられる。八路軍と対立する中国国民党軍(重慶軍)の主力が北京に到着するまで代わりに警備を依頼されたのだ。

 アメリカの支援を受けた国民党軍の主力が北上し、北京へ着いたのが11月。“守備交代”し、ようやく下道らが武装解除となったのが12月である。

 満州に比べて北支からの居留民引き揚げがスムーズに進んだのは、こうして日本軍の武装解除が遅れたためと言っていい。中国内の居留民は日本軍の武器に守られて比較的安全に移動することができたからだ。

 “お役御免”となった下道部隊の約730人はその年(昭和20年)の12月17日、長崎・佐世保に引き揚げる。復員式を行い、隊長の下道は妻の実家がある札幌へ向かう。日本着は満州で苦労を重ねた家族よりも1年近くも早かったのだ。

■平穏だった北京の生活
 一方、下道部隊に命を助けられた居留民はどんな道をたどったのか。

 水野喜久夫(79)は当時、興●(=隆の生の上に一)の国民学校(小学校)の3年生。父親は興●(=隆の生の上に一)の税関長で、脱出行では、母親と幼い妹も一緒だった。「(脱出行では)河を渡るのに兵隊さんに肩車してもらったり、最初は遠足気分でしたね。ところが突然、銃声が聞こえて、最後尾の兵隊さんが銃で撃たれたのを覚えています」

 無事、北京へ着いた居留民は20年9月12日に北京の日本人女学校に収容される。水野一家はその後、日系企業の社宅に移った。食事は十分ではないが、配給があり、父親は店番の仕事を見つける。学齢期の児童のためには「青空教室」も開かれたという。

 「(北京の)日本人の生活は平穏でしたね。父の仕事で得たお金で、お正月を迎えたときにピーナツを買って食べたことを覚えています。危険な目に遭ったことは一度もなかった」

 水野一家を含めて興隆から脱出した約270人の居留民は昭和21年2月下旬、長崎・佐世保へ引き揚げた。この間、伝染病で約10人の幼児らが命を失う悲劇があり、不自由な生活や略奪の被害などが、なかったわけではない。

 だが、軍人、警察官、官吏などが悉(ことごと)くシベリアへ抑留され、ソ連軍による民間人への暴虐な行為が続出した満州と比べれば、はるかに状況は良かった。

満州からの日本人の集団引き揚げは、北支からのそれがほぼ終わった昭和21年半ばからやっと始まり、ソ連支配下の大連はさらに遅く21年暮れからスタート。約6万人が死亡し、地獄のような苦難に耐えたシベリア抑留者が祖国の土を踏むのはもっと後である。

 この間、理不尽な殺戮(さつりく)や人民裁判、病気、飢餓などによっておびただしい日本人の命が戦争が終わった後に奪われていったのだ。

■民間人も抑留の犠牲に
 881部隊の連隊本部があり、下道部隊が当初向かおうとした承徳も「明暗」を分けた。

 下道の家族が奉天へ去った後、ソ連軍が入ったのは8月19日。承徳にはまだ約3000人の居留民が残されていた。日本軍側は、ソ連軍との交渉で居留民の「奉天への脱出」を条件に武装解除に応じる。

 居留民がトラックで承徳を出た後、ソ連軍は日本軍人の拘束を始めた。そして、共同作戦を取っていたモンゴル軍(外蒙軍)への“恩賞”としてモンゴルの首都・ウランバートル近くの収容所などへ抑留させることを認める。

 さらには、予定した人数に足らないことを理由に、一般の民間人までをも一緒に抑留してしまう。モンゴル抑留者の総数は約1万3千人。残された女性や子供は引き揚げまで満州で苦労を重ねることになった。

下道の長男、重治がいう。「父の部隊(下道部隊)もあのとき、(連隊本部がある)承徳へ戻る決断をしていたら同じ運命をたどっていたでしょう。本当にタッチの差でした」

 下道部隊の戦友会は昭和50年代に発足、その後、居留民や家族らが加わり、現在は有志らによって毎年、会が開かれている。 

 水野が言う。「子供だった私がいろんな事実を知ったのは戦後もだいぶたってからでした。(下道部隊には)本当に感謝するほかない。われわれは特別だったんですね」=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
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