この死からの脱出-私の引揚体験記 その3

■現地人に助けられた父   大浦明美(21年11月満州・安東省荘河より引揚)

 昭和二十年八月十五日、当時、国民学校の三年生で、ラジオもデンキもない世界に住んでいた私にとっては、学校が早いめに終ったのと、その夜、父が一晩中、風呂をたき、書類を燃やしていたのが、常と違う印象であった。 ソウガというその満州の片田舎にある小さな町の警察にいた父は、憲兵隊だったか誰か親しい知人から電話があり、別れの言葉をいったあと、何発かの自決のための弾の音をきいたとあとあとになって、語ってくれた。その南京豆のおいしい海辺の町は、明けて八月十六日になると、大きな官舎の鉄の扉をたたきこわして乱入する現地人達を迎えた。昨日までとは打って変ったそのようす。家財をすみずみまで持ち去っていく姿は、幼な心にも大変強烈な印象であった。

 その日のあとに私達は、大連に近い町の小学校の講堂に寝起きしていた。このときの印象をいえば夜ごとにソ連兵が、若い女を探しに来るということで、十二、三歳から上の女の人は、みんな顔に炭をぬったり、断髪をしたりしていたのを覚えている。父は元警官であったため、ピストル等を所持することは具合悪いと考え、囲りの人達のを集めて、コウリに入れ、校庭にうめていたようだった。そして身分をかくすため、このころから家族全員が偽名になった。

 やがて、大連から塩運びのジャンクにのって安東に着いた。この町は、私は今でも第二の故郷と思っているくらい渡満した最初の想い出深い土地であった。そして、入学の思い出も深い国民学校を横目で見ながら、旅館に落着いた。二十年の暮だったように思う。この旅館は、避難民で満ちていた。戦時中一クセあった連中ばかりであった。特に父は、元警察の上層部ということでねらわれていた。

 昭和二十一年一月十七日のことだった。中国人が殺害され、その寛人が旅館にいるというので、みんな市の公会堂に集められた。雪の積った寒い日だった。結局、犯人がいたのかどうか判らぬまま、私達は安東市外の競馬場に移動させられた。途中脱走した人達は、ハ路軍に機関銃で射殺された。

 競馬場では、馬小屋一頭分が一家族であった。そのときのことだった。父は八路軍二十人ばかりに銃口を向けられ、円の中に立たされたのである。警官だったことがバレたのだ。彼らは、ピストルをかくしていて自分たちがおそわれるのを恐れたのである。父の言葉を信用しない彼らの、銃口が火を吹こうとしたとき、その中に以前可愛がっていた中国人が割り込んで来て、父の言葉を信用してくれ、ようやく釈放されたという。その父はいま七十歳を越えてなお元気である。 その競馬場からは十里以上の追放になった。寒風吹きすさぶなかを荷馬車にゆられ、湯山城という遠い親類を頼った旅が続いた。この村での生活は永く、落ち着いた毎日だった。しかし人々の胸に望郷の思い捨てがたく、コックリさんが大変流行した。そして二十一年九月、帰国のための苦しい旅につくのである。

 汽車にのれば二十分くらいの所が、戦火によりズタズタになっている。そのため毎日毎日川の中を歩き、山路を歩き、ときには無蓋車にのり、雨にたたかれ、死んだ人を路傍に見捨て、前の人におくれることなく毎日八里ばかり半月も歩いただろうか。

 京都、金せい、奉天、新京、そしてコロ島。このコロ島から玄海灘で流されながら、船は博多に着いた。コレラ発生で 一週間ほど上陸はのびたけれど、赤茶けた大陸の山を見慣れた私にとって、みどりの山々が、そして差し入れの青いみかんが、どんなに新鮮に映ったことだろう。昭和二十一年十一月も末の日のことであった。



■同性を救った10人の芸妓    篠原与四郎(20年12月北京より引揚)

