日本「陸士」受験したが、満州国軍に 運命変えた“回し合格”…

【満州文化物語(16)】2016.1.31 産経新聞

 満州国は昭和7(1932)年3月の建国から、わずか13年で“うたかた”のごとく消えてしまう。国の理念である五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成されていた満州国軍も、20年8月、ソ連軍(当時)の満州侵攻を知るや、満系(中国人=満、漢)、蒙系(モンゴル人)に反乱や逃亡が相次ぎ、空中分解した。

 日本人の将校・軍官学校(士官学校)生徒のほとんどがシベリアに抑留され、辛酸をなめたことは、すでに書いた通りである。

■元韓国大統領も在籍
 その五族で構成されていた満州国軍の軍官学校はユニークな学校だった。

 首都・新京(現中国・長春、日系=日本人と当時、日本統治下にあった朝鮮人=と満系が所属)と興安街(同ウランホト、蒙系)に2つあり、戦後、韓国の大統領になった朴正煕(パクチョンヒ、2期生)や満州国皇帝、溥儀(ふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)も終戦間際、日本の陸軍大学校を経て予科生徒隊長(満州国軍中校=中佐)として在籍していた。

師範学校、教師などを経て20代で軍官学校に入った朴は、成績優秀者として日本の陸軍士官学校へ留学。その後、満州国軍の将校となって終戦を迎えている。

 一方の溥傑は、ソ連軍侵攻直後に全校生徒を集めて日本語で特別訓示を行い、「新たなる敵(ソ連軍)を撃滅することこそわれわれの任務。最後の勝利を確信して訓練の成果を発揮せよ」とげきを飛ばした。

 五族のうち、日系生徒は少し扱いが違う。予科の2年間(戦争末期には短縮)を新京で過ごした後、本科は内地の陸士などで学ぶ(軍医・獣医生徒は除く)システムが採られていた。

 入校の経緯も面白い。彼らは満州ではなく、内地の出身で、そもそも満州国軍に入るつもりなどなかった。というよりも、日本人を対象にした満州国陸軍軍官学校採用試験は初めからなかったのである。

 彼らは、日本の陸軍予科士官学校(経理学校を含む)受験者から推薦されていた。“回し合格”というべき制度だが、陸士の合格点に達しなかった訳ではなく、優秀な人材の確保や共同作戦にあたる日本軍との一体化を図る狙いがあったとされる。この制度は、戦後までほとんど知られることがなかった。

■何かの間違いだろう?
 だが、たとえ第1志望ではなくとも、思いもよらなかった満州国軍であっても彼らは夢を抱き、「お国のため」と喜び勇んで大陸に向かった。それが運命を劇的に変えてしまう。

 満州国陸軍軍官学校、最後の期となる7期生の小池禮三(れいぞう、88)は、日本の陸士試験の身体検査で、「胸に影がある」と診断されて帰された。

 「剣道2段で、健康には自信があったから『何かの間違いでしょう』とフンドシ姿で2時間も粘ってみたが、ダメだった。しばらくして、陸軍省から『満州国(陸軍軍官学校)に推薦する。応否を連絡せよ』という通知が来たのです」

 同じ7期生の茨木治人(はると、89)は、主計将校などを養成する陸軍経理学校を受験していた。

 「(合格には)絶対の自信があって『私の合格電報を忘れていませんか?』と校長宛に手紙を出したくらい。すると『あなたは満州に推薦してありますから』と返事が来た。母親は反対したけど、僕は満州にあこがれていた。すぐに行く気になりましたね」

■「日本は負ける」に反発
 やはり7期生で、21年4月の「国・共」による中国内戦に国民党軍少尉として参加した西川順芳(のぶよし、87)は19年に日本の陸士を受験したとき、まだ15歳だった。神奈川・湘南中学(旧制)の4年生。満州・軍官学校への推薦を打診されて、「満州国軍に尽くすことが日本のためにもなる」と素直に喜んだ。

 だが、両親や親類が反対。特に強硬だった母親は説得のため、西川の大叔父で、東條内閣の農商務相や貴族院議員を務めた内田信也(のぶや)の所へ連れていく。

 内田は終戦1年前の段階で、日本が置かれている状況を正確に掴(つか)んでいた。すでに敗戦は必至であること。来年(20年)夏か遅くとも秋には満州へソ連軍が侵攻してくること。満州国は崩壊し日本人は帰って来られなくなること。さらには、軍人はシベリアへ連行されるであろうことまで並べ立てて、西川の渡満を止めたのである。

