左翼系在日朝鮮人騒乱史

朝鮮総連が、公安警察に監視されたり、公安調査庁の「調査対象団体」に指定されている理由。

・大阿仁村事件(1945年10月22日)
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。
午後1時になると約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。

・生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。
その後1945年12月24日午後9時、「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。急を聞いた進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。
また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。

・直江津駅リンチ殺人事件(1945年12月29日)
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。
朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
【このような事例は全国各地で続発しており、蔡焜燦氏や北斗星氏の証言が他のサイトで紹介されています。】

・富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
1945年末に起きた強盗事件の容疑者として朝鮮人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署に留置されていた。1月3日になって朝鮮人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、朝鮮人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴徒化して、事実上警察署が占拠された。そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。

・長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)
1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取締で、朝鮮人26名・中国人6名・日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。朝鮮人・中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100名とその他中国人など総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた(うち1名は死亡)。捜査の結果、60名の朝鮮人と7名の中国人を検挙した。

・富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
1946年8月5日、富山県警察部は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。
ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった「自治隊出張所(引用者注:朝連の自治隊の「交番」のこと)」を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。

・坂町事件(1946年9月22日)
羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、中国人15名・朝鮮人約50名が警察官に襲いかかり、暴行を加えた。警察官は傷を負いながらも朝鮮人2名を逮捕した。
同日午後、坂町・金屋両駐在所から「ヤミ米を運搬している」という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。そのとき、約15名の朝鮮人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。さらに駐在所に侵入して器物損壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援により、これを鎮圧し12名を検挙した。

・新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)
1946年9月26日に、朝鮮人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予した。29日に朝鮮人団体幹部たちは再度新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得のいく回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員検挙した。

・首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
宮城前広場(現在の皇居前広場)において、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は進駐軍憲兵隊に引き渡された。彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。

・尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
1947年10月20日午後3時ごろ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのを奇貨として派出所内の器物を破壊し、『尾花沢派出所』の表札を外して一旦逃走した。
その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。そのとき、さっきの朝鮮人7名と他の朝鮮人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重傷を負わせた。警察は進駐軍憲兵の協力も得て、29名を検挙した。

・阪神教育事件(1948年4月23日~25日)
1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮人学校に学校教育法を適用するように通達を出した。大阪府ではこれを受けて、朝連の幹部や朝鮮人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮人側それに応じる気配を見せなかったので、3月15日に閉鎖勧告を行った。しかし、朝鮮人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。
1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢を上げた。朝鮮人代表15名は大阪府庁内で副知事・学務課長と交渉していたが、主張が容れられなかったので、朝連系の青年行動隊等数百名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。大阪市警察局と国家地方警察大阪府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除した。
神戸では、翌24日に朝鮮人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。会議には兵庫県知事および副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正など14名が参加していた。そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。また、市警察局長や検事正に対しては、検挙者の釈放と今回の行為を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。
しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に「非常事態宣言」を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。

・評定河原事件(1948年10月11日~12日)
1948年10月11日と12日の両日、宮城県仙台市の評定河原グラウンドにおいて、朝連と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の主催で、北朝鮮政府樹立祝賀会と運動会が開催されたが、このときGHQにより禁止されていた北朝鮮国旗を掲揚したため、仙台市警察と進駐軍憲兵がこれを阻止し、進駐軍憲兵に抵抗した朝鮮人1名が腹を撃たれて負傷、合計6名が検挙された。

・宇部事件(1948年12月9日)
宇部市民会館において朝連系約200名が参集し、生活擁護人民大会を開催中、手配中の朝連県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕したが、大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなり、警察側の発砲によって鎮圧された。

・益田事件(1949年1月25日)
島根県美濃郡益田町(現在の島根県益田市)の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。

・枝川事件(1949年4月6~13日)
東京都江東区枝川町の朝鮮人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し、連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた朝鮮人約50人が刑事を取り囲み、暴行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。
その後の交渉で、警察は暴行者の引渡しを要求したが、朝鮮人側は刑事の処分と暴行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川町を封鎖し、13日に一斉検挙を行い被疑者9名を検挙した。

・高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日)
新潟県中頚城郡新井町(現在の新潟県新井市)と同郡中郷町の朝鮮人集落では大掛かりな酒の密造をを行っており、警察などの関係当局は1949年4月7日早朝に一斉取締りを断行し、証拠物件を押収した。
その後、この摘発に抗議する朝鮮人約200名は新潟県高田市(現在の新潟県上越市)の高田市警察署に押しかけ、警察署庁舎に投石して窓ガラスを割ったので、4名を検挙した。
翌8日には高田税務署に押しかけ、署内に侵入しようとしたり投石をしたため、1名を不退去罪で検挙した。
11日になると、朝鮮人約500名は高田市内をデモ行進した。警察はこれまでの穏健路線を転換し、首謀者12名を検挙した。

・本郷村事件(1949年6月2日~11日)
福井県大飯郡本郷村(現在の福井県大飯郡大飯町)の派出所勤務の巡査が戸口調査をするために、朝鮮人集落に赴いたところ、多数の朝鮮人が「我々を差別扱いする」と言って戸口調査を妨害し、同巡査に暴行を加えた。その後連日、派出所や警察署に約200名が押しかけ抗議した。

・下関事件(1949年8月20日)
1949年8月20日早朝、山口県下関市内の民団側朝鮮人家屋を朝連側朝鮮人約200人が竹槍・棍棒を所持して襲撃し、民団員十数人に傷害を与え、さらに家屋19戸を次々に破壊して金品を略奪した。このため市内は一時大混乱になった。
下関市警と国警山口県本部は山口県下の警察官約1000名を動員して、朝鮮人約200名を騒擾罪で検挙した。

・台東会館事件(1950年3月20日)
1949年9月8日、法務府は朝連に対し団体等規正令を適用して解散命令を出した。
東京都は当法令に基づき朝連の台東会館を一時接収したが、「台東会館防衛闘争委員会」を名乗る旧朝連員によって奪還され、さらに約400名がバリケードを構築して、小石や鉄片や唐辛子を投げつけるなどの実力抗争に出たために警察隊と乱闘になり、旧朝連員120名が検挙された。

・連島町事件(1950年8月15日)
岡山県浅口郡連島町(現在の岡山県倉敷市)で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり、集会を強行したので、制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した。

・第二神戸事件(1950年11月20~27日)
11月20日、約300名の朝鮮人が生活権擁護陳情のため、神戸市の長田区役所に押しかけ、区長と団体交渉に入ったが、排除にあたった警官隊と揉み合いになり、兵庫県朝鮮青年団体協議会議長を逮捕した。24日には、長田警察署と長田区役所にデモ行進し、その際の衝突で26名の検挙者がでた。27日になると、旧朝連系約900名は、棍棒・白鉢巻の姿で西神戸朝鮮学校に集合して不穏な形勢を示し、デモ行進に移ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突し、デモ隊の一部は長田区役所、長田税務署に殺到して窓ガラス等を破壊した。神戸市警察局は、占領目的阻害行為処罰令違反と騒擾罪容疑で188名を検挙した。
【「第一神戸事件」は「阪神教育事件」を指す】

・四日市事件(1951年1月23日)
旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った。そのため、執行係官7名が全治2~3週間の重軽傷を負った。警察が出動して公務執行妨害容疑で15名を検挙した。

・王子事件(1951年3月7日)
1951年2月28日、警視庁は占領目的阻害行為処罰令違反容疑として東京都北区上十条にある東京都立朝鮮人中高等学校(現在の東京朝鮮中高級学校)を捜索し、多数の印刷物を押収した。
3月7日、これに抗議する約1700名の朝鮮人(うち朝鮮学校生徒1100名)が同校で「真相発表大会」を開催し気勢をあげ、付近の民家で現場写真を撮影していた捜査員に対して殴る蹴るの暴行を加えたため、他の警察官が助けようとしたが、投石その他で拳銃2丁を奪うなど実力で抵抗した。このとき8名が検挙された。

・神奈川事件(1951年6月13日)
横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。
運動会終了後、約500名の朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで気勢をあげた。そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した。

・下里村役場事件(1951年10月22日)
兵庫県加西郡下里村(現在の兵庫県加西市)において、朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために下里村役場に押しかけ、村役場職員を吊るし上げ、椅子を振り上げる等の暴挙に出たので、暴行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙した。

・福岡事件(1951年11月21日)
「強制追放反対」を叫ぶ朝鮮人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊と乱闘となり、16名が検挙された。その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。警官隊が解散を命じたが応じなかったので、再度乱闘となり5名を検挙した。

・東成警察署催涙ガス投擲事件(1951年12月1日)
1951年11月10日、泥酔中の朝鮮人を警察が保護したが、容態が急変して同日夜に死亡した。乗っていた自転車が転倒して肝臓が破裂したことが原因であった。
ところが、朝鮮人側は警察官の暴行により死亡したとデマを流し、約30名の朝鮮人が東成警察署へ抗議に訪れ、署員の制止を聞かずに署内に乱入しようとしたので、これを阻止すると、催涙ガス瓶を投げ入れたり、投石してガラス窓を破壊したので、被疑者3名を検挙した。

・半田・一宮事件(1951年12月3日~11日)
1951年12月3日、愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮人が押しかけ、署長以下数名を監禁した。一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮人が捜査の妨害をした。
そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。
12月11日、これに抗議する朝鮮人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入して警備の警察官ともみ合いになった。また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊した。他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。

・軍需品製造工場襲撃事件(1951年12月16日)
上記の東成警察署で死亡した朝鮮人の追悼式に参加した朝鮮人約110名は、3班に分かれて、大阪市内四ヶ所の親子爆弾製造工場(民団系)を襲撃し、製品や窓ガラスを破壊したり、従業員に暴行を加えたりした。

・日野事件(1951年12月18日)
朝鮮人約50名が、自転車隊を編成し、白襷をかけ、「強制送還反対」のプラカードを掲げ、メガホンやスピーカーを所持し、強制送還反対を叫びつつ滋賀県内を無届デモ行進をした。警察は公安条例違反として再三中止を警告したが応じなかったので、滋賀県蒲生郡日野町において実力行使に出たが、石や薪などを持って抵抗したり、拳銃を奪い取るなどして反抗した。これにより、警察側に25名の重軽傷者を出したので、拳銃を発砲してこれを鎮圧した。35名が検挙された。

・木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日)
1952年2月21日に国家地方警察青森県本部所属の木造地区警察署で傷害容疑の朝鮮人2名を逮捕したが、朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。
23日になると、約70名が署内に侵入しようし、警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。

・姫路事件(1952年2月28日)
兵庫県姫路市において、民団広畑分団長ほか3名の民団員宅に旧朝連系約20名が覆面して押しかけ、器物を破壊して逃走した。また同時刻に姫路市内の交番4ヶ所に5~30名の朝鮮人が押しかけて、警察官を軟禁し、多数の威力を示して脅迫した事件である。捜査の結果21名を検挙し、竹槍等の凶器を押収した。

・八坂神社事件(1952年3月1日)
三・一事件記念の名目で集まった約70名の朝鮮人デモ隊が、大阪市東成区の八坂神社境内に突入しようとしたため、大阪警視庁機動隊と大乱闘となり、朝鮮人側に十数名の負傷者を出して解散した。一時間後、いったん解散させられたデモ隊40名は近くの朝鮮人集落の広場でジグザクデモ行進を始めたので、東成署員約50名が現場に急行、解散させた。この事件で6名が検挙された。

・宇治事件(1952年3月13日)
1952年3月13日午前1時頃、宇治市警小倉派出所・伊勢田臨時派出所及び警察官宅3ヶ所に、それぞれ5名の朝鮮人が押し入り、表戸などの器物を破壊し、「殺すぞ」の暴言を吐いて逃走した。
そのため、宇治市警は国警京都府本部の応援を得て426名の特別検挙隊を編成し、宇治市ウトロ地区(朝鮮人集落)を捜索、小競り合いなどがあったが、6名を検挙した。
また伏見税務署も密造酒の捜索を行い、密造酒2升を押収した。

・多奈川町事件(1952年3月26日~30日)
大阪府泉南郡多奈川町(現在の大阪府泉南郡岬町)において、密造酒取締の結果、9名を検挙し証拠物件をトラック10台に満載して引き上げようとしたところ、これを奪還するため約500名の朝鮮人が押しかけ、投石その他によりトラックの進行を阻止して、9台分の押収物件を破棄し、被疑者を逃走させて運転手に暴行を加えた。その後の捜査の結果27名を検挙した。

・田川事件(1952年4月19日)
1952年4月13日、福岡県の七曲峠で花見をするために集まっていた日本人グループと朝鮮人グループが喧嘩になり、双方に死傷者が出た。国家地方警察田川地区警察署は両グループを検挙した。
ところが19日になって、朝鮮人の集団が田川地区警察署に押しかけ、犯人の即時釈放を要求した。警察は3名のアリバイを認め釈放したが、朝鮮人たちは引き続き全員の釈放を要求し続けた。午後11時になり、警察が排除に乗り出したので、彼らはガラス戸に向かって投石をし始め、ガラス戸27枚が破損、警察官7名が負傷した。
21日に再度、田川地区警察署に押しかけて署長に面会を求め、署内に乱入しようとしたため、催涙弾を使用して鎮圧した。

・岡山事件(1952年4月24日~5月30日)
阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮人約200名が岡山市公安条例に違反する無届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン(催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。
5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞社の写真部員に投石したりした。
11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害で8名を検挙した。その後、朝鮮人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。

・血のメーデー事件(1952年5月1日)
第32回メーデー大会に参加したデモ隊の一部は、日比谷公園前において「人民広場(引用者注:皇居前広場のこと)に押しかけろ」を合図に同公園を通過し、警官隊の警戒線を突破して皇居前広場に殺到したため、警官隊と乱闘になった。乱闘中に、3000~5000名の旧朝連系(在日朝鮮統一民主戦線・祖国防衛隊)を先頭とする数万のデモ隊がこれに合流したため、双方の乱闘が一段と激化し皇居前は一大修羅場と化した。この事件で2名が死亡し、日本人1078名、朝鮮人131名が検挙された。

・上郡事件(1952年5月8日)
4月10日に左翼系朝鮮人5名は、兵庫県赤穂郡船坂村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町)で、別の朝鮮人3名に対して日本の学校に入学させていたことを理由に「スパイ」と難癖を付け、巻き割りで殴打した。
その事件の容疑で5月8日に国警赤穂地区警察署は、朝鮮人8名を検挙した。その後、容疑者は神戸地検姫路支所に護送されたが、その間朝鮮人の一団が赤穂地区警察署に押しかけ、容疑者の奪還を図ろうと南へ約50m離れた小谷薬局前で警察と乱闘になったが、容疑者の身柄は無事護送された。

・大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
1952年5月12日、韓国に強制送還された朝鮮人のうち、125名が手続不備で逆送還されて、大村収容所に再収容された。これに対し、民戦から数回にわたって抗議した後、5月25日になって50名が抗議に押しかけ、代表が当局と会談中、外部の者は盛んに収容者に対し、逃走をけしかけた。そこで約100名は混乱に乗じて逃走を企図し、12名が逮捕されてようやくおさまった。
その後、11月9日~12日にわたって、また民戦活動家数十名が押しかけ代表が当局と交渉中、654名の収容者が一斉に脱出を企図したので、催涙弾と消防車でこれを阻止し、首謀者12名を検挙した。

・広島地裁事件(1952年5月13日)
駐在所と民家に放火した容疑で検挙した朝鮮人4名の裁判が広島地方裁判所で開かれたが、傍聴していた朝鮮人約200名が柵を乗り越えて法廷内を占拠、被告4名を奪還して逃走させた。

・高田派出所襲撃事件(1952年5月26日)
5月26日早朝、名古屋市瑞穂区にある民団愛知県本部顧問宅へ旧朝連系の朝鮮人数十人が乱入した。そのため、顧問は瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。警察官が顧問を助けようとしたところ、追跡してきた一団は火炎瓶や石を投げつけて派出所を焼き討ちにした。そして、裏口から逃げようとした顧問を追いかけて暴行を加え、全治10日間のけがを負わせた。
他にも同時多発ゲリラとして、米軍基地・民団愛知県本部・中村県税事務所に火炎瓶を投げ込んだり、名古屋簡易裁判所判事宅に投石を行ったりした。最終的に朝鮮人31名が検挙された。

・奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)
奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の朝鮮人が押しかけ、戸を開けた巡査部長の父に暴行を加え意識不明の重体にし、窓ガラスや障子を破壊して逃走した。

・万来町事件(1952年5月31日~6月5日)
山口県宇部市では、生活保護の適用をめぐって朝鮮人と対立していた。1952年5月31日以来、連日のように宇部市福祉事務所に押しかけていた。
6月3日には約400名が押しかけたので、宇部市警は全署員を非常招集し解散させたが、留守中の上宇部派出所が襲撃され、投石で窓ガラスが割られた。
6月5日になると、宇部市万来町(現在の宇部市新町9丁目)にある「朝鮮人解放救援会山口県本部」が「民主愛国青年同盟」の結成式を催すことになり、県内各地から朝鮮人たちが集まってきた。その中の中核自衛隊員70名が宇部興産窒素工場に乱入し、阻止しようとした守衛に暴行を加えた。その後、民団員宅を襲って傷害を与え、解放救援会山口県本部事務所に引き揚げた。警察は犯人を逮捕するために解放救援会事務所を包囲し解散を呼びかけたが、彼らは投石をしたり、棒を振って警官隊に突入を図ったため、遂にガス弾を投入して鎮圧した。

・島津三条工場事件(1952年6月10日)
1952年6月10日、朝鮮人約50名が、京都市中京区にある島津三条工場に押しかけ、破防法反対のアジ演説を行ったので、工場側の要請を受けた警察官約15名が現場に急行、50代くらいの朝鮮人1名を検挙、京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。
同パトカーが春日通三条にさしかかった際、付近にいた朝鮮人約100名が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込み、乗っていた8名の警察官に重軽傷を負わせ、検挙者を逃走させた。

・醒ヶ井村事件(1952年6月13日)
警察は滋賀県坂田郡醒ヶ井村(現在の滋賀県坂田郡米原町)で、民団系朝鮮人を暴行して全治2ヶ月の重傷を負わせた事件で容疑者7名を逮捕するために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知してピケを張るなどして妨害したため大乱闘となり、公務執行妨害で40人、検挙予定の7名の内6名を逮捕した。

・葺合・長田事件(1952年6月24日)
6月24日に神戸市葺合区(現在の神戸市中央区)の東神小学校に約50名の朝鮮人が集まり、竹槍を持って無届デモを行ったので、2名を公安条例違反で検挙した。これに対して9時半ごろ、葺合警察署に約100名の朝鮮人児童が押しかけて投石したため、実力で排除したが、別の一団が乱入し乱闘となった。
一方、長田区では、朝鮮人約150名が神楽職業安定所に向かったので警官隊が追跡したところ、投石したため、デモ隊を包囲して11名を検挙した。

・吹田・枚方事件(1952年6月24日~25日)
6・25朝鮮戦争前夜祭として、待兼山に参集した民戦系学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、警備体制に圧倒されて目標を変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したがこれも発見できなかったため、再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、さらに行進中交番2ヶ所および日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔面に火傷を与えた。また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行の通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶・竹槍などをもって抵抗したために、警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。
一方、朝鮮人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾を仕掛けて爆破させた。これに呼応して、翌日朝、同市の小松正義(旧陸軍枚方工廠払い下げの取りまとめ役)宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。逃走途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。この事件での検挙者は113名であった。

・新宿駅事件(1952年6月25日)
国際平和デー閉会後、朝鮮人約3000名が新宿駅東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。また、デモ隊の一部は新宿駅7番線ホームに入って、そこにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。

・大須事件(1952年7月7日)
大須球場で、ソ連・中国を訪問帰国した帆足計・宮越喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系の名古屋大学生に煽動された旧朝連系を含む約1000人が無届デモを敢行した。岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、民間乗用車を燃やしたり、交番詰所に火炎瓶を投げ込んだ。そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。夜になっても、騒乱の現場から少し離れた鶴舞公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。その結果、デモ側は死亡1名、重軽傷者19名を出した。名古屋地方検察庁及び名古屋市警察はこの事件を重視し、261名(その内朝連系145名)を検挙した。

・舞鶴事件(1952年7月8日)
6月25日、朝鮮人約180名が舞鶴飯野造船所に侵入しようとして、それを阻止しようとした所員に怪我を負わせた事件が発生した。
7月8日にその事件の容疑者が舞鶴から綾部に逃走しようとしているのを警察が察知し、先回りして逮捕しようとしたところ、竹槍等で抵抗したため警官が発砲するなど大乱闘となった。双方合わせて27名の重軽傷者を出し、12名を逮捕した。同日午後5時ごろ、朝鮮人数十人が、棍棒、石、ノコギリを持ち「逮捕者を返せ」と舞鶴西署に押しかけ同署のガラス数十枚を破り、警官ともみあいになり、8名を逮捕した。

・五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日)
1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、証拠物件を押収し、酒税法違反として45名を検挙した。そのとき、激しく妨害したので、朝鮮人7名が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。
これに対して朝鮮人は反発し、板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行い、26日には、約60名の朝鮮人が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠した。

≪参考文献≫
法務研修所編『大須騒擾事件について』1954年
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
篠崎平治『在日朝鮮人運動』1955年
大阪市行政局編『大阪市警察誌』1956年
新潟県警察史編さん委員会編『新潟県警察史』1959年
名古屋市総務局調査課編『名古屋市警察史』1960年
瓜生俊教編『富山県警察史 下巻』1960年
山形県警察史編さん委員会編『山形県警察史 下巻』1971年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
大阪府警察史編集委員会編『大阪府警察史 第3巻』1973年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
愛知県警察史編集委員会編『愛知県警察史 第3巻』1975年
青森県警察史編纂委員会編『青森県警察史 下巻』1977年
坪井豊吉『在日同胞の動き』1977年
警視庁史編さん委員会編『警視庁史〔第4〕』1978年
思想の科学研究会編『共同研究 日本占領研究事典』1978年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
長崎県警察史編集委員会編『長崎県警察史 下巻』1979年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
山口県警察史編さん委員会編『山口県警察史 下巻』1982年
警察文化協会編『戦後事件史』1982年
日本国有鉄道公安本部編『鉄道公安の軌跡』1987年
講談社編『昭和・二万日の全記録 第9巻』1989年
朴慶植『解放後 在日朝鮮人運動史』1989年
百瀬孝『事典・昭和戦前期の日本 制度と実態』1990年
金慶海、堀内稔編『在日朝鮮人・生活擁護の闘い』1991年
荒敬『日本占領研究序説』1994年
百瀬孝『事典・昭和戦後期の日本 占領と改革』1995年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年

≪新聞≫
『秋田魁新報』1945年
『神奈川新聞』1951年
『西日本新聞』1951年
『中部日本新聞』1951年、1952年
『大阪新聞』1952年
『京都新聞』1952年
『神戸新聞』1952年
『山陽新聞』1952年
『中国新聞』1952年


「秋津嶋案内所 HP」から引用
http://haniwa82.hp.infoseek.co.jp/index.html
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同胞4万救出作戦

国際派日本人養成講座( H16.08.15 )から引用
地球史探訪:同胞4万救出作戦

 内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、
日本軍将兵が立ち上がった。



■1.蒙古での玉音放送■
 昭和20年8月15日、張家口第2国民学校6年生の富田豊
は、強い日射しの照りつける校庭に級友たちと土下座していた。
夏休みだったが、正午に天皇陛下の玉音放送があるというので、
登校を命じられていたのだった。

 張家口は蒙古連合自治政府の一都市で、北京から2百キロほ
ど北西、万里の長城の関門にあたる。8月9日、ソ連軍が日ソ
中立条約を破って、満洲と同時に北方から内蒙古にも侵入して
くると、これらの地域に住んでいた邦人が、内蒙古の最南部に
ある張家口に逃げ込んできていた。

 玉音放送は雑音が多く、言葉も難しいので、小学生にはよく
分からなかった。校長先生も沈痛な面持ちで「大変な事態にな
りました」と言っただけだった。訳がわからないまま、不安を
抱きつつ家に帰ると、母のいとが泣きながらミシンを踏んでい
た。「どうしたの」と豊が聞くと「日本が戦争に負けたのよ」

■2.「これに対する責任は一切司令官が負う」■

 その15日夜、駐蒙軍司令官・根本博中将は、張家口の宿舎
で眠れない夜を過ごしていた。ソ連軍はその前日には張家口北
西44キロの張北にまで迫っていた。満洲に侵入したソ連軍に
関する情報ももたらされていた。

 ソ連軍は、在留邦人に対して、婦女子は手当たり次第に
暴行したり、着ている衣服や腕時計まで掠奪している。拒
否するものは容赦なく射殺するなど、暴虐の限りを尽くし
ているらしい。

 日本は降伏したが、このまま手を拱いていて、ソ連軍が張家
口に侵入すれば同じ地獄絵図が繰り広げられる。北方27キロ
にある丸一陣地にてソ連軍を食い止めつつ、時間を稼いで、邦
人4万人を北京・天津方面に脱出させなければならない。

 日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら、罪に問われるであろう。
その時は、一切の責任を負って自分が腹を切れば済むことだと、
覚悟が決め、根本中将は丸一陣地の守備隊に対して、命令を下
した。

 理由の如何を問わず陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅
すべく、これに対する責任は一切司令官が負う。

