B29と焼夷弾

B29と焼夷弾
スポンサーサイト

本土空襲図

本土空襲図

東京空襲焼失地図

東京空襲焼失地図

東京空襲一覧

東京空襲一覧

汚名への反論 No8 聖娼の住む街 

聖娼の住む街 
山西省の朝鮮人娼婦 戦場の美「慰安婦」に敬礼
  元造(つくる)兵団陸軍中尉 冨田茂男(福島県 80歳)
  昭和史研究所會報 第57号 平成14年1月10日号

◆第一話 運城の夜は更けて
 昭和十九年六月発動された西北河南作戦は、中国山西省から、黄河を越えての進撃であったが、霊宝県草廟で右膝関節部に砲弾破片創、右足脹脛部に貫通銃創を受けた私は、陝(せん)県の野戦病院で応急手当を受けた後、再び黄河を渡って、山西省運城陸軍病院に後送された。負傷者を満載したトラックは走り通しで、夜明けに運城に入った。トラックの荷台の上から重厚で大きな軒々が見えて、それだけで大きな街であると感じられた。長い間見た事のない電灯の光がまぶしく、甲斐々々しく働く日赤看護婦達は、これ又何年かぶりで見る大和撫子で、天女のように優しく美しい。裸にされて身体を拭いて貰うにも、二ヵ月近くも風呂に入っていないので、垢だらけで恥ずかしい限りである。
 運城の陸軍病院は清潔で大きくて広い。温堂で負傷した若菜君も先客で来ていた。毛シラミがひどいので、亜鉛軟膏とやらをもらい、足をあげての一番風呂と洒落れたが、死んだ毛シラミがうようよと浮いたので、後から入った者はさぞや迷惑だったろう。
松葉杖での歩行は困難ではあったが、痛みは大した事はなく、若菜君とは別室だったが、将校病室は先任が軍医大尉で、後は中尉二人と同階級が二人という暢気なもので、美しい看護婦がしょっちゅう来てくれるし、戦野の疲れも一挙に脱けたようである。まさに天国と地獄の相違である。たゞ最初についてくれた看護婦が、いつの間にか代わってしまったのが残念であった。
 ところがよくしたもので、早速、朝鮮の所謂慰安婦達が三人連れで、毎日のように見舞いに来るようになり、二十歳そこそこの彼女達に、故郷の娘達の面影が重なったりもした。メンバーは変わる事もあったが、光ちゃんという娘が、童顔の抜けきらない、あどけない顔をしていて、私の一番のお気に入りだったが、この子だけは毎日来てくれて、帰るまで私の枕元で団扇で風を送ってくれる。運城の夏はじっとしていても汗ばむように蒸し暑い。PRも兼ねたサービスであろうが、温かな心も感じられるのである。ニカ月足らずで入院下番となった夜、女達に聞いていた偕行社に行って、これ又何年かぶりのビールの酔いは早かった。
 今考えると、街灯も乏しい暗闇の運城の街で、何とか偕行社の場所が判ったのが不思議である。八月だから運城は夜も暑い。それでも火照った頬に夜風は気持ちよく、ぶらぶらと兵姑宿舎に戻ろうとした道すがら、路傍でなにやら言い合っている、二つの黒い影が見えたので立ち止まった。あまり歯切れがよいとはいえないが、「朝鮮ピー、朝鮮ピーと馬鹿にしないでよっ、天皇陛下、同しじゃないか」という台詞が聞こえ、「貴様!」の怒声と共に、突然飛び出してきた黒い影が、私に纒わりついた。
 「助けて」と黒い影が小さく叫んだと同時に大男が現れて、私に眼もくれず、「こっちに来い」と女に手をのばしてきた。酒の臭いがむんむんとする。反射的に私の手は男の横面に飛んだ。ビールの酔いと、河南作戦で、初めて修羅場をくゞり抜けてきた気負いが、そうさせたのであろう。
 一瞬、男はよろめいたが、直ぐ立ち直って「貴様! 何者だ! 俺は憲兵だぞ」とわめいた。「憲兵なら女を追いまわしてもよいのか。俺は東野部隊の冨田少尉だ」と怒鳴りかえす。病院でも東野部隊の名前は、河南作戦の活動で有名だったので、かなりの威嚇を期待したのだ。「トミタソウエ?」と女は私を見上げる。(朝鮮半島の人たちは、日本語の濁音と、ヨウ音が苦手らしく、少尉がソウエと聞こえる)星明かりで見れば、何とその女は、毎日病院に来てくれていた光子ではないか。
「どうしたんだ」と問いかける暇もなく、男は無言で拳銃を突きつけてきた。軍装はしていないし、まさか、撃ちはしまいとは思ったが、軍刀の柄に手をやる。だが相手は酔っているし、軍刀を抜けば発射されそうなので、抜くにも抜けない。
 折角作戦で生き残ってきたのにと、じりじりと後退した途端、ハタハタと入り乱れた靴音がして、銃を手にした二、三の兵が駆け寄ってくる。「六十九師団の巡察将校だ。何をしておる」と、咎める声も聞こえてきた。男は忽ち身をひるがえして暗闇の中に消え去った。私は思わず敬礼したが、馬上の巡察将校は、何と保定幹部候補生隊で、隣の寝台だった浅井少尉(長野県出身)だったのには吃驚した。彼は勤務中なので、一献酌み交わす事も出来無かったし、彼がその後どうなったか知るよしもない。それっきりで永遠の別れになってしまうのだから、誠に侈いものである。今思うに、教育した初年兵は別として、戦友の出身地の詳しい住所など、誰しもが書き留めておこうともしなかったのは不思議に思えてならない。皆んな生還など考えていなかったのであろうか。
 逢うは別れの運命とかいわれるが、この小編に登場する戦友達を初め、在任中何らかの接点があった数多い戦友達、更に私か教官として接した初年兵達、戦場に於ける出会いというものは、何時も奇遇であり、戦友会等の組織にでも入っておれば兎も角、すべて逢った時が別れで、その後は永遠に巡り会えないという事は、何と儚(はかな)く淋しい事であろうか。我々が黄泉とかに行った時、そのような儚(はかな)い別れをした人達に、時空を超えた霊力と霊感で、是非再会したいものと思っておる次第である。
 翌朝、原隊復帰のため運城駅に行ったが、大豪雨のため橋が落ちて、臨扮(りんぶん)付近で列車は不通との事、天の助けかと嬉しくなって、その足で病院に向かった。今日、病院で、演芸大会が開かれるのを知っていたからである。軍隊という所は、いろんな経歴を待った人の集合体なので、歌や踊りがずば抜けて上手い人が居るもので、それが楽しみだったし、或いは、光子達も来ているかも知れないとの期待もあった。会場は既にいっぱいで、最後尾で立ち見するほかはない。

 あの花、この花、咲いては散りゆ
 泣いても止めても、悲しく散りゆ
 散らずにおくれよ、可愛い野花よ
 わたしは、あてない、旅ゆく乙女

 曲名は戦後に知ったのだが、西条八十の作詞になる名曲を、何回か私の病室にも来た事のある、礼子と呼ばれていたスタイルのよい長身の女が、すばらしい歌声を披露してくれたのには吃驚した。それは彼女達の現実を象徴しているようでもあり、身につまされるものがあった。
 何時のまにか、昨夜の光子が傍に来ており、「トミタソウエ、夕べはアリカト」と。昨夜のいきさつを尋ねても、しょうもないが、憲兵などと詐称した酔漢に絡まれたらしい。
「お前、ジュン県に来ないか」「ジュン県て何処?・」「ジュン県て太原の北の方だ」「行きたい。連れて行って」といわれても、彼女達から、お父さんと呼ばれる鮮人のジヤングイ(娼家の経営者)に、多額の金で交渉しなければならないだろうし、一少尉の身分でそんな事が出来る筈は無いし、金など勿論持ってる訳はない。
 そのまま、何も言う事も出来ず、さりげなく、黙って別れるしかなかったが、純情だった彼女達が、今、何処でどうしておるのやら、まさか、慰安婦訴訟などには参加しては居まいと思うが、何日までも思い出に残る、戦場の女達である。
 今もなお、搦々として哀切を帯びた歌声が、聞こえてくるような気がしてならない。

 あの雲、この雲、日暮れにや帰る
 静かな谷間へ、楽しい我が家に
 いつの日帰ろう、恋しい故郷
 わたしは惨い、さすらい乙女よ。

 彼女たちは普通、総称的に朝鮮ピーと呼ばれ、(日本人娼婦も同じく日本ピーであり、中国人のそれはチャンピーで、私娼である中国人は小盗ピーと呼ばれた)従軍慰安婦などという言葉はその頃は無かったし、軍の庇護を受けていたのは事実だが、すべて鮮人が経営する娼家の娼婦だったのである。ピーとは中国語で、女性の陰部を意味する詞なそうだが、強制連行などという、暗い陰影は微塵にも感じられなかったし、勿論、監視などある筈もなく、彼女達は運命を甘受し、明るく朗らかに、而も逞しく生きておって、兵隊に数倍する報酬を得て、実家に仕送りなどもしておったらしい。

