居留民の引き揚げ時期に「大きな差」ができたのは…

【満州文化物語(13)】2015.12.20 産経新聞

 昭和20年8月から9月にかけ、約270人の居留民(在留邦人)を連れて、満州国・興●(=隆の生の上に一)(こうりゅう)から北京へ「奇跡の脱出」行を成功させた関東軍・満州881部隊第1大隊長の下道重幸(げどうしげゆき)大尉(昭和53年、78歳で死去)は自分の家族を別の場所に残したままだった。

 長男の下道重治(したみちしげはる、78)=戦後、姓の読みを「したみち」に改名=は12年、父の任地であった満州北部のハイラルで生まれている。終戦時には、母と妹と3人で、興●(=隆の生の上に一)から約80キロ離れた連隊本部がある承徳(しょうとく)の官舎にいた。

 「(興●(=隆の生の上に一)にいた)父はたまに帰ってくるだけで、めったに顔を見なかった。軍人らしく寡黙な人でね。現代風の父子関係とは、まるで違っていました」

 20年8月9日にソ連軍(当時)が満州へ侵攻、14日に当番兵が重治らの官舎へ来て、「すぐに荷物をまとめる」よう伝えた。真夏なのに重治は着られるだけ服を重ね着して軍家族ら100人と一緒に列車に乗り奉天へ向かう。翌15日、奉天駅のホームで若い兵隊が涙を流しているのを見て日本の敗戦を知った。

 重治らは一転、南下するが、満州国と朝鮮の国境の街・安東(現中国・丹東)で足止めされてしまう。結局、安東で1年あまりを過ごし、日本へ引き揚げてきたのは21年10月である。

「父の消息はまったくなかった。八路軍(中国共産党軍)から懸賞金を掛けられていたような人で、『もう死んでいるのだろう』と諦めていたんです」

 ところが、その父親が家族よりも早く、祖国の土を踏んでいたのだから運命は分からない。

 「奇跡の脱出」行を終えた下道部隊は9月9日、三河で約270人の居留民と別れ、武器を持ったまま北支軍(日本軍)から北京城の警備を命じられる。八路軍と対立する中国国民党軍(重慶軍)の主力が北京に到着するまで代わりに警備を依頼されたのだ。

 アメリカの支援を受けた国民党軍の主力が北上し、北京へ着いたのが11月。“守備交代”し、ようやく下道らが武装解除となったのが12月である。

 満州に比べて北支からの居留民引き揚げがスムーズに進んだのは、こうして日本軍の武装解除が遅れたためと言っていい。中国内の居留民は日本軍の武器に守られて比較的安全に移動することができたからだ。

 “お役御免”となった下道部隊の約730人はその年(昭和20年)の12月17日、長崎・佐世保に引き揚げる。復員式を行い、隊長の下道は妻の実家がある札幌へ向かう。日本着は満州で苦労を重ねた家族よりも1年近くも早かったのだ。

■平穏だった北京の生活
 一方、下道部隊に命を助けられた居留民はどんな道をたどったのか。

 水野喜久夫(79)は当時、興●(=隆の生の上に一)の国民学校(小学校)の3年生。父親は興●(=隆の生の上に一)の税関長で、脱出行では、母親と幼い妹も一緒だった。「(脱出行では)河を渡るのに兵隊さんに肩車してもらったり、最初は遠足気分でしたね。ところが突然、銃声が聞こえて、最後尾の兵隊さんが銃で撃たれたのを覚えています」

 無事、北京へ着いた居留民は20年9月12日に北京の日本人女学校に収容される。水野一家はその後、日系企業の社宅に移った。食事は十分ではないが、配給があり、父親は店番の仕事を見つける。学齢期の児童のためには「青空教室」も開かれたという。

 「(北京の)日本人の生活は平穏でしたね。父の仕事で得たお金で、お正月を迎えたときにピーナツを買って食べたことを覚えています。危険な目に遭ったことは一度もなかった」

 水野一家を含めて興隆から脱出した約270人の居留民は昭和21年2月下旬、長崎・佐世保へ引き揚げた。この間、伝染病で約10人の幼児らが命を失う悲劇があり、不自由な生活や略奪の被害などが、なかったわけではない。

 だが、軍人、警察官、官吏などが悉(ことごと)くシベリアへ抑留され、ソ連軍による民間人への暴虐な行為が続出した満州と比べれば、はるかに状況は良かった。

満州からの日本人の集団引き揚げは、北支からのそれがほぼ終わった昭和21年半ばからやっと始まり、ソ連支配下の大連はさらに遅く21年暮れからスタート。約6万人が死亡し、地獄のような苦難に耐えたシベリア抑留者が祖国の土を踏むのはもっと後である。