 紅い夕陽が、淀んだ西の空を真赤に染めはじめたころ、北京の在留日本人の引揚者を乗せた輸送船(米軍LST)三隻が錨を揚げ、天津から白河を下っていった。それは昭和二十年十二月十日の夕暮れのことだった。

 天津の外港、塘活岸壁にいったん碇泊し、乗員(引揚者)の再検査が済んで薄暮の外海へ静々と進んだとき、上甲板に出ていた私たちの瞳がうるんだ。ニれが惜別の涙というものかしら、あれほど祖国の土を懐しんだ私だったが、いざ大陸を離れるとなったら、戦友や北京で世話になった人々の声が耳に残り、つい「さようならお先に……有難う」と唇から洩れ、夜のとばりの下りるのも知らなかった。 こうして引揚げの第一夜を迎えたのだが、九時には消灯、小さな保安灯が船内をわずかに照らしているだけだった。やがてたくましい黒人海兵が三名で巡視に廻って来た。たどたどしい日本語で一人が「おれたちは沖縄織の勇士だ。お前たちはこれからおれたちの指揮に従わねばならない。そこで、持っている時計、指輪など貴金属をみんな出せ」という。

 一人は一メートルほどの麻縄の束をもって引揚者の身体検査を始め、ワニ皮や高級品の帯革をしめている者からはそれさえ取り上げ、「お前はこれでよろしい」ととりかえる。もう一人はピストルをもって二人の行動を護衛していた。詰所というか監視所というか、一段高い場所に帰った彼らは、机の上に戦利品を並べ、なにやら話し合いゲラゲラ笑っている。話の内容は解らなかったが、おそらく戦利品の分配の話だったろう。 私の近くにいた引揚者の一人は素早く腕時計をはずし、もっていた握飯の中へ握り込んでしまった。黒人兵の帰った後で、彼はその握飯を割って見せた。握飯がコツコツと時をきざんでいた。彼は佐世保へ上陸するまで、その握飯を食うことは出来なかった。

 第二日目、船の速力は遅く、もどかしくてならない。朝食に支給された水は、小さな茶飲み碗に一杯ずつ、これで今日一日を過ごせというのだ。私と友人はいっぺんにググーッと飲んでしまった。午後になったらのどがカラカラに乾いてしまった。そこで、飯ごうをヒモでつるし、海水を汲み揚げて飲んでみたが、とても塩辛くて飲めるものではない。友人の島津国臣君(当時、毎日新聞経済部記者、のちTBSへ移る)が、北京の煙草公司の石渡理事長から兄の石渡荘太郎氏(当時、宮内大臣)へ渡してくれと預かってきたサッカリンを持ち出し、混ぜてみたが、甘辛のおかしな水が出来上って、これまたのどを通らなかった。船室へ帰ると、乗船のときから青ざめたフラフラの青年が血を吐いて寝ていた。彼はもともと肺結核で、船旅は無理と知りつつ、どうせ死ぬなら内地の土になりたいと周囲の引き止めるのをふり切って乗船したという。

 米兵による陵辱
その日、昼間は何事もなく済んだが、夜になって大変なことが起こった。昨夜、強奪に来た黒人海兵がまたやって来て、「上官の命令だ、十人ほど若い婦人を提供せよ」という。船内は大騒ぎ、若い夫婦者、独身女性など怯えきって唇をふるわせるだけで、声も出ない。黒人兵に連れ去られたら最後、生命の保証すらない。すると片隅から一人の女性が起ちあがって「このところはわたしたちにお任せ下さい。みなさんを鬼のような米兵のいけにえにするわけにはまいりません。わたしたちはついこの間まで済南で芸妓をしていたものです。どうせ体の汚れついでです。ちょうど十人おります。ちょっと片づけて来ますから……」といったかと思うと、彼女らは化粧をし直して出ていった。彼女らのうしろ姿に掌を合せるものすらいた。おそらく観世音菩薩の化身にも見えたのだろう。独り身の私は、このときばかりは故郷で私の帰りを持つ妻子の顔が思い浮かび、いつまでも眠れなかった。

