汚名への反論 No2  南方慰安婦の実態

南方慰安婦の実態
  元・海軍中尉 重村賞
  昭和史研究所會報 第31号 平成11年11月10日

◆特要員の効用 
 特要員と言う名称がある。
 特要員と言う名の部隊があった。
無論、内地の事では無い。太平洋戦争中、日本軍が占領し、進駐して居た南の涯の島々の基地の話である。
 では特要員とは何であろう。
 あっさり言うと女-娘子軍-の事である。戦地に進出する娘子軍の事をこう言う名前で呼んだ。
 もっとも商売女が進出するのは、何も太平洋戦争になってからの事では無く、其の以前から満洲は勿論、支那大陸の各地、凡そ小部隊でも駐屯する町や村々、当時の言葉で言えば皇威の及ぶ涯々までも、大和なでしこの姿を見ない土地は無かったと言って過言では無い。
  満洲では鉄路上を銃弾を冒して占領に向う列車の後部には娘子軍が乗って居た事さえあると言う。
 当時満洲や上海へは隣へ行くように気軽に渡れたが、太平洋戦争で占領した各地ともなると、そう簡単には行かない。
 此の娘子軍達がどんな風にして進出するのかと言うと先ず現地からの要求で行く場合がある。
 例えば、作戦や補給の基地になったような町や港へは前線や後方からの往来や宿泊が多い。従って前線から帰って来た将兵達の息ぬき、又是から前線へ出ようとする連中のお名残りの別宴と言ったような事がくり返される訳だ。所が誰もが殺伐な気分である為、つまらない事ですぐ立ち廻りが演ぜられたり、又予備後備の老兵などになると女なしでは夜が過せぬ等と言った猛者も居て現地人とトラブル起すようなこともある。
 現地のパンパンとよろしくやるのも結構だが、たとえマタハリ程の女が居なくても軍機上にもまずい点があるし、又南方の現地人の中には蝋燭病などと言って物凄い性病を待ったのも居て衛生管理上も具合が悪い。従って野放しにして置くより大和なでしこ軍を輸入した方が気分も落ちつくし、軍機上も風紀上も衛生上にも良いと言う結論になる訳だ。こうした土地には現地からの要求が無くても後方の司令部から現地の事情を考慮して送ると言う場合もある。
 だから中には折角粋をきかせた考えで送ったのに、現地の指揮官が受けつけないので宙に迷ったなどと言う例がないではない。

 例えば昭和十七、八年頃トラック島では、折から激化したソロモン戦の為、ラバウル行の娘子軍が停帯して居るのに加えて、マーシャル群島方面に予定されて居た女軍を同方面の指揮官が受入れを拒否した為、トラック固有の女達と合せて約三〇〇名もがせまい島内で氾濫した事がある。
 その次の場合は業者自体が国策便乗のバスに乗り遅れまいとする遠大な計画の下に当局に運動して進出したのも相当多い。が是は勿論金儲けが唯一の目的だから大体大根拠地たる都会地に限られるようだ。

