「抗日史観」を国家の「背骨」にせざるをえない韓国の「お家の事情」

国際派日本人養成講座 地球史探訪: 「お家の事情」の歴史観

■1.中国への謝罪要求は?■
 1992年の中韓国交樹立時、朝鮮戦争で中国人民解放軍が朝鮮半島を蹂躙したことに対して、中国政府が謝罪をするという情報が韓国外務省筋から流され、韓国マスコミが大騒ぎをした。
しかし駐韓中国大使・張庭延はテレビで「そんなことはあるはずがないし、これからも絶対に遺憾の意を表明する必要はない」と一喝し、それ以来、韓国マスコミは、謝罪に関して一切報道しなくなった。

 朝鮮戦争は韓国軍約42万人、民間人106万余人が命を失い、1千万人の離散家族が生じたという韓国近代の最大の悲劇である。

 日本政府に対しては、韓国の政権が変わるたびに居丈高に朝鮮統治に対して謝罪要求をする一方、中国に対してのこの及び腰は一体なんなのだろう。この明白な二重基準の根底に潜むのが韓国の特異な歴史観である。この点を知らずに「日本が心から謝らないから、いつまでも許してくれないのだ」などと考えているようでは、日韓のすれ違いがこれから先も続くだけである。

■2.日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった■
 韓国の特異な歴史観というのは、その建国の事情にからんでいる。韓国の国定教科書「中学国史・下」では次のように書く。

 われわれが光復(JOG注:独立)を迎えることができたのは、連合軍の勝利がもたらしてくれた結果でもあるが、この間、わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実でもあるということができる。

 確かに大東亜戦争勃発当時に上海にあった「大韓臨時政府」は、日本に対して宣戦布告をしたがそれきりで、内部抗争を続けるのみであった。

 そのために「大韓臨時政府」はアメリカにも中国にも承認されていなかった。せめてドイツ占領下のフランスでのレジスタンスのようにゲリラ戦でも行っていれば、連合国の一員と認められる可能性はあったろうが、それすらもなかった。

 終戦時、朝鮮独立派のリーダーの一人・金九は重慶で祖国上陸を夢見て韓国光復軍を編成し、訓練を積んでいたが、日本降伏の報に接して、天を仰いで長嘆息し、次のように言ったと伝えられている。

 韓国軍は日本軍を打ち破ることは一度もなかった。わたしは、日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった。

■3.2日間で下ろされた太極旗■
 それでは韓国の「光復」はいかにもたらされたのか? 昭和20年8月15日に終戦を迎えると、朝鮮総督府の遠藤柳作・政務総監は朝鮮語新聞「中央日報」社長・呂運享と会い、一切の統治機構を韓国人の自治組織に引き渡すことを申し出た。

 呂運享は、その日の夕方、自らを委員長とする「朝鮮建国準備委員会」を組織して、総督府から治安維持の権限を引き取り、放送局や新聞社などの言論機関を引き継いだ。建物という建物には、民族の旗「太極旗」が翻った。

 しかし連合軍は8月16日に総督府に機密命令を発し、しばらく朝鮮統治を続け、統治機構を保全したまま連合軍に引き渡すように命令した。18日、総督府はやむなく行政権を取り戻した。太極旗が下ろされ、ふたたび日章旗が掲げられた。

■4.蚊帳の外の「朝鮮人民共和国」■
 朝鮮側は激怒したが、なすすべはなかった。呂運享は半島全土に「朝鮮建国準備委員会」の支部を作らせ、ソウルに1千名余りの代議員を集めて、「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言したが、米ソ両国はこれを無視した。

 9月8日、米軍が仁川に上陸すると、「朝鮮人民共和国」の代表が迎えたが、まったく相手にされず、逆に500人ほどの朝鮮人が太極旗を掲げ、花束をもって米軍に近寄ろうとしたら、米軍が勘違いして発砲し、多数の重軽傷者が出る有様だった。

 9月9日、アメリカ側は沖縄第24軍団ホッジ中将、第57機動部隊司令長官キンケード大将、日本側は朝鮮総督・阿部信行大将、朝鮮軍管区司令官・上月良夫中将との間で、休戦協定が結ばれたが、朝鮮側はまったく蚊帳の外に置かれていた。

 ルーズベルト大統領はヤルタ会談で、朝鮮半島は独立させず、連合国による信託統治とし、その期間は20年から30年くらい必要だと述べていた。

■5.日本と一緒に大東亜戦争を戦った朝鮮■
 なぜ米国はこれほど徹底して朝鮮独立勢力を無視したのか?
一つは韓民族としてまとまって国家を運営していく準備があるのか、という疑問があった。現実に「光復」後も朝鮮独立のリーダー達は内部抗争に明け暮れ、呂運享も、その政敵だった宋鎮禹も、そして「暗殺の神様」と言われた金九自身も、政争の中で暗殺されている。

 もう一つは、韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、めざましい働きをした軍人たちである。まず陸軍中将まで栄進した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人として最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満洲国軍中尉だった。

 こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神社に祀られている。

 一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。

「(日帝は)戦争協力のため韓国の人的・物的資源の収奪に狂奔した」と韓国の高校国史は書くが、目立った反乱もテロもゲリラ活動もストライキもなく、これだけの戦意の高揚を見せつけられれば、それをすべて日本軍国主義の強制によるものと見なすのは事実として難しい。

 アメリカから見ても、韓民族は日本と一体となって、戦争に邁進していると見えたはずである。そういう民族を分離独立させたからと言って、すぐに連合国の都合の良いように振る舞うはずがない、と考えるのは、ごく自然だろう。ルーズベルトが2,30年の信託統治を考えたのも、十分理解できる。逆に、朝鮮総督府がアメリカの占領前に慌てて朝鮮を独立させようとしたのも、共に戦ってきた同胞としての信頼感があったからであろう。
■6.アメリカから与えられた独立■
 1945年12月、米英ソ3国はモスクワで外相会議を開き、朝鮮の独立は当面認めず、5年間の信託統治を行うことに決めた。当然、人民の多くはこれに反撥したが、北ではソ連がかつぎだした金日成ら共産主義者がソ連の思惑に従って信託統治案に賛成した。

 米ソは独立政府樹立を担うべき団体の選定で対立し、米国は1947年にこの問題を国連に持ち込んで、国連監視下で南北同時選挙を行い、独立政府を樹立することとした。しかし、ソ連は国連監視団の北朝鮮入りを認めず、南朝鮮だけの選挙となって、1948年8月15日に大韓民国が設立された。これに対抗して、北では9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立された。

結局、韓国が独立できたのは、アメリカが戦争に勝って日本の統治を覆し、3年間の軍政のあとで、ソ連に対抗して国連監視下で選挙を行わせたという経緯による。「光復」はアメリカから与えられたものであって「わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実」と言うにたる歴史事実は見あたらない。

■7.反抗期を持てなかった韓国■
 韓国独立の経緯はインドやインドネシアとはいかにも対照的である。インドのチャンドラ・ボースは、日本軍の協力のもと、イギリス軍から投降してきたインド兵を集めて、数万人規模の自由インド軍を創設し、日本軍とともにインド解放をめざすインパール作戦を敢行した。日本敗戦後、イギリスが自由インド軍に参加した約2万名の将兵を反逆罪で裁判にかけようとすると、インド全土で反英活動が展開され、数千人の死傷者を出したが、2年間の戦いの末、独立を勝ち得た。

 インドネシアも、独立派指導者スカルノ、ハッタを中心に、日本軍の指導のもと、3万5千の将兵からなるインドネシア義勇軍を創設し、日本敗戦後はこれを中核として、再侵略しようとするオランダ軍と4年5ヶ月も戦い、80万人もの死者を出しながら、独立を勝ち取った。

 インドも、インドネシアも、自ら独立を勝ち取ったという厳然たる歴史事実があり、それをそのまま歴史教育で教えれば、子供たちは祖国に誇りと愛着を抱ける。ことさらにかつての宗主国の悪行を針小棒大に教えたり、繰り返し謝罪を求める必要はない。独立国としての自覚を持つには、一種の「反抗期」が必要であり、インドもインドネシアも十分な反攻期をもったからこそ、現在はイギリス、オランダと大人のつきあいができる。

 それに対して韓国の場合には「独立はアメリカから一旦は取り上げられ、数年後に与えられた」では国家の体面として身も蓋もない。だからこそ日帝時代がどれほどひどかったか、それに対して韓民族がいかに英雄的に戦ったかを強調し、そしてそれを裏付けるために事ある毎に日本政府からの謝罪を引き出して、国民に示す必要があるのである。いわば「抗日」を国家の「背骨」にしているのである。

 中国が朝鮮戦争に関して謝罪しなくとも、韓国マスコミが激高しないのは、国家の「背骨」に関係ないからである。また再び謝罪要求をしても、冒頭に紹介したように、にべもなく拒否されたら、かえって韓国政府のメンツを潰すことになる、という事情もある。

■8.敬意と慰霊と感謝と■
 韓国の対日謝罪要求と反日歴史教育は、このような「お家の事情」によるものであり、歴史事実とは相当に距離のある政治的虚構が多分に含まれている。韓国がどのような「国定史観」を持とうと勝手だが、歴史事実に基づかない独断的な史観をわが国が受け入れなければならない理由はない。そのような事をしたら、かえって学問の自由を否定し、正確な歴史事実に基づくべき歴史学の健全な発展を阻害することになる。

 わが国としては、あくまでも歴史事実に基づいた客観性のある史観を持たなければならない。そのためには次の3点がポイントとなる。

 第一に日本による朝鮮統治をどう評価するか。韓国でも日本統治時代の歴史事実に基づく研究が進んでおり、経済史分野では再評価派が研究者の3分の1を占め、国史分野でも動揺が起きつつある。

