終戦翌年、中国の内戦に…「満蒙開拓義勇軍」の日本人少年が駆り出された背景とは?

【満州文化物語(15)】2016.1.17 産経新聞

 終戦から約8カ月が過ぎた和21(1946)年4月、満州国の首都だった新京(現中国・長春)をめぐる中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)の攻防戦が始まった。

 日本人の引き揚げはまだ始まっておらず、新京の知人宅に身を寄せていた満州国陸軍軍官学校7期生で、17歳の西川順芳(のぶよし)(87)は中国人同期生に引っ張り出され、国民党軍の少尉(小隊長格)になることを余儀なくされてしまう。

 西川は、自分の小隊の兵士として連れてこられた約60人の素性を知って驚いた。彼らも満蒙開拓青少年義勇軍=〈文末別項参照〉=の日本人少年だったからである。つまり、指揮官(西川)も兵士も「全員が日本人」だったわけだ。

 少年らは15、16歳。東北や北関東の農家の次男坊、三男坊が多かった。満蒙開拓団に加わるため、大望を抱いて渡満して間もなく終戦となり、ソ連軍(当時)侵攻後に国境付近から命からがら逃げてきたらしい。

 「僕(17歳)よりも年下で体も顔もあどけなく、本当の子供だったね。軍服などなく、開拓団の作業服みたいな格好そのまま。ただ、軍事訓練も受けていたから小銃の扱い方ぐらいは知っていたんです」

 なぜ中国の内戦に、開拓義勇軍の日本人少年までが駆りだされたのか?

 西川への参加要請は当時、国民党軍の主力が依然、南方にいて兵力、特に指揮官が不足していたからだ。西川は「重慶から来た少尉」という触れ込みで日本語の使用を禁じられ、中国語で指揮を行うことを命じられる。同様に国民党軍に加わった日本人の国軍・軍官学校出身者は複数いたが、先輩のひとりが日本人勧誘の“仕掛け人”だったことに気付く。

「少佐クラスの元満州国軍憲兵(日本人)で中国語はペラペラ、かねて満州国軍の満系将校とのつながりも強かった。私や義勇軍の少年を引っ張ってきたのは彼のアイデアでした。少年たちは食べ物にも事欠く避難生活だったから、この“仕事”に飛びついたんでしょう。軍隊に入れば飢えることはありませんから」

■敵方部隊にも日本人兵
 西川と開拓義勇軍の少年約60人による日本人部隊には旧日本軍の三八式小銃と1人80発の弾が支給され、新京駅近くの最前線の守備に就かされた。

 21年4月10日、夜明け前。突然、向かい側のビルの屋上から、西川らが土嚢を積んだ陣地に向けて擲弾筒(てきだんとう)が発射された。数発が着弾し、轟音を立てて炸裂したのを目の当たりにした少年たちは脅えたように震えている。まだ10代半ば、実戦経験などない。

 周囲が明るくなったころ、駅方面から別の轟音が聞こえてきた。その光景を見て西川は腰を抜かす。戦車1両と、黄色っぽい八路軍の軍服を来た20人ほどの兵隊が見えたからだ。

 「八路軍には戦車などない、と思っていたからね。よく見ると、それは日本軍の軽戦車だった。おそらく途中で鹵獲(ろかく)したのでしょう。(八路軍には)戦車を動かせる人間もいないから、操縦する日本兵ごと奪ったのだと思います」

 指揮官の西川とて、1年半ほど前に満州に来たばかりの17歳の少年である。戦車の登場に中国人のふりも忘れて、思わず日本語で絶叫していた。

 「解散だ! 逃げろ!」

 義勇軍の少年60人は、戦車を見て、くもの子を散らすように逃げた。それっきり消息はわからない。

同じ日、内地では女性に参政権が与えられて初めての総選挙が行われている。復興の槌音(つちおと)が高らかに響いていたころに満州ではまだ、日本人が中国の内戦を戦わされていたのだ。

■「最年少」の収容者
 そのころ、軍官学校の同期生のほとんどがシベリアの収容所へと送られ、地獄の底のような苛酷な環境で重労働を課せられていた。最初の冬(昭和20年~21年)を越せずにバタバタと死んでいったことは、前回も書いた通りである。

 茨木治人(はると)(89)は約80人の同期生とともに、バイカル湖に近い、イルクーツクの収容所へ送られ、鉄道建設工事に就かされた。「(同期生は)まだ17、18歳でしょ。回りを見渡してもそんな年代はいない、収容者の中でも一番幼いわけです。体力がなくて栄養失調になり、下痢が止まらなかった。同期生が一緒におり、励まし合えることはせめてもの救いでしたね」

 茨木は旧制浜松一中の出身。赤い夕日と広大な大地に憧れ、母親の反対を押し切って満州へ来たが、わずか8カ月で終戦。そのままシベリアへ抑留されてしまう。約370人同期生のうち、抑留で非業の死を遂げたのは80人以上。皆まだ10代の少年だった。

 戦後、茨木はシベリアでの遺骨収集に参加。今も語り部として祖国への帰還を果たせなかった同期生の無念を伝え続けている。

■軍再興の「夢物語」
 新京における「国・共の内戦」はあっけなく終わった。2方面から入城してきた八路軍はたった2晩で新京を制圧。国民党軍に加わった日本人将校の中には戦死者も出た。

 彼らの中には、国民党軍と手を取り合い、満州に残っていた国軍や軍官学校出身の日本人を集めて、もう一度、軍を再興しようという「夢物語」を描いていた者までいたという。

17歳の「国民党軍少尉」西川は、八路軍の追っ手を気にしながら、急いで「中国人」から「日本人」へ戻らねばならなかった。

 「申し訳なかったが、日本人居住区の住宅で“強盗”を働いた。拳銃を突き付けて背広と靴を要求。僕は軍服のままだったから相手は国民党軍の敗残将校だと勘違いしたでしょうね」

 背広姿に着替えた西川は公園の池につかって隠れながら何とか八路軍をやり過ごす。「国民党軍少尉」はたった3週間で終わり、手元には支度金の1千元(米半年分)がそっくり残っていた。=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

     
◇満蒙開拓青少年義勇軍
 満州経営の先兵となるべく内地から移住した10代半ば-後半の若者で構成され、昭和13年から20年までに約8万7千人が参加した。多くはソ満国境付近の辺境に入植した開拓団に入って、農業や警備に従事した。末期には「戦時要員」として関東軍や勤労挺身隊にも派遣された。ソ連軍との戦闘や自決、病気などによる死者は3割近い約2万4千人。満州全体の邦人死亡率(1割強)に比べても高い。
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