戦争裁判 泰緬鉄道俘虜虐待殺害

シンガポール法廷(2)
泰緬鉄道俘虜虐待殺害
否定できない多くの犠牲
俘虜を押しつけたのは誰だつたのか
語る人・阿部 宏(元鉄道第五連隊・中尉)

 『死の鉄道』と呼ばれ、世界中の注目を集めた泰緬鉄道建設。熱帯ジャングルの苛酷な自然のなかで、連合軍俘虜数千をはじめ多くの人命が失われた。だが、その死の責任を問うシンガポール第六軍事法廷に引き出されたのは、命令する立場ではなく、される立場にあった人々だけであった。
 阿部宏元中尉もその一人。大正九年生まれ。国鉄から鉄道連隊に入り、泰緬鉄道建設ではビルマ側工事を担任した鉄道第五連隊に属していた。
 
■連絡将校、ワイルド少佐の怨
Q:阿部さんは、昭和十八年の泰緬鉄道建設期間中の俘虜取り扱いに関して、戦犯容疑に問われたわけですね。

 「そうです。馬来俘虜収容所第四分所長だった板野中佐の名をとっていわゆる『バンノケース』と呼ばれた裁判です。俘虜収容所関係者が五人、近衛工兵連隊から一人、それと鉄道第五連隊の私、合計七人が起訴されています。鉄道連隊からは私一人だけですね。
 起訴状を受けとったのはシンガポールのチヤンギー刑務所に収容されてから一月後の二十一年九月末頃です。英文で書かれていましたけれども、大まかに言えば、戦時国際法に違反して泰緬鉄道の建設に俘虜を使役し、衛生給与等の悪条件の下に管理あるいは酷使虐待して、多数の者を死に至らしめたというのが起訴理由でした。
 こんな起訴理由で板野中佐以下の七人を集めたのは、当時から訳がわからなかったですね。皆が不思議がっていました。
 それで、起訴状を受けとったときに担当のイギリス軍中尉に言ったんです。私が泰緬鉄道の作業を一人で指揮し、全部の俘虜を使役したわけではない。私はそんな上級者で冶ないし、第一、起訴されるならその前に取り調べがある冶ずだが、私冶取り調べを受けた覚えがない。裁判にかけるというなら、もっと具体的な訴因を挙げたらどうだというわけです。中尉は困った顔をして、起訴状を渡すのが自分の仕事だと帰って行きましたが、これはワイルドと一戦交えなきやならんなと思いましたね」

Q:ワイルドと一戦交えるとはどうぃう意味ですか。

 「ダブリンプル・ワイルド。イギリス軍の、その頃は大佐で、連合軍東南アジア戦争犯罪調査局長でした。昭和十七年二月のシンガポール陥落のときに、山下奉文中将とパーシバル中将の会見の通訳を務めた男です。
 戦争中はまだ少佐でしたが、そのワイルド少佐が私たちの鉄道建設現場に配属された俘虜部隊の連絡将校を務めていて、私とは顔馴染みだったんです。戦争が終わって戦犯調査局長に就任したときに、これから日本の戦犯を捜し出して仕返しをすると言ったと伝えられていましてね。
 なにしろ、私はワイルドが一番よく知っている日本の将校の一人ですから、これはヮイルドに狙い撃ちにされたと思うわけですよ」