 現実に日本統治時代のGDP成長率は4.15%と当時の先進国を上回り、人口も2.4倍となるほどの高度成長をしていたという事実があるのだから、客観的な研究をすれば、再評価派が増えるのは当然なのである。この高度成長に関しては日本側の貢献もさることながら、韓民族の努力と能力への敬意が払われてもしかるべきだろう。

 第二に大東亜戦争で日韓が一体となって戦った事実をどう受け止めるか。日本人が靖国神社を参拝する際には、そこに一緒に祀られている朝鮮人2万1千余柱、台湾人2万8千余柱への慰霊も忘れてはならない。

 第三に朝鮮戦争を日本としてどう評価するか。この戦争で韓国側が負けて、北朝鮮のようなテロ国家が今の何倍もの国家規模で玄界灘のすぐ対岸に存在していたら、わが国の平和と繁栄は重大な脅威を受けていただろう。韓国軍が42万人もの尊い犠牲を出しながらも、果敢に戦ってくれた事に対する感謝を日本側は持つべきではないか。

 このような歴史事実を直視すれば、我々日本人が抱くべきは、韓民族に対する敬意と慰霊と感謝の情である。韓国側の「抗日史観」に対し、日本側が表では謝罪しつつ、裏では反撥するというのは、歴史事実に基づかない虚構の関係であり、そこからは真の相互理解も友好も育ち得ない。日本側は「敬意と慰霊と感謝」を表明し、韓国側も歴史事実に基づいた自信と誇りを確立する、というのが真の和解への道であろう。             (文責:伊勢雅臣)H13.05.20
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凛として サハリンの同胞を救った夫婦 朴魯学・堀江和子

朝鮮半島出身者には、大きく分けて三つのグループがあった。
(1)大正時代から戦前にかけて樺太開拓のために入植した
(2)戦時中、主に朝鮮半島南部から募集や官斡旋(あっせん)、徴用などで渡った
(3)戦後、派遣労働者などとして現在の北朝鮮地域、ソ連(当時)の中央アジア地域などから移住した-の三つである。

この問題で日本の責任がないとはいわない。ただ、「四万三千人が強制連行された」「日本人が朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」などという指摘は事実ではない。
まず、約二万人とされる(3)については戦後のことであり、もちろん、日本とは何の関係もない。(2)については、日本時代に戦時動員である徴用で樺太に渡り、戦後、帰国できなかったケースは確かにある。ただ、『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかった』を書いた新井佐和子(七四)は、日本、ソ連側の公文書などを検証し、当事者からも聞き取り調査をした上で、「高賃金に魅力を感じて自ら行った人が多く、樺太の場合、徴用は少なかった」と指摘している。

 ちなみに、朴が昭和四十二(一九六七)年に、同胞の帰還希望者の名簿を完成させたときの人数は、家族を含めて約七千人だった。
こうした朝鮮半島出身者の多くは、南部地域(現在の韓国)の出身者であったが、終戦後、ソ連当局によって「無国籍者」に分類されたことは、すでに述べた。当時ソ連と韓国は国交がなかった。後にソ連籍や友好関係にあった北朝鮮籍を取るものもいたが、ごく一部を除いて、サハリンから出ることは認められなかった。冷戦時代、現地では住民同士の密告や監視もあり、軽々しく、西側への帰国の
希望を口にすることもできない。

 そして、何よりも、関係各国(ソ連、韓国、日本など)がこの問題に無関心だったことが、解決を大きく遅らせてしまったのである。
国会議員としてこの問題に長く取り組んできた参院議員(公明党副代表)の草川昭三(七六)はこういう。
「本来は、戦争が終わったときに、彼ら(サハリンの朝鮮半島出身者)のことも、きちんと決めておかねばならなかった。それなのに彼らの存在は忘れられ、ほったらかしにされた。そして、だれも(どこの国の政府も)責任を取らず、長らく外交交渉の対象にもならなかった」
(後略)

産経新聞 平成16(2004)年9月28日[火]
凛として サハリンの同胞を救った夫婦 朴魯学・堀江和子(5)
姿を変えた帰還運動

「当事者が少なくなったのになぜ支援を続けるのか」 消えない複雑な思い本来の目的失い、政治的な色彩朴魯学(パク・ノハク)の死から約五カ月が過ぎた昭和六十三(一九八八)年八月、サハリンの残留韓国人が、日本を経由して、母国、韓国に帰還する「永住帰国」が初めて実現した。韓国がソウルオリンピック(同年秋)の開催に沸き立っていたころである。

 第一号となった韓元洙(ハン・ウォンス)は当時八十歳。日本で親族と再会する一時帰国が始まろうとしていたとき、最初にリストアップされた十人の一人であり、朴は、「何としても永住帰国させたい」として、病の体をおして懸命に運動を続けてきた。「朴の遺言」ともいうべき第一号であった。
永住帰国は、残留韓国人が故郷に帰るという帰還運動本来の姿である。ただ、一時帰国に比べると、解決しなければならない問題ははるかに多かった。日本とソ連、韓国のスタンスも、それぞれ違い、最後の最後まで混乱が続いた。

 ソ連の立場は、「(国交がある)日本へ永住するなら出国させてもいい」というものだ。だが、日本はあくまで永住地は韓国であるとし、「通過するだけなら」という。韓国は韓国で、「日本が(サハリンに)連れていったのだから、費用面も日本の責任で」と主張し、必ずしも永住帰国には積極的ではなかった。
『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』の著者で、朴と和子の運動を手伝っていた新井佐和子は、永住帰国の直前になって、東京の韓国大使館の担当者から「韓さんの生涯の生活保障はいったいだれがするのですか」と聞かれ、あぜんとしたことがある。

 新井が、「韓国の家族がするでしょう」と答えると、大使館員は、「韓さんの家族は貧しい。日本が責任を持つべきだ」と主張し、らちがあかない。結局、新井は「韓さんが生活に困ったら全責任は私が持ちます。だから入国を許可してください」とタンカを切ることになってしまった。
こうした各国のスタンスや思惑の違いが、この問題の支援をめぐって、後々まで尾を引くことになるのである。

 韓は、韓国への永住帰国から約三カ月後、家族に見守られて息を引き取った。故郷で暮らしたのはわずかな期間だったが、それでも韓は「間に合った」のである。長い間、故郷へ帰ることを夢みながら、サハリンの土になった人がどれだけいたことか…。和子はそれを思うと胸が締め付けられるようであった。

■□■

一時帰国者、永住帰国者はその後もどんどん増えていった。六十三年八月からは、日本政府から、一時帰国者夫婦や付き添いの子供たちに各四万円あまりの補助金が出るようになった。和子たちには、喜ばしいことであったが、この善意の補助金をめぐって、事態はその後、思わぬ方向に向かうことになる。
新井のもとに、「一九八八(昭和六十三)年十二月二十三日来日予定者」と書かれた一時帰国者のリストが残っている。リストを見ると、その日だけで帰国者は十六人。本人以外に戦後生まれの三十代、四十代の二世(子供)の名前も目立つ。実際、このころになると、日本へ行きたい二世の方が「主」といった帰国者家族もおり、日本に到着後すぐ、秋葉原の電気街へ行くことをせがんだり、韓国の家族と会おうとしない人たちすら出てきた。新井は当時の一時帰国者の様子について、「買い物八分、家族再会二分といった感じだった」と書いている。

 晩年の朴は、こうした姿を見てやるせない思いにとらわれていた。この時点で戦後四十年あまり。「やはり、時間がたち過ぎたんだ」と思うしかなかった。和子は朴の死後しばらくは、帰還運動の支柱となっていたが、やがて距離を置くようになった。運動が本来の目的を失いかけていることや、考え方の違う別の団体が、同じように帰国者の受け入れを始めたことなどが理由だった。

 自虐史観や度が過ぎた贖罪(しょくざい)意識に取りつかれた人々が、この運動にからめて“強制連行”や日本の戦後責任を声高に叫び、問題は政治的な色合いを濃くしていった。
平成元年には、帰国者の支援を行うために日韓赤十字による在サハリン韓国人支援共同事業体が設立された。日本政府の立場は一貫して「法的責任はない」というものだが、戦後責任を問う声や韓国側の要求などに押されるかのようにして、「人道的な支援」がどんどんと膨らんでいった。日本の支援は現在も続いており、その内容はかなり手厚いものだ。日本がこれまでに共同事業体に拠出した額は約六十四億円(韓国側は年金の形で永住帰国者の生活費などを出している)。和子は、「本当に支援が必要だったときはもう過ぎてしまったのに。当事者が少なくなってしまった今、なぜ、これだけのお金を出すのか」という思いが消えない。きっと朴も同じ気持ちだろう。

 和子と新井が平成七年にサハリンを訪問したとき、日本の支援で韓国へ一時帰国をした八十歳を超える男性は、「私は年寄りだし、帰国は一回で十分だ。でも息子がどうしても行きたいというので、二度目の申請をした」と話した。支援の対象者を選ぶのは韓国側で日本側はチェックする手段もないという。

■□■

 朴が亡くなって十六年になる。長女、蘭子(五五)の子供たちは祖父の晩年の姿しか知らないが、アルバイト先などで、「おじいちゃんはすごい人だった。誇りに思っている」と話していることを聞き、蘭子はうれしくなった。

朴を知る人はみな、「本当に清廉な人だった」という。朴らの運動に感動した篤志家が、一千万円単位の支援を申し出たことがあった。この篤志家はサハリンからの帰国者に対しても必要以上のお小遣いを与えることがあったが、朴は、「彼らのためにもよくない」と断り、支援についても最小限のお金しか受け取らなかった。
和子にしてもそうだ。昭和三十三年に自分たちの家族が日本へ帰国した時点で、運動をやめてもよかったのである。だが、和子は、いろんな思いを飲み込んで、夫を支え、ともに闘った。サハリンに行ったときには、いろんな人が和子に声をかけてきた。みんなが恩人の名前を知っていた。

