汚名への反論 No8 聖娼の住む街 

聖娼の住む街 
山西省の朝鮮人娼婦 戦場の美「慰安婦」に敬礼
  元造(つくる)兵団陸軍中尉 冨田茂男(福島県 80歳)
  昭和史研究所會報 第57号 平成14年1月10日号

◆第一話 運城の夜は更けて
 昭和十九年六月発動された西北河南作戦は、中国山西省から、黄河を越えての進撃であったが、霊宝県草廟で右膝関節部に砲弾破片創、右足脹脛部に貫通銃創を受けた私は、陝(せん)県の野戦病院で応急手当を受けた後、再び黄河を渡って、山西省運城陸軍病院に後送された。負傷者を満載したトラックは走り通しで、夜明けに運城に入った。トラックの荷台の上から重厚で大きな軒々が見えて、それだけで大きな街であると感じられた。長い間見た事のない電灯の光がまぶしく、甲斐々々しく働く日赤看護婦達は、これ又何年かぶりで見る大和撫子で、天女のように優しく美しい。裸にされて身体を拭いて貰うにも、二ヵ月近くも風呂に入っていないので、垢だらけで恥ずかしい限りである。
 運城の陸軍病院は清潔で大きくて広い。温堂で負傷した若菜君も先客で来ていた。毛シラミがひどいので、亜鉛軟膏とやらをもらい、足をあげての一番風呂と洒落れたが、死んだ毛シラミがうようよと浮いたので、後から入った者はさぞや迷惑だったろう。
松葉杖での歩行は困難ではあったが、痛みは大した事はなく、若菜君とは別室だったが、将校病室は先任が軍医大尉で、後は中尉二人と同階級が二人という暢気なもので、美しい看護婦がしょっちゅう来てくれるし、戦野の疲れも一挙に脱けたようである。まさに天国と地獄の相違である。たゞ最初についてくれた看護婦が、いつの間にか代わってしまったのが残念であった。
 ところがよくしたもので、早速、朝鮮の所謂慰安婦達が三人連れで、毎日のように見舞いに来るようになり、二十歳そこそこの彼女達に、故郷の娘達の面影が重なったりもした。メンバーは変わる事もあったが、光ちゃんという娘が、童顔の抜けきらない、あどけない顔をしていて、私の一番のお気に入りだったが、この子だけは毎日来てくれて、帰るまで私の枕元で団扇で風を送ってくれる。運城の夏はじっとしていても汗ばむように蒸し暑い。PRも兼ねたサービスであろうが、温かな心も感じられるのである。ニカ月足らずで入院下番となった夜、女達に聞いていた偕行社に行って、これ又何年かぶりのビールの酔いは早かった。
 今考えると、街灯も乏しい暗闇の運城の街で、何とか偕行社の場所が判ったのが不思議である。八月だから運城は夜も暑い。それでも火照った頬に夜風は気持ちよく、ぶらぶらと兵姑宿舎に戻ろうとした道すがら、路傍でなにやら言い合っている、二つの黒い影が見えたので立ち止まった。あまり歯切れがよいとはいえないが、「朝鮮ピー、朝鮮ピーと馬鹿にしないでよっ、天皇陛下、同しじゃないか」という台詞が聞こえ、「貴様!」の怒声と共に、突然飛び出してきた黒い影が、私に纒わりついた。
 「助けて」と黒い影が小さく叫んだと同時に大男が現れて、私に眼もくれず、「こっちに来い」と女に手をのばしてきた。酒の臭いがむんむんとする。反射的に私の手は男の横面に飛んだ。ビールの酔いと、河南作戦で、初めて修羅場をくゞり抜けてきた気負いが、そうさせたのであろう。
 一瞬、男はよろめいたが、直ぐ立ち直って「貴様! 何者だ! 俺は憲兵だぞ」とわめいた。「憲兵なら女を追いまわしてもよいのか。俺は東野部隊の冨田少尉だ」と怒鳴りかえす。病院でも東野部隊の名前は、河南作戦の活動で有名だったので、かなりの威嚇を期待したのだ。「トミタソウエ?」と女は私を見上げる。(朝鮮半島の人たちは、日本語の濁音と、ヨウ音が苦手らしく、少尉がソウエと聞こえる)星明かりで見れば、何とその女は、毎日病院に来てくれていた光子ではないか。
「どうしたんだ」と問いかける暇もなく、男は無言で拳銃を突きつけてきた。軍装はしていないし、まさか、撃ちはしまいとは思ったが、軍刀の柄に手をやる。だが相手は酔っているし、軍刀を抜けば発射されそうなので、抜くにも抜けない。
 折角作戦で生き残ってきたのにと、じりじりと後退した途端、ハタハタと入り乱れた靴音がして、銃を手にした二、三の兵が駆け寄ってくる。「六十九師団の巡察将校だ。何をしておる」と、咎める声も聞こえてきた。男は忽ち身をひるがえして暗闇の中に消え去った。私は思わず敬礼したが、馬上の巡察将校は、何と保定幹部候補生隊で、隣の寝台だった浅井少尉(長野県出身)だったのには吃驚した。彼は勤務中なので、一献酌み交わす事も出来無かったし、彼がその後どうなったか知るよしもない。それっきりで永遠の別れになってしまうのだから、誠に侈いものである。今思うに、教育した初年兵は別として、戦友の出身地の詳しい住所など、誰しもが書き留めておこうともしなかったのは不思議に思えてならない。皆んな生還など考えていなかったのであろうか。
 逢うは別れの運命とかいわれるが、この小編に登場する戦友達を初め、在任中何らかの接点があった数多い戦友達、更に私か教官として接した初年兵達、戦場に於ける出会いというものは、何時も奇遇であり、戦友会等の組織にでも入っておれば兎も角、すべて逢った時が別れで、その後は永遠に巡り会えないという事は、何と儚(はかな)く淋しい事であろうか。我々が黄泉とかに行った時、そのような儚(はかな)い別れをした人達に、時空を超えた霊力と霊感で、是非再会したいものと思っておる次第である。
 翌朝、原隊復帰のため運城駅に行ったが、大豪雨のため橋が落ちて、臨扮(りんぶん)付近で列車は不通との事、天の助けかと嬉しくなって、その足で病院に向かった。今日、病院で、演芸大会が開かれるのを知っていたからである。軍隊という所は、いろんな経歴を待った人の集合体なので、歌や踊りがずば抜けて上手い人が居るもので、それが楽しみだったし、或いは、光子達も来ているかも知れないとの期待もあった。会場は既にいっぱいで、最後尾で立ち見するほかはない。

 あの花、この花、咲いては散りゆ
 泣いても止めても、悲しく散りゆ
 散らずにおくれよ、可愛い野花よ
 わたしは、あてない、旅ゆく乙女

 曲名は戦後に知ったのだが、西条八十の作詞になる名曲を、何回か私の病室にも来た事のある、礼子と呼ばれていたスタイルのよい長身の女が、すばらしい歌声を披露してくれたのには吃驚した。それは彼女達の現実を象徴しているようでもあり、身につまされるものがあった。
 何時のまにか、昨夜の光子が傍に来ており、「トミタソウエ、夕べはアリカト」と。昨夜のいきさつを尋ねても、しょうもないが、憲兵などと詐称した酔漢に絡まれたらしい。
「お前、ジュン県に来ないか」「ジュン県て何処?・」「ジュン県て太原の北の方だ」「行きたい。連れて行って」といわれても、彼女達から、お父さんと呼ばれる鮮人のジヤングイ(娼家の経営者)に、多額の金で交渉しなければならないだろうし、一少尉の身分でそんな事が出来る筈は無いし、金など勿論持ってる訳はない。
 そのまま、何も言う事も出来ず、さりげなく、黙って別れるしかなかったが、純情だった彼女達が、今、何処でどうしておるのやら、まさか、慰安婦訴訟などには参加しては居まいと思うが、何日までも思い出に残る、戦場の女達である。
 今もなお、搦々として哀切を帯びた歌声が、聞こえてくるような気がしてならない。