■木造橋にてこずった阿部小隊
Q:そのあたりの事情をもう少しお話しいただけますか。

 「泰緬鉄道の建設は、大まかに言ってビルマ側を鉄道第九連隊、タイ側を鉄道第五連隊が担当したんです。
 そのうち、ビルマのロンシーから国境をはさんでタイのコンコイターまでの九十一キロが鉄五の第三、第四大隊の担当で、私の小隊(第三大隊第六中隊第四小隊)は国境から十二キロばかりタイ側に入ったソンクライに行きました。私は少尉で小隊長です。ソンクライの現場の責任者ということですね。
 この現場はちょうど線路がソンクライ川を渡るところで、工事は高さが十五メートル、長さ八十メートルほどの木製の橋を架けることが主体になりました。これに労力と時間をとられたために、橋を含めてつくった鉄道の長さは六キロくらいですね。
 ビルマの雨季の雨量は凄まじいもので、普段はおとなしい川もたちまち激流になります。その流れに耐え、しかも軍需物資や部隊を満載した列車を通すことができなければならないわけですから、ひとくちに橋を架けるといっても大変な工事です。
そのうえ、調べてみると川底が堅い岩盤になっていましてね。そこに木製の橋脚をどうやって立てたらいいのか、最初は途方に暮れたものです。
 考えに考えた末、岩盤にミゾを据ってそのなかに橋脚を立て、コンクリートで固める方法を採りました。さいわい、まだ雨季には入っていませんでしたから、川をせきとめて岩盤にミゾを据ることができたんです。
 もう一つ、橋を架けるにも線路の枕木にも大量の木材が必要ですが、これは付近のジャングルから切り出して使いました。現地の象部隊が大活躍してくれましたよ。
 むちゃくちゃな工期短縮命令がきていましたから、工事は確かに突貫作業でした。われわれ鉄道隊員も、一日も休まずに働いたんです」

■死体が戦犯を告発した
Q:その作業に、俘虜が加わったわけですね。

 「そうです。第三、第四大隊の担当区間九十一キロのあいだに配属されたのは約七千人。イギリス兵とオーストラリア兵がほぼ半数ずつで、Fフォース、F部隊と呼ばれていました。ソンクライの現場に来たのはそのうちの千二百人で、そのなかに連絡将校としてワイルド少佐がいたわけです。
 ワイルドは毎日のように私のところにやってきて、俘虜を労働に使うのはやめてくれという決まり文句を言うんです。私はワイルドが働いているのを見た記憶がありませんから、自分は働かないのに何を言うかという気持ちですね。また、時には鉛筆がほしい、砂糖がほしいといっては持っていったこともあります。
 ワイルドとはいろんな話をしていますが、強く記憶に残っているのは、戦況をよく知っていたことですね。ヨーロッパ戦線のことなんか私でさえわからないのに、俘虜の方がよく知っていて教えてくれるんです。
 昭和十八年の夏ごろだと思いますが、ドイツは負けます。ドイツが負けたら日本も負けます。日本が負けたらあなたはどうしますかと尋かれたことがあります。ちょうどスターリングラードの戦いがソ連の勝利で終わった頃ですね。
 私は日本が負けるわけないだろうと答えたんですが、彼らはどうも、短波ラジオを持っていたらしい。ニユースを聞きながらいずれ日本が戦争に負けることを予測して、その後のことを考えていたんだと思います。
 たとえば、日本の降伏直後に、鉄道建設中に死亡した俘虜の死体を掘り起こして埋葬し直したことがあります。私自身は北ビルマで負瘍して入院していましたので直接見たわけではありませんが、掘り起こされた死体はタバコの缶などに封印された資料を抱いていたそうです。
 資料というのは、その死体の身許を明らかにする給与証明書などの書類と、どんな状況で彼は死んだのか、その死に責任を持つべき日本人は誰かなどを克明に書いたものです。ワイルドが鉛筆や紙を要求していたのはこのためだったのかも知れません」

■コレラ流行と大量の犠牲
Q:後日の復讐を期して、死体に相手の名を書きつけた資料を抱かせて埋葬するほど苛酷な状況だったということですか。

 「多数の犠牲が出たことは否定しようのない事実です。F部隊七千人のうち三千人以上が死に、ソンクライでは、千二百人のうち九百人以上が死んでぃます。
 作業は突貫工事で苦しかったことも、食糧が乏しかったことも、医薬品が不足していたことも事実です。
 しかし、少なくともソンクライについては、作業中の事故や日本兵の暴行によって死んだ俘虜は私の知る限り一人もありません。ただ、私が知らないところでも、直接的な暴行などの行為はまったくなかったかと言われると、正直なところ分からないと言うしかない。
 私白身は、一度だけ、サボタージュを重ねる将校を殴ったことがありますが、隊員には俘虜を殴ることは厳重に禁止していたんです。日本兵が鞭を持っていたと証言した俘虜もいたそうですが、鞭なんか持たせるわけがない。おそらく、鉄道隊員の必需品のIメートル尺を見違えたんでしょう。
作業でも、水中や高所などの危険な作業は、すべて鉄道隊員自らやっています」