 何の地位もお金もない一民間人が、各国政府を動かし、重い扉をこじあけたケースは希有(けう)なことだろう。もちろん、夫妻以外にもいろんな人たちが闘った。でも、朴らが運動を始めなければ、サハリンの同胞は、いまだに置き去りにされたままだったかもしれない。=敬称略(喜多由浩)



≪在サハリン韓国人支援共同事業体への日本の支援≫
【これまでの日本の拠出総額 約64億円】
・一時帰国支援
【内容】サハリン在住者の韓国への一時帰国支援(往復渡航費および滞在費)
【実績】平成元年から16年3月までに、のべ1万4678人が一時帰国(民間航空機の定期便を使って年間8便、現在3順目=同じ人が3回目の一時帰国をするという意味=を実施中)
・永住帰国支援
【内容】サハリン在住者の韓国への移住に対する支援 渡航費および移転費▽住宅施設(仁川療養院・安山アパートなど)建設費▽仁川療養院のヘルパーおよび光熱費▽安山アパート内の福祉会館の運営費▽仁川療養院の増設
【実績】平成11年3月、仁川療養院開設(収容能力100人)▽12年2月、安山アパート形式集団住宅開設(同489世帯)、16年3月までに1497人が永住帰国
・サハリン残留者支援
【内容】サハリンに引き続き在住する者に対して、文化センターの建設、マイクロバス提供
【実績】平成15年6月、30人および15人乗りバス提供▽文化センターは今年8月、総工費5億円で着工
・永住帰国者支援
【内容】韓国に在住する永住帰国者がサハリンに残った家族を訪問する際の支援(往復渡航費)
【実績】平成16年3月までに、永住帰国者1577人がサハリン訪問

産経新聞 平成16(2004)年10月1日[金]
アピール 今なお続く「サハリン支援」に怒り
元サハリン再会支援会共同代表 新井佐和子 74 (茨城県つくば市)

産経新聞九月二十七日付朝刊から五日連続で掲載された「凛(りん)として サハリンの同胞を救った夫婦」を読み、かつてこの運動にかかわらせていただいた私は、改めてご夫妻を思い起こし、感動を新たにした。
しかし、最終回の「姿を変えた帰還運動」を読むに至って、日本政府の施策に対する激しい怒りがこみ上げてきた。それはいまだに続けられている在サハリン韓国人支援共同事業体への日本の支援についてである。

 これによると、これまでの日本の拠出総額は何と約六十四億円。その中身というのは、サハリンに在住している朝鮮民族が一定の条件さえ満たせば、里帰りと称して韓・露の間をタダで往復できるという、人もうらやむ結構な制度なのである。
改めて述べるまでもなく、サハリンに取り残された韓国人の帰還について、日本に法的責任はなく、支援はあくまで人道的なものである。十年ほど前に私はやはり本欄で、この支援金の不必要性、有害性を強く訴えて警鐘を鳴らしたが、結局、政府は何の検討もせず、一部の偏向勢力に押されてますますエスカレートさせ、各種施設の建設など、驚くような額の支援を行ってきたのである。
もともとこの支援金というのは、当時国交がなかったソ連(サハリン)と韓国の家族・親族を日本で再会させるための滞在費の負担金であって、いわば接待費を国が肩代わりするという意味合いのものであった。

 それを、旧社会党が主導して発足させた「サハリン残留韓国・朝鮮人問題議員懇談会」が平成二年前後に、その支援金を同党の強い圧力によって「戦後補償」のように位置付けてしまった。それを年々、額をつり上げて、国庫から引き出させてきたもので、同七年、村山内閣の「戦後五十年の謝罪」政策で、それは頂点に達した。社会党勢力が退き、当然、見直しが図られたものと思っていたのだが、産経新聞の記事のおかげで、驚くべき現状があぶり出された。

 今、「戦後補償」裁判という不気味な黒雲がアジアの空を覆っている。その原点ともいうべき「サハリン支援」の問題に国民はもっと関心を持つべきではないだろう
か。
産経新聞 平成16(2004)年10月8日[金]

サハリン残留韓国人への支援問題

East Asia News Watch
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戦後60年、薄れる「家族再会」の趣旨 理由見えず…いつまで続く
特集部 喜多由浩

いったいこの“奇妙な支援”は、いつまで続くのだろう? 日本によるサハリン残留韓国人への総額六十億円以上に上る支援のことである。当初は、冷戦で祖国へ帰れなかった人たちが家族と再会するための補助金だった。それが、一部勢力の声によって「戦後補償」のように位置付けられ、支援はエスカレート。戦後六十年近くたち、当事者が減ってしまった今もやめられないでいるのだ。

≪至れり尽くせり≫
 今年八月末、ロシア・サハリン(旧樺太)に住む韓国人(朝鮮民族)のために、日本が資金を負担した文化センターの起工式が行われた。総工費は約五億円。センターには、ホテルの機能やレストランも設けられるという。
韓国では、サハリンから永住帰国した人たちが住むアパートや療養院の整備が続いている。二〇〇〇(平成十二)年に韓国・安山に開設されたアパート(五百戸)の建設費は約二十七億円。療養が必要な人の定住施設には療養院があり、現在さらに増設中だ。
これだけではない。サハリンに住む韓国人は一定の条件を満たせば家族との再会のために日本の負担で韓国へ一時帰国することができる。一九八九年の開始以降、ひと通り希望者が一時帰国をしたため、数年後には二巡目が行われ、現在は三巡目に入っているという。
三年前からは逆に、韓国へ永住帰国した人たちが、サハリンに残っている家族・親族に再会するための「サハリン訪問」への支援も始まった。まさに、至れり尽くせりではないか。

≪日本が“火をつける”≫
 こうした支援活動は、八九年に日韓の赤十字によって設立された「在サハリン韓国人支援共同事業体」によって行われている。
共同事業体とはいっても、永住施設の建設費や一時帰国者の渡航費などを負担しているのは、もっぱら日本側だ。現在までの日本側の拠出総額は約六十四億円(韓国側は土地代や年金の形で永住帰国者の生活費などを負担)。日赤国際救援課などによると、「『帰りたい』という人がいる以上、今後も支援は続ける」という。

 冷戦などによって、長く帰国を許されなかったサハリンの残留韓国人が家族と再会する事業(当初は日本で再会)は約二十年前、日本にいる民間人によって始められた。当初は公的な支援もなく、費用は個人で負担するしかない。少しでも国庫で負担しようというのが、支援の趣旨のはずだった。
だが、一部の勢力によって起こされた裁判などの過程で、「日本によって四万三千人がサハリンに強制連行された」「日本人だけがサハリンからさっさと引き揚げ、韓国人だけを置き去りにした」などと、事実とかけ離れたことが声高に叫ばれ続けていた。

 国会でもこうした間違った認識を前提とした質問が繰り返され、日本が支援を行っても、「まだ足りない」「責任は日本にある…」と追及した。これに呼応して韓国側やサハリンの韓国人からも、日本の責任や補償を求める声が強まり、支援はいつの間にか「戦後補償」のように位置づけられ、野放図に増えていったのである。

≪本来の目的はどこへ≫
 問題は他にもある。数年前にサハリンを訪れた産経新聞の記者は、現地の韓国人からこういわれた。「私たちは戦前、自分の意思でサハリンへ来た。それなのに日本のお金で韓国へ連れていってくれるとはありがたいことだ」サハリンにいる韓国人(朝鮮民族)は何も、日本時代に募集や徴用で渡った人たちばかりではないのだ。支援の対象者を実際に選ぶ作業は、韓国やサハリン側に任されており、日本側はチェックする手段がないという。

 韓国への一時帰国は、すでに何年も前から、本来の目的であった家族再会は隅っこに押しやられ、付き添い役の二世、三世が主体となった“買い物ツアー化”が指摘されている。
夫とともに残留韓国人の帰還運動を続けた堀江和子さん(七七)は、「本当に祖国へ帰りたかったお年寄りたちはもうほとんどいない。日本に支援するお金があったら、ほかの困っている人たちに回すべきではないか」と話している。

 サハリン残留韓国人問題について、「日本の責任がまったくなかった」というつもりはない。ただ、支援はもう十分したのではないか。「理由のない支援」や「実効性のない支援」に多額の税金が注ぎ込まれるのでは困るのだ。(特集部 喜多由浩)

■サハリン残留韓国人問題と日本の支援
 日本時代にサハリン(旧樺太)へ企業の募集や徴用などで渡った韓国人(朝鮮半島出身者)の多くが戦後、ソ連(当時)によって帰国を認められず、数十年間、当地にとどめられた問題。当事者の1人であった強調文e="color:#0000ff">朴魯学氏(故人)と妻の堀江和子さんらが昭和30年代に日本へ帰還して、同胞の帰還運動を開始。
当時はソ連と韓国の間に国交がなく交渉は難航を極めたが、ソ連のペレストロイカや冷戦の終結も
“追い風”となり、日本での家族再会や韓国への永住帰国が順次、実現した。
日本政府は一貫して「法的責任はない」と主張してきたが、この問題が関係各国を巻き込んで政治問題化していくなかで、「人道的な見地からの支援」がふくらんでいく。

 在サハリン韓国人支援共同事業体の支援によって、今年3月までに延べ1万4678人が韓国へ一時帰国、1497人が永住帰国した。また、韓国からサハリンへの家族訪問では今年3月までに1577人が参加。サハリンではマイクロバスの提供なども行われている。

産経新聞 平成16(2004)年10月25日[月]
 凛として サハリンの同胞を救った夫婦 朴魯学・堀江和子(1)