 あの雲、この雲、日暮れにや帰る
 静かな谷間へ、楽しい我が家に
 いつの日帰ろう、恋しい故郷
 わたしは惨い、さすらい乙女よ。

 彼女たちは普通、総称的に朝鮮ピーと呼ばれ、(日本人娼婦も同じく日本ピーであり、中国人のそれはチャンピーで、私娼である中国人は小盗ピーと呼ばれた)従軍慰安婦などという言葉はその頃は無かったし、軍の庇護を受けていたのは事実だが、すべて鮮人が経営する娼家の娼婦だったのである。ピーとは中国語で、女性の陰部を意味する詞なそうだが、強制連行などという、暗い陰影は微塵にも感じられなかったし、勿論、監視などある筈もなく、彼女達は運命を甘受し、明るく朗らかに、而も逞しく生きておって、兵隊に数倍する報酬を得て、実家に仕送りなどもしておったらしい。

◆第二話 さらば!! 山西
 慰安婦達との私の関わり合いは、これだけでは終らなかった。昭和二十年に入ると戦局はますます悪化し、それに伴って、比較的安泰であった中国戦線も、部隊の移動がしきりとなり、私も今までの中隊を離れて、大隊本部付きとなったのである。本部付きとなると、第一戦で戦うことは少なくなるが、事務的雑用が増えるのである。ジュン県にも時々出張しなければならない。ジュン県は、兵団司令部の所在する大きな街である。そのおかげで、ジュン県から大隊の警備地に、出張サービスすることになった慰安婦達の、道案内兼護衛引率をすることになったのである。一行五人の慰安婦達のお供である。
北同蒲線(きたどぅほ)の原平(げんぺい)から列車に乗る。
列車は殆どが中国人であるが、この時は大分空いて居って、伝令と私か向き合って座ると、早苗と呼ばれていた一番若い子が、私の隣りに座った。隣の席も四人の彼女達が占領した。
 この列車行では対照的に、戦後日本に進駐してきた、米軍のことが思い出される。殺人的な満員電車に乗らねばならぬ日本人を尻目にかけて、特別仕立ての、今で言うグリーン車の、而も四、五人ぐらいしか乗ってない専用列車に、ふんぞり返っていた彼等の姿である。
 現在、日本軍の事となると、すべてを悪し様にいう人が居るが、当時の中国に於ける日本車は、部隊の移動は貨車であり、単独の時は勿論中国人と同じ一般車で、満員の時は将校は立っておるのが当たり前で、何の違和感も感じなかったのである。
 それは兎も角、この時は割と空席があったが、彼女達は何の屈託もなく、列車の旅を楽しんで居るように見受けられた。なにやら判らない朝鮮語でお喋りしているので、悪口を言われているのかも知れない。そのお喋りも長道中に飽きてきたのか、小声で合唱を始めた。

 厭なお方が来る時にや
   三日前から頭痛い
 好きなお方が来る時は
   十星先から靴の音よ
 私のスーチャン知ってるかい
   粋な陸軍少尉殿
 今日も昨日も弾丸の中
   討伐作戦で苦労なさる

 恐らく、洒落気のある日本の兵隊の誰かが作った、戯れ歌なのだろうが、軍隊で粋なと言えば、上等兵か中尉に決まってるのだが、私へのご愛想だったのだろう。内地なら、早速アイスクリームなど買ってあげる所だが、残念ながら、中国では駅も車中にも売店はない。なお、いろんな兵隊ソングも歌ったし、本場の「アリランの歌」も教えてくれた。
 その後、彼女らは大隊本部のある五台を足がかりとして、何日かずつ、分散警備に就いている四ヵ中隊の拠点を慰問して廻ったのである。勿論警護付きである。八路に捕まれば、日本人は勿論のこと、韓国人とて拉致されるか、虐殺されるしかないのである。それでも商売熱心というのか、使命感に燃えてるというのか、山間僻地であっても嫌がる様子はなかった。ジュン県に帰るときも又私か引率したが、この時は列車が満員で、バラバラに乗る外無かったので、余り印象に残ることはなかった。
 昭和二十年の六月、私は本土決戦の中隊長要貝として、造部隊を離れることになった。ジュン県での送別会の夜、彼女達も和服を着て歓待してくれた。涙を流して別れを惜しんでくれたのが思い出される。
 「聖娼」と題する著書があり、「聖娼」とはバビロニアなど、古代社会に実在した女性で、神殿にいて、そこに詣でる男性と交わった、「聖」と「性」を具現した女性なのだそうである。父権的な価値を中心に置いた社会に移行するに従って消滅する。ユング派の分析家である著者、ナンシー・クォールズーコルベットは、聖娼を無意識の中にある元型と位置づけ、現代人の実際の夢を分析しながら、聖娼が現代においてもつ意味を考察する。そのイメージを豊かに感じる事は、現代人が生命力を取り戻す事だという。同時に強固な父権社会で女性性を回復する事だ、と説いているが、私にとっては、彼
女達こそ聖娼だったに違いないと思えるのである。
 この結語として、戦記作家、伊藤桂一先生の著書、『草の海』に述べておられる文言を引用させていただく。
 【戦場慰安婦とは何だろう。私自身の考えで言えば、日本の帝国陸軍大敗戦のなかに、戦場慰安婦の交じった部分だけが、戦争のなかの「美」であったような気がする。香り高く、価値多き慰安婦たちに対し、私は、衷心から敬礼せざるを得ないのである】とー。

 山西去りて 行く身には
 何んの来練は 無いけれど
 ジュン県城の灯り 何日までも
 吾が思いでの 虹となる

 城壁はるか 霞みゆき
 消えて儚(はかな)い 小夜嵐
 見果てぬ夢と あきらめて
 涙で送る 支那娘

 列車の窓に 流れゆく
 夕暮れ迫る 大行(たいこう山脈)の
 紅染めし 山河が
 燃える瞳に 消え沈む

 さらば峠県よ また来るまでは
 暫し別れの 涙がにじむ
 恋し山西の 山々見れば
 空の彼方に 北斗星
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汚名への反論 No6 .7 歴戦の元将校{慰安婦問題を語る

歴戦の元将校 慰安婦問題を語る (上)
軍隊と性の機微を思うべし
   元菊兵団・歩兵大尉 井上咸 (川崎市 86歳)
    (平成四年二月十五日講述)
  昭和史研究所會報 第53号 平成13年9月10日号

 戦争中の日本軍の慰安婦・慰安所の問題で、最近韓国側から非常に激しい、しかも執拗な攻撃を加えて来ております。これに対する日本側の対応は、非常にあいまいで、しかも消極的ですね。先方の全く言い放題という状況で問題が推移している様です。そして日本内部におきましても自虐的な読物、情報が氾濫をいたしまして、これに乗せられたかのように一般のマスコミが踊り、何がどう悪かったのかという問題が凍結したまま問題が感情的にエスカレートしていくというような状況のようです。今までのいろんな事、情報を総合してみますと大体、次の様になっているんじゃないかと思います。非常に極端な事ですけれども、先ず戦争中日本、あるいは日本軍は契約的にあるいは組織的に朝鮮人の若い女を一般人と全く見さかいなく突然襲ってつかまえ、戦地に送った。強制連行していった。そして日本軍の兵隊の性の慰みものにしたんだという、全く天人共に許されざる非人道的扱いをやったではないかと。そうしてそれが戦後になっても国として謝罪らしい謝罪もなければ、一銭の補償もしない。簡単にいうとそういう事が中心の様です。

