級友の多くがソ連軍に殺されたなんて…生死分けた「紙一重」 助かった者たちのトラウマ

【満州文化物語(11)】2015.11.22 産経新聞

■紙一重の差だった。生死を分けたのは…。
 時事通信解説委員長、日銀副総裁を務めた藤原作弥(さくや)(78)はソ連軍(当時)が満州に侵攻してきた昭和20年夏、興安街(こうあんがい)の国民学校(小学校)3年生だった。

 葛根廟(かっこんびょう)事件で、同じ学校に通っていた約270人の児童の多数が亡くなっていたことを知ったのは戦後40年近くが過ぎた40代半ばになってからである。

 「本当に驚きました。私のクラスメートの多くが、ソ連軍によって銃殺刑のように殺されたなんて。爆弾で集団自決したり、親子で刺し合ったり、青酸カリをあおって亡くなった人もいる。8歳だった自分だって、そこに入っていたかもしれない。残留孤児になっていた可能性もあった。そんなことも知らずにおめおめと…」

 ソ連軍が3方面から国境を越えたのは8月9日、興安街には13日に、そして、葛根廟事件は14日に起きている。藤原の父親は興安街にあった満州国軍の軍官学校の教官(文官)だった。危うく難を逃れたのは軍関係者として、いち早くソ連侵攻の情報を知り、10日午後発の列車で興安街を離れることができたからだ。

 「自分たちだけが助かった」。その後ろめたさがトラウマになって藤原に重くのし掛かった。犠牲者のほとんどは、藤原一家が住んでいた同じ「東半分地域」の住民だったのである。

 興安街には、満州北西部に位置する興安総省の総省公署(役所)が置かれていた。ソ連の侵攻に備えた避難計画を含む「興蒙(こうもう)対策」は総省公署が中心になって作成済みだったが、守ってくれるはずの関東軍(日本軍)は侵攻時期を読み誤った上、早々と南への後退を決めてしまう。共同作戦を行う、満州国軍も助けてはくれない。モンゴル系の将兵はソ連侵攻を知ると、反乱を起こしたり、逃亡したからである。

国際善隣協会常務理事の岡部滋(しげる)(75)は当時4歳。総省公署の幹部(参事官)だった父親の理(ただし=昭和62年、77歳で死去)は混乱の中でモンゴル人の総省長や日系トップの参与官家族を逃す任務を命じられる。

 夫がいなくなった岡部の母は、5人の幼子を抱えて自分たちで逃げねばならない。幸いにも後の列車に乗ることができ、夫とも9月になって新京(現中国・長春)で再会したが、母や1歳になっていない末妹は後に病気になってしまう。そして、父も助かった者の苦悩を味わうことになる。

 「(4歳だった)私に当時の記憶はほとんどありません。だが、4つ上だった兄や父は戦後、満州のことは一切話さなかった。母は母で、放っておかれた恨み言を父にぶつけていましたが…。父は、満州関係の就職の口を断り、集まりにも出なかった。役所の幹部としての責任を感じていたのだと思いますね」

■関東軍は後退伝えず
 関東軍は後退を総省公署幹部にさえ伝えなかった。役所や民間企業、自営業者、さらには近郊の開拓団農民の間でも情報の時間差が生まれ、わずかな遅れが運命を変えてゆく。

 葛根廟事件で犠牲になった約1000人のほとんどは、興安街の東半分の住民で、自営業者や会社員などが多かった。「情報」の入手やトラック・馬車の調達にハンデがあったために、出発が遅れ(11日夜)、移動手段を奪われていたために徒歩で逃げるしかない。

 さらに避難計画を変更して葛根廟へ向かったのは、そこで列車を捕まえるためであり、葛根廟にいた日本人ラマ僧らの支援を期待していたからだった。ところが、連絡は錯綜(さくそう)し、わずか1時間前にラマ僧らは葛根廟を離れてしまう。そこへソ連軍の戦車軍団が牙を剥(む)いて襲いかかったのだ。

さらに悲惨だったのは開拓団の農民(約27万人)であろう。多くが、ソ満国境に近い僻地(へきち)にいた上、情報の伝達も遅れた。“見捨てられた”に等しい人々は自力で逃げるしかなく、ソ連軍や匪賊(ひぞく)に襲われ、あるいは伝染病や集団自決などで約8万人もの人たちが命を落としたのである。

 興安街の近郊5キロにあった「東京荏原(えばら)開拓団」は終戦前の“根こそぎ動員”で成人男子の多くを召集で奪われ、老人や女性、子供ら主体の約800人で逃げる途中に匪賊に襲撃され、大半が死亡した。やはり近郊にあった満州国立農事試験場興安支場の集団では、逃避行中に追い詰められ、幼子約20人を自ら射殺する悲劇も起きている。

 同じ興安街や近郊から避難しながら、8月中に日本へたどり着けた人がいた一方で、藤原一家のように興安街からは逃げ出せたものの、国境の街に長く閉じ込められた者、シベリアへ抑留されたり、親を亡くして残留孤児になった者。そして命を奪われた、おびただしい数の人たち…。

■飲み込んだ言葉
 葛根廟事件の悲劇を知った後、藤原は取材で、まだ存命だった関東軍の元参謀に会う。

 元参謀は「(住民らを置き去りにして関東軍や軍家族は先に逃げた、といった)批判は甘んじて受ける。ただ、軍人は命令に従うしかない」とだけ話した。後退は大本営の方針であり、軍の機密を軽々に伝えることはできなかった。さらには、主力を南方にとられ、もはや戦う力がなかったのだ、と言いたかったのかもしれない。

 「それにしてもひどいじゃないかっ」。藤原はのどまで出かかった言葉を飲み込んだ。“助かった者の後ろめたさ”が、どうしても消えなかったのだ。

戦後、藤原は慰霊のために現地を度々訪問し、自分がその立場になっていたかもしれない残留孤児の来日の際にはボランティアを務めている。日銀副総裁を打診されたとき「任にあらず」と感じつつ重責を引き受けたのも「生かされた身。お国のためにご奉公をしなければならない」との思いからだった。

 葛根廟事件に代表されるように関東軍の後退は、結果として数え切れない一般住民の悲劇を生んだ。

 だが、すべての部隊がそうだったわけではない。独自の判断で「奇跡の脱出」と呼ばれた在留邦人の救出を成功させた部隊があった。それを次回に書く=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
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