北朝鮮による拉致被害者や家族の報道が今、連日のように新聞やテレビで流されている。
「私たちも同じような立場になっていたのかもしれない」堀江和子(七七)はそう思うと胸が詰まった。長い間、母国の政府が関心すら持たず、救出に動こうとしなかったという意味では、拉致被害者もサハリン残留韓国人問題も同じだ。“祖国から忘れられた存在”ほど悲しいものはない。海を隔てたすぐそこに自分の国があるのに…。

◆◇◆

 終戦まで、樺太(現サハリン)には四十万人以上の日本人がいた。酷寒の不毛の地に、日本人が鉄道や道路を通し、産業を根付かせたのである。和子は昭和二(一九二七)年、樺太・西海岸の真岡(現・ホルムスク)で生まれた。
十一人兄弟の三女。大正期に樺太へ渡り、製紙会社に勤務していた父が十七年に亡くなるまでは、暮らしぶりも良かったという。
すべてを変えたのは終戦、そしてソ連軍の突然の侵攻だった。和子はその日のことをよく覚えている。「ぼろぼろの格好の兵隊が行進していた。腕には日本人から奪った腕時計がいくつも巻いてあり、万年筆や着物を欲しがる兵隊もいた。言葉も分からず、とにかく恐ろしかった」
やがてソ連軍は日本人が築いた施設を次々と接収し、住民には職場復帰を命じた。もちろん、だれも出国はできない。そして翌年、ソ連が行った人口調査で「日本人」と「無国籍者」とされた朝鮮半島出身者は完全に区別された。これが“悲劇の第一幕”であった。

◆◇◆

 朴魯学(パクノハク)(昭和六十三年、七十五歳で死去)は大正元(一九一二)年、日本が植民地支配していた朝鮮半島の生まれ。新聞広告で見た樺太人造石油の労務者募集に応じて、樺太に渡ったのは昭和十八年のことだった。
当時、樺太の給与水準は内地(日本)や朝鮮半島と比べても高水準で、それに魅力を感じて、海を渡る朝鮮半島出身者が少なくなかった。もちろん、「強制」ではなく、自分の意思である。戦争のために国民の動員を可能とした徴用令が朝鮮半島で施行されるのは十九年九月になってからだ。ただ、徴用を見越して募集に応じた人もいないではない。
朴は後に和子に、「一家のうち、いずれ誰かは(徴用に)行かねばならない。弟が病弱なので私が行った」と語っている。終戦を迎えて、朴は真っ先に故郷(現在の韓国)へ帰るつもりだった。妻と三人の
子供がいたからだ。だが、終戦から一年たっても、ソ連当局からは帰国について、何の沙汰(さた)もなかった。そんなとき和子との縁談話が持ち上がったのである。当時、兄の家にいた和子にとっても、帰国のメドが立たないまま、兄の世話になっているわけにはいかなかった。

 二十一年九月、朴と和子は結婚する。朴に妻と子供がいることは秘密だった。このことが、後に和子や韓国の妻、そして朴自身を苦しめることになるのである。

◆◇◆

 皮肉なことに、結婚から程なくして、和子は日本人の引き揚げが始まることを知った。二十一年十一月、「米・ソ引き揚げ協定」が結ばれ、日本人の引き揚げが決まったのである(二十四年までに、約三十万人の日本人が帰国)。だが、引き揚げの対象に「無国籍者」となった朝鮮半島出身者は含まれていなかった。当時、米占領下にあった日本はこの決定に関与していない。というより関与できなかった。だから「日本が朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」という指摘は事実でない。
(中略)
【サハリン残留韓国人問題】
日本時代に、企業の募集や徴用などで、樺太(現ロシア・サハリン=元来、日本の固有の領土であり、現在も帰属が決着していないという主張もある)に渡った朝鮮半島出身者約1万人(終戦時)が戦後も帰国を認められなかった問題。そこには、日本人妻約1000人もいた。
冷戦構造のなか、当時のソ連が友好関係にあった北朝鮮に配慮し、国交のない韓国への帰国を認めなかったためとされている。サハリンには戦後、北朝鮮地域などから2万人規模の派遣労働者が渡っており、これを含めた人数が一部で伝えられたことがあるが、彼らは日本とは関係がない。

 日本人妻は昭和30年代に夫や子供とともに日本への帰国を認められたが、それ以外の朝鮮半島出身者は出国できず、朴魯学・堀江和子夫妻らの帰還運動によって、帰国の道が開かれるまで、何十年もの間、サハリンに取り残された。

サハリン(樺太)残留韓国・朝鮮人問題

正論2000年5月号【編集者へ編集者から】
http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2000/reader/05 -r1.html
☆編集者へ=つくば市の新井佐和子さん(元サハリン再会支援会代表・69歳)から。
四月号、豊中市の辻孝次さんへ。
一月二十五日のNHKニュースの報道についての御質問に対し、僣越ながら参考意見を述べさせていただきます。
私は、この報道は聞いておりませんが、これは、サハリンにいる韓国人の一部が、韓国に集団永住帰国するというニュースのなかでの解説とおもわれます。
ところで、ご質問の、(一)日本軍の朝鮮半島の占領、(二)ハバロフスクへの強制労働のため
の移住、
という首を傾げるような報道を、公共放送が疑問を持たずに行うようになってしまった

 背景には、つぎのようなことがあると考えております。
それは、一部の日本の知識人たちが、ある政治目的のために在サハリン韓国人の歴史を捏造してしまったことが原因です。その人たちは、「四万三千人のサハリン残留韓国・朝鮮人は戦争中日本国によって強制連行されて行った人々で、戦後日本人だけを引き揚げさせて朝鮮人は置き去りにしてきた」と主張し、その責任として日本政府から多額(数十億円)の補償金を拠出させています。今回、その補償金で韓国に建てた居住施設に、永住帰国するサハリン残留韓国人一世夫婦約千人が三月までに入居することになりました。

 しかし、日本時代の樺太(サハリン)にいた韓国人(いまの韓国を故郷とする人)は、前記一部の知識人が言っているような人たちではなく、大部分が、戦前戦中を通じて好景気の樺太へ、競って出稼ぎに行った労働者とその家族です。なかには戦争末期に徴用というかたちで強制労働に就かされた人もいますが、それは百人にも満たない数です。

 終戦時の総数は四万三千人でなく推定一万五、六千人ですが、ソ連軍に占領されてから彼らは日本人と区別され、帰国は一切許されませんでした。と同時に大陸部からロシア系の朝鮮人や、現北朝鮮からの労働者を移入させたので、サハリンの朝鮮族の人口は、二年後には四万三千人にふくれあがりました。それとは別に、ロシアの大陸部には五十万ほどの朝鮮族がいますが、その人々の大部分は一九三〇年代にスターリンによって沿海地方から中央アジア地方に強制移住、強制労働させられてきた人たちの子孫です。

 ところで、日本政府が全面的に援助しているサハリン韓国人帰国支援事業ですが、その対象となる人は、終戦時樺太にいた韓国人のみでなく、前記のように戦後移入してきてそのまま居ついた人や、サハリン以外の地にいた人でも一九四五年以前に生まれた人なら皆含まれているようです。永住帰国とは別に十年前からこれも日本政府が毎年一億円以上の予算をつけて行われている韓国への一時帰国(里帰り)事業には、明らかにロシア大陸に一九三〇年代に強制移住させられた人が含まれていたことを、私は数年前、韓国の新聞記事で確認しています。

 そこで、ご質問の(二)について考えられることは、現在、大陸に居住している朝鮮族のために置かれているとみられる「ハバロフスク離散家族会」というのがありますが、そこで扱った帰国者のなかに、ソ連による沿海地方から大陸への「強制移住者」が含まれていたことから、このような誤報がなされたのではないかということです。

 (一)についていえば、以上のようにサハリン在住韓国・朝鮮人の由来が意図的に歪められたり、また他でも韓国には謝罪と補償を繰り返していることから、朝鮮半島は条約によって日本と併合されたという基本的な認識がだんだん薄れてきているからなのでしょう。NHKに限らず、あらゆる報道機関で、この「サハリン韓国人問題」を正しく理解し報道しているところは、いまのところ産経新聞以外にありません。

 長い間彼らが帰れなかった理由は、冷戦時代の国際情勢によるもので、日本国にはなんら責任はありません。とはいえ、戦中戦前から樺太にいた韓国人でいま身寄りもなく、故郷に帰りたいという人がいるならば、人道的な見地から援助の手をさしのべるのにやぶさかではありませんが、実際は、その他の人たちにも無制限に日本の国費で援助しているというのが現実で、そのためいろいろな弊害が出ています。

 以上「サハリン韓国人問題」の間違った解釈は、困ったことに「広辞苑」などの辞典や教科書にも書かれて、既に定着しています。
詳しくは拙著「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか」(草思社)をご参照頂ければ幸いです。強調文

サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか―帰還運動にかけたある夫婦の四十年
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794207980
内容(「BOOK」データベースより)
戦前、戦中、開拓民として、また戦時動員によってサハリン(樺太)に渡り、終戦後も同地にとどまらざるをえなかった韓国人を故郷に帰還させるべく、黙々と運動を続けた日韓夫妻がいた。
昭和十八年末、樺太人造石油の労働者募集に応じて渡樺した朴魯学と、戦後朴と結婚した堀江和子である。昭和三十三年、幸運にも日本人妻とその家族の引揚げに加わることができた朴は、その後半生を同胞の帰還運動に捧げ、和子は献身的にこれを支えた。だが、昭和五十年、サハリン残留韓国人帰還のための裁判がはじまると、この問題はにわかに政治的色彩を帯びて、日本の戦争責任、戦後補償問題へと発展してゆき、夫妻の活動は忘れ去られていった。サハリン残留韓国人はなぜ祖国に帰れなかったのか。その責任は本当に日本にあるのか。だれがこれを政治的に利用しようとしたのか。夫妻の足跡をたどり、ことの真相を明らかにした労作。