軍国少年だった西川はムキになった。「(内田は)『満州へ今から行くなんてバカだ』と言う。それが悔しくて、『おじさん、もう一度そんなこと(日本が負ける)言ったら、憲兵隊に言い付けますよ』と言い返してしまった」

 15歳の少年にそこまで言われた内田は匙(さじ)を投げた。「バカモン! もう勝手にするがいい」

■渡満8カ月で敗戦
 こうして集められた10代の軍官学校7期生(軍医・獣医生徒を含め約370人)は19年暮、東京・九段の軍人会館(現九段会館)に集合。鉄道と船を乗り継いで新京へと渡る。一足先に満系の同期生約500人は入校しており、颯爽(さっそう)と行進する姿に1期上の先輩と勘違いしたという。

 まだ、満州には戦争の影すらない。旧制中学を出たばかりの予科生徒である彼らは、たまの休日に新京在住の郷里の知人宅を訪ね、和食をたらふくご馳走(ちそう)になるのが楽しみだった。

だが、ソ連軍侵攻ですべてが暗転してしまう。その約1カ月前、1期上の日系6期生が陸士での本科へ進むため、内地へ去っている。だから、ソ連軍侵攻時に日本人生徒として残っていたのは8カ月前に満州へ来た7期生だけだった。

 実戦経験などまったくない彼らが突如、新京防衛の部隊に組み込まれ、敵の圧倒的兵力の前に「死」を覚悟する。そして、なすす術もなく武装解除、シベリア抑留…同期生のうち、80人以上が祖国へ帰ることなく無念の死を遂げた。

 21年夏に日本へ引き揚げた西川は、大叔父の内田と再会し、頭を下げるハメになった。「おじさんの言う通りだった」と…。
=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
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朝鮮出身者はエリートだった 満州国軍軍官学校で「日系扱い」に

エリートだった朝鮮出身者
【満州文化物語(30)特別編】2016.8.21 産経新聞

 満州国軍の兵力は約15万(終戦時)。建国時(昭和7年)に交わされた日満議定書で満州国の国防は日本軍(関東軍)に委託されており、満州国軍は補佐的に一翼を担うことになる。

 当初は張学良配下の旧東北軍などの軍閥、日満混合の靖安(せいあん)遊撃隊ら雑多なメンバーで構成されていたが、自前で士官(満州国軍では軍官と呼んだ)を養成する軍官学校を設立し、軍隊としての体裁を整えてゆく。

 もちろん日本が“首根っこ”を押さえる形ではあった(日本人は指揮官のみ)が、軍官学校は満州国を構成する5族(日、満、漢、鮮、蒙)すべてを受け入れた。日本人軍官の上官に中国人が就(つ)いたり、モンゴル人騎兵部隊を日本人指揮官が率いるユニークな軍隊になったのである。

■日本陸士を受けたが…
 満州国の首都新京(現・中国長春)に創設(昭和14年)された陸軍軍官学校には、5族のうち蒙(モンゴル人)を除く4族が在籍。漢、満族と生活習慣などが相いれない蒙族のみ、彼らの居住地域にあった興(こう)安(あん)(こうあん)軍官学校で養成された。

 新京の軍官学校においても日系と満系(漢、満)との区別(選考方法や所属区隊)はあった。その中で日本統治下の朝鮮出身者(鮮系)は1期~6期まで満系に加えられていたが、19年12月入校の最後の7期は日系扱いに変わった。

 この変更は5族協和を謳いながらも、日本が厳然と頂点に君臨する満州国のヒエラルキー(階層的秩序)に微妙な変化をもたらす。国軍内では「鮮系がその次になった」と見る向きもあったからである。
 同時に鮮系志願者の選考制度も変わった。たとえば、韓国大統領になった2期生の朴正煕(パクチョンヒ)は満州国軍の試験を受けて入校しているが、7期生は日本人志願者と同じく日本の陸軍士官学校(予科)などを受験した中から“廻(まわ)し合格”というべきシステムで軍官学校の門をくぐっている。

