戦争裁判 アンボン法廷 豪軍搭乗員不法処刑

アンボン法廷
豪軍搭乗員不法処刑
命令実行者のみ処罰された
「″上官の命令は天皇陛下の命令″が裁かれた」
禾(ノギ)晴道(元海軍大尉)

■どんな事件だったのか 
一九四四年三月頃、ニューギニア島西方のアンボン島と豪州西北部の豪軍基地ポートダウィンに近い中間海域のタンニバル諸島で、豪空軍のハドソン機が日本軍に撃墜され、スコット少佐以下四名の搭乗員が捕えられた。彼らはすきをみて逃げたが、現地陸軍憲兵隊により五月頃再度捕まり、海軍派遺隊に引き渡された。重要な情報調査のため、第四南遣艦隊司令部に送られ、調査終了後ガララ捕虜収容所に拘禁された。そして同年八月、第四南遣司令部の命令で、不法に処刑された事件である。

 日本の敗戦後、この処刑が戦争犯罪とされ、命令を受けて処刑を実施した片山日出雄海軍大尉ら三人が銃殺刑となった。筆者も米軍搭乗員捕虜を、片山たちと同じく、上官の命令で不法に殺害したので、マニラの米軍戦犯法廷で重労働三十年の刑を受けた。

 それ故にこそ、この片山裁判の真相を明らかにし、将来の教訓としたいと思い、その裁判記録の要点をここに公表した。資料は公表を約束して、片山の弟に当たる片山輝男氏より提供を受けた。
故片山大尉と筆者とは、太平洋戦争開戦と同時に日本海軍が募集した、海軍予備生兵科一期生の同期であり、アンボン島では約六ヵ月、配置は異なっていたが、一緒にいた戦友でもあった。

 BC級豪軍戦犯裁判の公刊記録の要点事件名 アンボン島豪軍捕虜殺害軍件 被告人(三名)
第四南遺司令部 海軍大尉 片山日出雄
第四南遺司令部 海軍中尉 高橋豊治
第二十警備隊  海軍中尉 植村重郎

弁護人
豪軍キヤンベル大尉
日本陸軍法務官鍵山大尉

判事
裁判長 豪軍コステロ中佐
判事  豪軍士官二名
検察官(検事)豪軍ウイリアム大尉

■起訴理由と片山被告らの弁明
 「被告たちは一九四四年(昭和十九)八月15日、アンボン島に於て、スコット少佐、キング軍曹、
ウォーレス軍曹、ライト軍曹の四名の豪軍捕虜を殺害した。

 一、一九四四年三月ニ十七日頃、スコット少佐以下四名の豪空軍ハドソン機搭乗員が撃墜され、五月末頃捕虜となった。七月頃、非武装の一般住民を攻撃したとの容疑により、池内止清通訳により訊問された。捕虜たちはこのことで軍法会議(日本軍軍事裁判)で裁かれなかった。
 二、一九四四年八月十六日頃、片山日出推、高橋豊治、西田孝は、第四南遣艦隊司令部の先任参謀川崎松平大佐から四名の捕虜処刑を命ぜられる。片山は四名の捕虜が拘禁されているガララ捕虜収容所の収容所長(警戒隊長)である植村兵曹長(後中尉)に、この命令を電話で伝えた。
 三、同年同月十六日頃四名の捕虜は、トラックで処刑場(近くの山林中)に連行され、そこで、片山
、高橋、西田と、植村兵曹長の部下であった吉崎先任下士官により斬首された」これに続き、検察官側から、各被告の軍件に関しての取り調べ陳述書も提出された。