◆第二話 さらば!! 山西
 慰安婦達との私の関わり合いは、これだけでは終らなかった。昭和二十年に入ると戦局はますます悪化し、それに伴って、比較的安泰であった中国戦線も、部隊の移動がしきりとなり、私も今までの中隊を離れて、大隊本部付きとなったのである。本部付きとなると、第一戦で戦うことは少なくなるが、事務的雑用が増えるのである。ジュン県にも時々出張しなければならない。ジュン県は、兵団司令部の所在する大きな街である。そのおかげで、ジュン県から大隊の警備地に、出張サービスすることになった慰安婦達の、道案内兼護衛引率をすることになったのである。一行五人の慰安婦達のお供である。
北同蒲線(きたどぅほ)の原平(げんぺい)から列車に乗る。
列車は殆どが中国人であるが、この時は大分空いて居って、伝令と私か向き合って座ると、早苗と呼ばれていた一番若い子が、私の隣りに座った。隣の席も四人の彼女達が占領した。
 この列車行では対照的に、戦後日本に進駐してきた、米軍のことが思い出される。殺人的な満員電車に乗らねばならぬ日本人を尻目にかけて、特別仕立ての、今で言うグリーン車の、而も四、五人ぐらいしか乗ってない専用列車に、ふんぞり返っていた彼等の姿である。
 現在、日本軍の事となると、すべてを悪し様にいう人が居るが、当時の中国に於ける日本車は、部隊の移動は貨車であり、単独の時は勿論中国人と同じ一般車で、満員の時は将校は立っておるのが当たり前で、何の違和感も感じなかったのである。
 それは兎も角、この時は割と空席があったが、彼女達は何の屈託もなく、列車の旅を楽しんで居るように見受けられた。なにやら判らない朝鮮語でお喋りしているので、悪口を言われているのかも知れない。そのお喋りも長道中に飽きてきたのか、小声で合唱を始めた。

 厭なお方が来る時にや
   三日前から頭痛い
 好きなお方が来る時は
   十星先から靴の音よ
 私のスーチャン知ってるかい
   粋な陸軍少尉殿
 今日も昨日も弾丸の中
   討伐作戦で苦労なさる

 恐らく、洒落気のある日本の兵隊の誰かが作った、戯れ歌なのだろうが、軍隊で粋なと言えば、上等兵か中尉に決まってるのだが、私へのご愛想だったのだろう。内地なら、早速アイスクリームなど買ってあげる所だが、残念ながら、中国では駅も車中にも売店はない。なお、いろんな兵隊ソングも歌ったし、本場の「アリランの歌」も教えてくれた。
 その後、彼女らは大隊本部のある五台を足がかりとして、何日かずつ、分散警備に就いている四ヵ中隊の拠点を慰問して廻ったのである。勿論警護付きである。八路に捕まれば、日本人は勿論のこと、韓国人とて拉致されるか、虐殺されるしかないのである。それでも商売熱心というのか、使命感に燃えてるというのか、山間僻地であっても嫌がる様子はなかった。ジュン県に帰るときも又私か引率したが、この時は列車が満員で、バラバラに乗る外無かったので、余り印象に残ることはなかった。
 昭和二十年の六月、私は本土決戦の中隊長要貝として、造部隊を離れることになった。ジュン県での送別会の夜、彼女達も和服を着て歓待してくれた。涙を流して別れを惜しんでくれたのが思い出される。
 「聖娼」と題する著書があり、「聖娼」とはバビロニアなど、古代社会に実在した女性で、神殿にいて、そこに詣でる男性と交わった、「聖」と「性」を具現した女性なのだそうである。父権的な価値を中心に置いた社会に移行するに従って消滅する。ユング派の分析家である著者、ナンシー・クォールズーコルベットは、聖娼を無意識の中にある元型と位置づけ、現代人の実際の夢を分析しながら、聖娼が現代においてもつ意味を考察する。そのイメージを豊かに感じる事は、現代人が生命力を取り戻す事だという。同時に強固な父権社会で女性性を回復する事だ、と説いているが、私にとっては、彼
女達こそ聖娼だったに違いないと思えるのである。
 この結語として、戦記作家、伊藤桂一先生の著書、『草の海』に述べておられる文言を引用させていただく。
 【戦場慰安婦とは何だろう。私自身の考えで言えば、日本の帝国陸軍大敗戦のなかに、戦場慰安婦の交じった部分だけが、戦争のなかの「美」であったような気がする。香り高く、価値多き慰安婦たちに対し、私は、衷心から敬礼せざるを得ないのである】とー。

 山西去りて 行く身には
 何んの来練は 無いけれど
 ジュン県城の灯り 何日までも
 吾が思いでの 虹となる

 城壁はるか 霞みゆき
 消えて儚(はかな)い 小夜嵐
 見果てぬ夢と あきらめて
 涙で送る 支那娘

 列車の窓に 流れゆく
 夕暮れ迫る 大行(たいこう山脈)の
 紅染めし 山河が
 燃える瞳に 消え沈む

 さらば峠県よ また来るまでは
 暫し別れの 涙がにじむ
 恋し山西の 山々見れば
 空の彼方に 北斗星

汚名への反論 No6 .7 歴戦の元将校{慰安婦問題を語る

歴戦の元将校 慰安婦問題を語る (上)
軍隊と性の機微を思うべし
   元菊兵団・歩兵大尉 井上咸 (川崎市 86歳)
    (平成四年二月十五日講述)
  昭和史研究所會報 第53号 平成13年9月10日号

 戦争中の日本軍の慰安婦・慰安所の問題で、最近韓国側から非常に激しい、しかも執拗な攻撃を加えて来ております。これに対する日本側の対応は、非常にあいまいで、しかも消極的ですね。先方の全く言い放題という状況で問題が推移している様です。そして日本内部におきましても自虐的な読物、情報が氾濫をいたしまして、これに乗せられたかのように一般のマスコミが踊り、何がどう悪かったのかという問題が凍結したまま問題が感情的にエスカレートしていくというような状況のようです。今までのいろんな事、情報を総合してみますと大体、次の様になっているんじゃないかと思います。非常に極端な事ですけれども、先ず戦争中日本、あるいは日本軍は契約的にあるいは組織的に朝鮮人の若い女を一般人と全く見さかいなく突然襲ってつかまえ、戦地に送った。強制連行していった。そして日本軍の兵隊の性の慰みものにしたんだという、全く天人共に許されざる非人道的扱いをやったではないかと。そうしてそれが戦後になっても国として謝罪らしい謝罪もなければ、一銭の補償もしない。簡単にいうとそういう事が中心の様です。

◆この儘では汚点を残す
 もし彼らの言う通りがそのまま通っていきますと、戦争中の実態を知らない日本と韓国の両方の若い世代が、これを信じ、韓国側はいよいよ日本に対する憎悪の念がわきたつでしょうし、又日本側の若い連中も、何と日本の国はひどい国であったか、又軍隊はひどい事をしてくれたんだという気持ちになりますし、恥づかしい汚点が歴史上に定着してしまうんですね。その事が私は非常に当時の当事者の一人として、恥づかしく、申し訳なくて、いてもたってもおられないような状況で最近の新聞を見ている訳です。
 まだまだ実際に戦争を体験して何かの形で慰安所問題を知っている人間が、数は減ってきていますが、各所におるわけですね。特に我々のような一市民ではなく、その発言に責任と影響力を持っているような国会議員などが、民族の恥になるような問題に対してどうして沈黙を守っているのか、私は腹ただしく思うわけです。こういう問題を語る事は、非常に面倒な側面があり、又自分の恥もさらす事になりかねないので、おそらく皆黙っているのだと思いますけれども、そういう事に僕はいてもたってもおられないような腹だたしさを感じる訳です。そこで私のような非常に声の小さい者ではありますけれども、自分の体験した中の事実関係だけでも伝えて、何かの参考にしていただきたいと思ってこういうテープを吹きこんでおるわけです。

◆満支から南方まで転戦
 そこで、こういう問題については自分自身も恥づかしい面がでてくるので、一般的には匿名にするようですけれども、それでは腰が引けて迫力もなく、卑怯な事と思いますので、簡単ではありますけれど私のだいたいの経歴と立場というものを申し上げたいと思います。 私は、大正四年、朝鮮の京城、現在のソウルで生まれました。私の父が日韓併合当時、伊藤博文たちと共に朝鮮にわたった役人の端くれで、それで朝鮮の各地を点々といたしまして、従って私の兄弟すべて、かの地で生まれて育っております。私自身も二十三で学校を出るまで朝鮮におり、学校もすべて朝鮮ですごしております。昭和十三年に学校を出るとすぐ、確か二十三の時だと思いますが、現役の兵隊として軍隊に入りました。そしてただちに北満の東部国境付近におりました部隊で、初年兵の教育を受けまして、以後幹部候補生に採用され奉天の予備士官学校を出まして、ただちに当時南支派遣軍といっておりましたが、南方の広州辺りに集結しておりました歴戦の部隊に配属になりました。その付近で局地的な作戦あるいは福建省における福州作戦、あの付近の地域におりましたけれども、大東亜戦争が始まると同時にマレー半島に上陸し、それを縦断して、シンガポールの総攻撃に参加いたしました。その後ビルマに行き、終戦までそこにおりまして、終戦を迎えて約一年間の抑留生活をして、日本に帰って参りました。私は歩兵でありましたので常に第一線の戦闘部隊におりました。最初の頃は、小隊長、中隊長、それから情報関係、それから宣撫関係、ある時期におきましては大隊副官として、実際に慰安所の面倒を見たという時期がございます。それから地域的には最初は満洲、それから南支那それから福州関係ですね。それから大東亜戦争後はマレー、シンガポール、ビルマと各地を転々としながら第一線及び後方の状況もある程度知っております。その他途中で戦傷と病気の為に、ある時期には、野戦病院から兵姑病院、陸軍病院と転々といたしました。