 金光植(キムグァンシク、88)はそのひとりだった。
 昭和2(1927)年、日本統治下の朝鮮南部・麗水(ヨス)近郊に生まれた金は光州西中学(旧制)へ進み、成績優秀者だったがゆえに教師や配属将校から日本陸士予科の受験を勧められる。軍人としてはエリート中のエリート。極めつきの「狭き門」だが、朝鮮出身者に道が閉ざされていたわけではない。洪思翊(ホンサイク=陸軍中将・陸士26期、フィリピンで戦犯として処刑)のように陸軍大学校へ進み、将軍に登り詰めた人もいた。
「(朝鮮でも徴兵制度が始まり)いずれ兵隊にとられる。軍学校へ行けば勉強ができるし、その間に戦争が終わるかもしれない。ただ積極的に志願したわけではなく、配属将校や先生に言われるがままだった」

 19年5月、金は地元で行われた日本陸士予科の試験を受ける。同じ中学から受験した朝鮮出身者は10人。このうち学科試験をパスした金ら4人が、京城(現・韓国ソウル)へ向かい、朝鮮軍司令部で身体検査・口頭試問を受けた。

 ところが、しばらくたって届いた通知は、思いもしなかった「満州国陸軍軍官学校に推薦する」。同中からの合格者は結局、金ひとりだけだった。満州には縁もゆかりもない…。
一方で“廻し合格組”のプライドをくすぐる制度があった。予科は満州の軍官学校だが、本科へ進むときは日本の陸士で、予科から陸士に進んだ生徒と同じ教育を受けられる(軍医、獣医専攻は除く)。満州国陸軍軍官学校5期生なら日本陸士59期相当、同6期生→同60期相当である。トップエリートだった日本陸士組とそこで肩を並べることができるというわけだ。
 19年12月、17歳になったばかりの金は、酷寒の満州に向かう。

■多かった北の出身者
 満州国陸軍軍官学校に在籍した1期から7期までの鮮系生徒は全部で48人。同期間の日本人生徒は約1400人だから鮮系生徒がいかに選び抜かれたエリートであるか分かるだろう。

 鮮系48人のうち、日本陸士(本科)留学組は34人である。その制度は時代によって揺れ動く。軍官学校の前身、中央陸軍訓練処(奉天)時代には5期の丁一権(チョンイルグォン=後に陸軍参謀総長、首相)は日本陸士へ進み、55期相当になっているが、9期の白善●(=火へんに華)(ペクソンヨプ=朝鮮戦争の英雄、韓国軍初の陸軍大将)のときは陸士への留学制度自体がなかった。

 そして、軍官学校2期の朴正煕のように鮮系は成績優秀者のみ(朴は首席)、留学できる時代を経て、戦争末期には軍官学校の鮮系生徒ほぼ全員が日本人生徒と同じく、陸士本科へ進むシステムに変わる。

 ただし、6期までの鮮系生徒は、最初から満州国軍志望だった、ことを忘れてはならない。
丁も白もそうだが、彼らの出身地は朝鮮の北部(現在の北朝鮮地域)や朝鮮族の居住地だった朝満国境付近の間島(カンド)地域が多かった。地理的に近く、満州という地に親しみがあったのである。それは、新たな可能性を求める道でもあった。満州国建国(昭和7年3月)を機に起きた“満州ブーム”は日本人だけを突き動かしたのではない。日本統治下の朝鮮出身者もまた満州ブームに沸き、農地や仕事を求めて広大な新天地を目指したのである。

 満州国軍官学校のつながりは地域だけでなく「タテ」(先輩後輩)「ヨコ」(同期)も強かった。
 金光植が終戦直後、軍官学校日本人上官の機転によって危うくシベリア行きを免れ、鮮系先輩の手引きで丁一権率いる新京の「朝鮮保安隊」に加わるのは前回書いた通りである。

 京城に戻った後、軍事英語学校(後に韓国陸軍士官学校)に入ったのも、朝鮮戦争(1950~53年)のとき、いったん軍から離れていた金を呼び戻したのも満州人脈であった。軍官学校出身者は学校の所在地から「同徳台」と呼ばれ、韓国軍内の主要人脈のひとつとなってゆく。

 1961年5月、朴正煕が軍事クーデターを起こし、政権を奪取したときも多くの満州人脈が支えている。だが後には、少なくない軍人が大統領になった朴から疎まれ、失脚させられてしまうのだ。

              =敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)

終戦翌年、中国の内戦に…「満蒙開拓義勇軍」の日本人少年が駆り出された背景とは?

