ハイグレードな日本人の暮らし…水戸黄門「格さん」一家3代の夢

【満州文化物語(1)】2015.7.5 産経新聞

■東西の十字路・大連
 戦前の大連(だいれん)は、西洋とアジアが交差するクロスロード(十字路)だった。

 日本からヨーロッパへ向かう鉄道の出発点であり、逆方向からは外国人が大連を通って日本、アメリカへと旅立ってゆく。このエキゾチックなムードをたたえた美しい国際都市に、かつて、東京や大阪よりもハイグレードな「日本人の暮らし」があったことを、現代人たちは知らない。

 都市計画でできた街に並ぶヨーロッパ風の荘厳な建物。トイレは水洗、電話の自動交換機の導入は内地よりも早く、大連が一番だった。男性は子供も洋服。自由港のおかげで舶来のカメラや時計も安く手に入る。世界最高級を誇る満鉄の特急「あじあ」は大連駅から発車、食堂車では青い目、金髪のロシア人ウエートレスの少女が乗客に笑顔を振りまいていた。

 戦後は、「戦争」「侵略」といったネガティブなイメージでしか語られることがなくなった満州の、玄関口の街に確かにあった独特の香り。新天地に可能性を求めた農家の次男や三男坊、あるいは広い世界で一旗揚げたい野心家にとってそこはキラキラと輝いて見えたに違いない。

 明治の終わりから終戦にかけ、満州を目指し、海を渡った日本人とその子孫は、最盛期に155万人(軍人、軍属を除く)を数えた。

■祖父はハーレーの販売業
 テレビの人気時代劇「水戸黄門」の格さん役で知られる俳優の横内正(よこうちただし)は昭和16(1941)年7月、大連に生まれている。愛媛県から大陸へ渡ったのは祖父、政太郎(まさたろう=昭和10年、61歳で没)の代だ。

 政太郎は、大連でアメリカの大型バイク、ハーレー・ダビッドソンの販売業を始める。店のバイクを駆って満州の大地を走り回っていた息子の澤二(さわじ=横内の父、51年、74歳で没)は音楽の道に進み、バイオリニストになった。

 「祖父は新天地で一旗揚げようと大陸へ渡ったんでしょうね。オヤジ(澤二)は『カミナリ族』のはしり、というのかな。ハーレーに乗って競争に明け暮れていたらしい。音楽は当初、クラシック志向だったけど、そのうちにダンスホールのオーナー兼バンドマスターになったんです」

 昭和13年~15年ごろの大連の街を再現した地図にその“ダンスホール”は「バーカジノ」の名で残されている。大連の銀座というべき繁華街・浪花町(なにわちょう)から北の吉野町(よしのちょう)に挟まれた通りの角地。ジャズミュージシャンや流行歌の歌手がステージに上がり、生演奏を聞かせ、ダンスもできる大きなバーだったらしい。

 店には一流の人気歌手、ミュージシャンが出入りしていた。ブルースの女王、淡谷のり子、“直立不動”の東海林(しょうじ)太郎、和製サッチモ(ルイ・アームストロング)のニックネームで呼ばれた日本人ジャズトランペッターの第一人者、南里(なんり)文雄らである。
「食客のような人たちが大勢いたらしい。戦後『お父さんに世話になりました』といろんな人が訪ねてきて、父の人脈に驚いたことがある。母(静子、平成20年101歳で没)は淡谷さんと仲が良く、僕が俳優になって共演したとき『カジノの息子です』とあいさつしたら、『おー、そうなの』って、とても喜んでくださいましてね」

 当時の大連は、アジアでは上海に次ぐ、「ジャズの聖地」であった。

■引き揚げで奪われた名器
 戦争が激しくなってからも大連は別世界だった。内地では物資や食糧が不足し、生活や文化に対する当局の締め付けが厳しくなってゆく中で、空襲もめったになかった大連へ、新京(現中国東北部・長春)、奉天(同瀋陽)、ハルビンへ、と芸術家、文化人が流れてゆく。

 すべてを打ち壊したのが突然のソ連軍(当時)侵攻である。昭和20年8月9日、ソ連の大軍は日ソ中立条約を破って満州へなだれ込む。そして、日本人が築き上げてきた営みを蹂躙(じゅうりん)し尽くした。

 横内の幼い記憶に残るのは、地下に大きなホールがあった「バーカジノ」が避難所として使われていたこと。ソ連軍の戦車が轟音(ごうおん)を響かせて大連の街に入ってきた姿だ。一家の引き揚げは翌21年。そのとき、父、澤二は命にも等しいストラディバリウスのバイオリンをソ連兵に没収されてしまう。

 「終戦後、父は食いぶちがなくて、キャバレーを回ったり、無声映画の伴奏もやった。浮き沈みが激しいからと、息子たちが芸能の世界に進むのには大反対。でもいざそうなってみると、一番喜んだのは父だったなぁ」
戦後、俳優になった横内。兄の章次(しょうじ)と弟の弘(ともに故人)はジャズのギタリストになった。後に章次は、やはり大連でジャズに目覚めたドラマーのジョージ川口(平成15年、76歳で死去)らと何度も共演することになる。

 「そのルーツはね、やっぱり(大連の)『カジノ』にある気がするんですよ」

=敬称略、隔週で掲載します。

◇日本が満州に関わったのは約40年間、昭和7(1932)年の満州国建国でより深く関与してからなら、わずか十年余に過ぎない。短い期間に華やかに咲き乱れ、うたかたのように消えた日本人の足跡を戦後70年の年に振り返ってみたい。(文化部編集委員 喜多由浩)



 ■大連 現・中国遼寧省大連市。明治38(1905)年、日露戦争に勝利した日本が租借地(関東州)とした遼東半島にある港町。ロシアが描いた青写真をもとに日本が都市計画を行い、インフラ整備を行った。最盛期の日本人人口は約20万人。
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居留民の引き揚げ時期に「大きな差」ができたのは…

【満州文化物語(13)】2015.12.20 産経新聞

 昭和20年8月から9月にかけ、約270人の居留民(在留邦人)を連れて、満州国・興●(=隆の生の上に一)(こうりゅう)から北京へ「奇跡の脱出」行を成功させた関東軍・満州881部隊第1大隊長の下道重幸(げどうしげゆき)大尉(昭和53年、78歳で死去)は自分の家族を別の場所に残したままだった。

 長男の下道重治(したみちしげはる、78)=戦後、姓の読みを「したみち」に改名=は12年、父の任地であった満州北部のハイラルで生まれている。終戦時には、母と妹と3人で、興●(=隆の生の上に一)から約80キロ離れた連隊本部がある承徳(しょうとく)の官舎にいた。

 「(興●(=隆の生の上に一)にいた)父はたまに帰ってくるだけで、めったに顔を見なかった。軍人らしく寡黙な人でね。現代風の父子関係とは、まるで違っていました」

 20年8月9日にソ連軍(当時)が満州へ侵攻、14日に当番兵が重治らの官舎へ来て、「すぐに荷物をまとめる」よう伝えた。真夏なのに重治は着られるだけ服を重ね着して軍家族ら100人と一緒に列車に乗り奉天へ向かう。翌15日、奉天駅のホームで若い兵隊が涙を流しているのを見て日本の敗戦を知った。

 重治らは一転、南下するが、満州国と朝鮮の国境の街・安東(現中国・丹東)で足止めされてしまう。結局、安東で1年あまりを過ごし、日本へ引き揚げてきたのは21年10月である。

「父の消息はまったくなかった。八路軍(中国共産党軍)から懸賞金を掛けられていたような人で、『もう死んでいるのだろう』と諦めていたんです」

 ところが、その父親が家族よりも早く、祖国の土を踏んでいたのだから運命は分からない。

 「奇跡の脱出」行を終えた下道部隊は9月9日、三河で約270人の居留民と別れ、武器を持ったまま北支軍(日本軍)から北京城の警備を命じられる。八路軍と対立する中国国民党軍(重慶軍)の主力が北京に到着するまで代わりに警備を依頼されたのだ。

 アメリカの支援を受けた国民党軍の主力が北上し、北京へ着いたのが11月。“守備交代”し、ようやく下道らが武装解除となったのが12月である。

 満州に比べて北支からの居留民引き揚げがスムーズに進んだのは、こうして日本軍の武装解除が遅れたためと言っていい。中国内の居留民は日本軍の武器に守られて比較的安全に移動することができたからだ。

 “お役御免”となった下道部隊の約730人はその年(昭和20年)の12月17日、長崎・佐世保に引き揚げる。復員式を行い、隊長の下道は妻の実家がある札幌へ向かう。日本着は満州で苦労を重ねた家族よりも1年近くも早かったのだ。

■平穏だった北京の生活
 一方、下道部隊に命を助けられた居留民はどんな道をたどったのか。

 水野喜久夫(79)は当時、興●(=隆の生の上に一)の国民学校(小学校)の3年生。父親は興●(=隆の生の上に一)の税関長で、脱出行では、母親と幼い妹も一緒だった。「(脱出行では)河を渡るのに兵隊さんに肩車してもらったり、最初は遠足気分でしたね。ところが突然、銃声が聞こえて、最後尾の兵隊さんが銃で撃たれたのを覚えています」

 無事、北京へ着いた居留民は20年9月12日に北京の日本人女学校に収容される。水野一家はその後、日系企業の社宅に移った。食事は十分ではないが、配給があり、父親は店番の仕事を見つける。学齢期の児童のためには「青空教室」も開かれたという。

 「(北京の)日本人の生活は平穏でしたね。父の仕事で得たお金で、お正月を迎えたときにピーナツを買って食べたことを覚えています。危険な目に遭ったことは一度もなかった」

 水野一家を含めて興隆から脱出した約270人の居留民は昭和21年2月下旬、長崎・佐世保へ引き揚げた。この間、伝染病で約10人の幼児らが命を失う悲劇があり、不自由な生活や略奪の被害などが、なかったわけではない。

 だが、軍人、警察官、官吏などが悉(ことごと)くシベリアへ抑留され、ソ連軍による民間人への暴虐な行為が続出した満州と比べれば、はるかに状況は良かった。

満州からの日本人の集団引き揚げは、北支からのそれがほぼ終わった昭和21年半ばからやっと始まり、ソ連支配下の大連はさらに遅く21年暮れからスタート。約6万人が死亡し、地獄のような苦難に耐えたシベリア抑留者が祖国の土を踏むのはもっと後である。

 この間、理不尽な殺戮(さつりく)や人民裁判、病気、飢餓などによっておびただしい日本人の命が戦争が終わった後に奪われていったのだ。

■民間人も抑留の犠牲に
 881部隊の連隊本部があり、下道部隊が当初向かおうとした承徳も「明暗」を分けた。

 下道の家族が奉天へ去った後、ソ連軍が入ったのは8月19日。承徳にはまだ約3000人の居留民が残されていた。日本軍側は、ソ連軍との交渉で居留民の「奉天への脱出」を条件に武装解除に応じる。

 居留民がトラックで承徳を出た後、ソ連軍は日本軍人の拘束を始めた。そして、共同作戦を取っていたモンゴル軍(外蒙軍)への“恩賞”としてモンゴルの首都・ウランバートル近くの収容所などへ抑留させることを認める。

 さらには、予定した人数に足らないことを理由に、一般の民間人までをも一緒に抑留してしまう。モンゴル抑留者の総数は約1万3千人。残された女性や子供は引き揚げまで満州で苦労を重ねることになった。

下道の長男、重治がいう。「父の部隊(下道部隊)もあのとき、(連隊本部がある)承徳へ戻る決断をしていたら同じ運命をたどっていたでしょう。本当にタッチの差でした」

 下道部隊の戦友会は昭和50年代に発足、その後、居留民や家族らが加わり、現在は有志らによって毎年、会が開かれている。 

 水野が言う。「子供だった私がいろんな事実を知ったのは戦後もだいぶたってからでした。(下道部隊には)本当に感謝するほかない。われわれは特別だったんですね」=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