 この間、理不尽な殺戮(さつりく)や人民裁判、病気、飢餓などによっておびただしい日本人の命が戦争が終わった後に奪われていったのだ。

■民間人も抑留の犠牲に
 881部隊の連隊本部があり、下道部隊が当初向かおうとした承徳も「明暗」を分けた。

 下道の家族が奉天へ去った後、ソ連軍が入ったのは8月19日。承徳にはまだ約3000人の居留民が残されていた。日本軍側は、ソ連軍との交渉で居留民の「奉天への脱出」を条件に武装解除に応じる。

 居留民がトラックで承徳を出た後、ソ連軍は日本軍人の拘束を始めた。そして、共同作戦を取っていたモンゴル軍(外蒙軍)への“恩賞”としてモンゴルの首都・ウランバートル近くの収容所などへ抑留させることを認める。

 さらには、予定した人数に足らないことを理由に、一般の民間人までをも一緒に抑留してしまう。モンゴル抑留者の総数は約1万3千人。残された女性や子供は引き揚げまで満州で苦労を重ねることになった。

下道の長男、重治がいう。「父の部隊(下道部隊)もあのとき、(連隊本部がある)承徳へ戻る決断をしていたら同じ運命をたどっていたでしょう。本当にタッチの差でした」

 下道部隊の戦友会は昭和50年代に発足、その後、居留民や家族らが加わり、現在は有志らによって毎年、会が開かれている。 

 水野が言う。「子供だった私がいろんな事実を知ったのは戦後もだいぶたってからでした。(下道部隊には)本当に感謝するほかない。われわれは特別だったんですね」=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
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妊婦ら在留邦人270人はなぜ助かったのか? 「奇跡の脱出行」…関東軍部隊の決断と伝統

【満州文化物語(12)】2015.12.6 産経新聞

 駐蒙軍(日本軍)司令部や日本と関係が深い蒙古連合自治政府があった張家口(ちょうかこう)。そこへ集結していた約4万人の居留民(在留邦人)を救うために、駐蒙軍司令官の根本博中将(昭和41年、74歳で死去)がソ連軍(当時)の武装解除要求をはねつけ、昭和20年8月15日以降も戦い続けた話はよく知られている。

 居留民は、根本らの懸命の抗戦を「盾」に、まだ友軍(北支軍)がいた北京方面へ脱出する。避難者の中には民俗学者の梅棹(うめさお)忠夫(平成22年、90歳で死去)や少年だった画家、作家の池田満寿夫(ますお)(同9年、63歳で死去)らがいた。

 8月9日に満州へ侵攻したソ連軍は、居留民に対して非道な行為を繰り返し、軍人や警察官、官吏らは後に悉(ことごと)くシベリアへ送られ、抑留されてしまう。もし、根本が正直に武装解除要求に従い、停戦に応じていれば、同様の悲劇が待っていたかもしれない。

 今回書くのは、その話ではない。駐蒙軍の隣、満州国熱河(ねっか)省・興●(=隆の生の上に一)(こうりゅう)にあった関東軍第108師団歩兵第240連隊(通称・満州881部隊)第1大隊(下道(げどう)部隊)による「奇跡の脱出」行のことだ。

 「居留民を置き去りにしてさっさと後退した」と非難を浴びた関東軍にも勇猛果敢に戦い、民間人の救出に死力を尽くした部隊は少なからずあった。

 20年8月31日、ソ連軍と中国共産党軍(八路軍)に挟まれ、豪雨のために孤立していた下道部隊は窮余の策で北京へと向かう。この決断が居留民約270人の命を救うことになる。

■居留民を置いていけない
 8月末、興●(=隆の生の上に一)の第1大隊を率いる下道重幸大尉(昭和53年、78歳で死去)は苦悩していた。本来、下道部隊が向かうべき連隊本部がある承徳(しょうとく)までは約80キロ。だが、数日来の豪雨で道路や通信手段が寸断され、合流したり、指示を仰ごうにも連絡がつかない。

 承徳にはすでにソ連軍が入ったという。偵察に出した兵は攻撃に遭い、負傷して戻ってきた。さらに、大きな問題があった。興●(=隆の生の上に一)にはまだ会社員や自営業者、公務員らと家族約270人の居留民が残っている。ここにもソ連軍が来るのは時間の問題であろう。

 「置いてはいけない」。下道はソ連侵攻後に連隊長が行った訓示を思い出していた。881部隊は関東軍のルーツである独立守備隊の魂を受け継ぐ部隊であり、本来の任務である「居留民保護に全力を尽くせ」という内容だった。

 日露戦争に勝利し、関東州(大連、旅順など)や東清鉄道の南部分(後の満鉄線)と鉄道や駅周辺の土地(鉄道付属地)の権利を獲得した日本は満州経営に乗り出す。

 そして、鉄道線と租借地に住む居留民(日本人)を守るために発足したのが関東軍の前身である。

 それは、関東軍固有の独立守備隊と内地から2年交代で来る駐●(=答にりっとう)(ちゅうさつ)師団で構成され、881部隊は第9独立守備隊(承徳)の系譜を引く。「関東軍発祥の精神を忘れるな」というのは、そういうことだ。

