溝に転落し動けない母娘をメッタ刺しに…甦る“恐怖”の記憶

溝に転落し動けない母娘をメッタ刺しに…甦る“恐怖”の記憶
【満州文化物語(7)】2015.9.27 産経新聞

■最後の旧制「旅高」
 昭和25(1950)年に廃止された旧制高校は全部で35校しかない。入学できたのは同世代の約1%。総定員が帝国大学のそれとほぼ同じだから、旧制高校に入った時点で“帝国大学へのチケット”を事実上保証される超エリートだ。

 一高から八高までのナンバースクールから始まり、静岡、松本、大阪など地名を冠した学校、さらには成蹊、甲南などの私立高ら内地(日本)に33校。外地につくられたのは、旅順高(関東州)と台北高(台湾)だけである。

 旅順高は昭和15(1940)年、最後の官立高等学校、外地では2番目として、日露戦争の激戦の地であり、軍港と学術都市の性格も併せ持つ旅順に開校した。通称は「旅高(りょこう)」。ここへ満州・関東州各地から秀才が集まってくる。

 1回生には、寮歌(逍遙歌)『北帰行(ほっきこう)』の作者でTBS常務を務めた宇田博(うだひろし)や『アカシヤの大連』で芥川賞をとった作家、詩人の清岡卓行(きよおかたかゆき)がいた。宇田は父親が奉天農大の学長で新京にあった満洲建国大学予科を経ての入学、清岡は大連一中(旧制)の出身だが、2人はともに旅順高を中途退学して一高(東京)から東大へと進んでいる。

 旅順高が存在したのは、たった6年弱(6回生)でしかない。内地の高校が昭和25年3月まで命脈を保ったのに対して、外地の学校は終戦後しばらくして閉鎖を余儀なくされたからだ。

■恐怖で動くこともできず
 藤田康夫(やすお)(91)は旧制の撫順(ぶじゅん)中学から旅順高の3回生として入学している。京都帝国大学工学部土木工学科に進み、戦後は河川工学が専門の技術官僚として要職を歴任した。もし日本の敗戦がなければ、満鉄の幹部技術者になった可能性もあっただろう。

 父親の政一(まさいち=昭和19年59歳で死去)は満鉄が経営する撫順炭鉱(礦)に勤めていた。自宅は、日露戦争の英雄、東郷平八郎から名前を採った東郷採炭所の社宅。昭和7(1932)年、日本政府が満州国を承認した日を狙って抗日ゲリラ、匪賊(ひぞく)の大軍が炭鉱を襲った「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」(同年9月15~16日)が起きたときは撫順・永安小学校の2年生。父親の友七郎(ともしちろう)が、楊柏堡の診療所の責任者を務めていた濱口光恵(はまぐちみつえ)(91)とは、幼稚園、小学校の同級生である。

 東郷は楊柏堡事件で激しい戦闘が行われた場所である。銃や槍(やり)、太刀、油に火を放って襲撃してくる抗日ゲリラらに、炭鉱職員の在郷軍人らでつくる防備隊や自警団は懸命に防戦した。藤田の父親も長男の康夫に「お母さんを頼むぞ」と声を掛けて職場へ向かう。母と姉、康夫が残された。

 「『ワーワー』と勝ちどきを上げる匪賊の大声が窓越しに聞こえてきた。とっさに母と姉が部屋の畳を窓に立てかけて、防御体制を取ったのを覚えている。私は恐怖のあまり、腰が抜けてしまったようにずっと動けなかった」

 激戦は早暁まで続く。日本人は民間人5人が死亡。逃げ遅れた姑(しゅうとめ)を嫁が背負って逃げる際に誤って工事中の溝に転落、動けない母娘2人を匪賊が槍で容赦なくメッタ突きにし、姑が亡くなる(嫁は負傷)という残忍なケースもあった。

一方、抗日ゲリラ・匪賊側にも死者が出る。「翌朝、社宅の庭に(ゲリラの)死体が横たわっていたのを見た。腰にぶら下げたブリキ缶には油でぬらしたウエスがあり、『あれで放火するつもりだったんだ』と思うと、改めて恐ろしさが甦(よみがえ)ってきた」

■平頂山の負傷者も治療 
 福島市の学校法人「東稜学園」理事長を務めた小原満夫(90)は、最も奥にある老虎台の社宅にいた。ゲリラ・匪賊はそこへも迫ってくる。消費組合に勤める父親は夜中、銃声に気付くと、防戦のために飛び出していった。