妊婦ら在留邦人270人はなぜ助かったのか? 「奇跡の脱出行」…関東軍部隊の決断と伝統

【満州文化物語(12)】2015.12.6 産経新聞

 駐蒙軍(日本軍)司令部や日本と関係が深い蒙古連合自治政府があった張家口(ちょうかこう)。そこへ集結していた約4万人の居留民(在留邦人)を救うために、駐蒙軍司令官の根本博中将(昭和41年、74歳で死去)がソ連軍(当時)の武装解除要求をはねつけ、昭和20年8月15日以降も戦い続けた話はよく知られている。

 居留民は、根本らの懸命の抗戦を「盾」に、まだ友軍(北支軍)がいた北京方面へ脱出する。避難者の中には民俗学者の梅棹(うめさお)忠夫(平成22年、90歳で死去)や少年だった画家、作家の池田満寿夫(ますお)(同9年、63歳で死去)らがいた。

 8月9日に満州へ侵攻したソ連軍は、居留民に対して非道な行為を繰り返し、軍人や警察官、官吏らは後に悉(ことごと)くシベリアへ送られ、抑留されてしまう。もし、根本が正直に武装解除要求に従い、停戦に応じていれば、同様の悲劇が待っていたかもしれない。

 今回書くのは、その話ではない。駐蒙軍の隣、満州国熱河(ねっか)省・興●(=隆の生の上に一)(こうりゅう)にあった関東軍第108師団歩兵第240連隊(通称・満州881部隊)第1大隊(下道(げどう)部隊)による「奇跡の脱出」行のことだ。

 「居留民を置き去りにしてさっさと後退した」と非難を浴びた関東軍にも勇猛果敢に戦い、民間人の救出に死力を尽くした部隊は少なからずあった。

 20年8月31日、ソ連軍と中国共産党軍(八路軍)に挟まれ、豪雨のために孤立していた下道部隊は窮余の策で北京へと向かう。この決断が居留民約270人の命を救うことになる。

■居留民を置いていけない
 8月末、興●(=隆の生の上に一)の第1大隊を率いる下道重幸大尉(昭和53年、78歳で死去)は苦悩していた。本来、下道部隊が向かうべき連隊本部がある承徳(しょうとく)までは約80キロ。だが、数日来の豪雨で道路や通信手段が寸断され、合流したり、指示を仰ごうにも連絡がつかない。

 承徳にはすでにソ連軍が入ったという。偵察に出した兵は攻撃に遭い、負傷して戻ってきた。さらに、大きな問題があった。興●(=隆の生の上に一)にはまだ会社員や自営業者、公務員らと家族約270人の居留民が残っている。ここにもソ連軍が来るのは時間の問題であろう。

 「置いてはいけない」。下道はソ連侵攻後に連隊長が行った訓示を思い出していた。881部隊は関東軍のルーツである独立守備隊の魂を受け継ぐ部隊であり、本来の任務である「居留民保護に全力を尽くせ」という内容だった。

 日露戦争に勝利し、関東州(大連、旅順など)や東清鉄道の南部分(後の満鉄線)と鉄道や駅周辺の土地(鉄道付属地)の権利を獲得した日本は満州経営に乗り出す。

 そして、鉄道線と租借地に住む居留民(日本人)を守るために発足したのが関東軍の前身である。

 それは、関東軍固有の独立守備隊と内地から2年交代で来る駐●(=答にりっとう)(ちゅうさつ)師団で構成され、881部隊は第9独立守備隊(承徳)の系譜を引く。「関東軍発祥の精神を忘れるな」というのは、そういうことだ。

「こうなったら居留民を連れて北京へ(西へ)向かうしかありません」。部下の幹部将校らは死中に活を求めるべく、連隊がある承徳とは反対方向、約120キロ離れた北京へ抜けることを進言した。

 簡単な道ではない。大隊には終戦で崩壊した満州国軍の日系将校も加わり、軍人が約750人。居留民と合わせて約1000人の大所帯で年寄りや女性、子供が多く、妊婦もいる。数倍、数十倍の八路軍が待ち構えている危険地帯を隊の前後を武装した軍人が守りながら道なき道を行き、万里の長城を越えるのだ。

 下道はついに決断する。8月31日夜、軍民一体となった「苦難の脱出行」が始まった。

■満州に憧れた15歳の少年
 戦後、新潟県議を務めた清田(せいだ)三吉(90)は下道部隊で糧秣(りゅうまつ)を担当する一等兵であった。

 清田は“宝石箱”を夢見て満州へ渡った少年のひとりである。16年4月、地元・新潟の農林学校を出て、新京の興農合作社(農協のような組織)へ入る。まだ15歳だった。

 「当時は、日本中が『満州へ満州へ』という雰囲気だった。私も満州のでっかい夕日や大地に憧れてね。そこで農業をやってみたい、『満州の土と化さん』という情熱と志に燃えていましたね」。四平省の農村などに約3年半。19年11月、現地召集で入隊し、1年足らずでソ連の満州侵攻に遭遇したのである。

■約1000人の隊列の先頭付近に清田はいた。
「難路が続き、トラックや馬車、ロバなども途中で放棄するしかない。日中は猛烈な暑さになり、日射病のために何人かの幼児が息を引き取った。八路軍との散発的な銃撃戦は依然続いており、裏道を探してゆくので1日で10キロぐらいしか進めなかった」

そして、最大の危機がやってくる。隊列は万里の長城を越し、清朝の歴代皇帝稜(東稜)近くに差し掛かっていた。ソ連軍追撃の危機からようやく逃れられた、という安心感から、2日間の休息をとっていた矢先の9月4日、八路軍の軍使がきて、部隊の武装解除を要求したのである。

 軍使は、武器を引き渡せば、北京までの安全は保証するという。だが、大隊長の下道は厳然と相手の要求を一蹴した。「武装解除はできない。どうしても通さないというのなら、一戦交えることも辞さない」

 大きな賭けだった。清田はいう。「下道大隊長は八路軍から何万元もの懸賞金を掛けられていたほどの人物。兵隊の数では劣っていても武器(火力)では負けない、という自信があったのでしょうね」

 凛(りん)とした下道の態度に八路軍の軍使はそのまま引き下がったが、一行が出発した直後に攻撃を仕掛けてくる。部隊の2人が銃撃を浴び、戦死を遂げるが、それ以上の追撃はなかった。

 9月9日、一行は川の対岸に北支軍が待つ三河へ到達する。そこで下道部隊と別行動となった居留民は12日、無事に北京の日本人女学校校舎へ入ることができた。10日あまりの「奇跡の脱出」行。犠牲者は最小限度にとどまった。

 下道の決断が居留民の運命を「天と地」ほど変えたと分かるのは後になってからである。次回、それを書きたい。敬称略、隔週掲載。

(文化部編集委員 喜多由浩)

級友の多くがソ連軍に殺されたなんて…生死分けた「紙一重」 助かった者たちのトラウマ

【満州文化物語(11)】2015.11.22 産経新聞

■紙一重の差だった。生死を分けたのは…。
 時事通信解説委員長、日銀副総裁を務めた藤原作弥(さくや)(78)はソ連軍(当時)が満州に侵攻してきた昭和20年夏、興安街(こうあんがい)の国民学校(小学校)3年生だった。

 葛根廟(かっこんびょう)事件で、同じ学校に通っていた約270人の児童の多数が亡くなっていたことを知ったのは戦後40年近くが過ぎた40代半ばになってからである。

 「本当に驚きました。私のクラスメートの多くが、ソ連軍によって銃殺刑のように殺されたなんて。爆弾で集団自決したり、親子で刺し合ったり、青酸カリをあおって亡くなった人もいる。8歳だった自分だって、そこに入っていたかもしれない。残留孤児になっていた可能性もあった。そんなことも知らずにおめおめと…」

 ソ連軍が3方面から国境を越えたのは8月9日、興安街には13日に、そして、葛根廟事件は14日に起きている。藤原の父親は興安街にあった満州国軍の軍官学校の教官(文官)だった。危うく難を逃れたのは軍関係者として、いち早くソ連侵攻の情報を知り、10日午後発の列車で興安街を離れることができたからだ。

 「自分たちだけが助かった」。その後ろめたさがトラウマになって藤原に重くのし掛かった。犠牲者のほとんどは、藤原一家が住んでいた同じ「東半分地域」の住民だったのである。

 興安街には、満州北西部に位置する興安総省の総省公署(役所)が置かれていた。ソ連の侵攻に備えた避難計画を含む「興蒙(こうもう)対策」は総省公署が中心になって作成済みだったが、守ってくれるはずの関東軍(日本軍)は侵攻時期を読み誤った上、早々と南への後退を決めてしまう。共同作戦を行う、満州国軍も助けてはくれない。モンゴル系の将兵はソ連侵攻を知ると、反乱を起こしたり、逃亡したからである。

国際善隣協会常務理事の岡部滋(しげる)(75)は当時4歳。総省公署の幹部(参事官)だった父親の理(ただし=昭和62年、77歳で死去)は混乱の中でモンゴル人の総省長や日系トップの参与官家族を逃す任務を命じられる。

 夫がいなくなった岡部の母は、5人の幼子を抱えて自分たちで逃げねばならない。幸いにも後の列車に乗ることができ、夫とも9月になって新京(現中国・長春)で再会したが、母や1歳になっていない末妹は後に病気になってしまう。そして、父も助かった者の苦悩を味わうことになる。

 「(4歳だった)私に当時の記憶はほとんどありません。だが、4つ上だった兄や父は戦後、満州のことは一切話さなかった。母は母で、放っておかれた恨み言を父にぶつけていましたが…。父は、満州関係の就職の口を断り、集まりにも出なかった。役所の幹部としての責任を感じていたのだと思いますね」

■関東軍は後退伝えず
 関東軍は後退を総省公署幹部にさえ伝えなかった。役所や民間企業、自営業者、さらには近郊の開拓団農民の間でも情報の時間差が生まれ、わずかな遅れが運命を変えてゆく。

 葛根廟事件で犠牲になった約1000人のほとんどは、興安街の東半分の住民で、自営業者や会社員などが多かった。「情報」の入手やトラック・馬車の調達にハンデがあったために、出発が遅れ(11日夜)、移動手段を奪われていたために徒歩で逃げるしかない。

 さらに避難計画を変更して葛根廟へ向かったのは、そこで列車を捕まえるためであり、葛根廟にいた日本人ラマ僧らの支援を期待していたからだった。ところが、連絡は錯綜(さくそう)し、わずか1時間前にラマ僧らは葛根廟を離れてしまう。そこへソ連軍の戦車軍団が牙を剥(む)いて襲いかかったのだ。

さらに悲惨だったのは開拓団の農民(約27万人)であろう。多くが、ソ満国境に近い僻地(へきち)にいた上、情報の伝達も遅れた。“見捨てられた”に等しい人々は自力で逃げるしかなく、ソ連軍や匪賊(ひぞく)に襲われ、あるいは伝染病や集団自決などで約8万人もの人たちが命を落としたのである。

 興安街の近郊5キロにあった「東京荏原(えばら)開拓団」は終戦前の“根こそぎ動員”で成人男子の多くを召集で奪われ、老人や女性、子供ら主体の約800人で逃げる途中に匪賊に襲撃され、大半が死亡した。やはり近郊にあった満州国立農事試験場興安支場の集団では、逃避行中に追い詰められ、幼子約20人を自ら射殺する悲劇も起きている。

 同じ興安街や近郊から避難しながら、8月中に日本へたどり着けた人がいた一方で、藤原一家のように興安街からは逃げ出せたものの、国境の街に長く閉じ込められた者、シベリアへ抑留されたり、親を亡くして残留孤児になった者。そして命を奪われた、おびただしい数の人たち…。

