戦争裁判 マカッサル法廷

マカッサル法廷
「戦犯裁判」との戦い
「員数揃え」死刑判決の疑念
「日本の名誉を守り従容と逝った義士を想う」        
      栗栖弘臣(元統合幕僚合議議長)


 戦犯の弁護と言うと、まるで他人事のようによそよそしく聞こえるが、私の場合は、自分自身が戦犯
の中に身を置いた時、裁判の弁護に当たった時、および刑の執行に立ち合う時までの連続した経験であるから、むしろ戦犯と共に暮らしたと言うはうがピンとくる。現在資料も持たず記憶も定かでないが、求めに応じて多少思い出すことを書くことにする。

■キャンプ内で裁判の打ち合わせ 
終戦後しばらくボルネオ島のバリックパパンで捕虜生活(ホワイト・キャンプ)をしていたが、一月も経たないうちに指名手配で戦犯に指定され、いわゆるブラック・キャンプに送り込まれた。
 通常だと将校は労働を見除されるはずだが、戦犯の場合は将官以外はすべて労働に駆り出され。
ただ皆一緒のタール紙製テント内生活だから、どの人とも自由に話が出来る。そこで四名の大佐が相談して私に、各地の戦犯容疑を調べて対策を練るように指示された。そのため私は労働を休んで、場所ごと、事件ごとの関係者別にキャンプに残ってもらい、それぞれ見体的に思い当たることを話題にして、私が事件関係答弁の調整に当たることとした。それが出来たのはまだ取り締まりがそれほどやかましくなかったからである。

 当時は、ブラック・キャンプ内に百数十名いたと思う。毎日見体的な状況を聴いて、それぞれ矛盾の起きないよう答弁の内容を修正したり、証拠となりそうな人や物を思い出させたりしたが、中に主計大尉で事件の場所に居合わせなかったと訴える人がいた。もし居たとすると、階級から見てその場の一番の責任者にされそうである。何人から聴いてもそこに居なかったのは本当のようだったので、この事実を取り調べ側に如何にして認識させるかに頭を絞った。
 そこでいろいろ考えた末、何人かの者に、彼とその日は別の場所で仕事をしていたとか、本人の顔はよく知っているがその場では見かけなかったとか、直属の部下には当日の仕事内容を説明させるとかと答弁の分担を決めた。

 当時取り調べはまだ本格的ではないが、大雑把な地域分け、事件分けのため行われていた。しばらくしてそのグループも各個に呼び出されたが、この準備が成功して当の大尉が関係していないことが認められたと分かった時は、そうなってしかるべきだとは言え、一方的な勝者の言い分に打ち勝ったことに胸を撫で下ろしたものだった。
 そのうち、何週間も日中キャンプの一角で何人もが集まって相談していることが警戒側に分かったと見え、大佐の人々の警告が出された。危ないから毎日は止めようということになり、事後は隔日とか夜とかに限定して実施し、一応全部のケースの相談を終了したように思う。この結果が裁判上どのように現れたかは私自身が別の場所に移されたため知ることは出来なかったし、従って裁判途中にアドバイスすることも出来ずに残念だった。

 その後は私も労働に出て、ジャングルを切り開いて遺跡を造り、木村を搬出、製材する作業をやらされた。監視の軍曹の中に酷いのがいて、私も殴られて耳から血を流したものだ。はなはだ少ない食糧、度を越す労働、厳しい督促に皆あいつを殺したいと話し合ったが、堪えかねて脱走した者が三人いた。しかし二~二日後、一名は射殺され二名が逮捕されて帰ってきた。

■戦犯容疑で危うく死刑へ 
昭和二十年暮頃だと思うが、バンジエルマシンに移され、本格的取り調べが始まった。ここでは人数も四十名程度だったし、容疑内容も見当がついたため、今度はより綿密な相互調整を始めた。
事件は私が関わる、というか責任を持つべきものが、海軍大佐をはじめ約二十名で一番多く、他にもいくつかの事件があり、中には占領時代を通じた問題もあった。ここでも当初約一ヵ月は勝者側の管理が粗雑だったため、幸いに十分打ち合わせの時間が取れた。私の関与した事件は、こちら側の弁明に齟齬が生じれば全員死刑のおそれがあるため、助かる方法があるとすれば全貌を知る私一人が中心となることだけだ。
 そこで、誰が何時誰と組んで何処へ行った、証拠物件は何々で何処で見付けた(この中には小型船舶もあり、取り調べ官は現地に行った由だが、事件から一年以上も過ぎているのだから存否は確認できなかったと悔しがっていた)等と事件を再構築した上、関係者に最終責任をすべて私に被せるよう何度も確認し合って、何処からつつかれても矛盾が起きない点に苦心した。私一人なら何とか太刀打ち出来そうだと熟慮した末のことである。
 そのうち私が画策していることがばれて、ある日取り調べと共に突如隔離され、離れた刑務所の独房に放り込まれた。日本人はほかにおらずもっばら現地民ばかりだった。着るものは破れた半ズボンと半袖シャツだけで毛布が一枚支給されたのを被って寝るのだが、夜、南京虫の襲撃を受けてなかなか寝られない。食事は一日二食。それもブリキ製の盆のような容器に米飯少しに汁をかけてあり、指で食べるのである。日中もわずかに微光が入るのみで薄暗い。一日がこんなに長いものとは思わなかった。唯、日に一回数分間、前の庭に出て便器を洗い身体に水をかけることが許された。