 本軍件の経過と内容は、前記の検察側の起訴理由の要点で指摘されている通りであり、各被告人の訊問調書(陳述書)と、第二十五根司令部側から豪軍側に提出された、各種回答書に基づいて書かれた内容である。
 公判中において、片山日出雄は、証人として立ち、弁護人側の質問に次のように答えている。
その要点は次の通りである。
 「私は彼等四名が非武装の住民を攻撃したことを暗号長として知った。そして当司令部の捕虜担当主務参謀である高崎中佐により、取り調べられたことを覚えている。
 私は彼等捕虜が、一九四二年(昭和十七)に口本軍中央部から出され、その後南方総軍から発令された軍律(搭乗員に対する)と、国際法規をも犯した。そして各種情況から判断して、彼等はアンボンの海軍軍法会議で、死刑の宣告を受けたものと信じた。
 私は命令を川崎大佐(先任参謀)から受けたが、その命令は司令長官山縣中将から出されたと思った。我々士官が処刑実行者として選ばれた理由は、日本武士道により、死者の名誉を重んじたものと考えた。……処刑した結果は川崎大佐に、正規(合法的)処刑が終了しましたと、報告した。
 搭乗員の処刑命令は、川崎大佐から口頭で直接受け、川崎大佐を信頼していたので、処刑の理由は聞かなかった」と、あくまで彼等の追刊は正規の法手続きを経た処刑命令であったと確信していたことを述べている。

 また、片山は裁判長の質問に答えて次のように述べている。
 「私は、彼等捕虜が軍法会議にかけられたという直接的な認識は無かったが、彼等が何時も軍j事裁判が行われている建物(司令部近くの)に収容されて居り、高崎中佐(英国の有名大学に学んで英語が上手な男爵であった)が、日頃軍軍裁判が(多くは軍律裁判であった)行われた時、裁判長の役職を行って居り、その高崎中佐が、度々彼等捕虜に会うためにその建物に出入していたので、彼等捕虜は当然軍法会議にかけられたと信じた」と。
 片山日出雄以外の二名の被告も、「処刑は正規の手続きを経た命令であると知らされ、当然そう信じている」と証言している。
 また捕虜収容所の警戒隊長植村兵曹長(当時)が、警戒隊の先任下士官吉崎清里(後兵曹長)に対して次の如く命令したと、吉崎兵曹長の陳述書の中にある。
「私は上官の植村兵曹長から処刑命令を受けた時、彼等捕虜がいかなる罪で処刑されるのか、またこの処刑命令を誰れが下命したのかについて、植村に尋ねた。彼は。いかなる罪かは知らないが、艦隊司令部の命令であり、発令者が責任を負うのだから何も心配することはない、吉崎の行うことは命令を忠実に実行することだと言われたので、私は彼の命令を実行した(一人の捕虜を殺した)」と。

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■殺害事件の一般的背景 
この裁判に関して、アンボン島最後の海軍第二十五根根拠地隊司令官・一瀬中将の証言がある。中将は、終戦約二ヵ月前にハルマヘラ島から転任してきたもので、アンボン島上陸の豪軍法務官の強い要求に応えて現出されたものであった。

市瀬面中将の回答書要点
 「アンボン島の捕虜が、何故法と規則について、正規の手続きを取ることなく処刑されたかについて
、豪軍法務官よりの指示に従って調査結果を報告します。
 一、第四南遣艦隊(司令部)の期間(一九四三年十二月十五日ー一九四四年九月初旬)に於ては、参謀長(岡田少将) 先任参謀(川崎大佐) 軍政と捕虜関係担当(高崎中佐)が不在につき詳細不明です。捕虜の処刑に関して、参謀会議が聞かれた事例はなく、これら捕虜に関しては、すべて第二十警備隊と幕僚(第四街道司令部)によって処理され、決定されたもようです。
 また同じくその後一九四五年三月十日(第四南派遣司令部解散の日)までの期間は、通信参謀と捕虜関係担当参謀をかねることになった曽良中佐が、高崎中佐より事務を引きついだが、捕虜の処刑には関与して居らず、処刑の意図は第二十警備隊の幹部から、直接口頭または電話で司令部の先任参謀に具申て決定されました。幕僚達と第二十警備隊司令が、これらのケースを正規の手続き(軍法会議に付す)を取るべく、法務部に回送しなかった事実より判断して、これら士官は法的意識を欠き、そのために法律を無硯したものと思われます。
 これらの事情により、一般的に関係者が捕虜の処遇について、考慮不足の問題を惹起しました。
 二、一般的状況について 一九四三年十二月第四南遣艦隊司令部開設後、西部ニニーギュアの一般戦いは、日ましに日本側不利に展開しつつあり、モルッケン地区(アンボン島を中心にして北はハルマヘラ島から南はチモール島に及ぶ)の日本軍は極度に圧迫を受け、防備・築城・弾薬兵員輸送に追われていたので、日本軍は当然の考えながら、近い時期に、連合軍側の大々的攻撃に直面することを予想していた。

