同窓の権力者に粛正された満州人脈は…「同徳台」=満州国軍官学校の光と影

【満州文化物語(31)特別編】2016.9.4  産経新聞

■クーデター先陣は後輩
 1961年5月16日、韓国陸軍第2軍副司令官、朴正煕(パクチョンヒ=当時少将、満州国陸軍軍官学校2期、後に韓国大統領)が主導した軍事クーデターが勃発する。

 同日早朝、決起部隊の先陣を切って首都ソウルへ突入したのは軍官学校の後輩で、第1海兵旅団を率いる准将、金潤根(キムユングン、90)=軍官学校6期、後に韓国海兵隊中将=であった。

 決起には軍官学校の先輩、李東河(イドンハ)、朴林恒(パクイムハン)、李周一(イジュイル)=いずれも1期=らも参画。クーデターを成功させた朴は国家再建最高会議議長に就任、63年には韓国大統領の座に就く。満州人脈は主要勢力の1つだった。

 金潤根は『韓国現代史の原点-朴正煕軍事政権の誕生』にこう書いている。

 《満州国軍官学校は、その所在地から同徳台(どうとくだい)の通称があった。ソウル近辺に勤務する同徳台出身の将校達は、週末になると中華料理屋に集まって…憂国の悲憤慷慨(ひふんこうがい)を吐露する会合に変わっていった》。朴正煕も軍官学校の後輩をかわいがり、「同徳台」の会合にはポケットマネーを惜しみなく出していたという。

 ただし、金潤根がクーデターの先陣を切ることになったのは同徳台のつながりがあったとはいえ、いくつかの偶然が重なった結果であった。金はこう振り返る。《政治的野心を見せたこともないし、朴正煕将軍と親しい間柄でもない…どうしてクーデターの先陣をきってソウルに突入したのか…筆者自身、不思議に思っている》(同書より)

 だが、その行動は否応なく金を「政治の世界」に引き込んでしまう。

■同志とて例外でない
 新たな権力が生まれると、それをめぐるせめぎ合いが起こるのは世の常である。朴の決起を支えた同志も例外ではない。

 やがて、反革命容疑という名目などで朴の政敵やライバルが次々と逮捕されることになる。主導したのは新設された中央情報部(KCIA、現国家情報院)。初代部長は朴の腹心、金鐘泌(キムジョンピル、後に首相)であった。

 同徳台出身者にも暗雲が立ち込める。粛清の嵐は、クーデターの先陣を務めた金潤根や、他の同徳台のメンバーにも及んだ。

 満州国軍系に多かった「北部」出身者のグループに朴が警戒感を抱いていたこと。軍に遅く入った朴には“年下の先輩”が目障りだったこと…さまざまな理由がささやかれた。

 もちろん、満州人脈だけがターゲットになったわけではないし、朴政権で首相や閣僚に引き立てられた人も少なくはない。あるときは、権力に取り込み、あるときは排除する…結局、同窓の絆など、政界での激しい権力闘争の前では儚いものに過ぎなかったということであろう。

■突然、刑務所独房へ
 「上の方がお話ししたいと言っています」

 満州国陸軍軍官学校で朴正煕の後輩にあたる最後(7期生)の韓国人生徒、金光植(キムグァンシク、88)の自宅を突然、怪しげな男たちが訪ねてきたときには夜の12時を過ぎていた。

「あなた方は誰だ?」

 「言えません」

 答えはなくとも、KCIAの人間であろうことは容易に想像がついた。金は有無を言わさず車に押し込められ、権力者の自宅へと連行されてしまう。

 いったい何の嫌疑をかけられているのか? 金には理解ができなかった。

 終戦直後、軍事英語学校(韓国陸軍士官学校の前身)に入校。朝鮮戦争(1950~53年)を経て、米陸軍士官学校に留学したが、交通事故に遭い、そのときはすでに軍を退いていたからである。 

 夜中にもかかわらず、トレードマークの黒いサングラス姿で現れた彼はこう告げた。「国がおかしくなっている。(KCIAの)逮捕予定者名簿にお前の名前があったので直接、話を聞いてみたかったんだ」