 「家に残されたのは母と2人の兄。自宅の地下に掘った場所に隠れていた。夜中にそっと外へ出てみると、死体が折り重なっているのが見えたことが忘れられない」

 藤田、濱口、小原も当時、小学生だったが、記憶は驚くほど鮮明だ。それだけ恐ろしく、生々しい体験だったのだろう。惨殺された夫の死体を目の前にして、錯乱状態になった妻の姿もあった。濱口は「一生忘れられない。父が『気を確かに持って。あなた(妻)しか(夫を)確認できないんですよ』と懸命に支えていたそうです」

 翌9月16日、反撃に出た関東軍の独立守備隊は「ゲリラらに通じていた」として平頂山集落の住民ら多数を殺害する(平頂山事件)。だが、濱口の記憶にあるのは、父親が診療所で、満人と呼んでいた集落住民のけがの治療にあたっていた姿である。

■語られ続ける「反日」
 戦後、平頂山事件だけが虚実取り混ぜた反日プロパガンダとして語られ続けている(しかも、日本人の手によってだ)のに、きっかけとなった日本人殺害事件(楊柏堡事件)は、今もほとんど知られていないことは前回、書いた。

 しかも、戦犯裁判で平頂山事件とは無関係とされる撫順炭鉱の元炭鉱長ら7人が死刑になった。その名誉も回復されていない上、炭鉱労働者に苛酷な労働を強いた揚げ句、無数の死体を穴に捨てたという「万人坑(まんにんこう)」や「コレラ防疫惨殺事件」など事実無根の話まで拡散され続けている。

 これでは約40年にわたって営々と撫順炭鉱を築き上げた日本人はたまらない。たとえ「作り話」でも、いったん報道されてしまうと、別のメディアに次々と引用され続けてしまう。

 「(事件を体験した)私たちが声を上げて、『真実』を次代へ伝えないといけないんですよ」

 80年以上の時を経て、おぞましい記憶の封印を解いた濱口や藤田の思いはまさしくそこにあった。=隔週掲載、敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃

“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃
【満州文化物語(6)】産経新聞

■満鉄が作った未来都市
 「世界一の露天掘り」と謳(うた)われた撫順(ぶじゅん)炭鉱(礦)は、日露戦争(1904~05年)の勝利で採掘権を得た日本によって本格的な開発が始まった。良質の撫順炭の埋蔵量は約10億トン、ピーク時(昭和12年)の年間出炭量は約1000万トン。頁岩(けつがん)油(オイルシェール)、人造石油、金属、セメントなども生産する一大化学コンビナートであり、経営する満鉄(南満州鉄道)にとって鉄道事業と並ぶ収益の2本柱だった。

 満鉄はこの地に、当時の内地(日本)から見れば“夢のような未来都市”を築いてゆく。都市計画で整備された市街地には広い幹線道路が通り、学校、病院、公園、公会堂、野球場、プール、冬はスケート場ができた。

 社宅街は瀟洒(しょうしゃ)なレンガ造り。炊事はガス、トイレは水洗でタイル張り、電話はダイヤル式の自動電話。特筆すべきなのは画期的なスチーム(蒸気)による「地域暖房」だ。ボイラーから各戸にパイプを張り巡らし、外気が零下10度、20度にもなる真冬でも室内はポカポカ。熱い風呂はいつでも使用可能…。東京や大阪の大都会でもこうした生活が一般化するのは、高度成長期以降のことだろう。

 まだ初期の1909(明治42)年に渡満した夏目漱石が『満韓ところどころ』に撫順の街を見た驚きを書き留めている。《洒落(しゃれ)た家がほとんど一軒ごとに趣(おもむき)を異(こと)にして十軒十色とも云(い)うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある。坑員(こういん)の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来(き)て眺めたいものばかり…》

■汚名だけ着せられて
 この近代的な炭都が抗日ゲリラの「標的」となった。今から83年前の昭和7(1932)年9月15日夜から16日未明にかけて未曾有(みぞう)の大事件が起きた。その6カ月前に建国された満州国を日本国が承認した日に合わせて「反満抗日」を叫ぶゲリラ、匪賊らの大軍が撫順炭鉱を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が惨殺された。いわゆる「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」である。

 殺されたのは同炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人の民間人ばかり。炭鉱施設や社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所は操業停止に追い込まれた。