■飲み込んだ言葉
 葛根廟事件の悲劇を知った後、藤原は取材で、まだ存命だった関東軍の元参謀に会う。

 元参謀は「(住民らを置き去りにして関東軍や軍家族は先に逃げた、といった)批判は甘んじて受ける。ただ、軍人は命令に従うしかない」とだけ話した。後退は大本営の方針であり、軍の機密を軽々に伝えることはできなかった。さらには、主力を南方にとられ、もはや戦う力がなかったのだ、と言いたかったのかもしれない。

 「それにしてもひどいじゃないかっ」。藤原はのどまで出かかった言葉を飲み込んだ。“助かった者の後ろめたさ”が、どうしても消えなかったのだ。

戦後、藤原は慰霊のために現地を度々訪問し、自分がその立場になっていたかもしれない残留孤児の来日の際にはボランティアを務めている。日銀副総裁を打診されたとき「任にあらず」と感じつつ重責を引き受けたのも「生かされた身。お国のためにご奉公をしなければならない」との思いからだった。

 葛根廟事件に代表されるように関東軍の後退は、結果として数え切れない一般住民の悲劇を生んだ。

 だが、すべての部隊がそうだったわけではない。独自の判断で「奇跡の脱出」と呼ばれた在留邦人の救出を成功させた部隊があった。それを次回に書く=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

娘の首に刀を…「ごめんね、母さんもすぐに逝くからね」 ソ連軍に蹂躙された「葛根廟事件」

【満州文化物語(10)】2015.11.8 産経新聞

■世界遺産にふさわしい
 日本人として決して忘れてはならない歴史の事実がある。例えば、先の大戦でソ連(当時)がわが国に対してやったことだ。

 昭和20(1945)年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して旧満州、千島・樺太へと侵攻してきたソ連軍は、日本の民間人に対して殺戮(さつりく)、略奪、レイプの非道極まりない行為を容赦なく繰り返した。

 領土的野心を剥(む)きだしにしたソ連軍は8月15日以降もひとり戦闘行為を止めない。ポツダム宣言に背き約60万人の日本人をシベリアへ連れ去り、酷寒の地でろくな食事も与えず、重労働を強制し、約6万人を死に至らしめた。人権への配慮などかけらもない所業。「世界遺産」として、人類の記憶にとどめておくのに、これほどふさわしいものはないではないか。

 それだけではない。8月22日、樺太から北海道への避難民を満載した小笠原丸など3隻が留萌沖で国籍を秘した潜水艦の攻撃を受け、約1700人が犠牲になった。ほとんどが女性や子供、お年寄り。日本の船は民間船であることを明示していた。魚雷攻撃で冷たい海に投げ出され、波間に漂う人たちを、あざ笑うかのように機銃掃射でとどめを刺したのである。

■何度も死を覚悟
 満州の北西部を貫く大興安嶺の山脈と広大な草原。満州国時代、モンゴル(蒙古)人が多いこの地域に、興安総省が設けられ、総省公署(役所)が置かれたのが、「興安街(こうあんがい)」(現中国・内モンゴル自治区ウランホト)であった。

終戦時の在留邦人は約4000人(周辺地域を含む)。8月14日、このうち約1000人の民間人が興安の南東約40キロのラマ寺院、葛根廟(かっこんびょう)近くでソ連軍の戦車十数両に蹂躙(じゅうりん)されて虐殺。あるいは絶望しての自決によって亡くなった。助かったのはわずか百十数人。親を殺された30人あまりは残留孤児となった。「葛根廟事件」である。

 大島満吉(79)はそこで生き地獄を見た。何度「死」を覚悟したか分からない。当時、国民学校(小学校)4年生。両親と兄、弟、妹の6人家族で、興安街から徒歩で南へ向かって避難する途中だった。

 14日正午近く、真夏のギラギラとした陽ざしが照りつけていたのを覚えている。「戦車だっ!」。避難民の隊列の戦闘付近にいた満吉は、後方から叫び声を聞く。くもの子を散らすように逃げ出した避難民の後から、轟音(ごうおん)を響かせて追いかけてくるソ連軍の戦車群が見えた。

 「キャー、逃げろ!」。ドーン、ドカーン…日本人の悲鳴をかき消すように戦車砲が炸裂(さくれつ)する。地鳴りのようなキャタピラの音。ダダダっ…機銃や自動小銃の発射音が鳴り止まない。母らと一緒に近くの壕(ごう=自然にできた大きな亀裂)の中へ飛び込んだ満吉は銃を持った人影を見た。

 「日本兵が助けにきてくれたのかと思ったら、ソ連兵だったのです。私の背中のすぐ後ろで、日本人に向けていきなりダダダっと自動小銃を発射しました。ギャーという悲鳴、ブスブスっと銃弾が体に食い込む音…あっという間に30人ぐらいが殺されました」

■悲しき最後の晩さん
 終戦間際、満州では南方へ転身していた関東軍の兵力を穴埋めするために、一般の多くの成人男子が「根こそぎ動員」で軍隊に召集されていた。葛根廟事件に遭遇したのはほとんどが、女性や子供、お年寄りである。武器はわずかな成人男子が小銃などを持っていただけ。その“弱者集団”を戦車が虫ケラのように踏みつぶし、砲や自動小銃で撃ち殺したのだ。

 絶望した避難民は、青酸カリをあおったり、互いに短刀を胸に突き刺したり、わが子の首をヒモで絞めて自決する人たちが相次ぐ。壕の中には母親と満吉、6歳の弟と2歳の妹…。覚悟を決めた母親は妹の首にいきなり刀を突き立てた。「ごめんね、母さんもすぐに逝(い)くからね」。鮮血があふれ、妹は声も出さずに死んでいった。泣きながら小さな顔に頬ずりをして、手を合わせた母の姿が忘れられない。

 国民学校の校長先生の子供たちがいた。両親はすでに亡い。ひとつ年上の長女から声を掛けられた。

 「『最後の晩さん』をしましょう、って。荷物の中にあったそうめんや角砂糖を出してきて一緒に食べました。味なんかしなかった。ああこの世の別れなんだ。『死にたくない』って思いましたけれど…」

 満吉の前に十数人の列ができていた。日本刀を持った在郷軍人に刺し殺してもらうのを順番に待っているのだ。 

 そのとき、離ればなれになっていた父親とひとつ上の兄が突然、壕に姿を見せる。「お前たち、生きてたのか! 随分、探したんだぞ。さあ立て、こんなところで死ぬことはない」。父親の大声が響いた。

だが、母は動こうとしない。「あたしは行けないよ。(娘が死んだ)ここに一緒に残るんだ」。父親は母の体を引きずるようにして無理やり立たせた。「終わったことは仕方がない。さあ逃げるんだっ」。

■生涯消えない記憶 
 大島一家は、葛根廟から新京(現・中国長春)へと逃れ、妹を除く家族5人が奇跡的に助かった。

 だが、極限の状況の中で自分の子を手に掛けねばならなかった母の悲しみ、苦しみは生涯消えることはない。戦後、満吉は9回、現地を再訪したが、生前の母は決してその地を訪れようとはしなかった。

 「最後の晩さん」をともにした校長先生の長女はその後、病死。4人兄弟のうち、ひとりだけが、残留孤児になって来日を果たしている。国民学校270人の児童のうち、実に約200人が亡くなった。

 同じ興安街の住人、同じ国民学校の児童でありながら、1日の遅れ、いやわずか1時間の差が彼らの生死を分けてしまう。

 あまりにも残酷な運命を戦後遅くなって知った人もいる。葛根廟事件は、助かった者にも「重い十字架」を背負わせた。それは次回に書く。

=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

極寒の重労働への怒り、80人超の同期生を失う悲しみ染み込む「セメント袋歌集」 シベリア抑留者の慟哭…


【満州文化物語(18)】2016.2.28 産経新聞

 粗末なセメント袋をほどいて作った歌集が残っている。載っているのは『スターリン賛歌(さんか)』や『民族独立行動隊の歌』などの革命歌、労働歌。シベリア抑留者が使ったものだ。

 歌集をひそかに持ち帰ったのは満州国陸軍軍官(士官)学校7期生、小池禮三(れいぞう、88)。「共産主義に染まったアクチブ(収容者の活動家)から『赤旗の歌が歌えないと日本に帰さない』と脅されて、懸命に覚えたものでした」

 小池は一度、酷(ひど)いやり口で絶望を味わっている。ブカチャーチャという炭鉱の収容所(ラーゲリ)で約3年間、強制労働に就かされた後、「日本への帰国」を告げられ、船が出るナホトカまで来たというのに「船が来ない」という理由で別の収容所へUターン。落胆はあまりに大きかった。

 小池はそこで、日本語がペラペラのロシア人政治部将校が主宰する「反ファシスト委員会」の学習会に参加することを命じられる。マルクス・レーニン主義を3カ月間叩(たた)き込まれた。

 小池は、洗脳されたふりをして、さらに1年間必死で耐え抜く。“セメント袋の歌集”には酷寒の地で重労働を強いられた怒りと、10代の少年にすぎなかった80人以上の同期生を抑留中に喪(うしな)った悲しみがたっぷりと染みこんでいた。

■特攻を前に遺書を書く
 昭和20年8月9日未明、ソ連軍(当時)が150万の大軍で満州へなだれ込んできたとき、小池ら7期生の日本人生徒約370人は首都・新京(現中国・長春)にある軍官学校で泥のように眠り込んでいた。
前日夜半に、3日間の耐熱行軍から戻ったばかり。大雨に降られ、くたくたに疲れて寝床に入ったところを「非常呼集」の怒声でたたき起こされた。

 「新京が空爆を受けているらしい」。にわかには信じられなかった。満州はほんの少し前まで空襲もめったになく、食料や物資欠乏がひどい内地よりも安全で快適な土地だったのだ。軍官学校に残っていたのは、約8カ月前に満州へ来た7期生の日系と満系(中国人)の生徒らだけ。1期上の日系6期生は約1カ月前に陸軍士官学校などへ進むため内地へと戻っている。

 小池は、「ソ連参戦の情報を私たちはまったく知らなかった。戦況の悪化で関東軍主力が南方へ転出させられているとは聞いていたけど、日本が負けるなんて思いもしなかった」

 満州と彼らの運命は暗転する。実戦経験など皆無の少年たちは、いきなりソ連軍の大部隊を迎え撃つ最前線へと放(ほう)り出された。塹壕(ざんごう)掘りを命じられ、「戦車が攻めてきたら爆雷を抱いたまま飛び込むのだ」と…。死ぬことを前提にした特攻作戦である。もはや届くはずもない遺書を書き、抽斗(ひきだし)にしのばせた。

 一方、日本の敗色濃厚を察知した満系の軍官・生徒は逃亡や反乱に動き出す。新京の満州国軍は、空中分解したまま終戦を迎え、日系の軍官・生徒は、ソ連軍に武装解除される。そこで生死を分かつ「運命の分かれ道」があった。

■離脱か、残留か
 20年9月初め、新京郊外・南嶺の旧軍兵舎でソ連軍の監視下に置かれた軍官学校の日系生徒約370人は「究極の選択」を迫られていた。シベリアへの移送は始まっていないが、前提となる作業隊の編成をソ連側から急(せ)き立てられている。動くなら今しかない。

 「満州に係累のある者は離脱を認める」

 学校幹部から“お触れ”が出された。新京に知人がいた7期生の西川順芳(のぶよし、87)は渡満前に大叔父の内田信也(のぶや=東條内閣の農商務相)から聞いた「シベリア抑留」の話が頭をよぎり、離脱を決意する。「冬用の背広に着替え、一般人のふりをしてソ連兵の監視をすり抜けた。トランクには軍服が入っていて、中国人警官に見咎(みとがめられたときは冷汗が流れた」

 離脱組は約60人。新京の知人宅に潜んでいた西川が翌21年4月、中国の国共内戦に巻き込まれるのは、以前書いた通りである。

 小池は残った。「そのときはまさか“シベリア行き”とは思いもしない。貨車に乗った後もソ連兵は『東京ダモイ(帰還)』を繰り返していたから先に内地へ帰るのは(離脱組ではなく)私たちの方だと…」