「こうなったら居留民を連れて北京へ(西へ)向かうしかありません」。部下の幹部将校らは死中に活を求めるべく、連隊がある承徳とは反対方向、約120キロ離れた北京へ抜けることを進言した。

 簡単な道ではない。大隊には終戦で崩壊した満州国軍の日系将校も加わり、軍人が約750人。居留民と合わせて約1000人の大所帯で年寄りや女性、子供が多く、妊婦もいる。数倍、数十倍の八路軍が待ち構えている危険地帯を隊の前後を武装した軍人が守りながら道なき道を行き、万里の長城を越えるのだ。

 下道はついに決断する。8月31日夜、軍民一体となった「苦難の脱出行」が始まった。

■満州に憧れた15歳の少年
 戦後、新潟県議を務めた清田(せいだ)三吉(90)は下道部隊で糧秣(りゅうまつ)を担当する一等兵であった。

 清田は“宝石箱”を夢見て満州へ渡った少年のひとりである。16年4月、地元・新潟の農林学校を出て、新京の興農合作社(農協のような組織)へ入る。まだ15歳だった。

 「当時は、日本中が『満州へ満州へ』という雰囲気だった。私も満州のでっかい夕日や大地に憧れてね。そこで農業をやってみたい、『満州の土と化さん』という情熱と志に燃えていましたね」。四平省の農村などに約3年半。19年11月、現地召集で入隊し、1年足らずでソ連の満州侵攻に遭遇したのである。

■約1000人の隊列の先頭付近に清田はいた。
「難路が続き、トラックや馬車、ロバなども途中で放棄するしかない。日中は猛烈な暑さになり、日射病のために何人かの幼児が息を引き取った。八路軍との散発的な銃撃戦は依然続いており、裏道を探してゆくので1日で10キロぐらいしか進めなかった」

そして、最大の危機がやってくる。隊列は万里の長城を越し、清朝の歴代皇帝稜(東稜)近くに差し掛かっていた。ソ連軍追撃の危機からようやく逃れられた、という安心感から、2日間の休息をとっていた矢先の9月4日、八路軍の軍使がきて、部隊の武装解除を要求したのである。

 軍使は、武器を引き渡せば、北京までの安全は保証するという。だが、大隊長の下道は厳然と相手の要求を一蹴した。「武装解除はできない。どうしても通さないというのなら、一戦交えることも辞さない」

 大きな賭けだった。清田はいう。「下道大隊長は八路軍から何万元もの懸賞金を掛けられていたほどの人物。兵隊の数では劣っていても武器(火力)では負けない、という自信があったのでしょうね」

 凛(りん)とした下道の態度に八路軍の軍使はそのまま引き下がったが、一行が出発した直後に攻撃を仕掛けてくる。部隊の2人が銃撃を浴び、戦死を遂げるが、それ以上の追撃はなかった。

 9月9日、一行は川の対岸に北支軍が待つ三河へ到達する。そこで下道部隊と別行動となった居留民は12日、無事に北京の日本人女学校校舎へ入ることができた。10日あまりの「奇跡の脱出」行。犠牲者は最小限度にとどまった。

 下道の決断が居留民の運命を「天と地」ほど変えたと分かるのは後になってからである。次回、それを書きたい。敬称略、隔週掲載。

(文化部編集委員 喜多由浩)

級友の多くがソ連軍に殺されたなんて…生死分けた「紙一重」 助かった者たちのトラウマ

【満州文化物語(11)】2015.11.22 産経新聞

■紙一重の差だった。生死を分けたのは…。
 時事通信解説委員長、日銀副総裁を務めた藤原作弥(さくや)(78)はソ連軍(当時)が満州に侵攻してきた昭和20年夏、興安街(こうあんがい)の国民学校(小学校)3年生だった。

 葛根廟(かっこんびょう)事件で、同じ学校に通っていた約270人の児童の多数が亡くなっていたことを知ったのは戦後40年近くが過ぎた40代半ばになってからである。

 「本当に驚きました。私のクラスメートの多くが、ソ連軍によって銃殺刑のように殺されたなんて。爆弾で集団自決したり、親子で刺し合ったり、青酸カリをあおって亡くなった人もいる。8歳だった自分だって、そこに入っていたかもしれない。残留孤児になっていた可能性もあった。そんなことも知らずにおめおめと…」

 ソ連軍が3方面から国境を越えたのは8月9日、興安街には13日に、そして、葛根廟事件は14日に起きている。藤原の父親は興安街にあった満州国軍の軍官学校の教官(文官)だった。危うく難を逃れたのは軍関係者として、いち早くソ連侵攻の情報を知り、10日午後発の列車で興安街を離れることができたからだ。