◆この儘では汚点を残す
 もし彼らの言う通りがそのまま通っていきますと、戦争中の実態を知らない日本と韓国の両方の若い世代が、これを信じ、韓国側はいよいよ日本に対する憎悪の念がわきたつでしょうし、又日本側の若い連中も、何と日本の国はひどい国であったか、又軍隊はひどい事をしてくれたんだという気持ちになりますし、恥づかしい汚点が歴史上に定着してしまうんですね。その事が私は非常に当時の当事者の一人として、恥づかしく、申し訳なくて、いてもたってもおられないような状況で最近の新聞を見ている訳です。
 まだまだ実際に戦争を体験して何かの形で慰安所問題を知っている人間が、数は減ってきていますが、各所におるわけですね。特に我々のような一市民ではなく、その発言に責任と影響力を持っているような国会議員などが、民族の恥になるような問題に対してどうして沈黙を守っているのか、私は腹ただしく思うわけです。こういう問題を語る事は、非常に面倒な側面があり、又自分の恥もさらす事になりかねないので、おそらく皆黙っているのだと思いますけれども、そういう事に僕はいてもたってもおられないような腹だたしさを感じる訳です。そこで私のような非常に声の小さい者ではありますけれども、自分の体験した中の事実関係だけでも伝えて、何かの参考にしていただきたいと思ってこういうテープを吹きこんでおるわけです。

◆満支から南方まで転戦
 そこで、こういう問題については自分自身も恥づかしい面がでてくるので、一般的には匿名にするようですけれども、それでは腰が引けて迫力もなく、卑怯な事と思いますので、簡単ではありますけれど私のだいたいの経歴と立場というものを申し上げたいと思います。 私は、大正四年、朝鮮の京城、現在のソウルで生まれました。私の父が日韓併合当時、伊藤博文たちと共に朝鮮にわたった役人の端くれで、それで朝鮮の各地を点々といたしまして、従って私の兄弟すべて、かの地で生まれて育っております。私自身も二十三で学校を出るまで朝鮮におり、学校もすべて朝鮮ですごしております。昭和十三年に学校を出るとすぐ、確か二十三の時だと思いますが、現役の兵隊として軍隊に入りました。そしてただちに北満の東部国境付近におりました部隊で、初年兵の教育を受けまして、以後幹部候補生に採用され奉天の予備士官学校を出まして、ただちに当時南支派遣軍といっておりましたが、南方の広州辺りに集結しておりました歴戦の部隊に配属になりました。その付近で局地的な作戦あるいは福建省における福州作戦、あの付近の地域におりましたけれども、大東亜戦争が始まると同時にマレー半島に上陸し、それを縦断して、シンガポールの総攻撃に参加いたしました。その後ビルマに行き、終戦までそこにおりまして、終戦を迎えて約一年間の抑留生活をして、日本に帰って参りました。私は歩兵でありましたので常に第一線の戦闘部隊におりました。最初の頃は、小隊長、中隊長、それから情報関係、それから宣撫関係、ある時期におきましては大隊副官として、実際に慰安所の面倒を見たという時期がございます。それから地域的には最初は満洲、それから南支那それから福州関係ですね。それから大東亜戦争後はマレー、シンガポール、ビルマと各地を転々としながら第一線及び後方の状況もある程度知っております。その他途中で戦傷と病気の為に、ある時期には、野戦病院から兵姑病院、陸軍病院と転々といたしました。

◆軍隊国民が一体だった
 その場合にいわゆる戦地における後方基地、大きな町ですね、例えばラングーン、シンガポール、バンコックだとか、サイゴンだとか、そういった町の状況や慰安所の問題も若干は見聞しておりますので、多少の知識は持っておるつもりであります。こういう人間ですからこの慰安所の問題についても若干のことを語っても必ずしも不適当な人間ではなかろうかと思っております。むしろその状況を知っている我々が、早く実態だけでも伝えておくことが一つの責任ではないか、とさえ思っている訳であります。
 前置きはこの位にして話を進めます。慰安所の問題を論ずる場合に先づ注意を要することは、当時とは非常に状況のかわった現在の時点を元にして判断することはまちがいだと思うわけです。戦争に負けた日本ですけれども、だいたい戦争だとか喧嘩だというものは双方に言い分かあるのですが、一旦負けてしまえば、負けた方が何もかも悪いと、全部罪をかぶって悪者になるんですね。敗戦後の日本で、国の悪口、軍隊の悪い所を話し立てれば、飯の種になった。けれども当時はそういうものではなかった。当時は男の子で健全な心身の持ち主であれば必ず、兵役の義務を果たしたわけで、兵隊になった者は一家の名誉、男子の本懐ということで一旦緩急あった場合には一身を捧げて国の為に戦った訳です。
 そういう者に対しては国民が感謝と尊敬の念でしっかりと銃後で支えていた。そういう一体感があった。戦後は徴兵を忌避したことを自慢話に語るいわゆる文化人らしい者がいる わけですけれども、当時としてはとんでもない事だった。
 今丁度二月ですが、二月で思い起こすことは、二月十五日というのはシンガポールが陥落した日なのです。当時、私はシンガポール攻撃軍の最前線におりまして、その日はいよいよ最後の夜襲をやるということで準備していた。私の中隊は、マレー半島に上陸した時は、だいたい二百名前後の者かおりましたが、二月十五日には将校は全部やられ、私が一人残っており、兵隊が四十名程度おりました。その連中はいよいよ今夜は最後の突撃をするんだといってかまえておりました時に幸いなるかな、向こうの方で手を上げた。陥落した。その時の夜の事を思いますと午後から皆、飛び出て、お互い抱きあって涙を流した事を覚えております。後で知ったのですが、内地では、全国津々浦々提灯行列をして陥落を祝ってくれたそうです。そういった時代なのです。軍隊に対する国民感情には、現代とは全く違ったバックグランドがあったんですね。

◆昔売春業は公認だった
 次に、慰安所の問題ですけれども、戦前は好ましいことではないけれども、遊廓という形で売春業が法的に認められた商売だった。これは非常に暗い面を持っていますけれど、それなりに社会的に一つの役割を果たしておった訳です。一般の者はもちろん、軍隊も日曜日あたりは、皆それを利用していた。そういう時代なのです。各国でも何かの形で売春は残っておりますが、当時は日本では法的に認められた商売であったわけです。そういう事が今では忘れられているのではないか。韓国からの訴えをきいておりますと何か、韓国とか朝鮮とかいった外国の人を日本人がひどい目に合わせたというように聞こえますが、当時、朝鮮人はいろいろ問題はあってもれっきとした日本国籍を有する日本人であったと。それは台湾入もそうですけれども、それが今では何か全く異った外国人を日本人が虐待したという感覚で受けとられるような言い方をしておりますね。当時はあくまでも日本人の中の問題でありまして決して外国人との問題ではない訳ですね。植民地ですから、植民地の人間と本国との人間の間に何かしらの差別があったというのは、厳然たる事実でありますけれども、世界全体を見ても植民地と本国が完全な融和をするまでには大変な経緯や、軋轢、それから長い年月を要するものでありまして、日本の場合の三十五、六年間の朝鮮統治が起こした差別問題については一括してすでに戦後行なわれた日韓の基本条約その他で一応のケリはついているわけです。個別の問題として、いま慰安婦の問題が上ってくるということに、別な意味が感じられるわけです。