「軍司令官は、たとえ逆賊の汚名を受けても4万人の同胞を救
うためには、断乎としてソ連軍を阻止する決意だそうだ。」そ
ういう噂が口伝えに広がると、陣地内の将兵の士気は、一挙に
高まった。

■3.ソ連軍、現る■

 迫りつつあるソ連軍は、外蒙騎兵を含め、総員4万2千。戦
車・装甲車4百輌、砲6百門を持つ機甲部隊である。それに対
して丸一陣地を守るのは約2千5百名。重火器としては迫撃砲、
速射砲など数門づつあるのみだった。陣地とは言っても、小高
い丘を利用して所々にコンクリート製の機関銃座を設け、その
前面には幅6メートル、深さ4メートルの対戦車壕があるだけ
だった。

 8月19日、未明。細雨のなか、低くたれ込めた朝霧の彼方
から無数のエンジン音が響いてきた。煌々ととライトを照らし
た敵装甲車軍が朝霧の中から現れた。

 陣地前面の鉄条網付近には「ワレ抗戦セズ」という意思表示
の白旗が掲げられていたが、それを無視してソ連軍は戦車砲、
迫撃砲、機関銃による猛射を始めた。

 日本軍陣地の方は積極的戦闘は禁止されているので、応射は
厳禁していた。第一線将兵のはらわたは煮えくりかえっていた。
参謀の辻田新太郎少佐が停戦交渉をしようと、4人の軍使に大
きなシーツで作った白旗3本を持たせて陣地から送り出すと、
その白旗をめがけて撃ってくる。軍使の一人が耳たぶを打ち抜
かれて倒れた。「何という軍紀のない敵か」と辻田少佐は激怒
して、軍使たちを引き返させた。

■4.「一時避難」のニセ命令■

 20日午後、富田家に隣組を通じて通達が来た。「今晩一晩、
情勢が悪いので一晩分の非常食を持って、国民学校の校庭に集
まれ」という「一時避難命令」だった。いとは、わずかな着替
えと1食分の弁当を持って、豊と清美(8歳)、章三(5歳)
の手を引き、2歳の伊久代を背負って、夕方、差し回しのトラッ
クに乗った。夫は市内警備に動員されていたが、どこの家も同
様に男手は徴集されて女子供だけだった。

 トラックは学校でなく、駅に向かった。何千というほとんど
母子のみの群衆が押し合いへしあい、貨物車に乗り込んでいた。
子供はみなで尻を押し、引っ張りあげた。実は「一時避難」と
はニセ命令だった。引き揚げ命令を出せば、少しでも多くの家
財道具を持って逃げようとする。そのために集合が遅れ、また
持ち込んだ荷物で駅前は大混乱になる。短期間で4万人を脱出
させるための駐蒙軍の苦肉の策であった。

 満洲では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画した
が、居留民会が数時間での出発は不可能と反対し、11日になっ
ても誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗
せざるをえなかった。これが居留民の悲劇を呼んだのである。

 夜になっても、なかなか列車は出発しない。雨のそぼ降る中、
無蓋汽車にすし詰めの母子たちは濡れ鼠になって出発を待った。

 その頃、張家口から数十キロ南方の線路では、八路軍(中国
共産党軍)に爆破されて脱線した機関車と客車数両を日本軍の
一隊が必死になって取り除こうとしていた。4,5時間かかっ
て、車両を線路横の谷間に落とした。「これで汽車が通れるぞ」
「居留民たちが、やっと帰れるぞ」 疲れきった兵士たちの中
から声があがった。

 夜10時頃、北の大地の遅い夕闇の中を居留民を満載した一
番列車が通る。線路際に立って見送る兵士たちに、無蓋汽車の
上から両手を合わせて頭をたれる婦人の姿が、シルエットとなっ
て浮かんだ。

■5.白兵戦■

 その頃、丸一陣地にソ連軍が侵入を開始していた。約2百人
が対戦車壕の西端を回り込んで、背後に回ろうとした。その近
辺を守っていた増田中尉は、ただちに中隊の先頭に立って、
「突撃」と大声で呼号した。

 そのとたんに、機関短銃を打ちながら前進してきた敵兵と鉢
合わせとなり、反射的に軍刀を横になぐと、敵兵の首はころり
と落ちた。それから後は無我夢中だった。倒れた敵兵の死体を
飛び越えて突進し、血刀を振るって斬りまくった。

 8人目を斬り伏せた時、その後ろにいた敵の中隊長らしき人
物が何か叫んだ。「後退せよ」とでも言ったのだろう。敵は潮
の引くように一斉に退却した。増田中尉がほっとして腰をおろ
したとたん、全身に激痛が走り、立ち上がれなくなった。身体
の数カ所に銃弾が貫通して、血だるまになっていた。軍刀はひ
んまがって、鞘に入らなかった。

 陣地最右翼からも、ソ連軍が侵入してきた。手榴弾の投げ合
いのあと、日本軍は白ダスキをかけた銃剣突撃で、敵を撃退し
た。

■6.「元気で帰れよ」■

 豊の弟、5歳の章三は出発前から風邪気味だったが、列車の
中で40度もの熱を出した。母のいとは夜は自分の身体で雨か
ら守り、昼は手ぬぐいを顔にかけて烈日を少しでも遮ろうとし
た。持参した弁当もすでにない。

 駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦
心していた。17日頃から軍の倉庫にあった米や乾パンを沿線
の各駅にトラックで大量に輸送していた。(これが「軍が先に
逃げたとの誤解を与えたらしい。)

 トラックに乾パンを満載して、陸橋の上で待ちかまえ、通過
する列車に次々と乾パンを投げ入れた。駅で停まると国防婦人
会の人たちが炊き出しのおむすびを差し入れた。

 豊の乗った列車が、一面のリンゴ畑を通ると、警備の日本兵
たちが駆け寄って、「元気で帰れよ」と口々に叫んでは、リン
ゴをもいで列車に投げ入れてくれた。豊はその一つを受けとめ
た。赤いリンゴを噛みしめると、甘酸っぱい果汁が歯に染みた。

■7.「兵隊さん、これ食べて頑張って下さい」■

 八路軍の鉄道襲撃は執拗だった。周囲の山から居留民を満載
した無蓋汽車に銃を撃ちかけてくる。北京から急遽、救援にか
けつけた第118師団の将兵も、防戦に駆けずり回った。

 8月21日、張家口から約40キロ東南の宣化の駅では、広
い駅構内の何本もある引き込み線に引き揚げ者を満載した列車
20本ほどが一時停車していた。物資輸送のために山本義一軍
曹と部下20人がそこを通りかかった時、八路軍が襲撃してき
た。

 山本軍曹は「こりゃ、エライこっちゃ。どうせ死ぬなら、日
本人のために死のう」と部下たちに呼びかけ、応戦。やがて3
百メートルほど離れた川岸まで撃退した。

 しかし、八路軍は何度も襲撃してくる。撃ち合って二日目、
疲れ果てて、もう持ちこたえられん、とあきらめかけた時、
5、6歳のイガグリ頭の男の子が、大きなカバンをひきずるよ
うにして小走りに走ってきた。その子を目標にして、八路軍の
追撃砲弾が周囲に炸裂する。山本軍曹は思わず、その子を横抱
きにして窪地に飛び込んだ。

「兵隊さん、これ食べて頑張って下さい」と、男の子はカバン
の中からいくつもの焼きお握りを取り出した。山本軍曹の顔は
泥と涙で、目の下が真っ黒になっていた。男の子の励ましに疲
れも吹き飛んで、まもなく八路軍を撃退させた。

■8.堂々たる行進■

 20日夕刻から始まった張家口からの4万人脱出は駐蒙軍と
鉄道関係者の必死の努力で、21日夕刻にはあらかた完了した。
丸一陣地にもその知らせがあり、辻田少佐はその夜、闇にまぎ
れて撤退しようと決心した。19日未明からのまる3日間ソ連
軍を食い止めて、消耗の極みに達し、もう一日ともたない状況
だった。

 まずトラックで、負傷者を送り出す。その後、1箇小隊づつ
隠密に陣地を離脱した。幸いにもソ連軍はすぐには追撃してこ
なかった。夜間の白兵戦で日本兵の強さに恐怖感を抱き、その
夜も夜襲を恐れて、前線から後退していたために、日本軍の撤
退に気がつかなかったのである。また3日間の戦闘で予想外の
大損害を受け、積極的進撃の意欲を失っていた。

 一行は山中を歩き、ようやく6日後の8月27日に万里の長
城にたどり着いた。長城のもとでは、一行の到着を知った中川
・駐蒙軍参謀総長以下の将官等が出迎えた。一行は疲労を隠し、
堂々と胸を張って行進した。戦死者約70人の遺体から切り取っ
た遺髪や小指を、飯ごうや図のうに入れての行進である。出迎
えた中川参謀総長はこう手記に書き残した。

 暫くの後、後衛(帰着した一隊)、整々たる縦隊を以て
帰着す 士気旺盛なるも、長き頭髪と髭とは無言に長期の
労苦を示す 小官感極まり落涙あるのみにして、慰謝の辞
を述ぶる能わず

■9.緑したたる森に赤い鳥居■

 富田母子を乗せた列車は、ふだんなら10時間ほどで着く所
を3昼夜もかけて24日午後、天津に着いた。そして日本租界
の中の小学校に収容された。熱を出していた章三は、市内の病
院で手当を受けたが、翌日、亡くなった。9月に入って、よう
やく合流した父は、それを聞いてがっくり力を落とした。

 蒙古政府の日本人官僚たちは、天津でも引き揚げ者たちへの
食料や衣服などの供給に必死の働きをした。丸一陣地で戦った
将兵の一部も、武装解除された後に、天津で帰国の船を待って
いたが、旧日本軍の物資倉庫に忍び込んでは、米や毛布を盗ん
で、引き揚げ者たちに差し入れた。警備のアメリカ兵たちは見
て見ぬふりをしてくれた。

 10月に入って、引き揚げ者たちの間で発疹チフスが流行し、
富田家でも栄養失調で体力の弱っていた清美(8歳)と伊久代
(2歳)が相継いで亡くなった。

 10月16日、引き揚げの第一船、江ノ島丸に乗船。弱って
いた豊は父の背におぶわれてタラップを登った。船中でも安心
感から、急速に病状を悪化させて水葬に付される人が相継いだ。
豊が「ボクも死ぬんだろうか」と母に聞くと、「何を言ってま
すか。もうすぐ内地ですよ。日本ですよ。」と励まされた。

 江ノ島丸が対馬沖にさしかかると、緑したたる森に赤い鳥居
が見えた。引き揚げ者たちはデッキに鈴なりになって泣いた。
生きて帰れた、という実感が湧いた。

■10.35年目の初対面■

 昭和56年1月25日、愛知県豊川市。古い農家の一室から、
耳慣れぬモンゴルの歌声が響いた。

アルバン トングル チルクデ ナルジョー

 歌っているのは、47歳になった富田豊。ピンと背筋を伸ば
してそれに聴き入っている老人は、元陸軍少佐・駐蒙軍独立混
成第2旅団参謀、辻田新太郎、71歳だった。昭和20年8月
20日の夕刻、豊は母に連れられて、張家口の駅の引き揚げ者
の渦の中にいた。辻田少佐はその時、丸一陣地の戦闘司令所で、
どうしたら引き揚げが完了するまでの3日間を持ちこたえるか、
考えてあぐねていた。

 それから35年目にして、ふたりは始めて出会った。辻田が
旧陸軍軍人の親睦雑誌に書いた記事が、偶然、富田の目にふれ、
一読、感動を抑えきれずに、辻田への感謝の手紙を書いたのが
きっかけだった。

 いや、下手な歌をお聞かせいたしました。こんな歌を今
うたえるのも、あの時、辻田さんたちに頑張って頂いたお
かげですよ。

 歌い終わって深々と礼をして、こう言う富田に、辻田は答え
た。

 いえいえ、私どもは、軍人としての義務を果たしただけ
です。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(203) 終戦後の日ソ激戦
 北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、
千島の日本軍が立ちふさがった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 稲垣武、「昭和20年8月20日 内蒙古・邦人4万奇跡の
脱出」★★★、PHP研究所、S56

日本人抑留者が遺したウズベキスタンとの友好の絆

国際派日本人の情報ファイルから引用
日本人抑留者が遺したウズベキスタンとの友好の絆

伊勢雅臣
■転送歓迎■ No.1373 ■ H19.12.03

 ウズベキスタン共和国の首都タシケントにある国立ナボイ劇
場は、レンガ造りの三階建て観客席1400の建物で、市中心
部の代表的建造物として威容を誇っている。

 この劇場正面には、「1945年から46年にかけて極東から強制
移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、そ
の完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語で表記された
プレートが設置されている。

 ウズベキスタンには大戦後、ソ連によって約2万5千人の日
本人抑留者が移送され、水力発電所や運河、道路などの建設に
あたった。中山恭子元駐ウズベク大使は在任中に、いまも国民
に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督
に会った。この人物は、まじめに、そして懸命に汗を流してい
た日本人抑留者たちの思い出を涙ながらに語ったという。

 捕虜の境遇にあっても勤勉に働く日本人抑留者は、当時の地
元民に敬意を表された。現地の人は、「絶対に帰れる」と励ま
しながら、黒パンを握らせてくれたという。

 日本人抑留者が現地に残した遺産のシンボルが、約500人
の抑留者によって2年がかりで建設したナボイ劇場なのである。
レンガ製造から館内の装飾、彫刻まで抑留者が行った。

 66年の大地震でタシケント市内の多くの建造物が倒壊した際
も、この劇場はビクともせず、「日本人の建物は堅固だ」「日
本人の建築技術は高い」という評価が定着した。そのためか親
日感情が強い中央アジア諸国の中でもウズベキスタンの日本人
への好感度は飛び抜けている、という。

 1991年に旧ソ連から独立して新国家建設を進めるウズベキス
タンは、カリモフ大統領をはじめに日本の明治維新や戦後復興
をモデルとして「日本に見習え」を合言葉にしている。

 劇場前のプレートの表記についてはカリモフ大統領が、「決
して日本人捕虜と表記するな。日本とウズベキスタンは一度も
戦争していない」と厳命したそうである。

 2万人の抑留者のうち、800人以上が現地で死亡し、各地
の墓地に埋葬されたが、その多くは荒れ放題となった。しかし、
元抑留者たちが中心となって募金活動を行い、ウズベキスタン
政府の協力も得て、日本人墓地が整備された。また「日本に帰っ
てもう一度、花見がしたかった」と言い残して亡くなった抑留
者のために日本からサクラの苗木千三百本が送られた。整備の
発起人の一人、中山成彬衆院議員は「両国友好の証しになって
ほしい」と話している。

 過酷な環境の中で祖国帰還を夢見ながらも、勤勉に働いて、
ウズベキスタンと日本との友好の絆(きずな)を残してくれた
抑留者の御霊に感謝と追悼の意を捧げたい。

■リンク■
a. JOG(525) シベリア抑留
「ここにおれがいることを、日に一度、かならず思い出してく
れ」

■参考■
1. 産経新聞「小泉首相きょう中央アジア歴訪 ウズベクに息づく
『日本人伝説』、H18.08.28、東京朝刊、2頁
2. 産経新聞「元抑留者働きかけ ウズベクの日本人墓地再生 天
国の仲間へ熱き思い」、H18.07.31、東京朝刊、27頁
3. 産経新聞「ウズベキスタンの『国立ナボイ劇場』 建設に従事
元抑留兵の松永さん」、H10.05.06、東京夕刊、11頁

近衛文隆 ~ ラーゲリに消えたサムライ

国際派日本人養成講座( H15.06.15 )から引用
人物探訪:近衛文隆 ~ ラーゲリに消えたサムライ

 ソ連での獄中生活11年余。スパイになる事を拒否し続
けて、ついに屈しなかった青年貴族。


■1.日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。■


 同志スターリン、朝鮮国境で3日前にスメルシ(赤軍防
諜部)が日本首相の息子であるコノエ中尉を捕らえました。

 その報告に、スターリンはゆったりと聞き返した。「コノエ
だと? この夏にヒロヒトが特使として名指したあの人物の息
子か?」

「ヒロヒトの特使」とは、日本の降伏も間近の1945(昭和20)
年7月に、ソ連に和平工作の仲介を依頼するために元首相・近
衛文麿が特使として指名されたことを指す。しかし、その時に
はすでにスターリンは日ソ中立条約を破って対日参戦すること
を決めていたのである。

 近衛文麿の長男・文隆が所属する重砲兵第3連隊が停戦命令
に従って武装解除に応じ、ソ連軍に投降したのは玉音放送の3
日後、1945(昭和20)年8月18日だった。文隆は配下の中隊
の部下を集めて、「なあに、川ひとつ越せば朝鮮だ。釈放され
たら、さほど手間取らずに内地に帰れる。それまでは一致団結
して頑張ろう」と相変わらず元気な檄を飛ばした。

 文隆は17歳にして米国プリンストン大学に留学したが、遊
び過ぎがたたって中途退学。その後、しばらく父・近衛首相の
秘書役を務めた後、上海に渡り、蒋介石政権の高官の娘と恋仲
になって、一緒に日中和平工作に乗り出すが、軍部ににらまれ
て徴兵の対象となり、二等兵として満洲に配属された。今度は
よく勉強して瞬く間に中尉まで昇進した。身長1メートル79
センチ、体重81キロという堂々たる体躯にふさわしいスケー
ルの大きな人物だった。

■2.すごいスパイになる!■

 ソ連国家保安省の防諜担当捜査官ピィレンコフは、保安省次
官セリヴァノフスキー将軍のデスクの前に立っていた。将軍は
いきり立っていた。

 いずれこちらの手に取り込むのだ。それはすごいスパイ
になる! 日本ではなんとしても工作要員が必要だ。捕虜
を何人協力者に仕立て上げても、共産党支部に直行して集
団入党が関の山。雑魚の集団だ。おまえの仕事は、一本釣
りだ。話がついたら、すぐに帰国させ、国会議員にする。
政党をつくり彼を党首にする。

 いいか、コノエを落とせば、レーニン勲章だ! 期限は
1ヶ月。できなければ、やつと一緒に監禁されることにな
る。

■3.そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。■

 コノエ、もう午前3時だ。17時間もあんたとやりあっ
ている。そろそろ吐かないかね。

 そう言う捜査官ピィレンコフも駕籠の鳥であった。尋問は盗
聴されている。コノエに向かって怒声を発し、頭がおかしくな
るくらい、同じ質問を繰り返さねばならない。文隆はきょう一
日何も食べていない。頬はこけ、目は落ちくぼんでいた。

 この8日間、捜査官殿、わたしは50時間尋問されまし
た。同じ質問が繰り返されました。何故に報いを受けるの
でしょうか? 皇軍将校たるわたしが軍紀を遵守し、陛下
に忠誠を誓ったからですか? わたしは死ぬまで忠義をた
がえません。わたしをむりやり裏切らせるようなことはあ
なたにもおできになれない。家族、祖国、天皇陛下、わた
しにとって神聖にして犯すべからざるすべてのものを裏切
れなんて。

 そんな無分別だと、死刑台に直行だぞ。

 父もそうだったが、わたしも死をおそれない。その備え
は常にできております。

 もういい、コノエ。おまえの生殺与奪の件はこちらにあ
る。言われたことをよく考え、分別を示すことだ。おまえ
はふつうの捕虜ではない。国家保安部の最高首脳が本件に
関わっているのだ。ほら、紙だ。監房にもち帰り、自分の
罪状を書け。

 紙は必要ありません、捜査官殿。書くことがないのです。

 翌1946年4月、文隆はモスクワに送られ、ソビエト国家保安
機関の本部ビル・ルビャンカに収容された。このビルには銃殺
室や拷問室もしつらえてあり、スターリン時代の暴政のシンボ
ルであった。

 その中の何十とならぶ地下墳墓のような監房の一つに文隆は
入れられた。便桶の強烈な悪臭をかぎながら、酸っぱい黒パン
と水のような囚人スープを与えられる。しばしば夕食後に呼び
出しを受け、時には翌朝未明までぶっ通しで尋問を受けた。や
がて歯は抜け始め、視力も落ちてきた。まだ30代だというの
に、老人のようになってきた。

■4.「ソ連侵略の策謀」容疑■

 取り調べが長く続き、3年目の1948年4月19日、文隆は獄
中で起訴された。スパイにならない以上、今後の対日カードと
して罪人に仕立て上げて人質にしておこうとしたのであろう。
起訴理由は、資本主義幇助に関わる犯罪行為の疑いであった。

 その内容は、父・文麿の秘書官在任中にその意を体して、中
国や満洲国の現地部隊を訪問し、ソ連侵略の策謀をなした事、
また昭和20年2月14日、文麿が昭和天皇に上奏したいわゆ
る「近衛上奏文」に荷担して、国際共産主義に対する妨害をな
したという理由であった。

 近衛が首相在任中に日ソ中立条約を成立させた事実だけを見
ても、「ソ連侵略の策謀」とは荒唐無稽な理由であった。その
中立条約を破棄して対日宣戦布告をしたのはソ連の方である。
また「近衛上奏文」とは、日本を中国や英米との戦いに引きず
り込んだのは国際共産主義の策謀であったと自省した内容で、
現実にソ連のスパイ・ゾルゲと彼に操られた元朝日新聞記者・
尾崎秀實が逮捕・処刑されている[a]。しかし文隆は上奏文の
存在すら初耳であった。

■5.ロシア語の嘆願書■

 起訴されてから、文隆はロシア語を身につけようと決心した。
英語の通訳を介さずに、直接ロシア語でやりとりできれば、裁
判でも言いたいことが言えるようになる。ダメで元々と、看守
にロシア語を学びたいので辞書と紙、鉛筆を支給してくれない
か、と頼んだところ、意外にもすぐに露英辞典を与えられた。

 またロシア語の書物も、要求すれば無条件に差し入れられた。
ソ連の文献を読めば共産主義の信奉者となり、スパイに転向す
るかもしれない、と考えたのかも知れない。

 紙と鉛筆は支給されなかったので、10日に一回の入浴の際
に、風呂場で掠めた石鹸屑と、マッチの燃えかすを練り合わせ、
即席の墨を作った。これをマッチ棒につけて、タバコの空き箱
の裏に文字を書きつける。文隆は毎日最低2時間はロシア語の
学習にあてる事を自らのノルマとした。

 それから2年ほど、ひたすらロシア語の学習に励んだ結果、
文隆はロシア語の読み書きと日常会話には困らないようになっ
た。10分間の入浴を終えて、看守詰め所の前を通りかかった
時、ラジオの朝鮮戦争勃発のニュースを聞き取ることができた。

 文隆が獄中で書いたロシア語の嘆願書が残されている。寒さ
をしのぐために取り上げられている毛皮の手袋を返して欲しい、
とか、監房の通気窓が氷のために閉まらなくなったので、自分
のスプーンで氷を割ろうとした所、折れてしまったので、代品
の支給をお願いする、などと、監獄での暮らしぶりが窺われる。

 後には、同じ監獄で友人となったヨシダ・タケヒコという日
本人が肺病で見る見るうちにやせ衰えていったので、その世話
ができるように、同じ房に入れてくれ、と嘆願している。

■6.「わたくしが敵なら銃殺しなさい」■

 7年目の1952年1月14日、突然、ソ連国家保安省の部長に
呼び出され、判決が言い渡された。禁固刑25年である。文隆
は起訴されたという以上、法廷に出て検事と弁護士のやりとり
が、たとえ形の上だけでもあるだろうと思っていたが、それす
らもなかった。「そんな裁判は聞いた事がない」と文隆は抗議
したが、「コノエ、世界一民主的なわが裁判ではすべてが可能
なのだ。われわれはブルジョワ法の古めかしいドグマは認めな
い。」

 文隆には知るよしもなかったが、ソ連崩壊後に公開された資
料では、このような形で有罪とされた者は385万人、うち
82万人が極刑に処されたとされている。裁判の形式などに構
っている暇はなかったろう。

 大佐は今までの何百回もの尋問によって捜査官たちが作成し
た調書の抜き書きを示し、「きみの罪状は捜査で証明され、き
みも認めた。だから署名せよ」と言う。文隆はロシア語で言っ
た。

 いいですか、大佐。今短刀を持っていたなら、もう何度
も捜査官たちに言ったように、迷わず相手の腹を刺してい
たことでしょう。このつまらぬ文書を見せられてこわくな
ったとか、びっくりしたからではありません。破廉恥にも
わたくしの名誉を侮辱したことに対する抗議です。いかさ
ま師のようにわたくしを刑に服させようとしている。わた
くしが敵なら銃殺しなさい。その方が分相応だ。
 
■7.「近衛文隆を即刻帰せ」■

 1月20日、文隆はモスクワから、貨物列車を改造した囚人
護送車に詰め込まれて、バイカル湖の西にあるイルクーツクの
アレクサンドロフスク監獄に移された。帝政ロシア時代から3
大中央監獄と呼ばれた国内最大の監獄の一つである。

 文隆が収容された49号室は、25畳ほどの部屋に20人余
りの囚人がいた。ほとんどが日本人で、関東軍将校や満洲国官
吏、外務省領事などの任にあった人々だった。日本語をふんだ
んに話せることがうれしかった。天気が良ければ1時間ほど狭
い敷地内を散歩できるが、冬の間は猛吹雪が吹き荒れて閉じこ
められてしまう。

 そんな時は文隆の独壇場だった。プリンストン大学の学生合
唱団で鍛えた喉で、日本の歌を歌うと、房内はしんと静まりか
えり、涙を流す者もいた。またアメリカでの数々の武勇伝を面
白おかしく語っては大笑いさせた。まるでレコードのように同
じ話を繰り返しせがまれた。