戦後補償http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/sengo_hosyo_1.html
≪サハリン残留者帰還請求訴訟(東京地裁)≫1975年(昭和50年)
日本領だったサハリン(樺太)が戦後ソ連領に組み入れられ、戦前働きに来ていた朝鮮人(ほとんどが現韓国にあたる地域の出身者)たちが取り残された。そこで、日本政府に対し、日本に「帰れる」ようにソ連と交渉することを求めた裁判です。
訴訟については、残留朝鮮人の支援活動をしていた新井佐和子氏が「サハリンの韓国人は何故帰れなかったのか」という著作でレポートしています。裁判の目的が、残留朝鮮人を韓国に帰国させることではなく、日本を糾弾することにあることに新井氏は途中で気付いて手を引きます。

 戦後に日本人は帰国できたのに、朝鮮人が帰国できなかったのは、サンフランシスコ講和条約で彼等が日本国籍を失ったことや米ソの協定によるもので日本にはどうしょうもなかった。また背景にはソ連が彼等を労働力として必要としていたことやソ連と北朝鮮との関係もありましたが、原告側、弁護団は「日本が強制連行してサハリンに連れていったのだから、日本が悪い。責任を取れ」の一点張りだったそうです。

 70年安保の活動家たちが訴訟の支援に加わっていたことも明らかにされています。この訴訟の中心人物が、90年代の「従軍慰安婦」訴訟の中心人物でもある高木健一弁護士でした。
訴訟で、原告側は樺太に朝鮮人が来たのは強制連行されたからだという主張を展開しますが、そのことに関する証言者が、なんと、あの吉田清治でした。
※吉田は「従軍慰安婦強制連行」問題で、「自分は済州島で慰安婦狩りをした」とありもしない捏造証言をした人物である。当時彼の嘘はまったく暴露されておりませんでしたから、ストレートに信じられた。サハリン訴訟のいかがわしさを象徴しています。そもそも吉田はサハリン問題とは何の関係もありません。証言者としての資格がないんです。仮に彼が実際に強制連行をしていたとしても、彼が強制連行した朝鮮の人がサハリンに居住したという証拠は何もありません。「日本が強制連行した」というイメージを与えるためだけに証言したのです。

 「サハリンの韓国人は何故帰れなかったのか」のあとがきに新井氏はこう書いています「平成四年の宮沢首相訪韓の前後に、従軍慰安婦問題が持ち上がったとき、私はこの問題の裏にサハリン問題と同一の仕掛け人がいることを知り、そのことで警告を発したことがあった。知らずに運動に踊らされる人たちに、自分と同じ轍を踏んでもらいたくないというほどの気持ちからだった。

 ところが、宮沢首相訪韓を機に慰安婦問題はマスコミの力を借りて燎原の火の如くいっきに燃え広がり、その結果は周知のとおりで、こんにち日本の近隣諸国への謝罪外交はほとんど習慣的になり、教科書では間違った歴史を教え、国家が自信と誇りを失った国民を育成するという事態に陥ってしまった。
(中略)
サハリン帰還運動の歴史を正しく捉えていれば、この国が、これほどまでに方向を誤ることはなかったかもしれない。この訴訟は、「戦後補償」運動の原点というべきものであると同時に、その歪んだ本質をも示していて注目すべきだと思います。結果的に、サハリン訴訟が、従軍慰安婦運動を準備した

私が見た従軍慰安婦の正体

小野田寛郎自然塾理事長  「正論」平成17年1月号 
首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。

 淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。
 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

◆漢口の「慰安所」を見学
 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。
 日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。

難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。
 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。

 私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。
 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。

 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。
 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

◆どこにもいなかった「性的奴隷」
 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

 私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。

 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。
 当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。

 一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。

 サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。
 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。
 私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。

「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い
 次に、軍関与の暴論について証言する。 私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。
 だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。
 南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。

「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。
 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

 「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。

 私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。

 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。

 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。
 軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。

「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。

 現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。
「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性(さが)が存在するからだ。

「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。
 

米軍の性処理 ペトナム戦争とその後

アジアに撒き散らす尊敬できない米軍の足跡 
第二次大戦後の冷戦時代で、もっとも長く戦闘がつづいたのはフランスが主役の第一次(一九四五~五四)と、アメリカが主役になった第二次(一九六一~七五)のベトナム戦争であろう。
 戦争と性の問題がここでも登場するが、その態様は基本的に第二次大戦期と変らない。ベトナム軍は主として長期のゲリラ戦術に依存したので、仏米軍による女性へのレイプ、拷問、虐殺の事例が少なくない。
 フランス軍が持ちこんだのは、植民地車の伝統的慣習になっていた「移動慰安所」(Bordel Mobile de Campagne)であった。慰安婦は北アフリカ出身者が多く、存否をめぐる論議はたえなかったが、現地人女性は防諜の上で望ましくないという観点もあり最後までつづいた、とバーナード・フォールは書いている。この方式は、日本人・朝鮮人の慰安婦連れで転戦した中国大陸の日本軍と似ている。

 第二次ベトナム戦争ではピーク時の米兵は五十万を超えたが、九割近くが第一線以外の後方勤務であり、サイゴンを中心にベトナム人女性による売春産業は繁栄をきわめた。米軍の公式戦史はもちろん新聞も、この領域にふみこんだ記事はほとんど報道していない。幸いライケに駐屯した第一師団第三旅団(兵力四千)の駐屯キャンプにおける慰安所の実況について、スーザン・ブラウンミラーがピーター・アーネット記者(ビューリッツァー賞受賞者)に試みたヒアリングがあるので、次に要旨を紹介しよう。

 一九六六年頃までに、各師団のキャンプと周辺には「公認の軍用売春宿」(Official military brothels)が設置された。ライケでは鉄条網で囲まれたキャンプの内側に二棟の「リクリエーション・センター」があった。バーとバンド演奏所の他に六〇室の個室があり、そこで六〇人のベトナム人女性が住みこみで働らいていた。彼女たちは米兵の好みに合わせて、『プレイボーイ』のヌード写真を飾り、シリコン注射で胸を大きくしていた。性サービスは「手早く、要領よく本番だけ」(quick,straight and routine)がモットーで、一日に八人から十人をこなす。料金は五○○ピアストル(ニドル相当)で、女の手取りは二〇〇ピアストル、残りは経営者が取った。彼女たちを集めたのは地方のボスで、カネの一部は市長まで流れた。この方式で、米軍は「ディズニーランド」とも呼ばれた慰安所に手を汚していない形にしていたが、監督は旅団長で、ウエストモーランド司令官もペンタゴンも黙認していたのである。女たちは週ごとに軍医の検診を受け、安全を示す標札をぶらさげていたが、それでも米兵の性病感染率は千分比で二〇〇(一九六九年)に達していた。

 これで見ると、日本軍の慰安婦システムをそっくり模倣したのではないかと思われるほどすべてが酷似しているが、条件や環境が同じなら誰が考えても似た方式におちついただけのことかもしれないべトナム戦争末期には、この種の女性たちが三〇万~五〇万人をかぞえたとも言われる。戦争が終ると彼女たちの「更正」が問題になる。最初はリハビリ・キャンプヘ入れられるが、そのうち外人観光客用のダンサーヘ転出したとエンローは書いている。ベトナム戦を戦ったのは米軍だけではない。英軍も豪州軍もインドネシア軍も参戦しているが、最近になって注目を集めてきたのは米軍に次ぐ延べ三十一万人を派兵、五千人とも三万人ともされる混血児を残してきた韓国軍である

 長くタブー視されていた韓国の派兵と兵土たちに残したトラウマをとりあげた映画「ホワイト・バッジ」(一九九二)の公開がきっかけになったが、慰安婦問題に関わっている朝鮮人女性のなかには「韓国人はベトナム人殺しと女買いの悪いイメージを残したのです……ベトナム(に対して韓国は三十数年間、過去を清算しなかったのです)と言い出す人も出ている。
 ベトナム戦争にかぎらず、アジアの売春産業と米軍の基地経済は切っても切れぬ関係にあるようだ。日本(沖縄をふくむ)や韓国では米軍の駐留が米世紀前後の長さにわたるので、構造化していると言ってよいだろう。とくにアジア諸国の経済水準が低かった一九七〇年代以前は、ドルの威力が大きく、米軍は基地周辺に特権的な売春システムを築きあげ、各国政府はその下請的任務を引き受けさせられていた。関連の犯罪やトラブルが起きても、「治外法権」的な処理がまかり通っていた。

 その間に売春の態様はさま変りしていく。日本本土では売春防止法(一九五六)の成立をきっかけに女性たちの境遇は逐次改善されていったが、沖縄では一九七二年の本土復帰まで前借金など戦前の本土に近い搾取形態が残っていた。
 沖縄の地位が向上すると、こんどはより安価なフィリピンの女性が移入され、似たような役割を担った。韓国では、日本と同じように、米軍占頷下の一九四七年十一月、公娼制度(管理売春)を禁止する法令が出たが、やはり有名無実に終る。

 朝鮮戦争(一九五〇~五三)は、多くの未亡人と孤児を生みだした。一九五六年の韓国政府統計によると、全国で五十九万人もの戦争米亡人がいて、こうした母子家庭などの女性たちが、生活難のため米兵相手の売春婦となった。五七年の統計では、その数は四万人と推定されている。六二年には「倫落行為等防止法」が成立したが、これまた形だけのものに終る。
 朝鮮戦争後も、ひき続き米軍は韓国に駐留した。売春婦たちはドルを目あてに、米軍基地周辺の「特定地域」に群がった。「ヤンコンジュ」(洋公主と呼ばれる米兵相手の売春婦は見下される存在だが、最近でも二万七千人をかぞえるという。なかでも有名なのは三十八度線に近い東豆川基地で、ピーク時の六五〇〇人からは減ったが、最近でも六十数店に一五〇〇人の米兵用売春婦がひしめいている。強制検診制があり、女たちは安全カードが必携だというから、往年の日本軍慰安所と瓜二つである。

