この死からの脱出-私の引揚体験記 その1

■海を渡って38度線突破  小西静子(二十年十一月 北鮮・清津より引揚)
 
 北鮮の清涼から南鮮へ向けて出る最後の引湯列車、それも四両連結の貨車でした。二十年十一月初旬、日々厳寒に向かうこの土地に見切りをつけたのです。 ほんとうに着のみ着のままでした。ソ連軍の切断作戦のためこの町もしだいに反日のきざしが強くなって来ました。きょうまで何百里歩きつづけたことでしょう。地下足袋もいつしかすり切れ、家から持ってきた主人の鬼足袋も十里ほどで足裏が血に染まってきました。衣類もぼろぼろ、背中の子供も投げ出したくなるような重さでした。胸は負い紐で傷が痛みました。いまはただ汽車に乗り、たとえ少しでも内地に近づくことが出来ると思えば、狂喜にも似た気持ちで一杯でした。運転手は北鮮の人とソ連兵だったようです。しかし期待していた列車は、二、三の駅を走っては二日も三日も止まったきりで動こうとはしません。夜ともなればソ連兵が貨車を破って侵入し、いつもの略奪です。私達はきょうまでそんなことは馴れていますが、ただ婦女子を襲うことだけが恐かったのです。またあるとき北鮮の人がわめきながら車の中に乱人して来て。
 「この汽車は我々のものだ。日本人は降りてしまえ」と叫び一人の男がソ連兵をつれて来ました。窓口で事情を話していた日本の男の人が銃で殴られ、ただ無言のまま立っております。鬼のような形相のソ連兵が、こんどは私達に銃口を向けました。「皆さん伏せて下さい」と一人の老人が叫びました。薄笑いさえ浮かべてソ連兵は車から降りて行きました。

 さて八十名あまりの人がI貨車にすし詰め状態のまま、ちょうど1ヵ月ぶりに私達はキンコウという町へ降ろされたのです。久しぶりに駅で手足をのばし、コンクリートを床に夜を明かしました。さて虎の子のお金も千円になり、金の切れ目は命の切れ目にならぬよう、一日も早く京城へ脱出したい心でいっぱいでした。

 キンコウから南鮮へ山を越えて鮮満の人々が歩いております。日本人は私達二組、みんなで八名でした。服装もチマとチョゴリでした。でもこの単独突破は朝鮮の少年に見破られ、「ヤッポン助だ」とソ連兵に密告されて捕まり、とうとう失敗してしまいました。

 さて待望の二度目の突破の日がやって来ました。昭和二十一年二月四日、それこそ劇的な死にもの狂いの1ページでした。当時、私達は地理的に有利な海州の高台に収容されていたのです。明けても暮れてもみんなと脱出の話ばかりでした。この海州の引き潮を利用して対岸へ渡れば南鮮でした。その決行の夜がいよいよきょうなのです。

 その夜は淡い月光が私達を祝福するかのように……星も光っておりました。すべての準備を終えて私は子供を背中に、鍋を首にぶらさげました。手に食糧です。主人の後につづきます。みんな息を殺して保安隊の詰所を通り、村のあぜ道を静かに抜けて息をつくひまなく引き潮の海上に走り出したのです。 無人の海はなにか無気味なほど閑静でした。あちこち大きな沼がまるで怪物のように口を開け、視野のつづく限り暗黒の別世界のようでした。後方の女の人が悲鳴をあげています。人々のざわめき。銃声が二度、三度聞こえました。朝鮮人の案内人が逃げようとしています。私は無意識にその人の手をつかみました。「あんたは私達を見殺しにするのですか。この海の真ん中で私達はどうしたらいいの」と哀願したのです。
 「奥さん、向こうのほうに灯が見えるね。あれはソ連の飛行場。早く逃げなさい」そうこうするうちに、半分くらいの人が前進するのを諦めたのか、背後に人影はありません。もちろん案内人もいなく月は
雲にかくれて、あたりは暗くなってきました。ふと前・を見ますと、藤本さんが幽鬼のように立っております。連れて来た女の子三人が見えないのです。問いつめましたら、「みんな沼にはまって死んでしまった」と男泣きしています。瞬間何か冷たいものが私の背筋を走ったのです。