 1955年6月に日ソ国交正常化交渉が始まった。この時点でも
いまだ2千4百人近くもの「戦犯」がソ連国内に抑留されてい
た。特に文隆はその中心的存在として、東京や京都では釈放を
要求する集会が開かれ、何十万人の署名入りの声明書や嘆願書
が出されていた。日ソ交渉では鳩山首相が「近衛文隆を即刻帰
せ」と要求した。

■8.文隆、死す■

 1956年6月14日、文隆はモスクワの西北およそ2百キロの
チェンルイ村のイワノヴォ収容所(ラーゲリ)に移された。外
国のジャーナリストも見学できる別荘のような建物で、日本軍
の将官クラスや外務省の幹部級が抑留されていた。食事もよく、
ここに入れられた日本人は急速に健康を回復していった。しか
し、文隆だけは不眠に苦しめられ、気分が優れず一人陰鬱な顔
をしていた。凄まじい尋問と獄中生活を凌いできた文隆には初
めての事だった。

 抑留者のうちに日本軍の軍医がおり、心配して文隆に言った。
ソ連では政治犯にある種の薬物を使っており、それを何度か注
射されると、鬱状態が続き、自殺に追い込まれることがあると
いう。文隆はいつもの痔の治療の際に、透明な液体の注射を打
たれている事を思い出した。

 10月19日、鳩山首相が領土問題を棚上げする形で、日ソ
共同宣言にこぎつけ、日本人抑留者の帰国も確定した。ラジオ
のニュースを聞いたイワノヴォ収容所の日本人の間でどっと歓
声があがった。文隆も久しぶりにうれしそうな顔をした。

 23日、不眠で一夜を明かした朝、ひどい倦怠感と頭痛に襲
われた。高熱が数日続き、そのまま29日午前5時、息を引き
取った。死因は動脈硬化にもとづく脳出血と急性腎炎とされた。
同室で治療を受けていた太田米雄・元陸軍中将は午前4時20
分頃、病室を移され、入れ替わりに専属の女医が入って、その
後1時間もしないうちに悲報を聞いたという。

■9.「本当のサムライだ」■

 1958年1月28日、モスクワ。ソ連共産党中央委幹部会が開
かれていた。文隆の未亡人から出されたイワノヴォ収容所への
墓参りと遺骨返還の要請にどう答えるか、フルシチョフ以下の
最高首脳陣が討議していた。「遺骨を返すしかない、日本なし
ではやっていけない」という結論が出た後で、国際政治・諜報
担当のスースロフが言った。

 プリンスの死は、われわれにとり、ここだから言えるこ
とですが、ある種の救済でもあったのです。

 同志諸君、ご想像下さい。こんな折りに、日本政界にも
う一人のコノエが現れたらどうなりましょう。シベリア抑
留の苦難を耐え抜いた若く生気に溢れた貴公子。40代の
日本人たちは、元軍人であろうとそうでなかろうと、敗戦
に不満で占領の恥辱に我慢がならない。ただちにコノエを
新しい指導者として迎え入れるでしょう。こう言ってもま
ちがいはありますまい。3,4年後には、ソ連はその収容
所群島の裏表を知り尽くした日本首相と事を構える羽目に
なる、と。

 フルシチョフが「賛成だ」と支持の声をあげた。ブレジネフ
は文隆が何度も脅されながらも、決してスパイにならなかった
事を聞いて「あっぱれだ! 本当のサムライだ。」と感心した。
彼は死因を聞いて「マイラノフスキー(スターリンの殺し屋)
の手口としか考えられないな」と言った。

「その手口が使われたにしろ、使われなかったにしろ、今じゃ
何の意味がある?」とフルシチョフが話を締めくくり、会議を
打ち切った。
(文責:伊勢雅臣)

シベリア抑留

国際派日本人養成講座 から引用
地球史探訪: シベリア抑留

「ここにおれがいることを、日に一度、
かならず思い出してくれ」
■転送歓迎■ H19.12.02 ■

■1.真っ白の凍原の中にうずくまる黒い杭の一列■

 50トンの有蓋貨車の中は二つの檻に分かれていて、それぞ
れ日本人40人、白系ロシア人30人が詰め込まれていた。車
内には火の気もなく、まるで冷凍庫だった。5日間待たされ、
囚人貨車が20両ほど連結されると、列車は走り始めた。昭和
20(1945)年12月15日のことである。

 満洲側の最後の駅・満洲里を過ぎてしばらく行くと「オトポ
ールだ!」と騒ぐ声が聞こえた。シベリア最初の駅である。誰
ひとり、自分たちの行く先を知らなかった。石原吉郎は車両の
腰板の隙間から外をかいま見た。

 なにもかも一様に黒ずんで見える貨車の内部とは対照的
に、貨車の外側はいきなりまっ白であった。満洲里通過以
来すでにおなじみの凍原が、一望のもと荒涼とひろがって
いるだけの、文字通り空白であったが、やがてその空白な
視野をおびやかすようにして、傾いた杭の黒い一列が不意
にうかびあがって来た。それは、異様としかいいようのな
い光景であった。

 音という音が死に絶えたような風景のなかで、立つとい
うよりはむしろうずくまっているような黒い杭の、息をの
むような単調なたたずまいは、一種沈痛な主張のようなも
のを私に連想させた。[1,p72]

 真っ白の凍原の中にうずくまる黒い杭の一列、それは石原た
ちシベリア抑留者の今後を暗示しているかのようであった。

■2.日本人狩り■

 昭和20(1945)年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って、
満洲に侵攻した。北満の荒野に点在する総数27万人の日本人
開拓団は悲惨な状況に追い込まれた。8月12日、東安省哈達
河(ハタホ)開拓団が避難の途中、ソ連軍に取り囲まれ、婦女
子421名が集団自決するというような悲劇が各地で起きた。
ソ連人による殺戮、強奪、強姦が至るところでくり返された。

「日本軍捕虜50万人の受け入れ、配置、労働利用について」
というスターリンの極秘指令が9月2日に発せられた。労働に
適した日本人捕虜50万人を捕らえ、関東軍から押収した戦利
品の中から衣服、食料などを与えて、シベリアの地で強制労働
をさせる、という内容だった。各地でソ連軍による「日本人狩
り」が始まった。

 ハルピンの関東軍特務機関で、傍受したソ連の無電を翻訳す
る仕事をしていた石原吉郎(30)も、捕まった一人だった。

■3.アルマ・アタ■

 ハルピンで囚人列車に詰め込まれてから40日、石原の一行
がたどり着いたのは、中央アジアの高原地帯の街、カザフ共和
国(現在のカザフスタン共和国)の首都アルマ・アタであった。
海抜4千メートルを超える天山山脈の向こうは新彊ウイグル自
治区である。

 強制収容所は2千平米ほどの敷地で、高さ3メートルの板塀
と有刺鉄線で囲まれ、四隅に見張り塔が建っていた。ここに日
本人480名、ロシア人220名ほか、朝鮮人、満州人、蒙古
人、ドイツ人などが若干いた。

 全員が三段式の蚕棚のようなベッドが200も並ぶ居住用バ
ラックに押し込められた。四隅にはペチカがあったが、零下
30度の真冬の極寒を防ぐにはあまりにも無力で、収容者たち
は、外套も着込み、靴も履いたまま横にならなければ、寒さを
防げなかった。

 第2次大戦の痛手がひどかったソ連ではもともと食料が不足
していたが、収容所ではさらに所長が食料を横流ししたため、
黒パンが一日350グラム、朝夕2回の薄いカーシャ(粥)か
野菜スープというのが、ほとんど毎日のメニューだった。

 栄養失調と強制労働による消耗、発疹チフスの流行などで、
次の夏までに2割近くの抑留者が亡くなった。

■4.民主運動と内部抗争■

 収容所の中では、ソ連共産党の指導のもと、「民主運動」が
組織された。石原の収容所でも二人の日本人が推進役となった。
彼らはほとんど作業をせずに、作業現場への往復に、赤旗を立
てて、「インターナショナル」や「スターリン賛歌」の音頭取
りをしたりした。その一人・山田清政三郎は、『ソビエト抑留
紀行』という小説風の記録を残しているが、そこにはこんな一
節がある。

 朝は目が痛いほどの、一面の太陽の炎。天山山脈のうね
りをも包んで、あくまで深く澄み切った、中央アジア高原
の円天井・・・強烈な紫外線に、裸体で挑んで、或いは鶴
橋を振り上げ、或いは円匙を突きさし、或いは採石を堆
(うずたか)く積んだターチカ(手押し一輪車)を走らせ
る、たくましいラボータ(労働者)たちの姿・・・[2,p88]

 労働を免除された「赤いエリート」とは違って、「たくまし
いラボータたち」には、死亡率2割の環境の中で、天山山脈の
美しい景色など眺める余裕はなかった。石原の抑留エッセイに
は、こうした自然賛歌はほとんど登場しない。

 ある抑留者は、「民主運動」について、こう記している。

 民主運動はさらにエスカレートして行き、日本人独特の
狭量、変更性を帯びていく。・・・内部抗争、つるし上げ、
自己批判の強要、密告、加罰制裁。・・・私たち文民の多
くは、身を縮めて嵐を避け、偽装に腐心した。[2,p89]

 過酷な生活環境の中で、さらにこうした内部抗争をけしかけ
られて、収容者たちは精神的にも極限まで追い詰められていっ
た。

■5.「反ソ行為、諜報」の罪で「強制労働25年」■

 昭和23(1948)年5月、石原を含む約400名の抑留者は、
また鉄格子の監獄列車で5日間揺られて、炭坑の町カラガンダ
に移送された。北カザフスタンの荒涼とした大地に石炭採掘の
ボタ山が無数に並んでいる。ここの採掘量はソ連第3位で、多
数の労働力を必要としたため、18もの強制収容所が設けられ、
日本人抑留者1万人ほど以外に、ドイツ、ルーマニア、ハンガ
リー、ポーランドからの捕虜も使役されていた。

 石原の仕事は、地下の坑内に降りて、採掘された石炭を鉄製
の炭車に積み込み、垂直抗から旧式のウインチで引き揚げる作
業だった。石原は、石炭満載の炭車に跳ねとばされ、肋骨を2
本折るという事故も経験した。治療も受けられず、働きながら
自然治癒を待つしかなかった。

 昭和24(1949)年が明けると、抑留者たちの取り調べが始まっ
た。取り調べは、深夜から未明にかけて、毎晩、行われた。抑
留者が熟睡中のところをたたき起こして精神的に痛めつけ、す
でに用意されていた調書に署名を強要する、というソ連の伝統
的なやり方である。石原は一週間ほど抵抗したが、あきらめて
署名した。

 その後、粗末な木造家屋に設けられた「法廷」に呼び出され、
ロシア国刑法第58条6項「反ソ行為、諜報」で起訴された。
外国人捕虜にソ連の国内法を適用するという理不尽さであった。

 2ヶ月ほど独房に閉じこめられた後、10数人の日本人抑留
者とともに判決を言い渡された。朝鮮人通訳が判決を翻訳した。
「罪状明白」「強制労働25年」といった言葉に石原は、我が
耳を疑った。シベリアでの強制労働25年は、生きて故国に帰
ることはほぼ絶望であることを意味していた。抑留者たちの間
から悲鳴とも怒号ともつかない声が湧き上がった。

■6.もっとも恐れたのは「忘れられる」こと■

 25年の判決を受けてから、故国への思慕が様相を変えた。

 私がそのときもっとも恐れたのは、「忘れられる」こと
であった。故国とその新しい体制とそして国民が、もはや
私たちを見ることを欲しなくなり、ついに私たちを忘れ去
ることであった。

・・・ここにおれがいる、ここにおれがいることを、日に
一度、かならず思い出してくれ。おれがここで死んだら、
おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ。
地をかきむしるほどの希求に、私はうなされつづけた。
[2,p99]

 石原たちはみたび、囚人列車に乗せられ、バイカル湖の西、
バム(バイカル・アムール)鉄道沿線に送られた。ソビエトの
囚人たちの間で「屠殺場」と呼ばれる最悪の収容地帯の一つで
ある。この地域に送られた日本人捕虜は約4万人にのぼり、線
路工事では「枕木1本に死者1人」と言われるほどの多くの犠
牲者を出している。

 ほとんどが永久凍土(ツンドラ)の密林(タイガ)で、厳冬期
には零下40度のマロース(極寒)が、ほぼ一週間の周期で襲っ
てくる。夜明けには地上数十メートルに霧状の氷片がたちこめ、
あたり一面、白い靄(もや)がかかったようになる。10時か
11時頃、ようやく薄日が差し、黒い太陽が見えてくる。昼過
ぎになっても、気温は零下30度程度である。密林は樹氷の花
をつけ、地面は凍って岩盤のようになっている。

 人間が冬の自然に耐えるという段階はすでに終わってい
た。そこでは、人間はほとんど死者であり、その墓標のよ
うに、白く凍った樹木がひっそりと立ち並ぶ。ここでは、
タイガを支配するのは静寂というようなものでなく、完全
な黙殺である。[2,p113]

 1930年以来、流刑地以外のロシアを見たことがないとい
う尊敬すべき老トロッキストが、ある日僕の隣でパンを食
いながら、不意に居眠りをはじめた。ゆすぶってみたら、
もう死んでいた。老衰と栄養失調とが、目くばせをし合う
ようにして、この誠実な男のなかに燃え続けていた火を踏
み消したのだ。[1,p133]

 真っ白の凍原の中にうずくまっていた黒い杭のように、「完
全な黙殺」の中で、抑留者たちは一人、また一人と孤独な死を
迎えていった。

■7.老婆の涙いっぱいの目■

 1950(昭和25)年9月、バム沿線の日本人のほとんどが、
ハバロフスクに移送された。石原は最悪の一年を生き延びた
が、衰弱のあまり囚人列車の中ではほとんど昏睡状態だった。

 ここでは労働時間が一日10時間から8時間に軽減され、
食事も一日2回から3回に増やされた。石原は所内の軽作業
をあてがわれた。

 10月なかば、石原は数人の仲間と共にハバロフスク郊外
のコルホーズ(集団農場)に送られ、収穫の手伝いをした。
ここはウクライナから強制移住させられた婦女子だけのコル
ホーズで、男達はドイツ軍に占領されていたときに、逃げず
にとどまっていたという理由で、ほかの強制収容所に送られ
ていた。

 昼休みとなって、女たちは食事の支度を始めた。一人の女
が「おいで、ヤポンスキー(日本人)。おひるだよ」と石原
を招いた。警備兵は見て見ぬふりをしてくれた。

 ジャガイモと人参とわずかな肉を煮込んだスープがあてが
われた。石原には気が遠くなるようなご馳走だった。がつが
つとスープに食らいつく石原の姿に女たちは黙り込んでしまっ
た。それぞれが、自分の夫や息子もこんなふうに飢えている
のか、と思いこんだのであろう。

 私はかたわらの老婆を見た。老婆は私がスープを飲むさ
まをずっと見守っていたらしく、涙でいっぱいの目で、何
度もうなずいてみせた。そのときの奇妙な違和感を、いま
でも私は忘れることはできない。[2,p129]

 老婆の同情に「奇妙な違和感」を感じるほど、石原の心は
「黒い杭」の孤独に慣れていたのである。

■8.「ここではとても死ねない」■

 たまたま収容所にあったソ連の百科事典を見ていたら、日本
に関する記事に海岸の松林の写真が添えられていた。ごく平凡
な風景だったが、石原はしばらくの間、目を離せなかった。自
分はそこに行ってはじめて、安心して死ねる。ここではとても
死ねない、と思った。

 1952(昭和27)年5月、参議院議員高良(こうら)とみが、
ハバロフスクの強制収容所を訪れた。その日、急造の売店には
日頃まったく見られない白パン、菓子、果物、タバコなどが並
べられた。日曜日だというのに、抑留者の大半は戸外作業に駆
り出され、「日曜日には、みんな魚釣りや水遊びに行くんです」
と、まことしやかな説明がなされた。

 それでも抑留者たちは嬉しかった。やっと日本の政治家が来
てくれた。自分たちは故国から忘れられていなかったのだ。

 1953(昭和28)年3月、収容所の四隅の望楼や高い建物に半
旗が掲げられた。やがてスターリンが死んだ、という知らせが
伝わると、抑留者たちは喜びを隠せなかった。

■9.故国につながる日本海■

 スターリンの死を契機に、日本政府との間で抑留者の釈放交
渉が進められた。5月末、石原たちはナホトカの丘の中腹に建
てられた旧日本軍捕虜収容所に移された。そこから見下ろす港
湾の外には、故国につながる日本海が広がっている。

 それから何の説明もないまま、石原らは6ヶ月を待った。短
い夏と秋が過ぎて、ナホトカ湾が氷雪に閉ざされていく。再び、
あの真っ白の凍原に戻されるのではないか、と焦燥に駆られた。

 11月28日正午過ぎ、収容所の窓からほぼ真下に見下ろす
位置に、巨大な日本の客船が姿を現した。彼らを日本に運ぶ興
安丸だった。2台のトラックが忙しく港との間を往復して抑留
者811名を運んだ。

 タラップをのぼり切ったところで、私たちは看護婦たち
の花のような一団に迎えられた。ご苦労様でしたという予
想もしない言葉をかきわけて、私は船内をひたすらかけお
りた。もっと奥へ、もっと下へ。いく重にもおれまがった
階段をかけおりながら、私は涙をながしつづけた。いちば
ん深い船室にたどりついたと思ったとき、私は荷物を投げ
出して、船室のたたみへ大の字にたおれた。[2,p145]

(文責:伊勢雅臣)

北朝鮮帰国事業の実態

朝日新聞 2000年8月2日号

在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総聯)は1日、記者会見を開き南北朝鮮閣僚級会議で合意された「総連会員の在日朝鮮人の韓国訪問推進」に歓迎を表し、今月15日の「光復節」にも訪問を実現することを目指して準備をはじめたことを明らかにした。徐萬述・総連中央常任委第一副議長が会見し、
「在日同胞の98パーセント以上が南出身者で、故郷への帰還や肉親との再会を果たせずにいた。合意は南北会談の輝かしい結実。みな感激と昂奮に包まれている」
と合意を歓迎した。また、会員から訪問の希望が殺到しており、可能なら、祖国解放記念日の8月15 日に最初の訪問を実現するために準備に入ったことを明らかにした。




北朝鮮帰国事業の実態
朝鮮総連が鳴り物入りで展開した帰国事業。『教育も医療も無料の社会主義祖国』 『地上の楽園・共和国』とのうたい文句を額面どおりに信じて、九万数千人の在日朝鮮人(日本人妻を含む)が北に帰った。


(1)北へ渡った南出身の貧しい人たち
「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫


終戦当時、日本には二百数十万人以上の在日朝鮮人がいた。そのほとんどは、終戦直後の引き揚げ事業や自力渡航で朝鮮半鳥に続々と帰還して行った。遅い時期に日本に渡って来た者、あるいは強制連行で無理やり連れて来られた者。これらの朝鮮人ほど帰国を急いだ。地縁・血緑など祖国とのつながりが強く残っていたからである。比較的早い時期の渡航朝鮮入は引き揚げようにも、祖国にはすでに住居もなければ、耕す田畑もなかった。頼りにすべき親類縁者とは、長い年月の間にすっかり関係が希薄になっていた。私の祖父母の場合は、後者のケースに該当する。

おまけに大半の朝鮮人の故郷である韓国でコレラが大発生したり、米軍の軍政下で社会混乱が起きた。さらに朝鮮戦争(50~53年)の勃発が、帰るべき祖国を灰燼に帰してしまう。様子眺めをしたり、帰るに帰れなくなった朝鮮人が日本に多数とどまった。この60万人ほどが、現在の在日韓国・朝鮮人の基数となる。

ところが、終戦から14年経った頃に突然、第二の引き揚げブームが起きた。1959年12月14日、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還が始まった。日・朝両国の赤十宇社の協定(59年8月13日調印)によるものだった。一般に「帰国事業」と呼ばれるものである。以後、3年問の中断期(68~70年)をはさんで、84年までに果計で約9万3000人余りが北朝鮮に永住帰国した。その中には、日本人配偶者とその子供も含まれる。当時の日本は、いまと違って、父系血統主義を採っていた。その国籍法によれば、厳密な意味での日本人は約6600人だった。その内「日本人妻」と称される人たちが約1800人いる。数は少ないが「日本人夫」もいた。

この「帰国事業」は、いまから考えてみると、奇妙なものだった。在日朝鮮人は、その98パーセントが「南半分」、つまり今の韓国出身である。だから、厳密にいえば、北朝鮮は故郷ではない。守るべき祖先の墓もなければ、頼るべき親類縁者もほとんどいない、「異郷の地」だった。だのに、この人たちは北朝鮮へと「帰った」そのせいもあってか、韓国政府は、「帰国事業」という用強調文語を使わない。「北送事業」と呼んでいる。「帰国者」も「北送者」と称する。ともかく、歴史上でも稀に見る性格の「大量移住」だったことだけはまちがいない。

それだけに、その背景や動機には、複雑なものがある。この点で、帰国事業は大きくふたつの時期に区分できる。
68~70年の中断期をはさんで、ちょうど前期と後期にわかれる。大半は前期の帰国事業で「北」に渡った。
その帰国者たちの背景と動機は、次の三点に尽きる。
(1)日本での生活難と将来への不安、
(2)韓国政府による事実上の「棄民政策」、
(3)北朝鮮政府による荒唐無稽な「地上の楽園」宣伝だった。
帰国者の動機は単純だった。同時に、その単純さは、重苦しい現実を反映している。

まっさきに挙げられるべき理由は「貧困」である。高度経済成長の恩恵にあずかるまで、在日朝鮮人の生活は困窮をきわめた。たしかに、1950年代は、日本人もそれはど豊かでなかった。だが、在日朝鮮人の場合、差別が貧困にいっそう拍車をかけていた。なかでも、在日朝鮮人をひどく苦しめたのが雇用差別だった。大手企業への就職などは夢のまた夢。中小零細企業でも、正規採用ははとんど望めなかった。

パチンコ屋や飲食業の店員、臨時雇いの工員、そして日雇い労働者といったところだった。おかげで、貧困にあえぐ世帯が多かった。このあたりの事情は、被差別部落の場合と似通っている。だが、在日朝鮮人は外国人だという点が決定的に違った。法制度による差別を受けることになるからだ。
(中略)
これで「貧乏をするな」と言うほうが無理というものだろう。おかげで、在日朝鮮人の生活保護率も高かった。私が生まれた54年末の数字を見てみよう。当時、生活保護を受ける在日朝鮮人は約13万人だった。実に、朝鮮人全体の約23パーセントにのぼる。日本人の場合は2パーセントだった。

(2)左翼陣営が煽った北朝鮮帰国事業
「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫

当時の日本共産党は、武装闘争のせいで、支待者を大きく失っていた。そんな共産党にとって、元党員を含む在日朝鮮人の存在は大きかった。家の軒先に選挙用のポスターを貼るにも在日朝鮮人はこころよく応じた。共産党と労働党・朝鮮総連との友好協力関係は、77年頃まで続く。

日本政府は、治安維待の観点から、この左傾化した在日朝鮮人運動を嫌った。そんなときに、北朝鮮政府と朝鮮総連の主導によって帰国事業が始められた。日本政府にとって、「渡りに船」の出来事だった。「厄介者払い」ができるからである。帰国事業に対する日本政府の積極的姿勢。そこには、こんな経済的、政治的な思惑が込められていた。

なお、この積極的姿勢を指して、日本政府による「民族浄化」政策だった、と主張するむきもある。だから、帰国者の悲惨な運命に日本政府と日本赤十字社が相応の責任を負うべきだという。こんな奇論を、帰国事業を担当した朝鮮総連の元幹部が待ち出した。韓国の一部言論機関も、さも大発見であるかのように、これを書き立てた。見当違いもはなはだしい。たしかに、帰国者が向かったのは「南」でなく、「北」だった。日本政府も費用面で援助をした。

だが、韓国政府が棄民政策をとらず、民団が帰国事業を実施していたら……。日本政府は同じように援助しただろう。行く先が「南」であれ「北」であれ、日本政府にとっては、どちらでもよかったからだ。何でもかんでも日本政府のせいにすれぱよい、というものではない。これを聞いて誰より驚くのは、北朝鮮当局であり、朝鮮総連だろう。

帰国事業は、北朝鮮政府が立案し、朝鮮総連が音頭を取った。日本政府は何らの強制措置も採らなかった。日本赤十字社は、帰国希望者に対し、「自由意思」によるものかどうかをチェックした。韓国政府と民団が、帰国事業の実施に反対し、「人道に反する」と抗議活動を行っていたからだ。このことに疑いをはさむ余地はない。

実際、「帰国要求運動」はすさまじかった。「熱病」のような勢いで日本全土の在日朝鮮人を覆った。「帰国熱」の伝播は、北朝鮮当局と朝鮮総連によって、用意周到に練リあげられたものだった.。まずは、13回目の祖国解放記念日(58年8月15日)に合わせ、神奈川県で朝鮮総連が帰国希望の手紙を金日成首相(当時)に送った。

同県は韓徳銖(ハンドクス)議長のお膝元だった。これを受けて、金日成は高らかに歓迎演説をする。58年9月9日、10回目の北朝鮮建国記念日のことだ。演説内容は、帰国の援助と帰国後の生活保障だった。これで帰国熱に一気に火がついた。帰国の早期実現を求める集会が、全国各地で開催される。その回数は二千回以上にのぼった。