◆あばずれと純情型
 こうして何拠かの基地に娘子軍の進出が決められると内地に於ける軍駐屯地や軍港の料亭は、或ひは御用商人顔役等が肝煎りで必要人員を集めるのが常だ。内地の料理屋をそっくり移動したのもあるようだし、新たに募集したのもある。
 其の編成も行く場所、其の要求等でピンからキリまである。
 士官専用のものから、下士官兵用、軍属用、或いは飛行場作りの徴傭工員用と言った工合に分れて居て、其の営業所、営業状況もさまざまである。
 ニッパ椰子で葺いた屋根にベニヤ板一枚と言った家からシュミーズー枚のお姐さんが顔を出すと言う赤線区域そこのけの店もあれば、現地の家を徴発した洋館造りの家で営業して居る所もある。其の又洋館の中を畳敷きに改装した家もあれば、或は幽逡な山蔭に数寄屋造りを忽然と建てて、島田に裾をひいた美人が現われる所もあると言った工合であった。
 戦時中内地で営業して居た料亭も、それはそれなりに多少なりとも軍に関係が無い所は少なかったであろうが、連隊のある町や軍港以外の土地の料理屋もずい分現地に店を出して居た。茅場町の古い料亭其角などもそうであるし、読売新聞の隣の数寄屋寮はマカッサルに大川と言う高級料亭を経営して居て、はるばる内地から椛を空輸して日本酒の醸造までもして居た。
 東銀座で大和と言う赤提灯を出して居るおでん屋は新嘉披のジョホールバルの新喜楽と言う料理屋の後身であるし、有名な岐阜の浅野屋もトラックに進出して居た。だが南の方にだけ話を限定しなければ、中国、満洲方面に店を出して居た家、行っていた娘などは無数と言ってもよく、銀座あたりのバー、キャバレーで全然内地しか知らない女ばかりだと言う店は殆ど無いと言ってもよいであろう。
 では、こうした占領地へ進出する女達はどんな人が行ったのだろうか。
 大きく区別すると大体二種類に分けられる。即ちあばずれ型と純情型である。
 どうせ内地は食いつめた。流れ流れて落ち行く先はという訳で住み替え、住み替え行く女達。 昭和の始頃、私は揚子江を百浬も上った宜昌に居たが、其処に芸者が二人居た。長崎、上海、漢口と住み替えて邦人が僅か三十人位の宜昌に住みついた訳だ。
 又、仏印進駐後西貢で、私か少尉時代に膨湖島の馬公で芸者をして居た女に会った。大阪から台北、高雄、馬公と移って西貢に住み替えたのである。
 こうした人達はだからいずれあばずれの名に恥じぬ人であるが、元来が男にだまされたり、いれ上げたりと言う夫婦善哉型が殆どなので案外気のよい女達が多く、それに芸達者な連中も多い。しかし身体を酷使して居る結果、麻薬中毒の人も少なくなかったようだ。
 もっとも日本の女は昔から天草女の名で、大きく言えば世界に鳴りひびいて居た訳だから、海外雄飛の先輩の名を辱かしめない勇敢な女性は掃いて捨てる程あるのであろう。米兵につきまとう洋パンは何も敗戦後日本女性が突如思想的変化を生じた訳ではなく、南の方にも戦前から新嘉坡あたりは勿論、遠くスエズ辺りまで行って居たし、上海の河向こうには米兵のオンリーが群れをなして住み、其の中の数名は支那事変中米水兵に附いて日本軍爆撃下の重慶にも住んで居た。
 もう一方の純情型と来ると是にも幾種類かあるようだ。好きな人が出征したから私もと言う槨子の葉蔭の再会を夢みるロマンス型や、純真な気持で国策に従う者、或ひは募集者の甘言にだまされた者等である。
 実際現地での仕事も唯給仕だけと言う綺麗なものから、最初から肉体だけを唯一の目的にするものとに分れては居たものの、行く先々の状況、戦況の変化、それに明日を知らぬデスペレートな気分などに支配されて、純情型の夢一筋で無事内地へ帰って来た女性は稀ではないのだろうか。
 こうした娘子軍を私は先にやまとなでしこの名で呼んだが、此の女達の中には相当多数の「トラジの花」や、「ジャスミンの花」も混って居た。
 徴傭工員や下士官兵相手にはむしろ半島出身の女性の方が多かったであろう。
 彼女達は勿論彼女達だけで一単位をしめて居るのだが、日本語は無論出来るし、体格は立派だし、それに当時の人種的感情から言って内地出身の兵に対するサービスもよく、タフで純真であるので一般に好評であった。が半島と言っても余程辺鄙な所から来るらしく、彼女達の日本語が全然兵隊用語その借を覚えこんで居るのは哀れにもほほえましかった。彼女達が戦争の形勢が悪くなってからも尽した沼ぐましい純情な話は各地で数多く伝えられていて、現在の日韓両国の関係を考えると感慨深いものがある。

◆あるエピソード
 次にお伝えするのは実際に特要員として現地に渡り、終戦後引揚げて来て現在新橋駅前の狸小路でビーフンを売り物の台湾料理屋を開いて居る元台南「あづま」の女将の話である。
 「私かマニラヘ渡りましたのは十七年の十二月でした。 私の店は台南にありましたので当時南方進出の気運が強かった頃ですから、高雄、台南と次々に建設される海軍の航空部隊の将校連中がよく遊びに見えました。そんな関係で太平洋戦争が始まってマニラが落ちると直ぐに、台北の海軍武官府にお百度をふんで、現地での営業希望をお願いして置いたのですが、許可が下りましたのは十七年の暮でした。早速私の家に居た妓を中心に十三名の芸者を集め、それに板前、髪結、大工、左官まで全員三十名で其の年中に高雄を出発致しました。
 船は海軍の特務艇で手を延せば右舷と左舷が両手でつなげそうな小さな船に便乗したのです。一行の他に芸者が着る衣裳からそれにすぐお正月ですから紋つきも用意致しましたし、食器、畳、壁土までも用意すると言ふ仲々大所帯でした。途中当に揺れましたが先ずは無事に着いた所は、マニラ市のパコ区バダンバヤンでサンマルセリノのフリーメーソンのお寺を割り当てられました。パイプオルガンのある家でした。

