満州国軍の日本人軍官…「軍再興」が幻に終わったのは-
【満州文化物語(17)】2016.2.14 産経新聞
満州国軍(終戦時兵力15万)の将校を養成する軍官(士官)学校に在籍した日本人の秘話を今回も書く。
五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成された満州国軍だが、日本人は幹部のみ。新京(現中国・長春)に昭和14(1939)年、設立された軍官学校も日本人は独自の試験がなく、内地の陸軍予科士官学校などの志願者から選抜されていた。
しかも、日本人は満州で予科を終えた後、本科は全員が内地の陸士、経理学校、航空士官学校へと戻り、日本軍の幹部候補生とともに学ぶ。
この制度によって、多くの少年たちが思いもしなかった「満州(国軍)行き」を提示されながら、大陸へ渡る道を選んだ。
だが、満州国が13年で“うたかた”のように消えてしまったとき、運命と片付けるには残酷すぎるわずかな差によって、10代、20代の若者の生死が分けられてしまう。
■関東軍総司令官に直訴
終戦の約2カ月前…。
満州国陸軍軍官学校6期生の金川信常(かねかわのぶつね、88)や山崎啓史(ひろし、88)ら7人は、新京にある西洋の城を思わせるような関東軍(日本軍)総司令官、山田乙三(おとぞう)大将の官邸前に立っていた。
19年1月に軍官学校に入校した彼らは予科の卒業が近い。本科は内地の(日本軍の)陸士などへ進む約束だが、戦況は厳しく、6期に限って「中止」の噂が飛び交っていた。そこで期の代表7人が悲壮な決意を胸に、満州における日本軍の“総大将”に直訴すべく、やってきたのである。
結局、総司令官の山田は出張中で、副官に用件を伝えたが、苦り切った口調でこう言い放たれた。
「話は聞き置く。だが、これは問題だぞ!」
当然だろう。この行動は「軍の規律」を大きく逸脱していた。満州国軍の学校に属する彼らにとり、いくら緊密な関係にあるとはいえ関東軍は外国の軍隊である。しかも、直属の上官である軍官学校の区(小)隊長や校長には何ひとつ打ち明けていない。
金川は言う。「退校処分は覚悟していた。やむにやまれずの行動だったが、区隊長や校長には随分、迷惑を掛けたと思う」
心情は分からないでもない。彼らはもともと、日本の陸士を志願していたのである。満州国軍へ回されたものの「本科は陸士で学べる」という制度をよすがにしていた生徒も多い。しかも、同じ6期生のうち航空兵科だけは一足先(20年3月末)に内地の陸軍航空士官学校へ進んでいた。
そのひとり、和田昭(あきら、88)は同期の「直訴事件」を聞いて仰天する。「大変なことをやったもんだ。普通なら命はない」
だが、金川らは営倉(えいそう=懲罰房)入り1週間の軽い処分で済んだ。そして終戦約1カ月前の7月、陸士行きが認められ、内地へ渡る希望がかなったのである。
なぜそうなったか? 軍官学校1期生で当時、6期生の“担任”というべき区隊長を務めていた佐藤文虎(ぶんご、94)は、「(6期生の言い分に)理があったからでしょうね。本来、内地(陸士)へ行かせるのが正しい道なのだから」
かくして、6期生の日本人生徒約200人は、ソ連軍(当時)の満州侵攻(20年8月9日)直前に内地へと去り、満州には約8カ月前に来たばかりの7期生約370人が残された。
■発案者は建国大幹部?
7期生とともに新京の軍官学校に残っていた佐藤はソ連軍の満州侵攻、15日の終戦の詔勅(しょうちょく)の混乱の中で妙な誘いを受ける。この時点で、まだソ連軍主力は新京に到達していない。
「満州国軍の日本人軍官(将校)は『ソ連軍が来たら大変な目に遭う。兵器を持って南へ向かい、朝鮮国境付近で新たな拠点を作るべきだ』と誘われた。発案者は(満州国立の)建国(けんこく)大学の日本人幹部(軍人)だと後に聞きました」
結局、軍官学校からは佐藤ら3人が誘いに応じ、翌16日朝、兵器や食糧などを満載した大型トラックに分乗し、南へ向かう。ところが折からの豪雨で、トラックが立ち往生。同日夜、新京からわずか約50キロ進んだだけで頓挫してしまった。
このとき、7期生の少年たちにも誘いがあったが、軍官学校幹部が頑として応じなかったという。満州国軍日本人軍官による軍再興計画は「国共内戦」とも絡み合って翌年までくすぶり続けたが、形をなさないままついえてしまう。
「もともと杜撰(ずさん)な計画だったんだと思う。あのまま南へ向かって(抵抗して)いたら、おそらく皆が殺されていたでしょうね」
佐藤らは仕方なく新京へ戻ったが、無断で戦線離脱したことが問題になる。上官からは「軍法会議にかけられたら死刑は免れまい。そうなる前に自決せよ」と脅され、短銃を使って練習までさせられた。
だが、もはやそんなことに構っている余裕もなかったらしい。間もなくソ連軍による武装解除。佐藤や7期生の少年らは、シベリアへと連行された。
■「助かった者」の苦悩
一方、直訴までして内地の陸士へ行った6期生は兵科ごとの疎開先で終戦を迎える。長野県にいた山崎は満州に残った7期生らの苛酷な運命を知らない。
「詳しい情報がずっとなくてね…。私は7期生の(兄貴分というべき)指導生徒をしていたから、彼らだけを満州に置いて帰ってきて『面目ない』という気持ちが消えなかった」
元は陸士からの“回し合格”によって、さらには終戦前後のわずかな差で交錯した運命である。シベリアに抑留された、まだ10代の7期生は80人以上が酷寒の地で亡くなった。区隊長だった佐藤は20代の前半。約2年の厳しい抑留生活に耐え抜いて生還する。
再会と消息は、戦後約10年、軍官学校出身者による「蘭星(らんせい)会」の正式発足を待たねばならなかった。6期生の金川は「同期でも満州に残った軍医・獣医生徒は多くが戦死している。私たちは、結果としてギリギリで命拾いした。申し訳ないとしか言えない」
ソ連参戦によって暗転した満州の戦争は、助かった者にも苦悩を背負わせることになる。
=敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)
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