 しかし一九八二年にここを調査した臼杵敬子によると、慰安婦になった動機は「同棲した男の裏切」「結婚の破綻」「家族からの疎外」が多く、以前のような家庭の貧困という背景は少ないという。また米軍師団長が売春抑制を指令すると、互助会がストをうって米軍を屈伏させた話もある。有名なキーセン観光や「ジャパゆき」さんのたぐいも、一方ではフェミニストたちの猛反発を受けるが、売春に依存する経済構造から見れば、失業ないし外貨収入の減少を招き、貧困への逆戻りを強いる矛盾となる

 ペトナム戦争時に米兵の休息地として賑ったフィリピンやタイも米軍の引揚げで深刻な打撃を受けたが、カンボジア内戦を収拾するため、国連の平和維持部隊(UNTAC)が一九九二年に派遣されたときは、一時的に売春景気が復活した。
 しかし旧ユーゴスラビアの内戦(一九九二)で、「民族浄化」を名目とした組織的レイプや強制妊娠、慰安所の設置が、国際法廷による裁判にかけられようとしているように、「戦争と性」の関わり方は変貌を遂げようとしているように思われる。

 湾岸戦争(一九九〇~九一)では、職業的娼婦に代って兵士同士の性充足法が一般化したようである。 米大統領の諮問機関である「女性の軍務委員会」の調査によると、参戦した男女混成部隊の兵士四四四二人に対するアンケート調査で、六四%が「前線で異性兵士と何らかの性関係があった」と回答した。その頃、これまで中絶が事実上禁止されていた米軍関係の病院でも、中絶が実施出来るようになったという。
 佐藤和秀が「女性兵士を男性兵士は慰安婦にし、男性兵士を女性兵士は慰安夫にし・・・いくら戦線で遊んでも、軍が中絶で跡始末をつけてくれる」と書いたような情景となったわけだ。



(1)Bernard B.Fall,Street without Joy (Harrisburg,1961)pp.126-27
(2)Susan Brownmiller.Against Our Will(Simon and Schuster.1975)pp..94-95
(3) Cynthia Enloe.op.cit,dt.pp.33.34.
(4)『世界』一九九三年八月号の宮崎真子稿、朴根好『韓国の経済発展とベトナム戦争』(御茶の水書房、一九九三)参照。
(5)『世界』一九九七年四月号の富山妙子との対談における尹明淑発言。
(6)『女性の人権アジア法廷』(明石書店、一九九四)の高里鈴代論稿を参照、一九八九年調査では七三六〇人以上の売春婦がいた。
(7)尹真玉編『朝鮮人女性がみた〈慰安婦問題〉』の金富子論文、一七六ページ、申蕩秀前掲書、五五ページ。
(8)臼杵敬子『現代の慰安婦たち』(徳間書店、一九九二)に米軍基地周辺の売春事情が紹介されている。
(9)毎日新聞ニューヨーク電(一九九二年十月四日付)
(10)『正論』 一九九三年十二月号の佐藤和秀稿。

『慰安婦と戦場の性』新潮選書 秦 郁彦著から抜粋

戦後補償の日独比較

国際派日本人養成講座(H11.12.18)から引用
~ワイツゼッカーの苦衷~
■1.戦後補償の日独比較■
 ドイツは旧西独時代以来、ユダヤ人虐殺などへの個人補償
だけでも、円換算で総額約6兆円を支払ってきている。日本
がアジア諸国に払った賠償・準賠償はざっと6千億円[1]

 この朝日新聞の挙げる数字は、ドイツは誠実に戦後補償に取り
組んでいるのに、日本は逃げている、誠実に謝罪し、賠償しない
から、いつまでもアジア諸国から信頼されないのだ、という主張
の根拠とされている。

 これに対する反論をまとめれば、次のようになろう。

・ ユダヤ人600万人虐殺などというような犯罪を、日本は犯
していないから、補償金額の多寡を比較すること自体、無意
味だ。

・ ドイツはユダヤ人虐殺以外の戦時賠償をまだ完了しておらず、
まだこれからの段階。日本は北朝鮮以外のすべての関係国と
講和条約、平和条約を結び、正式に国家賠償が完了している。

 どちらの主張が正しいのか、読者自身で考えていただくために、
以下のような基本的な事実を紹介したい。

■2.ナチスの犯罪■
 まずドイツが補償したナチスの犯罪とはどのようなものだった
か、をまとめておこう。以下のような殺戮が行われた。[2,p95]

1. ドイツ国内の療養所、看護施設の病人、不具者、神経病院に
いるすべてのユダヤ人、3歳から13歳までの心身障害児童
など約10万人。

2. ドイツ国内、続いて東ヨーロッパの占領地域にいるジプシー
推定50万人程度。

3. ポーランド占領期間中の知識人、指導者層100万人以上。
(ヒットラーは、東方の非ドイツ系住民は、奴隷とするため
に小学校4年以上の教育は不必要としていた。)

4. ロシアの占領地域での同様な指導者層の殺戮。規模はポーラ
ンドより多いという程度しか分かっていない。

5. ユダヤ人絶滅を目指し、ドイツ国内、ポーランドその他占領
地域での推定600万人の虐殺。

■3.日本の戦争犯罪とナチス犯罪の違い■
 これに対し、わが国が糾弾されている戦争犯罪とは、他国の
例でいえば、たとえば次のようなものである。

・ 米軍の都市空襲や原爆による一般市民への無差別攻撃
・ 中国保安隊による通州における2百数十名の日本人居留民
虐殺[3,p401]
・ 日本軍捕虜百数十名を飢えさせ、アミーバ赤痢をもった毛
蟹を食べるのを、それと知りながら傍観して病死させたイ
ギリス軍の捕虜虐待[4,p66]

 戦争犯罪とは戦闘の過程で、国際法で定められた戦争のルー
ルを逸脱する事である。前項で述べたナチスの行為は、このよ
うな戦争犯罪ではない。それは自国民をも対象にしており、か
つ戦争開始前からすでに始められていた。それに数百万単位の
ユダヤ人を収容所に運ぶことは、輸送力の浪費であり、戦争遂
行にはマイナスであった。

 ナチス犯罪は戦争行為の逸脱ではなく、特定の人種の抹殺や
奴隷化を目的として、戦力を阻害してまでも、計画的、合理的
に実行された国家犯罪なのである。

■4.罪が異なれば、賠償額が異なるのは当然■
 ベルリンの小さな集会で、ナチの犯罪が話題となった時、大
学でドイツ語を教えている日本人教師が、日本にも捕虜収容所
があり、南京虐殺などの犯罪があった、と反省の言葉を語った。
その時にあるユダヤ人がこう言った。

 アメリカにもイギリスにも日本にも収容所があったが、
一民族を根絶するために収容所を作って、それを冷酷かつ
合理的に運営した国はドイツの他には例がない。

 その日本人は顔色なく、シュンとなってしまったそうである。
[2,p83]

 わが国も、当然、戦争犯罪を犯している。しかしナチスのよ
うに、一民族を根絶すること自体を目的として、国家犯罪を犯
したことはない。

 東京裁判で最大級の戦争犯罪と喧伝された南京事件において
も、被告・松井石根大将の訴因は「違反行為防止責任無視によ
る法規違反」、すなわち部下の戦争犯罪を防止する責任を果た
さなかったというものであり、ナチスのように組織的、計画的
に住民殺戮を行ったという事ではない。

 冒頭の朝日の記事で、ドイツが個人補償を中心に6兆円支払
ったというのは、このナチスの犯罪に対してであって、それに
相当する罪をわが国は犯していないのだから、賠償額の多寡を
比較することは意味がないのである。

 わが国の賠償額を少ないというためには、上に挙げた戦勝国
による同様の戦争犯罪と比較すべきである。これら戦勝国の戦
争犯罪は裁判もなく、謝罪もなく、補償もされていない。

■5.棚上げされてきたドイツの戦時賠償■
 それでは、こうした戦争犯罪については、ドイツはどのよう
に取り組んできたのか?