 日本軍は一九四四年四月、ホーランジア、同年五月ビアク島を失い、九月にはモロタイ島(ハルマヘラ島の北の島)にも迫られ、このような圧迫された状況のもとで、捕虜の待遇管理に注意を払う余裕が全く無くなっていました。
 またこの戦争で、連合軍が日本軍の傷病兵や戦死者の死体に対して、非人道的虐待を加えていると言う風評があり、また病院船は撃沈され、日本の諸都市の無差別爆撃、戦争法規・慣習を無視、侵害しているという情報は、捕虜の処遇に大きく影響しました。
 次は、捕虜に対する日本と連合国の観念の違いであります。
 日本では敵に捕まって捕虜となることは、大いなる不名誉とされ、”名誉ある捕虜”とは思われませ

ん。戦時における日本の習慣によれば、万一捕虜となれば、それが士官である場合、捕虜となるまでの経過がどうあろうと、自決することを要求されていた。他の階級の場合は、この原則にならうものとされてぃました。もし自決した場合は、戦闘で一人殺した場合と同様の処遇を受けることになってました。万一自決しない場合は、故国に帰ることは許されなくなっていました。

 日本人捕虜は日本人の道徳観念からして、故国では人間としてあつかわれませんでした。アンボン島における大変残念なことで悲惨な捕虜事件の原因と動機を要約すれば次の通りです。 
第一は以上のべた一般状況。第二はこの一般状況から判断して、適当な時期にアンボン島から他の安全地域に正式な捕虜として移送されなかったこと。
第三は、たとえ捕虜の臨時収容所に一時的に抑留されても、手続き(国際法に規定されている正規の手続き)は行わねばならないが、”海軍捕虜処遇規則”その他に定められた完全な”登録手続き”がとられていなかったことです」と。(以上本証言提出一九四五年十二月二二日付)

 また、この一瀬司令官の回答書提出と前被して、豪軍ウイリアム検察官の要求であったのか、日本海軍司令部の小林法務官より、質問に答えた回答書が出されて、片山達のモルタイ裁判の法廷に、証言として出され、片山はこの証言を強く否定している。その回答書には次の如く書いてあり、また事実でもあった。
 「第四南遣及び第二十五根軍法会議は、一九四三年(昭和十八)十一月三十日から、一九四五年九月十日迄の間、捕虜に関する事件は一件も取扱わなかった」と。
 この回答書は提出期日不明であるが、一瀬司令官の回答書提出の前後だと思われる。