 約1時間半に及ぶ“尋問”の末、午前2時ごろになってやっと金は解放される。翌日の新聞には、多くの軍関係者が逮捕されたことが書かれていた。結局、金もその後、容疑がはっきりしないまま、政治犯が収容されるソウル西大門刑務所の独房に1カ月以上も入れられてしまう。

 金光植はこう振り返る。「(権力者)との個人的な関係は決して悪くなかったと思う。(軍官学校の)仲間の情報を私から聞き出そうとしたのでしょう」

 つまり、容赦なく同窓生を切り捨てた権力者自身が同徳台のつながりの強さを信じていたのである。

■朴氏への複雑な思い
 朴は79年、18年に及ぶ「長期政権」の末、腹心のKCIA部長の凶弾に斃(たお)れた。同徳台出身者の朴への思いは複雑だ。自身に降りかかったことだけではない。

 かつて、軍に巣くう左翼思想者を一斉検挙した粛軍時(1948年~)に北朝鮮とつながる南労党(ナムノダン)員とされた朴の命を救ったのは満州人脈の先輩らではなかったか。その思想的影響を強く受けたとされる何人かの後輩は結局、見捨てられたのではなかったか…と。

 今も健在な韓国人の軍官学校の出身者は、95歳の(ペクソンヨプ=前身の陸軍中央訓練所9期生、韓国陸軍初の大将)を筆頭に、わずか数人だけとなった。

 最後の7期生は4人のうち、2人が満州に残り、昭和21(1946)年、国共内戦で戦死したとみられている。祖国へ戻った金光植と、もう1人は、長く病の床に就いたままだ。

 金光植は軍を去った後、学問の世界に転じ、機械力学の専門家として、ソウルの私大、漢陽(ハニャン)大学などいくつかの学長を歴任した。韓国内だけでなく、日本の同徳台同窓生との交友は今も欠かさない。

 そして、「過去の歴史」を堂々と語れるのは、何らやましいことがないからだろう。「私のように平凡な人生を歩んでいる者は問題ありません。何の野心もありませんしね」      =敬称略、隔週掲載

         (文化部編集委員 喜多由浩)
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朝鮮戦争、軍事クーデターにも関与した「人脈」とは…

【満州文化物語(29)特別編】2016.8.7 産経新聞

 終戦とともに、うたかたのごとく消え去った満州国。日、満、漢、鮮、蒙の5族で構成される国軍幹部を養成した陸軍軍官学校(日本の陸軍士官学校に相当)に後の韓国軍主要メンバーが名を連ねる「満州人脈」があった。

 その数、約50人(新京の軍官学校のみ)。日本統治時代の選び抜かれたエリートであった若き将校や士官候補生は戦後、韓国軍の創設に加わり、同胞が血で血を洗った朝鮮戦争(1950~53年)を戦い抜く。

 やがて、彼らの中心円には大統領(1963~79年)に上り詰めた朴正煕(パクチョンヒ、軍官学校2期→日本陸士留学)が座る。朝鮮戦争前、北と繋がる南労党員とされた朴の命を救ったのも、朴が政権を奪取した軍事クーデター(61年)にも満州人脈は息づいていた。

 金光植(キムグァンシク、88)は、その軍官学校、最後の生徒(7期生)である。

 終戦後、日本人上官の機転でシベリア抑留を免れた17歳の金は、韓国軍創設メンバーが集まった軍事英語学校(後に韓国陸軍士官学校)に入校。朝鮮戦争にも従軍した。金の体験と証言は、満州を源流とする、ひとつの「韓国軍裏面史」と言えるだろう。

■祖国のために尽くせ
 71年前の昭和20年8月末の新京(現中国・長春)。ソ連軍(当時)の満州侵攻から約3週間が過ぎた、かつての満州国首都には約8カ月前に軍官学校に入校したばかりの日系(日本人と朝鮮出身者)7期生約370人が残されていた。

 満州国軍5族のうち、満系(中国人、満州人)、蒙系(モンゴル人)の軍人や生徒は反逆したり、とっくに姿をくらましている。

日系生徒らはソ連軍によって武装解除され、旧日本軍施設に軟禁されていた。このときは知るよしもなかったが、間もなく彼らはシベリアの収容所へ送られ、地獄のような抑留生活を強いられることになる。