北朝鮮の楽園ぶりを紹介する宣伝物が、在日朝鮮人家庭に洪水のように配られる。地方自治体への請願活動も活発に行われた。早期実現を求める自治体決議が続々と採択される。その数は、46の都道府県、290の市区町村に及んだ。日本の左翼・進歩的知識人やマスコミも、率先して帰国運動の援護射撃を引き受けた。

なかでも有名なのが、寺尾五郎氏の北朝鮮訪問記(『38度線の北』新日本出版社)である。紙の銃口からは、「人道主義」と「社会主義賛美」の銃弾が、雨あられと撃ち出された。北朝鮮政府は素早く、日本政府との交渉をまとめた。熱病が冷め、集団催眠が醒めてしまわないうちに、トボリスク号とクリリオン号のソ連船二隻を配船した。1959年12月14日、凍てつくような冬の日である。
(中略)

背中を押されるようにして、約10万人が永住帰国した。また、在日朝鮮人の家族として6000人余りの日本人も船上の人となった。ところが、帰国者を待ち受けていた運命は… 「温かい歓迎」どころか、祖国の「ひろい懐」で、労働党と現地住民の"狭い心"にさいなまれた。差別と監視の"洗礼"を受け、密告と粛清の対象とされた。

日本での朝鮮人差別から逃れたい。日本では発揮できない知識や技術を祖国に役立てたい。そんな純粋で崇高な思いは、完全に裏切られた。帰国者の夢と希望は、北朝鮮当局の空約束によって、ものの見事に打ち砕かれる。実態は、国家ぐるみの大々的な「詐欺事件」であり、「殺人事件」だった。帰国者の居住地と職場は、労働党によって一方的に決定された。本人の経験や能力、夢や希望とは、まったく無関係だった。

また、「日本出身者」という埋由で、労働党への入党は難しかった。70年代までは、庶民にとって党員への近道である人民軍への入隊も拒否された。信用ならない連中だから、というわけだろう。もっとも元日本共産党員は別扱いだったようだ。党員証を持っていれぱ、自動的に労働党員になれた。だが、元日本共産党員であることが、のちにかえって災いを招く結果となった。粛清時に、"宗派分子"の汚名を着せる格好の口実とされたからだ。

必然的に帰国者の生活は苦しくなる。売り食いに次ぐ売り食いの末、とうとう日本からの"仕送り"で生き廷ぴるしかなくなった。ほとんどの者は「生き甲斐」を失い、その日その日を、ただ生きるだけとなった。もちろん、例外もいる。一握りの朝鮮総連の大幹部の肉親がそうだ。留学中、私はそんな人物に出全ったことがある。朝鮮総連の韓徳銖議長の甥っ子だった。彼は破格の待遇を受けていた。私の留学先の社会科学院に勤める研究者だった。だが、仕事もしなければ、勤務先にもほとんど顔を出さない。それでいて、一般の帰国者とはかけ離れた生活ぶりだった。金正日御用達の煙草(ロスマンズ)を吸っては、日本製の自家用車を乗り回す。特別待遇と多額の仕送りのたまものである。

なにより帰国者の気持ちを重くし、暗くさせたのは、日本出身者への厳然たる差別の存在だった。地方の工場や拡山、農場に強制的に分散配置された帰国者たち。この元在日朝鮮人は、"キポ"(帰胞)や"チェポ"(在胞)とさげすまれた。

(3)北へ帰国した親族は人質同然となった
「朝鮮総連と収容所共和国」 李英和 1999年 小学館文庫

「帰国事業」は、労働党と朝鮮総連が展開した、60年代初頭にはじまる北朝鮮への大々的な帰還運動である。以来、68~70年の中断期間を挟んで、59年(12月)から84年までに約9万3000人が北朝鮮に永住帰国した。これには、在日朝鮮人に同行した約6600人の日本人の配偶者や子供が含まれる(内、日本人妻は約1800人)。

この帰国事業は、いま考えれば奇妙なものであった。上述のように在日韓国・朝鮮人の98パーセントは南出身である。したがって北朝鮮に地縁や血縁はない。終戦直後の46年の帰還希望調査でも、約98パーセントは現在の韓国を帰還地に選んだ(厚生省調ベ)。しかも60年代初めといえば、朝鮮戦争の荒廃から、北朝鮮がようやく復興しはじめた矢先である。たしかに当時、民族差別による日本での生活難には厳しいものがあった。だが、常識的に考えれば、北朝鮮での暮らし両きが良かろうはずのないことは容易に想像がつく。それでも、60~61年の2年間に全体の約7割が永住帰国した。

在日朝鮮人が北朝鮮に渡ったのは、たぶんに政治的動機による。日本社会での差別と蔑視への反発を下地にした社会主義への憧れである。一方、在日朝鮮人を引き寄せたのも、労働党と朝鮮総連の政治的動機だった。労働力と技術者不足の解消という側面もあったが、たぶんに政治宣伝の色彩が強かった。

実際、金日成は帰国事業を指して「資本主義に対する社会主義体制の優越性の勝利」と宣言した。ここに悲劇がはじまる。帰国者約十万人といえば、朝鮮籍と韓国籍を合わせた在日韓国・朝鮮人の全人口の6~7人に1人に相当する。単純計算すれば、身内の誰かが北朝鮮に帰国したことになる。政治宣伝の熱病がおさまると、労働党は帰国者を厄介者扱いしはじめる。資本主義思想の流入を恐れ、「社会主義建設の否定的要素」と規定した。厳しい監視と差別に反発する帰国者は殺されるか、強制取容所に送られた。生き残った者はすさまじい貧困にさらされた。

こうして在日韓国・朝鮮人は、帰国した親族を見殺しにするか、仕送りをするかの選択を追られた。多くは後者を採り、30年以上もせっせと仕送りを続けている。帰国者は完全に「人質」となったのである。70年代半ばに西側銀行団への借全返済が滞りはじめると、労働党は在日朝鮮人の親族訪問を解禁する(79年)。83年に完全に利払いもできなくなるや、在日朝鮮人との合弁事業を発表する(84年「合営法」制定)。
いずれも帰国者を「人質」に、在日朝鮮人と有力商工人から、より大々的に金品を巻き上げる算段だった。合弁会社への在日朝鮮人の投資は総額130億円(92年現在)にのぼるが、そのほんどは失敗に終わっている。

最近では、仕送りをするのにも心配の種が増えた。経済破綻で悪化した治安のため、仕送りのある帰国者が強盗に襲われ、一家皆殺しになる事件が起きるようになったからだ。日本や韓国、それに朝鮮総連が送ったコメが党幹部に横取りされる。それを闇市場で帰国者が仕送りの日本円で買って飢えをしのぐ。そんな光景を親族訪問で目の当たりにして、「これまでなにをしてきたのだろう」と心の中で悲鳴をあげる。

仕送りに疲れ果て、帰国した親族の餓死と引き換えにしてでも、独裁者への経済支援を断ち切る在日朝鮮人が増えてきている。こんな眼に遇わされても、在日朝鮮人は朝鮮総連にとどまらざるをえなかった。「社会主義祖国のために」という労働党-朝鮮総連の決まり文句。帰国者を人質にとられた在日朝鮮人にとって、これは文字通りの「殺し文句」と聞こえたからである。一方、朝鮮総連の幹部たちは、帰国事業という取り返しのつかない大罪に恐れおののき、労働党との心中を決め込む。これが朝鮮総連の組織内部での反抗を封じ込め、自浄能力を喪失せしめる最大の要因となった。

『大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

進歩的文化人 の罪、北朝鮮賛美のプロパガンダ文集

「38度線の北」 寺尾五郎 1959年 新日本出版社 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)

日本に帰って朝鮮の建設ぶりの千里の駒の勢いを話すと、強制労働ではないか、党の監視で泣き泣き働いているのではないか、と質間される。こう質問する人は、または意識的にそういう中傷をしている人は、そのような言葉が朝鮮を傷つけ、ひいては自分自身を傷つけているのである。誰が強制や圧迫であんなに無我夢中で働くパカがいるか、そういう質間や中傷をしている人だって、強制によってあんなに働かされたら憤然とするだろうし、時によっては、武器をとって叛乱さえおこすだろう。人間は強制によって絶対に動かすことのできない存在である。

(中略)まして、あの気性の激しい朝鮮の北方の人々が、強制や監視で働き廻るものでもあるまい。また、そんなに連日、精魂のかぎり働きつづけたのでは、息がつまってしまいはしないかとも質問される。私もまた、現地の朝鮮でそう質問してみた。答えは、/「とんでもない、面白くて仕様がないのですよ。たまに休むと苦しくて息がつまりそうです」/というのだ。どうも私たちにはピーンと来ない返事だ。

 /そうであろう。食うために、金を稼ぎ出すために、イヤイヤながら働くという経験以外に経験のない社会に生きた人間にとっては、理解できないエネルギーなのである。/今の朝鮮人にとっては、仕事は労働であり、嗜好も労働であり、娯楽も労働なのである。/目に見えて成果のあがることをやっている時はどんな人間だって大張りきりに張り切るものである。

 事実、朝鮮では、一日々々の労働がそのまま、目に見えて、国家と彼自身とを豊かにさす成果をあげているのである。労働が苦痛をともなわない喜びにかわりつつある。/だから私のような怠け者でも、箸一本、自分で生産したことのない人間でも、朝鮮にいると、あの大衆的雰囲気の中で、いつの間にか妙に体を動かしてみたくなり、力いっばい働いてみたくなるから不思議である。労働意欲という病気に感染してしまうのである。

(中略)
 五ヵ年計画が完了した暁には、北朝鮮の一人当たり生産額は、鉄鋼を除くすべての分野で、日本の1957年水準を追い抜き、「日本が東洋一の工業国を自負していられるのは、せいぜい今年か来年のうちだけである」「ソ連はアメリカを追い越し、中国は英国を追い越し、朝鮮はその北半部だけで目本を追い越すとしたら、世界はどう変わるであろうか」、「千里の駒が走りだし」「万馬が一斉に奔走しはじめた」というわけである。



岡本愛彦 「チュチェの国 朝鮮を訪ねて」 1974年 読売新聞社 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)

 一つの国そのものが芸術の具現である国家、そうした国が何時かはこの地球上に生まれるに違いないと私は永い間考えつづけて来た。

(中略)
 芸術が真に人民のものであり、人民が創造した芸術によって人民が感動し、心を洗われ、勇気を得る社会は、当然人民が真に主権者である社会でなければならない。/特定の少数者の居ない社会でなければならない。差別や貧困を許さない、人間の真の自由と解放をかち得た社会でなければならない。/永い間私の心を占めて来た理想としての「芸術的な国」像は、漠然とそんな像だった。

 そして今、私がかつて理想とした一つの国家が、確実にこの地球上に誕生したのだ。その国は若々しく、精気に充ち、常に躍動し、人々の顔は明るく、少年少女の笑顔は美しい。常に「自ら革命と建設の主人」であり、すべての人民が「芸術創造の主体」である国、それが朝鮮民主主義人民共和国である。



 「わがテレビ体験」 大江健三郎 (「群像」昭和36年3月号より) (「こんな日本に誰がした」 谷沢永一より)

 結婚式をあげて深夜に戻ってきた、そしてテレビ装置をなにげなく気にとめた、スウィッチをいれる、画像があらわれる。そして三十分後、ぼくは新婦をほうっておいて、感動のあまりに涙を流していた。

 それは東山千栄子氏の主演する北鮮送還のものがたりだった、ある日ふいに老いた美しい朝鮮の婦人が白い朝鮮服にみをかためてしまう、そして息子の家族に自分だけ朝鮮にかえることを申し出る…。このときぼくは、ああ、なんと酷い話だ、と思ったり、自分には帰るべき朝鮮がない、なぜなら日本人だから、というようなとりとめないことを考えるうちに感情の平衡をうしなったのであった。




「二十歳の日本人」 (エッセイ集「厳粛な綱渡り」より) 大江健三郎 文藝春秋刊・昭和四十年(「こんな日本に誰がした」 谷沢永一より)

 北朝鮮に帰国した青年が金日成首相と握手している写真があった。ぼくらは、いわゆる共産圏の青年対策の宣伝性にたいして小姑的な敏感さをもつが、それにしてもあの写真は感動的であり、ぼくはそこに希望にみちて自分およぴ自分の民族の未来にかかわった生きかたを始めようとしている青年をはっきり見た。

 逆に、日本よりも徹底的に弱い条件で米軍駐留をよぎなくされている南朝鮮の青年が熱情をこめてこの北朝鮮送還阻止のデモをおこなっている写真もあった。ぼくはこの青年たちの内部における希望の屈折のしめっぽさについてまた深い感慨をいだかずにはいられない。北朝鮮の青年の未来と希望の純一さを、もっともうたがい、もっとも嘲笑するものらが、南朝鮮の希望にみちた青年たちだろう、ということはぼくに苦渋の味をあじあわせる。

 日本の青年にとって現実は、南朝鮮の青年のそれのようには、うしろ向きに閉ざされていない。しかし日本の青年にとって未来は、北朝鮮の青年のそれのようにまっすぐ前向きに方向づけられているのでない。




小説「キューポラのある街2 未成年」 早船ちよ 1977年 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)

 北朝鮮に帰還した金山ヨシエから、埼玉県川口市の中学校時代の級友ジュンとノブ子に宛てられた次のような手紙が挿入されている。

 「わたし、あなたたちふたりに、ぜひ話したい、きいてもらいたいことで、いっぱいです。帰国以来二年半のうちに、わたしたちの祖国がどんなに発展したか。それは言葉では、よく伝えられそうもないので、きて見てほしいと思います。それから、ヨシエが、どんなに成長し、かわったか。わたしが、じぶんでいうのもおかしいほどなのよ。

 それよりも何よりも、もっと、びっくりするのは、父のかわりようでしょうね。お目にかけられたら、それこそ、すっかり別人と見まちがいされることでしょう。(中略)父は、戦時中に東京で徴用されて、墨田区向島の鋳物工場で焼玉エンジンをつくる下働きの経験があり、戦後は、川口の鋳物工場で、ミシン部品や機械鋳物をつくるのに、雑役をやらされました。

 父は鋳物しごとなら、戦中・戦後のそれらの経験と見よう見まねで、何とかこなせる、と思いました。しかし、こんどのように、工場のほんの一部分にしろ、自分の責任で任されたのは、生まれてはじめてです。父は、少年が、プラ・モデルに熱中するみたいに、もう、まるで夢中です。朝から晩まで、そして、帰ってからも、寝る時間がおしいように、しごとにうちこみはじめました。川口にいたときの父とは、ぜんぜん、人間がかわってしまいました。

 (中略) 父は、新築の労働者アパートをもらったのがうれしくて、そうじと手入れ、まわりの植樹、そのほか、思いついたことは、どしどしやって、わたしをびっくりさせます。わたしも、そのアパートに、独立したひとつの部屋をもらいました。わたしが、自分自身の部屋をもつなんて、まあ、まるで夢みたいな現実よ。見てください。これが、わたしたちのアパート。町の大通りに面して、堂々と立ち並んでいるでしょう。この労働者住宅のあいだには、託児所、学校、図書館などがあり、街の中心に官庁があるのです。それから、劇場も、映画館も。買い物は、アパートの一階にある売店でします。とても便利よ。すべて労働者の生活単位に街づくりが考えられていて、便利で清潔で美しいです。

 (中略)いつの日にか、ジュン! ノブ子!あなたたちと、ここに立って語りあえたら……と考えて、胸があつくなりました。」




美濃部亮吉 金日成首相会見記 「世界」 1972年2月号 (「主席金日成」 平成4年 より)
美濃部都知事


一昨日からいろいろな所を参観しています。工業農業展覧館、キム・イルソン総合大学を参観しましたし、昨夜は、歌と舞踊を見物しました。わたしは、お世辞で言うのではなく、キム・イルソン首相の指導されておられる社会主義建設にまったく頭が下がるばかりで、感心しています。

金日成首相
ありがとうございます。

美濃部都知事
私と一緒に来た小森君とも話したのですが、資本主義と社会主義の競争では、平壌の現状を見るだけで、その結論は明らかです。我々は、資本主義の負けが明らかであると話し合いました。
これから残っている数日間に、できるだけたくさん見て回り、非常に困難な状況にある東京都の建設に我々が利用できるものは、できるだけ利用したいという考えを持っております。

「 大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

在日韓国・朝鮮人の年代別・地域別人数

在日韓国・朝鮮人

在日済州島人の「不法入国」から「特別在留」獲得まで 新聞記事見出し

在日済州島人の「不法入国」から「特別在留」獲得まで 
-大阪を事例に- 高 鮮 徽(鹿児島大学)
 

 済州島人は、歴史的に日本への往来が非常に活発だった。現在も、あいかわらず活発に続けられている。
その往来形態のなかには「不法入国」もいた。とりわけ、戦後「不法入国(密航)」の出身地を明らかにした数字(法務省発表)をみても、1970年以降の「不法入国」の8割以上を済州島人が占めている。済州島人の「不法入国」は、それだけ日本との関係が深いということを物語っている。その意味で、大阪の入管にとって済州島人は特別な存在だったかも知れない。これは、入管も済州島人について勉強せざるを得ない状況を作り出したと考えられる。「不法入国」の済州島人への理解は、済州島人コミュニティの人々、入管・支援者順ではなかったのかと考える。入管が済州島人の「不法入国」事情を最も知っている。入管から見ても、「不法入国」者であれ、人間に変わりない。「不法入国」してまで、生きる場を求め、生活基盤を築いてきた努力を積極的な評価したものと捉えられる。おそらく、上記のような背景があり、「出稼ぎ」目的の「不法入国」の済州島人に「特別在留」が認められたものと見ている。もちろん、済州島人の「不法入国」の背景として、日本の植民地支配の影響を忘れてはならないしかし、済州島人の「不法入国(以下で密航)」は植民地支配の影響のみに括られるものではない。

済州島人の戦後密航は、大きく三つに分けられる。その一、戦前から日本で暮らしていた人々の「家族結合」目的。その二、戦争の「避難民」。その三、就労先を求めた「出稼ぎ目的」に分けられる。「家族結合」の密航は、終戦直後から長期に渡って続けられた(たとえば、ケース3)。「避難民」は、済州島の四・三事件(1945~1955年)と朝鮮戦争(1950~1953年)によるものであった。入管は、「昭和40年以降出稼ぎケースが主流」と発表している。そして、1970年代半ばからは、大量の集団密航時代に入る。

戦後、済州島人の「不法入国(密航)」から「特別在留」獲得までを生活史より、簡略に紹介したい。

ケース1,女性、1920年父は樺太へ出稼ぎ、1946(28歳)年、済州島で夫と死別後、6歳の娘を連れて密航(鹿児島上陸)。大阪の平野の石鹸工場で働き、同僚の済州島人男性と再婚。再婚の夫との間に一男三女生まれる。「特在」に関しては、とくに語られていない。しかし、密航時期が外国人登録をする以前であり、さらに夫が戦前より在日していたので、「特在」でなく、「永住者」になったと考えられる。

ケース2,男性、1947(23歳)年、済州島で結婚、四・三事件関係の地下運動で罰金刑を受け、一時的避難のつもりで密航(三崎上陸)。翌年、親族が他人名義の外国人登録をしてくれる。1949年弟密航、親族が弟の名前の外国人登録をしてくれる。1950年済州島人女性と再婚。再婚の妻との間に二男三女生まれる。自主し「特在」、1977年(密航から30年後)。このケースも、密航が早期(1951年サンフランシスコ条約、出入国管理令公布以前)であり、永住者の夫、永住者の子(5人)の扶養の責任、潜在期間が30年と長期であったことで難しくなかった。「特在」をとって30年ぶりに帰郷果たす。

ケース3,男性、1927年生後一ヶ月目に日本の船に乗っていた(船員)父台風で死亡。1929年(3歳)母(海女)の出稼ぎに連れられて、初来日(鹿児島)。1941年(16歳)東京の蒲田の鉄工所で働く帰郷。翌年は船乗りとして来日伊豆半島で働き帰郷。さらに、その翌年は南伊豆でかじめ採りをし、帰郷。結婚、長女誕生。1948年(四・三事件、24歳)釜山から日本へ密航者を運ぶ船員として密航(南伊豆上陸)、済州島では長男誕生。南伊豆で漁師、八丈島で難破(1951年)し、大阪へ。日雇いやトラックの助手をする。日本人女性と同棲始める。1953年対馬へ移住、日本人女性との間に日本の長男誕生。対馬から釜山や麗水間、ヤミ(密航者と密貿易)の運び屋。1955年(30歳)釜山で捕まる、韓国の長男初対面、対馬に戻る。1960年(35歳)対馬の仕事が減り、大阪の靴の仕事へ、日本の三男誕生。1969年(44歳)日本人女性と別れる。自首し、1970年「特在」を取る。このケースの場合、戦前からの来日歴があることと、1948年密航(早期)として考慮されたと考えられる。日本人女性とは、事実婚であった。

後に、済州島の長女が成人して密航(1963年?)し、大阪で密航者同士の結婚(1969年)をするが、夫(生野生まれ)が強制送還(1975年)。子供と長女が残る。夫再び密航(1976年)するが、長女とは事実上離婚。長女が逮捕で自費出国(1977年)され、子供は施設に預けられる。長女の元夫は、永住者の女性と同棲、子供生まれる(1979年)。長女も再び密航。長女の元夫や子供達は、住民運動の成果により1985年「特在」認められる。さらに、1983年、ケース3の母が年老いて、息子を頼って来日、「超過滞在」のまま、1995年大阪で亡くなる。

ケース4,女性、1943年(17歳)結婚するが、夫は福岡へ行く。本人は、黄海道(現在北朝鮮)へでる。1945年、解放で南北分断により、帰郷。1946年夫と暮らし始める。1948年四・三事件に巻き込まれ、疎開先で長男出産、夫逮捕。1950年朝鮮戦争が始まり、夫木浦で銃殺。1952年病気により長男を夫の実家に預ける。再(事実)婚(夫には妻が日本にいた)。1953年再婚夫日本へ密航。次男誕生。1955年(29歳)次男(2歳)と姑を連れて密航(生野区)、再婚夫は、東京で正妻と暮らす。ミシンの仕事始める。1962年、済州島男性と再々(事実)婚するが、暴力をふるうため、逃げる。三男出産。隠れてミシンの仕事をする。1966年済州島にいた長男密航。1969年(43歳)三男が小学校に入ったことで自主、1970年「特在」認められる(長男の密航事実は隠す)。このケースの場合、潜在期間が長く、子供(次男も日本で生まれたことにした)二人が日本で生まれている。さらに子供が二人とも学齢に達し、扶養の責任がある。潜在期間が長いにも関わらず、隠れて一人でミシンの仕事をしていたため、日本語が上達しておらず、指摘された。長男は、密航後、工場の住み込みで働く。女性と同棲し、子供生まれるが、別れる。子供は、母に預ける。長男自首し、「特在」認められる(時期不明、潜在期間15年以上と推定)。長男の子供も未登録のまま中学卒業する。未登録では高校の進学ができないため、手続き、「特在」認められる。面接当時(1993年)、高校二年生。

以上4ケースを紹介した。済州島人にとって密航は、それほど特別なことではなかった。しかし、密航した人々は、密航後、その代価を支払うことになる。密航した本人が最も苦しめられる。密航すること自体はある意味、簡単だったかも知れない。しかし、日本での生活が長くなればなるほど、誠実に働き、日本で生活基盤を築き上げ、家族形成、定着度が高くなればなるほど「非合法」なための「不自由」が痛く、自分が生きる日本の法律を犯していることの重大さを知る。ここで、潜在期間が長いのは、その間特に問題なく暮らしたために、潜在のままいられたと解釈される。そして、長い潜在期間を耐え、その間の実績(定着度、仕事の安定性、経済的能力、人物評価(それこそ「善良性」)など)を評価し、「特在」を認めることで、「不法入国」が許されたものと考える。そのため、「特在」は、それぞれの努力が認められた結果、かちとったものである。

(密航に関しては、高鮮徽『20世紀の滞日済州島人ムその生活過程と意識』1998年、明石書店、第3章、「第三世代」(密航者)の来日と定住をお読み下さい)