 当然、ドイツにも戦争犯罪がある。たとえば、1944年の記録
では、516万人のロシア兵が捕えられ、そのうち、47万3
千人が処刑され、3百万人が捕虜収容所で餓死したという。規
模はとてつもないが、これらは捕虜の不法処刑、虐待という戦
争犯罪のカテゴリーに属する。

 実はドイツの戦時賠償は、ドイツ統一まで棚上げにされてき
ており、近年ようやく東欧諸国の請求交渉が始まった段階であ
る。たとえば、96年にはポーランドとの支払協定が完了したが、
強制労働に従事し、現在も生存している100万人に対して、
一人あたりわずか4万円の一時金が支払われることになった。
[5]

 対戦国に対しては53年のロンドン会議で、約200億ドル
の賠償債務協定が結ばれたが、ユダヤ人への補償実施と引き換
えに、ドイツはこれまた補償請求を棚上げしてきた。

 敗戦直後、ソ連をはじめ連合国側は、ドイツの工場施設
をはじめ海外資産、絵画や本まで、あらゆるものを持って
いった。英国などは、木まで伐採して持っていった。全部
で2千億マルクになる。ドルにして470億ドル、賠償予
定額の倍以上だ。いまさら賠償請求はないと思うが、これ
は万一の場合の、内部試算である。
           (ドイツ大蔵省担当官)[6,p35]

 このように、ナチス犯罪以外の賠償問題を、ドイツはうやむ
やのまま棚上げしてきた。そこをついて、世界ユダヤ教徒会議
などから、戦争中の強制労働への100億マルク(6千億円)
の補償要求が新たに出された。ドイツ政府と、ジーメンス、フ
ォルクスワーゲンなどの企業が、合計60億マルクの提示をし
たが、隔たりは大きく、交渉は難航している。[7]

 冒頭の朝日の記事で、ドイツの補償が「ユダヤ人虐殺などへ
の個人補償だけでも6兆円」という裏には、実はナチス犯罪に
よる個人補償以外の戦時賠償をしてこなかった、という事実が
隠されている。ドイツの戦後清算は、まだまだこれからである。

■6.日本の戦時賠償■
 これに対し、わが国はどうか。日本は昭和26年のサンフラ
ンシスコ条約において、米、英、仏、オーストラリアなど45
カ国との間で平和条約を締結した。ここでは連合国の請求権に
ついて次のように規定されている。

 連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中
に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及び
その国民の他の請求権・・・を放棄する。

 この代償として、わが国は海外で保有していた在外資産をす
べて放棄した。たとえば、満洲、朝鮮の鉄道、工場から、はて
は中国大陸やアメリカで、日本の企業や個人の保有していた建
物、設備、預金など、すべてがそれぞれの国に没収された。
その総額は終戦直後の日銀の大まかな試算では、1,111億ドル
とされている。1ドル10円換算で、1兆1千億円。現在価値
では、その数十倍にあたろう。

 さらに中華民国、フィリピン、インドネシア、ベトナムなど、
アジア各国に対し、一国ごとに日本は賠償を支払い、相手国は
請求権を放棄するという形で、正式な協定をもって解決してき
た。現在、この処理が終わっていないのは、北朝鮮だけである。

 たとえば、昭和31年に結ばれたフィリピンとの賠償協定で
は、賠償・借款あわせて2880億円を20年分割で支払うことと
なった。この年の政府予算9900億円の3割近い規模である。す
べての国との賠償が完了したのが、昭和52年。支払い開始か
ら23年後であった。[6,p19]

 この几帳面さと誠実さは、「いまさら賠償請求はないと思う
が」などというドイツの姿勢とは著しい対照をなしている。

■7.「罪」と「責任」の違い■
 賠償の次に、ドイツの謝罪ぶりを見てみよう。

 罪のある者もない者も、老若男女いずれを問わず、われ
われすべてが過去に責任を負っている。

 このワイツゼッカー大統領の有名な「荒れ野の40年」とい
う演説を引き合いに出して、朝日新聞「声」欄は言う。

 かえりみて、わが国戦後の歴代首相や閣僚は、日本の戦
争責任と、侵略を受けた諸国に対する明確な謝罪を、心を
込めて表明したことがあるだろうか。[8]

 しかし、それほどドイツは誠実に謝罪しているのだろうか。
ワイツゼッカーの演説の「罪のある者もない者も」という部分
を見落とすべきではない。「罪」と「責任」を厳密に区別して
いる。この違いについて、ワイツゼッカーは、朝日新聞の記者
とのインタビューで次のように答えている。

 人は自分に罪がないことにも、責任をとることができる。
例えば、私の自動車を他人が運転して事故を起こしても、
私は賠償責任を負う。[2,p326]

 この区別と、次の言葉をあわせて、ようやくワイツゼッカー
の本音が見えてくる。

 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というよ
うなことはありません。罪といい、無実といい、集団的で
はなく個人的なものであります。

 ワイツゼッカーの回りくどい主張はこう要約できよう。当時
のドイツは、ヒットラーに乗っ取られた車のようなものだ。そ
れが暴走して事故を起こした、その罪はヒットラーとナチス党
員の個人的なものである。車の所有者たるドイツ民族には、賠
償責任はあっても、罪はない。

■8.ワイツゼッカーの苦衷■
  ナチスの犯罪はヒットラー個人の罪で、ドイツ民族の罪では
ない、という主張はやや強引だ。というのは、ヒットラーは暴
力で政権を奪取したのではなく、1937年の正規の国会選挙で、
得票率37.4%をとって第一党となり、世論の支持のもとに合法
的に権力についたのである。さらに戦後作られたナチ協力者の
リストは、1200万人にものぼった。

 ワイツゼッカーの主張を、西尾幹二氏は「とかげのしっぽ切
り」と形容する。ナチスの罪を徹底的に追求されたら、国民全
体に及ぶ。なんとか、しっぽ切りで済ませて、本体を守ろうと
いう必死の弁明なのである。ワイツゼッカーを聖者として祭り
上げる前に、その苦衷に思いを致すべきではないか。

 国家として、賠償責任は負うが、決して罪を認めない、とい
うドイツの必死の姿勢は見事なまでに一貫している。ユダヤ人
虐殺に対してイスラエルと結んだ協定でも、文面上は「故郷や
資産を失ったユダヤ人難民・犠牲者」を「イスラエル、ないし
は新たな祖国に受け入れさせていくための編入費用」とされて
いる。

 直接謝罪もなしに、ドイツの善意による人道的援助という形
をとっていることに対して、ユダヤ人たちは怒り、補償金をも
らうべきではない、という批判すらあったという。

■9.「過去の清算」と外交基盤■
 ドイツの苦渋に満ちた立場と比べて、北朝鮮以外のすべての
国と、講和条約できちんと処置を済ませてきた日本の立場はは
るかに恵まれている。ドイツへの強制労働補償要求に味をしめ
て、米人元捕虜などが日本企業に対して補償請求をはじめたが、
ドイツとは違って「連合国及びその国民の請求権」を放棄させ
たサンフランシスコ講和条約の壁が立ちはだかっている。

 戦後の困難な時期にも関わらず、几帳面にすべての国と条約
を結び、誠実に賠償を果たしてきた先人の努力に、現在の日本
人は感謝すべきだろう。

 近隣諸国との関係を語る際、今なお「過去」の清算の不
十分さが指摘される日本とドイツの相違は大きい。それが
外交基盤の強弱につながっている。[9]

 という朝日の指摘は、事実も論理も転倒している。ドイツは
卓越した外交能力で、EUやNATOでリーダーシップをとり、
過去の清算の不十分さをカバーしつつ、近隣諸国との関係を築
いてきた。逆に日本は謝罪外交、ばらまき外交しかできず、せ
っかくの十分な過去の清算努力を無にして、一部の近隣諸国に
つけいられる隙を与えているのである。

 我々は、ドイツの外交をこそ見習うべきであって、その不徹
底な「過去の清算」ぶりは見習うべきでなく、また、その必要
もない。両国の「過去」は本質的に異なるからである。

■参考■
1. 朝日新聞、H5.9.4
2.「異なる悲劇 日本とドイツ」、西尾幹二、文春文庫、H9.10
3.「大東亜戦争への道」、中村粲、展伝社、H2.12
4.「アーロン収容所」、会田雄二、中公新書、S37.11
5.「間違いだらけの戦後補償論」、中島繁樹、祖国と青年、H5.9
6.「戦後補償論は間違っている」、岡田邦宏、日本政策研究センター
  H8.10
7.「ドイツ 難航する強制労働者補償問題」、世界日報、H11.11.26
8. 朝日新聞、「声」、H7.9.3
9. 朝日新聞、H5.2.27

韓国・朝鮮の慰安婦

朝鮮人業者が従軍慰安婦を連れて戦地を回っていたという証言
「石枕 (下巻)」 張俊河 安宇植訳 1976年 サイマル出版会

(著者は日本軍を脱走して中国で活動していた上海臨時政府に参加し、金九主席の側近になっていた。)

私たちをなおのこと嘆かせたのは、新しい事実だった。日本軍が降伏する直前(1945年8月15日)まで通訳か、それでなければ前線地区を回って阿片を商ったり日本軍慰安婦の抱え主を演じた連中までが、一朝にして光復軍(韓国臨時政府の軍隊)の帽子を手に入れ、独立運動家、亡命者、革命家などを自称する、とうてい見るに忍びない風潮が横行したことだった。のみならず、同じく異国にある同胞たちの財産を、そうした連中であればあるほど先に立って没収して回るのが普通だった。

著者は戦後、言論人として民主化運動の先頭に立ち"韓国の良心"といわれた人である。


韓国には今も軍人専門と思われる慰安婦がいる
「いい加減にしろ韓国」 豊田有恒 平成6年 詳伝社

軍隊の行くところ、女はつきものである。日本国内でも、基地の近くには慰安所があった。これらは、すべて民営である。だが、女たちの健康管理には、軍が介入した。なぜなら、当時、性病が蔓延していたため、軍としても放置できなかったからだ。これは、他国の軍隊でも同じことである。いざというとき、兵隊が病気で戦えないのでは、戦争にならないからだ。

非武装地帯(南北国境)の付近で、韓国軍の兵営のある場所にも、現在、売春街がある。ついでながら、たまには、韓国から北韓(北朝鮮)へ亡命する兵士がでることは、日本ではあまり知られていない。女と博打と酒で借金がかさんで、にっちもさっちも行かなくなる兵士が、軍事分界線を越えて、北へ逃げることがある。北では、偉大なる首領さまを慕って、やってきた勇士ということで、大歓迎になる。だが、宣伝に使われたあげく、いつの間にか、消息を聞かなくなる。利用価値がなくなって粛清されたわけだろう。

また、いまは、観光客に人気の街だが、あの梨泰院(ソウルの繁華街にあるファッションタウン)は、もともと近くにある米軍第八軍団の基地を、あてこんだものだ。70年代初めに行ったときは、怪しげなパーが多く、混血の子を抱いた女を、見かけたものだった。まえにも説明したが、梨泰院(イーテウォン)は、かつて異胎院(イーテウォン)という文字を宛てられていた。つまり、外国との混血児を収容した場所だった。その伝統は、つい最近まで生きていたというわけだろう。もっとも、いまでは様変わりして、米軍は追い出されかけている。

