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体験記 抑留ー引き上げ・復員その2

一億人の昭和史 日本占領 1降伏・進駐・引き上げ から抜粋

■ 南十字星の下 妹尾英男

 北部マレーのビドル収容叫にいた私たちが、シンガポールに移送されたのは昭和二〇年の暮れであった。シンガポール島の西端ジュロンと呼ぶ一帯は、丘陵と湿地帯からなる荒蕪地である。敗戦直後、シンガポール在留の日本人はいち早くこの地にバラックを建てて集団生活を営んでいた。ほどなくマレー半島、スマトラの一般邦人も逐次送られて来て、いわば内地引湯の中継地となっていたが、ピーク時には、四、五万人にも達していたであろう。
一棟に約三〇人が起居できるバラックが整然と建ち並んでいて、集会所、野外劇場まで設けられていた、英軍は概してシビリアンには寛大で、ビドル収容所で味わったような強制労働も、ここでは行われていないようだった。
炊事の手伝いや、水汲みの使役に出る以外は、麻雀などで時間をつぶすのが日課であった。

 マラッカ海に日が沈み、シンガポールの街の灯が夜空に映える時刻になると私たちは香りの高い英国煙草をくゆらしながら、野外劇場をひやかしに出かける。出場者にはクロウトもいて、なかなかにぎやかなものだった。なかに丸顔のひどく歌の上手な少女がいて私たちを驚かせたが、この娘が久保幸江さんだとは後日知ったことだった。ジュロン抑留所での三ヵ月間は、私の人生の中でもっとも屈託のない安逸の時だったかもしれない。独身者の気楽さで、私はシンガポール残留を希望した
がいれられるはずもなく、翌二一年二月、廃虚と化した故国に帰還した。(神戸市在住)

■ 抑留列車 高崎初喜
 私たちは放心したように線路の上に立っていました。ここは北朝鮮の咸興より、二つ三つ南に下がった小さな駅でのことです。

 二〇年一〇月、ソ連軍発行のパスポートを手にした私たちは内地の土を踏める日が近いことを信じつつ清津駅をたちました、二両の貨車に二〇〇人もがつめこまれました。男は数人のみで、あとは女と子供でした。だが、やっと、ここまで来たときに、「機関車に牽引力がない」との理由で私たちの貨車二両を切り離して、列車は行ってしまいました。

 食料と水を求めて私たちは朝鮮人の村へ行き、戸をたたきました。「イルブンサラミ(日本人)には分けるものがない」と、かたく戸を閉ざし、屋外にある井戸のポンプまではずして家の中に持っていってしまいました。
 一日、二日とむなしく日は過ぎました。そして.三日目がきました。線路のはるかかなたに機関車の煙が見えたのです。みんな大喜びで手を振リました。間もなく列車はこの駅に止まりました。そのとき銃を持ったソ連兵が一〇人くらい降りて来ました。貨車には日本の軍人が捕虜として乗せられていました。言葉をかわすことはできません。黙ってお互いのあわれな姿を見つめあい、涙がほおを伝いました。兵隊さんたちも泣いていました。やがて、その貨車は北に向かって動き出しました。

 そのときです。「捕虜の身にこんなものはいらない」と叫んで毛布、財布、果糖などを私たちの貨車に向かって投げてきました。 「日本へ生きて帰れよ!」、「子供を死なすなよ!」と口々に絶叫しました。はたしてあのときの兵隊さんの幾人が、日本の土を踏むことができたでしょうか。  (金沢市在住)

■ トラック 金子正七 
終戦の日から一週間後、この新京にもソ連兵が進駐してきました。二五日、私と同僚の小野田さんが満州自動車の社用のトラックに乗って南嶺方面に物資の調達に行った帰り道、人影もまばらな官庁街の大通りを横道に曲がった途端、二人づれのソ連兵にバッタリとぶつかってしまいました。さっと自動小銃をかまえたソ連兵はトラックに停車を命じました。なにごとか声高にしゃべっているのですが、さっぱりわかりません。近づいて来てステップにあがり、さかんに新京駅の方を指さしています。そっちへ走れということらしいので仕方なく、ノロノロと車を走らせました。