 第三夜。肺結核で血を吐いて寝たっきりのあの青年がとうとう死んだ。所持品によって九州の男とわかった。誰ひとり、死水をとってやる者もいなかった。もっとも、朝、支給される一ばいの真水だけでは無理もない。深更十二時過ぎ、各グループから一人ずつ代表が上甲板に召集された。そこへ艦長が正装して現われ、「これから米海軍の慣習によって水葬を行なう」と宣言。舷側に、君が代の吹奏につれて日の丸がするすると掲げられ、やがて新しい毛布に包まれた青年の骸が静々と玄海灘に沈められていった。後ろの方から讃美歌の合唱が聞こえた。その合唱隊の中に、夜な夜な船内を荒し廻った黒人海兵の姿も見えた。その夜ばかりはさすがにシーンとしていた。やがて暗闇の海上に、漁り火がちらちらと見えはじめた。


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この死からの脱出-私の引揚体験記 その2

■病める父に青酸カリを飲ませ  山村文子(21年10月満州・チチハルより引揚)

 一九四五年八月に入ると、北満州のチチハル市の関東軍の動きが、私の目にもなんとなく異常に感じられました。トランクや柳ごうりだけの軍家族が、軍用トラックで、どんどんどこかへ移動して行くのです。やがて、ソ連参戦、満州里、ハイラル等から、民間人婦女子が着のみ着のまま、なかには寝まき姿のままで逃げて来た人もありました。

 城内に住んでいた私が、「日本八街の方に移るように」と申し渡されたのは、十四日の夜でした。しかし日本人街に私達の避難する余地はありませんでした。行き場所のない婦女子三百名ほどが広場に集められ、一人の将校から、「この聖戦を勝ちぬくためご早天近くの工場に行って働いてもらう……二名の男子引率者をつける……」との訓示を受けて、貨車に押し込まれたのは、八月十五日の夜明けでした。このとき、すでにこの将校は、自分の家族を南下させていました。敗戦を知ってぃたのでしょう。

 子供を背負い、前に荷物をぶらさげ、着こめるだけ着こんだ私のそばで、中国人の友人は、チチハルに残るよう熱心にすすめました。しかし、私は関東軍の言葉を信じておりましたので、私の働きがお国のためになると思いました。訓示に従わないのは非国民となると思っておりました。
 北満州の大平原を走る、私たちの乗った貨車めがけて、ソ連の飛行機が機銃掃射をあびせてきました。そのたびに私達は平原に散らばって、大地に身をふせました。地平線までつづく大地と空、停車したままの貨車と駅舎、静まりかえった八月十五日のひるすぎでした。駅舎の水をもらいに行っていた一人が帰ってくると、「よくわからないけど………戦争まけたらしいの。駅長さんから聞いたの……」と、とぎれとぎれに伝えました。

 大地に寝ころんでいた一同は、「まさか……」と、起き上がりました。「うそよ……」と言って、私たちはふたたび横になりました。駅舎にたしかめに行った引率者か、「広島に新型爆弾が落とされ、天皇陛下のお言葉があったそうだから、ほんとうらしい……」と帰ってきました。
 「チチハルを出るんじゃなかった」と、後悔しましたが、家に帰れるとほっとしておりました。しかし敗戦を迎えた安達から、二日目につれてこられたのはハルビン駅でした。線路の横では、関東軍の物資がどんどん焼かれていました。つかれきった私達は、乾パンを噛みながらぼんやりとその火を見ておりました。私たち女、子供、老人の一団が、二名の男子引率者に逃げられたのは、収容所に入ってまもなくのことでした。