 酷寒の地で小池らを待っていたのは想像を絶する「地獄」だった。

■肥料まで食べさせられ
 7期生の抑留者は2つの収容所に分けられる。約230人がチタ州のブカチャーチャへ、約80人はイルクーツクだった。80人以上の死者の大多数はブカチャーチャに集中している。ほとんどが病死だった。
小池は、10月2日にブカチャーチャの収容所に着く。約2500人いた日本人収容者の中で、17、18歳の軍官学校生徒は最も若い。“人間扱い”なんてされなかった。「珍しくスープに魚が入っていると喜んだらあまりに渋くてのどを通らない。袋を見たら昭和2年製。つまり、『肥料』になっていた魚を食べさせられたのですよ」

 最初の冬にシラミを媒介にした発疹チフスが大流行する。40度以上の高熱、脳症…大人になりきっていない若い体から、あっけなく命を奪ってゆく。遺体から衣服をはぎ取り、土と雪を被(かぶ)せるだけ。朝起きるとまたひとり、ふたりと硬くなっている…。

 小池の引き揚げは24年9月。引き揚げ後も苦労は続いた。“アカ”に染まったのではないか、と疑いの目で見られ、刑事が思想のチェックにやってきた。外地からの引き揚げ者を対象にした大学編入の特例措置はすでに締め切り。20歳過ぎが「新制高校2年生からやり直せ」といわれれば、進学を諦めるほかはない。

 ようやく地元の金融機関に職を見つけたときの採用条件は「絶対に赤旗を振らないこと」。シベリア抑留経験をやっと打ち明けられたのは“平成の時代”になってからという。

 せめて母を、故郷を想いながら死んでいった友の最期の様子を家族に伝えたい、とも思うが、どうしてもできなかった。

 「申し訳ないと思う。だけどやっぱり後ろめたい気持ちが消えないんですよ。私は生きて日本に帰ることができたのですから…」=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

満州国軍の日本人軍官…「軍再興」が幻に終わったのは-


【満州文化物語(17)】2016.2.14 産経新聞

 満州国軍(終戦時兵力15万)の将校を養成する軍官(士官)学校に在籍した日本人の秘話を今回も書く。

 五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成された満州国軍だが、日本人は幹部のみ。新京(現中国・長春)に昭和14(1939)年、設立された軍官学校も日本人は独自の試験がなく、内地の陸軍予科士官学校などの志願者から選抜されていた。

 しかも、日本人は満州で予科を終えた後、本科は全員が内地の陸士、経理学校、航空士官学校へと戻り、日本軍の幹部候補生とともに学ぶ。

 この制度によって、多くの少年たちが思いもしなかった「満州(国軍)行き」を提示されながら、大陸へ渡る道を選んだ。

 だが、満州国が13年で“うたかた”のように消えてしまったとき、運命と片付けるには残酷すぎるわずかな差によって、10代、20代の若者の生死が分けられてしまう。

■関東軍総司令官に直訴
 終戦の約2カ月前…。
 満州国陸軍軍官学校6期生の金川信常(かねかわのぶつね、88)や山崎啓史(ひろし、88)ら7人は、新京にある西洋の城を思わせるような関東軍(日本軍)総司令官、山田乙三(おとぞう)大将の官邸前に立っていた。

 19年1月に軍官学校に入校した彼らは予科の卒業が近い。本科は内地の(日本軍の)陸士などへ進む約束だが、戦況は厳しく、6期に限って「中止」の噂が飛び交っていた。そこで期の代表7人が悲壮な決意を胸に、満州における日本軍の“総大将”に直訴すべく、やってきたのである。

 結局、総司令官の山田は出張中で、副官に用件を伝えたが、苦り切った口調でこう言い放たれた。

 「話は聞き置く。だが、これは問題だぞ!」

 当然だろう。この行動は「軍の規律」を大きく逸脱していた。満州国軍の学校に属する彼らにとり、いくら緊密な関係にあるとはいえ関東軍は外国の軍隊である。しかも、直属の上官である軍官学校の区(小)隊長や校長には何ひとつ打ち明けていない。

金川は言う。「退校処分は覚悟していた。やむにやまれずの行動だったが、区隊長や校長には随分、迷惑を掛けたと思う」

 心情は分からないでもない。彼らはもともと、日本の陸士を志願していたのである。満州国軍へ回されたものの「本科は陸士で学べる」という制度をよすがにしていた生徒も多い。しかも、同じ6期生のうち航空兵科だけは一足先(20年3月末)に内地の陸軍航空士官学校へ進んでいた。

 そのひとり、和田昭(あきら、88)は同期の「直訴事件」を聞いて仰天する。「大変なことをやったもんだ。普通なら命はない」

 だが、金川らは営倉(えいそう=懲罰房)入り1週間の軽い処分で済んだ。そして終戦約1カ月前の7月、陸士行きが認められ、内地へ渡る希望がかなったのである。

 なぜそうなったか? 軍官学校1期生で当時、6期生の“担任”というべき区隊長を務めていた佐藤文虎(ぶんご、94)は、「(6期生の言い分に)理があったからでしょうね。本来、内地(陸士)へ行かせるのが正しい道なのだから」

 かくして、6期生の日本人生徒約200人は、ソ連軍(当時)の満州侵攻(20年8月9日)直前に内地へと去り、満州には約8カ月前に来たばかりの7期生約370人が残された。

■発案者は建国大幹部?
 7期生とともに新京の軍官学校に残っていた佐藤はソ連軍の満州侵攻、15日の終戦の詔勅(しょうちょく)の混乱の中で妙な誘いを受ける。この時点で、まだソ連軍主力は新京に到達していない。

 「満州国軍の日本人軍官(将校)は『ソ連軍が来たら大変な目に遭う。兵器を持って南へ向かい、朝鮮国境付近で新たな拠点を作るべきだ』と誘われた。発案者は(満州国立の)建国(けんこく)大学の日本人幹部(軍人)だと後に聞きました」

結局、軍官学校からは佐藤ら3人が誘いに応じ、翌16日朝、兵器や食糧などを満載した大型トラックに分乗し、南へ向かう。ところが折からの豪雨で、トラックが立ち往生。同日夜、新京からわずか約50キロ進んだだけで頓挫してしまった。

 このとき、7期生の少年たちにも誘いがあったが、軍官学校幹部が頑として応じなかったという。満州国軍日本人軍官による軍再興計画は「国共内戦」とも絡み合って翌年までくすぶり続けたが、形をなさないままついえてしまう。

 「もともと杜撰(ずさん)な計画だったんだと思う。あのまま南へ向かって(抵抗して)いたら、おそらく皆が殺されていたでしょうね」

 佐藤らは仕方なく新京へ戻ったが、無断で戦線離脱したことが問題になる。上官からは「軍法会議にかけられたら死刑は免れまい。そうなる前に自決せよ」と脅され、短銃を使って練習までさせられた。

 だが、もはやそんなことに構っている余裕もなかったらしい。間もなくソ連軍による武装解除。佐藤や7期生の少年らは、シベリアへと連行された。

■「助かった者」の苦悩
 一方、直訴までして内地の陸士へ行った6期生は兵科ごとの疎開先で終戦を迎える。長野県にいた山崎は満州に残った7期生らの苛酷な運命を知らない。

 「詳しい情報がずっとなくてね…。私は7期生の(兄貴分というべき)指導生徒をしていたから、彼らだけを満州に置いて帰ってきて『面目ない』という気持ちが消えなかった」

 元は陸士からの“回し合格”によって、さらには終戦前後のわずかな差で交錯した運命である。シベリアに抑留された、まだ10代の7期生は80人以上が酷寒の地で亡くなった。区隊長だった佐藤は20代の前半。約2年の厳しい抑留生活に耐え抜いて生還する。
再会と消息は、戦後約10年、軍官学校出身者による「蘭星(らんせい)会」の正式発足を待たねばならなかった。6期生の金川は「同期でも満州に残った軍医・獣医生徒は多くが戦死している。私たちは、結果としてギリギリで命拾いした。申し訳ないとしか言えない」

 ソ連参戦によって暗転した満州の戦争は、助かった者にも苦悩を背負わせることになる。

=敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)

日本「陸士」受験したが、満州国軍に 運命変えた“回し合格”…

【満州文化物語(16)】2016.1.31 産経新聞

 満州国は昭和7(1932)年3月の建国から、わずか13年で“うたかた”のごとく消えてしまう。国の理念である五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成されていた満州国軍も、20年8月、ソ連軍(当時)の満州侵攻を知るや、満系(中国人=満、漢)、蒙系(モンゴル人)に反乱や逃亡が相次ぎ、空中分解した。

 日本人の将校・軍官学校(士官学校)生徒のほとんどがシベリアに抑留され、辛酸をなめたことは、すでに書いた通りである。

■元韓国大統領も在籍
 その五族で構成されていた満州国軍の軍官学校はユニークな学校だった。

 首都・新京(現中国・長春、日系=日本人と当時、日本統治下にあった朝鮮人=と満系が所属)と興安街(同ウランホト、蒙系)に2つあり、戦後、韓国の大統領になった朴正煕(パクチョンヒ、2期生)や満州国皇帝、溥儀(ふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)も終戦間際、日本の陸軍大学校を経て予科生徒隊長(満州国軍中校=中佐)として在籍していた。

師範学校、教師などを経て20代で軍官学校に入った朴は、成績優秀者として日本の陸軍士官学校へ留学。その後、満州国軍の将校となって終戦を迎えている。

 一方の溥傑は、ソ連軍侵攻直後に全校生徒を集めて日本語で特別訓示を行い、「新たなる敵(ソ連軍)を撃滅することこそわれわれの任務。最後の勝利を確信して訓練の成果を発揮せよ」とげきを飛ばした。

 五族のうち、日系生徒は少し扱いが違う。予科の2年間(戦争末期には短縮)を新京で過ごした後、本科は内地の陸士などで学ぶ(軍医・獣医生徒は除く)システムが採られていた。

 入校の経緯も面白い。彼らは満州ではなく、内地の出身で、そもそも満州国軍に入るつもりなどなかった。というよりも、日本人を対象にした満州国陸軍軍官学校採用試験は初めからなかったのである。

 彼らは、日本の陸軍予科士官学校(経理学校を含む)受験者から推薦されていた。“回し合格”というべき制度だが、陸士の合格点に達しなかった訳ではなく、優秀な人材の確保や共同作戦にあたる日本軍との一体化を図る狙いがあったとされる。この制度は、戦後までほとんど知られることがなかった。

■何かの間違いだろう?
 だが、たとえ第1志望ではなくとも、思いもよらなかった満州国軍であっても彼らは夢を抱き、「お国のため」と喜び勇んで大陸に向かった。それが運命を劇的に変えてしまう。

 満州国陸軍軍官学校、最後の期となる7期生の小池禮三(れいぞう、88)は、日本の陸士試験の身体検査で、「胸に影がある」と診断されて帰された。

 「剣道2段で、健康には自信があったから『何かの間違いでしょう』とフンドシ姿で2時間も粘ってみたが、ダメだった。しばらくして、陸軍省から『満州国(陸軍軍官学校)に推薦する。応否を連絡せよ』という通知が来たのです」

 同じ7期生の茨木治人(はると、89)は、主計将校などを養成する陸軍経理学校を受験していた。

 「(合格には)絶対の自信があって『私の合格電報を忘れていませんか?』と校長宛に手紙を出したくらい。すると『あなたは満州に推薦してありますから』と返事が来た。母親は反対したけど、僕は満州にあこがれていた。すぐに行く気になりましたね」

■「日本は負ける」に反発
 やはり7期生で、21年4月の「国・共」による中国内戦に国民党軍少尉として参加した西川順芳(のぶよし、87)は19年に日本の陸士を受験したとき、まだ15歳だった。神奈川・湘南中学(旧制)の4年生。満州・軍官学校への推薦を打診されて、「満州国軍に尽くすことが日本のためにもなる」と素直に喜んだ。