 私たち二人はここで捕まってシベリアヘでも送られたら一大事だと目くばせしながら、脱走のチャンスをうかがいました。ソ連兵の任務はどうも自動車の徴発のようでしたが、とられてたまるかと大和魂がちょっと頭をもたげました。二人のソ連兵はヤケにしっかりと車につかまっていて、ふリ落とす機会もなくて、とうとう新京駅の見える所まで来てしまいました。なんと駅前の広場にはソ連兵がウジャウジャといました。そして徴発された自動車の列がずーっと続いていて私たちのトラックはその最後尾につけるように命じられました。しっかり停車したのを見定めて二人のソ連兵はステップから降りると前列の方へ報告に行くらしく、駆け足で車から離れました。「それ、今だ」とっさにバック! フルスピードで逃げだしました。二人は後ろから飛んでくるかも知れない弾丸の恐怖も忘れて、顔を見合わせて思わずニッコリと笑いました。

 しかし、トラックをカムフラージュして草むらに隠したかいもなく、中国人の密告で三日後、ソ連に召し上げられてしまいました。      (東京都在住)

■ トイレ 榎本 侑
 日本敗るの悲報全聞いたのは保定の陸車病院であったが、私の原隊である保定幹部候補生隊は、当時のいわゆる国共内戦で国府軍に加担し、ハ達嶺方面に出撃していたため、原隊復帰のできない私はそのまま北京に後送され、ここから内地帰還の部隊を編成して復員するということになった。 昭和二一年の一月、私たち日本兵を満載した無蓋貨車は、天津を目指して、折からの寒風をついて走ったのだが、長時間停車したり、またノロノロ運行などして、某夜、廊坊という駅に到着した。ところが、なんたることか、トイレで用を足しているうちに、復員列車は私を残して出発してしまったのだ。

さあ、たいへん。駅分哨の国府軍に尋問され、翌日、一般中国人の汽車で天津へ行くより方法がないという。だが、天の助けか、国府軍の装甲列車を見つけ、これに便乗、どうにか天津の駅までたどりつくことができた. これからがまたひと苦労。一目で日本兵士分かる軍服、しかも支給されたばかりの新品のものを着ているため、部隊の集結地を求めて市内を歩く私のあとを中国人がゾロゾロついてくる。身辺の危険を感じた私は人力車を見つけて、とにかく日本人のいる所へ連れてゆけというのだが、とんでもない所で降ろされて、べらぼうに高い料金を請求される始末。
 やっと日本人部隊の集結している集中営にたどリ着いたが、トイレの一件は笑えぬ大きなミステークだった。   (田無市在住)

■ 愛馬葬送曲 伊藤武雄
 異様な沈黙の列が続いている、南国の灼けた道に重苦しい列は延々と続いている。一頭、一頭、軍馬は兵に引かれてやがて丘の小道を登る。ときどき兵は愛馬の一肩を撫で首筋をたたいて、はげますがごとく慰めるがごとく呟くが、その目は暗く沈み、足どりは重い。やがて丘の中腹まで登ると視野が広がり、左側に地隙に似た断崖があって板の仮橋がかかっていた。その上に馬をとめ、一握りの青草を与える。それを無心にむさぼる馬に一発の銃声。いななく間もなく愛馬は谷底に転落し、やがてかすかに地響きがはい上がってくる。

 銃声は、軍馬への厳粛なる葬送曲であり、儀式の進行の合図でもあった。兵はみな唇をかみしめ、涙をこらえ、嗚咽を必死に押さえ、その冥福を祈るばかりであった。丘の下から愛馬たちは一列に登ってきつつあるが、銃声のたびに軍馬の耳は一様にビクンとはするけれど動揺はまったく見られず、さすが砲兵部隊とともに六年有余の砲撃戦を経験した強者としての貫録十分で、たのもしい限りだが、数刻の後に迫る運命を思うとき、哀れさが倍増されて涙があふれた。 こうしてこの日約一〇〇〇頭の軍馬が心収拾ならずも射殺され、バンコク郊外のナコンナヨークの丘は鬼哭啾々の霊場と化した。昭和二〇年一〇月四日のことである.。            (北九州市在住)

■ 水飢饉   飯豊 正五
 商工省から第一六軍軍政部付文官として派遣された私は、インドネシアのバンドンで終戦を迎え、その後、同地で強制使役をつとめたうえ、二十一年四月、ガラン島に島送リとなった。シンガポールから五時間ほどの赤道直下の無人島であるこの島は〟餓乱島″ともいわれたようにヤシの木すら育だない荒涼たる小島である。ここで四○日間、餓死寸前に追いこまれるまで過ごしたあと五月二五日、復員船となった空母「鳳翔」で帰国することになった。