【満州文化物語(15)】2016.1.17 産経新聞

 終戦から約8カ月が過ぎた和21(1946)年4月、満州国の首都だった新京(現中国・長春)をめぐる中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)の攻防戦が始まった。

 日本人の引き揚げはまだ始まっておらず、新京の知人宅に身を寄せていた満州国陸軍軍官学校7期生で、17歳の西川順芳(のぶよし)(87)は中国人同期生に引っ張り出され、国民党軍の少尉(小隊長格)になることを余儀なくされてしまう。

 西川は、自分の小隊の兵士として連れてこられた約60人の素性を知って驚いた。彼らも満蒙開拓青少年義勇軍=〈文末別項参照〉=の日本人少年だったからである。つまり、指揮官(西川)も兵士も「全員が日本人」だったわけだ。

 少年らは15、16歳。東北や北関東の農家の次男坊、三男坊が多かった。満蒙開拓団に加わるため、大望を抱いて渡満して間もなく終戦となり、ソ連軍(当時)侵攻後に国境付近から命からがら逃げてきたらしい。

 「僕(17歳)よりも年下で体も顔もあどけなく、本当の子供だったね。軍服などなく、開拓団の作業服みたいな格好そのまま。ただ、軍事訓練も受けていたから小銃の扱い方ぐらいは知っていたんです」

 なぜ中国の内戦に、開拓義勇軍の日本人少年までが駆りだされたのか?

 西川への参加要請は当時、国民党軍の主力が依然、南方にいて兵力、特に指揮官が不足していたからだ。西川は「重慶から来た少尉」という触れ込みで日本語の使用を禁じられ、中国語で指揮を行うことを命じられる。同様に国民党軍に加わった日本人の国軍・軍官学校出身者は複数いたが、先輩のひとりが日本人勧誘の“仕掛け人”だったことに気付く。

「少佐クラスの元満州国軍憲兵(日本人)で中国語はペラペラ、かねて満州国軍の満系将校とのつながりも強かった。私や義勇軍の少年を引っ張ってきたのは彼のアイデアでした。少年たちは食べ物にも事欠く避難生活だったから、この“仕事”に飛びついたんでしょう。軍隊に入れば飢えることはありませんから」

■敵方部隊にも日本人兵
 西川と開拓義勇軍の少年約60人による日本人部隊には旧日本軍の三八式小銃と1人80発の弾が支給され、新京駅近くの最前線の守備に就かされた。

 21年4月10日、夜明け前。突然、向かい側のビルの屋上から、西川らが土嚢を積んだ陣地に向けて擲弾筒(てきだんとう)が発射された。数発が着弾し、轟音を立てて炸裂したのを目の当たりにした少年たちは脅えたように震えている。まだ10代半ば、実戦経験などない。

 周囲が明るくなったころ、駅方面から別の轟音が聞こえてきた。その光景を見て西川は腰を抜かす。戦車1両と、黄色っぽい八路軍の軍服を来た20人ほどの兵隊が見えたからだ。

 「八路軍には戦車などない、と思っていたからね。よく見ると、それは日本軍の軽戦車だった。おそらく途中で鹵獲(ろかく)したのでしょう。(八路軍には)戦車を動かせる人間もいないから、操縦する日本兵ごと奪ったのだと思います」

 指揮官の西川とて、1年半ほど前に満州に来たばかりの17歳の少年である。戦車の登場に中国人のふりも忘れて、思わず日本語で絶叫していた。

 「解散だ! 逃げろ!」

 義勇軍の少年60人は、戦車を見て、くもの子を散らすように逃げた。それっきり消息はわからない。

同じ日、内地では女性に参政権が与えられて初めての総選挙が行われている。復興の槌音(つちおと)が高らかに響いていたころに満州ではまだ、日本人が中国の内戦を戦わされていたのだ。

■「最年少」の収容者
 そのころ、軍官学校の同期生のほとんどがシベリアの収容所へと送られ、地獄の底のような苛酷な環境で重労働を課せられていた。最初の冬(昭和20年~21年)を越せずにバタバタと死んでいったことは、前回も書いた通りである。

 茨木治人(はると)(89)は約80人の同期生とともに、バイカル湖に近い、イルクーツクの収容所へ送られ、鉄道建設工事に就かされた。「(同期生は)まだ17、18歳でしょ。回りを見渡してもそんな年代はいない、収容者の中でも一番幼いわけです。体力がなくて栄養失調になり、下痢が止まらなかった。同期生が一緒におり、励まし合えることはせめてもの救いでしたね」