 だが、両親や親類が反対。特に強硬だった母親は説得のため、西川の大叔父で、東條内閣の農商務相や貴族院議員を務めた内田信也(のぶや)の所へ連れていく。

 内田は終戦1年前の段階で、日本が置かれている状況を正確に掴(つか)んでいた。すでに敗戦は必至であること。来年(20年)夏か遅くとも秋には満州へソ連軍が侵攻してくること。満州国は崩壊し日本人は帰って来られなくなること。さらには、軍人はシベリアへ連行されるであろうことまで並べ立てて、西川の渡満を止めたのである。

軍国少年だった西川はムキになった。「(内田は)『満州へ今から行くなんてバカだ』と言う。それが悔しくて、『おじさん、もう一度そんなこと(日本が負ける)言ったら、憲兵隊に言い付けますよ』と言い返してしまった」

 15歳の少年にそこまで言われた内田は匙(さじ)を投げた。「バカモン! もう勝手にするがいい」

■渡満8カ月で敗戦
 こうして集められた10代の軍官学校7期生(軍医・獣医生徒を含め約370人)は19年暮、東京・九段の軍人会館(現九段会館)に集合。鉄道と船を乗り継いで新京へと渡る。一足先に満系の同期生約500人は入校しており、颯爽(さっそう)と行進する姿に1期上の先輩と勘違いしたという。

 まだ、満州には戦争の影すらない。旧制中学を出たばかりの予科生徒である彼らは、たまの休日に新京在住の郷里の知人宅を訪ね、和食をたらふくご馳走(ちそう)になるのが楽しみだった。

だが、ソ連軍侵攻ですべてが暗転してしまう。その約1カ月前、1期上の日系6期生が陸士での本科へ進むため、内地へ去っている。だから、ソ連軍侵攻時に日本人生徒として残っていたのは8カ月前に満州へ来た7期生だけだった。

 実戦経験などまったくない彼らが突如、新京防衛の部隊に組み込まれ、敵の圧倒的兵力の前に「死」を覚悟する。そして、なすす術もなく武装解除、シベリア抑留…同期生のうち、80人以上が祖国へ帰ることなく無念の死を遂げた。

 21年夏に日本へ引き揚げた西川は、大叔父の内田と再会し、頭を下げるハメになった。「おじさんの言う通りだった」と…。
=敬称略、隔週掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

朝鮮出身者はエリートだった 満州国軍軍官学校で「日系扱い」に

エリートだった朝鮮出身者
【満州文化物語(30)特別編】2016.8.21 産経新聞

 満州国軍の兵力は約15万(終戦時)。建国時(昭和7年)に交わされた日満議定書で満州国の国防は日本軍(関東軍)に委託されており、満州国軍は補佐的に一翼を担うことになる。

 当初は張学良配下の旧東北軍などの軍閥、日満混合の靖安(せいあん)遊撃隊ら雑多なメンバーで構成されていたが、自前で士官(満州国軍では軍官と呼んだ)を養成する軍官学校を設立し、軍隊としての体裁を整えてゆく。

 もちろん日本が“首根っこ”を押さえる形ではあった(日本人は指揮官のみ)が、軍官学校は満州国を構成する5族(日、満、漢、鮮、蒙)すべてを受け入れた。日本人軍官の上官に中国人が就(つ)いたり、モンゴル人騎兵部隊を日本人指揮官が率いるユニークな軍隊になったのである。

■日本陸士を受けたが…
 満州国の首都新京(現・中国長春)に創設(昭和14年)された陸軍軍官学校には、5族のうち蒙(モンゴル人)を除く4族が在籍。漢、満族と生活習慣などが相いれない蒙族のみ、彼らの居住地域にあった興(こう)安(あん)(こうあん)軍官学校で養成された。

 新京の軍官学校においても日系と満系(漢、満)との区別(選考方法や所属区隊)はあった。その中で日本統治下の朝鮮出身者(鮮系)は1期~6期まで満系に加えられていたが、19年12月入校の最後の7期は日系扱いに変わった。

 この変更は5族協和を謳いながらも、日本が厳然と頂点に君臨する満州国のヒエラルキー(階層的秩序)に微妙な変化をもたらす。国軍内では「鮮系がその次になった」と見る向きもあったからである。
 同時に鮮系志願者の選考制度も変わった。たとえば、韓国大統領になった2期生の朴正煕(パクチョンヒ)は満州国軍の試験を受けて入校しているが、7期生は日本人志願者と同じく日本の陸軍士官学校(予科)などを受験した中から“廻(まわ)し合格”というべきシステムで軍官学校の門をくぐっている。

 金光植(キムグァンシク、88)はそのひとりだった。
 昭和2(1927)年、日本統治下の朝鮮南部・麗水(ヨス)近郊に生まれた金は光州西中学(旧制)へ進み、成績優秀者だったがゆえに教師や配属将校から日本陸士予科の受験を勧められる。軍人としてはエリート中のエリート。極めつきの「狭き門」だが、朝鮮出身者に道が閉ざされていたわけではない。洪思翊(ホンサイク=陸軍中将・陸士26期、フィリピンで戦犯として処刑)のように陸軍大学校へ進み、将軍に登り詰めた人もいた。
「(朝鮮でも徴兵制度が始まり)いずれ兵隊にとられる。軍学校へ行けば勉強ができるし、その間に戦争が終わるかもしれない。ただ積極的に志願したわけではなく、配属将校や先生に言われるがままだった」

 19年5月、金は地元で行われた日本陸士予科の試験を受ける。同じ中学から受験した朝鮮出身者は10人。このうち学科試験をパスした金ら4人が、京城(現・韓国ソウル)へ向かい、朝鮮軍司令部で身体検査・口頭試問を受けた。

 ところが、しばらくたって届いた通知は、思いもしなかった「満州国陸軍軍官学校に推薦する」。同中からの合格者は結局、金ひとりだけだった。満州には縁もゆかりもない…。
一方で“廻し合格組”のプライドをくすぐる制度があった。予科は満州の軍官学校だが、本科へ進むときは日本の陸士で、予科から陸士に進んだ生徒と同じ教育を受けられる(軍医、獣医専攻は除く)。満州国陸軍軍官学校5期生なら日本陸士59期相当、同6期生→同60期相当である。トップエリートだった日本陸士組とそこで肩を並べることができるというわけだ。
 19年12月、17歳になったばかりの金は、酷寒の満州に向かう。

■多かった北の出身者
 満州国陸軍軍官学校に在籍した1期から7期までの鮮系生徒は全部で48人。同期間の日本人生徒は約1400人だから鮮系生徒がいかに選び抜かれたエリートであるか分かるだろう。

 鮮系48人のうち、日本陸士(本科)留学組は34人である。その制度は時代によって揺れ動く。軍官学校の前身、中央陸軍訓練処(奉天)時代には5期の丁一権(チョンイルグォン=後に陸軍参謀総長、首相)は日本陸士へ進み、55期相当になっているが、9期の白善●(=火へんに華)(ペクソンヨプ=朝鮮戦争の英雄、韓国軍初の陸軍大将)のときは陸士への留学制度自体がなかった。

 そして、軍官学校2期の朴正煕のように鮮系は成績優秀者のみ(朴は首席)、留学できる時代を経て、戦争末期には軍官学校の鮮系生徒ほぼ全員が日本人生徒と同じく、陸士本科へ進むシステムに変わる。

 ただし、6期までの鮮系生徒は、最初から満州国軍志望だった、ことを忘れてはならない。
丁も白もそうだが、彼らの出身地は朝鮮の北部(現在の北朝鮮地域)や朝鮮族の居住地だった朝満国境付近の間島(カンド)地域が多かった。地理的に近く、満州という地に親しみがあったのである。それは、新たな可能性を求める道でもあった。満州国建国(昭和7年3月)を機に起きた“満州ブーム”は日本人だけを突き動かしたのではない。日本統治下の朝鮮出身者もまた満州ブームに沸き、農地や仕事を求めて広大な新天地を目指したのである。

 満州国軍官学校のつながりは地域だけでなく「タテ」(先輩後輩)「ヨコ」(同期)も強かった。
 金光植が終戦直後、軍官学校日本人上官の機転によって危うくシベリア行きを免れ、鮮系先輩の手引きで丁一権率いる新京の「朝鮮保安隊」に加わるのは前回書いた通りである。

 京城に戻った後、軍事英語学校(後に韓国陸軍士官学校)に入ったのも、朝鮮戦争(1950~53年)のとき、いったん軍から離れていた金を呼び戻したのも満州人脈であった。軍官学校出身者は学校の所在地から「同徳台」と呼ばれ、韓国軍内の主要人脈のひとつとなってゆく。

 1961年5月、朴正煕が軍事クーデターを起こし、政権を奪取したときも多くの満州人脈が支えている。だが後には、少なくない軍人が大統領になった朴から疎まれ、失脚させられてしまうのだ。

              =敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩)

終戦翌年、中国の内戦に…「満蒙開拓義勇軍」の日本人少年が駆り出された背景とは?

【満州文化物語(15)】2016.1.17 産経新聞

 終戦から約8カ月が過ぎた和21(1946)年4月、満州国の首都だった新京(現中国・長春)をめぐる中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)の攻防戦が始まった。

 日本人の引き揚げはまだ始まっておらず、新京の知人宅に身を寄せていた満州国陸軍軍官学校7期生で、17歳の西川順芳(のぶよし)(87)は中国人同期生に引っ張り出され、国民党軍の少尉(小隊長格)になることを余儀なくされてしまう。

 西川は、自分の小隊の兵士として連れてこられた約60人の素性を知って驚いた。彼らも満蒙開拓青少年義勇軍=〈文末別項参照〉=の日本人少年だったからである。つまり、指揮官(西川)も兵士も「全員が日本人」だったわけだ。

 少年らは15、16歳。東北や北関東の農家の次男坊、三男坊が多かった。満蒙開拓団に加わるため、大望を抱いて渡満して間もなく終戦となり、ソ連軍(当時)侵攻後に国境付近から命からがら逃げてきたらしい。

 「僕(17歳)よりも年下で体も顔もあどけなく、本当の子供だったね。軍服などなく、開拓団の作業服みたいな格好そのまま。ただ、軍事訓練も受けていたから小銃の扱い方ぐらいは知っていたんです」

 なぜ中国の内戦に、開拓義勇軍の日本人少年までが駆りだされたのか?