 ところが、出航してまもなく、海水を浄化して真水に変える給水装置が故障してしまった。シンガポールに寄港できない当時、次の寄港地は台湾の高雄で、およそ一週間はかかるという。わずかの真水を貯蔵した給水タンクが五〇〇〇人を超す日本兵の命の綱となったのである。酷熱の南シナ海上、スシ詰めのカイコ棚の船室………そして水は一日たったコップ一杯、であった。

 なんとかして水を・・・というわけで舷側からバケツをロープにつるしてくみあげようとしても、二〇ノットのスピードである。バケツが水面にはねあがるだけ。せっかくくみあげてロにすると、そのあまりの塩からさに吐き出してしまうほどだった。

 窮余の策として、給水タンクの漏水に目をつけ、夜半、水泥棒に出かけるとたちまち見つかってリンチを受ける始末。はてはコップ一杯の水が腕時計や万年筆と交換というふいたらくとなった。この相手の甲板員は日本人船員であったと記憶するが、人間には水が食物より優先するとはいえ、浅ましい限りであった。          (東京都在住)

■ 星条旗    八子 淳次
 ホノルルから船で復員した。二一年十月のことである。復員船の中ではいまだ勝ち組の苦悩があった。祖国の無条件降伏が信じられないというのである。これはマッコイ収容所の暑い夏から始まっていた。「負けたという証明もないのに、なんで負けたと君たちは信ずるのか、陛下に申し訳がないではないか」というのだ。係員がいくら事実をありのまま説明しても、納得しようとはしない。「日本が負けたというその証拠を見せろ」「アメリ力から借りた船だなどというが、日章旗を掲げているではないか」と叫ぶ。

 やがて浦賀へ着いた。湾の水は青く美しかったが一隻の駆逐艦が片隅で傾いていた。恐るべき敗戦の事実がしだいに明らかになってゆく。赤十字から来た老看護婦が「皆さん、ほんとにご苦労でございました」と優しく出迎えてくれた。母のような声であった。それから広場へ出たら、アメリカで見慣れていた星条旗が、高々と中央に翻っているではないか。「畜生!」「ガッデム!」というやけくそまぎれの声が流れ、祖国はもう完全に星条旗の下に置かれているのだという感懐が、我我の胸を秋風のように寒々と吹き抜けてゆく。

 それから広場ではMPの手による所持品検査。タバコ三個と日用品は没収されない。だが、禁制品のUSAの記号入りの軍隊毛布を二枚、隠し運んできたヤツがいたのには仰天した。それは皇道派だかなんだか知らないけど、いつも立派な言葉を吐いていた男であった。
         (新潟県南蒲原郡在住)

■ 便器運搬   時岡弘志
 私たちは、第八七飛行場大隊の兵士として、スマトラのコタラジャで終戦をむかえたが、引湯の途中、シンガポールで現住民のストにあい、その代替要員として日本人作業隊となったが、幕舎の表門には、ジャパニーズ・プリズンと大書してあり、収容所はジョホールバルを指呼の間にのぞむゴム林の中にあった。

 作業隊は毎日幕舎から英印兵の引率で、徒歩で作業に出かけたが、ある中国人民家から七、八歳のこどもが小走りに出て来て、親しげに紙巻きタバコようのものをニワトリに餌をやるようにぱらっとまいた。日本兵は将校も兵士も先を争ってそれを拾ったが、実はそれは白い紙を巻いただけのものだった。

 作業場へ行く途中の道路わきに、旧日奉軍の軍票が山のように捨ててあり、風が吹くたびに空に舞った。我々より少し前にここに到着したものは、全裸でシンガポール市街を走らされたという話を聞いた。 作業場はカマボコ型の大きな倉庫で、その一棟々々にはI〇〇キロほどの米や砂糖、チーズの缶詰めなどがあり、英印兵の監視の目を盗んで、手を血だらけにして缶詰めを開け、むさばり食べた。見つかればもちろんチャンギーの刑務所行きであるが、それほど私たちは空腹だった。

 変わった作業といえば、大小便器の清掃である。六畳ほどのところに溜まっている大小便は炎熱の太陽のため、表面二〇センチほど固くなっていたが、それをスコップでとりのぞいて下にあるのを汲みとった。また、民家の便取りもあった。ある日、私たち二人が重い便器を持って二階の階段をおりていると、頭の上に落ちて来る液体がある。上を見ると同じ日本兵が四階の階段を、あふれた容器を運んでいた。             (玉野市在住)