 後方から小山さん一家四人が近づいて来ました。お題目を唱えています。もう何時間すぎたのか。それより飛行場の灯の遠いこと。近くに見えては私どもを嘲笑するように明滅しています。だんだん疲労も激しくなり、足もとが浮いたようになってきます。睡魔がおそってきます。ふと夢の中で子供の泣き声がしたようでした。

 立って前方を見ますと、右の方向に黒い長蛇の列がうごめいて見えます。そして赤ん坊の泣き声が聞こえてくるではありませんか。私は懸命に泣き声の方へ走り寄り、うしろの男の人に助けて下さいとすがりつきました。それはこの土地の引揚者の人達でした。
 「御苦労さんでした。どこから来たのですか。私達のあとから離れないでついて来て下さい」とまるで神様の声のようでした。海を渡りきったところに大きな川が流れています。腰まであったと思います。無我夢中で渡り、やっと岸へ上陸することができたのです。待望の三十八度線脱出が成功したのです。時刻は夜も白む午前五時ころでした。

 私達の四十名中八名がこの海の犠牲者になってしまいました。みんな沼に足を取られてなくなったのです。私達の身代りになられた人々の冥福を祈りつつこの記を閉じます。



■ピストル出せと拷問  細野淑子(21年9月満州・チチハルより引揚)

 私の一家十人は、北満のチチハル市に住んでおりました。両親と八人兄妹で、終戦当時、兄は二十四歳で長女の私が二十二歳、一番下の弟は小学校の二年生でした。 日本への帰国が開始されていた昭和二十一年の九月初め、父と母は事情があって八人の子供を残し、一足先に日本に帰国することになりました。半月遅れて子供八人は引揚列車に乗ったわけでした。両親の事情というのは、こんなわけでした。

 昭和十二年から満鉄社員だった父は、大変に大陸が好きで「満州に骨を埋めたい。せまい日本には自分は住めない」とも話して、満州がとても気に入っていたようです。昭和十六年の秋、父がチチハル鉄道局に転任になったので、一家は住み馴れた奉天を離れ、北満のチチハル市に移りました。一家十八は満鉄社宅に落着いて平和に暮していました。その後、戦況はしだいに悪化の道をたどり、「日本は戦争に負けるのでは?」などささやかれる中で、昭和二十年七月、兄は応召され、消息の知れぬまま八月十五日の終戦を迎えました。

 兄は満州にいるのか、南方にでも回されているのか、毎日案じていました。父は当時五十二歳で、体格もよく、働き盛りでしたが、終戦で満鉄が崩壊して父の運命にも変化が始まっていました。満鉄で父が防衛関係の仕事をしていたので、終戦後まもなく中国の官憲から取調べを受けるようになり、何度も連れ出されました。父の仕事の関係上、武器をどこかに隠匿してはいないかというものでした。
父は終戦時、武器は関東軍に引渡し、整理のついていることを申し述べましたが、なかなか信じないのか、ピストルはないかといって押入れの中を必死になって捜したりされました。

 連れ去られた父は「ピストルー丁でもよいから、出したらすぐ釈放してやる」とおどされ、次には拷問を受けました。山口県の萩に生まれ武家屋敷に育った武骨な父は、「ないものはない」と一喝したそうですが、そのたびに拷問が加えられ、若いころ軍隊できたえた体に自信のある父も、全身に青いアザをつくられ放りだされて帰宅するしまつでした。家で養生して体がすこし回復したと思うころ、また顔ぶ
れの違った連中が乗り込んで来て、父をロープでしぼり、町制に乗せてどこかへ連れ去るのでした。そんな父の様子を訴える警察もなく、家族は敗戦のみしめさをかみしめるだけでした。