 だいたい以上のような事を頭におきながら進めてまいります。最初申し上げましたように最初は韓国から韓国人の慰安婦は日本の為にひどい目に合ったということから問題を発したのですけれども、だんだん問題が拡散していくうちに、何か日本全体の空気をみておりますと、軍隊の慰安所を使ったもの、慰安所そのものがおかした問題だとなりまして、その中で朝鮮人の慰安婦が虐待をされていった、しかもそれは国、あるいは軍隊が直接関与したことが悪いんだと、決して偶発的な、個別の問題ではない、軍の関与そのものが問題であるという話になってきておるようです。この軍隊と慰安所の問題をつきつめていきますと、結局は、戦争と性の問題という大きなテーマにぶつかるわけです。

◆性欲処理は人間の機微
 ご存じのように歴史は見方によっては、戦争の歴史でもあるわけです。戦争といいますと、必ずイメージとして、略奪、暴行がついているわけですね。戦争とそれに関わる人間の性欲の問題は非常に人間的な、暗いけれども人間的な重大テーマです。私が実際に戦争に行ってからの体験談をお話ししますけれども、その前に子供の頃にこういう話をきいた事があります。それは日露戦争の乃木将軍が二百三高地を攻めあぐんでいる時に、どうも兵隊の士気があがらないということで、内地の遊廓の女を貨車いっぱい送れというようなことが言われたとかいう話を子供の頃聞いた。当時は我々、子供がきく位ですから一般の大人の世界では、こういったものが明確な話として、残っておったわけです。現地に私か初年兵として北満のソ連との境を接している小っちゃな部落におりました時に、初年兵ですからあまり深くは詮索致しませんでしたけれども、演習の帰りなどで、小っちゃな部落でしたけれども、赤い敷布団が時々干してあるのがみられた。今に考えれば、ああいう小さな所でも慰安所的なものが、あったんだと思います。
 見習士官になって南支派遣軍に行きました時、先づは着任と同時に、聯隊長が、二十名程いた我々見習士官を前にして訓示した時にこう言った事を覚えています。「お前らは若いからあまり近よるな。しかし我々は(ということは聯隊長クラスですね)性交常習者だ(頭に残るのですがSEXにずっとなじんだ者だということですね)性交常習者はしかたがないが、お前達はああいう所に近よるな」という話を訓示の中でしましたね。非常にびっくりしたわけです。
 それからどんどん前線の部隊に行きました。その時に、新しく内地から着任した大隊長がおりました。今度は歴戦の部隊でしたから広州湾、バイヤス湾を経てきた古い将校を前にして新しく内地から着任したチャキチャキの大隊長はこの連中を叱った。「国軍の将校たる者がこんな不潔な所に出入りするのはけしからん」という様なことを皆の前で訓示しました。それが終りまして歴戦の将校達が三々五々解散していく時に、私はこういう事を耳にしました。その連中は「何だとあの内地から来た青二才。あんな訳のわからん事をいって」と非常に軽蔑の言葉を吐きながら散会していった事を覚えています。

 それからその後日談ですが、これを言ったらその人に申し訳ないんですけれども、実はそれから何年か後でその部隊長の副官をしたことがあります。その大隊長には好かれたんですけれども、驚くことにあんな清潔感を待った部隊長は私か副官をしている時に、非常に私をてこづらせる程、女の問題に関心がありまして、戦地の生活はそんなにも人間を変えるものなのか痛感しました。広東、当時は大きな南支那の町ですけれども、そこを歩いている時に街角である日、日本のかわいい女の子を見かけた。その時に我々を引率していた古い将校が冗談だと思いますけれども、「お前、あんなもんに手を出すなよ。あれは師団長の直接のお抱えだよ」という事を話したのを聞いております。これは事実かどうか知りませんけれども、おそらくそれと似たような事が当時あったのではないかと思われます。それ程戦地における抑圧された性と、その処理をどうするかという問題は、下は一兵卒から部隊長、師団長、軍司令官に至るまで全く同じ切実な問題であったと思いました。

◆慰安所なき場合の悲劇
 そこで私は率直に軍隊における慰安所そのものを不潔だといって非常に罪悪視するものがおるならば、私は次のことを反論したいと思います。それは、健全な若い肉体を持った兵隊が一身を捧げて国のために前線に戦っている場合、しかもそれが長期にわたった場合に、正当に持つている性欲をどう考えるのかと。そういうものは戦争中は一切持ってはいかんのかと。性欲を持つことは悪いし、そのはけ口を求めることは非常に悪いことなのかということをむしろ反論したいと思いますね。いやそうじゃないのだ、性欲は当然あって然るべきだ、又そういう悩みもあるだろうということを認められれば、しからば具体的にどうしたら良いかということをお尋ねしたいですね。これは本当に真剣に、表には出しにくい問題ではあるけれども軍や国が真剣に考えてやる問題だと今でも僕は思います。

 そういった場合いろいろな方法があると思いますけれど、先ず、強固な意志を持って自制しろという事が一つでしょうね。これは立派な建前ではありますけれども、結局何も具体的には軍や国としてやらないということで委す訳ですね。そうすると凶悪な戦闘下において性欲が暴発するということは止むを得ん事情だと思います。現実にソ連の終戦前後における満洲における暴虐ぶり、これは人々が知ってますね。それから米国の占領軍でも日本に非常にスマートにきたように思っていますけれども、その進駐軍と女とのいろいろな問題があります。それからベトナムの戦線において先日の新聞報道にありましたけれども、米国と現地人の女の捨てられた合いの子が数万人いると言っております。そこでそういった問題に何かしらの手を打たなければいかんだろうと思います。

 その場合現地にある慰安所ならば中国にも(当時支那ですね)現地のいわゆる遊廓みたいなものがたくさんありました。それを利用するということが広東付近で、はやっていたようですけれどもそれが問題ある訳ですね。それは衛生上の問題が第一点、また防諜上、どうしても軍の機密が女の□からもれる訳ですね。もう一つは日本の兵隊が中国の女を買うということはむこうの中国の若者からすると耐えられないということですね。それは反対の立場になってみると分ると思いますが、それでテロ事件がままありましたね。爆弾を投げ込むということが頻発しておりました。そういう問題がある。そして戦争中に相手国の現地の女を強姦するということは大変なことなんで、もしこれをやれば一遍に軍の威信というものは駄目になる訳です。私はある時期に宣撫関係をやりましたが、宣撫の実をあげたと思っておりましてもたった一人の不心得者が現地の女を強姦したという事件がありました時に一遍に宣撫関係はパーになるわけです。それ程深刻な事なんです。現地の女を犯すということは。〈井上咸氏略歴〉大正4年京城に生る。昭和13年京城帝大法文学部卒業。朝鮮殖産銀行人行。同年19一月現役入隊(長崎県大村)、直ちに渡満、関来車第12旅団第46聯隊。15年8月奉天甲種幹部候補生隊卒業(見習士官)。南支那派遣軍第18旅団歩兵第55聯隊へ転属(広州、福州作戦)。16年12月大東亜戦開始と共にマレー半島上陸、シンガポール攻略作戦。17年4月ビルマヘ転身。終戦後ビルマ、雲南諸作戦に参加。21年7月(約一年間の現地抑留後)復員。22年3月大正海上火災(現三井海上火災)保険株式会社。元常務取締役。

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 歴戦の元将校 慰安婦問題を語る(下)
  慰安婦は大事にされていた
   元菊兵団・歩兵大尉 井上咸(川崎市 86歳)
   昭和史研究所會報 第54号 平成13年10旦10日号