Q:多数の犠牲者が出た原因は何だったんですか。

 「熱帯性潰瘍、赤痢、マラリア、コレラなどの疫病と、栄養失調です。
 なかでもコレラは俘虜がキャンプに到着してしばらくしてから流行が始まり、凄まじい勢いで広がったんです。
 後の裁判のなかで明らかになったんですが、俘虜がキャンプまで行軍してくる途中にコレラの流行している村を通過しています。ここで生水を飲んだという者がいるんです。キャンプに到着してからも生水を飲んではいかんとうるさく言うんですが、なかなかいうことを聞いてくれない者が多かった。原因は明らかでしょう。
 コレラの流行で何人が犠牲になったかはっきりしませんが、防疫給水部が来て濾過した水だけを飲むようになってから流行は収束に向かいました。
 もっとも、俘虜が病気になっても治療らしい治療はできませんでした。軍医はいても医薬品がない。肉や魚などの蛋白質、新鮮な野菜や果物がないから栄養をつけてやることもできません。
 しかし、そうした状況は我々も同じです。日本人だけがうまいものを食べていたわけではなくて、皆同じだったんですよ。
 我々に対して、食糧がないとか医薬品がないとか、ましてジュネーブ条約に違反して俘虜を軍事作戦行動に使役したなどというのは、最初にも言ったように見当違いなんです。鉄道隊員は俘虜を使って鉄道をつくれと命令されたわけですから。
 また俘虜の管理は収容所が受け持っていて、そうした待遇に関しては収容所の管轄です。しかし、第一線の収容所に責任のすべてを被せるのもおかしい。一線は補給を受ける方であって、補給を確保する責任があるわけではありませんからね」

■元俘虜ウェイト少佐の弁護活動
Q:泰緬鉄道建設に関して、阿部さんを合めた七人を戦犯として起訴したのはおかしいと、そういう意味ですね。ところで、裁判の方はどう進められたのでしょうか。

 「タイからシンガポールに送られて、チヤンギー刑務所に収容されたのが昭和二十一年八月二十五日。Cホールの二階でした。Cホールは、起訴されて有罪になる確率の高い者が収容されろところだったそうです。
 起訴は一月後です。この間、取り調べといえば私服の検事に経歴について聞かれただけです。呼び出されて取調室に入ると、戦犯弁護部の弁護士が二人いました。もちろん 名前も覚えています。
お互いに名乗りあって、話しをする暇もなくまた別室に呼ばれて起訴状を渡された。
 それを持って元の取調室に戻ったら弁護士のほかにバンノケースの六人がいました。ここで初めて、その七人が起訴されたことがわかったんです。
日本人弁護士の二人は不真面日というか、最初から熱意がありませんでした。死刑に決まっていると思っていたのかも知れません 。
 裁判は二十一年九月二十五日、シンガポール第六軍事法廷で始まりました。午前九時半頃だったと思います。

 この前日はものすごい夕立で雷鳴が響いていたんですが、とにかく被告の七人が、バラバラでは犠牲が大きくなる。態勢だけはつくっておかねばならないと思って、板野中佐にお互いに庇いあっていこうと提案した人です。
 板野中佐は『ウーン』と唸ったきり黙り込んで、しばらくたってから、『鉄道隊が無理を言ったからな。正直なところを言うよ』と言う人ですね。
鉄道隊がやりすぎたという雰囲気な人です。
 ところが一時間も経ったころ、『阿部君が言うようにするか』と言い出して、これには皆がうなずいた。そんなことがありました。
 法廷は、検事が二人、判事が三人、弁護士が二人。日本人弁護士のほかにもう一人、イギリス人弁護士がついたんです。この人は元俘虜で、やはり泰緬鉄道の建設現場で働いていたことがあるウエイト少佐です。日本人弁護士の不真面日な態度に比べて、ウエイト少佐は本気で弁護活動をやってくれましたね。
 俘虜が大勢死んだのはなぜかが争点になって、結局コレラの流行が大きな原因だったとなったわけですが、そのコレラの流行は日本軍の故意によるものだと証言する者があったらしいんです。ところがウエイト少佐は検察側証人を徹底的に追いつめて、日本軍には責任がないことを明らかにしてくれたんです。反対尋問は、それは迫力がありました」