■ 神霊    影山敏治
 二一年三月、国府軍の進駐で瀋陽(奉天)市内もやや平穏をとり戻した。私は当時、大和区青葉町の出雲大社教奉天分院院長を代行していた。 三月末の朝、軍装の将兵十数人が朝鮮なまりの強い医大生服の男を通訳にして入って来た。なにごとかと玄関に出ると「本日午後四時までにこの建物より全員退去せよ」という。私が「ここは日本人の神廟である。難民救済所として一五〇余人が住んでいる。退去できない」というと彼は「軍の命令である。昨日、営ロより到着した砲兵部隊を駐留させる」。私は「建物はすでに、国民政府瀋陽市公署に接収され、その管理を委任された責任者だ。承諾できない」と説明すると「軍の作戦行動上占領する」といいすてて彼らは引き揚げた。

 私はさっそく瀋陽市公署の邦人財産接収委員の李さんを訪れ相談したが「軍には勝てない」といわれ引きさがるだけだった。苦難! 受難! 時間はすでに正午を過ぎていた。その時あることがひらめいた。一週間前、紅梅町の元幼稚園広場で露天商一〇五店の開店合同地鎮祭をした折、列席した国府軍、宇中校と親交を誓ったことを思い出し、最後の神頼みと夢中ではせ奉じた。宇中校はしばらく腕組みをして思案していたが「督察組へ行きなさい、連絡しておきます。接双書を持奉して・・・」と助言してくれた。奉天ビル隣りの食糧会社跡の事務所へ走り込んだ。中国語で「この建物は督察組が管理する。許可なく立ち入りを禁ず」と書いた文書をいただいたのは三時半。正四時、彼らは現れたが、この文書を見ると即刻退去した。私は宇中校に感謝し、督察組の権力を改めて認識した。
 お陰で八月引き揚げるまで、出雲大社のご神霊と奉天神社のご神霊を無奉奉祭できたのである。
          (島根県斐川町在住)

体験記 抑留ー引き上げ・復員その1

一億人の昭和史 日本占領 1降伏・進駐・引き上げ から抜粋

■三十八度線  朝日 望

「さあ行こう」押し殺した男の声が暗闇の中から聞こえた。昭和二〇年一〇月初め、夜中の一時ころだろう、待ちに待った脱出の日がきた。朝鮮人の船を買収し北緯三八度線を海路突破するのだ。しかし本当に船に乗れるのだろうか、密告され全員逮捕されるのではないか、期待と不安を胸に二キロほど離れた港に向かった。

一〇〇人くらいはいるだろう。当時一七歳の私を頭に四人の弟妹と母の六人家族だ(父は十九年に死亡)。おとなたちに遅れまいと四歳の末弟の手を引き必死に歩いた。港にはソ連軍の目を逃れるため、防波堤の石垣の下に十トン足らずの小さな漁船が二隻あった。

 それを見ると整然と並んでいた列が急にくずれ、われ先にと乗りこみ始めた。おとなたちは自分の妻子を乗せるため人を押しのけ暴力を振るっている、小さい子供が泣き出す、私たちはじっと順番を待った。小さい船倉がすぐいっぱいになった。まだ数家族が残っている。おとなたちは「荷物を捨てろ」「もっとつめるんだ」と怒鳴りながら狂ったようにわが子を人の頭の上に投げ込む。どうにかみんな乗りこみ、私たちが最後に乗りこもうとしたそのとき「乗るな、もういっぱいだ」「お前らは残れ」の怒号。

 「私たちだけです。乗せて下さい。子供ばかりです。助けて下さい」。船べりをつかんで母は泣いて頼んだが、その手は冷たく払いのけられた。つかんでもつかんでも払われ、蹴とばされた。船はエンジンの音を押し殺し、沖に向かった。これがいままで生死をともにした同じ日本人だろうか。私は涙も声も出ず立ちすくんだ。どのくらいたったろうか、ふと我にかえったとき、聞こえるのは母のすすり泣く声と波の音だけだった。私は静かにいった。 「さあ元気を出そう。収容所に戻ろう、死ぬなら一緒だ。明日があるさ」。それからIカ月後、同じ港から脱出できた。(長野市在住)