 そういう事をあれこれ考えますと当時内地で法的に許されておった公認の商売である遊廓業を業者とわたりをつけて呼んで現地で軍の管理下におくということは危険な所ですから警備、その他の保護も必要ですし、不自由な所ですからある程度の経済的な食糧その他の調達について面倒みるということもありましょうし、それから使用についても、ある程度の基準を設けて規制の下に商売をやらすというのは当然であって、現地に呼んだ場合、軍の保護におかなければ、商売はできない訳ですよ。しかもその商売は非常に危険は大きいけれども儲けは大きい。これは軍がどんどん進駐して調子よく進んでいくに従っていろんな種類の御用商人が先を争って進出したわけですね。その一つとして、遊廓業が現地に行ったわけですから完全に商売なのです。軍が直接女を集めて、管理して、商売するような事はあり得ない。私の経験では必ず業者、親方がついてきて、それを軍が丸抱え、あるいはその他の方法で管理する。
こう見てくると何ら悪くない。一番合理的な方法ではないかと私は今でも思っています。

 それで戦争における前線における性の問題というものは、真剣に考えるべきであって、兵隊というものは性欲なんかないだろうと思うこと自体が人を侮辱した非人間的な問題だと思っております。これは私自身でなくて私の非常に親しい戦友から聞いた話ですけども、彼はビルマの進攻作戦の時にある部隊長の副官をしていたんです。それで一応ビルマの截定作戦が終りまして警備態勢に入った時にその聯隊長が彼を呼びまして、彼は今でも非常にまじめなかたい男なんですが、これからどういう風に部隊を処理したらいいか訊いたそうです。彼はまじめな男ですから「早速兵隊の健康維持、軍紀の厳正、次期作戦の準備に邁進せねばいかん」というようなことを言ったそうです。これは建前としては模範解答だと思いますよ。ところがそれに対して「何を言うか。そんな事じゃない。早速女の手配をしろ」と言われたそうです。これは建前ではなく、今にして思えば実際に戦闘をくぐり抜けてきた人の実感だと僕は思っております。軍の慰安婦というものはそういう性格のものであったわけです。

◆強制連行到底あり得ぬ
 この前の新聞記事にも、かつて朝鮮の慰安婦だった人の告白と称するものが出てまいりますけれども、その中でこういうものがありますね。
「(女が)十二才の時に北鮮のある村にすんでいたが、突然日本の警察官と軍隊が部落を包囲して否応なしに二十人ばかりの若い女を連れ去った。それから個室に入れられて日本人の監督しかも外には日本兵が歩哨に立って監視している。そのまま現地に送られて」ということになっている。おもしろおかしく書き立てて、しかも何がしかの意図をもって書かれた全くのフイクションだと思います。例えば、私は朝鮮人と二十三まで住んでいて、朝鮮人の友達やら学生、仲間も今なお交際している人もいる状況で、しかも朝鮮生れで朝鮮に骨を埋めるつもりでおった人間ですから朝鮮に対してはかなりの理解をもっている人間ですけれども、今言ったような事は絶対ありえなかったと思います。ということはですね、満洲事変以来朝鮮総督府が一番苦労したのは内鮮融和ということであります。どうかして早く一体にしたいというわけで、今言ったような突然警察官や軍隊が村を囲んで有無を云わさず若い女を引っ張っていったという事はあり得ないです
ね。私の父も最初申し上げましたように朝鮮の各地で、今でいう町だとか村その付近の責任者となった場合もありますけれども、朝鮮人の知事も、かなりの高級官吏もおりましたし、警察官もほとんど朝鮮人だったと思いましたけれども、そういう中でそういう無法な事ができる訳がない。又その事が朝鮮総督府として許される事ではないんですね。そんなことが今になって尤もらしく語られること自体に僕は非常に意図的な何ものかを感じる訳です。遊廓業者、売春業者が、女を集める時はいろいろあったと思います。これは朝鮮の遊廓ばかりではなく内地の遊廓業ですね、それ自体は陰惨な暗い面がありましてね、業者と女の間にはいろいろあったと思います。これを今になると皆軍隊のせいにしておりますけれどもこの問題は、遊廓なり、売春業そのものの問題であって軍隊とは関係ないですね。

◆台湾人に威張る朝鮮人
 では現地ではどうであったかといいますと、私の見たところ慰安婦は大事にされました。慰安婦には朝鮮人も台湾人も日本人もおりました。現地現地で募集したのもおりました。それは商売として経営者、親方がついていて、その親方と軍との関係だと思います。私が現地で管理したというのは、朝鮮人の親方がだいたい七~八名の女を連れてまいりました。これはおそらく上の部隊からの割当てだったと思いますが、作戦を終わりましてある期間駐留した場合に割当てが参りました。兵隊は喜びまして下にも置かないようなお客さん待遇で、建物を造り、食糧その他の調達にも走り回ったり、警備の面倒もみておりました。朝鮮人は当時は日本人ですから現地の人にとっては日本の女ということになっておりますし、特に台湾入に対しては朝鮮人の方が本当の日本人に近いという感覚でむしろいばっていたような状況がありました。

現地の慰安所が兵隊、軍によっていじめられたとか、むちゃくちゃな待遇をしておったとかいうことは私の経験と見聞の中には出てきませんね。むしろ非常に大切にされたと思います。親方の商売としては、危険だけれどももうけの多い商売だったと思います。私の場合は副官でしたから、慰安所のやり方全部に対して責任をまかされていたわけですけれども、他に軍医が二人いて衛生関係を見ていました。ある時こういう事がありました。当時私は若くて物を知らないといいますか、正義感みたいなものがありまして、調べてみますと親方の取り分か六、四とか、七、三位の程度だったと思います。実際に稼せぐ女が三か四取って六か七を親方が取る。そういう配分だったと思います。今考えるとそれがああいった商売の通り相場だったと感じますけれども、当時私は驚きまして、早速親方を呼びつけて「何だ、実際に働いているのは女ではないか。取り分を逆にしろ、比率を逆にしろ」と云った覚えがあります。その後どういう具合いになったか知りませんがかなり改善されたような気がします。

◆敗走中にも慰安婦稼業
  これは一例ですけれども、その後敗戦の間際に部隊全部が総退却をしてジャングルの中を敗退している時期がありました。その時に昔私達が面倒をみた慰安所の一団が、これはもう親方はついていなかったが、女だけで七~八入が兵隊と前後してジャングルの中を逃げていた。たまたま昔の顔なじみの女かおりましてぜひ連れていってくれと頼まれまして、私は彼女らをかばいながら部隊と一緒に逃げた記憶があります。その時ジャングルの中を部隊がかなり無統制に逃げていったのですが、夜になると兵隊がもうお客さんなんですね、ジャングルの中で。私はその時は本当に人間の性欲の強さというものをあきれる思いで見ました。我々は疲労困億でそんな元気はなかったんですが。逃げていく兵隊をまだ客にとる。その時に、だんだん紙くずになったんですが、軍票を山のように風呂敷に包んで首の上に巻きつけておりましたね。そういうことも今、思い出します。最近、敵の捕虜になって非常にあわれな恰好になった慰安婦の写真がありまして、それらしい説明がつけてありますが、あれは部隊全体が故に包囲されて一緒に捕虜になった時の写真だと思います。私の経験では、だんだん戦況が悪くなりますと慰安婦はまっ先に傷病兵と一緒に後方に下げましたね。慰安婦はそういう具合に皆に大事にされて、当時としては彼女達から恨まれることはなかったと思います。兵隊達は感謝して大事にしていたのが実態だと思います。
 