「密航」に関する当時の新聞記事の見出しのうち朝日新聞大阪版の一部を記します。
 亜細亜の歴史 戦前朝鮮人関係新聞記事見出し


『鮮人内地密航/発見されて説諭』 大阪朝日 1921/7/15
『又も帆船で密航した不逞鮮人四名逮捕さる』 大阪朝日 1922/5/20
『鮮人十名密航』 大阪朝日 1922/7/2 夕
『朝鮮から内地へ/内地から朝鮮へ/虻蜂とらずに終った/密航鮮人団三十余名』 大阪朝日 1926/4/7
『怪しき汽船に/六十名が潜伏/大規模な密航団が/釜山署の手で逮捕』 大阪朝日 1926/4/13
『密航鮮人の/乗込船が沈没/海上を漂流中救はれ/四国宇和島に上陸』 大阪朝日 1926/4/17
『密航者七十余名が/釜山に送還さる/警察で保護を加へ/渡航或は帰郷さす』 大阪朝日 1926/4/20
『鮮人の密航に/頭を悩ます山口県/悪周旋業者に過られた/哀れな彼らの心情』 大阪朝日 1926/4/24
『鮮人の密航続出/行啓を控へた山口県へ/既に三百名に達した』 大阪朝日 1926/4/29
『密航朝鮮人は/既に二百に上る/行啓後に対策を/赤木特高課長の沿岸視察』 大阪朝日 1926/5/5
『生き残った/密航者送還/厳原警察から/釜山に向けて』 大阪朝日 1926/5/20
『依然と困る密航者/釜山署の大弱』 大阪朝日 1926/5/28
『戦慄を感じる/あぶない密航/産業の過渡期に立ち/生活に悩む下層鮮人』 大阪朝日 1926/8/14
『鮮人密航の/首魁を逮捕/釜山警察署で』 大阪朝日 1926/8/25
『さても現金な/密航者が絶える/渡航阻止者に対しては/釜山で就職口を周旋(水電工事にも)』 大阪朝日 1926/10/6
『渡航鮮人の/素質が向上/密航者の群もだんだんと減少』 大阪朝日 1926/11/17
『密航鮮人/八十名/北浦海岸に上陸(豊浦郡川棚村)』 大阪朝日 1927/3/3
『夜陰に乗じ/密航を企つ/鮮人を発見(五十余名)』 大阪朝日 1927/4/9
『密航鮮人/十余名捕る(田の浦海岸)』 大阪朝日 1927/4/20
『密航鮮人/蘆屋に上陸/目下取調中』 大阪朝日 1927/5/15
『怪機船/密航鮮人の輸送を企つ』 大阪朝日 1927/5/18
<以下略>

大量密航の記事
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3

日本人に土地を奪われた朝鮮人農民が仕事を求めてやむなく渡日したという通説に反する記事
『密航鮮人逮捕/田地を売ってきた農夫たち/田野浦海岸へ上陸(門司)』 門司新報 1937/3/11


「岩波講座 世界歴史19 移動と移民」 水野直樹・他 1999年 岩波書店
1930年代後半、西日本で『密航』の取締りが厳しくなされ、毎年2000人から5000人ほどの密航者が摘発され(1939年は7400人)、大半が朝鮮に送還された。その多くはブローカーの斡旋で労働を目的に渡航した者であったが、なかには『内地人を仮称』して連絡船に乗り込んだたため摘発された者もいる。

戦前の新聞記事見出しより 『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3
『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3
『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29
『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2
『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21
『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24
『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26
『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1
『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1938/12/17
『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/12/20
『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21
『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』 福岡日日 1939/2/3
『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』 呉日日 1939/2/12
『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13
『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18
『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1939/6/5
『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕
『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版
『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30
『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14 夕

朝鮮人の密航は戦後始まったのではなく、内地への渡航制限をしていた戦前からあったのだ。
「朝鮮人強制連行の記録」 朴慶植 1965年 未来社
1921―30年の渡航、帰還、居住人口は上表の通りである。(表省略)しかしこの数字以外に、渡航阻止制度のため証明書なしに、いわゆる「密航」したため送還された者が相当多い。1925年10月―1930年末に14万4839人の多きに上っている。

「大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

戦後処理 在日一世の来歴調査と虚構の強制連行説

在日コリアン1世のほとんどが強制連行(徴用)と関係ないことは彼ら自身の調査で明らかです。
「アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書-」 1988 在日本大韓民国青年会中央本部刊
アンケート調査実施の概要
アポヂ


1.調査の対象 在日韓国人で1910年~45年の間に日本に渡航してきた者(ただし、渡航時に満12歳未満の者は除く)
2.調査の時期 1982年10月25日~1983年1月15日
3.調査の方法 国民登録台帳をもとに各地方に居住する在日朝鮮人の人数にほぼ比例するように調査票を割り当て、訪問面接による聴取を行なった。
 アンケート回収数 1106名
渡日理由


これによると、大部分は本人の自発的な意思で渡日したもので、いわゆる"強制連行"が原因で日本に住みついた人は全体の13.3%しかいないことが分かります。しかし早い時期に渡日した人はすでに亡くなっていること、また家族の一員として渡って来た12歳未満の子供は含まれていないので割合はこれより下がります。さらに戦後渡ってきた者(密航?)を含めるとさらに低下します。

上記資料の分析で徴用(強制連行)数に疑問を呈しています。どうやら本当の強制連行者はさらに少なくなるようだ。


「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89 原書房 (グラフは「アボジ聞かせて あの日のことを -我々の歴史を取り戻す運動報告書-」より)
現在の在日韓国・朝鮮人の大部分は強制連行と無関係


さらにここで指摘しておきたいことは、在日韓国・朝鮮人(その父祖を含め)と、 強制連行との関係である。朝鮮大学校編「朝鮮に関する研究資料(第四集)」によ れば、「日本に住んでいる大きな部分を占める朝鮮人は太平洋戦争中に日本の官憲 によって強制徴用され……」とあり、在日韓国・朝鮮人は口を開けば必ずのよう に、「われわれは日本政府によって強制連行されてきたものだ」と主張する。だが この表現は正確ではなく、むしろ事実に反するというべきだと思われる。

1974年の法務省編「在留外国人統計」によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸年は上の表のようになっている(表省略・昭和20年9月1日以前の日本上陸者の内8万3030人の調査)。この表によると日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた昭和10年までに渡来したものが全体の53.7%と、半分以上になる。昭和11~15年はまだ民間の自由募集の期間だし、次の昭和16~19年の中でも、国民徴用令による徴集は昭和19年の9月以降のわずか4ヵ月間であるから、単純に計算すると、この期間に徴用されたものは昭和16~19年間の1万4514人の12分の1、つまり1210人(全体 の1.46%)にすぎないことになる。これに、次項「昭和20年9月1日以前」 の679名(0.8%)を加えた概算1889人(2.3%)ほどが、真に強制連行の名に値する在日朝鮮人だということになる。かりに「官あっせん」を強制徴用の概念の中に入れ、官あっせんが行われていた昭和17年2月~19年8月来日者の推計数を全部加えても、約1万1300人余(14%)にすぎない。この推定は、昭和16~19年間の月間 来日数を均等として考えたものであるが、実際には、関釜連絡船の運航は終戦が近 くなるにつれ次第に困難になりつつあったから、昭和19年後半の来日徴用者も減少し ているはずである。すなわち、どんなに強制連行の概念を広く解釈しても10%を大 きく超えることはまずあるまい。

民団も韓国青年会も自認
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この数字は在日韓国人自体の調査によっても裏付けられている。1988年2月に 発刊された「”我々の歴史を取り戻す運動”報告書」(在日本大韓民国青年会中央本部)には、全国千百余人の一世から直接聞きとりした調査結果が収録されてい る。これによると、渡日の理由として「徴兵・徴用」は13.3%にすぎず、経済 的理由(39.6%)、「結婚・親族との同居」(17.3%)に次いで3番目で ある。この13.3%のうち、徴兵は0.5%で、残りが徴用ということになる。
しかし、「渡日年度別に見た渡日理由」によると、徴用は1926~30年に6 人、1931~35年に9人、1936~40年に51人とある。国民徴用令が公布されたのは1939年7月であって、これが朝鮮に適用されたのは前述のように 1944年9月であるから、この「徴用による渡日という」回答は思い違いによる ものと考えられる。従ってこの人数はのぞかねばならない。 1941~45年の徴兵、徴用と答えた76人も、その大部分は記憶違いというよ りほかはない。徴用が実施されていた1944年9月以降終戦までの一年分だけを 前期の方法で算出すれば16人、すなわち全体の1.5%にしかならない。また、 法務省の数字のアンケート調査の場合と同様、官あっせんを徴用と考えても(1942年2月以降)59人=5.4%となり、徴兵を加えて5.9%である。  
民団発行の「法的地位に関する論文集」(1987)にも「1世の大半が1930年代初期に渡航して永住するに至った経緯からすると……」と、みずから、徴用による渡来が僅少であることを認めている。

このことは理屈の上から考えても当然のことであろう。着のみ着のまま徴集され、人里離れた炭坑や鉱山で虐待酷使されていた者が、日本に残ろうと考えることは想像しがたいことである。彼らは日本の一般社会とほとんど関係なく生活してきたのであって、言葉もろくに出来ず、日本で生活していく基盤ももっていない。彼らは日本に来て、一番長い者でも (官斡旋を徴用とみなしても) 5年そこそこなのであるから、故郷とのつながりは十分持続しているはずである。特に彼らは、妻子を置いて一人だけで徴用されており、その移動はきわめて容易であった。これら徴用された人々の大部分は終戦直後早々に、この、"恨みの島"から故郷へと飛ぶようにして帰ったものとみられる。


在日青年会の調査を分析すると本当の強制連行者といえるのは全体の1.5%に過ぎないようだ。広く解釈しても5.9%である。


実地調査でも「在日1世強制連行少数説」は裏付けられています。
「在日韓国・朝鮮人」 福岡安則 1993 中公新書


私は、1988年以降、若い世代の人たちを中心に150名余りの在日韓国・朝鮮人からの聞き取りを実施してきたが、自分の親もしくは祖父が「強制連行」で日本に連れてこられたという人には一人も出会わなかった。ただ一人伯父が「強制連行」で北海道の炭坑に連れてこられ、そこで「事故死」にあった("殺された"といっていいと思う)という事例を聞いているだけである。
(中略)
私の調査体験をもって、安易な結論を導き出すことは慎まなければならない。だがそれにしても、文字どおりの「強制連行」で日本に連れてこられた人達の大部分は母国に帰り、それ以前に仕事を求めて渡日してきた人たちが中心になって日本に残留した、という一般的傾向が認められると思う。



「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画

 徴用された朝鮮人は、終戦と同時にほとんど帰国しており、今日在日朝鮮人が声高に、自分たちの父母は『強制連行』されたと言い立てるのは、他に目的あってのことと考えざるを得ない。
かつて朝鮮人学校で父母の来日動機を調査したところ、『朝鮮では食えないから渡航して来た』という回答がほとんどで、『強制連行』と答えたのは一人しかいなかったので困惑したという報告があるそうだが(田端元「好太王から朝鮮滅亡後まで」十六)、さもありなんという気がする。

『大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

釈放戦犯の洗脳と朝日新聞の日の丸論

「朝日新聞 天声人語」 昭和31年8月1日

 “洗脳”という言葉がある。英語では、ブレーン・ウォッシングという。中国で造られた言葉だ。むろん古い中国語ではない。革命後の中共に生まれた新語で、変脳ともいう。英語には“ターン・コート”というのがある。服の裏返しから転じて裏切り者、変節者の意味に使う。洗脳はこれとは違う。頭脳をすっかり洗い張りして別の思想に仕立て直す。

 思想改造であり人間改造である。中共は革命後、この“洗脳運動”によって国民の“人間改造”をやったといわれる。いわゆる“学習”や“自己批判会”で国民の思想の入れ替えをやったといわれる。

 こんどの興安丸帰国者のうち328人の“釈放戦犯”は、判で押したように同じことを言うと報ぜられる。十余年の苦しい抑留にも少しも不平をいわず、ひたすら過去の罪を総ざんげしているそうだ。それが撫順組も太原組も、元軍人も元憲兵も満鉄社員も医者も技術者も作家も、十人が十人とも申し合わせたように同じで、面会に行った妻と二人きりになっても、中国の土を離れた船上でも言うことは変わらず、それでいて驚くほど明るい顔をしているという。

 侵略の罪を個人としてもざんげするのに不思議はないが、一般帰国者が各自めいめいの考えをもっているのとくらべて、“戦犯”たちはやはり“洗脳”の洗礼を受けたのかと思わせられる。十年も社会から隔離されて朝から晩まで繰り返し“学習”させられたら、たいがいの人間は同じ鋳型にはめこまれるだろう。

 戦時中の日本人も、海外のニュースからは耳をふさがれて、大本営の勝手な発表ばかりを信じさせられ、“聖戦”とか“承詔必謹”とかの強制的催眠術にかけられて、一つ鋳型に流しこまれたものだ。ソ連も最近はよほど自由になったらしいが、それでもフルシチョフ氏の“スターリン批判”の演説そのものは、ソ連の新聞にはいまだに掲載されていない。それと信ぜられる内容が世界中の新聞雑誌に出ているのに、本家本元のソ連では国民は“口づたえ”以外には今なお知らされていない。

 “知らしむべからず”の“片耳政治”というほかない。世界中のニュースが隠されず洗いざらいに“両耳”から入る国柄なら、各人は政府なんかのお節介なしに、自由に自分の脳を常に洗い清められる。


 撫順組というのは、中国の撫順戦犯管理所に抑留され、中国の対日政治目的を忠実に実行するよう洗脳された人達のことで、日本へ帰国したのち中帰連(中国帰還者連絡会)を結成する。中国の手先となって、戦時中の日本軍の残虐行為を嘘証言も交えて宣伝して回り、反戦反日活動を積極的に行なっている。(小林よしのり「戦争論1」13章参照) 現在も左翼系マスコミに好意的に取り上げられることがあるが、彼らの言動の異常さは帰国時にすでに指摘されていたのだ。洗脳の恐ろしさは帰国後45年たっても解けないことである
日本人を洗脳して贖罪意識を植え付けようとしている連中には用心用心。




日の丸反対の急先鋒の朝日新聞だが、かつては今と正反対の論陣を張っていた。これには右翼・左翼ともにビックリ!

「朝日新聞 天声人語」 昭和24年1月3日


(敗戦後GHQ指令により日の丸の掲揚は禁止・制限されていた。昭和24年1月1日のマッカーサー年頭メッセージは、日の丸の自由使用を許可するというものであった。)

 マックアーサー元帥の年頭の言葉には、春風と秋霜とを同時に感じせしめるものがある。いささか過賞の感じがせぬでもないが、ほめられながら激励されるのは決して惡い氣持のするものではない。

 日本人に関する日本人の評論は、とかく(厳?)しすぎる傾きがないでもない。それは、内側からの自己反省でもあるのだから、当然のことではある。しかし少々薬がききすぎて、日本人がとかく悲観的になりすぎるきらいもないではない。どうせダメなんだという劣等感をいだくようになっては、日本の再建は覚束ない。日本人のいい所を見つけて温かい愛情の感ぜられる評論が、今の日本にはもっともっと必要なのではなかろうか。

 お正月のお年玉として、國旗の掲揚が無制限に自由になったことは、やはり楽しいことである。 正月の町や村に門松が立ち晴着姿の羽根つき風景があっても、門毎に日の丸の旗のひるがえっていないのは、画龍点睛を欠くの観があった。

 この数年間は、國旗のない日本であった。 國旗を掲げるのにその都度一々許可を得るのでは氣のすすまないのは偽りのない國民感情である。講和條約の締結までは、自由に國旗を立てられる日は來ないものと実はあきらめていた。

 しかし今、日本経済自立への旗印として、マ元帥は日の丸の旗を完全にわれわれの手に返還してくれたのだ。 忘れられていたこの旗の下に、われらは耐乏の首途をし、再建と自立への出発をするのである。

 さて國旗は自由を得たが、國民の手に國旗はない。戰災で國旗を失った家々は、立てようにも國旗がなく、この喜びを分つこともできないのだ。

マ元帥は國旗の自由をはなむけした。政府は國旗の現物を配給すべきである。

「大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

終戦直後の日本 対馬と朝鮮

「朝鮮新話」 鎌田沢一郎 昭和25年 創元社
対馬と朝鮮


 玄界灘のこの一孤島が、韓国の独立とその動乱のため、最近改めて世界の注目を浴びるに至り、日本の国境としての役割も、また仲々重大になつて来た。それには左の四つの要因がある。

1、大韓民国建国早々、李承晩大統領は、対馬はもと韓国の領土だから、日本から返還して貰ふつもりだと言ふ突如たる声明。
2、北鮮軍の軍隊訓練スローガンに「朝鮮を制するものはアジアを制す」「次に対馬から日本へ」などとあることが伝へられ、南北いづれの政権も独立後の海外発展策として、対馬を窺ふやに感ぜられたこと。
(中略)
 李承晩大統領が、賠償金とともに対馬を要求したことは、いたく日本人を刺戟して今日に及んで居る。(中略)しかしこれらの戦争犠牲を差引きしても、朝鮮と日本との場合はその方針はあくまで搾取ではなくて培養であつただけに朝鮮側のプラスは大きい。併合前と最近の写真を比較してみれば、あらゆる面に於いて一見明瞭である。それが戦勝国と同じに賠償とは何だ――と云ふのが日本側の主張である。

 さらに対馬が韓国の領土であつたなどとの証跡が歴史的にも全然ない。このことは李承晩大統領の突然の声明に、まづ韓国側が驚き、韓国新聞界の論調も、軽率なる大統領の声明を責めること頗る急であつて議会では問題となり、委員会を作つてこれを調査することとなつた。そこで議員数名と、野の学者崔南善などを加へて、対馬が韓国の領土たりしことありしや、否やを慎重捜査したが、全然かかる証跡はないのみか、日本の倭寇に先んじて彼の地より刀伊の賊がしばしば対馬に侵入し…(中略・元寇に言及)…かかる大事件とともに、対馬は古来より、日鮮間の連鎖となつて外交上に重要な位置をずつと占めてゐたのである。

 今は二つに分かれてゐる島ももとは一つであつた。それを人工で開鑿(かいさく)して島を二つに割つたことこそ、対馬が昔から日本のものであり、且は又日鮮間に於ける外交交渉、ひいては一朝朝鮮と事ある場合に備へる措置であつたことを歴史は明確に証明して居る。即ち対馬における大事件は、東岸ではなくていつも西岸に起こるのであつた。

 前記倭寇の場合も、又その前の刀伊の賊や、慶尚道元師朴○の政略、李従茂の侵入等その他の諸事件も、大抵は朝鮮側の積極的攻撃が基本となつてゐるのである。そこで寛文十二年、時の対馬守宗義真が徳川幕府に申請許可をうけて志賀○広に工事監督を命じ、三万五千人の人夫を使つて、約二百日間に仕上げたのが浅海(浅茅)湾東端の「大船越の掘割」である。即ち首都のある東岸から西岸へ最も速やかに且能率的に出る近道を作つたのであつて、島を二つに割る目的ではなかつたのである。(○の漢字は表示できず)

 首都は古来から東岸のみであつた。それは日本本土との連絡上必然的な結論であり、島としての地勢、環境を考へての選択ではなかつた。時の主権者によつて若干の奠都(てんと・都をさだめる)は行なはれてゐるが、いつもそれは日本に近い東岸のみである。初め今日の厳原(いづはら)附近が早くも首府となり、応永の頃宗貞茂は北方佐賀に都を移し、文明年間宗貞国は厳原附近の中村に還り、亨禄元年宗将盛は全石城(金石城?)に居た。
 
 寛文六年宗義真の時に棧原に居し、これを府中と云ひ、明治維新ののち厳原と改名したのであつて、いづれも日本への最短距離東海岸に存在すること申すまでもない。日清役ののち、日本海防衛の必要上、軍艦を通すべき水路開鑿の必要に迫られ、新しく「万関越の掘割」をつくつて、東西海岸間の軍事的交通の便ををひらき、これによつて日本本土との連絡は一層緊密を加へて行つたのである。
(中略)
 さて対馬が日本を代表し乍(なが)ら日鮮間に於ける通交の媒(なかだち)をし、一方朝鮮海峡の利権を握つてゐたのは四百年の永きに及んだ。その間日鮮の間に取り交わした重大な条約が三つある。一つは嘉吉条約(癸亥)、二は永正条約(壬申)三は慶長(巳酉)条約である。(括弧内は朝鮮側の記録)これはみな日本人の朝鮮貿易と倭寇に関係が深いのである。由来日本人が彼の地に行つて貿易に従事したことは、ずつと昔からあつた。

 しかし高麗の晩年までは大したことはなかつたが、恭愍(きょうびん)王のとき(1352年)対馬の宗経茂に米一千石を贈つて来た。李承晩大統領が対馬へは、朝鮮より食糧の不足を送つてゐた――と云ふのはこのことである。これは対馬を根拠地とする倭寇が、朝鮮の本土至るところに上陸して、掠奪をやることにはほとほと手を焼き、宗経茂を通して何とかこれら辺民の宣撫工作をやりたいものとの高等政策の一つであつて決して領民への食糧補給ではなかつた。

 李朝になつてからは、倭寇の鎮定に特別の懐柔策を用ひる様になつたので、我も我もと土産を持つては朝鮮に行き、どつさりと返礼を貰ふ。一種の情誼貿易である。爾来これらの方策が効果を挙げて来たのと、日本では豊臣秀吉の倭寇厳禁で、あれほど高麗朝を悩ました倭寇も、李朝に至つては中絶したのであつた。それは後日譚であるが、個々の民間情誼貿易がかくの如くして発展して行つたのでは、朝鮮側でも立ち行かぬことになるので、そこで国営貿易として、この情勢に制限を加へようとしたのが嘉吉條約(1443年)である。

 その条約で対馬の宗氏から、年々五十艘の船を朝鮮に送ることとし、朝鮮からは馬の飼料として米、大豆二百石を年々宗氏に贈ることとなつた。それを歳賜米と云つたので、李大統領が対馬を属国のやうに考へたのであらう。
(中略)
 元来対馬は山岳地帯が多く、平野が少なく耕作地に恵まれない為、昔から人口と食糧のバランスがとれないのである。…米が極めて少ない為、全体のカロリーから云つて漸(ようや)く一万八千人を支へるに過ぎない。然るにそのときの人口はその倍で三万二千人であつた。四百年の永きに亘り朝鮮貿易に全力を注いで来たのはもつともなのである。

 貿易の方法はその時々の条約や、習慣等によつていろいろであつたが、進上品にしても、求請品にしても回賜別福と云ふ先方の返礼品や歳賜米にしても、交換率まで決めた官営貿易であつた。又物々交換を前提とする民間貿易も、日本人の朝鮮滞在中の糧米供給にしても、皆それらの貿易代金決済済みの枠と比率のうちで行はれて居る。そこで如何なるものがその輸出入品であつたかと言へば、対馬から銅鉄、鑞鉄(錫と鉛の合金・はんだ)、丹木、明礬(みょうばん)、日本朱、紋紙、黒角(黒い水牛の角)工芸品等で、朝鮮側から主として木綿、米、大豆、小豆、人参等であつた。

 然るに時代の降るに随つて、木綿の質が下がり、寸法をごまかし、又米の中に砂や石を交へたり、水を加へて桝目をふやしたり、甚だしいのは渡すべき米を渡さないので、享保十三年に書かれた対馬側の文献をみると「二十ケ年程の間、未収二万俵に及び、埒(らち)明き申さず」などと書いてある。是等の取引はすべて朝鮮に於ける和館で行はれた。それは単に商売の形式でなく、外交的儀礼と秩序の上に行はれてゐたのは面白く、官営貿易の面目躍如たるものがある。(中略)しかし如何なる角度から研究しても対馬が朝鮮の所属であつたと言ふ結論は出ないのである。

終戦直後の日本 李承晩ライン

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房

日本の植民地時代、外国に亡命していた政治家たちがその中心となって成立した韓国政府が、反日にこり固まっていたのは当然であったろう。日本軍としばしば戦闘を交えていたゲリラ部隊の指導者が政権の座についた北朝鮮政府もいうまでもない。李承晩政府は、"皇国思想に毒された子弟"の教育のために、徹底的な反日教育を実施した。

 教育にとどまらず、「反日」「侮日」は韓国という新国家の基本的政策、体質となった。韓国は今日においてさえ、日本の映画、演劇、レコード、音楽テープなどの輸入は、"文化侵略"として禁止されている。このような韓国の情勢が日本人に快いはずはない。

 もう一つ、終戦間もない頃、日本人が韓国を憎むようになった、より直接的、具体的なものとしては、日本側では"悪名高い李承晩ライン"がある。日本が連合国占領下にあった期間は、いわゆるマッカーサー・ラインによって日本漁船の漁場は制限されていたのだが、講和条約を前にして、韓国政府はその撤廃にそなえ「李承晩ライン」(後に「平和線」と改称)を、その領海の外側に広範囲に設定した。

 その線以内は、水産物だけでなく天然資源も鉱物も、韓国が独占的に保護利用する権利を持つと宣言したのである。翌53年には漁業資源保護法を制定し、李ライン内にはいった日本漁船は片端から拿捕されるに至った。1955年11月には、韓国連合参謀本部は李ライン侵犯船に対する砲撃、撃沈を声明して、日本漁民をふるえあがらせた。1952年以降5年間で拿捕された日本漁船は152隻、抑留船員は2025人にも及んだのである。

 韓国沿岸漁業において、装備の秀れた日本漁船のために韓国漁民が圧迫されていたのは、日韓併合前からおこっていた問題である。日本の植民地時代にも、1929年、総督府が李ラインよりは少し内側の公海上にトロール船などの禁止線をもうけ、内地の漁船を排除したこともあった。

 韓国政府が日本漁民に対して自国の漁民を守りたいと考えるのは理解できないこともないが、しかし一般日本人にとっては、李承晩ラインは"傍若無人と横車"の典型のように映ったのもまた無理からぬことであった。

 微力な日本政府は、韓国政府の、国際法を無視したこれらの行為に対してなんら為す術はなく、漁民は悲嘆にくれ、国民は遺恨の思いを心中につのらせた。日本政府は抑留された漁船員を還してもらうために、本来は強制退去の対象者である在日朝鮮人の犯罪者472人を仮釈放して、在留特別許可を与えたのである。

 折から(1954年)おこった竹島(韓国名・独島)の所属をめぐる日韓交渉も、韓国側の無電台の設置、官憲の常駐という実力行使の前に、日本側は事実上沈黙させられた。これもまた韓国横暴の印象を日本人の中に植えつけたように思われる。