 西川への参加要請は当時、国民党軍の主力が依然、南方にいて兵力、特に指揮官が不足していたからだ。西川は「重慶から来た少尉」という触れ込みで日本語の使用を禁じられ、中国語で指揮を行うことを命じられる。同様に国民党軍に加わった日本人の国軍・軍官学校出身者は複数いたが、先輩のひとりが日本人勧誘の“仕掛け人”だったことに気付く。

「少佐クラスの元満州国軍憲兵(日本人)で中国語はペラペラ、かねて満州国軍の満系将校とのつながりも強かった。私や義勇軍の少年を引っ張ってきたのは彼のアイデアでした。少年たちは食べ物にも事欠く避難生活だったから、この“仕事”に飛びついたんでしょう。軍隊に入れば飢えることはありませんから」

■敵方部隊にも日本人兵
 西川と開拓義勇軍の少年約60人による日本人部隊には旧日本軍の三八式小銃と1人80発の弾が支給され、新京駅近くの最前線の守備に就かされた。

 21年4月10日、夜明け前。突然、向かい側のビルの屋上から、西川らが土嚢を積んだ陣地に向けて擲弾筒(てきだんとう)が発射された。数発が着弾し、轟音を立てて炸裂したのを目の当たりにした少年たちは脅えたように震えている。まだ10代半ば、実戦経験などない。

 周囲が明るくなったころ、駅方面から別の轟音が聞こえてきた。その光景を見て西川は腰を抜かす。戦車1両と、黄色っぽい八路軍の軍服を来た20人ほどの兵隊が見えたからだ。

 「八路軍には戦車などない、と思っていたからね。よく見ると、それは日本軍の軽戦車だった。おそらく途中で鹵獲(ろかく)したのでしょう。(八路軍には)戦車を動かせる人間もいないから、操縦する日本兵ごと奪ったのだと思います」

 指揮官の西川とて、1年半ほど前に満州に来たばかりの17歳の少年である。戦車の登場に中国人のふりも忘れて、思わず日本語で絶叫していた。

 「解散だ! 逃げろ!」

 義勇軍の少年60人は、戦車を見て、くもの子を散らすように逃げた。それっきり消息はわからない。

同じ日、内地では女性に参政権が与えられて初めての総選挙が行われている。復興の槌音(つちおと)が高らかに響いていたころに満州ではまだ、日本人が中国の内戦を戦わされていたのだ。

■「最年少」の収容者
 そのころ、軍官学校の同期生のほとんどがシベリアの収容所へと送られ、地獄の底のような苛酷な環境で重労働を課せられていた。最初の冬(昭和20年~21年)を越せずにバタバタと死んでいったことは、前回も書いた通りである。

 茨木治人(はると)(89)は約80人の同期生とともに、バイカル湖に近い、イルクーツクの収容所へ送られ、鉄道建設工事に就かされた。「(同期生は)まだ17、18歳でしょ。回りを見渡してもそんな年代はいない、収容者の中でも一番幼いわけです。体力がなくて栄養失調になり、下痢が止まらなかった。同期生が一緒におり、励まし合えることはせめてもの救いでしたね」

 茨木は旧制浜松一中の出身。赤い夕日と広大な大地に憧れ、母親の反対を押し切って満州へ来たが、わずか8カ月で終戦。そのままシベリアへ抑留されてしまう。約370人同期生のうち、抑留で非業の死を遂げたのは80人以上。皆まだ10代の少年だった。

 戦後、茨木はシベリアでの遺骨収集に参加。今も語り部として祖国への帰還を果たせなかった同期生の無念を伝え続けている。

■軍再興の「夢物語」
 新京における「国・共の内戦」はあっけなく終わった。2方面から入城してきた八路軍はたった2晩で新京を制圧。国民党軍に加わった日本人将校の中には戦死者も出た。

 彼らの中には、国民党軍と手を取り合い、満州に残っていた国軍や軍官学校出身の日本人を集めて、もう一度、軍を再興しようという「夢物語」を描いていた者までいたという。

17歳の「国民党軍少尉」西川は、八路軍の追っ手を気にしながら、急いで「中国人」から「日本人」へ戻らねばならなかった。

 「申し訳なかったが、日本人居住区の住宅で“強盗”を働いた。拳銃を突き付けて背広と靴を要求。僕は軍服のままだったから相手は国民党軍の敗残将校だと勘違いしたでしょうね」

 背広姿に着替えた西川は公園の池につかって隠れながら何とか八路軍をやり過ごす。「国民党軍少尉」はたった3週間で終わり、手元には支度金の1千元(米半年分)がそっくり残っていた。=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

     
◇満蒙開拓青少年義勇軍
 満州経営の先兵となるべく内地から移住した10代半ば-後半の若者で構成され、昭和13年から20年までに約8万7千人が参加した。多くはソ満国境付近の辺境に入植した開拓団に入って、農業や警備に従事した。末期には「戦時要員」として関東軍や勤労挺身隊にも派遣された。ソ連軍との戦闘や自決、病気などによる死者は3割近い約2万4千人。満州全体の邦人死亡率(1割強)に比べても高い。

なぜ17歳の少尉は、終戦後も戦い続けたのか 「満州国軍」の真実

【満州文化物語(14)】2016.1.3 産経新聞

 今から70年前の昭和21(1946)年4月。終戦から約8カ月が過ぎた旧満州国の首都、新京(現中国・長春)で、17歳の「少尉」西川順芳(のぶよし)(87)は「新たな戦争」の最前線に立たされていた。

 前年の夏、日ソ中立条約を一方的に破って満州へ侵攻してきたソ連軍(当時)は、約60万人の日本人をシベリアへ抑留。日本人が築き上げた財産・設備を奪えるだけ奪った後、21年4月に新京から撤退してゆく。

 「跡目」を争ったのは中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)である。当時の中国を代表しソ連とも条約を結んだのは国民党だ。ところが“裏でつながっている”のは八路軍の方。しかも、重慶軍の主力はまだ南方にあり、戦うにも兵力が足りない。

 そこで、西川に声が掛かった。元満州国陸軍軍官学校(士官学校)7期生。昭和19年12月、16歳になったばかりの西川は神奈川・湘南中学(旧制)から4修(※旧制中学は本来5年間だが、4年でも上級学校の受験資格があった)で新京の軍官学校へ入り、大望を抱いて満州の大地を踏む。

ところが、わずか8カ月で終戦。五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成される軍官学校生徒は反乱や逃亡が相次ぎ、17、18歳の約360人の日系(日本人)生徒のほとんどはシベリアへ抑留されてしまう。

 満州に縁者がいた西川ら約40人は軍官学校幹部からシベリア行きの前に「離脱」を認められたものの、新京から出られない。知人宅に身を寄せ一冬越したたところへ満系(中国人)の軍官学校同期生が突然、訪ねてきたのである。

■今さらヨソの戦争に
 「お前、7期の西川だろう。一緒に来いっ」
西川に重慶からきた国民党の中国人将校のふりをして、小隊を率い、八路軍と戦え、というのだ。
 21年4月、新京の周辺はすでに八路軍が包囲していた。兵力が足りない重慶軍は旧満州国軍の元将兵も動員して対抗しよういうのである。だが、西川には同期といえ、その満系の生徒とは一面識もない。しかも、戦争が終わってすでに半年以上たっているのだ。

 「今さらヨソ(中国の内戦)の戦争になんて加わりたくなかった。だが、(戦争に負けた日本人の元軍人である)私が断れば密告されて、どんな目に遭うか…。従うしかない。後は条件闘争だった」

支度金は1000元(お米半年分)、階級は少尉、60人の部下をつけること…。重慶軍側は西川の条件を飲み、西川は小隊長格として重慶軍の軍服を着る。軍には、同じように参加した軍官学校の日系の先輩や同期が何人もいた。

 西川が言う。「参加した日本人それぞれ、断れなかったことや支度金にひかれたこと以外にも理由はいくつかあるでしょう。満州国軍の元同僚(満系)に『義』を感じて参加した。あるいは、その戦いに『日本再興』の夢を見ている人がいたかもしれません」

■最初の冬を越せずに
 同じころ、やはり10代の若者であった軍官学校の同期生(7期)の多くはシベリアの収容所で、最年少級の抑留者として「地獄」を味わっていた。

 零下40度、50度にも下がる酷寒の地。家畜のエサ並みのひどい食事で重労働に就かされる。事故や栄養失調、劣悪な環境で伝染病が蔓延(まんえん)し、「最初の冬(昭和20年~21年の冬)」を越せずに、次々と同期生の若い命が失われていった。

 軍官学校7期生、小池禮三(れいぞう)(88)は新京でソ連軍によって武装解除され、20年10月、チタ州ブカチャーチャの炭鉱にある収容所へ送られた。18歳。長野・諏訪中学(同)の出身。同じ所には約250人の同期生が収容されている。

「(満州国軍へ入るとき)一人息子だからオヤジが反対してね。でもあのとき(19年12月の入校時)は内地より満州の方が安全だと思われていたんですよ。終戦後、武装解除され列車に乗せられた後も、てっきり内地へ帰してくれるもんだと…。シベリアなど夢にも思わなかった」

 前年の冬に旧制中学などを出て満州へ来たばかりの7期生の体はまだ子供並みといっていい。さすがにソ連側も石炭を掘る仕事は無理と見たのか、小池ら7期生は掘った石炭を有蓋(ゆうがい)貨車に積み込む仕事を担当させられる。それとて辛い重労働だ。最初の犠牲者が出たのは20年の大みそか。積み込む作業中に足を滑らせた同期生が石炭に埋まるようにして死んでいた。

■母を思い逝った友
 それは「悲劇」の序章に過ぎない。その冬、シラミを介在した発疹チフスが大流行する。大人になりきっていない幼い体、粗末な食事に劣悪な環境。高熱を発し、下痢が止まらない。7期生の若者は治療も薬も満足に与えられないまま、バタバタと倒れてゆく。

 「重症者は(別の場所の)野戦病院へ送られたり、収容所内の病棟へ入れられたが、あまりにも患者が多すぎてほとんどはただ、寝ているだけ。下痢が止まらなくて便は垂れ流し、高熱が脳症を誘発し、気がおかしくなった者が続出しました。それはもう悲惨な状況でしたね」

小池には水戸出身の同期の最期が忘れられない。病床を見舞った小池に彼は、やせ細った体、消え入るような声で問うてきた。
 「東はどっちだ? 体を向けてくれないか」

 彼は、口の中で一言だけつぶやいた。

 「おかあさん…」

 翌朝、小池が再び見舞うと若者はもう冷たくなっていた。同じ18歳。水戸弁が印象的な男だった。どれほど故郷へ帰りたかったろうか。ひと目、愛しい母に会いたかったろうに…。

 ブカチャーチャの収容所では約250人の同期生のうち実に80人以上の若者たちが亡くなっている。

 一方、新京の最前線にいる西川は連れて来られた「部下」を見て驚く。彼らもまた10代の日本人の若者だったのである。さらには、敵として戦う八路軍の中にも日本人がいた。その話を次回に書く。=敬称略、隔週掲載。

(文化部編集委員 喜多由浩)

◇満州国軍
 昭和7(1932)年3月1日に建国された満州国の軍隊。同国の理念である五族(日、満、漢、鮮、蒙)によって構成され、総兵力は約15万(終戦時)。同年9月の日満議定書によって、日本軍(関東軍)との共同防衛を約し、同時に交わされた日満守勢軍事協定案で「第三国の侵略にあたって両国軍は日本軍指揮官による統一指揮で行動する」とされた。士官学校にあたる軍官学校は新京(日系、満系)と興安街(蒙系)にあった。

溝に転落し動けない母娘をメッタ刺しに…甦る“恐怖”の記憶

溝に転落し動けない母娘をメッタ刺しに…甦る“恐怖”の記憶
【満州文化物語(7)】2015.9.27 産経新聞

■最後の旧制「旅高」
 昭和25(1950)年に廃止された旧制高校は全部で35校しかない。入学できたのは同世代の約1%。総定員が帝国大学のそれとほぼ同じだから、旧制高校に入った時点で“帝国大学へのチケット”を事実上保証される超エリートだ。

 一高から八高までのナンバースクールから始まり、静岡、松本、大阪など地名を冠した学校、さらには成蹊、甲南などの私立高ら内地(日本)に33校。外地につくられたのは、旅順高(関東州)と台北高(台湾)だけである。

 旅順高は昭和15(1940)年、最後の官立高等学校、外地では2番目として、日露戦争の激戦の地であり、軍港と学術都市の性格も併せ持つ旅順に開校した。通称は「旅高(りょこう)」。ここへ満州・関東州各地から秀才が集まってくる。

 1回生には、寮歌(逍遙歌)『北帰行(ほっきこう)』の作者でTBS常務を務めた宇田博(うだひろし)や『アカシヤの大連』で芥川賞をとった作家、詩人の清岡卓行(きよおかたかゆき)がいた。宇田は父親が奉天農大の学長で新京にあった満洲建国大学予科を経ての入学、清岡は大連一中(旧制)の出身だが、2人はともに旅順高を中途退学して一高(東京)から東大へと進んでいる。

 旅順高が存在したのは、たった6年弱(6回生)でしかない。内地の高校が昭和25年3月まで命脈を保ったのに対して、外地の学校は終戦後しばらくして閉鎖を余儀なくされたからだ。

■恐怖で動くこともできず
 藤田康夫(やすお)(91)は旧制の撫順(ぶじゅん)中学から旅順高の3回生として入学している。京都帝国大学工学部土木工学科に進み、戦後は河川工学が専門の技術官僚として要職を歴任した。もし日本の敗戦がなければ、満鉄の幹部技術者になった可能性もあっただろう。