◆強制は国全体にあった
 この慰安所の差別問題以外に、最近は、強制連行だとか、強制という言葉に強いアクセントをおいて非難がなされている。慰安婦は強制というより業者が女を募集して、一つの商売として稼ぎにやってきた。それに対して軍は戦地の危険なるゆえに警備、衛生管理、防諜、軍紀その他を勘案しながらそういう意味での管理をしていたということであって特別に女のしかも韓国の慰安婦だけを無茶苦茶に扱ったということは絶対にないと思います。当時は非常に戦況が悪くなった末期におきましては、日本全体にいろいろな強制的な措置が取らされた。例えば徴用ですね。これは何も韓国人だけに対してだけでなく朝鮮における日本人、内地における日本人すべてがそうであった。台湾においては高砂義勇軍が出るし、沖縄においては学生その他が第一線に立つ。内地では徴用で工場や炭坑に行き、何も朝鮮人だけが強制的にされた訳ではないんです。徴兵の義務などは最もきつい一つの義務ですけれどもこれは当初、朝鮮人には免除されていたわけです。そういう意味ではむしろ逆差別かもわかりませんね。それを今になって朝鮮人、韓国人という所に、また強制という所だけにアクセントを置いて言ってますけれども、これは日本人全体の問題であって、もし韓国人の慰安婦が問題になれば日本人の慰安婦も台湾人の慰安婦も問題になるし、特に敵国であった日本と激しい戦闘をした中国の女もずいぶん慰安婦になっておりましたが、日本が負けた時にまっ先に中国の方から激しい慰安婦の問題について抗議が申し込まれたはずなんですね。それがそうではない。最近になって韓国がうずうず言うものですからフィリピン、その他の所からも、では俺の方
もという形で出てきている。しかしあまり迫力がない。これは韓国のしかるべき人もあまりやりすぎたという事は知っていると思う。

◆慰安婦20万人の根拠は
 なおかつ、日本側が、どんどん腰を引いてただ謝ればいいと下がっている。この前の総理大臣(宮洋喜一編集部)の談話の中に「耐えきれないような、筆舌につくしがたい、苦痛を与えた事に対しておわびをする」とか言っていますが、商売ですから、別にそんなに大きな苦痛ではないと僕は思いますけど、外交上の儀礼としても向こうの云いなり放題にだんだん認めていくことは非常に恐ろしいことだと思います。要するに向こうの云い放題の証言だとかに対して、ほとんど迫力のあるこちら側の答弁がなされていない。したがって下手をするとそのままが、我々民族の歴史の汚点として、定着してしまうことを非常に恐れる。従って、国会議員のような責任ある地位、しかも発言力を待った人達が、本当に民族の恥になるような事に真剣に立ち上がらないということが腹だたしい。という事です。それからこの問題は日本人の中に向こうの者に無批判に同調しておもしろおかしく騒ぎ立てる連中がかなりいるということと、マスコミもそれに踊らされているというような感じが非常にします。もっと正確なものを集めて、きっちりとしたもので我々を指導するような大新聞の態度があってしかるべきだと思います。
マスコミは最近になって慰安婦は二十万人か三十万人というような事を報道していますけれども、そういったとてつもない数字をどこから割り出したのか。軍隊でも一ヵ師団が二万~三万程度のものだったと思いますけれども、そうしますと二十万~三十万の慰安婦といいますと十ヵ師団の人数なんです。そういう慰安婦が日本の兵隊にサービスしたということになりますけれども、ご承知のように直接敵と接している、第一線はほとんど慰安所は利用できなかった。たまたま作戦で後ろに帰って、しばらく休養している場合とか、あるいは後方基地の兵隊が利用する訳で、そういった人員がどれだけ戦闘部隊を除けてやったのか、そうしますと何十万という慰安婦がどこでどういうふうになったのか想像もつかないような人員ですね。

◆真剣に考えよ軍隊と性
 私か一番いいたいのは、慰安所の問題を考える場合に一番欠落している視点は本当に健康な若い男子の集団が国家の為に一身を捧げて戦っているそういう人達の当然持っている性欲の吐け口を本当に考えているのかと、国や軍が当然真剣に考えて、又一般の方もその付近を充分に考えていかなければいかんということの視点が欠けているということです。例えばアメリカ軍あたりは非常に豊富な軍資金と兵力を持っておりますからしょっちゅう部隊を前線と交代をさせていますね。映画にもでてきていますが交代した兵隊は後ろの基地に帰って非常に楽しい目にあっているわけです。日本はそれ程の余裕がなかったと思いますね。私の個人の事をいって恐縮ですけれども、昭和十三年に初年兵から始りまして昭和二十一年に帰ってくるまで一回も満期の機会はありませんでした。ほとんど前線に釘づけになっていました。時には作戦ごとに後方に下がって若干の期間は準備期間とか次期作戦の準備とか訓練期間がありますけれども、だいたい前線にはりつけですね。ひどい時には十ヵ月位はもうジャングルの中で敵とずっと対しておりました。そういう状況です。非常に期間として長いんです。そういう人間がたくさんおった訳です。そういう人達の性欲のことを考えているのか。私としてはできるだけ自制して自己管理をきちっとしてやっているつもりですけれども何かの時にいろんな形で暴発するのはやむを得ないと思いまずね。最近の報道で、日本人が先頭に立って慰安所問題を国連の人権擁護委員会に提訴しているとかきいておりますが、もし日本軍の慰安所の問題をあげるのならば、もっともっと世界史的に見て戦争史の裏面の虐殺暴行、各国の軍隊と女の問題をもっと深く切り下げる必要があるのではないかと思います。私は最近の日本のように、性の解放が叫ばれ、性風俗の乱れた時代にあって、戦争にたずさわる者の性欲の処理を正面から取り上げる論議がなされないということが奇異に感じられます。この問題についてはもうすでに時期的に遅かったという気がしますが、今からでも遅くない、日本政府は本当に勇気をもって正面から取り組む必要があると思います。そうして本当に謝罪反省すべき点は十二分に謝罪反省していいと思いますが、何もかも向こうの云いなりに認め、ただ謝っていくというような対処の仕方は今後ともまずい。と同時に望みたい事は、韓国側においても感情的に煽られることなく冷静に抑制のきいた節ということを本当に望みたいと私は思います。

汚名への反論 No5  山西省太原の慰安婦

山西省太原の慰安婦
 悲惨な状況見た事なし「感謝」で接した皇軍兵士
  第六十二師団独立歩兵第十三大 第一中隊上等兵 小島幸雄(守山市 78歳)
  昭和史研究所會報 第41号 平成12年9月10日4号