「朝日新聞 天声人語」 1963年9月28日
 李ライン海域で日本漁船がまた捕獲された。韓国警備艇の武装した隊員が乗り移り三十四人の日本人船員を連行している。同じ二十七日の朝、別の漁船も追われ十人の船員は海に飛びこんで逃げ、船長は一時重体だったという。冷たい海中をいのちがけの避難だ。李ラインでの無法がまたはげしくなった。

この海域はいま、アジ、サバの盛漁期で、五、六百隻の日本漁船が出漁している。そこをねらって韓国警備艇は不意打ちをかける。ライトを消し、島陰づたいに近寄り、銃撃をあびせたりする。日本側も巡視船を増やし、厳戒警報を出しているが、捕獲は防ぎきれず、今年になってすでに十六隻。昨年一年中に捕獲された数よりも多い。

 李ラインを越したという理由だけで、これまでに多数の船員が釜山の刑務所に入れられ、船はとりあげられている。優秀船だとそれが韓国警備艇に早変わりして、日本漁船を追ってくる。海の狼のような韓国警備艇の仕業だ。

 そもそも李ラインというのは昭和二十七年(1952)一月に韓国大統領の李承晩氏が、国防上の要請によるとして、設定を宣言したものだがそれは公海上に一方的に設定したもので、国際法上不当なものだ。日本政府はこのラインを認めていないが、過去十年間に韓国は勝手に実力を行使して、約三百隻の日本漁船を抑留、数多くの乗組員や家族を泣かせている。

 九月にはいって、韓国側がさかんに捕獲を開始したのは、大統領選挙と関係があるらしい。韓国の漁業界、漁民の票を得るために、朴政権は海洋警察隊に日本漁船捕獲を命じたとも見られる。選挙の術策として隣国の漁船捕獲をはげしくするというやり方が、国際常識からも許されるかどうか。

 韓国漁民の間に、日本漁業の技術に対する恐れと警戒の気持ちがあるのかもしれぬが、資源の保護や漁業協力について日韓交渉で、双方とも誠意をつくして話し合えばよい。漁民票をねらった強引な捕獲はこれまでの交渉での双方の努力を無にしはせぬか。

 韓国は李ラインを"平和ライン"と呼ぶが、現状は不法ラインてある。公海上で日本漁船員を捕まえるこの理不尽は黙って見過ごせるものではない。

「大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

終戦直後の日本 多くの暴動に積極的に関与した共産党系在日朝鮮人

多くの暴動事件に積極的に関与していた在日朝鮮人
戦後日本に居残った朝鮮人の中に共産党系の者が多数いた。
「韓国・北朝鮮総覧1984」 1983年 原書房


(戦後間もない時期、朝鮮人半島引き揚げ者が次第に減少していったことについて)
この原因について篠崎氏は「朝鮮内における政治上、経済上の不安定から帰国後の生活が不安であること、コレラ病流行、これらの情勢が誇大に朝鮮人間に伝えられたこと、携行金品に制限があったこと」などをあげている。

さらに日本赤十字社では「その大部分は日本共産党が扇動したものである。日本共産党は戦時中完全に弾圧されていたが、連合軍の進駐とともに解放され、当時の社会事情を利用して急激にその勢力を増していった。1946年2月、金天海日本共産党中央委員(在日朝鮮人)は、その機関誌「前衛」第1号に、"在日朝鮮人は日本に定住し革命に参加せよ" という指令を載せ、日本政府が引き揚げの努力をしている最中にこれに反対する態度をとった。」(一部在日朝鮮人の帰国問題)と、その引揚げ者減少の理由を指摘している。

金天海は在日朝鮮人のカリスマ的指導者で彼の影響はすこぶる大きかった。宮崎学著「不逞者」に登場

日本共産党の尖兵として騒擾(そうじょう)事件を起こす。当時、共産党は一国一党の時代で在日朝鮮人が多数参加していた。



「体験で語る解放後の在日朝鮮人運動」 姜在彦 1989年 神戸学生青年センター出版部
(1951年1月に非合法的に結成された民戦に対する日本共産党の指導方針が出され)
在日朝鮮人は日本の中の少数民族であり、日本革命の同盟軍であるとされたわけです。したがって、日本革命を成し遂げることなしには、在日朝鮮人の問題は何一つ解決できないとされたわけです。だから我々は、日本共産党員として、まさに日本の革命をやることが、朝鮮の革命と在日同胞の地位向上に寄与することになるんだと考えたわけです。

(中略)
この時の在日朝鮮人の運動について書いたものに、鄭東文氏の「転換期に立つ朝鮮人運動」(日本共産党関西地方委員会、1949年10月)があります。この鄭東文という人は、共産党の民族対策部の人で、中央委員会のメンバーの一人でした。「転換期に立つ朝鮮人運動」は、少数民族は独自の中央組織を持つ必要はない、各地域の組織に属して日本の組織と連帯し、日本の革命を遂行すべきだ、と言うようなことを述べています。

だから実際、朝連(在日本朝鮮人連盟)が解散させられたのち、皆地域の朝鮮人協会であるとか、学校のPTAにはいれ、ということが言われていました。そしてPTAを革命化せよ、地域を革命化せよ、という、読み方によっては、朝連解散を喜んでいるようにも取れる方針でした。だから、少数民族の組織というものはすべて末端の組織において日本人と連帯しながら、まず第一に日本革命を遂行するのに大一義的目標をおくべきだ、というものでした。

他方、民戦(在日本朝鮮統一民主戦線)は次第に公然化してきます。そして、非公然組織として祖国防衛委員会(祖防委)、その傘下に祖国防衛隊(祖防隊)が作られました。当時の在日朝鮮人の組織の中ではこの祖防隊が中核的な役割を果たし、民戦はこの中核を包むオブラートのような組織でした。

祖防委は、
(1)日本が朝鮮戦争の基地になっており、戦争で使われる米軍兵器を修理していたことから、それを中止させ、しかも輸送を阻止する実力行動を行う。
(2)親子爆弾(北朝鮮に向けて殺戮兵器として使われた爆弾)が大阪、特に在日朝鮮人の零細企業でたくさん造られていたことから、これを阻止する、というような中核的なことをしておりました。

このような在日朝鮮人の動きがあった一方で、1951年10月、日本共産党は第五次全国協議会を開き、軍事方針を決定することになります。これにより、朝鮮人の祖防委と日本共産党中核自衛隊で、パルチザン闘争を準備することとなります。

それ以降、大阪では吹田事件、東京では宮城前の血のメーデー事件が起こることになります。デモ隊が流れ込んで宮城前を血に染めたこの事件ではかなりの人が負傷したり、逮捕されたりしました。今でもあの時の写真を見てごらんなさい。先頭に共和国(朝鮮民主主義人民共和国)の旗が翻っています。警官隊の壁を実力突破する先頭に立ったのは朝鮮人なんです。

それから名古屋の大須事件ですね。これらはみな、先ほどの方針から出ているわけです。みんな本気でパルチザン闘争をやるつもりだったわけです。最近、宮本顕治氏が言ったところによれば、「中国共産党がこれを強制した」というわけですね。

中国共産党によれば、革命後まだ間もない時期であったので、アメリカの力が中国に集中するのを防ぐために、アジア各国の共産党にあえてこのような闘争を要求して、その力を分散させようとしたのでしょう。当時アジアの共産党は、中国革命を守るのが国際主義的義務と言われていましたから。そこで日本も本気でやろうとしたわけです。




暴動は彼ら自身が認めています
「韓国・朝鮮人と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房
「朝連」と日本共産党


一般犯罪のほかに、在日朝鮮人に対する日本人の嫌悪感、警戒感を強めさせたものに、北鮮系の活発な政治運動がある。在日朝鮮人は終戦の秋10月、「在日朝鮮人連盟」という自治団体を結成した。この団体は、当時在日朝鮮人社会の最大の問題であった本国への引揚げを主とし、日本人、朝鮮人間の摩擦防止、同胞の福利厚生などを目的としたもので、当初は社会事業団体的性格をおびたものであったという。

しかし、徳田球一、金天海らの日本共産党幹部らの政治犯がいっせいに出獄してこれを指導するにおよび、「朝連」は急速に民族主義運動、さらには革命的、暴力的傾向に傾斜していった。もともと、朝鮮独立運動と日本共産党との関係は戦前から深いものがあった。労働者の解放、植民地の解放、そしてその連帯をモットーとする国際共産主義運動は、第二次大戦後各国植民地の独立運動に多くの実例を見るように、植民地解放運動に甚大な影響力をもっていた。日本共産党の綱領にも「(日本のすべての)植民地の完全独立」がうたわれていた。日本の革命と朝鮮の独立は一体のものと理論づけられていたのである。

「朝連」の左傾に反対するものは、これを離脱して、この年11月、「朝鮮建設促進青年同盟」を結成した。翌46年11月には「在日朝鮮居留民団」と改称し、今日の、在日本大韓民国居留民団へと発展した。しかし当初は「民団」の勢力は徴々たるもので、「朝連」は在日朝鮮人の7~80%を占め、強力な活動を展開した。

だが暴力的不法事件を続発させたため、「暴力主義団体」として、1949年9月には「団体等規制令」によって解散させられ、金天海はじめ主要幹部は公職追放処分となって表面から姿を消した。組織の基盤を失なった左翼系在日朝鮮人は1950年6月、折から勃発した朝鮮戦争を契機に、「祖国防衛中央委員会」と、その戦闘的実動部隊として「祖国防衛隊」を各地に設け、翌1951年1月には「在日朝鮮統一民主戦線」(略称「民戦」)を結成した。

「民戦」は日本共産党の完全な指導下に、「反米」「反吉田内閣」「反再軍備」の三反戦術を唱導し、その綱領自体にも「日本の主権打倒」をかかげたのである。1951~52年の日本共産党の極左武力闘争では、「民戦」=在日朝鮮人は常にその突撃隊の役割を果たしたといわれる。『法務研究』にのった森田芳夫氏の論稿によると、1952年だけで北鮮系の日本警察に対する不法行為は134件にのぼり、当時「日本の国民の在日朝鮮人に対する警戒心は異常に高まった」のである。

騒動の自認
だが朝総連系の朝鮮人はこれらの騒擾(そうじょう)事件、反日運動を、日本の警察のデッチアゲと反論する。そこで彼らの機関紙(誌)の中から、暴動騒乱を彼ら自ら立証する、いくつかの記事の「見出し」などを掲げておこう。

「新朝鮮」(祖国防衛中央委員会の機関誌から)
○ 弾薬輸送列車を妨害
○ 軍需工場基地に果敢な工作 西日本全域で祖防闘争激発 竹槍で6里のデモ (1952.3.30)
○ 神奈川で税務署、軍倉庫を焼打ち!! (1952.4.15)
○ 某町では、警察署長に先制攻撃をかけ、警察署の机を、持っていた斧でたたきながら……
 婦人たちも米原駅公安室に押しかけて公安官のネクタイを締め上げながら、「お前達が強制追放列車を送り、武器輸送を護衛するけだもの野郎だ……」と吊るし上げた。(1952.5.20)
○ (警官は)吊るし上げられ、コソコソと逃げ出した。これをみた一同胞青年は、「逃がしてたまるか」と4町も追いかけ、奴らをどぶの中に突き落とし、上から馬乗りになってコテンコテンに叩きのばした。一方、同胞は夜、約50名が本署に押しかけ…… (1952.7.5)
○ 火炎ビン飛ぶ中で大村収容所を再攻撃
○ 所長の顔は傷だらけ 目黒婦人実力で愛国者奪還 (1952.7.15)
○ 雨をついて枚方兵器廠に進出 2000トンプレスを爆破 (1952.7.20)

武闘の果て

このような武装闘争の連続は1954年にはいると様変りした。前年3月のスターリンの死以後、朝鮮戦争の休戦、ジュネーブ会議の開催とつづき、国際共産主義運動は、その過激な革命主義の矛を一時収めたからである。

日本共産党も運動路線を変更し、「日本と朝鮮の国交正常化を実現し得る新組織をつくれ」という非公然通達を流した。この結果、民戦は解散し、翌1955年には「在日朝鮮人総連合」が結成され、この組織は、いわゆる「朝総連」として今日も続いている。そして朝鮮民主主義人民共和国の方針により、「朝総連」は「日本に存在する朝鮮公民として節度を堅持し、日本の内政には一切干渉しない」との方針を確立して、その運動もひとまず沈静化するにいたった。これまで、日本の内政に干渉してきたことを自認したわけである。

「日本の中の三十八度線」の著者李瑜煥氏は、この武装闘争について次のように述べている。
当時頻発した日共系暴力事件の前衛、尖兵として犠牲に供せられ、前科ものとして在日朝鮮人の犯罪率を高め、経済的に貧困化し青年学徒で勉学を中途で放棄しなければならなくなったものは無数で、その犠牲はあまりにも大きかった。そればかりではなく、今日の日本人の対韓国・朝鮮人観に、暴力的で粗暴だというイメージを植えつける大きな要因にもなっている。

(中略)
「朝総連」は、戦後の日本のほとんどの騒擾事件において共産党とともに主役を演じ、団体等規制令で解散させられた「朝連」の後継者であることは誰の目にも明らかである。現に「総連」の議長韓徳銖氏は「朝連」の有力幹部であったという。
朝鮮人は、自分たちだけが半世紀ばかり昔の日本人の悪虐な行為を忘れないつもりでいるかもしれないが、多くの日本人も、少なくとも日本政府は、わずか30年前、朝鮮人が日本国家を転覆する意図をもって暴動をおこし、革命を呼号したことを忘れてはいないのである。朝総連系の主張していることには、それだけをとりあげれば一応もっともといえることも皆無ではない。しかし国際関係において彼らが置かれている立場、そして彼らがしてきたことを考えれば、彼らの議論は大部分その基礎を失うであろう。
「大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

終戦直後の日本 パチンコと他人の土地の不法占拠 

「コリアン世界の旅」 野村進 1996年 講談社
いま全国に約一万八千軒あるパチンコ店のうち、在日および帰化者二世・三世を含む)が経営する店の割合は、六割とも七割とも言われる。三軒に二軒は、オーナーが韓国・朝鮮系ということなのである。パチンコ台の製造メーカーにも、最大手の「平和」を筆頭に、韓国・朝鮮系の経営者が名を連ねている。

(中略)

 パチンコが全国に広まり大衆的な人気を博するのは、明らかに日本の敗戦直後からである。身近に安価な娯楽がなかったためという理由ばかりではない。焼け跡闇市の時代の庶民を何よりも魅了したのは、景品に出されるタバコだった。配給制で常に不足がちなタバコが、強力な呼び水となって、戦後最初のパチンコ・ブームを巻き起こしたのである。

 かくしてパチンコ店は雨後の筍のように増えていくのだが、当時、開店資金をどのようにして工面したのか、その経緯が在日自身の口からおおやけにされることも、私の知るかぎり絶無と言ってよかった。
『こんなことを話す人間は、ほかにおらんだろうね』 と前置きして、キムが語る。

 『闇市で儲けて、それからパチンコ(店経営)に走った人が多いんですよ。じゃあ闇市で何をして儲けたかというと、結局、ヒロポンと贓物故買(ぞうぶつこばい)だよね』 密造した覚醒剤を売りさばいたり、盗品の横流しをしたりして、短期間のうちに大金を作り、それをパチンコ店開業に振り向けたというのである。
『そういううしろ暗い過去がなかったら、カネなんていうものはそんなに貯まらんですよ。うしろ暗い過去があるから、人にも言われんわけでね』

(贓物故買=窃盗、詐欺などの犯罪行為によって不正に得た物品を売買すること)  

(中略)

 戦争直後、韓国・朝鮮人がいくらかの元手ができるとすぐパチンコ店経営に乗り出したのは、日銭が確実に入り、その額がほかの廃品回収や焼肉といった職業よりも格段によかったからである。一日の売り上げだけを見ても、数字のゼロが一つかニつ多かったのだ




戦後の混乱で他人の土地を不法占拠する三国人。
「在日韓国・朝鮮人に問う」 佐藤勝己 1991年 亜紀書房


 当研究所の創立者故古屋貞雄理事長が生前手掛けていた仕事のひとつに東京都池袋西口都有地払い下げの問題がある。私がその仕事を引き継ぎ、現在もやっているが、これは旧豊島師範学校跡地を無断占拠し、商売をはじめたいわゆる敗戦直後のブラックマーケットの区画整理にともなう有名な(都内の不動産業者で知らない人のいないほどの)都有地払い下げ事件である。

 私がこの事件に関与して20年になるが、調べていくうちに、マーケット内の朝連系朝鮮人の「活躍」を知ることができた。ここで活躍したかなりの人達が、北朝鮮に帰国していったようである。このマーケットの中は、治外法権だった。警察権力の手は到底及ばなかった。そこを取りしきっていたのが"ヤクザ"だが、ヤクザの中にも朝鮮人はいたし、そのヤクザ集団が、”チョウレン”と聞いただけで緊張し、身を震わすというほどの"実力"を持っていた。

 この池袋西口と似た場所が、都内の上野、新宿、新橋などにあった。池袋西口でどのようなことが展開されたかは省略するが、結論だけを記せば、かつてそこに住んでいた日本人住民で、当時の朝鮮人を良く言う人は誰もいないというか、ほとんどの人が今でも敵意すら抱いている。

 このような一連の諸事実の積み重ねの中で、日本人が在日韓国・朝鮮人に対し、右に記したような事を抱いていったことは、日本人の偏見と差別のみで説明できるような単純なことではなかろう。

 当時、日本人に偏見や差別が、現在よりも比べようもなく多くあったのことは間違いないが、それをさらに裏付け補強する行動を繰り広げたのは、一部の在日韓国・朝鮮人たち自身ではないか。1947年5月の外国人登録令の施行や、その後の指紋押捺制度の導入などは、このような政治的社会的背景の中から出てきたもので、日本政府や日本人の偏見や排外的な考えのみから生まれてきたものではないのである。



朝鮮人による土地占拠の経緯と実態
「別冊宝島39 朝鮮・韓国を知る本」 1984年 JICC出版局
朝鮮部落訪問記        石井靖彦


 下関港からほどない東神田町の一画にある大坪は、戦後ヤミの船でもいいからいっときでも早く故郷に帰ろうとした朝鮮人が、テント代りに仮住いするつもりで雨露をしのいだバラックが大きくなってできた部落だ。刑務所のある所といわれていたこの地域に、日本人は寄り付かなかったが、朝鮮人は山すそを削り、空き地を利用して家を建て、日ゼニでも稼ぐつもりで豚を飼い、ニワトリを飼い、酒をつくった。そして、当座の間だけでも子供たちに朝鮮の言葉と歴史を学ばせれば、故郷に帰っても慣れやすいと考えて、学校もつくった。このようにして、46、7年頃には世帯300以上の部落が形成されたのだった。

(中略)

 「水島の朝鮮部落」、それは倉敷駅と水島コンビナートの中ほどに位置している。緑町・春日町の一帯に住む200世帯前後の部落をさす。日本の敗戦もおしせまった1944年、三菱重工水島航空機製作所のあった倉敷市水島には、2000人にのぼる朝鮮人が連行されて、地下工場を造るために防空壕作りを強制されていた。

 今は朝鮮部落になっている緑町・春日町には、同時に、工場労働者のための社宅が建設されていた。敗戦とともに地下工場建設も中断され、出来上がっていた社宅は行き場のない朝鮮人が占領する。やがてただちに帰国することを取りやめた人たちが、舞鶴や下関から空いた"住宅"があるのを知って、親戚、知人を頼って集まってきたのだ。

 最盛期には2500人以上の朝鮮人が共同の生活の場を作った。共同の密造酒工場があり、自留地というべき菜園を市から獲得した。さらに、全ての朝鮮人を生活保護世帯として認定させ、一括してお金、物品を市から受けて、朝鮮人は更に自主的に再配分した。とはいっても日常的な働き口が見つからない大人たちは、酒づくりやブタ飼いなどで綱渡りの生活をしながらも、視点は本国に向いていた。1959年12月に北朝鮮への帰国が始まると、1000人近くの人が帰っていった。
「大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

終戦直後の日本 警察襲撃と朝鮮人のシャブ・コネクション

「朝日新聞記者の証言5 -戦後混乱期の目撃者-」 菅野長吉 昭和56年 朝日ソノラマ

(引用1)
「あらゆるものはヤミに走った」といってもいい過ぎではなかった。戦時中は「国家総動員法」という基本法があって、あらゆるものが総合的に統制運用され、子どもにまで「欲しがりません、勝つまでは――」といわせた。それが20年12月20日に廃止されると、あらゆる物資がせきを切って暴騰した。都市の人口は日毎にふくれあがり、食糧不足から餓死者も出る有り様だったから、抑えようがない。東京では、むしろこれに拍車をかけたのが、警視庁が21年1月21日からはじめた主食とその加工品の取り締まり強化である。

当然、非合法商法が横行しはじめた。しかも、当時の取り締まり当局には、これら非合法行為を防止するための物もカもない。これに眼をつけたのが、戦勝国人なりとする一部の第三国人の〃特権〃乱用と、裏街道を生きるテキ屋集団である。彼らは正常ルートを通すべき物資を巧みに横流しし、第三国人はその立場を利用してあらゆる物資を動かす。場所には困らない。大都市の要所はほとんど焼け野原となっていたから、集団のカによれば簡単に占有できた。

こうして東京では、上野、新橋、新宿、池袋、渋谷などに急造のマーケットが建った。ヤミ物資の市〃ヤミ市〃である。ここには、配給では手に入らないあらゆる物資が公然と氾濫したから庶民は目の色をかえて集まった。

ヤミ商人たちは、禁制品や統制品を公定価格の10倍から20倍という法外な値段で暴利をむさぼったから、やせ細る庶民とは反対に、日に日に肥え太り、集団もその環を拡げてゆく。繩張りを主張する集団間の争いもはげしくなり、治安問題となってきた。手を焼いた警視庁は、ヤミ市の〃自治強化〃のため地区単位に組合を結成させたが、これがかえってボスを台頭させる結果になり、勢力を助長させた。

新宿の尾津組、新橋の安田組などは、組合員と称する配下が3000とも4000ともいわれた。また当時は第三国人に対する警察の捜査権も確立していなかったから、第三国人は勝手なことができた。一時期、この大集団に対して、確かに警察は無力で、ヤミ市の治安はそれら集団の自治に委せざるをえない事情にあった。彼らが自らを〃夜の警察〃と自負していたのもこういうことからである。
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(引用2)
戦後日本の特殊な存在として第三国人というのがあった。今やこの呼称は全くの死語となったが、戦後混乱期には国民生活に大きな影響を持った。第三国人というのは、日本のポツダム宣言受諾によって、日本の帰属から離れることになる朝鮮、台湾などの出身者で、戦前から日本に居住していた人たちに対して、講和条約の発効まで一般的につかっていた非公式な呼称で、この人たちは日本人てはないが、かといって外国人でもないという特殊な立場にあった。

講和条約発効までの限られた期間ではあったが、これら第三国人に対しては、日本の裁判権行使もあいまいだったところから、彼らの一部には、治外法権があるかのような優越感を抱かせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した。

富坂署襲撃事件
昭和20年も押しつまった12月26日と29日の両日、場所も同じ小石川区(現文京区内)駕籠町の路上で、けん銃強盗事件が連続して発生した。警視庁捜査一課と富坂署が合同捜査をし、都下三鷹町の朝鮮人3名を容疑者として逮捕、富坂署に留置した。

翌年1月3日、トラック3台に分乗した朝鮮人約80名が同署に乗りつけ「朝鮮人を留置するとはけしからん、即時釈放しろ」と要求、拒否すると、一団は署内に乱入、電話室を占拠して外部との通信連絡を断ったうえ、いす、こん棒などをふるって署員に襲いかかり、ついに留置中の朝鮮人を奪取して逃走した。警視庁は直ちに犯人捜査に当たったが、第三国人に対する捜査権の不明確さから不徹底なものになり、捜査員を歯ぎしりさせただけで終わった。

しかしこの事件は、第三国人にさらに不当な自信を持たせる結果となり、「警察何するものぞ」とする不正行為を続発させることになった。
(中略)
ヒロポンとカストリ
覚せい剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場といった感があった。ヒロポンやゼドリンといった覚せい剤は、戦時中、軍需工場で作業能率を高めるために使われていただけで、一般には手に入らないものだったが、終戦によってこれが大量に放出されたことから、街娼や博徒、芸能人が使いはじめ、中毒者が増えていった。

悪化した中毒患者は幻覚、半狂乱といった症状を呈するようになり、これが原因で各種の犯罪を引き起こす事例が多発し、治安上の問題に発展した。特に第三国人らが製造するヒロポンは家内作業で密造するため不潔で、また患者らの要求に応じた即効性のある粗悪品だったから、品質の点でもさまざまな問題があった。覚せい剤密売の巣窟とみられていたのは、台東区浅草松濤町の部落で、約130世帯、230人の住民のうち約半数が朝鮮人で、覚せい剤の売りさばきを主な業としていた。

厚生省は23年7月、これらの覚せい剤を「劇薬」に指定し、自由販売を禁じた。しかし需要は増加する一方だったところから第三国人がこれに目をつけた。なかでも製造容易なヒロポンの密造販売を組織的にはじめたから、覚せい剤の害は急速に一般青少年層にまで拡がっていった。