韓国中央日報日本語版 / 「韓国戦争中にも軍慰安婦存在」韓国教授が主張
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=24331&servcode=400§code=400

韓国「基地村」買春 http://www.jrcl.net/framek649.html


「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮半島国家管理売春史の歴史歪曲

最近、朝鮮史の専門家まで、朝鮮の「妓生(キーセン)」は、ただの「踊り子」や「楽師」、せいぜい日本の「芸者」のようなもので、「娼妓」、「売春婦」ではない、と美化する傾向がある。それは、朝鮮娼妓史に対する無知か、それとも知っていても、わざと歴史歪曲しているかのどちらかに違いない。朝鮮の妓生は、ただ詞をつくったり、詩を吟じたり、あるいは楽器を弾きながら、両班・貴族たちと酒を汲み交わしたりする、芸能人やら文学少女であったかのように美化することは、明らかに歴史歪曲の確信犯である。朝鮮半島の妓生は、それが官妓(官庁に置かれたキーセン)であろうと、芸のみ売って、春を売らなかったという歴史認識は明らかに勉強不足だ。
(中略)
朝鮮の宗主国への営妓(軍隊慰安婦)、官妓の進貢は元の時代からすでに正史や野史に表われている。しかし統一新羅の時代から、唐軍に強制連行された高句麗、百済人は、婦女子が多かった。彼女らの運命は奴婢に、もしくは官妓、宮妓、営妓、私妓になることは、当時の社会背景からみれば推測できる。元の時代になってから、朝鮮半島は一躍、東アジア最大の宦官と貢女(女の献上品)の供給地となったことは、諸史に散見できる。また貢女や営妓の献上についての要求は、ベつに朝鮮半島とは限らず、すでにジンギスカンの時代に、征服された中央アジア諸国の国王は、競って美女と名馬を献上したので、高麗国王も貢女を要求された。それは処女を原則とし、しばしば国中の結婚を禁止して、要求に応ぜざるをえない場合もあった。もちろんそれは汗(皇帝)の宮廷に限らず、諸王や権臣もたびたび貢女を要求した。貢女には、宮妓だけでなく、官妓や営妓になるものもみられた。高麗が元に服属した後の元宗15年3月、元からの南宋軍人のために、高麗の婦女140名を要求したことがあった。高麗政府は「結婚都監」を設け、市井の独女、逆賊の妻、僧人の女を集めて、数を満たした。そのときは処女、童女ではなく、独身婦女や罪人の妻を強制連行して、1人の化粧代を絹12匹(布地24反に相当)で、モンゴル政府に売ったのである。これは政府という国家権力による人身売買と強制連行ともいえよう。その翌年の忠烈元年に、元は蛮子軍(南宋の降人部隊)1400人を高麗に送ってきたので、蛮子軍に営妓を売るために高麗政府は「寡婦処女推考別監」を設け、役人を諸道に出して婦女を推考、選別していたこともあった。
(中略)
教材として日韓の教科書に採用された幻の「従軍慰安婦」そのものが、はたして存在していたか、いなかったか、今日でも未決のままである。「なかった」派の主張によれば、「政府が直接関与した例は一つもなかった」である。しかし、韓国人からすれば、かつて朝鮮半島は宗主国の中華帝国諸王朝に貢女を進貢するアジア最大の貢女の産地であった。現在でも世界有数の国家管埋売春の国である。長い歴史文化と現在の「状況論理」からすれば、「(従軍慰安婦は)存在したに決まっている」と想像するのも無理からぬことだ。しかし、どうみても「あったか、なかったか」はっきりしないことを、無理やりに「あった」ことにして教科書で教え、相手に「謝罪」を強要することは、はたして良識にかなうものだろうか。そこにも「正しい歴史認識」が必要となろう。


「いい加減にしろ韓国」 豊田有恒 平成6年 詳伝社
妓生は”中国人接待担当”国家公務員

卑近な例をあげると、妓生というサービス嬢が、韓国に存在する。大方の日本人は、日本でいえば、吉原の遊女みたいなものだと思っているらしいが、大間違いだ。本来、妓生とは、外務省の儀典局の職員みたいな資格なのだ。中国からやってきた天使(エンジェルという意味ではない。天とは、中国という意味なのだ。つまり、中国の使者という意味)を応接するために、存在している。詩歌管弦の道に秀でていて、中国語がぺらぺらで、頭もよくないと勤まらない役職なのである。しかも、接待する相手の中国人の好みに合わせて、美人でないといけない。たまたま使節の中国人が、旅の無聊(ぶりょう)を訴えれば、夜伽の相手もするというわけだ。いわゆる売春婦ではない。れっきとした国家公務員なのだ。現在はともかく、日本の遊女より、はるかに格が上なのだ。

韓国で、有名な暴君の燕山君(在位1494~1506)は、名刹円覚寺を破壊して、その跡地に妓生の養成所を建てた。この場所が、今のパゴダ公園なのだが、韓国人は、このエピソードについては、あまり語りたがらない。パゴダ公園は、日本に対する3・1運動の発生地として有名だから、そっちの由来を紹介しておいたほうが、ジャパン・バッシングの役に立つわけだろう。対中国というケースでは、よりすぐりの美女に教育を施して、高級コールガールみたいなこともさせた。このように、中国に対しては、徹底的に卑屈になりきった歴史を、長いあいだ継続してきた。

妓生は、官庁に制度的に設置された朝鮮の伝統的な芸妓で、歌舞をもって遊宴にはべらなければならなかった。また、両班に侍寝するすることもあり、これを守庁といった。身分的には官庁の所有になる「公奴婢」であり、妓生の娘は「奴婢制度」によって母の身分を継承せねばならなかった。まさしく性奴隷といえよう。


「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社
李朝時代には、両班、中人、奴婢の他に、妓籍(キジョ)という戸籍があった。妓生(キーセン)が妓籍に属した。両班であれば、もちろん金を払わねばならなかったが、妓生とはいくらでも寝ることができた。両班が妓生を呼びだして、一夜をともにすることを「守庁」(スチョン)といった。庁は役所のことである。役所を守るといって、妓生を呼んで家に帰らなかったのだから、ユーモアがあった。妓生側からは「スチョントゥンダ」(官庁に入る)といった。夜、一人で役所を守るのは寂しいのだ。そこで妓生と役所で一夜を楽しんだ。役所では「守庁」は公認された。

妓生を愛人として生まれた子は、庶属(ソージョク)となった。庶属は常人扱いだった。両班は、妓生との間にできた娘が年ごろになると、親しい友人に贈ったり、自分の上司の長官に貢ぎ物として棒げた。「肌の若いのがよいだろう。君、持っていって遊ベ」というようなことを言って、友人に進呈したから、もう人間扱いではない。韓国は好色な文化である。日本よりも、もっと陽気であけっぴろげだ。


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
なぜ韓国の国家管理売春で、日本人だけ非難されるのか

日韓併合後5年後の1916年、「貸座敷娼妓取締規制」が発布された。このことが朝鮮半島初めての公娼制度の全面導入であったという主張となっている。歴史を直視せず、都合よくつまみ食いするわけである。法治国家だから、売買春を中心とする「水商売」を取り締まるのは当たり前のことである。しかし、過去の「慰安婦」を国家犯罪として非難しながら、現在の国家管理売春を免罪とするのは異常である。

1970年代には、朝鮮半島統一運動勢力が進歩的文化人と手を組み、日本のマスコミを総動員して、朴大統領の売春親光政策の徹底追及に明け暮れていた。日本の女性問題運動家、市民連動家も競ってこのキャンペーンと呼応し、日本男性の買春旅行を国の「恥」として、同じく徹底的に追及し、マスコミを騒がした。考えてみれぱ、それは朴大統領のいわゆる「国家戦略産業」としての「観光立国」を潰そうとするキャンペーンだったのであろう。統一運動勢力は朴政権の国家売春政策を批判し、女性問題運動家も「国辱として日本男性の買春親光を非難し、双方とも大義名分が立つ。アメリカの週刊誌『タイム』は、この日本人観光客のキーセン買春の狂態ぶりを報道し、世界的な話題ともなった。
韓国の国家管理売春は、写真付きの登録制で身分を保険社会部に登録して、証明書を所有し、定期検診を週一回行なうものだった。国家管理下の売春婦の数については、『腐触する社会――公害と妓生観光』(朝鮮統一問題研究会編)によれぱ、全国で20万人にものぼるという。

『腐敗する社会』によれば、韓国の「妓生学校」は「時には有名人の講話を聞かせたり、現代韓国の経済政策、観光誘致の重要性について説教し、もっぱら外貨獲得のために献身する」ことを勧めているという。日本人観光客を相手にしていたので、「日本語学校」を設け、観光客に安心して買える「商品」として高く売り出している)と述ベている。

文教部長、閔寛植は1973年4月、東京の「韓国学園」に教職員や民団幹部まで集めて、韓国女性が国家のための経済的建設に欠くべからざる外貨獲得への献身的努力をしていることに、最大級の賛辞を呈したとも伝えられている。

朴政権が非難されるのは、売春を国策として奨励し、「美徳」として外貨稼ぎに躍起になっていたということにある。
さらに彼女たちを「特訓」して、「芸術使節団」や「芸能人」として証明書を発行し、日本まで遠征させたことである。KCIAの対日政財界工作として、韓国の妓生は「外交官用」の旅券まで持ち、日本政財界の大物相手の専門家として踏んぱっていたのだ。いわゆる「日韓癒着」は、韓国の妓生が国家のために大きな役割を果たしていたから生じたともいわれ、彼女たちは、さらに対米議会工作にも使われているいう。

「大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

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