 刑務所から遠くで銃の発射音が時々聞こえていたが、一月近く経ったある真夜中、銃声しきりの中で刑務所が襲撃放火された。火は瞬く間に全部の建物に拡がり、私の独房にも追って来て独房の扉が焼け出した。熟いので隅にあるバケツの水を少しずつ身体に掛けつつ観念していると、前の庭を一群の人々が「キャプテン! キャプテン!」と叫びながら走って行く。私の居るのを探知した独立派の連中が救出に来たのだった。
 私は瞬時迷った。返事をすればその場からは脱出できるだろう。しかし独立派の狙いは、戦犯キャンプや刑務所内の生活の連続だから全く分からず、成功の可能性(その後、独立派の人々は逮捕されて死刑になった者が多いし、後日、私自身別の場所で独立派の王族の若者達の死刑囚と知り合い、死刑執行に立ち合うことになった)へ躊躇もあって決心がつかない。

 彼等の声が遠くに消えた時、オランダ兵三名が回ってきて、私を見つけて独房から引き出し、背中と両脇に銃日を押し付けて焼跡を連行する。この時は、誰もいないこの場所で処刑されるとばかり思い詰めたためか、焼け残りや土の上を裸足で歩く熱さや痛さを覚えていない。
 それから郊外の戦犯キャンプに連れ戻されたが、皆とは離れた警戒兵の控室で、それまで別々の場所に監禁されていた上司や戦友四名と、鎖につながれる生活に入った。日が暮れると手首に鉄輪をはめ、これに鎖を通して数珠つなぎの格好。一人が便所に行きたいというと、銃を持った警戒兵に追われてゾロゾロと一網打尽の姿でついて行く。
鎖が短く互いの間隔が取れないので、横になる時は上を向いてくっつく形で寝るほかなかった。

 衛兵所の横で海軍中尉が殴られて虐殺される絶叫を聞き、ある通訳が、猛烈に痛い毒を持つ大蟻が群がった樹の枝を身体中に押しつけられて七転八倒して悲鳴をあげるのも耳にした。敗者の絶望感と屈辱感に苛まれる毎日であった。
 この生活も約一月で終わり、今度は急造の野外独房に分散された。広さ約一坪、その半分が板敷高く床は土のまま、板囲いの継目はすべて竹で日隠ししてあって外界は見えない。ただ野外だから昼は明るい。初めは便器も無く苦しんだが、四日程してバケツが一個入った。この独房は五~六メートル間隔で五個あったが、常時全部がふさがっていたかどうかは分からない。

 やがてその中で自殺者が出た。この間にも取り調べは続く。私は先の打ち合わせに従って、関係者全員の役割と行動内容の概要を説明し、自己の全権限で実行したのだからもし違法があるなら私の責任だとして、あらゆる訊問に出来る限りの答弁をした。実は、敗戦の虚脱、悔しさを紛らわす手段として、何としてでも相手に一泡吹かせ、一種の逆襲をしてやろうと思い込んでいたのである。
 取り調べが進み、処刑の場所が問題となった。私は自分の全責任だと言い切った手前、どうしてもその場所を探さなければならぬ羽目となって、某日取り調べ官や警戒兵と同行、場所探しに出かけた。この時私の誤算だったのは、広い場所ゆえ到底分かるまいから煙に巻けると考えたことだ。
 探す振りをして灌木の間をあちこち引っ張り回したところ、思いがけぬ場所で壕を埋めた形がはっき
り浮き上がった場所に逢着した。あれから一年も経過し長い雨季もあったのに、これはど明瞭に痕跡が残っているとは予想外だった。そこを警戒兵達が確かめ、間違いないと分かるとその日はおしまいになったが、翌日、今度は大佐以下主だった士官三~四名と一緒に発掘させられた。
 数十名の遺体を手で堀り出すわけだが、上からは銃床で叩かれ指は人肉まみれ、屍臭が穴に満ち座る余地さえなく、暑熱の中を午前、午後の苦しい作業だった。巻き添えを食ったこれらの方々には、事件関係者だとはいえ大変お気の毒だった。