 こうして、職なく、家なく、金なく、祖国の保護からも捨てられた私たちの共同生活がはじまったのです。持ち金を出してメリケン粉を買い、一日二食、だんご汁を作ることになりました。何日食いつなげるかわかりませんが、のばせるだけのばさなければということになり、親指大のだんごが二、三個入った塩味だけの汁が、空缶などに一ぱいずつ。こんな日が二十日もつづいたころには、浄化してない水を飲んだためもあって、ほとんどがパラチフスにかかり、ふらふらしておりました。

 その上に毎夜のように、土足のままふみこんでくるソ連兵。囚人兵がまず満州に入ってきたとかで、銃でこづいて時計を取りあげ、着ている物まで「ダワイ、ダワイ」と、はぎ取ってゆきました。栄養失調で動く力もなくなった助い子供達が、まず眠ったまま動かなくなっていきました。収容所の庭には、毎日、土まんじゅうが増してゆきました。娘が「お父さんお薬よ……」と、上部から渡された青酸カリを飲ませました。

 「えろろ・・・にがいな・・・」とつぶやいた中風の老人が、目を白黒させてこと切れました。父親の瞼をそっととじてやりながら、娘は涙を落しました。私の一歳半の息子も、骨と皮になって、「オブ、ちょうだい」という言葉を最後に、逝ってしまいました。

 ソ連軍の鬼畜行為
「お母ちゃん助けて!!」と泣きさけぶ娘がソ連兵にかかえてゆかれ、「私が行くから……私が行くから・・・」と、追いかける母親の必死の抵抗もむなしく、下半身が血だらけになって母親に負われて帰って来たこともありました。ハルビンの日本の出先機関にも行きました。しかし、「日本がなくなったいま、何か出来ますか」との言葉が返ってくるだけでした。こんななかでも、それ相当の地位にあった人々の家族は、金を持たされて出たらしく、街にあふれている食物を買って食べておりました。
 こうして日本に帰るまで長い流浪の旅で、人間のみにくさ、美しさを知りつくしました。きたない日本人も多くいたあのときに、規律正しい八路軍から暖かい心を受けたことは、終生忘れることはありません。

 いまも、敗戦で死んだ一般の日本人が、旧満州の広野で、街で、眠りつづけております。またあの混乱の中で親を亡くしたり、ほぐれたりした子供たちがたくさん満州に残ってぃます。生きていることへの感謝を、これらの方々へのお役に立つよう、生きてゆこうと思っております。


■姉ちゃんのお骨を首にさげて      金田雅博  当時・満州安東在住、引揚後島根県 (安来市立赤江小学校六年生のとき執筆)

 ぽくは満州熱河省承徳で生まれた。(略)ここでは五つのときまでいた。つぎは奉天にかわっていっった。(略)姉ちゃんは国民学校二年生だった。妹の公子は三つで、弟の康博ちゃんは生まれたばかりの赤ちゃんだった。(略)ぽくたち日本人は満語を知らなくても、満人が日本語をよく知っていてとても親切だった。奉天には一月から八月までいて、つぎにかわったのは安東だった。(略)五日目に終戦になった。そして九日目にトラックに荷物を乗せて(略)出発したが、途中の北鮮(註・亀城)で日本人は通行禁止にあってそこで一年間くらした。亜麻会社という(略)きたない工場をかりて、土間にかますを三枚ずつ重ねて、その上にアンペラをしいて、そこで八百人もぎっしりつまって集団生活をしていたので、(略)いろいろ悪い病気がはやって、三つから下の赤ちゃんは殆んど死んでしまった。毎日のように小さなおかんが山にうめられるのを見て、ほんとうにかわいそうだった。そのときぽくの弟のわいい康博ちゃんも、。ジフテリヤで病気になってから三日めに、ぽっくり死んでしまった。まるまるふとっていたので、死んでもねむっているようなかわいい顔をしていたので、山へうめるのがかわいそ
うでならなかった。(略)