 「自分たちだけが助かった」。その後ろめたさがトラウマになって藤原に重くのし掛かった。犠牲者のほとんどは、藤原一家が住んでいた同じ「東半分地域」の住民だったのである。

 興安街には、満州北西部に位置する興安総省の総省公署(役所)が置かれていた。ソ連の侵攻に備えた避難計画を含む「興蒙(こうもう)対策」は総省公署が中心になって作成済みだったが、守ってくれるはずの関東軍(日本軍)は侵攻時期を読み誤った上、早々と南への後退を決めてしまう。共同作戦を行う、満州国軍も助けてはくれない。モンゴル系の将兵はソ連侵攻を知ると、反乱を起こしたり、逃亡したからである。

国際善隣協会常務理事の岡部滋(しげる)(75)は当時4歳。総省公署の幹部(参事官)だった父親の理(ただし=昭和62年、77歳で死去)は混乱の中でモンゴル人の総省長や日系トップの参与官家族を逃す任務を命じられる。

 夫がいなくなった岡部の母は、5人の幼子を抱えて自分たちで逃げねばならない。幸いにも後の列車に乗ることができ、夫とも9月になって新京(現中国・長春)で再会したが、母や1歳になっていない末妹は後に病気になってしまう。そして、父も助かった者の苦悩を味わうことになる。

 「(4歳だった)私に当時の記憶はほとんどありません。だが、4つ上だった兄や父は戦後、満州のことは一切話さなかった。母は母で、放っておかれた恨み言を父にぶつけていましたが…。父は、満州関係の就職の口を断り、集まりにも出なかった。役所の幹部としての責任を感じていたのだと思いますね」

■関東軍は後退伝えず
 関東軍は後退を総省公署幹部にさえ伝えなかった。役所や民間企業、自営業者、さらには近郊の開拓団農民の間でも情報の時間差が生まれ、わずかな遅れが運命を変えてゆく。

 葛根廟事件で犠牲になった約1000人のほとんどは、興安街の東半分の住民で、自営業者や会社員などが多かった。「情報」の入手やトラック・馬車の調達にハンデがあったために、出発が遅れ(11日夜)、移動手段を奪われていたために徒歩で逃げるしかない。

 さらに避難計画を変更して葛根廟へ向かったのは、そこで列車を捕まえるためであり、葛根廟にいた日本人ラマ僧らの支援を期待していたからだった。ところが、連絡は錯綜(さくそう)し、わずか1時間前にラマ僧らは葛根廟を離れてしまう。そこへソ連軍の戦車軍団が牙を剥(む)いて襲いかかったのだ。

さらに悲惨だったのは開拓団の農民(約27万人)であろう。多くが、ソ満国境に近い僻地(へきち)にいた上、情報の伝達も遅れた。“見捨てられた”に等しい人々は自力で逃げるしかなく、ソ連軍や匪賊(ひぞく)に襲われ、あるいは伝染病や集団自決などで約8万人もの人たちが命を落としたのである。

 興安街の近郊5キロにあった「東京荏原(えばら)開拓団」は終戦前の“根こそぎ動員”で成人男子の多くを召集で奪われ、老人や女性、子供ら主体の約800人で逃げる途中に匪賊に襲撃され、大半が死亡した。やはり近郊にあった満州国立農事試験場興安支場の集団では、逃避行中に追い詰められ、幼子約20人を自ら射殺する悲劇も起きている。

 同じ興安街や近郊から避難しながら、8月中に日本へたどり着けた人がいた一方で、藤原一家のように興安街からは逃げ出せたものの、国境の街に長く閉じ込められた者、シベリアへ抑留されたり、親を亡くして残留孤児になった者。そして命を奪われた、おびただしい数の人たち…。

■飲み込んだ言葉
 葛根廟事件の悲劇を知った後、藤原は取材で、まだ存命だった関東軍の元参謀に会う。

 元参謀は「(住民らを置き去りにして関東軍や軍家族は先に逃げた、といった)批判は甘んじて受ける。ただ、軍人は命令に従うしかない」とだけ話した。後退は大本営の方針であり、軍の機密を軽々に伝えることはできなかった。さらには、主力を南方にとられ、もはや戦う力がなかったのだ、と言いたかったのかもしれない。

 「それにしてもひどいじゃないかっ」。藤原はのどまで出かかった言葉を飲み込んだ。“助かった者の後ろめたさ”が、どうしても消えなかったのだ。

戦後、藤原は慰霊のために現地を度々訪問し、自分がその立場になっていたかもしれない残留孤児の来日の際にはボランティアを務めている。日銀副総裁を打診されたとき「任にあらず」と感じつつ重責を引き受けたのも「生かされた身。お国のためにご奉公をしなければならない」との思いからだった。

 葛根廟事件に代表されるように関東軍の後退は、結果として数え切れない一般住民の悲劇を生んだ。

 だが、すべての部隊がそうだったわけではない。独自の判断で「奇跡の脱出」と呼ばれた在留邦人の救出を成功させた部隊があった。それを次回に書く=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