◆軍隊国民が一体だった
 その場合にいわゆる戦地における後方基地、大きな町ですね、例えばラングーン、シンガポール、バンコックだとか、サイゴンだとか、そういった町の状況や慰安所の問題も若干は見聞しておりますので、多少の知識は持っておるつもりであります。こういう人間ですからこの慰安所の問題についても若干のことを語っても必ずしも不適当な人間ではなかろうかと思っております。むしろその状況を知っている我々が、早く実態だけでも伝えておくことが一つの責任ではないか、とさえ思っている訳であります。
 前置きはこの位にして話を進めます。慰安所の問題を論ずる場合に先づ注意を要することは、当時とは非常に状況のかわった現在の時点を元にして判断することはまちがいだと思うわけです。戦争に負けた日本ですけれども、だいたい戦争だとか喧嘩だというものは双方に言い分かあるのですが、一旦負けてしまえば、負けた方が何もかも悪いと、全部罪をかぶって悪者になるんですね。敗戦後の日本で、国の悪口、軍隊の悪い所を話し立てれば、飯の種になった。けれども当時はそういうものではなかった。当時は男の子で健全な心身の持ち主であれば必ず、兵役の義務を果たしたわけで、兵隊になった者は一家の名誉、男子の本懐ということで一旦緩急あった場合には一身を捧げて国の為に戦った訳です。
 そういう者に対しては国民が感謝と尊敬の念でしっかりと銃後で支えていた。そういう一体感があった。戦後は徴兵を忌避したことを自慢話に語るいわゆる文化人らしい者がいる わけですけれども、当時としてはとんでもない事だった。
 今丁度二月ですが、二月で思い起こすことは、二月十五日というのはシンガポールが陥落した日なのです。当時、私はシンガポール攻撃軍の最前線におりまして、その日はいよいよ最後の夜襲をやるということで準備していた。私の中隊は、マレー半島に上陸した時は、だいたい二百名前後の者かおりましたが、二月十五日には将校は全部やられ、私が一人残っており、兵隊が四十名程度おりました。その連中はいよいよ今夜は最後の突撃をするんだといってかまえておりました時に幸いなるかな、向こうの方で手を上げた。陥落した。その時の夜の事を思いますと午後から皆、飛び出て、お互い抱きあって涙を流した事を覚えております。後で知ったのですが、内地では、全国津々浦々提灯行列をして陥落を祝ってくれたそうです。そういった時代なのです。軍隊に対する国民感情には、現代とは全く違ったバックグランドがあったんですね。

◆昔売春業は公認だった
 次に、慰安所の問題ですけれども、戦前は好ましいことではないけれども、遊廓という形で売春業が法的に認められた商売だった。これは非常に暗い面を持っていますけれど、それなりに社会的に一つの役割を果たしておった訳です。一般の者はもちろん、軍隊も日曜日あたりは、皆それを利用していた。そういう時代なのです。各国でも何かの形で売春は残っておりますが、当時は日本では法的に認められた商売であったわけです。そういう事が今では忘れられているのではないか。韓国からの訴えをきいておりますと何か、韓国とか朝鮮とかいった外国の人を日本人がひどい目に合わせたというように聞こえますが、当時、朝鮮人はいろいろ問題はあってもれっきとした日本国籍を有する日本人であったと。それは台湾入もそうですけれども、それが今では何か全く異った外国人を日本人が虐待したという感覚で受けとられるような言い方をしておりますね。当時はあくまでも日本人の中の問題でありまして決して外国人との問題ではない訳ですね。植民地ですから、植民地の人間と本国との人間の間に何かしらの差別があったというのは、厳然たる事実でありますけれども、世界全体を見ても植民地と本国が完全な融和をするまでには大変な経緯や、軋轢、それから長い年月を要するものでありまして、日本の場合の三十五、六年間の朝鮮統治が起こした差別問題については一括してすでに戦後行なわれた日韓の基本条約その他で一応のケリはついているわけです。個別の問題として、いま慰安婦の問題が上ってくるということに、別な意味が感じられるわけです。

 だいたい以上のような事を頭におきながら進めてまいります。最初申し上げましたように最初は韓国から韓国人の慰安婦は日本の為にひどい目に合ったということから問題を発したのですけれども、だんだん問題が拡散していくうちに、何か日本全体の空気をみておりますと、軍隊の慰安所を使ったもの、慰安所そのものがおかした問題だとなりまして、その中で朝鮮人の慰安婦が虐待をされていった、しかもそれは国、あるいは軍隊が直接関与したことが悪いんだと、決して偶発的な、個別の問題ではない、軍の関与そのものが問題であるという話になってきておるようです。この軍隊と慰安所の問題をつきつめていきますと、結局は、戦争と性の問題という大きなテーマにぶつかるわけです。

◆性欲処理は人間の機微
 ご存じのように歴史は見方によっては、戦争の歴史でもあるわけです。戦争といいますと、必ずイメージとして、略奪、暴行がついているわけですね。戦争とそれに関わる人間の性欲の問題は非常に人間的な、暗いけれども人間的な重大テーマです。私が実際に戦争に行ってからの体験談をお話ししますけれども、その前に子供の頃にこういう話をきいた事があります。それは日露戦争の乃木将軍が二百三高地を攻めあぐんでいる時に、どうも兵隊の士気があがらないということで、内地の遊廓の女を貨車いっぱい送れというようなことが言われたとかいう話を子供の頃聞いた。当時は我々、子供がきく位ですから一般の大人の世界では、こういったものが明確な話として、残っておったわけです。現地に私か初年兵として北満のソ連との境を接している小っちゃな部落におりました時に、初年兵ですからあまり深くは詮索致しませんでしたけれども、演習の帰りなどで、小っちゃな部落でしたけれども、赤い敷布団が時々干してあるのがみられた。今に考えれば、ああいう小さな所でも慰安所的なものが、あったんだと思います。
 見習士官になって南支派遣軍に行きました時、先づは着任と同時に、聯隊長が、二十名程いた我々見習士官を前にして訓示した時にこう言った事を覚えています。「お前らは若いからあまり近よるな。しかし我々は(ということは聯隊長クラスですね)性交常習者だ(頭に残るのですがSEXにずっとなじんだ者だということですね)性交常習者はしかたがないが、お前達はああいう所に近よるな」という話を訓示の中でしましたね。非常にびっくりしたわけです。
 それからどんどん前線の部隊に行きました。その時に、新しく内地から着任した大隊長がおりました。今度は歴戦の部隊でしたから広州湾、バイヤス湾を経てきた古い将校を前にして新しく内地から着任したチャキチャキの大隊長はこの連中を叱った。「国軍の将校たる者がこんな不潔な所に出入りするのはけしからん」という様なことを皆の前で訓示しました。それが終りまして歴戦の将校達が三々五々解散していく時に、私はこういう事を耳にしました。その連中は「何だとあの内地から来た青二才。あんな訳のわからん事をいって」と非常に軽蔑の言葉を吐きながら散会していった事を覚えています。

 それからその後日談ですが、これを言ったらその人に申し訳ないんですけれども、実はそれから何年か後でその部隊長の副官をしたことがあります。その大隊長には好かれたんですけれども、驚くことにあんな清潔感を待った部隊長は私か副官をしている時に、非常に私をてこづらせる程、女の問題に関心がありまして、戦地の生活はそんなにも人間を変えるものなのか痛感しました。広東、当時は大きな南支那の町ですけれども、そこを歩いている時に街角である日、日本のかわいい女の子を見かけた。その時に我々を引率していた古い将校が冗談だと思いますけれども、「お前、あんなもんに手を出すなよ。あれは師団長の直接のお抱えだよ」という事を話したのを聞いております。これは事実かどうか知りませんけれども、おそらくそれと似たような事が当時あったのではないかと思われます。それ程戦地における抑圧された性と、その処理をどうするかという問題は、下は一兵卒から部隊長、師団長、軍司令官に至るまで全く同じ切実な問題であったと思いました。

◆慰安所なき場合の悲劇
 そこで私は率直に軍隊における慰安所そのものを不潔だといって非常に罪悪視するものがおるならば、私は次のことを反論したいと思います。それは、健全な若い肉体を持った兵隊が一身を捧げて国のために前線に戦っている場合、しかもそれが長期にわたった場合に、正当に持つている性欲をどう考えるのかと。そういうものは戦争中は一切持ってはいかんのかと。性欲を持つことは悪いし、そのはけ口を求めることは非常に悪いことなのかということをむしろ反論したいと思いますね。いやそうじゃないのだ、性欲は当然あって然るべきだ、又そういう悩みもあるだろうということを認められれば、しからば具体的にどうしたら良いかということをお尋ねしたいですね。これは本当に真剣に、表には出しにくい問題ではあるけれども軍や国が真剣に考えてやる問題だと今でも僕は思います。

 そういった場合いろいろな方法があると思いますけれど、先ず、強固な意志を持って自制しろという事が一つでしょうね。これは立派な建前ではありますけれども、結局何も具体的には軍や国としてやらないということで委す訳ですね。そうすると凶悪な戦闘下において性欲が暴発するということは止むを得ん事情だと思います。現実にソ連の終戦前後における満洲における暴虐ぶり、これは人々が知ってますね。それから米国の占領軍でも日本に非常にスマートにきたように思っていますけれども、その進駐軍と女とのいろいろな問題があります。それからベトナムの戦線において先日の新聞報道にありましたけれども、米国と現地人の女の捨てられた合いの子が数万人いると言っております。そこでそういった問題に何かしらの手を打たなければいかんだろうと思います。