この覚せい剤とともに大流行したのがカストリの密造である。米不足からの酒不足に悩む大衆は、この安い酒に群らがった。工業用アルコールを主原料とした〃原子爆弾〃とよばれた酒の弊害が叫ばれはじめた当時で、このカストリはたちまち大衆酒場の寵児(ちょうじ)となった。家内作業で容易に密造できることが、製造量を激増させた。

これに対し警視庁の取り締まりは、執拗に波状的におこなわれた。われわれもこれらの密造密売の実態を報道するため、何度もこれに同行したが、部落総掛かりの防衛体制にはおどろくべきものがあった。女、子どもも部落の監視員で、警官の出動を知ると、幼い伝令が金切り声で飛び回る。ドブの臭いのする物置小屋から密造桶が発見されると、泣き叫びながら警官に武者ぶりつく。

摘発されたカストリは直ちに現場の路上や溝に棄てられるが、その濃密なにおいで部落中はむせかえるばかり。まさにカストリ戦争、ヒロポン戦争だった。ヒロポンの密造所があるという伊豆の山奥に行ったことがある。ほとんど小道もない山奥に、二つ三つと小さな小屋があり、炭焼き小屋のように煙をあげている。小屋の中には蒸留器らしいものがあるだけ。追いつめられた第三国人らの、これが最後の砦だった。




「渡日韓国人一代」 金鍾在 述 玉城素 編 1978年 図書出版社
(著者の金鍾在は1916年渡日、戦後東京韓国学園初代校長をつとめた。)
戦後、一時に職を失った在日朝鮮人同胞は、生計を支えるために、いろいろな仕事にたずさわったが、そのうち数多かったものに酒の密造がある。朝鮮の伝統的な手法による濁酒(マッカリ)の製造もあれば、旧日本軍隊の隠匿物資の工業用・航空用メチルアルコールを加工してアイデアル・ウィスキーと名づけて販売する者もあった。

そのメチル酒を飲んで生命を失ったり失明したりする騒ぎが頻発したため、日本治安当局も米進駐軍の力を借りて一斉検挙に乗り出した。手入れを受けた各地の朝鮮人集落は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。警察に挙げられたり起訴されたりする者も続出した。

三国人の覚せい剤密造は警察の力により日本では壊滅したが、彼らが莫大な利益を手にする手段を手放すわけがなく、韓国を製造拠点として日本へ密輸を始め、我が国は再び覚せい剤に汚染されることになるが、驚くべきは日本人を食い物にして平気という韓国人の道徳観念である。




「シャブ! -知られざる犯罪地下帝国の生態-」 趙甲済著 黄民基訳 1991年 JICC出版局
(著者の趙甲済氏は韓国の新聞記者であった)1970年代、釜山で警察詰めの記者生活を送りながら、私は、シャブ(覚せい剤)がもたらす途方もない利ザヤに目がくらみ、灯火に飛び込んでくる虫のように密造・密輸に群がる数多くの犯罪者たちと出会い、興味を抱くようになった。そして、日本の組織暴力団が背後勢力としてからみ、国際的な規模と機動性をもったシャブ犯罪の取材に興味をもちながら取り組んでみて、初めて問題の深刻さに気づかされた。

私は1984年1月、シャブ問題を取材するため日本へ出向いた。当時、日本で流れているシャブの大部分は韓国から密輸入されたものだった。日本の警察はシャブ犯罪を最大の社会問題として考え、その対策に総力を傾けていた。わずか数十名の専従員をもって、数千人のシャブ犯罪者たちを追いながら、泥沼にはまりこみ、犯罪者たちの誘惑に乗ってもがき苦しんだりしている韓国の捜査の実情はあまりにも安易だった。

当時、韓国の政府やマスコミは、シャブ問題を「対岸の火事」を見物するように見ていた。数百万人にものぼる日本の常習者たちが常用しているのは、ほとんど韓国で作られたシャブだったが、韓国では、常用者が少なく、日本への密輸出で多額の外貨を稼いでいるのではないかという安堵感が広がっていた。当時の韓国のシャブ対策はあまりにも心もとなかったのである。シャブ事件の被告人の弁護を担当して「シャブ密造者は外貨を稼いでくる愛国者だ」と語る弁護士さえもいた時代である。

(中略)

70年代の韓国社会でシャブ密造・密売が巨大な"犯罪産業"に成長した背景は何だったのか?(中略)次にシャブ犯罪に対する「罪の意識の欠如」をあげざるを得ない。70年代、釜山で社会部記者としての生活を送った筆者は、こんな話を大真面目に語る警察官や公務員と多く出会った。

「率直に話そう。ヒロポンの密輸がなぜ悪いのか?日本の奴らに目いっぱいヒロポンを送りつけ、奴らみんなヒロポン漬けにすれば胸の内がスッキリするではないか」
「密輸といえば、密輸入を思い浮かべるのがわれわれの実情だ。だから、われわれも密輸出できるものをもっていれば自慢すべきことになるではないか。ハハハ。ヒロポンだって密輸出して貿易の不均衡を改めなければ」

「ヒロポン製造者愛国者論」を展開する弁護士の例をあげるまでもなく、こうした考えをもった人々が当時相当いたことは否めない事実である。日本人が50~60年代、対馬を対韓密輸基地として幇助・育成したことを思い起こせば、また、その対韓密輸のもとで育まれた韓国の密輸組織が、今度は逆に日本に向かってシャブをまき散らすようになった「ブーメラン現象」を確認するなら、そのことを内心、小気味よく感じる人々が現れもしよう。

シャブ犯罪に対するこうした「民族感情」が犯罪者と捜査官の行動に相当な影響を及ぼした可能性がある。この「民族感情」は、シャブ犯罪者を庇護する人々の罪悪感を薄れやすくし、取り締まり自体をを緩慢にさせる要因にもなっているからだ。

(中略)

コリアン・コネクションの根本を掘り起こすのも今回の取材の重要な目標だった。田村研究員の背景説明はかなり説得力があった。すなわち、第一次シャブ乱用時代に、在日韓国人が数多く関係したという事実である。

1954年のケースをみれば、検挙されたシャブ事犯のうち、韓国人は14%(在日韓国人は日本の人口の0.5%)だった。密造犯のなかでは55%、密売犯のなかでは21%が韓国人だった。鄭銀宗ら多くの韓国人密造技術者たちが韓国に逃げ出し、密造技術を広めた史実は第一章で述べたとおりである。暴力団の世界にも韓国人は多い。民族差別の問題を刺激するおそれがあるため、詳しいことは書き控えるが(中略)彼らは親戚のある韓国によく行き来することができ、シャブの密輸ルートを構築するのに有利な立場にいたというのが田村研究員の説明だった。

「大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

終戦直後の日本 警察権を無視した三国人

警察権を無視した三国人
「白い手黄色い手」 1956年 毎日新聞社 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)


「もう日本人じゃない」日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。

彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。

米でも衣料でも砂糖でもモノが不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに"モノ"を動かした。当時絶対に手に入らなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウィスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買うことができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主としてそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持が続々と生れていった。

完全な無警察状態……。そのいい例が昭和二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。犯人の身もとがわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって……出かけたところ、……逆に”不審尋問”され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。”見まい、聞くまい、振りむくまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという。




三国人の暴力から日本人を守ったのは警察官ではなくヤクザだった。
「大阪・焼跡闇市」 昭和50年 大阪・焼跡闇市を記録する会編 夏の書房


戦後の大阪で実力制覇をほしいままにした集団に、土地を不法占拠したまま店をはる、暴力的な闇商人の一群があった。彼らは戦前の繁華街、梅田、難波、心斎橋筋をはじめ、市内各地の焼跡に一夜づくりのバラックを構え、人の私有地であってもその管理人や地主の承認なしに家を建てていった。

そして店をはり、地主が建物の取り除きや立ち退きを要求すると逆に法外な立退き料や賠償金をふっかけたり、実力沙汰で暴行脅迫したのである。また取引をめぐっても、恐喝・暴行による強盗まがいの不法が絶え間なかった。まさに恐怖と隣り合わせの無法地帯であり、おまけにこの闇商人の中に、当時三国人といわれた台湾省民や中国人・朝鮮人が加わっていたことが、民衆の感情をよけい複雑にさせた。

元北区・曽根崎防犯部長はこう回想する。『敗戦の傷跡もいえない曽根崎で、今日もまた、同胞一人が三国人の手で後ろ手にしばられ街頭を引きずられて行った。明日はどうなることか、町の人たちは誰もがこの情景をながめて、歯をくいしばり涙をためて見送っていた。』(「そねざき」曽根崎防犯協会 昭和41年)

(中略)

このような暴力化した社会にどう対処するか、暴力と強奪から民衆の一所懸命の生活をどう守りきれるか――この二点こそ戦後警察に求められ、期待されるところであった。だが、こと「暴力」に対して警察・取り締まる側の姿勢には、どこか徹底を欠くものがあった。面前で集団暴行を受ける民衆がいても、事をおこさぬ場合が再三あったし、敗戦直後、日本人業者と三国人業者の利益をめぐっての騒ぎが頻発した時、警察は紛争鎮圧の用兵として、暗黙ながら暴力団の実力をアテにしている。




「田岡一雄自伝・電撃編」 1982年 徳間文庫 (「韓国のイメージ」鄭大均 より)

終戦当時、国内には強制連行された人を含めて朝鮮人、中国人は200万以上いたが、とくに兵庫に多く、昭和18年に13万5000人、47都道府県の7パーセント強を占め、大阪、東京につぐ3位という勢力をもっていた。

(中略)

彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた。通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをする。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。

こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。/腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器をひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。/警官が駆けつけても手も足もでない。/「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」。/警官は小突きまわされ、サーベルはへシ曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。/さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった。

(中略)

彼らの行為を見聞きするごとにわたしは怒りにふるえていた。/彼らを制止し、阻止する者は一人としていないのだ。/警察は無力化し、やくざは手をこまねいて目をそらす。/いったい、だれが街を自衛すればいいのだ。




「一億人の昭和史 ―日本占領3 ゼロからの出発―」 1980年 毎日新聞社

昭和25年当時、国際港神戸はまた日本一の密貿易の根拠地でもあった。巨大な国際密輸シンジケートがいたるところ張り巡らされ、瀬戸内海へ何十隻もの密輸船が出航…

(中略)

ところで、当時の神戸の密貿易は、大半が台湾、朝鮮などの旧外地との間で行なわれていた。神戸が第三国人の根拠地となっており、東京、横浜に比べ旧外地に近かったこともあり、密輸量は日本一。(中略)国際密輸組織の中核は一貫して第三国人だった。

敗戦後、神戸に三宮駅から神戸駅まで約2キロに及ぶ全国に例をみない大ヤミ市場ができたが、密輸品の多くはここでさばかれた。そこに大きな勢力を張っていたのが数万人の第三国人で、戦勝国意識を誇示するため腕章をつけ、日本の警察権を一切認めようとしなかった。こうした特権をフルに利用、密輸団を操る黒幕になった三国人もでた… 黒幕だった三国人のなかには、密輸の巨利で今は正業につき、実業家として幅をきかしている者もいるといわれる。

「大日本史番外編朝鮮の巻」 から引用

終戦直後の日本 不逞行為をする朝鮮人たち

日本会議熊本 HP 録取者 北斗星
第三國人の暴行
 

終戦後の第三国人どもは本当に酷かった 軍の兵器を盗んで來たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねてゐた

 銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、澁谷は台湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手をこまねいていた 戦勝国民は治外法権だったのである

 だから食管法に限らず、戦勝國民には日本法を適用出來なかった 服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、其処へ行けば食料に限らず物資は山ほど有った。日本人は買へなかったが。

 そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝國民だの「朝鮮進駐軍」を僭称(せんしょう)して堂々とヤミ商売を行ひ、派手に稼いでゐた そりゃ儲かるだらう 取締を横目に犯罪のし放題 警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(流石に銃撃戦は挑まなかった模様)

 当時は物不足で、売る方は素人でも出來た 仕入れこそ難しかったのだが、彼等は日本人露天商を襲って商品を奪ふのだから 其で警察が黙認して捕まへないのだから、こりゃあ損のし様が無い

 警察が襲撃されること頻りで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず 上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ國税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった

(録取者註 当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三國人の来襲によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された澁谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚挙に暇(いとま)有りませんでした)

 東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった

 当時、あの辺は畜力として農耕牛を使ってゐたが、深夜、不逞鮮人が侵入して來て盗み出し、河原へ引いていて行って屠殺した 牛はモウと言って泣いたので皆氣付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追ふ訳には行かなかった 永年愛育し、慈しんで來た牛が悲しさうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出來なかった

 斯うして利根川水系流域一帯の牛は皆、不逞鮮人に盗まれ、殺され、闇市で賣られた この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を賣りに來たものだ 上流で屠殺した牛を、其儘下流へ賣りに來たのだらう

 暫くして南關東から、牛はいなくなった

 家畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つやうな勢で数多犯罪を重ねた 川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった

 其最も著しい、象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に對する集団暴行・傷害事件がある

 翁が軽井澤の静養先から帰京しやうとして信越本線の汽車に乗って居たら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って來て、俺達は戦勝國民だ、おまへら被支配者の敗戦國民が座って支配者様を立たせるとは生意氣だ、此車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな! と追い立てた

 其で鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、忽ち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした 幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面 挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した

 年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、如何に不出來な孫にせよ 孫共は此を知らんのだらう

 直後に總理大臣に成る程の大物でも如何せん況や庶民に於てをや 土地も屋敷も物資も操も、奪ひ放題であった 闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、殊には、空襲や疎開で一時的に空いてゐる土地が片端から強奪された 今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業してゐるのは、皆、あの時奪った罹災者の土地だ

 其でも警察は手が出せなかった 歴代總理大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察如きに何が出來よう 或日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、それきり警察は消滅する 七百万の大軍を擁した彼の帝國陸海軍ですら、左様にして両総長 両大臣以下、自然廃官になった まこと、敗戦はかなしからずや

 たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した

 最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂には其憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った

 其で流石に米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担当していた米第八軍司令官アイケルバーガー中將が、關東と言はず關西と言はず、はたまた北九州と言はず、不逞鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機關銃を構へて不逞鮮人共にピタリと狙いをつけ、漸く鎮圧した 我々は其火器の綺羅めきを間近に見た

 此時聯合國軍總司令官ダグラス・マックアーサー元帥の發した布告が、「朝鮮人等は戦勝國民に非ず、第三國人なり」

と言ふ声名で、此ぞ「第三國人」なる語のおこりである
 だから、外國人差別用語な筈は無い 彼等自身、マックアーサー元帥以下、一人残らず皆、外國人ではないか

 聯合國軍總司令官は日本人に對してこそ絶大な権勢を振ったが、本國や同盟國、対日理事會や極東委員會に氣を遣はねばならぬ 外交センスの要る役職であった 何人にもせよ、敗戦國民以外を、声名發して迄差別なんぞする筈が無い

 「第三國人」の語は、國際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない

 近頃の報道人は歳も若く、當時の経緯や語感が全然判らないのだらう 知合ひの報道人幾人かに電話して、TVにでも新聞にでも出て歴史の真実を話して進ぜやう、と申入れたら皆、検討させて下さい、と逃げてしまった 真面目に報道する氣は無いのかの

 貴公、パソコン通信を遣ってなさるさうぢゃが、インターネットとやらは随分と情報を発信できて、幾百万の人が見ると聞く 一つ満天下の正義の為に、今の話を發信して下さらんか


                               


「興安丸 33年の航跡」 森下研 昭和62年 新潮社

 終戦から間もないこの時期、食料不足が極度に悪化していた。しかし金さえあれば食料は、上原(駅員)のいる博多港駅近く、わずか200メートルほどのところにも溢れていた。石堂川の川口には引込み線の鉄橋があるが、そこから上流へかけ岸側の水の上に、バラックが連なっている。小屋はいずれも川底に打ち込んだ杭の上に建てられていて、住むのは韓国人たちだ。ここには、米はもちろん魚や缶詰など、当時の日本で手にいれることのできる食品は何でもあった。

 上原たちが普通ではまず口にすることもできない牛肉さえ、ふんだんに、かつ安く売られている。夜、どこからともなく引いてこられた牛が、翌朝までには解体され、角つきの頭などが小屋の中でぐつぐつ煮られていたりする。牛は、たいていが近郊の農家から盗み出し、売られたものだが、この一角には警察官も容易に立ち入れない雰囲気があった。

 朝鮮へ引き揚げる船に乗るために敗戦とともに博多へ集まってきた韓国人たちは最初の頃、少しでも港近くにいたいと博多港駅を半ば占拠する形で船を待った。彼らは駅舎の板壁をはがして煮炊きするなどの傍若無人ぶりだったが、上原たちはどうすることもできないでいた。

 やがてアメリカ軍が進駐し、また引揚援護局が設けられるにしたがい、韓国人たちは近くの寺院などへ分宿するようになった。そのうち、目はしのきいた者たちが川沿いに住みつき、一種の租界をつくって商売を始めたのである。これが、興安丸(引揚船)がきたころの博多港界隈の状況だった。

 韓国人たちはまた、ブラックマーケットなどで稼いだ金を、独特の方法で持ち帰る者が多かった。彼らの中には、古い自転車を担いで乗船する者がよくいた。本来なら自転車は、小荷物として船倉に積まなければならない。それより自転車などを肩にしてタラップを登れば、転落の危険がある。ところが、そういって乗組員や立会いの警察官が制止しようとすると、誰もが、『おまえ、おれの財産を盗む気か』などと血相を変えてくってかかる。それはじきに周囲の者たちに広がって騒ぎになり、かけつけたMP(進駐軍憲兵)が自動小銃を空にむけて威嚇射撃するまでおさまらない。

 アメリカ軍の進駐以来、港や引き揚げ船にはMPが警備のため配置され、また乗船するようになっていた。韓国人たちが古自転車にこだわるのには、訳があった。操舵手の中野正助は戦前の関釜(下関―釜山間の連絡船会社)に入り19年に応召、復員してこの年から興安丸に再勤務を始めた。博多港で韓国人たちの乗船整理をしていたとき、その一人が自転車を海に落とすのを目撃する。
『船員さん、あの自転車を揚げてくれ!』男は、半狂乱になって叫ぶ。
『とても無理だ』
中野が首を振ると、男はやにわにタラップから海へ飛び込みかける。それをようやくなだめて話を聞くと、自転車のタイヤには、チューブの代りに紙幣がぎっしり巻き込んであったのだという。

敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 ③

敗戦後の日本人資産の略奪を現地人の目から見た貴重な証言である。

「朝鮮戦争の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」 朱栄福 1992年 悠思社

(1945年8月8日、ソ連が日ソ中立条約を破って対日宣戦を布告し満州と朝鮮に侵攻してきた。)15日の夜、(朝鮮半島北部にある)羅南の(日本)軍当局は最後の破壊作戦に出て、全市の軍事施設に火をかけて焼いた。その夜、ぼくは鏡城の北にあたる山の上から、炎上する羅南の赤い空を眺めていた。…36年、わが国を軍靴で踏みにじってきた侵略者の断末魔の光景であった。朝鮮の農民たちは、15日(終戦日)が過ぎても何が起こっているのか正確には知らないでいた。

ただ、津波の引き去るように逃げてゆく日本軍、警察、一般日本人が、もう二度と戻ってこないようにと願いながら、そのさまを眺めていた。(中略)羅南の軍事施設が燃えた晩、市内は無人地帯であった。数千人の日本人は、臨時疎開して、すぐ帰るつもりであったかもしれぬが、市が燃え尽きても、ついに一人も戻らなかった。日本人は永遠に去ったのである。帰ってきたのは全部朝鮮人であった。彼らは、防空壕からはい出し、あるいは郊外の避難先から、続々戻ってきた。火災の翌日、いたるところに余燼のくすぶる市内で、物資あさりの騒乱が始まった。

窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫などにアリのように人間が群がった。家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。ある人はトランクを担いで逃げる。ある人は自分の体よりも大きい布団袋を引っ張って走る。ある人はリヤカーに山ほど積んで汗を流しながら家に急ぐ。ある婦人は衣類をいっぱい頭に載せオーバーを抱えて土手にのぼる。ある老人はチゲ(背中に荷物を担ぐ時に用いる木製の背負子)の上に衣類ダンスを担いで走る。みな走る、ぶつかる、ののしる、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。

先着の略奪者は血相を変えながら部屋から部屋に出入りする。集めた品物から目を離したとたん、別の者が担いで逃げる。家に持って帰っても、また出ていくと、その間に誰かが来て持ち去る。こういう時には誰も安心できない。隣り近所、みな疑心暗鬼である。避難先から帰りの遅れている肉親をののしる。だからといって呼びに行く暇もない。

――あのとんま野郎!こういう重大な時に家にいさえすれば、いっぺんに大金持ちになれるのに・・・!二、三千軒の日本人民間住宅と商店、数百件の焼け残りの軍用官舎は、わずか五、六時間でスッカラカンになった。ぼくが羅南に着いた時は、そういう"敵産の分配"が終わってから一週間もたっていた。残るのは日本人の不動産である。日本人の家屋、商店、車庫、倉庫の壁や門に、色とりどりのペンキで、大小さまざまに、ハングルや漢字で所有者の名前が書かれていた。

"李XXの家"と書いた反対側には、もっと大きな文字で"金XXのジップ(家)"と書いたり、前に書いた文字を消して一尺もある大きさの漢字で"この土地は40年前のわが祖先の土地なり"と書いてあったり、"この建物では近き将来平和食堂開業予定" "まもなくアリラン床屋になります" "この建物の主、日本人某は一週間前、小人(自分)に移譲せり"等々、何とかして自分のものにする口実を書きつけていた(まもなく敵産家屋、土地、軍事施設は全部登録され、政府または全人民の所有になった)。ぼくの伯父が住んでいた初瀬町のはずれの谷間の入り口に、小玉(こだま)氏経営のよく手入れした農園があった。解放前には周辺の朝鮮人は皆、小玉さんを尊敬していたが、世の中が逆さまになって、皆、彼を"日帝の悪質地主"とののしった。今度の騒動で、小玉邸も無疵なはずはなくサジ一本、畳一枚残さず、すっかり群衆に没収された。

引揚げの惨事は北朝鮮だけに起こったのではない。南朝鮮(韓国)においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。北と南に民族性の違いはないのである。


「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑
夜明けの舞台裏    中保与作(元京城日報主筆)

(終戦とともに)朝鮮人は、全鮮各地で、公然と日本の諸機関や日本人の財産の接収を始めだした。京城では、総督府に近い中心の鍾路をはじめ幾つもの警察署が朝鮮人の手に帰した。ピストルを狙って襲撃する者もある。警察官にも襲撃者側にもぞくぞく死傷者が出た。ほとんど、どの駐在所からも巡査が姿を消してしまった。

駐在巡査の大部分は朝鮮人であったが、職場を守ろうにも、大勢で襲撃されるので2人や3人では守っていられなくなったのである。このように警察が力を失い出した矢先、安在鴻の放送があった(朝鮮の建国準備委員会が政治の実権を握ったかのように放送した)ので日本人に日頃恨みを抱く者や泥棒は、この時とばかり、目ぼしい日本人の家へ押しかけた。

泥棒はたいていピストルか刃物を持っているので、街々にはあちらでも、こちらでも、たまげるような悲鳴が起こった。「助けて!」と呼んでも呼んでも、誰も表へ出るものがなかった。日本人はもう互いに助け合わないと知ると、今度は3人、5人と組む集団強盗が横行した。

(中略)(米軍進駐後、筆者の勤める京城日報社は米軍の管理下に置かれることになった)米軍政府は間もなく朝鮮人李相哲を管理人に指名した。江原道で鉱山の仕事をしていた李にこうした任務を与えたのは、米軍政長官の側近にいる知り合いの旧宣教師が斡旋したからであると言われた。「あなた方は、運悪く、とんでもない悪党に、管理されることになりましたね」と李の甥にあたる、毎日申報幹部が私たちに同情した。

(中略)当時の米軍政庁は、英語さえできれば、どんな朝鮮人でも重用し、一々その言うことに従った。一般の朝鮮人はそれを「通訳政治」だといってあざ笑った。英語を話したり、米軍に好意を寄せるものは、たいてい極端な反日家である。これらの人々は、何事につけ、日本人を極悪非道の人間に印象づけようとし、朝鮮にある日本人の財産は全て搾取し略奪したものであると言い続けたのである。

(中略)李管理人は、1年前からの伝票を取り出して一々収支を調べさせ備え付けの写真機などの比較的値段の高いものはもちろん、1冊の書物、紙片1枚に至るまで猜疑の目を光らして点検した。足りないと思うものについては一々弁償を要求した。私ども社長、副社長に対する解散手当ても前年度の賞与も不当であるといって返還を迫った。日本人社員が引揚げ後、生活の道を得るまで、補助機関として設けた京日互助会の基金50万円も取上げてしまった。私はそれをよこせという要求を受けたとき、「それは、互助会のものである。君は互助会までも管理しに来ているのではない」と拒んだが、私の留守に米兵を連れてきて金庫を開けさせ、それをどこかへ持って行ってしまった。当時の50万円といえば、300倍に計算しても今の1億5千万円である。

李は、彼が雇い入れた朝鮮人たちを使って、「日本人の幹部連は隠していた50万円を、それぞれ山分けしてふところに入れた」と宣伝させた。どの団体も、どの会社も多かれ少なかれこれに似た災難にあったのである。中には帳尻が不明だというだけの理由で投獄されるものさえあった。自宅の畳の下や、便所の上に2、3万円の金を隠していたということで拘引される者もあった。