 茨木は旧制浜松一中の出身。赤い夕日と広大な大地に憧れ、母親の反対を押し切って満州へ来たが、わずか8カ月で終戦。そのままシベリアへ抑留されてしまう。約370人同期生のうち、抑留で非業の死を遂げたのは80人以上。皆まだ10代の少年だった。

 戦後、茨木はシベリアでの遺骨収集に参加。今も語り部として祖国への帰還を果たせなかった同期生の無念を伝え続けている。

■軍再興の「夢物語」
 新京における「国・共の内戦」はあっけなく終わった。2方面から入城してきた八路軍はたった2晩で新京を制圧。国民党軍に加わった日本人将校の中には戦死者も出た。

 彼らの中には、国民党軍と手を取り合い、満州に残っていた国軍や軍官学校出身の日本人を集めて、もう一度、軍を再興しようという「夢物語」を描いていた者までいたという。

17歳の「国民党軍少尉」西川は、八路軍の追っ手を気にしながら、急いで「中国人」から「日本人」へ戻らねばならなかった。

 「申し訳なかったが、日本人居住区の住宅で“強盗”を働いた。拳銃を突き付けて背広と靴を要求。僕は軍服のままだったから相手は国民党軍の敗残将校だと勘違いしたでしょうね」

 背広姿に着替えた西川は公園の池につかって隠れながら何とか八路軍をやり過ごす。「国民党軍少尉」はたった3週間で終わり、手元には支度金の1千元(米半年分)がそっくり残っていた。=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

     
◇満蒙開拓青少年義勇軍
 満州経営の先兵となるべく内地から移住した10代半ば-後半の若者で構成され、昭和13年から20年までに約8万7千人が参加した。多くはソ満国境付近の辺境に入植した開拓団に入って、農業や警備に従事した。末期には「戦時要員」として関東軍や勤労挺身隊にも派遣された。ソ連軍との戦闘や自決、病気などによる死者は3割近い約2万4千人。満州全体の邦人死亡率(1割強)に比べても高い。

なぜ17歳の少尉は、終戦後も戦い続けたのか 「満州国軍」の真実

【満州文化物語(14)】2016.1.3 産経新聞

 今から70年前の昭和21(1946)年4月。終戦から約8カ月が過ぎた旧満州国の首都、新京(現中国・長春)で、17歳の「少尉」西川順芳(のぶよし)(87)は「新たな戦争」の最前線に立たされていた。

 前年の夏、日ソ中立条約を一方的に破って満州へ侵攻してきたソ連軍(当時)は、約60万人の日本人をシベリアへ抑留。日本人が築き上げた財産・設備を奪えるだけ奪った後、21年4月に新京から撤退してゆく。

 「跡目」を争ったのは中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)である。当時の中国を代表しソ連とも条約を結んだのは国民党だ。ところが“裏でつながっている”のは八路軍の方。しかも、重慶軍の主力はまだ南方にあり、戦うにも兵力が足りない。

 そこで、西川に声が掛かった。元満州国陸軍軍官学校(士官学校)7期生。昭和19年12月、16歳になったばかりの西川は神奈川・湘南中学(旧制)から4修(※旧制中学は本来5年間だが、4年でも上級学校の受験資格があった)で新京の軍官学校へ入り、大望を抱いて満州の大地を踏む。

ところが、わずか8カ月で終戦。五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成される軍官学校生徒は反乱や逃亡が相次ぎ、17、18歳の約360人の日系(日本人)生徒のほとんどはシベリアへ抑留されてしまう。

 満州に縁者がいた西川ら約40人は軍官学校幹部からシベリア行きの前に「離脱」を認められたものの、新京から出られない。知人宅に身を寄せ一冬越したたところへ満系(中国人)の軍官学校同期生が突然、訪ねてきたのである。

■今さらヨソの戦争に
 「お前、7期の西川だろう。一緒に来いっ」
西川に重慶からきた国民党の中国人将校のふりをして、小隊を率い、八路軍と戦え、というのだ。
 21年4月、新京の周辺はすでに八路軍が包囲していた。兵力が足りない重慶軍は旧満州国軍の元将兵も動員して対抗しよういうのである。だが、西川には同期といえ、その満系の生徒とは一面識もない。しかも、戦争が終わってすでに半年以上たっているのだ。