 父親の政一(まさいち=昭和19年59歳で死去)は満鉄が経営する撫順炭鉱(礦)に勤めていた。自宅は、日露戦争の英雄、東郷平八郎から名前を採った東郷採炭所の社宅。昭和7(1932)年、日本政府が満州国を承認した日を狙って抗日ゲリラ、匪賊(ひぞく)の大軍が炭鉱を襲った「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」(同年9月15~16日)が起きたときは撫順・永安小学校の2年生。父親の友七郎(ともしちろう)が、楊柏堡の診療所の責任者を務めていた濱口光恵(はまぐちみつえ)(91)とは、幼稚園、小学校の同級生である。

 東郷は楊柏堡事件で激しい戦闘が行われた場所である。銃や槍(やり)、太刀、油に火を放って襲撃してくる抗日ゲリラらに、炭鉱職員の在郷軍人らでつくる防備隊や自警団は懸命に防戦した。藤田の父親も長男の康夫に「お母さんを頼むぞ」と声を掛けて職場へ向かう。母と姉、康夫が残された。

 「『ワーワー』と勝ちどきを上げる匪賊の大声が窓越しに聞こえてきた。とっさに母と姉が部屋の畳を窓に立てかけて、防御体制を取ったのを覚えている。私は恐怖のあまり、腰が抜けてしまったようにずっと動けなかった」

 激戦は早暁まで続く。日本人は民間人5人が死亡。逃げ遅れた姑(しゅうとめ)を嫁が背負って逃げる際に誤って工事中の溝に転落、動けない母娘2人を匪賊が槍で容赦なくメッタ突きにし、姑が亡くなる(嫁は負傷)という残忍なケースもあった。

一方、抗日ゲリラ・匪賊側にも死者が出る。「翌朝、社宅の庭に(ゲリラの)死体が横たわっていたのを見た。腰にぶら下げたブリキ缶には油でぬらしたウエスがあり、『あれで放火するつもりだったんだ』と思うと、改めて恐ろしさが甦(よみがえ)ってきた」

■平頂山の負傷者も治療 
 福島市の学校法人「東稜学園」理事長を務めた小原満夫(90)は、最も奥にある老虎台の社宅にいた。ゲリラ・匪賊はそこへも迫ってくる。消費組合に勤める父親は夜中、銃声に気付くと、防戦のために飛び出していった。

 「家に残されたのは母と2人の兄。自宅の地下に掘った場所に隠れていた。夜中にそっと外へ出てみると、死体が折り重なっているのが見えたことが忘れられない」

 藤田、濱口、小原も当時、小学生だったが、記憶は驚くほど鮮明だ。それだけ恐ろしく、生々しい体験だったのだろう。惨殺された夫の死体を目の前にして、錯乱状態になった妻の姿もあった。濱口は「一生忘れられない。父が『気を確かに持って。あなた(妻)しか(夫を)確認できないんですよ』と懸命に支えていたそうです」

 翌9月16日、反撃に出た関東軍の独立守備隊は「ゲリラらに通じていた」として平頂山集落の住民ら多数を殺害する(平頂山事件)。だが、濱口の記憶にあるのは、父親が診療所で、満人と呼んでいた集落住民のけがの治療にあたっていた姿である。

■語られ続ける「反日」
 戦後、平頂山事件だけが虚実取り混ぜた反日プロパガンダとして語られ続けている(しかも、日本人の手によってだ)のに、きっかけとなった日本人殺害事件(楊柏堡事件)は、今もほとんど知られていないことは前回、書いた。

 しかも、戦犯裁判で平頂山事件とは無関係とされる撫順炭鉱の元炭鉱長ら7人が死刑になった。その名誉も回復されていない上、炭鉱労働者に苛酷な労働を強いた揚げ句、無数の死体を穴に捨てたという「万人坑(まんにんこう)」や「コレラ防疫惨殺事件」など事実無根の話まで拡散され続けている。

 これでは約40年にわたって営々と撫順炭鉱を築き上げた日本人はたまらない。たとえ「作り話」でも、いったん報道されてしまうと、別のメディアに次々と引用され続けてしまう。

 「(事件を体験した)私たちが声を上げて、『真実』を次代へ伝えないといけないんですよ」

 80年以上の時を経て、おぞましい記憶の封印を解いた濱口や藤田の思いはまさしくそこにあった。=隔週掲載、敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃

“反日プロパガンダ”に使われる「平頂山事件」の真実 語られぬ抗日ゲリラの撫順炭鉱襲撃
【満州文化物語(6)】産経新聞

■満鉄が作った未来都市
 「世界一の露天掘り」と謳(うた)われた撫順(ぶじゅん)炭鉱(礦)は、日露戦争(1904~05年)の勝利で採掘権を得た日本によって本格的な開発が始まった。良質の撫順炭の埋蔵量は約10億トン、ピーク時(昭和12年)の年間出炭量は約1000万トン。頁岩(けつがん)油(オイルシェール)、人造石油、金属、セメントなども生産する一大化学コンビナートであり、経営する満鉄(南満州鉄道)にとって鉄道事業と並ぶ収益の2本柱だった。

 満鉄はこの地に、当時の内地(日本)から見れば“夢のような未来都市”を築いてゆく。都市計画で整備された市街地には広い幹線道路が通り、学校、病院、公園、公会堂、野球場、プール、冬はスケート場ができた。

 社宅街は瀟洒(しょうしゃ)なレンガ造り。炊事はガス、トイレは水洗でタイル張り、電話はダイヤル式の自動電話。特筆すべきなのは画期的なスチーム(蒸気)による「地域暖房」だ。ボイラーから各戸にパイプを張り巡らし、外気が零下10度、20度にもなる真冬でも室内はポカポカ。熱い風呂はいつでも使用可能…。東京や大阪の大都会でもこうした生活が一般化するのは、高度成長期以降のことだろう。

 まだ初期の1909(明治42)年に渡満した夏目漱石が『満韓ところどころ』に撫順の街を見た驚きを書き留めている。《洒落(しゃれ)た家がほとんど一軒ごとに趣(おもむき)を異(こと)にして十軒十色とも云(い)うべき風に変化しているには驚いた。その中には教会がある、劇場がある、病院がある、学校がある。坑員(こういん)の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来(き)て眺めたいものばかり…》

■汚名だけ着せられて
 この近代的な炭都が抗日ゲリラの「標的」となった。今から83年前の昭和7(1932)年9月15日夜から16日未明にかけて未曾有(みぞう)の大事件が起きた。その6カ月前に建国された満州国を日本国が承認した日に合わせて「反満抗日」を叫ぶゲリラ、匪賊らの大軍が撫順炭鉱を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が惨殺された。いわゆる「楊柏堡(ヤンパイプ)事件」である。

 殺されたのは同炭鉱楊柏堡採炭所長ら炭鉱職員4人と家族の女性1人の民間人ばかり。炭鉱施設や社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所は操業停止に追い込まれた。

 撫順を守る関東軍の独立守備隊は翌16日、反撃に出る。抗日ゲリラに通じていた、とされる平頂山集落の住民らを殺害した。これがいまなお“反日プロパガンダ”に使われ続ける「平頂山事件」である。

 戦後、平頂山事件を“悪名高い事件”として一般の日本人に知らしめたのは1970年代初めに朝日新聞の本多勝一記者が書いたルポであろう。中国は現場に記念館を作って日本軍の“残虐ぶり”を訴え、生き残りである住民は、日本政府を相手取った賠償請求訴訟を起こした。

 だが、虚実取り混ぜて仰々しく喧伝(けんでん)されてきた平頂山事件に比べて、きっかけになった抗日ゲリラ部隊による撫順炭鉱襲撃、日本人殺害事件(楊柏堡事件)についてはほとんど語られたことがない。

 これでは公平さを著しく欠くだけでなく、平頂山事件の全容をつかむこともできない。特に先に襲撃を受けた「楊柏堡事件」の被害者や家族にとっては平頂山事件の汚名だけを着せられたまま釈明の機会さえ満足に与えられなかった。

■殺戮、放火、破壊…
 濱口光恵(はまぐちみつえ、91)の父、友七郎(ともしちろう、昭和35年、69歳で死去)は楊柏堡事件当時、撫順炭鉱の楊柏堡採炭所にあった診療所の責任者を務めていた(撫順医院看護手)。

 その夜、光恵は「仲秋(ちゅうしゅう)の名月がきれいに出ていた」と記憶している。採炭所内のクラブで厄年を迎えた男たちの“厄払い”の宴席が開かれていた。やがて夜も更け、各戸に流れて2次会を楽しんでいたころに異変は起きた。

 「皆さん、これは実弾の音ではありませんか…。すぐに家に帰ってください」

 友七郎がゲリラの襲撃を知らせる味方の小銃の発砲音に気付く。各戸に張り巡らされた地域暖房のスチームのパイプをガンガンと打ち鳴らす「警報」が慌ただしく続いた。もう間違いない。

 そのとき、銃を携帯していたのは友七郎だけ、ほろ酔い加減の男たちは防戦のため、武器を取りに走り、光恵は母親と一緒に避難所である坑道内へと向かう。

 「『ヤー、ヤー』という大声、襲撃を知らせるのろし…外へ出るとあたりは騒然としていました。私たちは、炭鉱の人の先導で坑道に入り、エレベーターやトロッコを乗り継いで、地下深い安全棟の休憩室まで必死で逃げた。残してきた父のことが心配でなりませんでした」

翌9月16日付、満洲日報号外はこう報じている。《深夜の炭都はたちまちにして物凄(ものすご)き戦闘の巷と化し、炭鉱事務所、社宅は焼き払われた。死傷者多数…泣き叫ぶ男女の様はまさにこの世の修羅場》

 銃、槍(やり)、太刀で武装した抗日ゲリラや匪賊は、殺戮、放火、破壊の限りを尽くす。光恵がいた楊柏堡の社宅には約80家族、約300人が住んでいた。間一髪で坑道へ逃げ込んだが、あと一歩避難が遅れていたら、全滅の危険性もあったという。

 翌日、診療所の責任者だった友七郎は犠牲になった炭鉱職員や家族の検視を行っている。

 「非常に惨(むご)い状態で、耳や鼻をそぎ落とされ、目までくりぬかれていた…顔が分からず、ご本人と特定するのが難しかったと聞きました」

 撫順の日本人に、やり切れない思いが残った。抗日ゲリラに通じていた、とされる地元住民の多くは炭鉱で働く労働者である。これまで彼らと家族の暮らしを支えてきたのは炭鉱の日本人ではなかったのか、それなのに…。

 事件の証言者は光恵だけではない。それは次回に書く=敬称略、隔週掲載

(文化部編集委員 喜多由浩)

◇■平頂山(へいちょうざん)事件
 昭和7(1932)年9月16日、前夜、抗日ゲリラ部隊に撫順炭鉱を襲撃された日本側の独立守備隊が、ゲリラに通じていたとして近くの平頂山集落を襲撃し、住民らを殺害した事件。犠牲者数は中国側が主張する約3000人から、数百人とする説もある。昭和23年、中国国民党政権下の瀋陽で行われた戦犯裁判で事件とは無関係とされる元撫順炭鉱長ら7人に死刑判決が下された。

隠された西洋史 〜 人種差別と奴隷制

■■ Japan On the Globe(964) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

地球史探訪: 隠された西洋史 〜 人種差別と奴隷制

 ヨーロッパ人の強欲非道の歴史を隠してしまえば、真実の世界史も日本史も見えなくなってしまう。

■1.ボストン公共図書館の半旗

 ボストンの中心街に聳えるボストン公共図書館は1848年創設、その面積は東京ドームより広く、いかにもアメリカの国力を誇示するような広壮な建物だが、その正面に何本も並ぶ星条旗がすべて半旗になっていた。