Q:ワイルド大佐は、証言台に立たなかったんですか。

 「もちろん、証言する予定になっていたんです。ワイルドが来るというので、これで終わりだと観念しましたよ。
 ところが、裁判が始まって三、四日後のことですが、法廷に三十歳くらいのイギリス人女性が入ってきて、そこにいるイギリス人男性の顔を一人一人覗き込んで歩くんです。なんというか、悲しそうな、寂しそうな顔を今でも覚えています。
 そのときは何だろうと不審に思っただけでしたが、実は、ワイルドが飛行機事故で死んだんです。
東京のA級裁判に証人として出廷した後、私たちの裁判で証言するためにシンガポールに向かったんですが、途中、香港で乗っていた飛行機が墜落したんですね。
 法廷で見た女性は、ワイルドの奥さんでした。
事故で死んだとの知らせを受けて、あるいは知らせは間違いで本人は法廷に出ているんじやないかと思ったのでしょう。
 そういうわけで、ワイルド大佐は証言台には立てなかったんです。かわりに、オーストラリアから来たカッペー大佐という人が証言しました。そのほかには、元俘虜の兵と看護兵が一人ずつだったと思います」

■連隊長が弁護に立ったが……
Q:弁護側証人にはどんな人が出たんですか。

 「私の弁護に立ってくれたのは鉄道第五連隊の連隊長だった佐々木万之助大佐でした。バンノケースの審理が始まった頃はスガモプリズンにいたんですが、元の部下が被告席に立っていると間いて進んで弁護にきてくれたんです。
 佐々木大佐は、阿部に責任はない、すべての行動は私の命令に基づくものであったと、繰り返して強調してくれました。
 すると裁判長は、『大隊長とか連隊長とかいった立場を考えず、また、泰緬線といった場所の限定も離れてここに阿部小隊が存在し、近くに俘虜収容所があったとする。そこで、阿部がある作業に必要を感じ、その俘虜を借りて夜間作業をしたとする。それで事故が発生した場合は誰の責任か』と質問するのです。
 この返答如何ではおまえ白身が起訴されることになるかもしれない。よく考えて答えろと言われて、佐々木大佐はしばらくじっと考え、『そのような場合であれば、阿部の責任です』と答えました。
 こんな、言ってみれば 汚い誘導が行われる裁判だったということです。
 佐々木大佐は、部下だけを前線に出して自分は逃げた指揮官がいたような激戦のなかで、最前線の私の横で戦い、一緒に負傷した人です。証人席にも白分から志願して立ってくれました。裁判でも精一杯のことをやってくれたと思っています」

Q:阿部さん白身はどんな陳述をされたんですか。

 「俘虜を虐待したというが、そんなことをすれば 作業力を低下させるだけ。虐待などあり得ないと言いましたよ。裁判長は理屈なんか聞いているんじゃないと言ってましたが、理屈じゃなくて事実です。
 あとは夜間作業のことや、部下が俘虜を殴ったことに関してなどですね。一度だけ、部下が作業現場で私の部下に殴られたとワイルドから抗議がありましたが、注意したあと同じ抗議を受けたことはないんです。また、橋の上から落ちて死んだ俘虜があるとも言われましたが、それは明らかな嘘です。先ほど言いましたように、俘虜を高いところに登らせたことは一度もありません。人が落ちたことがあるのは事実ですが、それは鉄道隊員で、しかも死んでなんかいないんです。
 感動したのは、俘虜収容所に軍属として務めていた朝鮮人青年、洪起聖(日本名・豊山起聖)の最終意見陳述でした。彼はこう言ったんです。
 『もし悪いと言われることがあれば、原因はすべて私にあります。私は俘虜を殴りました。私は殺されてもいいです。しかし、あんなに俘虜のために苦労していた私の上官を助けてください。日本軍は一生懸命にやりました……。
 誰もが、自分の命だけは助かりたいと思っているときですよ。これを間いて、私は泣きました」