 「今さらヨソ(中国の内戦)の戦争になんて加わりたくなかった。だが、(戦争に負けた日本人の元軍人である)私が断れば密告されて、どんな目に遭うか…。従うしかない。後は条件闘争だった」

支度金は1000元(お米半年分)、階級は少尉、60人の部下をつけること…。重慶軍側は西川の条件を飲み、西川は小隊長格として重慶軍の軍服を着る。軍には、同じように参加した軍官学校の日系の先輩や同期が何人もいた。

 西川が言う。「参加した日本人それぞれ、断れなかったことや支度金にひかれたこと以外にも理由はいくつかあるでしょう。満州国軍の元同僚(満系)に『義』を感じて参加した。あるいは、その戦いに『日本再興』の夢を見ている人がいたかもしれません」

■最初の冬を越せずに
 同じころ、やはり10代の若者であった軍官学校の同期生(7期)の多くはシベリアの収容所で、最年少級の抑留者として「地獄」を味わっていた。

 零下40度、50度にも下がる酷寒の地。家畜のエサ並みのひどい食事で重労働に就かされる。事故や栄養失調、劣悪な環境で伝染病が蔓延(まんえん)し、「最初の冬(昭和20年~21年の冬)」を越せずに、次々と同期生の若い命が失われていった。

 軍官学校7期生、小池禮三(れいぞう)(88)は新京でソ連軍によって武装解除され、20年10月、チタ州ブカチャーチャの炭鉱にある収容所へ送られた。18歳。長野・諏訪中学(同)の出身。同じ所には約250人の同期生が収容されている。

「(満州国軍へ入るとき)一人息子だからオヤジが反対してね。でもあのとき(19年12月の入校時)は内地より満州の方が安全だと思われていたんですよ。終戦後、武装解除され列車に乗せられた後も、てっきり内地へ帰してくれるもんだと…。シベリアなど夢にも思わなかった」

 前年の冬に旧制中学などを出て満州へ来たばかりの7期生の体はまだ子供並みといっていい。さすがにソ連側も石炭を掘る仕事は無理と見たのか、小池ら7期生は掘った石炭を有蓋(ゆうがい)貨車に積み込む仕事を担当させられる。それとて辛い重労働だ。最初の犠牲者が出たのは20年の大みそか。積み込む作業中に足を滑らせた同期生が石炭に埋まるようにして死んでいた。

■母を思い逝った友
 それは「悲劇」の序章に過ぎない。その冬、シラミを介在した発疹チフスが大流行する。大人になりきっていない幼い体、粗末な食事に劣悪な環境。高熱を発し、下痢が止まらない。7期生の若者は治療も薬も満足に与えられないまま、バタバタと倒れてゆく。

 「重症者は(別の場所の)野戦病院へ送られたり、収容所内の病棟へ入れられたが、あまりにも患者が多すぎてほとんどはただ、寝ているだけ。下痢が止まらなくて便は垂れ流し、高熱が脳症を誘発し、気がおかしくなった者が続出しました。それはもう悲惨な状況でしたね」

小池には水戸出身の同期の最期が忘れられない。病床を見舞った小池に彼は、やせ細った体、消え入るような声で問うてきた。
 「東はどっちだ? 体を向けてくれないか」

 彼は、口の中で一言だけつぶやいた。

 「おかあさん…」

 翌朝、小池が再び見舞うと若者はもう冷たくなっていた。同じ18歳。水戸弁が印象的な男だった。どれほど故郷へ帰りたかったろうか。ひと目、愛しい母に会いたかったろうに…。

 ブカチャーチャの収容所では約250人の同期生のうち実に80人以上の若者たちが亡くなっている。

 一方、新京の最前線にいる西川は連れて来られた「部下」を見て驚く。彼らもまた10代の日本人の若者だったのである。さらには、敵として戦う八路軍の中にも日本人がいた。その話を次回に書く。=敬称略、隔週掲載。

(文化部編集委員 喜多由浩)

◇満州国軍
 昭和7(1932)年3月1日に建国された満州国の軍隊。同国の理念である五族(日、満、漢、鮮、蒙)によって構成され、総兵力は約15万(終戦時)。同年9月の日満議定書によって、日本軍(関東軍)との共同防衛を約し、同時に交わされた日満守勢軍事協定案で「第三国の侵略にあたって両国軍は日本軍指揮官による統一指揮で行動する」とされた。士官学校にあたる軍官学校は新京(日系、満系)と興安街(蒙系)にあった。

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