娘の首に刀を…「ごめんね、母さんもすぐに逝くからね」 ソ連軍に蹂躙された「葛根廟事件」

【満州文化物語(10)】2015.11.8 産経新聞

■世界遺産にふさわしい
 日本人として決して忘れてはならない歴史の事実がある。例えば、先の大戦でソ連(当時)がわが国に対してやったことだ。

 昭和20(1945)年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して旧満州、千島・樺太へと侵攻してきたソ連軍は、日本の民間人に対して殺戮(さつりく)、略奪、レイプの非道極まりない行為を容赦なく繰り返した。

 領土的野心を剥(む)きだしにしたソ連軍は8月15日以降もひとり戦闘行為を止めない。ポツダム宣言に背き約60万人の日本人をシベリアへ連れ去り、酷寒の地でろくな食事も与えず、重労働を強制し、約6万人を死に至らしめた。人権への配慮などかけらもない所業。「世界遺産」として、人類の記憶にとどめておくのに、これほどふさわしいものはないではないか。

 それだけではない。8月22日、樺太から北海道への避難民を満載した小笠原丸など3隻が留萌沖で国籍を秘した潜水艦の攻撃を受け、約1700人が犠牲になった。ほとんどが女性や子供、お年寄り。日本の船は民間船であることを明示していた。魚雷攻撃で冷たい海に投げ出され、波間に漂う人たちを、あざ笑うかのように機銃掃射でとどめを刺したのである。

■何度も死を覚悟
 満州の北西部を貫く大興安嶺の山脈と広大な草原。満州国時代、モンゴル(蒙古)人が多いこの地域に、興安総省が設けられ、総省公署(役所)が置かれたのが、「興安街(こうあんがい)」(現中国・内モンゴル自治区ウランホト)であった。

終戦時の在留邦人は約4000人(周辺地域を含む)。8月14日、このうち約1000人の民間人が興安の南東約40キロのラマ寺院、葛根廟(かっこんびょう)近くでソ連軍の戦車十数両に蹂躙(じゅうりん)されて虐殺。あるいは絶望しての自決によって亡くなった。助かったのはわずか百十数人。親を殺された30人あまりは残留孤児となった。「葛根廟事件」である。

 大島満吉(79)はそこで生き地獄を見た。何度「死」を覚悟したか分からない。当時、国民学校(小学校)4年生。両親と兄、弟、妹の6人家族で、興安街から徒歩で南へ向かって避難する途中だった。

 14日正午近く、真夏のギラギラとした陽ざしが照りつけていたのを覚えている。「戦車だっ!」。避難民の隊列の戦闘付近にいた満吉は、後方から叫び声を聞く。くもの子を散らすように逃げ出した避難民の後から、轟音(ごうおん)を響かせて追いかけてくるソ連軍の戦車群が見えた。

 「キャー、逃げろ!」。ドーン、ドカーン…日本人の悲鳴をかき消すように戦車砲が炸裂(さくれつ)する。地鳴りのようなキャタピラの音。ダダダっ…機銃や自動小銃の発射音が鳴り止まない。母らと一緒に近くの壕(ごう=自然にできた大きな亀裂)の中へ飛び込んだ満吉は銃を持った人影を見た。

 「日本兵が助けにきてくれたのかと思ったら、ソ連兵だったのです。私の背中のすぐ後ろで、日本人に向けていきなりダダダっと自動小銃を発射しました。ギャーという悲鳴、ブスブスっと銃弾が体に食い込む音…あっという間に30人ぐらいが殺されました」

■悲しき最後の晩さん
 終戦間際、満州では南方へ転身していた関東軍の兵力を穴埋めするために、一般の多くの成人男子が「根こそぎ動員」で軍隊に召集されていた。葛根廟事件に遭遇したのはほとんどが、女性や子供、お年寄りである。武器はわずかな成人男子が小銃などを持っていただけ。その“弱者集団”を戦車が虫ケラのように踏みつぶし、砲や自動小銃で撃ち殺したのだ。

 絶望した避難民は、青酸カリをあおったり、互いに短刀を胸に突き刺したり、わが子の首をヒモで絞めて自決する人たちが相次ぐ。壕の中には母親と満吉、6歳の弟と2歳の妹…。覚悟を決めた母親は妹の首にいきなり刀を突き立てた。「ごめんね、母さんもすぐに逝(い)くからね」。鮮血があふれ、妹は声も出さずに死んでいった。泣きながら小さな顔に頬ずりをして、手を合わせた母の姿が忘れられない。

 国民学校の校長先生の子供たちがいた。両親はすでに亡い。ひとつ年上の長女から声を掛けられた。

 「『最後の晩さん』をしましょう、って。荷物の中にあったそうめんや角砂糖を出してきて一緒に食べました。味なんかしなかった。ああこの世の別れなんだ。『死にたくない』って思いましたけれど…」

