なぜ17歳の少尉は、終戦後も戦い続けたのか 「満州国軍」の真実

【満州文化物語(14)】2016.1.3 産経新聞

 今から70年前の昭和21(1946)年4月。終戦から約8カ月が過ぎた旧満州国の首都、新京(現中国・長春)で、17歳の「少尉」西川順芳(のぶよし)(87)は「新たな戦争」の最前線に立たされていた。

 前年の夏、日ソ中立条約を一方的に破って満州へ侵攻してきたソ連軍(当時)は、約60万人の日本人をシベリアへ抑留。日本人が築き上げた財産・設備を奪えるだけ奪った後、21年4月に新京から撤退してゆく。

 「跡目」を争ったのは中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)である。当時の中国を代表しソ連とも条約を結んだのは国民党だ。ところが“裏でつながっている”のは八路軍の方。しかも、重慶軍の主力はまだ南方にあり、戦うにも兵力が足りない。

 そこで、西川に声が掛かった。元満州国陸軍軍官学校(士官学校)7期生。昭和19年12月、16歳になったばかりの西川は神奈川・湘南中学(旧制)から4修(※旧制中学は本来5年間だが、4年でも上級学校の受験資格があった)で新京の軍官学校へ入り、大望を抱いて満州の大地を踏む。

ところが、わずか8カ月で終戦。五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成される軍官学校生徒は反乱や逃亡が相次ぎ、17、18歳の約360人の日系(日本人)生徒のほとんどはシベリアへ抑留されてしまう。

 満州に縁者がいた西川ら約40人は軍官学校幹部からシベリア行きの前に「離脱」を認められたものの、新京から出られない。知人宅に身を寄せ一冬越したたところへ満系(中国人)の軍官学校同期生が突然、訪ねてきたのである。

■今さらヨソの戦争に
 「お前、7期の西川だろう。一緒に来いっ」
西川に重慶からきた国民党の中国人将校のふりをして、小隊を率い、八路軍と戦え、というのだ。
 21年4月、新京の周辺はすでに八路軍が包囲していた。兵力が足りない重慶軍は旧満州国軍の元将兵も動員して対抗しよういうのである。だが、西川には同期といえ、その満系の生徒とは一面識もない。しかも、戦争が終わってすでに半年以上たっているのだ。

 「今さらヨソ(中国の内戦)の戦争になんて加わりたくなかった。だが、(戦争に負けた日本人の元軍人である)私が断れば密告されて、どんな目に遭うか…。従うしかない。後は条件闘争だった」

支度金は1000元(お米半年分)、階級は少尉、60人の部下をつけること…。重慶軍側は西川の条件を飲み、西川は小隊長格として重慶軍の軍服を着る。軍には、同じように参加した軍官学校の日系の先輩や同期が何人もいた。

 西川が言う。「参加した日本人それぞれ、断れなかったことや支度金にひかれたこと以外にも理由はいくつかあるでしょう。満州国軍の元同僚(満系)に『義』を感じて参加した。あるいは、その戦いに『日本再興』の夢を見ている人がいたかもしれません」

■最初の冬を越せずに
 同じころ、やはり10代の若者であった軍官学校の同期生(7期)の多くはシベリアの収容所で、最年少級の抑留者として「地獄」を味わっていた。

 零下40度、50度にも下がる酷寒の地。家畜のエサ並みのひどい食事で重労働に就かされる。事故や栄養失調、劣悪な環境で伝染病が蔓延(まんえん)し、「最初の冬(昭和20年~21年の冬)」を越せずに、次々と同期生の若い命が失われていった。

 軍官学校7期生、小池禮三(れいぞう)(88)は新京でソ連軍によって武装解除され、20年10月、チタ州ブカチャーチャの炭鉱にある収容所へ送られた。18歳。長野・諏訪中学(同)の出身。同じ所には約250人の同期生が収容されている。

「(満州国軍へ入るとき)一人息子だからオヤジが反対してね。でもあのとき(19年12月の入校時)は内地より満州の方が安全だと思われていたんですよ。終戦後、武装解除され列車に乗せられた後も、てっきり内地へ帰してくれるもんだと…。シベリアなど夢にも思わなかった」

 前年の冬に旧制中学などを出て満州へ来たばかりの7期生の体はまだ子供並みといっていい。さすがにソ連側も石炭を掘る仕事は無理と見たのか、小池ら7期生は掘った石炭を有蓋(ゆうがい)貨車に積み込む仕事を担当させられる。それとて辛い重労働だ。最初の犠牲者が出たのは20年の大みそか。積み込む作業中に足を滑らせた同期生が石炭に埋まるようにして死んでいた。

■母を思い逝った友
 それは「悲劇」の序章に過ぎない。その冬、シラミを介在した発疹チフスが大流行する。大人になりきっていない幼い体、粗末な食事に劣悪な環境。高熱を発し、下痢が止まらない。7期生の若者は治療も薬も満足に与えられないまま、バタバタと倒れてゆく。

 「重症者は(別の場所の)野戦病院へ送られたり、収容所内の病棟へ入れられたが、あまりにも患者が多すぎてほとんどはただ、寝ているだけ。下痢が止まらなくて便は垂れ流し、高熱が脳症を誘発し、気がおかしくなった者が続出しました。それはもう悲惨な状況でしたね」

小池には水戸出身の同期の最期が忘れられない。病床を見舞った小池に彼は、やせ細った体、消え入るような声で問うてきた。
 「東はどっちだ? 体を向けてくれないか」

 彼は、口の中で一言だけつぶやいた。

 「おかあさん…」

 翌朝、小池が再び見舞うと若者はもう冷たくなっていた。同じ18歳。水戸弁が印象的な男だった。どれほど故郷へ帰りたかったろうか。ひと目、愛しい母に会いたかったろうに…。

 ブカチャーチャの収容所では約250人の同期生のうち実に80人以上の若者たちが亡くなっている。

 一方、新京の最前線にいる西川は連れて来られた「部下」を見て驚く。彼らもまた10代の日本人の若者だったのである。さらには、敵として戦う八路軍の中にも日本人がいた。その話を次回に書く。=敬称略、隔週掲載。

(文化部編集委員 喜多由浩)

◇満州国軍
 昭和7(1932)年3月1日に建国された満州国の軍隊。同国の理念である五族(日、満、漢、鮮、蒙)によって構成され、総兵力は約15万(終戦時)。同年9月の日満議定書によって、日本軍(関東軍)との共同防衛を約し、同時に交わされた日満守勢軍事協定案で「第三国の侵略にあたって両国軍は日本軍指揮官による統一指揮で行動する」とされた。士官学校にあたる軍官学校は新京(日系、満系)と興安街(蒙系)にあった。

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