■アクチブ  石川末隆
 アクチブ(活動分子)たちは、疲れきった捕虜を砂浜に並べ「これから第一、二、三分哨で、ソ連官憲の厳しい所持品検査がある。それに引っかかったら後戻りになる。そうならぬように正直に、針、ハサミ、ロシア紙幣を出せ」と、わずかの所持品全部を没収し、分哨に誘導する。

 そこには日本兵が朱に染まって倒れ、その背後では、財閥が酒池肉林に溺れている宣伝ポスターがあった。分哨に入るとソ連検査官が、我々の背を申し訳なさそうに触り「カネがあるか」「ない」と答えると「よしよし」と簡単に全員通過。わずかの所持品を没収された捕虜が「にっくきアクチブめ、日本船に乗ってみろ、海底に叩き込んでやる」と砂を蹴飛ばす。

 アクチブたちは毎日、焼けつく砂浜に我々を引っ張り出し、ソ連賛美、天皇、軍閥、財閥、地主を罵倒し、思想教育をする。そして数日後、我々は小雨の降るなかを岸壁目指したが、さして波浪はないのに、天候不良で船が接岸できぬと、またも幕舎に追い返された。

再び数日後、岸壁に行く。 日の丸をなびかせた船が接岸している。ソ連兵が人名の頭文字だけ読むと、我々はタラップを駆け上がりマストにしがみつき「おおっ、日本船には日の丸があるぞっ」と叫んだが、船員に「敗戦は事実か」とは恐ろしくて聞けなかった。我々はソ連の謀略にひっかかったのではあるまいか。ヒョッとするとこの船は捕虜交換船ではあるまいか。我々は生きて虜囚のはずかしめを受けた。日本軍の状況をソ連に提供したという想定のもとに、処刑されるのではあるまいかと、新たな恐怖におののくのであった。          (益田市在住)


■夫を失う 深山小百合
 旧満州国の安東市で苦しい難民生活一年ののち、持ちこがれた引揚の旅か始まった。第十三大隊、一行三〇〇〇人。老若男女を交えたこの多人数を引率する幹部も大変だったであろうが、一年間こじき同様の難民生活に心身ともに弱り果てた人々は、気力だけで足を引きずっている状態の人が多かった。出発後三日目 かすかな月明を頼りに、岩角にしがみつき、木の根にすがり、ずるずるとすべり落ちそうになるのを必死に手にさわるものに何でもしがみつき爪を立て、山中をあえぎあえぎ登った数時間。夫は一家四人の衣類や乏しい食糧を詰めた重く大きなリュックを背負って四歳の長男の手をひき、私は二歳の二男を背負って、互いに呼び交わしながら、命からがらの行軍であった。途中落後者が多く出た。"もうどうなってもいい、捨てて行ってくれ″という老婆もあった。

 ようやく平野に下り、荒れ果てた建物ながら雨露をしのげる宿を得てホッとしたのもつかの間、極度の心身の緊張がゆるんだ夫は、かねて栄養失調で衰えていたところへ心臓発作を起こし、わずか数時間で絶命してしまった、三四歳の若さで。この驚きと嘆きは一生忘れ得ない。

 安東市を出てまだ数日、先の長い引揚の旅の途中だというのに。翌日、空はよく晴れて、こんな悲しい出来事があるなどウソのように思われた。アンペラに包まれた夫の遺体は、すでに凍結しているので浅く掘られた土の中に埋められた。幼い長男が「土をかけたら出られなくなる……」と泣いた。無一物の難民生活一年、中国軍の激しい使役に疲れ果てていた夫。恋しい故国を一目見ることもかなわず異国の土になった夫。私は三十四年間、夫を思って泣いてきた。 (茨城県波崎町在住)

占領辞典 

一億人の昭和史「日本占領、2、動き出した占領政策」から抜粋

(ガリオア・エロア基金) 

飢えと焦土の中で決行される占領をスムーズに進めるためのカンフル注射と」て、アメリカが軍事予算から支出した対日援助費。ガリオア(GARIOA)は「占領地救済基金」として占領地の疾病や飢餓からくる社会不安防止のため食糧、医薬品などの緊急物資を、またエロア(EROA)は「占領地経済復興基金」として綿花、鉄、工業機械など経済自立のために必要な生産財を供給した。

