妊婦ら在留邦人270人はなぜ助かったのか? 「奇跡の脱出行」…関東軍部隊の決断と伝統

【満州文化物語(12)】2015.12.6 産経新聞

 駐蒙軍(日本軍)司令部や日本と関係が深い蒙古連合自治政府があった張家口(ちょうかこう)。そこへ集結していた約4万人の居留民(在留邦人)を救うために、駐蒙軍司令官の根本博中将(昭和41年、74歳で死去)がソ連軍(当時)の武装解除要求をはねつけ、昭和20年8月15日以降も戦い続けた話はよく知られている。

 居留民は、根本らの懸命の抗戦を「盾」に、まだ友軍(北支軍)がいた北京方面へ脱出する。避難者の中には民俗学者の梅棹(うめさお)忠夫(平成22年、90歳で死去)や少年だった画家、作家の池田満寿夫(ますお)(同9年、63歳で死去)らがいた。

 8月9日に満州へ侵攻したソ連軍は、居留民に対して非道な行為を繰り返し、軍人や警察官、官吏らは後に悉(ことごと)くシベリアへ送られ、抑留されてしまう。もし、根本が正直に武装解除要求に従い、停戦に応じていれば、同様の悲劇が待っていたかもしれない。

 今回書くのは、その話ではない。駐蒙軍の隣、満州国熱河(ねっか)省・興●(=隆の生の上に一)(こうりゅう)にあった関東軍第108師団歩兵第240連隊(通称・満州881部隊)第1大隊(下道(げどう)部隊)による「奇跡の脱出」行のことだ。

 「居留民を置き去りにしてさっさと後退した」と非難を浴びた関東軍にも勇猛果敢に戦い、民間人の救出に死力を尽くした部隊は少なからずあった。

 20年8月31日、ソ連軍と中国共産党軍(八路軍)に挟まれ、豪雨のために孤立していた下道部隊は窮余の策で北京へと向かう。この決断が居留民約270人の命を救うことになる。

■居留民を置いていけない
 8月末、興●(=隆の生の上に一)の第1大隊を率いる下道重幸大尉(昭和53年、78歳で死去)は苦悩していた。本来、下道部隊が向かうべき連隊本部がある承徳(しょうとく)までは約80キロ。だが、数日来の豪雨で道路や通信手段が寸断され、合流したり、指示を仰ごうにも連絡がつかない。

 承徳にはすでにソ連軍が入ったという。偵察に出した兵は攻撃に遭い、負傷して戻ってきた。さらに、大きな問題があった。興●(=隆の生の上に一)にはまだ会社員や自営業者、公務員らと家族約270人の居留民が残っている。ここにもソ連軍が来るのは時間の問題であろう。

 「置いてはいけない」。下道はソ連侵攻後に連隊長が行った訓示を思い出していた。881部隊は関東軍のルーツである独立守備隊の魂を受け継ぐ部隊であり、本来の任務である「居留民保護に全力を尽くせ」という内容だった。

 日露戦争に勝利し、関東州(大連、旅順など)や東清鉄道の南部分(後の満鉄線)と鉄道や駅周辺の土地(鉄道付属地)の権利を獲得した日本は満州経営に乗り出す。

 そして、鉄道線と租借地に住む居留民(日本人)を守るために発足したのが関東軍の前身である。

 それは、関東軍固有の独立守備隊と内地から2年交代で来る駐●(=答にりっとう)(ちゅうさつ)師団で構成され、881部隊は第9独立守備隊(承徳)の系譜を引く。「関東軍発祥の精神を忘れるな」というのは、そういうことだ。

「こうなったら居留民を連れて北京へ(西へ)向かうしかありません」。部下の幹部将校らは死中に活を求めるべく、連隊がある承徳とは反対方向、約120キロ離れた北京へ抜けることを進言した。

 簡単な道ではない。大隊には終戦で崩壊した満州国軍の日系将校も加わり、軍人が約750人。居留民と合わせて約1000人の大所帯で年寄りや女性、子供が多く、妊婦もいる。数倍、数十倍の八路軍が待ち構えている危険地帯を隊の前後を武装した軍人が守りながら道なき道を行き、万里の長城を越えるのだ。

 下道はついに決断する。8月31日夜、軍民一体となった「苦難の脱出行」が始まった。

■満州に憧れた15歳の少年
 戦後、新潟県議を務めた清田(せいだ)三吉(90)は下道部隊で糧秣(りゅうまつ)を担当する一等兵であった。

 清田は“宝石箱”を夢見て満州へ渡った少年のひとりである。16年4月、地元・新潟の農林学校を出て、新京の興農合作社(農協のような組織)へ入る。まだ15歳だった。

 「当時は、日本中が『満州へ満州へ』という雰囲気だった。私も満州のでっかい夕日や大地に憧れてね。そこで農業をやってみたい、『満州の土と化さん』という情熱と志に燃えていましたね」。四平省の農村などに約3年半。19年11月、現地召集で入隊し、1年足らずでソ連の満州侵攻に遭遇したのである。

■約1000人の隊列の先頭付近に清田はいた。
「難路が続き、トラックや馬車、ロバなども途中で放棄するしかない。日中は猛烈な暑さになり、日射病のために何人かの幼児が息を引き取った。八路軍との散発的な銃撃戦は依然続いており、裏道を探してゆくので1日で10キロぐらいしか進めなかった」

そして、最大の危機がやってくる。隊列は万里の長城を越し、清朝の歴代皇帝稜(東稜)近くに差し掛かっていた。ソ連軍追撃の危機からようやく逃れられた、という安心感から、2日間の休息をとっていた矢先の9月4日、八路軍の軍使がきて、部隊の武装解除を要求したのである。

 軍使は、武器を引き渡せば、北京までの安全は保証するという。だが、大隊長の下道は厳然と相手の要求を一蹴した。「武装解除はできない。どうしても通さないというのなら、一戦交えることも辞さない」

 大きな賭けだった。清田はいう。「下道大隊長は八路軍から何万元もの懸賞金を掛けられていたほどの人物。兵隊の数では劣っていても武器(火力)では負けない、という自信があったのでしょうね」

 凛(りん)とした下道の態度に八路軍の軍使はそのまま引き下がったが、一行が出発した直後に攻撃を仕掛けてくる。部隊の2人が銃撃を浴び、戦死を遂げるが、それ以上の追撃はなかった。

 9月9日、一行は川の対岸に北支軍が待つ三河へ到達する。そこで下道部隊と別行動となった居留民は12日、無事に北京の日本人女学校校舎へ入ることができた。10日あまりの「奇跡の脱出」行。犠牲者は最小限度にとどまった。

 下道の決断が居留民の運命を「天と地」ほど変えたと分かるのは後になってからである。次回、それを書きたい。敬称略、隔週掲載。

(文化部編集委員 喜多由浩)
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