 (前略)扨(さ)て私は当年七十五才にて滋賀県議会議員連続二十四年その間議長も勤めさせていただき現在は県の選挙管理委員長を勤めさせていただいております。
 私の軍隊歴は昭和十六年徴集現役兵にて昭和十七年二月より昭和十九年七月迄主として中國山西省若しくは河南省に歴戦、最後の京漢作戦(通称河南作戦)に参加後、昭和十九年八月十六日上海呉訟港出帆、同二十日沖縄県那覇港上陸、同二十年三月末米上陸軍を迎え撃ち、現在の浦添市嘉数高地の戦闘で同年四月九日朝機関銃射撃中(筆者は軽機関銃射手-中村)迫撃砲弾の破片で全身三ヵ所に負傷致し出血多量で不思議に生き永らへました。私の所属中隊は中隊長以下九割方戦死、結局最後迄生き残った者は中隊全員百六十余名の内僅かに四名だけでございます。伊藤正徳著『帝國陸軍の最後』(Ⅳ特攻篇)の百七十二頁~百七十三頁に私の所属致しておりました第六十二師団独立歩兵第十三大隊(長・原宗辰大佐)第一中隊(長・青木正暢大尉)の米戦車相手の戦闘ぶりが記述されております。百七十二頁六行目の一個中隊が十数名に減って了った部隊もあったが……というのが私等の中隊をさしております。
 右の戦闘状況は京都新聞″防人の詩‘に悲運の京都兵団証言録に連載され、若杉幸雄上等兵が私のことです。若杉は旧姓です。御一読いただけましたら大変嬉しく存じ上げま
す。
 扨て私の意見でありますが、先ず。”従軍慰安婦”の問題ですが、先ず第一に、”従軍慰安婦”と言う呼称そのものが先生の御説のように不適当で戦中はそのような呼び方を致しておりません。従軍看護婦や従軍記者とは全く違います。軍の動員令に基いて軍属として従軍した人とは違い、遊廓の経営者やそれに類する人に誘われた戦争売春婦で職業として金銭で兵隊相手に春を売った女性のことです。私達は彼女達のことを日本ピー、朝鮮ピー、中國女性のことをチャンピーと呼んでおりました。
 又彼女達のいるところを「慰安所」と言っておりました。
 昭和十七年夏頃山西省太原市に糧秣受領等に山の中からトラックで出てゆきますと二時間余りの外出が許可され、彼女達のいる慰安所へ行くのが何よりの楽しみでした。その為ショートタイム(せいぜい三十分以内)朝鮮女性が当時の金で一円二十銭、中國女性が八十銭でした。日本女性は将校専門で兵隊はその地域に出入出来ませんでしたので、私は専ら朝鮮の彼女と遊びました。
 突撃実行する前に必ず前金で金を沸います。その他に彼女の機嫌を取る為に金の他に下給品のタオルとか花王石鹸等を持っていって彼女に与えました。
 彼女達は夫々京子とか花子とか都とか兵隊の覚え易いように源氏名で呼んでいました。
假令(たとい)三四ヵ月に一回でも馴染が出来て、兵隊達は寧ろ彼女達に感謝の気持を持って好意的に接していたものであります。どの兵隊も懐中には幾らも金を持っておりますのでタダで遊んだような兵隊は私の知っている限り一人もおりません。又若し一人でもそのような不心得の者がいた場合は彼女達が憲兵隊へ訴えましたら首実検をされその兵隊は大体一週間か十日の重営倉に入らねばなりません。上記のことについては外出の前に週番下士官から念を入れて注意されたものです。又彼女達も商売上手というか朝鮮の民謡(アリランの唄等)を歌って聞かせて呉れまして、彼女達もそれなりに楽しく働いていたようで、決して泣きの涙で過していたようには思はれません。言葉が通じませんので彼女達の心の底は分りませんが、以上私の体験を申し上げましたので一人の従軍兵士の体験談として先生のご参考に供した次第でございます。
 従軍慰安婦の問題は戦死した多くの戦友達の名誉に関する重大な問題で、それが又わが國の中高校の歴史の教科書に記述されていることは全く残念至極でありまして、私一人位何を言はれても少しも堪えませんが戦死者に対して誠に申し訳ない気持ちで悲憤やる方ないところでございます。此の上とも”従軍慰安婦”と言ひ、”南京大虐殺”等此の上とも死んだ戦友達の名誉の為、先生の一層の御霊力を亡き戦友の代辨者として折人ってお願い申し上げる次第でございます。
平成八年十一月三日(明治節の佳き日)

汚名への反論 No4 愈安婦強制連行絶対に無し

 愈安婦強制連行絶対に無し
山東省・・略奪と強姦ぱ厳禁
  元独立混成第五旅団 森島隆(前橋市 81歳)
   昭和史研究所會報 第40号 平成12年8月10日号

◆山東省で強姦は不可能
 私は、昭和十五年一月、北支派遣桐第四二七四部隊大島部隊村上隊(独立混成第五旅団司令部 青島第十八大隊大隊本部高密第二中隊中隊本部丈嶺、その後膠県)に現役兵として入隊し、高密において初年兵の教育をうけ、ひき続き青島の通信隊で無線通信と暗号の教育を習得して、十五年九月原隊に復帰した。
 独立混成第五旅団(独混五旅)は、山東省東部地区の治安維持と、膠済線(青島~済南)の警備が主な任務であった。従って、討伐で人民に被害を与えることは、それほど多くはなかった筈である。別紙(省略)のように、一年間の平均討伐出動回数は七・三回八十九日間である。この記録は陸軍中尉(大隊副官)から終戦時には大隊長であった
方の記録であり、一般の兵の出動回数はもっと少なくて年に十日から三十日程度であった。
 治安維持と宣撫工作が主任務であり、討伐に出動しても、略奪と強姦は固く禁じられていた。当時の住民は疲弊のどん底にあり、略奪する物もなかった。それでも軍隊に宿泊された民家は、大きな痛手を蒙るが、もともと山東省の住民は、満洲に出稼ぎに行く人が多くて、最大の被害は、燃料を燃やされることと、卵や鶏を略奪されることであった。
 婦女子が凌辱を受けると言うが、日本軍が部落に入る前にはすでに遠くに逃れてしまい、部落に残っているのは老人と子供ばかりである。私は、兵隊が女を強姦したという話は聞いたことがない。強姦することが出来たとしても、衆人の目の前でやるわけにもいかないし、家のなかでは最中に後ろから攻撃されて、名誉の戦死では、とても強姦をするような雰囲気ではなかったのである。
 山東省は、共産八路軍の勢力範囲であり、独混五旅は、八路軍と対峙していた。八路軍の装備は弱小であり、日本軍が小部隊で行動している時以外は、戦闘を仕掛けて来ることはなかった。
 私か在隊した三年十一ヵ月間に、私か討伐に参加したのは約十回前後延べ六十日程度であり、その内、交戦回数は二回、戦死者は一回で三人であった。あとは全部敵影もなくただ単に行軍をしてきただけであった。私の同年兵で戦死したのは、たったの二人きりであった。
 「朝まで生テレビ」で、済南で婦女子を二、三十人強姦したという兵隊の手記を、真実だと信じきっている大学教授の画面が大きく写しだされたが、少なくとも、当時山東省に駐留していた兵士なら、こんなことは絶対に起こりえなかったことを、誰でも知っている。日本軍の駐留している地域で、師団司令部や旅団司令部の置かれている大都市、済南、青島などでは、在留邦人も多数おり、日本との交流で生計を立てていた中国人が、好むと好まざるとに拘らず、大多数いたのである。

◆拘束なかった慰安婦達
 兵隊は、日曜の昼間しか外出できないから、外出証とコンドームを渡されて、大部分の兵隊は慰安所に駆け込んで排泄(まさに排泄である)を済ませ、兵営に帰るのである。民間の婦女子を強姦できるような環境では全くないのである。
 大都市、小都市(日本でいえば、県庁所在地以上程度)には兵隊はあまり金を持っていないので、軍人専用の慰安所を利用する。慰安婦は中国人(主として兵士)、朝鮮人(主として下士官)、日本人(主として将校)かおり、性病予防のため、その地区の衛生兵が性病検査を実施していた。軍が関与していたとか、軍が連行したとか、慰安婦の自由が束縛されていたとかいうことは、少なくとも山東省では、絶対になかったのである。中国の民間人でも、中国の慰安婦と遊んでいた人達も大勢いたし、阿片窟も営業していたのである。
 県庁所在地以下の市や町に駐留する日本車兵士は、慰安所などないから、生活に困って、自宅で内緒に売春を働いている中国婦人を、斡旋人を通じて、一握りの兵隊が多少の危険を犯して、利用していたに過ぎなかったのである。
 第二中隊が駐留していた掖(エキ)県には、朝鮮人の慰安婦が一人いた。民家に寝泊まりして、兵隊相手に売春をしていたが、なんらの拘束も、不自由もなく快活に生活をしていた。
仲の良い兵隊もいたはずである。何時でも個人の自由で帰国できた筈であるが、当時朝鮮に帰っても生活できなかっただろうから、慰安婦をしてたに過ぎない。 三光作戦などという作戦は、当時日本軍人の誰もが知りもしないし、聞いたこともない。