■殺害を死ぬほど強制されたのか?
 検察官の最終論告の要点
 「被告達の意識的、自発的行為の結果、死を招来したことにより、被告達の犯意を示すに充分である。

 被告達が本行為を実行したのは、軍隊に於ける命令に従ったものと言うだけでは、その行為が自発的でなかった理由にはならない。
 命令により実行した行為が、本人の意志に反して行われたことを証明するためには、その行為が肉体的圧迫下で行われ、その強制がはなはだしいもので、弁護するに役立つほどのものであるという証拠が無ければならない。
 故に本件においては、単にその殺害が意識的、自発的であったことを立証するだけで、犯意があったことを示すに充分である。
 強制されたということが成立するためには、直接に死の恐怖を感ずるような、肉体的圧迫というもの
がなければならない。
 故に被告達が、何らの肉体的(暴力的)圧迫がないのに、軍の命令に基づき殺害を行ったと主張するのであれよ、弁護は成り立たない。
 軍の命令に不服従の場合、直ちに死の脅威というものはなく、単に軍法会議で裁かれる可能性があっただけである。
 本件の弁護は主として実際の状態を知らなかったと言うことに基づいているように思える。もし本件
において、被告達が合法的である(軍法会議で裁かれた)と信じ、かつまた、その信念が納得出来る根拠に基づいた正直なものであると、法廷(委員会)を納得させるものであれば、処刑が現実には不法なものであっても、被告達は完全に弁護され、無罪となるであろう。
 弁護人は、被告達が四人の搭乗員捕虜は、軍法会議で裁かれたものと信じていた。またそう信じていたことは、当時の状況においては理由があると主張した。
 もし当法廷がこの弁護を認めるならば、それは訴追に対する完全な回答になる。もちろ人もし処刑が適正なる法的決定に基づいて行われたものであるならば、被告達が行った殺人が不法であったと、信じたか否かについて考慮することは重要なことではなくなる。
 法を知らないということは、法律を理解でる能力ある人にとっては、弁護にはならないのである。
 本件において、事実搭乗員に対し軍法会議が聞かれて、彼等捕虜が軍事裁判で判決があり、処刑はその判決に基づいて行われたことを示す証拠が提出されたとしても、その裁判がぎま人的なものであって、自然の正義に反するものであり、被告達がそのことを知っていたと、本法廷が認めるならば、かかる形式裁判を行ったと言うことは、その全経過が不法なものである故に、何の弁護ともならで、その処刑に関係した人々は、被等が、その事情を知っていたならば、その不法の処置に参加していたことになる。

 もし法廷の訴訟手続きが、自然の正義に反でるものであり、被告達が訴訟手続きの形式について知っていたならば、裁判が自然の正義に反していたという事実を知らなかった、ということで弁護しようとすることは、法を知らなかったということで弁護しようとすることと同じことである。
 訴訟手続きについて知識をもって処刑を執行した人々には、単に裁判が行われたという形式的なことだけで、自分達を弁護することは出来ない。
 単に一人の人間が被告を訊問でるというような審査の形式では、国際法の見地からも、裁判とは言えないのである。

 他に本件の如き裁判こ役立つ弁護の方法がある。すなわち、明らかに不法ではない軍命令により行われた行為は、正当化されうることである。明らかにという言葉は、それに含まれた特定の観念が明確であり、心にはっきりする意味である。
その言葉の中には、訳の分った人間が、被告達と同じ環境におかれた場合、被告達も知り得る知識をもって考えるだろうという考慮が含まれている。このことをもって弁護しようとする被告は、彼と同じ環
境におかれ、同じ知識をもつ訳の分った人間には明らかなことを、知らなかったと主張することは出来
ないのである。故に”明らか”と言うことは被告が命令を受ける時に持っていたと、主張するかも知れない偏見というものには関係なく、合理性の基準を意味するものである」と。

■彼らには犯意はなかった
 最終弁論の要点 豪軍キヤンベル大尉
 「弁護人は二つのことを是認する。

(1)処刑が行われ、それを実行したのは被告である。
(2)被告達が現場にいて、この処刑に参加したこと。以上二つの事実は論議の余地がないことである。
この事件において、検察官は法律を完全に、公平に適用した。しかし検察官は次の点を実証せねばならない。
 第一は被告の行動は自発的であったこと。次に第二は、被告達に犯意が表明され、そのうえで実行されたこと。
 第一については少々説明の必要がある。それは辞書に規定された通りの志願者ではない。彼等は選ばれ、それを指揮されたのであり、指揮は選別と同じく重要の意味を持っている。そこには被告達個人の自由意志による要素は存在しなかったばかりか、他の方法を実行することも出来なかった。
また彼等は、他の方法を選択し実行する証拠もなかった。
 オッペンハイムは”義務”を定義して、義務とは、兵士に上官に従うことを要請することだと説明している。服従することは、日本軍隊において、我々英法よりもさらに強く期待されている。