 最近、白人警官が無抵抗の黒人を射殺する事件が相次ぎ、全米各地で抗議デモが広がる中、ダラスで黒人容疑者に狙撃されて死亡した5人の白人警官に弔意を示したものだろう。

 一方でボストンでは街中で白人と黒人のカップルをよく見かけた。ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学など一流大学があるせいか、なんとなく黒人も知的な顔立ちの人が多いような気がする。しかし、こういう進んだ光景は全米でもごく一部の地域だけで、人種差別はいまだに米国全体を悩ませている宿痾である。

 ただ米国人の名誉のために付け加えれば、米国ほど人種差別の問題に悩まされつつ、その解消のために努力してきた国もない。

 アメリカの13の植民地は1776年に独立宣言を発し、連邦国家として出発したが、その当初から、黒人奴隷に依存したプランテーション農園を経済基盤とする南部諸州と、黒人の少ない北部諸州では奴隷制に関して対立していた。

 建国の父たちは、この点にこだわっていては一つの国家としてスタートすることは不可能と判断し、憲法では奴隷制を表立って取り上げることなく、南部諸州の既存の制度を守ることを憲法上の権利として、国家統合を優先したのである。

 この矛盾が表面化した1860年代の南北戦争、その最中のリンカーン大統領による奴隷解放宣言、1950年代からの公民権運動と、200年にわたる努力がなされてきた。それでも根絶し得ないほど、人種差別の問題は根深いと言わざるを得ない。

 実は我が国も、明治維新以降、人種差別の渦巻く近代世界に漕ぎ出し、差別されている有色人種による唯一の近代国家として戦ってきた。この視点なくしては、我が国の近代史における苦闘の足跡は見えてこない。

 この足跡に関しては、拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』の中で述べたが、今回はそれを補完するために岩田温氏の『人種差別から読み解く大東亜戦争』[1]をご紹介しよう。

 この書は書名の通り、人種差別との戦いが大東亜戦争の発端であったことを述べている。その本論は、同書に直接あたって貰うこととして、ここでは同書の前段となっている、人種差別と奴隷制が常に西洋とともにあったという史実を見ておきたい。

■2.奴隷制と共存していたギリシャの民主主義

 ギリシャは西洋文明の源流、特に民主主義の発祥の地として高く評価されているが、実はその民主政治は奴隷制と共存したものであった。哲学者アリストテレスは著書『政治学』で次のように奴隷制を擁護している。
__________
 自然によって或る人々は自由人であり、或る人々は奴隷であるということ、そして後者にとっては奴隷であることが有益なことでもあり、正しいことでもあるということは明らかである。[1, p44]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 人間には生まれながらに知性に欠けた人々がおり、そうした人々は「奴隷であることが有益」で「正しい」ことだ、とまで言っているのである。

 ちなみに、奴隷を英語では“Slave”と言うが、これは中東欧のスラブ語での「スラブ(言語)」を語源とする。ギリシアとの戦争に負けたスラブ人の捕虜が戦利品として奴隷とされたために、ギリシャ語で「スラブ」が「奴隷」の意味となり、そこからローマ帝国のラテン語経由で、ヨーロッパの諸言語に広まった。

 そのような奴隷は当然、市民には含まれず、民主主義の対象とも考えられていなかったのである。


■3.「神が真黒な肉体のうちに善良な魂を宿らせたはずはない」

 ヨーロッパ人はアフリカ大陸の黒人と接触することで、この人種差別を一層強めたようだ。近代的な司法、行政、立法の三権分立の原則を説いたモンテスキューですら、著書『法の精神』で次のように述べている。

__________
 現に問題となっている連中は、足の先から頭まで真黒である。そして、彼らは、同情してやるのもほとんど不可能なほどぺしゃんこの鼻の持主である。

 極めて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない。[1, p55]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ヨーロッパ人は、科学やキリスト教などを持つ自分たちが「足の先から頭まで真黒」な黒人よりも優れた存在である事は当たり前の事だと考えた。

 ローマ教皇ニコラウス5世は1452年、アフリカの地中海沿岸部を征服してアフリカ王と呼ばれたポルトガル王アルフォンソ5世に対して、異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えている。人種差別と奴隷化に、キリスト教のお墨付きが与えられたのである。


■4.「キリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業」

 西洋人の強欲非道ぶりは、コロンブスによって新大陸に展開された。コロンブスがバハマで出会ったタノイ族は温和で、武器の存在すら知らなかった。コロンブスは感激して、次のように記している。

__________
 さほど欲もなく・・・こちらのことになんでも合わせてくれる愛すべき人びとだ。これほどすばらしい土地も人もほかにない。隣人も自分のことと同じように愛し、言葉も世界で最も甘く、やさしく、いつも笑顔を絶やさない。[1, p80]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この「愛すべき人々」をコロンブスは捕らえて、奴隷としてスペインに連れていった。さらに圧倒的な武力で脅して、タノイ族に金の採掘を命ずる。採掘作業のために、畑作業が出来なくなった結果、深刻な饑餓が起こり、5万人の原住民が餓死した。

 同様の強欲非道は、その後、さらに大規模にくり返された。1532年、フランシスコ・ピサロ率いる200人未満のスペイン人の一隊がインカ帝国にやってきた。彼らは奸計をもって、皇帝アタワルパを捕らえ、莫大な金銀を身代金として巻き上げた上で、処刑してしまう。さらに住民たちを搾取し、虐待、殺戮した。

 ピサロによって傀儡皇帝とされたマンコ・インカは次のようにスペイン人に語ったと伝えられている。

__________
 私は心から君たちに好意を寄せ、友人になりたいと願って数々の親切をしてきたのに、君たちはそれをすっかり忘れ去り、わずかばかりの銀のために私の願いを無視し、挙句の果て、君たちの飼っている犬に対するよりも酷い仕打ちを加えたのだ。・・・結局、銀を欲するあまり、君たちは私と私の国のすべての人びとの友情を失い、一方、私や私の部下は君たちの執拗な責め立てや甚だしい欲望のために宝石や財産を失った。(ティトゥ・クシ・ユパンギ「インカの反乱」)[1, p74]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ピサロらの悪行を、従軍司祭として見たラス・カサスは「この四○年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所業のために男女、子供合わせて1200万人以上の人が残虐非道にも殺されたのはまったく確かなことである」と述べている。(ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』)[1, p76]

 ヨーロッパ人たちは愛を唱えるキリスト教を信奉しつつ、その仮面の下では、ローマ帝国の崩壊以降、何世紀にも渡って内部抗争や、異教徒との戦争をくり返しており、その過程で他には例を見ない強欲非道ぶりを身に付けたように思われる。


■5.「彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ」

 強欲非道ぶりに関しては、北米に入植したイギリスも負けてはいない。1606年、144人の入植者をバージニアに送り込んだが、多くが病や寒さで死亡してしまう。彼らにトウモロコシの栽培を教えて、助けたのがインディアンだった。

 インディアンの族長が「武器を船においていらっしゃい。ここでは武器は要らない。われわれはみな友人なのだから」と言ったが、返ってきた言葉は「トウモロコシを船に積め。さもないとお前等の死体を積むぞ!」

 彼らはインディアンを「人間」とは見なしていなかった。インディアンの村々を襲撃し、食べ物を強奪していった。1610年に、植民地の住人2人がインディアンによって殺害されると、イギリス人は報復措置として二つの村を焼き尽くし、女子供に至るまで殺戮した。こうして、血で血を洗う復讐合戦が始まったのである。

 入植者たちは、神によって新大陸が与えられたと信じていたので、異教徒のインディアンを殺す事は神の意思に従うと考えた。
キリスト教の指導者コトン・マザーは、ピクォート族の戦士たちを殺戮し、生き残った女子供を奴隷として西インド諸島に売却した。彼は誇らしげに「この日、われわれは600人の異教徒を地獄に送った」と記している。

 以下のインディアンの言葉を読めば、ヨーロッパ人の強欲非道ぶりがよく分かる。

__________
 白人の中にも善良な人間がいることは認める。しかし、その数は悪意を持った白人の数に比べると比較にならない。白人たちは圧倒的な力で支配した。彼らはやりたい放題のことをやった。人間はみな同じように大いなる精霊によって作られたのにもかかわらず、彼らは自分と肌の色が違うものを隷属させ、従わないものたちを殺した。白人の誓いはいかなるものも守られたためしがない。(デラウェア族パチガンチルヒラス)
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■6.大西洋奴隷貿易

 17世紀中葉には、キューバやハイチなど、カリブ海諸島でサトウキビのプランテーション(大規模農園)が広まった。ヨーロッパで飲茶の風習が広がり、砂糖の需要が高まったからである。

 しかし、このプランテーションには大量の労働力が必要であり、地元の原住民人口が激減していたことから、熱帯の気候に強いアフリカの黒人が奴隷として大量に連れてこられた。

 アフリカの奴隷商人たちが、ヨーロッパ人から購入した銃で大陸内部の村々を襲撃し、捕まえた原住民を海岸部でヨーロッパ商人に売り渡す。奴隷は奴隷船にすし詰めにされて大西洋を越えてカリブ海まで運ばれた。

 その後、北米大陸の南部でも綿花のプランテーションで黒人奴隷を輸入するようになった。16世紀から18世紀の300年間で、奴隷貿易により大西洋を渡ったアフリカ黒人は900万人から1100万人と学界で推定されている。まさに世界史的な悪行である。


■7.日本の植民地化も狙ったポルトガル

 ポルトガル人は、日本にもやってきて、布教を始めた。マカオなどと同様に、最終的には植民地にする事を狙っていたのだ。しかし戦国時代で戦い慣れていた信長や秀吉、家康は、彼らの企みを見抜いた。

 信長は宣教師たちがキリシタン大名を育てているのを知り、布教を許したのは「我一生の不覚也」と後悔したが、鉄砲部隊や鉄製軍艦などで宣教師を威嚇して、「日本は征服が可能な国土ではない」と諦めさせた。[a,b]

 ポルトガル人たちは布教のかたわら、日本人奴隷を海外に売り払っていた。秀吉はイエズス会の宣教師ガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人は日本人を購い奴隷として船に連れていくや」と詰問している。さらに教宣教師たちが、九州のキリシタン大名を焚きつけて寺社を焼かせているのに激怒し、宣教師追放令を出した。[c]

 キリシタンとの冷戦は、その後の徳川幕府にも引き継がれて、キリシタン禁制と鎖国の政策がとられた。島原の乱[d]という戦闘もあったが、ヨーロッパ人の毒牙から我が国の独立を守ったのは、この反キリシタン政策の功績であった。


■8.西洋の強欲非道と戦った日本の400年

 18世紀以降の産業革命によって、ポルトガル、スペインに替わって、イギリスやフランス、オランダなどが台頭し、アジア、アフリカを植民地化していった。またカリフォルニアまで開拓したアメリカは太平洋を越えて、アジアへの触手を伸ばしつつあった。

 こうして、アメリカからの黒船が来た時に、すでにアジア、アフリカで完全な独立国と言えるのは、日本とタイぐらいしかなくなっていたのである。

 幕末の「攘夷」とは世界を植民地化しつつあるヨーロッパ人の強欲非道から我が国の独立を守る事であった。その戦いは日露戦争から大東亜戦争まで続く。国際連盟創設の際は人種平等条項を入れようとして欧米諸国に拒否され[]、またカリフォルニアの日系移民が差別を受けた。

 これらに対する国民的怒りが大東亜戦争の発端となった。この経緯を岩田温氏の著書は詳しく辿っているので参照されたい。

 近代世界史から、ヨーロッパ人の人種差別と奴隷制という強欲非道の行いを隠してしまえば、キリシタン禁制は宗教弾圧であり、鎖国は文明世界から国を閉ざした愚かな政策であり、幕末の攘夷は無知愚昧なスローガンであり、大東亜戦争は軍国主義による近隣諸国侵略としか見えない。それでは真実の世界史も日本史も見えてこないのである。
(文責:伊勢雅臣)

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