 そのうち、父の友人や知八が力となって父を助けるために運動してくれましたが、ピストルー丁でも戦利品として入手したい一味によって、父が連れ去られることもわかり、母がお金を包んで連絡の者に渡すと、父は早く帰れるようになりました。しかし、このまま同じようなことをくり返していると、拷問によって父の体がもたなくなるからと、知人の家に父と母はかくまってもらうことになり、社宅をでて四キロ離れた家に移り、静養することになりました。

 そんなとき消息不明だった兄が、ひょっこり帰宅したので、弟妹の喜びようは大変なものでした。北安の山奥で武装解除を受けた兄は、満鉄社員だったため釈放され、南下する貨物列車に身をかくして帰宅、戦友はシペリアに連行されたのでした。

 日本人の引揚も近いという話に、兄は父に代って露店に立って菓子を売り、八百屋を開いたりしながら、引揚の費用を準備しました。チチハル高女の四年生だった妹も男装して兄と露店に立ち、弟たちはソ連兵相手にタバコを売ったりしました。

 二十一年九月十四日、残暑の強い日ざしを受け、重いリュックを背に出発することになりましたが、お隣りの石原さん宅の奥さんが心臓病で歩けないので、担架を造り、四八の男子で持つことになり、兄もその中の一八として病人を連れ、重い荷を背に、七人の弟妹を連れての引揚が始まりました。
 なかでもハルビンと新京間の鉄橋が爆破されているところでは、全員下車して次の駅まで歩いたのですが、その光景は忘れることができません。焼けつくような大陸の陽を受けて、重いリュックを背にした人々は、ただ下をむいたままあえぐように十三キロ余りを歩きました。病八の担架を持った兄たちは、汗を流して}歩一歩進み、途中病人を地に置いてご主八が注射を打つのですが、そのとき病人は弱々しい声で担架を持つ四八の男子に、「本当に済みません」といっておられた言葉を思いだします。

 二十分、三十分と歩くうち、人々はリュックの中から毛布を捨てる人、オーバーを投げる人、終りには食糧まで捨ててゆく人……。隊列は乱れ、弟妹も遅れてヨタヨタ歩いておりましたが、兄はふり返りながら「死にたくなかったら早くオレについてこい」と叱咤したものでした。そして無事萩まで、兄妹八人たどり着きました。

 毎年八月十五日には八人の兄弟が集まり、赤い夕日の満州、重いリュックを背に歩いた十三キロの遺のりの話に花が咲きます。子供と別れ、病院列車で引き揚げた父は、萩に帰国してまもなく他界しました。
スポンサーサイト

方面別海外引揚要図

方面別海外引揚要図昭和36年12月31日現在 1億人の昭和史 4 毎日新聞社

燃える空と地の間で---私の空襲体験記

『一億人の昭和史』 4 空襲・敗戦・引揚 毎日新聞社からの抜粋
■ガソリンの雨            宍戸 かつみ(当時・東京都江東区亀戸町在住)

 昭和二十年三月十日。史上空前ともいうべき東京下町一帯の大空襲に江東区亀戸町で被災し、幸いにも五人家族全員生き残り、当時、小石川西丸町にあった叔父の家(母の実弟)を頼って、やっと落着くことが出来ました。が、それも東の間、あの呪わしい日からわずかIカ月ばかりの四月十三日夜半、ふたたび大空襲に見舞われました。

 ちょうど叔父は会社の仕事で地方に出張中、家族は京都に疎開しており、私どもは居候兼留守をあずかっておりました。私は当時、女学校四年生(17歳)で、学徒動員で本所にあったD機械工場で働いていましたが、学校も工場も焼けてしまいました。祖母は三月十日の空襲にこりて福島県の山の中に疎開させ、兄は海軍省の上役の方のお宅に下宿させてもらっており、一家離散の有様でした。後は娘の私と薬剤師である父、当時心臓病で弱かった母と三人のわび住いの毎日でした。