 第二の犯意についてであるが、犯意が全くなかったことで殺入の罪を立証することは出来ない。
 起訴されている全被告が犯意があることを明らかに表明した証拠は全く無い。検察側は片山に対し、”捕虜を殺す事で、何か敵意を抱いていたか“と質問した。彼は特定の人に対しては、何ら敵意を抱いていなかったと証証言した。この歴史上最大の戦争期間中であったことを記憶すべきである。
 検察側は処刑された捕虜に対して、敵意が集中したことを証明寸る必要があった。殺人の行為に、暗に犯意があったことを示さねばならない。
 片山の人格証言については、彼が行為を起した時、犯意が発見出来たかの問題を考慮すべきである。(これより片山の人格証言の弁護があり、次に重要なことを述べている)

 片山の叔母(英国人)が、片山の人格を全く信じている。もしも当法廷が片山を有罪と判定した場合
、この判定を、片山の叔母が完全に満足するかが問題である」と。
 ここで片山は捕虜が軍法会議にかけられたと確信を持って述べていることを弁護している、また日本軍は捕虜を軍法会議にかけずして、処刑を行うことは違法であることも、充分知っていたとも弁護している。この豪軍キヤンベル大尉の最終弁護の後、次の刑決が申し渡された。

  片山日出誰 銃殺刑 (昭22・10・23執行)
  高橋 豊治 銃殺刑 (昭22・10・23執行)
  植村 重郎 銃殺刑 (昭21・5・4執行)
 (この裁判は一九四六年〈昭和ニ十ー〉二月ニ十五日からニ十七日にかけて行われた)

■我々には勝利か玉砕しかなかった
 この裁判記録を冷静に読み、私の体験とも合わせ考えると、日本軍では何の不思議にも思わず「上官の命令は天皇陛下の命令と心得よ」とただちに実行することが教育され、血肉となり、訓練が行われていた。
 だが豪軍戦犯裁判の法廷での検察官の最終論告では、その有罪である理由として、「万一命令を受けた部下は、その命令の処刑事件が合法的かを書類で確認し、不法であると知ったならば、上官の”処刑せよ”の命令を拒否すべきである。拒否しても肉体的暴力か、または背にピストルを突きつけられ、死の脅威を感じて処刑命令に従って実行したという具体証拠を示せない限り、心ならずも命令で行ったので無罪とは言えず、自己意志があった犯罪行為と考える」とし、三人とも銃絞刑を受けた。弁解するつもりはないが、当時の日本軍隊では考えられない判断であった。これは他の各国のBC級戦犯裁判でも共通のものがあったと思う。

 日本政府は、一九四二年(昭和十七)四月、米軍爆撃機による突然の本土爆撃(ドーリットル爆撃)
を受けた直後、連合国軍にスイスを通して、「ジュネーブ条約の中の捕虜条約は日本も尊重し、守る」
ことを通知したのだが、最前線の一般下部将兵は、そんなことは知らされもしなかったし、教育もされていなかった。
 「戦争を開始した以上は、勝利か玉砕か以外に結末はない」と信じていた若者は圧倒的に多かった。
軍者もそう信じた一人である。
 ところでこの裁判で、明らかに豪軍捕虜を斬首したと自らも述べ、また証言もありながら、裁かれな
かった者(二名)がいた。西田孝中尉と捕虜収容所警戒隊の吉崎清里先任下士官(後に兵曹長)である。
 西田孝中尉は、ジャワ島からアンボン島に一時用件で来ていて、その後何処かに転任し、戦死されたか、行先不明となっているとのうわさを当時聞いていた。また吉崎兵曹長は片山裁判当時は、モロタイ戦犯収容所にいて他の豪軍捕虜の殺害事件の参加者の一人として裁判を受け、片山裁判が開始された二月二十五日に有期刑十五年の判決を受けているが、片山裁判では何故か起訴されなかった。