 その場合現地にある慰安所ならば中国にも(当時支那ですね)現地のいわゆる遊廓みたいなものがたくさんありました。それを利用するということが広東付近で、はやっていたようですけれどもそれが問題ある訳ですね。それは衛生上の問題が第一点、また防諜上、どうしても軍の機密が女の□からもれる訳ですね。もう一つは日本の兵隊が中国の女を買うということはむこうの中国の若者からすると耐えられないということですね。それは反対の立場になってみると分ると思いますが、それでテロ事件がままありましたね。爆弾を投げ込むということが頻発しておりました。そういう問題がある。そして戦争中に相手国の現地の女を強姦するということは大変なことなんで、もしこれをやれば一遍に軍の威信というものは駄目になる訳です。私はある時期に宣撫関係をやりましたが、宣撫の実をあげたと思っておりましてもたった一人の不心得者が現地の女を強姦したという事件がありました時に一遍に宣撫関係はパーになるわけです。それ程深刻な事なんです。現地の女を犯すということは。〈井上咸氏略歴〉大正4年京城に生る。昭和13年京城帝大法文学部卒業。朝鮮殖産銀行人行。同年19一月現役入隊(長崎県大村)、直ちに渡満、関来車第12旅団第46聯隊。15年8月奉天甲種幹部候補生隊卒業(見習士官)。南支那派遣軍第18旅団歩兵第55聯隊へ転属(広州、福州作戦)。16年12月大東亜戦開始と共にマレー半島上陸、シンガポール攻略作戦。17年4月ビルマヘ転身。終戦後ビルマ、雲南諸作戦に参加。21年7月(約一年間の現地抑留後)復員。22年3月大正海上火災(現三井海上火災)保険株式会社。元常務取締役。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 歴戦の元将校 慰安婦問題を語る(下)
  慰安婦は大事にされていた
   元菊兵団・歩兵大尉 井上咸(川崎市 86歳)
   昭和史研究所會報 第54号 平成13年10旦10日号

 そういう事をあれこれ考えますと当時内地で法的に許されておった公認の商売である遊廓業を業者とわたりをつけて呼んで現地で軍の管理下におくということは危険な所ですから警備、その他の保護も必要ですし、不自由な所ですからある程度の経済的な食糧その他の調達について面倒みるということもありましょうし、それから使用についても、ある程度の基準を設けて規制の下に商売をやらすというのは当然であって、現地に呼んだ場合、軍の保護におかなければ、商売はできない訳ですよ。しかもその商売は非常に危険は大きいけれども儲けは大きい。これは軍がどんどん進駐して調子よく進んでいくに従っていろんな種類の御用商人が先を争って進出したわけですね。その一つとして、遊廓業が現地に行ったわけですから完全に商売なのです。軍が直接女を集めて、管理して、商売するような事はあり得ない。私の経験では必ず業者、親方がついてきて、それを軍が丸抱え、あるいはその他の方法で管理する。
こう見てくると何ら悪くない。一番合理的な方法ではないかと私は今でも思っています。

 それで戦争における前線における性の問題というものは、真剣に考えるべきであって、兵隊というものは性欲なんかないだろうと思うこと自体が人を侮辱した非人間的な問題だと思っております。これは私自身でなくて私の非常に親しい戦友から聞いた話ですけども、彼はビルマの進攻作戦の時にある部隊長の副官をしていたんです。それで一応ビルマの截定作戦が終りまして警備態勢に入った時にその聯隊長が彼を呼びまして、彼は今でも非常にまじめなかたい男なんですが、これからどういう風に部隊を処理したらいいか訊いたそうです。彼はまじめな男ですから「早速兵隊の健康維持、軍紀の厳正、次期作戦の準備に邁進せねばいかん」というようなことを言ったそうです。これは建前としては模範解答だと思いますよ。ところがそれに対して「何を言うか。そんな事じゃない。早速女の手配をしろ」と言われたそうです。これは建前ではなく、今にして思えば実際に戦闘をくぐり抜けてきた人の実感だと僕は思っております。軍の慰安婦というものはそういう性格のものであったわけです。

◆強制連行到底あり得ぬ
 この前の新聞記事にも、かつて朝鮮の慰安婦だった人の告白と称するものが出てまいりますけれども、その中でこういうものがありますね。
「(女が)十二才の時に北鮮のある村にすんでいたが、突然日本の警察官と軍隊が部落を包囲して否応なしに二十人ばかりの若い女を連れ去った。それから個室に入れられて日本人の監督しかも外には日本兵が歩哨に立って監視している。そのまま現地に送られて」ということになっている。おもしろおかしく書き立てて、しかも何がしかの意図をもって書かれた全くのフイクションだと思います。例えば、私は朝鮮人と二十三まで住んでいて、朝鮮人の友達やら学生、仲間も今なお交際している人もいる状況で、しかも朝鮮生れで朝鮮に骨を埋めるつもりでおった人間ですから朝鮮に対してはかなりの理解をもっている人間ですけれども、今言ったような事は絶対ありえなかったと思います。ということはですね、満洲事変以来朝鮮総督府が一番苦労したのは内鮮融和ということであります。どうかして早く一体にしたいというわけで、今言ったような突然警察官や軍隊が村を囲んで有無を云わさず若い女を引っ張っていったという事はあり得ないです
ね。私の父も最初申し上げましたように朝鮮の各地で、今でいう町だとか村その付近の責任者となった場合もありますけれども、朝鮮人の知事も、かなりの高級官吏もおりましたし、警察官もほとんど朝鮮人だったと思いましたけれども、そういう中でそういう無法な事ができる訳がない。又その事が朝鮮総督府として許される事ではないんですね。そんなことが今になって尤もらしく語られること自体に僕は非常に意図的な何ものかを感じる訳です。遊廓業者、売春業者が、女を集める時はいろいろあったと思います。これは朝鮮の遊廓ばかりではなく内地の遊廓業ですね、それ自体は陰惨な暗い面がありましてね、業者と女の間にはいろいろあったと思います。これを今になると皆軍隊のせいにしておりますけれどもこの問題は、遊廓なり、売春業そのものの問題であって軍隊とは関係ないですね。

◆台湾人に威張る朝鮮人
 では現地ではどうであったかといいますと、私の見たところ慰安婦は大事にされました。慰安婦には朝鮮人も台湾人も日本人もおりました。現地現地で募集したのもおりました。それは商売として経営者、親方がついていて、その親方と軍との関係だと思います。私が現地で管理したというのは、朝鮮人の親方がだいたい七~八名の女を連れてまいりました。これはおそらく上の部隊からの割当てだったと思いますが、作戦を終わりましてある期間駐留した場合に割当てが参りました。兵隊は喜びまして下にも置かないようなお客さん待遇で、建物を造り、食糧その他の調達にも走り回ったり、警備の面倒もみておりました。朝鮮人は当時は日本人ですから現地の人にとっては日本の女ということになっておりますし、特に台湾入に対しては朝鮮人の方が本当の日本人に近いという感覚でむしろいばっていたような状況がありました。

現地の慰安所が兵隊、軍によっていじめられたとか、むちゃくちゃな待遇をしておったとかいうことは私の経験と見聞の中には出てきませんね。むしろ非常に大切にされたと思います。親方の商売としては、危険だけれどももうけの多い商売だったと思います。私の場合は副官でしたから、慰安所のやり方全部に対して責任をまかされていたわけですけれども、他に軍医が二人いて衛生関係を見ていました。ある時こういう事がありました。当時私は若くて物を知らないといいますか、正義感みたいなものがありまして、調べてみますと親方の取り分か六、四とか、七、三位の程度だったと思います。実際に稼せぐ女が三か四取って六か七を親方が取る。そういう配分だったと思います。今考えるとそれがああいった商売の通り相場だったと感じますけれども、当時私は驚きまして、早速親方を呼びつけて「何だ、実際に働いているのは女ではないか。取り分を逆にしろ、比率を逆にしろ」と云った覚えがあります。その後どういう具合いになったか知りませんがかなり改善されたような気がします。

◆敗走中にも慰安婦稼業
  これは一例ですけれども、その後敗戦の間際に部隊全部が総退却をしてジャングルの中を敗退している時期がありました。その時に昔私達が面倒をみた慰安所の一団が、これはもう親方はついていなかったが、女だけで七~八入が兵隊と前後してジャングルの中を逃げていた。たまたま昔の顔なじみの女かおりましてぜひ連れていってくれと頼まれまして、私は彼女らをかばいながら部隊と一緒に逃げた記憶があります。その時ジャングルの中を部隊がかなり無統制に逃げていったのですが、夜になると兵隊がもうお客さんなんですね、ジャングルの中で。私はその時は本当に人間の性欲の強さというものをあきれる思いで見ました。我々は疲労困億でそんな元気はなかったんですが。逃げていく兵隊をまだ客にとる。その時に、だんだん紙くずになったんですが、軍票を山のように風呂敷に包んで首の上に巻きつけておりましたね。そういうことも今、思い出します。最近、敵の捕虜になって非常にあわれな恰好になった慰安婦の写真がありまして、それらしい説明がつけてありますが、あれは部隊全体が故に包囲されて一緒に捕虜になった時の写真だと思います。私の経験では、だんだん戦況が悪くなりますと慰安婦はまっ先に傷病兵と一緒に後方に下げましたね。慰安婦はそういう具合に皆に大事にされて、当時としては彼女達から恨まれることはなかったと思います。兵隊達は感謝して大事にしていたのが実態だと思います。
 
◆強制は国全体にあった
 この慰安所の差別問題以外に、最近は、強制連行だとか、強制という言葉に強いアクセントをおいて非難がなされている。慰安婦は強制というより業者が女を募集して、一つの商売として稼ぎにやってきた。それに対して軍は戦地の危険なるゆえに警備、衛生管理、防諜、軍紀その他を勘案しながらそういう意味での管理をしていたということであって特別に女のしかも韓国の慰安婦だけを無茶苦茶に扱ったということは絶対にないと思います。当時は非常に戦況が悪くなった末期におきましては、日本全体にいろいろな強制的な措置が取らされた。例えば徴用ですね。これは何も韓国人だけに対してだけでなく朝鮮における日本人、内地における日本人すべてがそうであった。台湾においては高砂義勇軍が出るし、沖縄においては学生その他が第一線に立つ。内地では徴用で工場や炭坑に行き、何も朝鮮人だけが強制的にされた訳ではないんです。徴兵の義務などは最もきつい一つの義務ですけれどもこれは当初、朝鮮人には免除されていたわけです。そういう意味ではむしろ逆差別かもわかりませんね。それを今になって朝鮮人、韓国人という所に、また強制という所だけにアクセントを置いて言ってますけれども、これは日本人全体の問題であって、もし韓国人の慰安婦が問題になれば日本人の慰安婦も台湾人の慰安婦も問題になるし、特に敵国であった日本と激しい戦闘をした中国の女もずいぶん慰安婦になっておりましたが、日本が負けた時にまっ先に中国の方から激しい慰安婦の問題について抗議が申し込まれたはずなんですね。それがそうではない。最近になって韓国がうずうず言うものですからフィリピン、その他の所からも、では俺の方
もという形で出てきている。しかしあまり迫力がない。これは韓国のしかるべき人もあまりやりすぎたという事は知っていると思う。