 四月十三日の晩は風もなくおだやかで、妙に不気味なほど静まりかえった夜でした。あれはちょうど10時過ぎだったと思います。警報が出て、毎度のことながら身仕度をして、父母と様子を見ておりました。間もなくB29の爆音と味方の高射砲のお腹にひびくような、ズシンズシンと、にぶい音が入り乱れて、だんだん近づいて来た様子です。その時なにかがピカツと光り、突如家の中がパァッーと真昼のごとく明るくなったので、とっさに外にとび出してみると、左手の上富士前の方角に照明弾がキラキラと落下して行くのが目に入りました。理研の建物がある場所あたりです。それと同時に空襲警報のサイレンが、けたたましく鳴りひびき、親子三人防空壕へすべり込んで、父と私だけ入口から首を出して空を見上げておりました。

 敵機の爆音からして、今夜はどうも大編隊でやって来たらしく、地鳴りや轟音がいつもと違うようで、イヤな予感がするなと思った瞬間です。突然、頭上でガラガラッ、ザァーッザァーッと耳をつんざく音とともに、ドスンドスンと、二、三度身体に猛烈なショックを受けて、頭をどこかへぶつけました。壕が。サュサゆれ動き、天井から土砂が降って来ます。

「やられたナ」と思ったとき、父が「ここにいたらあぶないっ、外に出ろ」と、母と私の手を引っぱって壕の外に出ました。前の路地に出ると、お向いのタンス屋さんの家に直撃弾が落ちたのです。ゴーツとものすごい音をたてて、あっという間に紅蓮の炎が吹き上げ、もう二階が崩れ落ちてないのです。無我夢中で走り、四つ角まで来ますと、もう大勢の人達がひしめき合っていました。大塚、巣鴨、六義園方面は空も地も見渡す限り火の海で、わずかに南の後楽園(春日町方角)方面だけがほの暗いだけ、人々は完全に猛火の円の中に立たされてしまったのです。いつもは沈着冷静な父も顔色を変えて。

 「こっちへ移って来てまだ日が浅く、地理がよくわからない。運を天にまかすしかないから、覚悟だけはしておけよ」といい渡すのです。逃げまどう人々の流れに押され、突きとばされ、雨のように落下する焼夷弾の洗礼を死物狂いでよけながら、同じような場所を行ったり来たりしていたらしいのです。気がつくと市寛永川下停留所の所に立っていた私達でした。すぐ近くに、当時の鈴木賃太郎首相の邸があるのです。そのとき警防団員の人が途方にくれている私達に、「皆さん早く徳川邸に避難して下さい」と、大声で呼んでくれたのです。大きな門を入ってみると、もうたくさんの人々が避難しておりました。雑草の生えた池のほとりに、やっと坐る場所を見つけ、いざとなったら水中にとび込む覚悟でいました。

 やがて邸の回りの樹木に火が燃えうつり、パチパチと音を立て始めました。列火が風を呼び、煙と熱風が激しく吹きつけます。敵機は未だ頭上を悪魔のように乱舞しています。そのときポトリとなにか顔に当たりました。雨かなと、手でさわってみると、プーンとガソリンの臭いがするではありませんか。敵機はガソリンをまいて焼夷弾の直撃をかけてきたのです。はらわたの煮えくり返る思いですが、どうすることも出米ません。隣りに母と並んで坐っていたどこかの上品な老婦人は、さきほどからずっとお念仏を唱えどおしです。私も他の人達と力を合わせ、防空頭巾を池の水に浸しては吹雪のように降りかかる火の粉を夢中ではらいのけていました。どのくらいの時間が過ぎたのか、ふとあたりが次第に静かになって来たのに、皆われに返りました。いつの間にか敵機も去り、東の空が白みはじめ、長い夜が明けたのです。