■絞首台からの生還
Q:審理はどのくらい続けられたんですか。

 「判決言い渡しが二十一年十月二十三日ですから、実質三週間ほどですね。これでもBC級戦犯裁判としては異例の長さです。二、三日とか、たった一度の審理だけというものがたくさんあったと聞いています。
 バンノケースの裁判には、なにか一種異様な雰囲気があったような気がします。泰緬鉄道は『死の鉄道』として大宣伝され、その張本人が裁かれて、もうすぐ死刑になるという宣伝が行われていたようですね。
 判決は、七人のうち私を含めて四人が死刑、後の三人は禁固五年、三年、一年半です。板野中佐は禁固三年でした。彼は洪青年が言ったように、本当に誠心誠意、俘虜の待遇を向上させるために頑張っていましたから、有利な証言が法廷のはかにも集まっていたのかも知れません。
 死刑判決が下るだろうと覚悟はしていましたが、実際に言い渡しを聞いたときはやはり動揺がありましたね。終わったときにウエイト少佐は一人一入と握手をして、絶対に諦めるな、あとで書類を送るからかならず嘆願書を出すようにと力づけてくれました」
 それから死刑囚を収容するPホールに移って、つらい体験をされるわけですね。
 「絞首台に向かう人を何人も見送りました。私の房は絞首台からはんの数メートルしか離れていなくて、そちらに面した窓からすべての音が聞こえてくるんです。踏み板が落ちる瞬間に『天皇陛下、万歳』を叫ぶ声と、バアーンという音が重なります。絞首台は三人一緒に処刑できるんですが、処刑の人数がそれよりも多いと、ギリギリと踏み板を巻き上げる音が続きます。
 それよりも何よりも、残酷極まりないのが、体重測定でしたね。死刑執行が言い渡されると、一人一人体重を計るんです。死を確実にするために足に砂袋をつける。その重さを決めるためです。
軍医に聞くと、そんなものをつけなくても落ちた瞬間に首の骨が折れて即死状態だから、必要はないはずだと言ってました。はかの刑務所でこんなことがあったとは聞いたことがありません。チャンギーだけで行われたのだ思います。
 それに、確認したわけではありませんが、絞首刑にした死体から血を抜いていると言っていた人もいます。埋葬する前に一時的に死体を保管する
小屋を覗いたら床に大量の血が流れていたというんです。絞首刑ではそんな大量の血は流れませんからね。ただこれは事実かどうかわかりません」

Q:阿部さんもそういう運命になるはずだった。ところが、減刑になったんですね。

 「そうです。普通、判決があって二、三ヵ月後には執行されていましたから、昭和二十二年の正月を生きて迎えられるとは思っていなかったんです。
年が明けてもなかなか来ない。そうしているうちに、一月十一日、バンノケースの死刑囚全員に減刑通知がきました。終身刑と十五年で、私は十五年になりました。
 減刑の理由はいまだにわかりません。通知には、シンガポール最高司令官の再審査の結果と書いてあっただけでした。ただ、私白身は一つの仮説を持っています。まだ公表はできませんけどね。
 減刑されたらPホールを出なければならない。
毛布一枚抱えてPホールを出ていく私たちを、残る者が拍手で送ってくれました。みんな笑って祝福してくれましたけれども、その胸のなかがどうであったか。それを思うと今でも涙が止まらなくなります」

「戦争裁判処刑者一千」戦記シリーズ23 新人物往来社 から引用
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