 占領期間中に日本が受け取った援助総額は 一八億ドル(日本側の計算)にのぼったが、のちにこの援助は″もらったものか、借りたものか″が問題化。結局、昭和二六年六月、日米間で四億九〇〇〇万ドルを一五年の分割払い(年利二・五%)で返すことが合意された。

〔シャウプ勧告〕 
ドッジ・ラインを税制面から補完するため、コロンビア大学教授C・S・シャウプを団長とする税制調査団が二十四年九月に発表した税制改軍案。一四章十八万字からなる勧告案は①直接税中心主義②資本蓄情のための減税措置③地方財政の再編強化などを骨子とし、二五年度予算から早速実施された。

 これらの改革は戦後の日本税制の基本となったが、とくに「本年末、おそくも年度末まで滞納の一掃」が勧告された二とは、やがて「地田勇人(蔵相)オニより怖い。ニッコリ笑って税を取る」と皮肉られたほど、税金のきびしさを国民に体験させる二とになった。

〔対日理事会〕
 極東委員会とともに、昭和二十年十二月のモスクワ外相会議で設置の決定した連合国の対日占領管理機関のひとつ。米英ソ中の四カ国国代表で構成され、日本占領を実庖する連合軍最高司令官の諮問に応え、また必要な勧告、助言をすることを任せるとした。二十一年四月五日の第一回会議から講和条約発効直前の二七年四月二十三日の第一六四回会議まで、東京丸の内の明治生命ビルで定期的に開催。

 たとえば農地解放については、理事会の英国代表案がGHQ指令の基礎になるといった例もあったが、「(理事会は)最高司令官の日本管理における唯一の権威者たるの責任を分担するものではない」というマッカーサー演説(第一回会議)にもみられるとおり、初めからGHQとこの″助言者″との関係は微妙だった。とくに東西対立の激化につれて両陣営の露骨な宣伝の場と化し、議題のないまま開会即解散というケースも少なくなかった。

(パ一ジ)
 日本に乗り込んだ占領軍は、ポツダム宣言第六項に基づいて、、軍国日本を侵略に駆り立てた各界の責任者をいっせいにパージ(公職追放)した。二一年一月四日の覚書では″望ましからぬ人物″の範囲としてAからGまで七項が規定され、これによって二二年五月までに二〇万三六六〇人が公職を追われた。 だが初め″解放軍″として、共産主義者を含む左翼陣営に寛大だった占領軍も、国際情勢の変化とともに次第に右傾化。やがてパージのほこ先は共産党員とその同調者に向けられることになる。朝鮮動乱(二五年六月一五日)前後からいわゆるしッド・パージが本格化、総計一万一000人が職場を追われた。

〔プレス・コード〕
 昭和二〇年九月一九日のGHQ覚書で示された新聞規約。全部で一〇ヵ条から成り、「一、新聞は厳格に真実を守らねばならぬ」など″真実の報道””宣伝の排除″といったニュース報道の基本的なあり方を規定、同時に「四、連合軍に対し破壊的な批判を加えたり、同軍に対し不信や怨恨を招くような事項を掲載してはならない」など、占領軍に関する報道規制も盛られていた。このため、進駐軍兵士の犯罪報道には″大男の犯行″といった苦心の表現が使われたりした。コードに基づく検閲も厳重であった。

 実際に、重大なプレス・コード違反に問われた例は少なかったが、第一号は二三年五月二十七日付の「日刊スポーー『ツ」。アメリカのヌード・ショー上演に、GHQ貢献課長が関係したという記事が第一項及び第四項違反に問われたもので、軍事裁判の結果、編集局長が重労働一年(執行猶予)、同紙は六ヵ月間の発刊停止罰金七万五〇〇〇円の判決を受けた。

〔ポツダム勅令・政令〕
 昭和二○年九月二○日、勅令第五四二号「ポツダム宣言受諾に伴い発する命令に関する件」が公布され、連合国軍最高司令部の要求を実施するため、必要に応じ命令、罰則を設けることができるようにした。国会の同意を得ずに施行でき、あらゆる法律に優先するいわば超憲法的な効力をもつ法規であった。

 この緊急勅令に基づいて、さまざまの勅令や政令が出されたが、第一号は二一年二月二三日公布の勅令第一○一号(軍国主義・右翼団体の結社禁止)。この勅令第一〇一号を改正した政令菓六四号(団体等規正令)、国家・地万公務員の団体交渉、罷業権を否認した政令第二○一号(二二年七月三十一日)などがある。講和条約発効後、いずれも廃止された。 