 親子三人、しばらくは放心状態で口もきけませんでした。私達はふたたび九死に一生を得て助かったのです。こ『生死を共にした老婦人が、「助かって本当によかったですね。火の粉をはらって下さってありがとう。おかげさまで駄目だと思っていた塞が焼け残ってぃました」といって、自宅からわざわざおにぎりを持って来て下さったのです。異臭の立ちこめる焦土の中で、いただいたあのおにぎりの味は、その人の温情と共に、一生忘れることが出来ないでしょう。昼すぎ親類の者が、私たちを探しにやって来ました。

 学校や心あたりを探したが見つからず、百パーセントあきらめていたとのことでした。 母をリヤカーに乗せ、徳川邸を後に余鑑くすぶる市電通りを黙々と歩いて行きました。途中、静かな谷中の通りにさしかかったとき、まぶしいほどの陽光に照り映えて桜の花だけは、あでやかに咲き誇っておりました。



■水田に座り込んで            小林正子(当時・芦屋市茶屋之町在住)

 昭和二十年六月から終戦にかけて、阪神間もご多分にもれずB29の来襲をたびたび受けた。そのつど交通は遮断され、二十二歳の私は勤め先の勧業銀行神戸支店から、阪神電車の線路づたいに芦屋まで家路をいそぐ。三宮あたりの阪急高架下には、その日の爆死者が百体、二百体と、整然と縦に一列に並べられていた。死者はすべて焼夷弾のために蒸し焼きになり炭化している。人間は焼けるとそのままの形で縮むのか、ちょうど五、六才の幼児のような大きさで、黒い人形そっくりだ。そして申し合わせたように胸を地につけ、そり返っているので、遺体はすべてうつぶせである。身元のわかった遺体には花やムシロがかけられているが大部分はそのままだ。

 春日野道あたりで馬が倒れていた。これは機銃掃射によるもので、遺体は損われていない。ひっぱっていた車など散乱していないところをみると、馬方さんは助かったのかも知れない。その横を人が行き交う。人間は緊張の極限にきたとき、不思議に静かに行動する。矛盾を感じるのは爆撃をうけた地区と無傷の地域、昨日のままの平和な街並を通る時はどれがほんとうの今日なのか、一瞬ためらう。
芦屋は幸い今日の爆撃には無事だった。

 翌日、ふたたび三時間の道のりを自分の足で勤め先に向かうとき、昨日倒れていた馬は半分になっていた。夜の間に馬肉として盗まれたのだ。私だって近くに住めば家族のためにそうしただろう、ここに一切れの馬肉があれば……。

 この日、たどりついた銀行は、昨夜の焼夷弾攻撃をうけてくずれていた。銀行は海岸通りによく見られる赤レンガ造りなので、まず瓦哩の取りのぞき作業が今日の仕事始め。幸い金庫や地下室は無事だったが、外観は焼けただれており、すぐに開けるのは危険なので、近くの他銀行からお金を借りて開店する。それでも二人、三人とお客さん。 昼、瓦硬に腰をおろしてお弁当を開く。紙に炒り豆を包んできた人、大根ご飯(細かくきざんだ大根七分に米三分)など、仲間が集まってつまんだりつままれたり。目の前の市電道(栄町二丁目)を越して、焼けくずれた南京町から元町通り一帯が、スポンとひらけていた。南京町は文字通り中国人の市場だった。くずれた防空壕から遺体が掘り出されていたが、中国人の遺体は必ずアグラを組んでいるので識別しやすいと、作業中の軍人さん(陸軍)が教えてくれた。

 帰途、阪急高架下の三宮劇場はまだ猛煙と炎を吹き上げている。ここはその後一ヵ月あまりも異臭を放っていた。多くの人が焼夷弾の直撃をのがれて高架下に逃げこみ、ここで焼死したと聞く。 そしてついに、芦屋も初めての焼夷弾、爆弾の集中攻撃をうけ市内の三分の一が灰になった。正確には昭和二十年八月六日午前零時、広島原爆の八時間前である。