 朝鮮出身の7期生は4人で、軍医、獣医を除く地上兵科の生徒は金光植1人だけだった。

 「お前は、一刻も早くここを抜け出して国(朝鮮)へ帰れ。新しい国造りに力を尽くすんだ」

 金は満州国陸軍軍官学校予科6連長(中隊長)の及川正治に呼ばれ、意外な言葉を告げられる。9月1日にはソ連軍による最終点呼があり、それ以降はもう離脱するのが難しい。

 学校幹部は満州内に縁者を持つ日本人生徒にも離脱を認め、点呼直前の同日未明、約60人が夜陰に紛れて新京の街へ散った。ただ、多くの生徒は「残った方が安全だ」と判断し、明暗を分けることになる。

 「及川連長の言葉は胸にしみた。私は3度鉄条網をくぐり抜けて脱出した」

 金には、行くあてがあった。新京の朝鮮出身者ネットワークである。彼らはすでに20年の早い時期から日本の敗戦を見越して、秘密裏に会合を重ね、金も何度か呼ばれていた。

 金は軍官学校先輩の手引きによって新京中心街に本拠を置く「朝鮮保安隊」(約400人)に合流する。リーダーは軍官学校の前身、陸軍中央訓練処出身(5期)の丁一権(チョンイルグォン、後に韓国陸軍参謀総長、首相)。金は中尉の階級をもらい、行動隊長格として、朝鮮独立を訴える街頭デモや軍事訓練の指揮を執った。

同年9月末、金は満州に残っていた約2000人の朝鮮出身の避難民とともに列車で京城(現韓国ソウル)に向かう。

■帰還が遅れた朴正煕
 京城を目指していた朝鮮出身軍人・生徒の一群は満州からだけではない。

 終戦直後、日本からは姜文奉(カンムンボン、軍官学校5期、日本陸士に留学中。後に韓国陸軍中将)がリーダーとなった朝鮮出身の一団が帰路を急いでいた。日本陸士に在籍していた生徒や、姜のように満州国軍官学校予科から日本陸士本科へ留学していた約20人である。

 一方、中国にいた朴正煕は引き揚げが遅れてしまう。満州国軍将校(終戦時は中尉)として同国南西部の熱河省で関東軍部隊と八路軍討伐作戦にあたっていた朴は終戦後、北京へ行き「大韓民国臨時政府光復軍」に加わる。だが、米国は光復軍の帰還を認めず、引き揚げ者として朝鮮南部・釜山へ着いたときは終戦から1年近く(1946年5月)が過ぎていた。

 韓国軍創設の主要メンバーとなったのは満州国軍系、日本軍系、中国系の3つである。発足時の「地位」は旧組織での階級や年齢ではなく、基本的に“早い者勝ち”であった。

 もともと朴には年齢的なハンディがある。師範学校卒業後、教員を経て軍官学校入校は異例に遅い22歳。さらに引き揚げが遅れたために、46年9月に改めて入った警備士官学校(軍事英語学校の後身)は2期の入校となってしまい、後の思想問題もあってずっと“年下の上官”に仕える悲哀を味わう。
そのことが朴に、軍事クーデターを起こさせるひとつの要因になった。

 それぞれの地から引き揚げてきた若き将校や士官候補生は軍事英語学校や警備士官学校の門をたたく。金光植も誘われるまま、軍事英語学校に入る。米軍が不偏不党の方針を打ち出したために、そこには共産主義者も交じっていた。彼らは20代、30代の若さで創設間もない韓国軍のリーダーとなり、満足な装備もないまま1950年6月25日、突然攻め込んできた北朝鮮軍と対峙することになる。

 ◇金光植(キム・グァンシク) 昭和2(1927)年、日本統治時代の朝鮮全羅南道・麗水(ヨス)出身。88歳。光州西中学(旧制)から19年12月、満州国陸軍軍官学校に7期生(最後の入校生)として入校。戦後、韓国・軍事英語学校、海軍士官学校を経てソウル大学卒。漢陽大学長などを務めた。


 ◇満州国陸軍軍官学校
 日、満、漢、鮮、蒙の5族からなる満州国(昭和7年3月建国)の国軍軍官(士官)を養成する学校として昭和14年、新京に創設。終戦まで5族のうち、蒙(モンゴル人、興安軍官学校に在籍)を除く4族の若者が学んだ。
   =敬称略、隔週掲載
         (文化部編集委員 喜多由浩)

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