〔極東委員会〕
 日本占領の基本船な政策を決定する最高機関として、昭和二〇年十二月、モスクワで開かれた米英ソ三国外相会議で設置が決められ、二一年二月に発足。米、英、仏、ソ、中、加、豪、オランダ、二ュージーランド、インド、フィリピンの一一力国(のちビルマ、パキスタンが参加)で構成され、ワシントンの旧日本大使館で定期船に会議が聞かれた。 占領政策の最高決定機関とはいうものの、現実にはアメリカの単独占領実施のため、ソ連との間に生まれた妥協の産物で、委員会の決定は米政府を通してのみ連合国軍最高司令官(SCAP)に伝達される間接的な役割しか持たなかった。それでも、マツカーサーが委員会発足前に新憲法草案を日本側に突きつけて、その改正を急がせたのは有名。

(指令・覚書)
 「日本の管理は日本政府を通して行われるが…必要があれば・・・貴官の発した命令を強制することができる」(二〇年九月六日 米政府通達)とあるように、占領政策の実施に当たって連合国軍最高司令官はさまざまの指示・命令を発した。七年弱の占領期間中、その数は大小二五〇〇件にも及んだといわれるから、 一日一件以上の計算になる。降伏調印にともなって発せられた第一号から九月二二日付の第三号までは指令(Drective)とされたが、それ以後は最高司令官覚書(SCAPIN MEMO)として、一定の形式によって日本政府に伝達された。

 このほか、最高司令官声明という形で″命令″の出されることもあった。二十一年三月六日の「憲法改正要綱に関する声明」や二十二年一月三十一日の「ゼネスト禁止声明」などである。また、二五年六月の共産党中央委員追放令のように、吉田首相あての最高司令官書簡という形式をとったケースもある。

〔オフ・リミット〕
 「立ち入り禁止」の意味。占領以来、この標示があちこちに立てられ、日本人にもなじみになった。占領当初、日本側の管理する倉庫に米兵が無断で侵入し、物を持って行く。「Don't enter」と掲示したがさっぱり効き目がない。MPに相談したら「OFF-LIMIT」と表示しろという。以来、ビタッと米兵の無断侵入はなくなったというエピソードもある。

特殊慰安施設で性病が発生すると、直ちにこの看板が出され、店はたちまち閑古鳥が鳴いた。それほど「オフ・リミット」の威力は絶大だった。 米兵向けだけではなく、日本人向けにも各基地などに、この表示が使われていた。

〔RTO〕
 占領後問もなく、国鉄の主要駅に「RTO」の大きな看板が出され、人目を引いた。国鉄もまた占領軍の管理下に置かれ、第八軍の第三鉄道輸送司令部(のち民間運輸局)が担当。その末端機関として置かれたのがRTO(RAILWAY SPORTATION OFFICE)で、各主要駅に陣取って占領軍関係の輸送とサービスに当たった。

 占領軍専用列軍の運行は最優先で、そのため国鉄は大変苦労した。専用客車として、展望車、寝台車、食堂車など九八三両(二十一年十月)が接収され、車体の白帯に「アライド・フォース」と大書した列車が各地を走った。なかでも高官用の特別列車は豪華版で、たとえば第八軍司令官専用の「オクタゴニアン」号は九両編成、食堂車は一一号御料車、展望車は一〇号御料車といったぐあい。満足な窓もないオンボロ列車にスシ詰めにされて旅をする日本人に、ため息をつがせた。

(GHQ)
 占領期を生きた日本人には忘れられない存在である。連合国軍最高司令部(ENERAL HEADQUARTERS  OF THE SUPREME COMMANDERS FOR THE WLLIED POWERS) )の略。対日占領業務遂行の総元締めで、進駐と同時に横浜に開設、二十年九月十七日からは東京・日比谷の第一生命ビルに移転した。

 日本占領は〟間接統治″だったが、実質的にはGHQが″政府の上の政府″として、二十七年四月二十八日の独立まで二四○○余日の間日本を支配、絶対権力を振るった。大きく分けて軍事面担当の参謀部(GENERAL STAFF)と非軍事面を担当する幕僚部(STAFF SECTION)があり、このうち、民主化推進の中心的な役割を果たしたのがホイットニーの率いる″進歩的な″GS(民政局)だったが、次第に諜報・治安を担当するウィロビーのG2(参謀第二部)との対立が進み、結局両者の地位は逆転、占領政策転換の背景ともなった。ニューディール派のGS次長ケーディスが、G2によって昭電事件や女性関係のスキャンダルを暴露され、職を去ったのはその象徴的な出来事であった。