 寝入りばなに空襲警報が鳴って敵機の来襲を告げたので、いつものように身仕度をして家族全員(父母に私、女学生の妹。悪いことに母の里に疎開させていた幼い弟妹二人も国民学校の夏休みを利用して昨日から帰っていた)庭先の防空壕に飛びこんだ。壕は父の手づくりで一畳あまり、頑丈にできている。一時間ぐらいで警戒警報に変わったので壕から這い出し、夏のことなので外していた蚊帳を釣って床にもぐりこんだ。そのとたんに焼夷弾の集中攻撃が始まったのだ。(B29、200機の波状攻撃ということを後で知った)あわてた私たちは、裸足のまま壕に飛びこんだ。無気味な照明弾がゆらりゆらりと空中にとどまり、あたりは真昼のような明るさだ。これは駄目だと思って我に返った時には壕の中が蒸し暑くなっていた。幼い弟がしきりに喉のかわきを父に訴える。父は壕をぬけ出し台
所へ走って柄杓に一杯の水を運んできた。

 バケツを下げて走るという正常な神経はすでに麻蝉していたのだろう。 さらに暑くなったとき、このままでは蒸し焼きになるという恐怖か私たちをおそってきた。「町内会の壕へ逃げよう」と父がいった。一人でも二人でもご近所の人と行動を共にしなければ不安なのだ。私たちは壕を飛び出した。親子六人、手をとりあってかけ出七た。 地面は一直火の海で、我が家もさかんに燃えている。裸足の弟があつい、あつい……と泣き出した。周囲に人影はない。「田んぼに逃げよう」と父がいった。阪神の線路を越すと水田だ。田には水がある。ふたたび道をひき返し土手をよじ登って、三メートルあまりの高さを向い側へ飛びおりた。線路の枕木も燃えている。水田の泥に足をとられながら、火の粉のふりかかるのが比較的少ない田んぼのまん中で、泥水を体にかけ合いながら私たちはへたりこんだ。家族六人、とにかく生命さえあれば……と肩をよせ合っていると「やア、きれいやナア」と無邪気な弟の声。火の粉をふりまきながら、一条の線光となってシュルシュルと落下する無数の焼夷弾は、なるほどこの世のものならぬ美しさだった。

全国主要都市空襲被害状況一覧

空襲被害状況一覧
昭和50年6月現在 毎日新聞社 昭和史編集部調査

「降伏日本軍人」という身分と英軍による虐殺

「日本の反論』米田健三著 並木書房
第6章 歴史の闇に葬られた日本人捕虜虐殺から抜粋


日本軍捕虜に対する戦時国際法違反の不法な対応は、米軍にとどまらない。国際法が定める捕虜の待遇を与えないために、英車は「降伏日本軍人」というあらたな身分を編み出した。その結果、英軍主体の東南アジア連合軍に降伏した我が南方軍将兵は、粗末な給養で、危険な、あるいは不潔な労働に使用されたのである。この問題については『軍事史学』(第三五巻第二号)に掲載された喜多義人論文に詳しい。

 それによると、一〇万六〇〇〇名もの将兵が昭和二一年七月以降も「作業隊」として現地に残され、昭和二三年一月の送還終了までに九〇〇〇人近い死者が出たという。

 もともと、捕虜の立場を厭う日本軍側の意向が、逆手に取られたのである。
 また、日本軍将兵が課せられた作業は、「弾薬の海中投棄、採石、樹木の伐採、下水掃除、糞尿処理、炭塵の立ち込める船倉内での石炭積載作業、一〇〇キロ入り米袋の運搬」などで、明らかにハーグ陸戦法規と一九二九年の捕虜条約が禁じた、過度で、不健康、危険な労働であった。まさに、緒戦で日本軍に敗れた怨念を晴らすための報復に他ならなかった。