 アンボン島の捕虜収容所にいた豪州兵たちが、「連合軍が勝利し、百三十数名の捕虜が何とか生きのびることが出来、故国に復員出来たのは、吉崎先任下士官の親切があったからである。彼を殺すようなことがあっては困る」との願いが出されていたと聞いていた。しかし吉崎兵曹長は、片山たちのモロタイ裁判終了の、次の昭和二十一年三月一日、片山たちがマニラから送られて来た飛行機で、米軍搭乗員殺害の裁判のため筆者と一緒にモルタイ島を出発し、マニラに向かいニ十五年重労働の判決を受ける結果となった。

 豪軍裁判に関係あった諸事情は、片山日出生が獄中で書き続けた日記『アンボンで何か裁かれたかーー愛と死と永遠と』(東京・聖文舎発行)に具体的に書かれ公表されている。実に貴重な資料であると思う。その他に豪軍法廷で日本軍戦犯が受けた、豪軍側の非人道的諸虐待行為を集め、豪州政府あてに出した片山日出雄の「ラボウル事件の真相』があり、「BC級戦犯豪軍ラバウル裁判資料」(東京・不二出版)の中に納められ公表されている。

■処刑命令は出されなかった!?
この『愛と死と永遠と』という、銃殺される日まで書き続けた片山日記を読み返してみると、判決後約ニカ月経過した四月二十四日、豪州関係戦犯者全員百九十七名が、豪州船ダントル号でニューギニア東部のラバウル基地に送られ、五月二日、ラバウル戦犯収容所に収容されている。翌三日、片山裁判で共に銃殺到を申し渡された植村重郎(中尉)が、銃殺到となり昇天する。片山は六月ニ十一日豪軍事務所の手伝いをさせられていたが、偶然に片山と高橋両人の銃殺確定書を発見した。その日付は四月十八日となっていたそうだ。片山はそれを知ると、なぜ自分たち二名の銃殺が引き延されているかを知る。

 つまり片山たちが、命令を受けたと裁判で述べている、第四南遣司令部の川崎先任参謀の証人として残されていると判断する。
 その川崎大佐が、ラバウル戦犯収容所に護送されてきたのは八月二十五日だった。彼は終戦をシンガポールで迎え(第十方面艦隊司令部)、のちに豪州でリスベンに収容されていた。片山と高橋は、ラバウルの収容所で川崎大佐と自由に話すことができた。そのときわかったことは、川崎大佐は、片山らが銃殺刑の判決を受けたその事件に関して、豪軍から何の調査も受けていなかったということだった。川崎大佐が本当に片山たちに「豪軍搭乗員四名の処刑を命じたか、どうか」の責任を明らかにする川崎裁判は、各種証拠等の照会等で、それから約十ヵ月後の一九四七年(昭和二十二)六月三十日から七月四日の間、行われている。この裁判は結果的には、川崎大佐がアンボン島在職の時、「片山達に命令した

かどうか」のみを明確にするための裁判であったと筆者は思う。
 川崎大佐の責任裁判の記録はあるが、これは省略し大略のみを説明する。この裁判に最後の生きる希望をかけた片山と高橋は、モロタイ裁判で述た「命令により処刑した」のすべてを否認する証言を提出している。そのことを川崎大佐と話し合っていたと思われる。

 川崎大佐が日本政府に要求したのかどうかは明らかではないが、「川崎大佐は事件があった一九四四年八月十五日か、十六日頃は、比島マニラにおいて南西方面全体の作戦会議に出席していた」との日本政府(旧海軍関係の終戦処理部)から証言が法廷に提出され、アリバイが証明され、無罪判決となり終了しているが、しかしアンボン在職当時、犯罪を犯した捕虜の処刑事件で、岡田司令官(第二十五根拠地隊)の不法な処刑命令を第二十警備隊司令白水大佐に伝えたことを認め、十年の有期刑となっている。

 第二十五根拠地隊司令官として残り、終戦時より約ニカ月前日本に転任した岡田中将は司令官時代の捕虜不法処刑命令者として、復員後ラバウルに連行され、銃殺刑の判決を受け、一九四七年九月に銃殺されている。一九四五年三月十日解散となった第四南遣艦司令長官の山縣中将は、日本に転任途中機関長・軍医長・副官と共に飛行中、上海市南方で敵機に遇い撃破され、長官および機関長・副官は戦死、軍医長一名が中国軍の捕虜となっていた。これが当時の始末記である。