 満吉の前に十数人の列ができていた。日本刀を持った在郷軍人に刺し殺してもらうのを順番に待っているのだ。 

 そのとき、離ればなれになっていた父親とひとつ上の兄が突然、壕に姿を見せる。「お前たち、生きてたのか! 随分、探したんだぞ。さあ立て、こんなところで死ぬことはない」。父親の大声が響いた。

だが、母は動こうとしない。「あたしは行けないよ。(娘が死んだ)ここに一緒に残るんだ」。父親は母の体を引きずるようにして無理やり立たせた。「終わったことは仕方がない。さあ逃げるんだっ」。

■生涯消えない記憶 
 大島一家は、葛根廟から新京(現・中国長春)へと逃れ、妹を除く家族5人が奇跡的に助かった。

 だが、極限の状況の中で自分の子を手に掛けねばならなかった母の悲しみ、苦しみは生涯消えることはない。戦後、満吉は9回、現地を再訪したが、生前の母は決してその地を訪れようとはしなかった。

 「最後の晩さん」をともにした校長先生の長女はその後、病死。4人兄弟のうち、ひとりだけが、残留孤児になって来日を果たしている。国民学校270人の児童のうち、実に約200人が亡くなった。

 同じ興安街の住人、同じ国民学校の児童でありながら、1日の遅れ、いやわずか1時間の差が彼らの生死を分けてしまう。

 あまりにも残酷な運命を戦後遅くなって知った人もいる。葛根廟事件は、助かった者にも「重い十字架」を背負わせた。それは次回に書く。

=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

極寒の重労働への怒り、80人超の同期生を失う悲しみ染み込む「セメント袋歌集」 シベリア抑留者の慟哭…


【満州文化物語(18)】2016.2.28 産経新聞

 粗末なセメント袋をほどいて作った歌集が残っている。載っているのは『スターリン賛歌(さんか)』や『民族独立行動隊の歌』などの革命歌、労働歌。シベリア抑留者が使ったものだ。

 歌集をひそかに持ち帰ったのは満州国陸軍軍官(士官)学校7期生、小池禮三(れいぞう、88)。「共産主義に染まったアクチブ(収容者の活動家)から『赤旗の歌が歌えないと日本に帰さない』と脅されて、懸命に覚えたものでした」

 小池は一度、酷(ひど)いやり口で絶望を味わっている。ブカチャーチャという炭鉱の収容所(ラーゲリ)で約3年間、強制労働に就かされた後、「日本への帰国」を告げられ、船が出るナホトカまで来たというのに「船が来ない」という理由で別の収容所へUターン。落胆はあまりに大きかった。

 小池はそこで、日本語がペラペラのロシア人政治部将校が主宰する「反ファシスト委員会」の学習会に参加することを命じられる。マルクス・レーニン主義を3カ月間叩(たた)き込まれた。

 小池は、洗脳されたふりをして、さらに1年間必死で耐え抜く。“セメント袋の歌集”には酷寒の地で重労働を強いられた怒りと、10代の少年にすぎなかった80人以上の同期生を抑留中に喪(うしな)った悲しみがたっぷりと染みこんでいた。

■特攻を前に遺書を書く
 昭和20年8月9日未明、ソ連軍(当時)が150万の大軍で満州へなだれ込んできたとき、小池ら7期生の日本人生徒約370人は首都・新京(現中国・長春)にある軍官学校で泥のように眠り込んでいた。
前日夜半に、3日間の耐熱行軍から戻ったばかり。大雨に降られ、くたくたに疲れて寝床に入ったところを「非常呼集」の怒声でたたき起こされた。

 「新京が空爆を受けているらしい」。にわかには信じられなかった。満州はほんの少し前まで空襲もめったになく、食料や物資欠乏がひどい内地よりも安全で快適な土地だったのだ。軍官学校に残っていたのは、約8カ月前に満州へ来た7期生の日系と満系(中国人)の生徒らだけ。1期上の日系6期生は約1カ月前に陸軍士官学校などへ進むため内地へと戻っている。

 小池は、「ソ連参戦の情報を私たちはまったく知らなかった。戦況の悪化で関東軍主力が南方へ転出させられているとは聞いていたけど、日本が負けるなんて思いもしなかった」

 満州と彼らの運命は暗転する。実戦経験など皆無の少年たちは、いきなりソ連軍の大部隊を迎え撃つ最前線へと放(ほう)り出された。塹壕(ざんごう)掘りを命じられ、「戦車が攻めてきたら爆雷を抱いたまま飛び込むのだ」と…。死ぬことを前提にした特攻作戦である。もはや届くはずもない遺書を書き、抽斗(ひきだし)にしのばせた。