 英軍についていえば、一九四四年六月二二日、インド・アッサム州のミッションで、一〇〇人以上の日本軍傷病兵が、英軍兵に焼き殺された(『世界戦争犯罪事典』文藝春秋)。アッサムの英軍根拠地インパールの攻略をめざした牟田口中将の第一五軍は、コヒマを占領したものの、英軍の猛反撃を受け後退を開始した。ミッションを防衛していた歩兵第六〇連隊も移動を始めたが、逃げ遅れて担架に乗せられたまま路上に放置された野戦病院の重症患者一五〇名は、英車グルカ兵の手でガソリンをかけられ焼き殺されたのである。

 ブーゲンビル島トロキナでは、オーストラリア軍によって、日本軍捕虜に「死の行進」が課せられた(同)。
 ナウル島とオーシャン島を占領していた日本軍は、一九四五年九月、オーストラリア陸軍の捕虜となった。同月二〇日にナウルの日本兵約二〇〇〇人がトロキナの仮収容所に移送されることとなったが、栄養失調と疾病で衰弱しきっているにもかかわらず、気温三五~三ハ度のなかを一〇マイル行進させられた。翌日、到着の一二五〇人も同様であった。豪州車の警備兵は行軍の速度をゆるめることを許さず、水もほとんど与えられなかった。死亡者が続出した。

 体験者の回想によれば、川を見つけた日本兵が水を求めて駆け寄ると、川の両側に並んだ豪州車将校たちが水を飲ませまいと、足で水をかきまぜて泥水にし、そのうえ銃を向けて威嚇した。一〇月八日にトロキナに着いたナウルからの七〇〇人とオーシャンからの五一三人も同じ扱いを受けた。
 くわえて、一〇月末にファウロ群島の常設収容所に移動させられた時には、マラリアに多数が感染したが、豪州軍は予防薬を支給しなかった。捕虜のほとんど全員が感染、約七〇〇名が死亡したとみられる。

 なお、戦場となった各地で非業の死をとげた無数の捕虜の他に、戦犯容疑者として拘束され、虐待のうえ死亡、あるいは処刑されたBC級戦犯については、第三章で述べたところである。


■シペリアだけではなかった旧ソ連の日本人抑留地

 第五章でも触れたように、一九四五年二月四日から一一日にかけて、ソ運クリミヤ半島の保養地ヤルタ近郊のリバディア宮殿で、ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相、スターリンソ連首相による首脳会談が聞かれた。世に言うヤルタ会談である。議題の中心は、ドイツ降伏を目前に控えての第二次世界大戦戦後処理で、この会談で「ソ連はヨーロッパでの戦争終結後、九〇日以内に対日宣戦布告する」ことが取り決められたのである。

 これを受けて、ソ連は同年八月八日、日ソ中立条約を一方的に破って対日宣戦布告。翌九日には満州、樺太南部、千島列島への侵攻を開始した。その結果、膨大な数の日本人民間人がソ連接による略奪・暴行の餌食となり、くわえて約六〇万人の軍民が拉致・連行され、強制的な重労働により約六万人が死亡したのである。「早期に捕虜を本国に送還する」としたポツダム宣言に、明らかに違反する行為であった。

 八月二三日にスターリンが発した命令は、次のようなものであった。「強制労働に耐えられる健康な捕虜五〇万人を選別する。捕虜を一〇〇〇人ずつの建設大隊に編成する。捕虜の被服や寝具は戦利品から調達する」

盗人猛々しいとはこのことであろう。捕虜のほとんどは軍人であったが、技術や通訳の能力を待った軍属、満州国政府や満鉄の日本人職員、そして従軍看護婦などの女性五〇〇〇人も連行された。それぞれが重労働に駆り立てられ、女性はソ連軍の″習性”により多くが陵辱の対象となった。重労働に耐えられないとみられた病弱者は、劣悪な環境の満州の収容所に送り返され命を落とした。