◆慰安婦20万人の根拠は
 なおかつ、日本側が、どんどん腰を引いてただ謝ればいいと下がっている。この前の総理大臣(宮洋喜一編集部)の談話の中に「耐えきれないような、筆舌につくしがたい、苦痛を与えた事に対しておわびをする」とか言っていますが、商売ですから、別にそんなに大きな苦痛ではないと僕は思いますけど、外交上の儀礼としても向こうの云いなり放題にだんだん認めていくことは非常に恐ろしいことだと思います。要するに向こうの云い放題の証言だとかに対して、ほとんど迫力のあるこちら側の答弁がなされていない。したがって下手をするとそのままが、我々民族の歴史の汚点として、定着してしまうことを非常に恐れる。従って、国会議員のような責任ある地位、しかも発言力を待った人達が、本当に民族の恥になるような事に真剣に立ち上がらないということが腹だたしい。という事です。それからこの問題は日本人の中に向こうの者に無批判に同調しておもしろおかしく騒ぎ立てる連中がかなりいるということと、マスコミもそれに踊らされているというような感じが非常にします。もっと正確なものを集めて、きっちりとしたもので我々を指導するような大新聞の態度があってしかるべきだと思います。
マスコミは最近になって慰安婦は二十万人か三十万人というような事を報道していますけれども、そういったとてつもない数字をどこから割り出したのか。軍隊でも一ヵ師団が二万~三万程度のものだったと思いますけれども、そうしますと二十万~三十万の慰安婦といいますと十ヵ師団の人数なんです。そういう慰安婦が日本の兵隊にサービスしたということになりますけれども、ご承知のように直接敵と接している、第一線はほとんど慰安所は利用できなかった。たまたま作戦で後ろに帰って、しばらく休養している場合とか、あるいは後方基地の兵隊が利用する訳で、そういった人員がどれだけ戦闘部隊を除けてやったのか、そうしますと何十万という慰安婦がどこでどういうふうになったのか想像もつかないような人員ですね。

◆真剣に考えよ軍隊と性
 私か一番いいたいのは、慰安所の問題を考える場合に一番欠落している視点は本当に健康な若い男子の集団が国家の為に一身を捧げて戦っているそういう人達の当然持っている性欲の吐け口を本当に考えているのかと、国や軍が当然真剣に考えて、又一般の方もその付近を充分に考えていかなければいかんということの視点が欠けているということです。例えばアメリカ軍あたりは非常に豊富な軍資金と兵力を持っておりますからしょっちゅう部隊を前線と交代をさせていますね。映画にもでてきていますが交代した兵隊は後ろの基地に帰って非常に楽しい目にあっているわけです。日本はそれ程の余裕がなかったと思いますね。私の個人の事をいって恐縮ですけれども、昭和十三年に初年兵から始りまして昭和二十一年に帰ってくるまで一回も満期の機会はありませんでした。ほとんど前線に釘づけになっていました。時には作戦ごとに後方に下がって若干の期間は準備期間とか次期作戦の準備とか訓練期間がありますけれども、だいたい前線にはりつけですね。ひどい時には十ヵ月位はもうジャングルの中で敵とずっと対しておりました。そういう状況です。非常に期間として長いんです。そういう人間がたくさんおった訳です。そういう人達の性欲のことを考えているのか。私としてはできるだけ自制して自己管理をきちっとしてやっているつもりですけれども何かの時にいろんな形で暴発するのはやむを得ないと思いまずね。最近の報道で、日本人が先頭に立って慰安所問題を国連の人権擁護委員会に提訴しているとかきいておりますが、もし日本軍の慰安所の問題をあげるのならば、もっともっと世界史的に見て戦争史の裏面の虐殺暴行、各国の軍隊と女の問題をもっと深く切り下げる必要があるのではないかと思います。私は最近の日本のように、性の解放が叫ばれ、性風俗の乱れた時代にあって、戦争にたずさわる者の性欲の処理を正面から取り上げる論議がなされないということが奇異に感じられます。この問題についてはもうすでに時期的に遅かったという気がしますが、今からでも遅くない、日本政府は本当に勇気をもって正面から取り組む必要があると思います。そうして本当に謝罪反省すべき点は十二分に謝罪反省していいと思いますが、何もかも向こうの云いなりに認め、ただ謝っていくというような対処の仕方は今後ともまずい。と同時に望みたい事は、韓国側においても感情的に煽られることなく冷静に抑制のきいた節ということを本当に望みたいと私は思います。

汚名への反論 No5  山西省太原の慰安婦

山西省太原の慰安婦
 悲惨な状況見た事なし「感謝」で接した皇軍兵士
  第六十二師団独立歩兵第十三大 第一中隊上等兵 小島幸雄(守山市 78歳)
  昭和史研究所會報 第41号 平成12年9月10日4号

 (前略)扨(さ)て私は当年七十五才にて滋賀県議会議員連続二十四年その間議長も勤めさせていただき現在は県の選挙管理委員長を勤めさせていただいております。
 私の軍隊歴は昭和十六年徴集現役兵にて昭和十七年二月より昭和十九年七月迄主として中國山西省若しくは河南省に歴戦、最後の京漢作戦(通称河南作戦)に参加後、昭和十九年八月十六日上海呉訟港出帆、同二十日沖縄県那覇港上陸、同二十年三月末米上陸軍を迎え撃ち、現在の浦添市嘉数高地の戦闘で同年四月九日朝機関銃射撃中(筆者は軽機関銃射手-中村)迫撃砲弾の破片で全身三ヵ所に負傷致し出血多量で不思議に生き永らへました。私の所属中隊は中隊長以下九割方戦死、結局最後迄生き残った者は中隊全員百六十余名の内僅かに四名だけでございます。伊藤正徳著『帝國陸軍の最後』(Ⅳ特攻篇)の百七十二頁~百七十三頁に私の所属致しておりました第六十二師団独立歩兵第十三大隊(長・原宗辰大佐)第一中隊(長・青木正暢大尉)の米戦車相手の戦闘ぶりが記述されております。百七十二頁六行目の一個中隊が十数名に減って了った部隊もあったが……というのが私等の中隊をさしております。
 右の戦闘状況は京都新聞″防人の詩‘に悲運の京都兵団証言録に連載され、若杉幸雄上等兵が私のことです。若杉は旧姓です。御一読いただけましたら大変嬉しく存じ上げま
す。
 扨て私の意見でありますが、先ず。”従軍慰安婦”の問題ですが、先ず第一に、”従軍慰安婦”と言う呼称そのものが先生の御説のように不適当で戦中はそのような呼び方を致しておりません。従軍看護婦や従軍記者とは全く違います。軍の動員令に基いて軍属として従軍した人とは違い、遊廓の経営者やそれに類する人に誘われた戦争売春婦で職業として金銭で兵隊相手に春を売った女性のことです。私達は彼女達のことを日本ピー、朝鮮ピー、中國女性のことをチャンピーと呼んでおりました。
 又彼女達のいるところを「慰安所」と言っておりました。
 昭和十七年夏頃山西省太原市に糧秣受領等に山の中からトラックで出てゆきますと二時間余りの外出が許可され、彼女達のいる慰安所へ行くのが何よりの楽しみでした。その為ショートタイム(せいぜい三十分以内)朝鮮女性が当時の金で一円二十銭、中國女性が八十銭でした。日本女性は将校専門で兵隊はその地域に出入出来ませんでしたので、私は専ら朝鮮の彼女と遊びました。
 突撃実行する前に必ず前金で金を沸います。その他に彼女の機嫌を取る為に金の他に下給品のタオルとか花王石鹸等を持っていって彼女に与えました。
 彼女達は夫々京子とか花子とか都とか兵隊の覚え易いように源氏名で呼んでいました。
假令(たとい)三四ヵ月に一回でも馴染が出来て、兵隊達は寧ろ彼女達に感謝の気持を持って好意的に接していたものであります。どの兵隊も懐中には幾らも金を持っておりますのでタダで遊んだような兵隊は私の知っている限り一人もおりません。又若し一人でもそのような不心得の者がいた場合は彼女達が憲兵隊へ訴えましたら首実検をされその兵隊は大体一週間か十日の重営倉に入らねばなりません。上記のことについては外出の前に週番下士官から念を入れて注意されたものです。又彼女達も商売上手というか朝鮮の民謡(アリランの唄等)を歌って聞かせて呉れまして、彼女達もそれなりに楽しく働いていたようで、決して泣きの涙で過していたようには思はれません。言葉が通じませんので彼女達の心の底は分りませんが、以上私の体験を申し上げましたので一人の従軍兵士の体験談として先生のご参考に供した次第でございます。
 従軍慰安婦の問題は戦死した多くの戦友達の名誉に関する重大な問題で、それが又わが國の中高校の歴史の教科書に記述されていることは全く残念至極でありまして、私一人位何を言はれても少しも堪えませんが戦死者に対して誠に申し訳ない気持ちで悲憤やる方ないところでございます。此の上とも”従軍慰安婦”と言ひ、”南京大虐殺”等此の上とも死んだ戦友達の名誉の為、先生の一層の御霊力を亡き戦友の代辨者として折人ってお願い申し上げる次第でございます。
平成八年十一月三日(明治節の佳き日)