 しかしこのことがあって、どうしてもこれらの人々を起訴させてはならぬこの私の決意はますます固まった。その後の取り調べに対してはこちらから反撃して、証拠調べを要求するやら、相手の主張の根拠を質すやらと及ばずながらも戦いの連続であった。
 昭和二十三年初めだったと思うが、関係者全員不起訴と知らされ、してやったりと内心快哉を叫んだことだった。

 その際私に対して取り調べ官は、お前が悪いことをやったのは分かっているが、どうしても証拠が挙げられない、と述べたのが印象に残る。その頃までには他の事件が次々と裁判に移され、無念にも死刑の宣告を受けて別の個所に収容されている人が数名いた。私は独房から直接移送されたが、途中この人々と数十メートル離れてすれちがった。引き揚げる者と死を待つ者との目と目の、ばんこく万斛(ばんこく)の思いを秘めた別れに暗然としたことを、いまさらのように思い出す。

全文を読む人は右端の"MORE”をクリックしてください。



■マカッサル法廷の弁護活動
われわれ一行は船でマカッサルに連行され、そこで他の場所から来る者を待って帰国するはずであった。ところがマカッサルでも戦犯裁判が進行中で、死刑が次々と出ていることを知った。この人々の最後を見取る日本人は誰もいない。
 その時私は、戦犯裁判憎しで悶々と腹を立てていたので、のうのうと帰国するよりむしろ法廷でオランダと戦い、この方々と苦悩をともにして多少とも精神的な頼りとなってあげたい、と腹を決めて残留を申し出た。私の耳からは、殴られた後マルタプーラ河に落ちたこともあって絶えず膿が出ていて、どうぞ死ぬなら同じことだと諦めていたが、ここで幸い陸軍軍医に逢って耳の中に何回もヨーチンを流し込む荒治療で納まったため、よしやるぞと気負い立ったのも、今から考えると奇妙だが事実であった。オランダ側から特別弁護人の資格が与えられ、爾来法廷に通うこととなったが、銃を下げた警戒兵とともにジープで法定に向かう。警戒兵はさすがに法廷外で待っていた。十日くらい過ぎた頃、急に私だけ移動せよとのことで、ジープで送られたのがマカッサル市内のまた刑務所の独房だった。

 書類はオランダ語だ。幸い東京外語でオランダ語を専攻した商社マンが、有罪判決を受けたまま残ってくれたので、非常に助かった。しかし先方は既決囚だから一緒に仕事は出来ず、ただ書類を授受するだけである。私はここで簡軍な蘭日辞典を、たしか検察官が押収していた図書の中からもらい受けたように思う。知識を総動員して何とか読めるようになったため、この人にはもっばら弁護のための上申書をオランダ語に翻訳してもらった。タイプは刑務所の看守室にある古いガタピシするタイプライターをその部屋で使用する許可を得たが、よく故障して修理に何時間も要する代物だった。しばしば徹夜、ある時は二晩完全に徹夜してやっと法廷に出す書類を間に合わせた。
 独房の扉は日中開けてくれるが、日が暮れると朝まで鍵を掛ける。看守室でタイプを使用する時は夜でも幸い仕事が出来た。そのうち、多分二~三ヵ月過ぎた頃から夜も鍵を閉めなくなり、さらに数カ月経過した頃、検察官から腕章を渡され、それを腕に巻いていれば刑務所外へも自由に出してもらえるようになった。裁判を待つ人々とも比較的自由に、こちらが希望すれば会えるようになり、やっと弁護人らしい取り扱いを受けるに至った。こうなると私の身辺に警戒兵もつかない。
 さて私が直接弁護に当たったのは何人だったか記憶が定かでないが、海軍中将二名、海軍中佐一名、海軍少佐一名、海軍中尉一名、陸軍憲兵大尉一名、憲兵准尉、曹長、軍曹合わせて四名は明瞭に印象に残っている。遺憾ながらこのうちほとんどの人が死刑となり、私が刑場に立ち会う運命となった。