 一方、日本の敗色濃厚を察知した満系の軍官・生徒は逃亡や反乱に動き出す。新京の満州国軍は、空中分解したまま終戦を迎え、日系の軍官・生徒は、ソ連軍に武装解除される。そこで生死を分かつ「運命の分かれ道」があった。

■離脱か、残留か
 20年9月初め、新京郊外・南嶺の旧軍兵舎でソ連軍の監視下に置かれた軍官学校の日系生徒約370人は「究極の選択」を迫られていた。シベリアへの移送は始まっていないが、前提となる作業隊の編成をソ連側から急(せ)き立てられている。動くなら今しかない。

 「満州に係累のある者は離脱を認める」

 学校幹部から“お触れ”が出された。新京に知人がいた7期生の西川順芳(のぶよし、87)は渡満前に大叔父の内田信也(のぶや=東條内閣の農商務相)から聞いた「シベリア抑留」の話が頭をよぎり、離脱を決意する。「冬用の背広に着替え、一般人のふりをしてソ連兵の監視をすり抜けた。トランクには軍服が入っていて、中国人警官に見咎(みとがめられたときは冷汗が流れた」

 離脱組は約60人。新京の知人宅に潜んでいた西川が翌21年4月、中国の国共内戦に巻き込まれるのは、以前書いた通りである。

 小池は残った。「そのときはまさか“シベリア行き”とは思いもしない。貨車に乗った後もソ連兵は『東京ダモイ(帰還)』を繰り返していたから先に内地へ帰るのは(離脱組ではなく)私たちの方だと…」

 酷寒の地で小池らを待っていたのは想像を絶する「地獄」だった。

■肥料まで食べさせられ
 7期生の抑留者は2つの収容所に分けられる。約230人がチタ州のブカチャーチャへ、約80人はイルクーツクだった。80人以上の死者の大多数はブカチャーチャに集中している。ほとんどが病死だった。
小池は、10月2日にブカチャーチャの収容所に着く。約2500人いた日本人収容者の中で、17、18歳の軍官学校生徒は最も若い。“人間扱い”なんてされなかった。「珍しくスープに魚が入っていると喜んだらあまりに渋くてのどを通らない。袋を見たら昭和2年製。つまり、『肥料』になっていた魚を食べさせられたのですよ」

 最初の冬にシラミを媒介にした発疹チフスが大流行する。40度以上の高熱、脳症…大人になりきっていない若い体から、あっけなく命を奪ってゆく。遺体から衣服をはぎ取り、土と雪を被(かぶ)せるだけ。朝起きるとまたひとり、ふたりと硬くなっている…。

 小池の引き揚げは24年9月。引き揚げ後も苦労は続いた。“アカ”に染まったのではないか、と疑いの目で見られ、刑事が思想のチェックにやってきた。外地からの引き揚げ者を対象にした大学編入の特例措置はすでに締め切り。20歳過ぎが「新制高校2年生からやり直せ」といわれれば、進学を諦めるほかはない。

 ようやく地元の金融機関に職を見つけたときの採用条件は「絶対に赤旗を振らないこと」。シベリア抑留経験をやっと打ち明けられたのは“平成の時代”になってからという。

 せめて母を、故郷を想いながら死んでいった友の最期の様子を家族に伝えたい、とも思うが、どうしてもできなかった。

 「申し訳ないと思う。だけどやっぱり後ろめたい気持ちが消えないんですよ。私は生きて日本に帰ることができたのですから…」=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

満州国軍の日本人軍官…「軍再興」が幻に終わったのは-


【満州文化物語(17)】2016.2.14 産経新聞

 満州国軍(終戦時兵力15万)の将校を養成する軍官(士官)学校に在籍した日本人の秘話を今回も書く。

 五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成された満州国軍だが、日本人は幹部のみ。新京(現中国・長春)に昭和14(1939)年、設立された軍官学校も日本人は独自の試験がなく、内地の陸軍予科士官学校などの志願者から選抜されていた。

 しかも、日本人は満州で予科を終えた後、本科は全員が内地の陸士、経理学校、航空士官学校へと戻り、日本軍の幹部候補生とともに学ぶ。

 この制度によって、多くの少年たちが思いもしなかった「満州(国軍)行き」を提示されながら、大陸へ渡る道を選んだ。

 だが、満州国が13年で“うたかた”のように消えてしまったとき、運命と片付けるには残酷すぎるわずかな差によって、10代、20代の若者の生死が分けられてしまう。

■関東軍総司令官に直訴
 終戦の約2カ月前…。
 満州国陸軍軍官学校6期生の金川信常(かねかわのぶつね、88)や山崎啓史(ひろし、88)ら7人は、新京にある西洋の城を思わせるような関東軍(日本軍)総司令官、山田乙三(おとぞう)大将の官邸前に立っていた。