汚名への反論 No4 愈安婦強制連行絶対に無し

 愈安婦強制連行絶対に無し
山東省・・略奪と強姦ぱ厳禁
  元独立混成第五旅団 森島隆(前橋市 81歳)
   昭和史研究所會報 第40号 平成12年8月10日号

◆山東省で強姦は不可能
 私は、昭和十五年一月、北支派遣桐第四二七四部隊大島部隊村上隊(独立混成第五旅団司令部 青島第十八大隊大隊本部高密第二中隊中隊本部丈嶺、その後膠県)に現役兵として入隊し、高密において初年兵の教育をうけ、ひき続き青島の通信隊で無線通信と暗号の教育を習得して、十五年九月原隊に復帰した。
 独立混成第五旅団(独混五旅)は、山東省東部地区の治安維持と、膠済線(青島~済南)の警備が主な任務であった。従って、討伐で人民に被害を与えることは、それほど多くはなかった筈である。別紙(省略)のように、一年間の平均討伐出動回数は七・三回八十九日間である。この記録は陸軍中尉(大隊副官)から終戦時には大隊長であった
方の記録であり、一般の兵の出動回数はもっと少なくて年に十日から三十日程度であった。
 治安維持と宣撫工作が主任務であり、討伐に出動しても、略奪と強姦は固く禁じられていた。当時の住民は疲弊のどん底にあり、略奪する物もなかった。それでも軍隊に宿泊された民家は、大きな痛手を蒙るが、もともと山東省の住民は、満洲に出稼ぎに行く人が多くて、最大の被害は、燃料を燃やされることと、卵や鶏を略奪されることであった。
 婦女子が凌辱を受けると言うが、日本軍が部落に入る前にはすでに遠くに逃れてしまい、部落に残っているのは老人と子供ばかりである。私は、兵隊が女を強姦したという話は聞いたことがない。強姦することが出来たとしても、衆人の目の前でやるわけにもいかないし、家のなかでは最中に後ろから攻撃されて、名誉の戦死では、とても強姦をするような雰囲気ではなかったのである。
 山東省は、共産八路軍の勢力範囲であり、独混五旅は、八路軍と対峙していた。八路軍の装備は弱小であり、日本軍が小部隊で行動している時以外は、戦闘を仕掛けて来ることはなかった。
 私か在隊した三年十一ヵ月間に、私か討伐に参加したのは約十回前後延べ六十日程度であり、その内、交戦回数は二回、戦死者は一回で三人であった。あとは全部敵影もなくただ単に行軍をしてきただけであった。私の同年兵で戦死したのは、たったの二人きりであった。
 「朝まで生テレビ」で、済南で婦女子を二、三十人強姦したという兵隊の手記を、真実だと信じきっている大学教授の画面が大きく写しだされたが、少なくとも、当時山東省に駐留していた兵士なら、こんなことは絶対に起こりえなかったことを、誰でも知っている。日本軍の駐留している地域で、師団司令部や旅団司令部の置かれている大都市、済南、青島などでは、在留邦人も多数おり、日本との交流で生計を立てていた中国人が、好むと好まざるとに拘らず、大多数いたのである。

◆拘束なかった慰安婦達
 兵隊は、日曜の昼間しか外出できないから、外出証とコンドームを渡されて、大部分の兵隊は慰安所に駆け込んで排泄(まさに排泄である)を済ませ、兵営に帰るのである。民間の婦女子を強姦できるような環境では全くないのである。
 大都市、小都市(日本でいえば、県庁所在地以上程度)には兵隊はあまり金を持っていないので、軍人専用の慰安所を利用する。慰安婦は中国人(主として兵士)、朝鮮人(主として下士官)、日本人(主として将校)かおり、性病予防のため、その地区の衛生兵が性病検査を実施していた。軍が関与していたとか、軍が連行したとか、慰安婦の自由が束縛されていたとかいうことは、少なくとも山東省では、絶対になかったのである。中国の民間人でも、中国の慰安婦と遊んでいた人達も大勢いたし、阿片窟も営業していたのである。
 県庁所在地以下の市や町に駐留する日本車兵士は、慰安所などないから、生活に困って、自宅で内緒に売春を働いている中国婦人を、斡旋人を通じて、一握りの兵隊が多少の危険を犯して、利用していたに過ぎなかったのである。
 第二中隊が駐留していた掖(エキ)県には、朝鮮人の慰安婦が一人いた。民家に寝泊まりして、兵隊相手に売春をしていたが、なんらの拘束も、不自由もなく快活に生活をしていた。
仲の良い兵隊もいたはずである。何時でも個人の自由で帰国できた筈であるが、当時朝鮮に帰っても生活できなかっただろうから、慰安婦をしてたに過ぎない。 三光作戦などという作戦は、当時日本軍人の誰もが知りもしないし、聞いたこともない。

汚名への反論 No3 朝鮮の慰安所軍の強制絶対なし

朝鮮の慰安所軍の強制絶対なし
    元羅南憲兵隊曹長 中島賓
          (東京・80歳)
正論1月増大号 平成27年1月

◆軍都・羅南の遊郭街
 私か勤務して居た羅南の町は第十九師団司令部の所在地であると共に、咸鏡北道庁の所在地でもあったから、文字通りの軍都であると共に行政の中心地でもあった。
 羅南には、第十九師団司令部、第三十八旅団司令部、歩兵第七十三聯隊、歩兵第七十六聯隊、騎兵第二十七聯隊、砲兵第二十五連隊、兵姑司令部、師団弾薬庫、陸軍病院、偕行社、師団軍法会議、羅南憲兵隊本部等が在り、国境の会寧に歩兵第七十五聯隊、鏡城に輔重第十二聯隊、咸興に歩兵第七十四聯隊、平壌に歩兵第七十七聯隊、羅津に海軍要塞司令部、会文に海軍通信隊、羅南陸軍通信隊等が在って、文字通り軍都として中心的な重要拠点であった。従って羅南在住の将兵の数は戦時編成の壱万人余りの軍人軍属が常駐して居たので、若い将兵の脹り切った性欲の捌け場としての遊廓は必要不可欠の存在であったから、三笠山の麓に日本人経営の山水楼、富貴楼、三七十楼、高尚楼、約四mの通路を距てた南側に冨士見楼、光明楼、三冊楼、阿佐加楼の外一軒と、少し坂を
登った所に朝鮮人遊廓四楼と検疫所があった。
 正確には”三輪の里遊廓街”と言って居たが、三笠山の麓にあるので皆が通称”山‘と呼んで居た。勿論当時は公娼制度があって、性犯罪の防止の必要悪として世界の各国が。公娼制度々を認めて居たから、当時特別に日本だけが従軍慰安所を設けて居た訳ではない。世界的にも立派な商行為と認められて居たのである。
 公娼制度の認可権限は各道府県知事に在ったのであって、軍が強制的に慰安婦を募集したり、売春を強要した事は絶対に有り得ないのである。

◆家庭の貧困救うため
 然し前述した通り、羅南の町には一万人に余る若い将兵が住んで居たから、僅か二百名足らずの娼婦が性犯罪防止の為の防波堤の役目を果して居たのであるが、彼女等は貧困な家庭を救う為に嫌々乍ら自分を犠牲にした人が多かったのであるが、諦観し切った彼女等には「自分の一身を投げ打って一家の危急を救った」と言う認識の方が強かったから、比較的に楽観的で明るい性格の人が多かった。然し僅か二百名足らずの彼女等は不特定多数の兵士の相手をしなければならなかったから、日曜祭日の日等は、狭い道路一杯を埋めて「まだか」「まだか」と押し寄せる兵士を次々に慰安しなければならなか
ったから、一日に”二十人゛”三十人”の兵士を相手にする女の子が多かった。当時兵士一人二円位いの稼ぎであったから、一日に五、六十円稼ぐ女の人も決して珍しくなかったのである。私の給料が其の頃外勤手当てを含めて約六十円余りであったから、如何に彼女等が荒稼ぎして居たかが思い遣られるのである。然し其の大半は前借金との名目で楼主の収入となったので、彼女等は一生借金から抜けられない‘と言う不遇な環境に甘んじなければならなかったのである。然しそれは棲主と娼婦個人との商的な取り引きであったから軍隊が強制的に出来る道理は無いのである。

◆憲兵は命令せず
 但し、性病感染の恐れは十二分に多かったので、日曜祭日の練休日の前の日、娼婦の全員を軍医が検査する必要があったから、憲兵が立ち合いの下に検疫所で身体検査する事だけは絶対に必要であった。勿論此の検査には楼主も立ち合い、憲兵が軍医の診断結果に基づいて「君は明日休みなさい」とか「明日は絶対にコンドームを使用する様に」とか指示する事はあったが、それは飽く迄も性病の感染を予防するのが目的であったのである。又私共は一般サラリーマンと変らぬ服装で棲主の許可の下に遊廓内に入り、兵士の喧嘩や、暴行、傷害等の防止に努めたのであつて、決して慰安婦等に対して命令
や指示した事は一度も無かった。
 此の様に憲兵や軍医が遊廓の検疫や、就業の指示をしたのは性病予防の為の勧告であり、決して強制力を行使したのではないのである。