 とうもろこしのこなでおだんごを作って食っていた。それも一日二回だから、とてもおなかがすいているけれど、そのおだんごをたべかけると、とてもまずくて食べられなくてこまった。『略』もうこれから先、いつまでもいられないので、ふとんや着物を売って自動車賃をつくって、鉄道本線(註・定州駅)まで出ていったが、そこでロシヤ兵が汽車に乗せてくれず、また、いた所へ追い返されてしまった。しかたがないので、野宿をしながら歩いてでた。(略)十八日間、その間の苦労といったら口にも筆にもとてもいいあらわすことができない。途中で大人二人と子供一人が死んだので、かわいそうだったが、川原にうめて来た。

 この時うちの姉ちゃんは病気になったのをむりに歩かしたので、鳥目になって、夕方になると目がみ
えなくなった。妹の公子をおんぶしているお母さんの両手に、姉ちゃんとぽくはつかまって歩いた。お父さんはその一団の責任者であったし、病人のたんかをかついでいたので、家の者のめんどうはちっとも見てもらえなかった。(略)保安たいに荷物をけんさされた。ときどきにせ者がいて切れものを全部とられた。(略)かぽちゃを川原の石にぶっつけて、さじで小さくきってにてたべた。(略)やっとの思いで三十八度線の近くまでくると、あちらこちらの道からひきあげ者がたくさん集って来て、二千人ぐらいの人数になった。そこで三時間ぐらい道路にずらっとならんでけんさをされて、通行ぜいをとられた。その間にぽくたちの前にいた人がマラリヤがおこって道路の上でぶるぶるふるえていたが、みな自分たちもくたくたにつかれているので、どうしてあげることもできず、かわいそうだったか、水をのましてあげることぐらいしかできなかった。(略)

 ここから十分ぐらい歩くと大きな道路に出たので、皆やれやれといって休んでいると、そこへ天幕村から日本人の世話係の人がむかえに来てくださった。「皆さんおかえりなさい。みなぶしに帰られてよかったですね」といわれたときには、みなうれしなきにぽろぽろないた。(略)出発してから屋根の所で安心してねることが出来ると思うと、米軍のありがたさがしみじみとうれしかった。(略) 一週間ののちコレラのうたがいのない者だけ貨物列車で釜山までおくられた。釜山から六千トンの貨物船に乗せられたときは、これで内地へ帰れるといって、みなうれしさのあまりなみだをうかべた。

 あのときのうれしさは、いまだにはっきりとぽくは思いだすことができる。その日の夕方なつかしの内地の博多についた。明後日はいよいよ上陸というときコレラ患者が出たので、上陸は二週間のばされた。(略)姉ちゃんはえいようしっちょうのため、他の者より先に上陸させてもらって福岡の病院に入院した。姉ちゃんにはお父さんがついて伝染病の病室に入れられたので、姉ちゃんには窓からでないとあえなくなった。

 入院してからIカ月目にとうとう死んでしまった。その朝、窓から早く早くといわれて二略)ぽくと妹は手のぬけるほどお母さんにひっぱられて、姉ちゃんのへやへ行ったときには、もう死んでしまっていた。死ぬ前にははれていた顔が、死んでからすっかりはれが引いて、もとの姉ちゃんの顔になっていた。かんごふさんにアルコールできれいにふいてもらうと、「ほんとうにきれいでロウ人形のようだ」といって、同じ室の人がなみだをこぽしてくれた。せっかくここまで帰っておりながら……ほんとうにかわいそうだった。そのよく日、姉ちゃんは小さな箱の中の骨となってしまった。ぽくはこのかわいそうなお姉ちゃんのお骨を首に下げて、おばあさんの家に帰った。

 〈付記〉この作文の原稿は、当時の担任が保有されていて、昨春小学校の百年祭に発表され、初めてこのような思い出を書いていたことをしりました。 父 金田豊吉

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