 19年1月に軍官学校に入校した彼らは予科の卒業が近い。本科は内地の(日本軍の)陸士などへ進む約束だが、戦況は厳しく、6期に限って「中止」の噂が飛び交っていた。そこで期の代表7人が悲壮な決意を胸に、満州における日本軍の“総大将”に直訴すべく、やってきたのである。

 結局、総司令官の山田は出張中で、副官に用件を伝えたが、苦り切った口調でこう言い放たれた。

 「話は聞き置く。だが、これは問題だぞ!」

 当然だろう。この行動は「軍の規律」を大きく逸脱していた。満州国軍の学校に属する彼らにとり、いくら緊密な関係にあるとはいえ関東軍は外国の軍隊である。しかも、直属の上官である軍官学校の区(小)隊長や校長には何ひとつ打ち明けていない。

金川は言う。「退校処分は覚悟していた。やむにやまれずの行動だったが、区隊長や校長には随分、迷惑を掛けたと思う」

 心情は分からないでもない。彼らはもともと、日本の陸士を志願していたのである。満州国軍へ回されたものの「本科は陸士で学べる」という制度をよすがにしていた生徒も多い。しかも、同じ6期生のうち航空兵科だけは一足先(20年3月末)に内地の陸軍航空士官学校へ進んでいた。

 そのひとり、和田昭(あきら、88)は同期の「直訴事件」を聞いて仰天する。「大変なことをやったもんだ。普通なら命はない」

 だが、金川らは営倉(えいそう=懲罰房)入り1週間の軽い処分で済んだ。そして終戦約1カ月前の7月、陸士行きが認められ、内地へ渡る希望がかなったのである。

 なぜそうなったか? 軍官学校1期生で当時、6期生の“担任”というべき区隊長を務めていた佐藤文虎(ぶんご、94)は、「(6期生の言い分に)理があったからでしょうね。本来、内地(陸士)へ行かせるのが正しい道なのだから」

 かくして、6期生の日本人生徒約200人は、ソ連軍(当時)の満州侵攻(20年8月9日)直前に内地へと去り、満州には約8カ月前に来たばかりの7期生約370人が残された。

■発案者は建国大幹部?
 7期生とともに新京の軍官学校に残っていた佐藤はソ連軍の満州侵攻、15日の終戦の詔勅(しょうちょく)の混乱の中で妙な誘いを受ける。この時点で、まだソ連軍主力は新京に到達していない。

 「満州国軍の日本人軍官(将校)は『ソ連軍が来たら大変な目に遭う。兵器を持って南へ向かい、朝鮮国境付近で新たな拠点を作るべきだ』と誘われた。発案者は(満州国立の)建国(けんこく)大学の日本人幹部(軍人)だと後に聞きました」

結局、軍官学校からは佐藤ら3人が誘いに応じ、翌16日朝、兵器や食糧などを満載した大型トラックに分乗し、南へ向かう。ところが折からの豪雨で、トラックが立ち往生。同日夜、新京からわずか約50キロ進んだだけで頓挫してしまった。

 このとき、7期生の少年たちにも誘いがあったが、軍官学校幹部が頑として応じなかったという。満州国軍日本人軍官による軍再興計画は「国共内戦」とも絡み合って翌年までくすぶり続けたが、形をなさないままついえてしまう。

 「もともと杜撰(ずさん)な計画だったんだと思う。あのまま南へ向かって(抵抗して)いたら、おそらく皆が殺されていたでしょうね」

 佐藤らは仕方なく新京へ戻ったが、無断で戦線離脱したことが問題になる。上官からは「軍法会議にかけられたら死刑は免れまい。そうなる前に自決せよ」と脅され、短銃を使って練習までさせられた。

 だが、もはやそんなことに構っている余裕もなかったらしい。間もなくソ連軍による武装解除。佐藤や7期生の少年らは、シベリアへと連行された。

■「助かった者」の苦悩
 一方、直訴までして内地の陸士へ行った6期生は兵科ごとの疎開先で終戦を迎える。長野県にいた山崎は満州に残った7期生らの苛酷な運命を知らない。

 「詳しい情報がずっとなくてね…。私は7期生の(兄貴分というべき)指導生徒をしていたから、彼らだけを満州に置いて帰ってきて『面目ない』という気持ちが消えなかった」

 元は陸士からの“回し合格”によって、さらには終戦前後のわずかな差で交錯した運命である。シベリアに抑留された、まだ10代の7期生は80人以上が酷寒の地で亡くなった。区隊長だった佐藤は20代の前半。約2年の厳しい抑留生活に耐え抜いて生還する。
再会と消息は、戦後約10年、軍官学校出身者による「蘭星(らんせい)会」の正式発足を待たねばならなかった。6期生の金川は「同期でも満州に残った軍医・獣医生徒は多くが戦死している。私たちは、結果としてギリギリで命拾いした。申し訳ないとしか言えない」

 ソ連参戦によって暗転した満州の戦争は、助かった者にも苦悩を背負わせることになる。

=敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)

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