◆強制連行絶対になし
 茲(ここ)で”朝鮮人慰安婦強制使用”と言う軍部批判について私の見聞した実情に即して述べてみたいと思う。 所謂南方前線に於ける売春の実情に就いてはいざ知らず、少くとも朝鮮の慰安婦の強制連行と言う事件は、朝鮮半島内に於いては絶無であったと断言出来る。
 悪どいブローカーの手に因って巧みに欺まされて南方に連れ去られた慰安婦が居たとしても、それは決して軍が強制連行したものでは無いと思う。恐らく「南方に行けば一遍に高い金が稼げるから」との旨い話に釣られた浅墓な慰安婦が、戦後急に「軍が強制連行した」と豹変した偽りの告白を鵜呑みにしたデッチ上げではないかと思う。
 私の知る限りでは朝鮮人経営の遊廓は四軒あったが、日本兵は矢張り日本女性を好んだから、あれ程犇(ひしめき)きあった遊廓の中にあっても余程日本の遊女に焦れ無い限り、進んで朝鮮人の廓樓に足を踏み入れる日本人は少なく、又その接客振りも矢張りシックリしないと悪評であったから、日本人の樓廓が余程混雑して居ない限り朝鮮人の店は閑古鳥が鳴いて居るのが実情であった。
 又朝鮮には「酒場(スワチビ)」と言う店があって其處で無許可の売春行為が行なわれて居たから、態々高い金を払ってまで、遊廓を訪れる朝鮮人は数少かったのである。
 朝鮮人は押しなべて事大主義的な面が強いため信じられない様な嘘を平気で言う傾向が強かったので、日本軍強制連行の話も「百%眉唾物語ではないのか」と疑い度くなるのである。朝鮮人の家庭では未婚の娘を猫っ可愛がりにして、上流の家庭では娘の一人歩きを絶対に許さなかった。
 それに反比例して「朝鮮の娘は一旦男を知るとダラシが無い」と言うのが″通り相場々になって居る程であったから、軍の強制連行説についても頭から信じる訳には行かないのである。
 此の様な事から考えると南方の慰安婦問題も「嘘から出た実」の様な話しではないかと疑い度くなるのである。
 何はともあれ私の体験や見聞した実情に照しても少くとも朝鮮半島内に於いては絶対に「慰安婦の強制」を強いる行為は無かったと断言して憚らない。

汚名への反論 No2  南方慰安婦の実態

南方慰安婦の実態
  元・海軍中尉 重村賞
  昭和史研究所會報 第31号 平成11年11月10日

◆特要員の効用 
 特要員と言う名称がある。
 特要員と言う名の部隊があった。
無論、内地の事では無い。太平洋戦争中、日本軍が占領し、進駐して居た南の涯の島々の基地の話である。
 では特要員とは何であろう。
 あっさり言うと女-娘子軍-の事である。戦地に進出する娘子軍の事をこう言う名前で呼んだ。
 もっとも商売女が進出するのは、何も太平洋戦争になってからの事では無く、其の以前から満洲は勿論、支那大陸の各地、凡そ小部隊でも駐屯する町や村々、当時の言葉で言えば皇威の及ぶ涯々までも、大和なでしこの姿を見ない土地は無かったと言って過言では無い。
  満洲では鉄路上を銃弾を冒して占領に向う列車の後部には娘子軍が乗って居た事さえあると言う。
 当時満洲や上海へは隣へ行くように気軽に渡れたが、太平洋戦争で占領した各地ともなると、そう簡単には行かない。
 此の娘子軍達がどんな風にして進出するのかと言うと先ず現地からの要求で行く場合がある。
 例えば、作戦や補給の基地になったような町や港へは前線や後方からの往来や宿泊が多い。従って前線から帰って来た将兵達の息ぬき、又是から前線へ出ようとする連中のお名残りの別宴と言ったような事がくり返される訳だ。所が誰もが殺伐な気分である為、つまらない事ですぐ立ち廻りが演ぜられたり、又予備後備の老兵などになると女なしでは夜が過せぬ等と言った猛者も居て現地人とトラブル起すようなこともある。
 現地のパンパンとよろしくやるのも結構だが、たとえマタハリ程の女が居なくても軍機上にもまずい点があるし、又南方の現地人の中には蝋燭病などと言って物凄い性病を待ったのも居て衛生管理上も具合が悪い。従って野放しにして置くより大和なでしこ軍を輸入した方が気分も落ちつくし、軍機上も風紀上も衛生上にも良いと言う結論になる訳だ。こうした土地には現地からの要求が無くても後方の司令部から現地の事情を考慮して送ると言う場合もある。
 だから中には折角粋をきかせた考えで送ったのに、現地の指揮官が受けつけないので宙に迷ったなどと言う例がないではない。

 例えば昭和十七、八年頃トラック島では、折から激化したソロモン戦の為、ラバウル行の娘子軍が停帯して居るのに加えて、マーシャル群島方面に予定されて居た女軍を同方面の指揮官が受入れを拒否した為、トラック固有の女達と合せて約三〇〇名もがせまい島内で氾濫した事がある。
 その次の場合は業者自体が国策便乗のバスに乗り遅れまいとする遠大な計画の下に当局に運動して進出したのも相当多い。が是は勿論金儲けが唯一の目的だから大体大根拠地たる都会地に限られるようだ。

◆あばずれと純情型
 こうして何拠かの基地に娘子軍の進出が決められると内地に於ける軍駐屯地や軍港の料亭は、或ひは御用商人顔役等が肝煎りで必要人員を集めるのが常だ。内地の料理屋をそっくり移動したのもあるようだし、新たに募集したのもある。
 其の編成も行く場所、其の要求等でピンからキリまである。
 士官専用のものから、下士官兵用、軍属用、或いは飛行場作りの徴傭工員用と言った工合に分れて居て、其の営業所、営業状況もさまざまである。
 ニッパ椰子で葺いた屋根にベニヤ板一枚と言った家からシュミーズー枚のお姐さんが顔を出すと言う赤線区域そこのけの店もあれば、現地の家を徴発した洋館造りの家で営業して居る所もある。其の又洋館の中を畳敷きに改装した家もあれば、或は幽逡な山蔭に数寄屋造りを忽然と建てて、島田に裾をひいた美人が現われる所もあると言った工合であった。
 戦時中内地で営業して居た料亭も、それはそれなりに多少なりとも軍に関係が無い所は少なかったであろうが、連隊のある町や軍港以外の土地の料理屋もずい分現地に店を出して居た。茅場町の古い料亭其角などもそうであるし、読売新聞の隣の数寄屋寮はマカッサルに大川と言う高級料亭を経営して居て、はるばる内地から椛を空輸して日本酒の醸造までもして居た。
 東銀座で大和と言う赤提灯を出して居るおでん屋は新嘉披のジョホールバルの新喜楽と言う料理屋の後身であるし、有名な岐阜の浅野屋もトラックに進出して居た。だが南の方にだけ話を限定しなければ、中国、満洲方面に店を出して居た家、行っていた娘などは無数と言ってもよく、銀座あたりのバー、キャバレーで全然内地しか知らない女ばかりだと言う店は殆ど無いと言ってもよいであろう。
 では、こうした占領地へ進出する女達はどんな人が行ったのだろうか。
 大きく区別すると大体二種類に分けられる。即ちあばずれ型と純情型である。
 どうせ内地は食いつめた。流れ流れて落ち行く先はという訳で住み替え、住み替え行く女達。 昭和の始頃、私は揚子江を百浬も上った宜昌に居たが、其処に芸者が二人居た。長崎、上海、漢口と住み替えて邦人が僅か三十人位の宜昌に住みついた訳だ。
 又、仏印進駐後西貢で、私か少尉時代に膨湖島の馬公で芸者をして居た女に会った。大阪から台北、高雄、馬公と移って西貢に住み替えたのである。
 こうした人達はだからいずれあばずれの名に恥じぬ人であるが、元来が男にだまされたり、いれ上げたりと言う夫婦善哉型が殆どなので案外気のよい女達が多く、それに芸達者な連中も多い。しかし身体を酷使して居る結果、麻薬中毒の人も少なくなかったようだ。
 もっとも日本の女は昔から天草女の名で、大きく言えば世界に鳴りひびいて居た訳だから、海外雄飛の先輩の名を辱かしめない勇敢な女性は掃いて捨てる程あるのであろう。米兵につきまとう洋パンは何も敗戦後日本女性が突如思想的変化を生じた訳ではなく、南の方にも戦前から新嘉坡あたりは勿論、遠くスエズ辺りまで行って居たし、上海の河向こうには米兵のオンリーが群れをなして住み、其の中の数名は支那事変中米水兵に附いて日本軍爆撃下の重慶にも住んで居た。
 もう一方の純情型と来ると是にも幾種類かあるようだ。好きな人が出征したから私もと言う槨子の葉蔭の再会を夢みるロマンス型や、純真な気持で国策に従う者、或ひは募集者の甘言にだまされた者等である。
 実際現地での仕事も唯給仕だけと言う綺麗なものから、最初から肉体だけを唯一の目的にするものとに分れては居たものの、行く先々の状況、戦況の変化、それに明日を知らぬデスペレートな気分などに支配されて、純情型の夢一筋で無事内地へ帰って来た女性は稀ではないのだろうか。
 こうした娘子軍を私は先にやまとなでしこの名で呼んだが、此の女達の中には相当多数の「トラジの花」や、「ジャスミンの花」も混って居た。
 徴傭工員や下士官兵相手にはむしろ半島出身の女性の方が多かったであろう。
 彼女達は勿論彼女達だけで一単位をしめて居るのだが、日本語は無論出来るし、体格は立派だし、それに当時の人種的感情から言って内地出身の兵に対するサービスもよく、タフで純真であるので一般に好評であった。が半島と言っても余程辺鄙な所から来るらしく、彼女達の日本語が全然兵隊用語その借を覚えこんで居るのは哀れにもほほえましかった。彼女達が戦争の形勢が悪くなってからも尽した沼ぐましい純情な話は各地で数多く伝えられていて、現在の日韓両国の関係を考えると感慨深いものがある。