■捏造された「日本政府調査報告書」
 片山事件の真相は、筆者も「豪軍搭乗員四名を処刑せよ」を下命する現場に立会っていないので、「誰が命令を片山たちに出したか」は、確信を持っていえない。司令部は認めていないが、当時捕虜の警備責任は捕虜収容所の警戒隊にあったが、他の地に送るとか、処分をどうするかは、司令部の指示または命令なくしては絶対不可能であった。
すでに故人となられた方々の責任を問うつもりはないが、事実は明らかに残しておきたいと思う。
 当時第四南遣司令部で処刑命令を出せる可能性ある人物は、法的には山縣司令長官一人であるが、下級者で命令を受ける側としては参謀長岡田少将(当時)または先任参謀川崎大佐であり、必ず了解を得なければならない参謀としては、捕虜担当参謀であった高崎中佐である。他の参謀は全く関係がなかったと思う。
 筆者も米軍搭乗員二名を殺害したのだが、この命令に対する当時の考え方は「本命令は不法命令であるが、現地での最高司令部で決定した上官の命令であるから実行する。不法行為を調査し、その事件を軍法会議を開いて審議させるかどうかの決定権は司令長官にある。その司令部から出された命令だから不法行為として告発される恐れは全くない。また戦争の結果は。勝利か玉砕戦しかない“ので、生きて責任を追及されることは無い」と判断して実行した。当時は「命令をだれが受けるか」だけが問題で、どういう命令であれだれも拒否しなかったと思う。それが日本軍隊であった。
 戦後も大分経過した一九八一年頃だったと思うが、例のマニラ会議の期日、および参加参謀長または先任参謀の氏名を調査した片山の弟(輝男氏)により、法廷に出された日本政府の証言には垂大なウソがあったことが明らかとなった。日本政府の回答は軍合邦参謀であった三上作夫元海軍中佐の証言に基づくものであったが、三上氏は私の質問状に対して、「私は終戦後、マニラ会議に関して、聞かれたことも無く、またこの作戦合議に私か参加したと証言しているが、私ではなく軍令部の作戦課の榎尾首席参謀が出席されていたことが判明、会議は八月十五日ではなく八月十日に行われ、川崎大佐も出席されていたが、アンボン島への帰着日は不明である」と返信を受け取った。
その返信には「誰が私-三上作夫-の名をつかい、この報告書を送ったのか」と怒りの感情が表明されていた。
 実に不可解な「国の調査報告書」が豪軍法廷に出されていたわけである。それが片山らの死刑判決をくつがえせぬ決定的判断の基礎とされていたことを思うとき、その責任は一体誰がとるのであろうか。
 その他の豪軍BC戦犯事件のアンボン島における真相は、銃殺刑となられた第二十警備隊司令白水洋大佐が書き残された「アンボン事件の真相」として当時の部下隊員への報告書があり、アンボン島第二十警備隊戦友会世話人元海軍中尉二宮義郎氏によって編集された『第ニ十警備隊-アンボンー思い出の記』(昭和五十三年九月発行)の中に納められている。
 戦後私は、武力戦の殺し合いほど馬鹿らしいことはないと、つくづく思うようになった。と同時に、
あの武力戦の実相を、戦後に実施された戦犯裁判の実態も含めて、深く知ることの必要性を実感している。西ドイツ大統領だったワイッゼッカー氏は、ユダヤ人を多数虐殺したナチス・ドイツの犯罪に対す
る厳しい反省を求めて、次のように国民に呼びかけた。

 「過去に対して日をつぶる者は、将来に対しても目をふさぐことになろう」と。
 あえて偽証まで行って、不法なる楽車将校殺害の責任を下級将校の責に帰せしめた日本政府には、このような厳しい態度は望むべくもないのか。
『戦争裁判 処刑者一千』 戦記シリーズ23 新人物往来社から引用
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