本社の地方部長なども北緯38度線以北から南下する支局員たちの給料や解散手当てを預かっていたのをみんな取上げられてしまった。猜疑心の深い李は刑事を使ってまで私たちを脅迫した。20代のその刑事は「きょうは、留置場入りの用意をして来るように」と家へ電話したこともあった。

(中略)ここでは京城日報だけを挙げたがこれは、ひとり、京城日報だけのことではない。30年、40年、親子2代、3代にわたって営々と築いた血と汗の結晶も、およそ目ぼしい日本人の財産はことごとく強奪されたのだ。後で記すように、託送荷物までもことごとく取上げてしまったのである。日本人の土地、日本人の家屋、全ての日本人の不動産は朝鮮人に直接売ることを禁じられた。それは、事実上その代金を朝鮮人から受け取ることを禁じたのである。

(中略)日本人の預金は全部凍結された。1家族1ヶ月千円払い戻されるだけになった。どんな財産を持っていた者もこの千円が、最後の命の綱となったのである。引揚げにはリュックサック1つしか許されない。なまじ家財らしい物を持っていると強盗に付け狙われるのである。むしろ、それを売って金に換えたほうが始末がいい…というので、思い出のこもった家具も什器もいっせいに街頭へ並べ出した。8月16日以来、日本人はみんな古道具屋さんになったのである。

朝鮮人たちはそれを二束三文に値切っている。中には、「いずれ遠からず、戻ってくるから… 」と、家も家具も什器も、全てを懇意な朝鮮人に預けて日本へ帰った人もあったが、大抵の日本人はもはや、リュックサック一つが唯一の財産になってしまった。それでも、2人、3人と組んだ強盗が宵の口を狙って、最後の金、最後のリュックサックまで持って行った。米軍の保護は、少しも日本人には及ばなかった。日本人がどんな被害を受けても、それを取り調べようともしない。言葉という不自由な障壁があるせいもあるが、どこまでも日鮮双方の争いに割り込みたくないという態度である。目の前で行なわれる暴力沙汰は一応抑えるが、「いま、強盗が入ったから… 」と、MP(米軍憲兵)の駐在所に訴えても、駈けつけてくれはしない。

知ってか知らずか、家を強奪しようとする朝鮮人に同行している米軍大尉もあった。U総務局長の建てたばかりの住宅を、タダで引き渡せといってきた朝鮮人があったが、米軍大尉は、その男の横に腰をかけて時々、英語で話しかけるその男の言葉に耳を傾けた。Uは、「どういうわけで、私があなたに私の家を提供しなければならないのか」となじると、「まあ、僕に見つかったのが災難と思って、あっさり渡すことですナ」と言って、また米軍大尉に耳打ちするのであった。

「日本人は、無警察の国というより、強盗国のまん中に、座っているようだね」と私たちは語り合った。1日1日、昼でも、街のひとり歩きが危ぶまれだした。〃倭奴、早く帰れ〃 という宣伝ビラがまかれてゆく。それには、「船便がなければ、泳いで玄海灘を渡れ」とも書いてある。「俺は、ここで骨を埋めるつもりで来たんだから、帰化してもここに残る」と固い決心をしていた人々も、「もはや、これまでだ」と言い出した。「親兄弟の墓を守りたい」と思っていた人々も、墓石をバラックの土台とし、その上で焼酎屋やヤキトリ屋を開いているのを見て、やはり、引揚げのリュックサックを買うことにした。

親たちや、夫や妻や、わが子わが兄弟の遺骨が土足に踏みにじられ、不浄なものさえかけられているのは、とても見るに忍びないのである。(中略)私は、毎日のようにバルコニーへ出て、引揚げ列車が無事に漢江の鉄橋を渡りきるのを見送った。やがて、私自身も暮れ近い鉄橋を、引揚げ列車で渡った… 引揚げ列車といっても貨車にむしろをひいたものである。隙間から研ぎ澄ました刃のような寒風が入るのである… 危険なのは、途中で汽車をすめることである。

停車すると、たちまち群衆が押し寄せて金をせびり、女を引きずり出そうとした。機関手や車掌が3万円、5万円というチップ要求し、誰もそれを出さぬと、「機関車が故障を起こした」といって山中や野原で、ガタンと車を停めたこともあった。(中略)引揚げ列車が出る竜山駅へ、くる日もくる日も、延々と長蛇の列が続いている。ひとり者のBのお婆さんが、竜山へ出かけたばかりなのにあわただしく帰って来て、ガラン洞の我が家で泣いていたこともあった。

訪ねてゆくと、「私はもう、国へ帰れない」と言って、身もだえしているのである。「婆さんしばらく、あんたも帰るんですか」となれなれしく近寄る若い男があるので、「ながながお世話さまで」と挨拶すると、「その荷物、私が担いで上げましょう」と親切気に取り上げて、その男は間もなく人ごみの中へ姿を消してしまったのであった。もしや元の家へ戻ってはいはせぬかと来てはみたが、「もう誰もいやしません」と、身寄りのないこのお婆さんはサメザメと泣き伏した。駅前で用を足している間に、最後の財産であるトランクを盗まれてしまった人もあった。

血まなこになって走り回ると、2、3町先の路傍でそれを開いて、セリ売りを始めている男がある。「それは僕のものだ」と言い寄ると、その男は「ナニッ!なんの証拠があって、そんな言い掛かりをつけるのか」とつかみ掛かるのであった。群集が、「なんだ、なんだ」と取り囲むと、打つ、殴る、蹴るの狼藉。――たちまち、顔も手も血と泥にまみれて動かなくなってしまった。

路傍では、ツギのあたったあわせや、赤子のオシメを指でつまみながら売っているのを見たこともある。「こんなものまで盗らなくてもよさそうなものだ」と思った。それと同時に、こんなものをせめてもの財産として大事に持って帰ろうとした人には、どんなに深刻な痛手であろうと思うと、とめ度もなく涙が溢れ出るのであった。
戦時中の朝鮮人強制連行の発掘作業は、人権問題として反日左翼・市民団体によって熱心に進められており、新聞・テレビなどで目にすることも多いが、日本人の悲劇は彼らの関心の対象外のようだ。


ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻 から引用
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敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 ②

「生きて祖国へ5 死の三十八度線」 引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会発行
(日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行することになった。)私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。

(中略)夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった… 全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、トラックは始動をしはじめた。あのエンジンの音の嬉しさと恐ろしさとは忘れることができない。途中、第1のソ連兵の関門を通った時、停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。銃の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した… 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。

牛車代はもちろん多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる… いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、牛車から下ろした荷のうち、病人や老人の荷は、強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。もうこのころには、醵出(きょしゅつ)する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。

もっと出せ出せ!!」と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の開城府のテント村であった。この脱出コースは、関所があり、検査所があり、牛車やチゲによって金銭や持ち物を日本人から取上げてしまおうという、最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。このようにして、病死を除いた引揚者は、命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。 (常松泰秀)


「平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦12」 平成14年 平和祈念事業特別基金発行
私の三十八度線突破記録  梶山緑
(筆者の家族は朝鮮北部の咸境南道元山市郊外にある文坪という町に住んでいた。)8月15日(終戦日)を境にして、それこそ天地がひっくり返ったようになり、いく先の運命は段々と暗くなっていった… 文坪の町も日に日に治安が悪くなっていた。しばらく鳴りを潜めていた朝鮮過激分子の跳梁が始まってきた。

元山でも朝鮮人が暴徒と化して、日本人経営の店や住宅にまで押しかけて暴行、略奪を始めたという噂が入ってきた。私たち文坪在住の日本人も、このままでは危ない、何か対策をたてないとということで相談を始めたところに、朝鮮保安隊(朝鮮人による警備隊)から指示があった。その内容は、「日本人は町中の一ヵ所に集め、集団生活をさせることとなった。

2世帯か3世帯が一緒になって同居のような形になる」というような内容だった。態度を豹変させた保安隊員は、指示により他に移り住む人々を、まるで囚人を追い立てるかのように家から追い立てていた。まだ移転する準備もできずに家財道具も整理していないのに、小銃などで追い出していた。私の家も追い立てられて、よその人の家に同居することになった。そのうちに、ソ連軍が進駐してきた。

ソ連兵は保安隊員の先導で日本人の住宅地区にやってきて、家中を物色しありとあらゆる家財道具を略奪し始めた。その内のめぼしい物がなくなってくると今度は、「女!女!」と言って若い女性を連れ出すようになってきた。私たち若い女性は、頭髪をぷっつり切り落とし丸坊主になり、貧しい男の子のように薄汚れた服を着るようにした。ソ連兵や保安隊員が来ると、いち早く床下に隠れたり、前もって準備して掘った穴に身を潜めた。時には敗戦後も親しく付き合っていた近所の現地民の家にかくまってもらったりもして難を逃れていた。

こんなに恐ろしいことになったのも、それまでは日本の警察官補助者として忠実に治安維持の仕事に就いていたのに、日本の敗戦と共に治安維持体制が根本から崩壊し、指導者であった多くの警察署長や上級の警察官が、自らの手で自らの命を絶つような行動をとり、最後まで残った日本人を保護するという体制がなくなり、警察官補助者であった者が保安隊員となって報復心しか持っていなかったことが原因ではなかったかと思う。

命を削り取られるような不安におののく毎日であった。男の子のような姿になっていても、顔見知りの保安隊員に見つかるとすぐにソ連兵に密告され、ソ連兵の先導として襲ってきた。保安隊員は、あたかも手柄をたてたような顔をしていた。ソ連軍の将校クラブができて、そこにも日本女性が数人ずつ毎日のように連行されていった。私の住んでいた集団住宅にも度々、ソ連兵が銃を片手に構えて略奪にやってきたが、私は幸いに発見されなかった。

(中略)そのうち満州におけるソ連軍の不法侵入によって終戦前から避難行を開始していた開拓団員などの人々が、乞食同然の身なりで鴨緑江をなんとか渡って、ここ文坪にもやってきた。十数日間、食べるものも食べられず、わずかな荷物を持って逃げてきたので衰弱がひどく、寒さよけにタオルを首に巻いていたが、そのタオルが重いと言っていた。

しかし文坪でもそれらの人々を暖かく迎えることはできなかった。かわいそうだという気持ちだけで、食べ物も満足には渡されなかった。このときの惨めな思いはそれから当分頭から離れることがなかった。秋がやってくると、この北朝鮮は寒さが身にこたえてくる。こうなると無謀な脱出はできなくなるので、時期が来るまでここで避難生活を続けて越冬をすることとなった。

しかし治安は相変わらずで、保安隊員とソ連兵の行動に一喜一憂していた。あるときは、保安隊員がやってきて、「日本人は全員帰国することが許されたので、本日の午後3時までに、駅前広場に身の回りの最小限の荷物だけを持って集合せよ」と言って回った。突然の話でびっくりしたが、やっと日本に帰れるという喜びが先走りして、疑うこともなく一同小躍りして喜び、早速に荷造りを開始した… 両手には当座の食糧をこれまた持てるだけ持った。

準備ができて全員いそいそと駅前に向かった。あとのことは知人の朝鮮人に頼んでいた。もう帰国することだけが頭にあった。元山駅に向かって歩き出した… 数時間歩いただろうか、夜も更けていた。突然に保安隊員が走ってきて、行列を停止させて、「今夜の引揚げは都合により中止になった」と、いとも平然とした態度で言い放った。みんな放心したようになってその場にへたへたと座り込んだ。

しかしここで座り込んでいてはどうにもならないので、お互いに励まし合って、またもとの道をトボトボと引き返して家に戻った。戻ってみてびっくりした。家の中がひっくり返ったように荒らされていた。タンスの中に残してあった母の着物や、私の赤いチャンチャンコなどがどこにも見当たらなかった。実は、これは引揚げのために元山に向かうといって日本人を家から出して、その間に空き家になった家に入り込み、残っている物を略奪するための手段だった。

その上に今度は、住居まで替えられて棟割長屋に数所帯が押し込められてしまった。リュックサックに詰め込んだほんの身の回りの品だけが財産となった… 布団などは、前の家に取りに行くことは許されたが、残っているのは古い汚れた物ばかりだった。厳寒の冬になると、集団生活をしている者の中にも発疹チフスなどの伝染病が蔓延し、老人や赤ん坊などが次から次ぎと死んでいった… 薬もないし医者もいないので、そのうちに若い人たちも高熱を出して死んでいった。

不安は日に日につのるばかりだが、冬の間はここから脱出することもならず、なすすべもなくただ過ごすほか策はなかった。ソ連兵や保安隊員の傍若無人ぶりは、相変わらずであった。女性に対する暴行事件も後を絶えず、暴行を受けた人の中には自ら死を選んだ人も多かった… 死者が出ても葬式をだせるはずもない… なんとかしなければと有志の人たちが、保安隊の幹部に申し入れてやっと許可を得た… 深さ1.5メートル、幅2.5メートルぐらいの穴を掘り、そこに山から風倒木を運んできて薪をつくり、それを土の上に敷き並べて、さらにその上に遺体を数体ずつ置き、石油をかけて四方から火をつけて荼毘(だび)に付した。 

家族の者や作業をしていた人だけが手を合わせて野辺の送りをしたが、運命とはいえ、悲しく、かつわびしい有り様でした… 保安隊では、お骨を持って帰ることを許さなかった。噂話で聞くところによると、遺体が灰になった後、金歯などの貴金属を探して持っていったということだった。(中略)昭和21年の正月を収容所で迎えた。その頃になると満州の奥地から、また、鮮満国境地帯から元山を目指して避難してくる人が増えてきた。 

…相変わらず発疹チフスは猛威を振るっていて、やっとここまでたどり着いたが、ここで発病して死んでいく人も多かった。 …収容施設も超満員となった。これ以上の人が入ってきて、いつまでもこの状態でいたら全員共倒れとなってしまうだろうという話になり、ここから歩いて元山に向かって脱出しようという相談が始まった。 …やっと綿密周到な、「集団脱走計画」が完成した。決行日は、昭和21年4月3日の夜と決定された… 

北朝鮮からは今日に至るまで、日本人の正式な引揚げというものは全く、行なわれていない。命からがら38度線を越えて日本にたどり着いた人々は全員、それぞれその個人の労苦と努力によって38度線という関所を、ソ連兵や保安隊のすきをみて突破・脱出してきたのである。それに失敗した多くの同胞は、途中の鉄原辺りでソ連兵などに見つかり、銃殺されたり、または、国境近くの河を渡る寸前で捕まっておくり返されたりしてしまった。

いずれも暗夜に乗じて決行したが半分以上の人々が失敗してしまったらしい。元山から多額の金を払って船を雇い、集団で脱出しようとしたが、途中の38度線近くの江原道付近で、だまされて上陸させられたということもあったらしい。それこそ死を覚悟しての38度線突破以外に、南朝鮮にたどり着く方法はないということになった。私たちの脱出グループは70人ぐらいで、老若男女入り交じった集団だった。もうあまり残っていない身の回り品をリュックサックに詰めて当座の食糧も入れて背負った。

ソ連兵や保安隊員の目につかないように、あらかじめ集合場所として定めていた文坪西側の山中に、三々五々と集合した… 闇夜の中を異様な姿の列が、南に向かって進み出した。38度線突破行の第一歩がこうして始まった… 東海岸沿いの山中の間道を歩いた。夜は主に野宿をしたり、好意的な朝鮮人の家の庭先や、納屋に分散して泊めてもらったりした… 大きな集落を通ると、村人が出てきて通行料を要求された。

通行料は10円ぐらいだったと記憶している。そのほかに荷物検査料とか、何とか名目をつけては、2、30円は取られていた… 38度線近くになると、ソ連軍側の警戒も厳しくなってきたので、昼間は人目につかないようにして休息をとり、暗くなってから歩き出すようになった。4月とはいえ、北朝鮮はまだまだ真冬並みの気候だった。特に晴れ上がった夜半などは寒気が身にしみて、歩くことも容易ではなかった… 行列の前後左右を絶えず注意しながら行軍していたが、それでも保安隊員に発見されて荷物検査されたが、寄付金名目でお金を渡すと、黙って解放してくれた。 

…連日連夜の行軍に、老人や女、子供の中には疲労が蓄積されて歩くのも困難になった人が出てきた… ある女性は、2歳ぐらいの女の子の手を引き乳飲み子を抱きかかえ、荷物を背負って歩いていたが、とうとう体力の限界がきて、もうこれ以上歩けないからここに残ると言い出した。しばらくは周りの人が交代で助けていたが、ある部落にたどり着いた時に、とうとう2歳の女の子を朝鮮人の家に預けてしまった。それからはその女性は、魂の抜けたようになって、話もせずにただ列について歩いていた。みんなも、自分のこと、子供のことだけで精一杯の極限状態だったので、だれ一人としてこれを助けるということもしなかった。致し方ないことであった。

私は、最近テレビなどで、中国残留孤児の問題を見たり聞いたりするたびに、そのことを思い出して、あの女の子はあれからどうなったのだろうかと、胸を締め付けられるような思いをする。 …3歳になったばかりの妹は私が背負い、10歳の弟と一緒に歩いていた。父母と私は地下足袋を履き、弟と妹は足首のところから上を切り取ったゴム長靴を履いていた。歩いている人の中には、藁沓(わらぐつ)を履いていて底が擦り切れ、はだし同然になって、擦り傷をつくり血を流しながら歩く人もいたが、助ける手段もなかった。

…国境近くになると警戒が一段と厳重になって。保安隊員が組を作ってあちらこちらに立っていた。 …疲労が重なってくると、列がだんだんと伸びてくるので監視の目を逃れることが次第に難しくなってきた。保安隊員に感づかれて懐中電灯で照射された時は、背筋に氷が走るような気持ちになり、もうここで終りかと観念したが、相手は気付くこともなくそのまま立ち去り、ほっと安堵の胸をなで下ろした。38度線上の山々は、標高が400メートル前後で山肌はむき出しているような峻険な姿であった。この峻険な山を登ることは、普通ではとてもできない無理なことであった。

特に老人、女、子供の一団では考えられないことであったが、しかしこれを突破しなければ脱出できないと思うと、苦にはならなかった。1日でも半日でも早く南に行きたいという気持ちが体中に満ちていた。いよいよ明日は、38度線を突破するという日の夜に、全員が集められて細かい注意事項が示された。「夜明けの突破になるので声を絶対に立てないように。特に幼児は泣かさないように」と、厳しく申し渡された。そしてさらに、「 …最後は走るようになるから履物が脱げないように上から結びつけること。荷物はなるべく捨てること」などが達せられた。

荷物に未練がある者は、無事に脱出することはできないということだった。 …ただ、ただ日本に家族全員が無事に帰るという最終目標の達成だけが全てであった。これから先のことを考える余裕もなく、言われるままにした。どの人の顔をみても必死の形相で、それは凄まじいものがあった。夜半の12時に行動が開始された。やはり若くて元気な人が先頭に立ち、老人、女、子供が続き、最後を男の人が歩き落伍する人を監視、激励していた。深々として寒気が身にしみ込んできたが、極度の緊張のためかあまり寒さを感じなかった。

ただ、サクサクと踏みつぶしていく霜柱の音だけが、耳に響いていたことを覚えている。息を殺して歩いていたが、38度線の山の頂上にはなかなか出ない。歩きながらだんだんと焦燥感が襲ってきた… そんな時に、牛を連れた家畜商人らしい者に出会った。世話人が案内料を払って国境までの案内を頼んだ。みんなは、ほっとしてちょっと気持ちが落ち着き足に力が出てきた。無言の行進が続いた。しばらく歩いている時に、家畜商人が「あの丘の向こうが38度線だ」と、指差した。勇気百倍し渾身の力をふるってまた歩いた。しかし、歩けども歩けども国境線らしきところには着かない。はじめてだまされたことに気付いた。

みんなはそれを知って、一遍に疲れが出てその場にへたへたと腰をおろしてしまった。今までの張り詰めていた気持ちが一度に消えて、動く気力もなくなっていた。その夜は特に寒さが厳しかった。腰をおろしている間にも霜が降りてきて、髪の毛までざくざくになったと母が話していた。世話人の話し合いがあり、「このまま、ここにいても凍死するばかりだから、一か八か前進しよう」ということになり、みんなは気持ちを持ち直して出発することとなった。…夜はもうとっくに明けて、太陽が上がってきた。

 …しばらく歩いていると、急に目の前が開かれたように明るくなった。山頂に出たのだ。見下ろすと川が見えた。みんなは急に元気が出て山を下った。紛れもなく三十八度線を流れている川であった。一同は、なんの抵抗もなく急いで渡った。弟が一番先に渡り、向こう岸から母に向かって、「お母さん!早く、早く、こっちにおいでよ」と叫んでいた。疲れきって歩くことも難儀になって列の後ろの方で、父に助けられながらなんとかここまでたどり着いた母は、力なくてを振って、熱のまだある体で川を渡り、弟と抱き合った。岸には鉄条網が張り巡らされていたが、みんなはその隙間から入り込んで、草むらにひっくり返ってしまった。

本当に命懸けの渡河だった。無我夢中とはこんなことをいうのだろうと、後になって思った。蓄積していた疲労が一度に吹き出し、体が全然動かなくなった。どのくらいそんな状態でいたのか思い出せないが、それこそ虚脱状態だったのだろう。自動車の音で、みんな我に帰って立ちあがった。よく見ると赤十字のマークのついた車だった。最初は半信半疑だったが、だんだんと近づいてくるのを見て間違いないことを知りほっとした。すると自然に涙が流れてきた。あとからあとから、ぬぐってもぬぐっても流れ出てきた。とうとう38度線を越え、北朝鮮から脱出できたのだった。アメリカ軍の看護婦さんが車から降りてきて、病人らしき人々を見て回っていた。

そのうちにアメリカ軍のトラックがきて、病人や子供を乗せていった。母も弟も乗せてくれた。私はなんとなくほっとした気持ちになった。(その後、筆者は2、3日収容所で過ごした後、京城から列車で釜山へ行き帰還船に乗って無事に故郷へ帰った。)戦争は、本当に怖く悲しいものである。アルバム一つ残せなかった私たちですが、しかし、家族が一人も命を落とさなかったことが唯一最大の救いでした。帰国が果たせなかった多くの人が、異郷の地で死んでいったその怨念を忘れてはならない。謹んで哀悼の意を表したいと思う。

北朝鮮に対し植民地支配の謝罪と賠償をしなければならない、という論調のマスコミがあるが、一方的な謝罪と賠償などもってのほかである。


ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻 から引用
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敗戦による朝鮮半島引揚げの惨事 ①

共産主義国家の蛮行は左翼マスコミに無視されてきた。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房

惨憺たる北鮮引揚げ日本の連合国への降伏により、日本軍は38度線を境に、南鮮はアメリカ軍、北鮮はソ連軍へ降伏するように指令された。南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにほとんどすべて引揚げたが、北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27~8万と、満州から戦火をさけて逃げてきた4万人である。北鮮にはいってきたソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。反抗したもの、暴行を阻止しようとしたものは容赦なく射殺された。「各地の凄惨な記録は読むにたえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者森田芳夫氏は書いている。

それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれたことであり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はまぬかれない。たとえば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。

…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等を剥奪され、零細なる金銭と着衣のみにて咸興市内に殺到したるも…われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し、立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたことを告白せざるを得ない。

…駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣を擬して、即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度の困憊(こんぱい)と栄養不良を激成し、…富坪避難民の宿舎は実にのろわれたる存在である。

それは実に煤煙と、あまりの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐため戸窓はたらず、かますで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、蒼白な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることもできず、ぶるぶるふるい、子供たちは伏して泣す。無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており、暗黒の中にむせびつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)

一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をふさいで死にいたらしめるまでして、人々は南にたどりついたのである。38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞争闘の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにいろどられた『天国と地獄の境』となったのである。


「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑
三十八度線        木下宗一

満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は平壌でストップさせた。やがて、38度線は朝鮮を南北にまっ二つに分断した。北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。(中略)北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。列をなした乞食の群れである。ぞうりを履いている者はほとんどいない。女も子供も皆ハダシである。山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、その傷にはウジがわいている人もいた… 

平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに膨れ上がっていく。中には一椀のカユをふるまわれ優しい言葉で迎えられると、悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、「畜生、ロスケのやつ」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。

負けた者の宿命に、悲しいあきらめを残して、これらハダシ部隊の大部分はぞうりを恵まれてたって行く。1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら――乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。1日ひとり1合の米が心細くなって、1日2食のカユになった。子供たちは腹をすかして母親を困らせた。

ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、肉入りの味噌汁が大なべで作られていた。そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやってきた。遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。そんな時に、このやろう! とでも言おうものなら、後の仕返しがそれこそ大変である。朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。あまりの雑言にきっと目をすえると、「これでも食え!」と言いざま、足もとの土砂をすくって パッと味噌汁の鍋にたたきこんで逃げていった。久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、この光景に、窓の表情はたちまち青ざめた憤りに変わった。

今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。これらは軍需品だから没収するというのである。これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。避難の人々は、最後の1枚を没収されないためにチエを絞り出した。明日もまた現れるであろう没収団のため、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。「今度は一切の所持金を提出しなければならない。もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが後で分った場合は銃殺される。

では、本日ただちに提出するように」有無を言わせない強制処置である。今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。

その夜――カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。その朝も、恐怖のマトである命令が来た。1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。「命令――」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。

残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。この雨中の別れが、長い長い別れとなった。この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、遠くシベリア送りとなったのである。

ぢぢ様玉稿集 大日本史 番外編 朝鮮の巻 から引用
http://mirror.jijisama.org/

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