ソ連の蛮行をたどるとき、まさに、捕虜=奴隷だった古代・中世の戦争を彷彿させられる。ソ連が捕虜にした外国軍民は、ドイツや日本をはじめ四百十二万人にのぽる。これだけ大量の捕虜を捕獲した理由は他でもない。戦後復興のためのタダの労働力にするためだった。したがって、日本人捕虜の収容所が設置された地域をみると、シベリアに限らない。モンゴル、中央アジア、はてはウクライナ、モスクワ近郊を含むヨーロッパ・ロシアにまで広がっているのには驚かされる。

 ハーグ陸戦法規やジュネーヴ捕虜条約の精神を踏みにじり、捕虜たちは食糧や医療も不十分で極寒のなか、危険で厳しいさまざまな作業に酷使された。石炭・石油の採掘、木材の伐採、河川・港湾の整備、鉄道の建設、各種工場での労働、農場での労働などで、ノルマが課せられ、目標を達成できない場合は労働時間の延長、減食などの懲罰に付された。

 二〇〇〇年十二月一九日に公開された外務省外交文書で、シベリア帰還者の証言が明らかになっている。それによると、収容所はバラックや旧囚人収容所。一人当たり居住面積は平均一・三平方メートルで、やっと横になれる程度。衣服や暖房が不十分なため、凍死者があいついだ。食事も重労働に値するものではなく、一日、一九〇〇~二〇〇〇カロリー、収容当初は一食三〇〇グラムのパンとお茶だけで氷点下四〇~六〇度のなか労働を強制された例もある。

 拘留者がさらされた恐怖は、重労働だけではない。約三〇〇〇人が弁護人もつかないデタラメな略式裁判で「スパイ罪」、「反革命罪」、「資本主義幇助罪」に問われ、五年から二五年の強制労働に処せられたのである。これら犠牲者の取り調べの模様について、外交文書はこう記している。
 「足を縛ってつるされた」
 「等身大の箱に八時問閉じ込められた」
 「銃で脅され調書に署名させられた」

 一方、共産主義の洗脳教育に同調し、日本帰国後はソ連の先兵として日本共産化に挺身するであろうと目された者のみは、食事・衣服・労働量などで優遇されたのである。
 死亡者は約六万人とされているが、実際には実数不明である。公開されている日本人墓地にすら、氏名や身元不詳の無縁墓地が多く残されている。

 | HOME | 

プロフィール

野生馬 太郎

Author:野生馬 太郎
欧米列強と必死に戦ってきた爺ちゃんたちの名誉のために!

アジアの歴史と各民族性の相違を理解するために!


最新記事


カテゴリ

戦争裁判 (13)
満州開拓団 (2)
戦後処理 (4)
朝鮮半島引揚げの惨事 (4)
終戦直後の混乱 (9)
北朝鮮への帰還運動 (2)
シベリア抑留 (4)
慰安婦 (16)
その他 (7)
未分類 (0)
サハリン(樺太)韓国・朝鮮人残留 (3)
終戦時の朝鮮半島 (1)
韓国軍 (5)
日本人捕虜虐殺 (1)
空襲被害 (6)
海外からの引揚 (9)
日本占領 (1)
ソ連軍の暴虐 (3)
慰霊 (1)
戦場の実相 (8)
在日 (5)
韓国の売春事情 (9)
アメリカ (2)
メディア論 (1)
高級幹部 (2)
負け犬の心理 (2)
中国の不条理 (2)
歴史認識 (10)
北朝鮮 (2)
台湾 (1)
北海道が危ない (6)
満洲 (15)
韓国・北朝鮮の国民性 (2)
国家 (1)
朝鮮人強制連行 (1)
国家の軸 (1)
共産党研究 (1)
政治家のあるべき姿 (1)
中国人とは (1)
日本の伝統文化 (1)

月別アーカイブ


最新コメント


最新トラックバック


検索フォーム


RSSリンクの表示


リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる


QRコード

QRコード