 裁判は開始二~三日前に簡単な起訴状と取り調べ調書のコピーが送られて来る。取り調べと言っても、中には一度殴られたと証言した書類以外に殴ったのを見たとの書類が二~三枚あるだけで死刑にされた古兵もいる。戦犯裁判は勝者の報復員外の何物でもないとかかる「裁判」の実情から私は確信するが、そのほか次のような事実もあった。

 バリックに居た時、警戒兵から次の者は翌朝何時に衛兵所前に集合と言い渡され、指定の時間前に全員約七十名が集まった。ところが点呼も取らず先頭から四十名だったかの所で切ってトラックに載せやがて船でバンジェルに送られたが、残りの者は解散させられて間もなく帰還船で帰国した。
 将校は刑扱いだが、誰をというのでなく員数だったこと、昭和二十三年頃までは順序不同で裁判にかけられた者は、まず全員に近い者が死刑、その後は軽くなったが、憲兵、海軍特刑警察隊員はそれだけで睨まれて死刑か重刑、また地域の最高指揮官は間違いなく極刑になった。
 この地域では何人くらい死刑を出せといった一種の基準があったのではないかと邪推されるはどである。極論すれば報復したい重要職責の者以外は生贄は誰でもよかったのではないかと思う。
 法廷でのやりとりは特に通訳を置かず、検察官がある程度日本語が出来るので裁判官と被告との橋渡しをやり、それに私が下手な英語で抗弁する。
他はオランダ語に翻訳した弁護書を提出するだけである。某中将の法廷で私はとっさに内地の御家族への手紙を持ち出して訴因の一つに反撃した。
翌日他の訴因への反証を計画していたところ、それに関する発言の機会を与えぬまま閉廷となった。

 判決文では前の訴因は刑られたが、裁判官はそれを逆手にとって他の訴因を強く採用した。二日日発言封じがその魂胆だったらしい。 しかし皆、裁判上の不満が多いにもかかわらず立派な態度で終始された。ただ一人だけ、司令官たる中将の証人として申請、採用された中佐が、事前の念入りな打ち合わせに反して、法廷で司令官を指差し「命令したのは貴方だ」と叫ぶ始末には唖然とした。この人は自分の裁判を控えて神経過敏になり、絶対に刑は軽いとこちらからいくら説明しても、しばらくすると再び自分は死刑になるとの妄想を起こし、日らの責任になりそうなことは何が何でも払い除けようとしていたらしい。

 それにしてもかつて自分が参謀として仕えた司令官を、こともあろうに異国の裁判官の前で罵倒するとは何事であるか。司令官の心中いかばかりだったか、私としても怒りを禁じえなかったが、これ以上は触れないことにする。

 軍事法廷は中佐が裁判長で陪席二名が少佐だったと思う。検察官はバンジェルでは大尉だったが、マカッサルでは中尉だった。
 日本語は日常会話に支障が無い程度で、大尉は相当達者だったが、中尉は微妙な言い回し、裁判用語等には不慣れだったため、十分意志が疎通したとは思えない。傍聴席には数人いたり、中将の場合は新聞記者も含めて十数人いたと思う。特に検察側の証人が出廷するが、あらかじめ言い含められている様子でオドオドしており、反対訊問はもちろん許されなかった。当方からの証人申請は先に述べた中佐が認められただけである。
 こんな具合だから審理時間も一人一時間に及ぶことは無かったように記憶するし、二日に及んだケースは極めて稀だった。

■死刑執行に立ち合って 
判決は大体二週間後くらいだったと思う。死刑の場合は総督宛に嘆願書が提出できると定められていたため、私は被告の同意を得て必ずこれを提出した。成功の期待よりもその間に勝者側の事情に変化があればと望みをつないだのである。
 これには事実誤認があること、状況やむを得なかったこと、被告の人柄と現在の心境等を記載したが、命令に基づいたことは免責理由にならなかった。戦犯裁判規定にはっきりと、日本軍は命令に従うことを至上とするが、裁判に当たっては命令に従ったことをもって本人の責任を解除しないものとする、と定めていた。これも死刑を多く-ー多分予定数まで出すための方策だったような気がする。

 総督が嘆願書を受け入れたという話は間いたことがない。一~二ヵ月はどで却下が通知された。
ただちに死刑執行となり、本人には概ね四十八時間前の朝通知される。もちろん私はこの通知にも立ち合った。皆落ち着いて宣告を聴いていた。