 此の家を改装して料亭にしたのですが、既設の宗数的なものはさわらぬように注意したものの妙な工合でした。
 マニラには海軍関係は士官以上のが私共一軒、下士官兵さんのが他に四、五軒ありましたが、陸軍関係は部隊が多い為士官以上用が広松と言ふのがありました他、下士官兵用は数十軒もありました。其の頃は全くよき時代のマニラで、私共は外出するのにも内地の芸者姿で街を歩いたものでした。
 其の後、バンゼルマシン行きの船で沈められた別府の蔦屋の人が増えたりして芸者は二十名程になりましたが、だんだん米軍の反攻がきびしくなり、十九年九月海軍側の特要員は全員内地への帰還命令が出ました。もっとも陸軍側は引き上げ命令が出ず全員街に残っておりましたが、海軍側は十九年十一月までに氷川丸で内地へ引揚げた訳です。

 私の所も一緒に引き揚げさせましたが、私はもともと海軍のおかげで此の地へ来て、良い時だけ勤め、戦況が悪いと直ぐ逃げて帰るのではあまりにも情けなく思われましたので、陸軍側の方々も残って居る事だし、私だけは残して頂き度いとお願いして、私と弟とすずめと言う芸者と板前だけは、何かお手伝する事でもあればと、皆様と同じく苦労をするつもりで残りました。もう其の頃は毎日のような空襲でしたが、病院のお手伝いなどして過ごして居ります中、十月に入ると直ぐ米軍がレイテ島に上陸し、マニラはもう大変な混乱でした。こうして一月七日私共はリンガエン湾に上陸する米船団がマニラ沖を航進して行くのを眺めながら、三年を過ごしたマニラを棄て徒歩で避退地へ出発しました。もんぺに運動靴、背にリュックサック、両手に包みと言う姿です。
 山道を二週間の行進の間に、包の着換へは一つ棄て、二つ棄て、運動靴は底が破れて、バヨンボンと言う所に着いた時は文字通り着のみ着のままの姿でした。
 早川機関少将指揮の軍部の人達と一緒でしたが、もう此の時は死ぬ覚悟でした。
 八月十七日米軍の飛行機が終戦を告げたビラを撒いて行きました。
 それからカガヤンに集結し、一月五日病院船氷川丸で引揚者として内地の土地を踏んだ訳です」

◆半年で前借金返済
 彼女達は大体当時四、五千円の前借金によって前線に赴いたが、契約期間の標準は1ヵ年位であった。これを早い者は僅か三ヵ月普通六ヵ月位で返済したということであるから、その過重な労苦は到底われわれには想像出来ない。米軍の反撃が予想以上に早かったので、空襲や雷撃の危険に曝される機会が想像以上に多かった。契約期間が切れても、適当な便船がないため、前線で終戦を迎えた者も少くなかった。彼女達の貯金高は相当なものだった。当時五、六千円から一万位のものが普通だったし、中には三万円も貯金した者があったと聞いて、誰も驚く処である。当時の金であるから、今の金に直せば、相当な額となる筈である。これによっていかに彼女達が、前線基地の衆目の対象だったかが判るのである。
 前線の彼女達の相手は勿論軍人軍属に限られたことであるが、この相手の中にも、さまざまなことがあった。何と云っても戦闘機や爆撃機の搭乗員が一番人気があった。あっさりしていて金遣いも荒かった。前線部隊の軍人は休息の時間と給与とが限られていたが、民政部関係の従軍文官や報道部関係の従軍班員は、時問的にも経済的にも恵まれていたので、彼女達を独占する機会もあり、物議をかもす中心となった者もいた。しかし一番ちゃっかりしていたのは、彼女達を直接管理する立場にあった特権階級がいたことである。
 配給や移動を取扱う者が絶対の権能を有していたことは、何処の社会でも、何時の時代でも同じことだった。
 マリアナのような処は別であるが、概ね戦局が悪化し、戦線となるおそれのある処では、一般婦女子の引揚を前以て行うのが通例であった。勿論特要員の撤退も行われたが、この引揚は大陸と違って容易なものではなかった。相当の犠牲者を出したのである。
 占領地には家族の同伴が許されなかったので、艦隊は女の同胞として特要員の送還を重視し、どこの部隊でも、その撤退には意を用いて、慎重を期していた。赴任させる時と同様であった。彼女達の中には、遂に内地帰還の機を逸し、特志看護婦に転身した例もあるが、敵の空襲により戦死した者もあった。
 特要員の大部分は責任者の班長に引率されて、無事内地へ帰還した。現在落着のある生活に入った者も少くないであろうが、大半の者は戦前の生活を今もなお続けているのではなかろうか。若しそうであって、不幸の中にあるならば、いばらの路を切りひらいて、落着のある生活に入っていただきたい。多幸を祈って已まない。
  (「特要員と言う名の部隊」より)
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