大東亜戦争「玉砕」一覧表

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大東亜戦争「玉砕」一覧表

昭和の戦争記念館 第5巻 名越二荒之助 展転社からの抜粋
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マニラ法廷 フィリピン軍による戦犯裁判

■モンテンルパの死刑囚はゲリラ戦の報復だった
伊藤正康(陸将 陸自富士学校長、”あゝ モンテンルパの夜は更けて”の作曲者)
ーー途中から抜粋ーー
比島軍事裁判は一体何であったか。一言に要約すれば、基本的には米軍のそれと同じであり、その二番煎じでしかなかった。米軍当時の調査資料がそのまま踏襲されただけで、独自の調査活動はなかったように思う。両者ともに裁判は人道と正義の名において行われたが、裁かれた側から見れば、戦勝国が敗戦国の個人に対して行った「報復」以外の何物でもなかった。比島軍事法廷では時として反日感情が露呈し、判決の結果から見れば、米軍以上に厳しかったといわざるを得ない。
 比島裁判第一号工藤ケースの工藤忠四郎氏(秋田県)は私と同連隊(歩兵第十七連隊)に属し、彼は中隊長、私は連隊本部の幕僚(兵姑)であり、起訴項目(バイにおける住民殺害の責任)について彼とその中隊がまったく無関係であることを私はよく知っていた。それゆえに日本人弁護士K氏からの依頼で某日弁護側証人として法廷に立った。K氏の質問に対して、私が答えようとする矢先、検事が立って「この証人は同じ罪名ですでに起訴されている。本証人の証言は信用するに値しない!・」ことを主張し、ついに私の口は封ぜられてしまった一幕を、今も思い出さずにはいられない。

 昭和二十二年十一月六日、工藤氏は、死刑を宣告されてマンダルョンの独房舎に入れられた(比島軍事裁判の死刑第一号)。 やがて私の出番となる。ほとんど工藤氏と同じ罪名だったので、工藤氏を担当したK氏に私の弁護をお願いした。 開廷劈頭、検事側証人が現われ、事件発生の経緯を述べたかと思ったとたん、被告席にたった一人座っている私を指さして、「この男が現場の責任者だった!」と供述したのには、当方が驚いた。バイという場所へ私白身今まで一度も足を踏み入れたことがなかった。それだけに裁判で負けるとぱ思ってもみなかった。この後の弁護側証人、私自身のアリバイ証言も、事件の生き残りと称する一人の住民の証言には勝てなかった。昭和二十三年一月二十一日、私もまた工藤氏同様に死刑を宣告されてしまった(死刑第四号)。この日からマンダルョンにおける独房生活が始まった。先に判決を受けた工藤氏はもとより、その時点ではまだ、米軍により死刑の宣告を受けた人々が約十名残っていた。
 独房に入ってから自分の裁判について考えてみた。結局は法廷に現われた住民の証言を根本から覆すだけの資料がなかった。ただ自分自身のアリバイを供述するのに精一杯で、住民の言うような事件なんてものはなかった。住民の証言は嘘だと主張できなかったところにわが方の弱昧があった。

 昭和二十年二月上旬のある日、―すでにリンガエンに上陸した米軍も、ナスグブに上陸した米軍もともにマニラヘ進撃していた。―食糧収集に出かけたわが約一個分隊ぐらいが、バイにおいてゲリラによって全滅したことが報ぜられ、その翌日所在の部隊により報復的ゲリラ討伐が行われたことも耳にはしていたものの、その細部を私は知らなかった。所在部隊が前述工藤中隊でなかったことは確かだが。結局のところ、工藤氏も私も、日本車の行った報復討伐に対する報復裁判だった。
比島側にしてみれば、被告は日本人でさえあれば誰でもよかったのであろう。