 しかし人間である以上、内心複雑な思いはあるべく、第一夜ははとんどの人が寝つかれぬ一夜を過ごすようである。二日目には私が町に出かけて何かと買い集め、鉄格子を挟んでコンクリートの床に座って夕食を共にして語り合い、私も愛唱歌を唄って心の動揺を寸時でも忘れるように努力し、この世の名残を惜しんだが、もちろん心からとは言えないが、外面は愉快そうに振る舞ったことがなおさら痛々しかった。
 当日早朝鉄格子の前に駆けつけると、思い思いに前日書いた遺書や遺品を出される。第二夜はよく眠れたとのこと、皆悟り切った気侍ちになるらしい。出国時の厳しい検閲をくぐり抜けられることを願いつつ、これらをご遺族に必ずお渡ししてこの地での様子をお伝えしますと誓う。これは無事帰国しえた二十四年末からニ十五年夏にかけて、北海道から宮崎県まで何度か行脚して約束を果すことが出来た。

 八時頃憲兵がやってきて、手錠を掛けて連ね出し、銃を手にした警戒兵数名が囲む中で、ウエポン・キャリアに乗せられて刑場へ向かう。途中市場を通ることが、何の屈託もなく多くの現地人が行き交う様を見て、そのたびに車上の人運命と比べて暗涙を飲んだものだった。誰一人気付かぬ間に命を落とす人がいる。しかもそれは自分と同じ同胞ではないか。昨日までは何かと話し合い慰め合った仲である。
 刑場は何と内地帰還者たちが集合しているキャンプの近傍であった。穴は帰還予定者が前日掘らされるらしい。一人の場合は待機する時間が無いが、数名同時の場合は一人が執行される間、見えないにしろ銃声が聞こえる場所に、立ったまま待機させるのである。これは誠に心ない仕打ちだと痛憤した。刑場へ向かう時最後の握手をするのだが、しっとりと掌が濡れている。どんな気持ちで仲間への銃声を耳にしたであろうか。
 執行のやり方は銃殺である。銃手はたしか前後二列で十二名、それに指揮官一名であり、発射すると同時に射手はくるりと回れ右をする。私は射線と死刑者との中間横に立って最後を見取る。医官が検視する間次の人を迎えに行き、握手して「しっかりして下さい」と声をかけると、皆異口同音に「大丈夫です」と答えて、刑場までの五十メートルくらいを確固とした足取りで歩いて行く。
 
 さすがに日本の勇士だと心底から感心したものである。私があのままバンジエルフンンで死刑の判決をうけた場合を想像してみて、果してこれほど立派な最期を全うできるかと自問自答しつつ、往路とは違って警戒兵しかいない淋しい車上の人となった。

 真摯に戦った帝国軍人が国破れて誰も知らぬうちに非業のし死を迎えねばならぬ国民注目の東京裁判に比べて目立たぬが、日本男児の意気を見事に示してくれたことに変わりはない。
 われわれは今何の屈託もなく平和と繁栄に酔っているが、それには大東亜戦争において身命を賭して亡くなった勇士、および武運つたなく破れた後も、日本帝国の名誉を守って従容と逝った義士が培った礎と無言の支えがあることを、忘れてはなるまい。

『戦争裁判 処刑者一千』 戦記シリーズ23 新人物往来社から引用
スポンサーサイト

Comment

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

Trackback

http://depot3.blog75.fc2.com/tb.php/11-31e039a8

«  | HOME |  »

プロフィール

野生馬 太郎

Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


最新記事


カテゴリ

戦争裁判 (13)
満州開拓団 (2)
戦後処理 (4)
朝鮮半島引揚げの惨事 (4)
終戦直後の混乱 (9)
北朝鮮への帰還運動 (2)
シベリア抑留 (4)
慰安婦 (16)
その他 (7)
未分類 (0)
サハリン(樺太)韓国・朝鮮人残留 (3)
終戦時の朝鮮半島 (1)
韓国軍 (5)
日本人捕虜虐殺 (1)
空襲被害 (6)
海外からの引揚 (9)
日本占領 (1)
ソ連軍の暴虐 (3)
慰霊 (1)
戦場の実相 (8)
在日 (5)
韓国の売春事情 (9)
アメリカ (2)
メディア論 (1)
高級幹部 (2)
負け犬の心理 (2)
中国の不条理 (2)
歴史認識 (10)
北朝鮮 (2)
台湾 (1)
北海道が危ない (6)
満洲 (15)
韓国・北朝鮮の国民性 (2)
国家 (1)
朝鮮人強制連行 (1)
国家の軸 (1)
共産党研究 (1)
政治家のあるべき姿 (1)
中国人とは (1)
日本の伝統文化 (1)

月別アーカイブ


最新コメント


最新トラックバック


検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QRコード