◆あるエピソード
 次にお伝えするのは実際に特要員として現地に渡り、終戦後引揚げて来て現在新橋駅前の狸小路でビーフンを売り物の台湾料理屋を開いて居る元台南「あづま」の女将の話である。
 「私かマニラヘ渡りましたのは十七年の十二月でした。 私の店は台南にありましたので当時南方進出の気運が強かった頃ですから、高雄、台南と次々に建設される海軍の航空部隊の将校連中がよく遊びに見えました。そんな関係で太平洋戦争が始まってマニラが落ちると直ぐに、台北の海軍武官府にお百度をふんで、現地での営業希望をお願いして置いたのですが、許可が下りましたのは十七年の暮でした。早速私の家に居た妓を中心に十三名の芸者を集め、それに板前、髪結、大工、左官まで全員三十名で其の年中に高雄を出発致しました。
 船は海軍の特務艇で手を延せば右舷と左舷が両手でつなげそうな小さな船に便乗したのです。一行の他に芸者が着る衣裳からそれにすぐお正月ですから紋つきも用意致しましたし、食器、畳、壁土までも用意すると言ふ仲々大所帯でした。途中当に揺れましたが先ずは無事に着いた所は、マニラ市のパコ区バダンバヤンでサンマルセリノのフリーメーソンのお寺を割り当てられました。パイプオルガンのある家でした。

 此の家を改装して料亭にしたのですが、既設の宗数的なものはさわらぬように注意したものの妙な工合でした。
 マニラには海軍関係は士官以上のが私共一軒、下士官兵さんのが他に四、五軒ありましたが、陸軍関係は部隊が多い為士官以上用が広松と言ふのがありました他、下士官兵用は数十軒もありました。其の頃は全くよき時代のマニラで、私共は外出するのにも内地の芸者姿で街を歩いたものでした。
 其の後、バンゼルマシン行きの船で沈められた別府の蔦屋の人が増えたりして芸者は二十名程になりましたが、だんだん米軍の反攻がきびしくなり、十九年九月海軍側の特要員は全員内地への帰還命令が出ました。もっとも陸軍側は引き上げ命令が出ず全員街に残っておりましたが、海軍側は十九年十一月までに氷川丸で内地へ引揚げた訳です。

 私の所も一緒に引き揚げさせましたが、私はもともと海軍のおかげで此の地へ来て、良い時だけ勤め、戦況が悪いと直ぐ逃げて帰るのではあまりにも情けなく思われましたので、陸軍側の方々も残って居る事だし、私だけは残して頂き度いとお願いして、私と弟とすずめと言う芸者と板前だけは、何かお手伝する事でもあればと、皆様と同じく苦労をするつもりで残りました。もう其の頃は毎日のような空襲でしたが、病院のお手伝いなどして過ごして居ります中、十月に入ると直ぐ米軍がレイテ島に上陸し、マニラはもう大変な混乱でした。こうして一月七日私共はリンガエン湾に上陸する米船団がマニラ沖を航進して行くのを眺めながら、三年を過ごしたマニラを棄て徒歩で避退地へ出発しました。もんぺに運動靴、背にリュックサック、両手に包みと言う姿です。
 山道を二週間の行進の間に、包の着換へは一つ棄て、二つ棄て、運動靴は底が破れて、バヨンボンと言う所に着いた時は文字通り着のみ着のままの姿でした。
 早川機関少将指揮の軍部の人達と一緒でしたが、もう此の時は死ぬ覚悟でした。
 八月十七日米軍の飛行機が終戦を告げたビラを撒いて行きました。
 それからカガヤンに集結し、一月五日病院船氷川丸で引揚者として内地の土地を踏んだ訳です」

◆半年で前借金返済
 彼女達は大体当時四、五千円の前借金によって前線に赴いたが、契約期間の標準は1ヵ年位であった。これを早い者は僅か三ヵ月普通六ヵ月位で返済したということであるから、その過重な労苦は到底われわれには想像出来ない。米軍の反撃が予想以上に早かったので、空襲や雷撃の危険に曝される機会が想像以上に多かった。契約期間が切れても、適当な便船がないため、前線で終戦を迎えた者も少くなかった。彼女達の貯金高は相当なものだった。当時五、六千円から一万位のものが普通だったし、中には三万円も貯金した者があったと聞いて、誰も驚く処である。当時の金であるから、今の金に直せば、相当な額となる筈である。これによっていかに彼女達が、前線基地の衆目の対象だったかが判るのである。
 前線の彼女達の相手は勿論軍人軍属に限られたことであるが、この相手の中にも、さまざまなことがあった。何と云っても戦闘機や爆撃機の搭乗員が一番人気があった。あっさりしていて金遣いも荒かった。前線部隊の軍人は休息の時間と給与とが限られていたが、民政部関係の従軍文官や報道部関係の従軍班員は、時問的にも経済的にも恵まれていたので、彼女達を独占する機会もあり、物議をかもす中心となった者もいた。しかし一番ちゃっかりしていたのは、彼女達を直接管理する立場にあった特権階級がいたことである。
 配給や移動を取扱う者が絶対の権能を有していたことは、何処の社会でも、何時の時代でも同じことだった。
 マリアナのような処は別であるが、概ね戦局が悪化し、戦線となるおそれのある処では、一般婦女子の引揚を前以て行うのが通例であった。勿論特要員の撤退も行われたが、この引揚は大陸と違って容易なものではなかった。相当の犠牲者を出したのである。
 占領地には家族の同伴が許されなかったので、艦隊は女の同胞として特要員の送還を重視し、どこの部隊でも、その撤退には意を用いて、慎重を期していた。赴任させる時と同様であった。彼女達の中には、遂に内地帰還の機を逸し、特志看護婦に転身した例もあるが、敵の空襲により戦死した者もあった。
 特要員の大部分は責任者の班長に引率されて、無事内地へ帰還した。現在落着のある生活に入った者も少くないであろうが、大半の者は戦前の生活を今もなお続けているのではなかろうか。若しそうであって、不幸の中にあるならば、いばらの路を切りひらいて、落着のある生活に入っていただきたい。多幸を祈って已まない。
  (「特要員と言う名の部隊」より)

汚名への反論 No1  支那の場合

汚名への反論 No1  
支那の場合
突然、慰安婦に抱きつかれ・・・。
強引な客引きに驚く
  元独混第十旅団一等兵 M・K(匿名希望、北九州市 80歳)
  昭和史研究所會報 第29号 平成11年9月10日号

 昭和十四年頃渡支、初めての作戦行動の折に、山東省章邱県の或る駅(駅名は忘れた)前附近で気付いたこと。初年兵で初めて討伐参加で「色気」どころか命がけの出陣であった。駅前で集結中、駅前から少しはなれた砂ぼこりの路上に而して、土でかためたような支那の田舎の小屋と云った感じ(三坪位)の入口に。むしろ゛かぶら下げてあり、その前に苦力らしき支那人が一人で立っており、兵隊相手にお金をもらっていた。二、三名の古兵殿が丸腰ではなかったが、一二〇発の小銃弾を入れた弾薬ごう付きの帯剣だけはキチット付けてゐるのを見て異様に感じた。寸暇を利用しての″ピー買い々を初めて見た。我々初年兵には無用のことで之からの戦闘の方が気がかりであった。
 昭和十四年八月頃歴城県の或る駅に配属され、更に約四十㎞奥地の部落に駐屯勤務していた頃のことである(人口五十戸位で豊かな感じがした村である)。深夜部落の北歩哨線を交代しての帰り、余り広くない路上でいきなり暴漢ではない、支那婦人の独特の変な化粧の″におい々のする四十歳前後のバーさんに暗闇の中で抱きつかれてビックリした。簡単な誘いがあり、若さのいたりと好奇心で、任務終了報告後、便所に行くと断り、意を決して小屋を訪ねた。”しみ油”でのうす暗い灯りの下、化物のような大きな陰口、足を上げた動作は、二度ビックリ。気分が悪くなり看看料三角(もう)(三十銭)位払って早々と退散した。この部落は、私か引っかかった処がある位で他には無いようでしたが、この種のショートルーピー(人目を盗んでやる)は、大なり小なりあったと兵隊仲間では聴いたことはよくあったが、我々は常に敵襲を予期していたので、女どころではないと云うのが実情であった。
        ◇
 出先中隊の駐屯する処には必ずと云って、支那ピーが四人~五人位近くに住んで居るというのが実情のようでした。但し、兵営よりかなりはなれた処にあった。代金は史料のとおりだったと記憶する。田舎では案外安かったのではないか。若い兵隊は遊び半分でふざけたものが多かった。懸命に通うものは先づ無かった。毎日死を忘れることのない日々であり、自分の身を護ること、襲撃に対する備え等々、反面内地に帰還する心で一杯。之が本心で、一日千秋の想いであった。戦友も1/2は戦死。今日生き永らえていることがありかたく、常に戦友の。御冥福”を祈り現地で至る処で御世話になった。
好意的な支那の方々の事は終生忘れることは出来ません。

 | HOME | 

プロフィール

野生馬 太郎

Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


最新記事


カテゴリ

戦争裁判 (13)
満州開拓団 (2)
戦後処理 (4)
朝鮮半島引揚げの惨事 (4)
終戦直後の混乱 (9)
北朝鮮への帰還運動 (2)
シベリア抑留 (4)
慰安婦 (16)
その他 (7)
未分類 (0)
サハリン(樺太)韓国・朝鮮人残留 (3)
終戦時の朝鮮半島 (1)
韓国軍 (5)
日本人捕虜虐殺 (1)
空襲被害 (6)
海外からの引揚 (9)
日本占領 (1)
ソ連軍の暴虐 (3)
慰霊 (1)
戦場の実相 (8)
在日 (5)
韓国の売春事情 (9)
アメリカ (2)
メディア論 (1)
高級幹部 (2)
負け犬の心理 (2)
中国の不条理 (2)
歴史認識 (10)
北朝鮮 (2)
台湾 (1)
北海道が危ない (6)
満洲 (15)
韓国・北朝鮮の国民性 (2)
国家 (1)
朝鮮人強制連行 (1)
国家の軸 (1)
共産党研究 (1)
政治家のあるべき姿 (1)
中国人とは (1)
日本の伝統文化 (1)
朝鮮総督府 (1)

月別アーカイブ


最新コメント


最新トラックバック


検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QRコード