 これに類する事例は他にも限りなくあったと思うが、具体的に述べようとすると残念ながら明確な資料は私の手許にはない。ただ一つ後述する中村ケース(十三名)はセブ島の事件で責任をとらされたのであるが、この十三名のうち少なくとも四名は、当時その島にいなかった。にも拘らず判決は、全員死刑を宣告されてしまった。
 戦後比島側により誇強調文張されたにせよ、日本軍によって戦時中犯された数々の事件をいまさら言い逃れようとは思わないが、そのほとんどが比島側の「ゲリラ」によって触発されたこともまた明白である。
強調文
 比島の「ゲリラ」とは一体何であったのか。その多くは、開戦初期日本軍による比島攻略作戦時、すでに米軍の構成員だった比島軍人である。米軍の降伏時、同時に彼らも降伏したが、日本占領時代の初期釈放された(ルソン島だけで十五万人もいたといわれる)。釈放後、マッカーサー再来を信ずる軍人の多くが「ゲリラ」となり、米軍将校の指揮下で、占領日本軍に反抗し、あるいは反抗するよう住民を扇動していた。
 マッカーサー将軍は自らの予言どおり、昭和十九年十月大軍をもってレイテに進攻、さらに昭和二十年一月ルソンに進強調文攻したのである。これと軌を同じくして、各地のゲリラが一斉蜂起しないはずはなく、住民もまたこれに同調したことは紛れもない事実である。

 米軍の上陸と同時に戦闘を強いられた部隊からは、戦犯者は出ていないと思う。逆に米軍上陸から本格的戦闘まで、若干の時間的余裕のあった部隊(私の部隊はその典型だった)では、戦後多くの戦犯犠牲者がでている。米軍来攻以前に行わざるを得なかった「ゲリラ」との対決が、多くの住民を捲き込んでしまったと、弁解がましいが言わざるを得ない。とは言ってみても、その行為が今日正当化されることはないであろうが。
 比島におけるゲリラとはそのようなものだった。もとより戦後彼らの多くは、英雄視され、米軍人として当然の報酬を受け、各方面で活躍していた。

戦記シリーズ23「戦争裁判処刑者一千」 新人物往来社

ソ連軍は満州で何をしたか

 日本の人的犠牲と物的被害
 昭和二十年八月九日午前零時を期して行われたソ連軍の満洲、樺太、千鳥に対する侵攻は、あらゆる意味で不当なものであった。 ここではソ連軍が満洲地区で日本人に与えた人的、物的被害を一覧表にして掲出した。 これをご覧になれば、ソ連が如何に無法で悪辣なことをしたい放題していったか、更には、日本の敗戦七日前に突然参戦したスタlリンの狙いもあわせお分かり戴けると思う。人的被害の中で民間人二十数万が死亡しているが、大東亜戦争の戦域でこれほど多くの死者を出し、しかもその多くが終戦を過ぎてからのものである。 このような地域は他に例を見ない。その上に現地人の妻となった婦人や、残留孤児となった乳幼児も数千人をくだらないのである。

 物的被害はこの表でも分かるように、現在の価格にしたら天文学的数字のもので、これらを掠奪同然に持ち帰り、または破壊したのである。一般的に、満洲国の産業施設の四割が撒去され四割が破壊されたといわれている。米国ポlレl委員会の報告は、その意味で大変貴重なものである。

 ソ連のこれらの行為に対し、中華民国は当然抗議をおこなった。満洲が中国領に復帰する以上、満洲における日本の財産と満洲国の遺産は、すべて中国に帰属するのが自然との理由である。この抗議に対するソ連の回答は、 「満洲の施設はソ連の『戦利品』とみなす」というものだった。

 何をかいわんやである。それのみかソ連軍は役務の報酬や資材の買人れに軍票を発行した。
公称九十九億円というが、そのため招いたインフレが日本人難民の困窮の度を一層高めた。日常物資の生産を行いたくともそれらの施設はすべて持ち去られるか破壊されていた。

 ソ連がおこなった占領政策は、大東亜戦争後のどの地域に較べても比較にならないほどその悪辣さが際立っている。そのために蒙った日本人の苦しみは、他の外地引揚者に比して格段に大きかったのである。

ソ連軍侵攻による人的被害(死亡者)一覧
各地の撤去状況

「昭和の戦争記念館 第2巻」展転社 名越二荒之助編から抜粋

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