〔地方軍政部〕
 GHQを本社スタッフとすれば、その出先機関としてラインの役割を果たしたのが地方軍政機構。原則として四八都道府県に置かれた″府県軍政チーム″がこれに当たる。第八軍管轄下に、全国八つの地方軍政部がそれぞれいくつかの府県軍政チームを統括した。(二十一年七月現在)

 府県によって大中小の三ランク(東京、神奈川、大阪を除く)に分かれ、小クラスで中佐以下三十一人、中クラスで中佐または大佐以下四〇人、大クラスで大佐以下四七人といった陣容。二十二年七月現在で、軍政要員は総計二四三九人を数えた。   
     
 占領政策が各地で忠実に実施されているかどうかを監視し、あわせて指導に当たるのがその主要任務。だが軍政スタッフの性格によって、任務遂行ぷりにも差があって、軍政部長自らトラックを指揮して税金滞納の差し押さえに乗り出したり、教員異動にまで関与するといった例(長野県)もあった。

〔ドッジライン〕
 米ソの冷戦が進むにつれ、占領政策を転換して、インフレに悩む日本経済の再建にその力点をおいたGHQは二十三年十月「経済安定九原則」を発表。さらにこの政策を推進させるため二四年二月、デトロィト銀行頭取ジョセフ・ドッジをGHQ財政顧問として招いた。ドッジは日本経済の現状を「米国の援助と補助金という二本の足に乗った竹馬経済」と診断するとともに、
①超均衡予算によるインフレ防止
②行政整理、企業合理化、耐乏生活③一ドル三六〇円の単一為替レート設定などの処方箋(ドッジ・ライン)を書き上げた。

 この大手術は直ちに】二十四年度予算から実行に移されたが、そのため日本経済は深刻なデフレ不況に見舞われ、金詰まり、倒産、失業が続出。銀行では預金が集まらず、嫁入り道具一式などの景品付き、最高三〇万円の賞金付きなどで預金獲得を競い合ったほど。

〔終戦処理費〕
  占領にともなう諸経費の負担については、当初明確な取り決めはなかったというから奇妙な話である。史上初の占領軍を迎えた日本側は、軍票使用阻止の一念で、占領軍に必要な日銀券の提供を約束し、事実、駐留経費を日銀の立て替え払いという形でまかなってきた。

 ところが二十一年四月、日本政府の負担とすることが明確となり、GHQの指示で二十一年度予算から終戦処理費が計上されることになった。調達命令(PD)によって提供される占領軍用の物資や施設、労務など直接占領経費はいっさいこの処理費でまかなわれた。たとえば二十二年度では歳出総額二○五八徳円のうち処理費五八五徳円、実に予算の三割弱を占め、その財政負担は大きかった。資金調達に悩む大蔵省の高官が、最高司令官あて″節約陳情〟の手紙を出したほどである。

 二十八年度まで総計四九六六徳円。このほか、兵器処理や進駐軍犯罪の見舞い金など間接経費も含めると五一三一億円で国民一人当たり六三一三円の負担となった。二十九年度以降は、対外処理費として存続した経費もある。

〔ララ物資〕
 アジア救済連盟八(LARA)が、日本など「アジア地域の生活困窮者を救うため、さまざまの救援物資(ララ物資)を送ってくれた。YMCA、アメリカ救世軍など宗教・労働関係十三団体で組織された大統領公認の慈善機関で、市民の寄付によってカン詰め、小麦粉などの食糧品や医薬品、衣料などを現物供与した。

 ララ物資の第一便が横浜港に到着したのは二十一年十一月二十九日。以来二十七年六月まで総計一万六二○○トン(日本円換算四〇〇億円)にのぼった。配分には日本政府が責任を持ち、各地の孤児・引揚者収容施設をはじめ、災害地や学校給食などにも特別配給された。恩恵を受けた日本人は一四〇〇万人にのぼるといわれ、各地でララ感謝の集いが開かれたほど。いまでも給食で飲んだ脱脂粉乳の味を覚えている世代も少なくないだろう。 

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