 撫順を守る関東軍の独立守備隊は翌16日、反撃に出る。抗日ゲリラに通じていた、とされる平頂山集落の住民らを殺害した。これがいまなお“反日プロパガンダ”に使われ続ける「平頂山事件」である。

 戦後、平頂山事件を“悪名高い事件”として一般の日本人に知らしめたのは1970年代初めに朝日新聞の本多勝一記者が書いたルポであろう。中国は現場に記念館を作って日本軍の“残虐ぶり”を訴え、生き残りである住民は、日本政府を相手取った賠償請求訴訟を起こした。

 だが、虚実取り混ぜて仰々しく喧伝(けんでん)されてきた平頂山事件に比べて、きっかけになった抗日ゲリラ部隊による撫順炭鉱襲撃、日本人殺害事件(楊柏堡事件)についてはほとんど語られたことがない。

 これでは公平さを著しく欠くだけでなく、平頂山事件の全容をつかむこともできない。特に先に襲撃を受けた「楊柏堡事件」の被害者や家族にとっては平頂山事件の汚名だけを着せられたまま釈明の機会さえ満足に与えられなかった。

■殺戮、放火、破壊…
 濱口光恵(はまぐちみつえ、91)の父、友七郎(ともしちろう、昭和35年、69歳で死去)は楊柏堡事件当時、撫順炭鉱の楊柏堡採炭所にあった診療所の責任者を務めていた(撫順医院看護手)。

 その夜、光恵は「仲秋(ちゅうしゅう)の名月がきれいに出ていた」と記憶している。採炭所内のクラブで厄年を迎えた男たちの“厄払い”の宴席が開かれていた。やがて夜も更け、各戸に流れて2次会を楽しんでいたころに異変は起きた。

 「皆さん、これは実弾の音ではありませんか…。すぐに家に帰ってください」

 友七郎がゲリラの襲撃を知らせる味方の小銃の発砲音に気付く。各戸に張り巡らされた地域暖房のスチームのパイプをガンガンと打ち鳴らす「警報」が慌ただしく続いた。もう間違いない。

 そのとき、銃を携帯していたのは友七郎だけ、ほろ酔い加減の男たちは防戦のため、武器を取りに走り、光恵は母親と一緒に避難所である坑道内へと向かう。

 「『ヤー、ヤー』という大声、襲撃を知らせるのろし…外へ出るとあたりは騒然としていました。私たちは、炭鉱の人の先導で坑道に入り、エレベーターやトロッコを乗り継いで、地下深い安全棟の休憩室まで必死で逃げた。残してきた父のことが心配でなりませんでした」

翌9月16日付、満洲日報号外はこう報じている。《深夜の炭都はたちまちにして物凄(ものすご)き戦闘の巷と化し、炭鉱事務所、社宅は焼き払われた。死傷者多数…泣き叫ぶ男女の様はまさにこの世の修羅場》

 銃、槍(やり)、太刀で武装した抗日ゲリラや匪賊は、殺戮、放火、破壊の限りを尽くす。光恵がいた楊柏堡の社宅には約80家族、約300人が住んでいた。間一髪で坑道へ逃げ込んだが、あと一歩避難が遅れていたら、全滅の危険性もあったという。

 翌日、診療所の責任者だった友七郎は犠牲になった炭鉱職員や家族の検視を行っている。

 「非常に惨(むご)い状態で、耳や鼻をそぎ落とされ、目までくりぬかれていた…顔が分からず、ご本人と特定するのが難しかったと聞きました」

 撫順の日本人に、やり切れない思いが残った。抗日ゲリラに通じていた、とされる地元住民の多くは炭鉱で働く労働者である。これまで彼らと家族の暮らしを支えてきたのは炭鉱の日本人ではなかったのか、それなのに…。

 事件の証言者は光恵だけではない。それは次回に書く=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

◇■平頂山(へいちょうざん)事件
 昭和7(1932)年9月16日、前夜、抗日ゲリラ部隊に撫順炭鉱を襲撃された日本側の独立守備隊が、ゲリラに通じていたとして近くの平頂山集落を襲撃し、住民らを殺害した事件。犠牲者数は中国側が主張する約3000人から、数百人とする説もある。昭和23年、中国国民党政権下の瀋陽で行われた戦犯裁判で事件とは無関係とされる元撫順炭鉱長ら7人に死刑判決が下された。

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