汚名への反論 No3 朝鮮の慰安所軍の強制絶対なし

朝鮮の慰安所軍の強制絶対なし
    元羅南憲兵隊曹長 中島賓
          (東京・80歳)
正論1月増大号 平成27年1月

◆軍都・羅南の遊郭街
 私か勤務して居た羅南の町は第十九師団司令部の所在地であると共に、咸鏡北道庁の所在地でもあったから、文字通りの軍都であると共に行政の中心地でもあった。
 羅南には、第十九師団司令部、第三十八旅団司令部、歩兵第七十三聯隊、歩兵第七十六聯隊、騎兵第二十七聯隊、砲兵第二十五連隊、兵姑司令部、師団弾薬庫、陸軍病院、偕行社、師団軍法会議、羅南憲兵隊本部等が在り、国境の会寧に歩兵第七十五聯隊、鏡城に輔重第十二聯隊、咸興に歩兵第七十四聯隊、平壌に歩兵第七十七聯隊、羅津に海軍要塞司令部、会文に海軍通信隊、羅南陸軍通信隊等が在って、文字通り軍都として中心的な重要拠点であった。従って羅南在住の将兵の数は戦時編成の壱万人余りの軍人軍属が常駐して居たので、若い将兵の脹り切った性欲の捌け場としての遊廓は必要不可欠の存在であったから、三笠山の麓に日本人経営の山水楼、富貴楼、三七十楼、高尚楼、約四mの通路を距てた南側に冨士見楼、光明楼、三冊楼、阿佐加楼の外一軒と、少し坂を
登った所に朝鮮人遊廓四楼と検疫所があった。
 正確には”三輪の里遊廓街”と言って居たが、三笠山の麓にあるので皆が通称”山‘と呼んで居た。勿論当時は公娼制度があって、性犯罪の防止の必要悪として世界の各国が。公娼制度々を認めて居たから、当時特別に日本だけが従軍慰安所を設けて居た訳ではない。世界的にも立派な商行為と認められて居たのである。
 公娼制度の認可権限は各道府県知事に在ったのであって、軍が強制的に慰安婦を募集したり、売春を強要した事は絶対に有り得ないのである。

◆家庭の貧困救うため
 然し前述した通り、羅南の町には一万人に余る若い将兵が住んで居たから、僅か二百名足らずの娼婦が性犯罪防止の為の防波堤の役目を果して居たのであるが、彼女等は貧困な家庭を救う為に嫌々乍ら自分を犠牲にした人が多かったのであるが、諦観し切った彼女等には「自分の一身を投げ打って一家の危急を救った」と言う認識の方が強かったから、比較的に楽観的で明るい性格の人が多かった。然し僅か二百名足らずの彼女等は不特定多数の兵士の相手をしなければならなかったから、日曜祭日の日等は、狭い道路一杯を埋めて「まだか」「まだか」と押し寄せる兵士を次々に慰安しなければならなか
ったから、一日に”二十人゛”三十人”の兵士を相手にする女の子が多かった。当時兵士一人二円位いの稼ぎであったから、一日に五、六十円稼ぐ女の人も決して珍しくなかったのである。私の給料が其の頃外勤手当てを含めて約六十円余りであったから、如何に彼女等が荒稼ぎして居たかが思い遣られるのである。然し其の大半は前借金との名目で楼主の収入となったので、彼女等は一生借金から抜けられない‘と言う不遇な環境に甘んじなければならなかったのである。然しそれは棲主と娼婦個人との商的な取り引きであったから軍隊が強制的に出来る道理は無いのである。

◆憲兵は命令せず
 但し、性病感染の恐れは十二分に多かったので、日曜祭日の練休日の前の日、娼婦の全員を軍医が検査する必要があったから、憲兵が立ち合いの下に検疫所で身体検査する事だけは絶対に必要であった。勿論此の検査には楼主も立ち合い、憲兵が軍医の診断結果に基づいて「君は明日休みなさい」とか「明日は絶対にコンドームを使用する様に」とか指示する事はあったが、それは飽く迄も性病の感染を予防するのが目的であったのである。又私共は一般サラリーマンと変らぬ服装で棲主の許可の下に遊廓内に入り、兵士の喧嘩や、暴行、傷害等の防止に努めたのであつて、決して慰安婦等に対して命令
や指示した事は一度も無かった。
 此の様に憲兵や軍医が遊廓の検疫や、就業の指示をしたのは性病予防の為の勧告であり、決して強制力を行使したのではないのである。

◆強制連行絶対になし
 茲(ここ)で”朝鮮人慰安婦強制使用”と言う軍部批判について私の見聞した実情に即して述べてみたいと思う。 所謂南方前線に於ける売春の実情に就いてはいざ知らず、少くとも朝鮮の慰安婦の強制連行と言う事件は、朝鮮半島内に於いては絶無であったと断言出来る。
 悪どいブローカーの手に因って巧みに欺まされて南方に連れ去られた慰安婦が居たとしても、それは決して軍が強制連行したものでは無いと思う。恐らく「南方に行けば一遍に高い金が稼げるから」との旨い話に釣られた浅墓な慰安婦が、戦後急に「軍が強制連行した」と豹変した偽りの告白を鵜呑みにしたデッチ上げではないかと思う。
 私の知る限りでは朝鮮人経営の遊廓は四軒あったが、日本兵は矢張り日本女性を好んだから、あれ程犇(ひしめき)きあった遊廓の中にあっても余程日本の遊女に焦れ無い限り、進んで朝鮮人の廓樓に足を踏み入れる日本人は少なく、又その接客振りも矢張りシックリしないと悪評であったから、日本人の樓廓が余程混雑して居ない限り朝鮮人の店は閑古鳥が鳴いて居るのが実情であった。
 又朝鮮には「酒場(スワチビ)」と言う店があって其處で無許可の売春行為が行なわれて居たから、態々高い金を払ってまで、遊廓を訪れる朝鮮人は数少かったのである。
 朝鮮人は押しなべて事大主義的な面が強いため信じられない様な嘘を平気で言う傾向が強かったので、日本軍強制連行の話も「百%眉唾物語ではないのか」と疑い度くなるのである。朝鮮人の家庭では未婚の娘を猫っ可愛がりにして、上流の家庭では娘の一人歩きを絶対に許さなかった。
 それに反比例して「朝鮮の娘は一旦男を知るとダラシが無い」と言うのが″通り相場々になって居る程であったから、軍の強制連行説についても頭から信じる訳には行かないのである。
 此の様な事から考えると南方の慰安婦問題も「嘘から出た実」の様な話しではないかと疑い度くなるのである。
 何はともあれ私の体験や見聞した実情に照しても少くとも朝鮮半島内に於いては絶対に「慰安婦の強制」を強いる行為は無かったと断言して憚らない。

汚名への反論 No2  南方慰安婦の実態

南方慰安婦の実態
  元・海軍中尉 重村賞
  昭和史研究所會報 第31号 平成11年11月10日

◆特要員の効用 
 特要員と言う名称がある。
 特要員と言う名の部隊があった。
無論、内地の事では無い。太平洋戦争中、日本軍が占領し、進駐して居た南の涯の島々の基地の話である。
 では特要員とは何であろう。
 あっさり言うと女-娘子軍-の事である。戦地に進出する娘子軍の事をこう言う名前で呼んだ。
 もっとも商売女が進出するのは、何も太平洋戦争になってからの事では無く、其の以前から満洲は勿論、支那大陸の各地、凡そ小部隊でも駐屯する町や村々、当時の言葉で言えば皇威の及ぶ涯々までも、大和なでしこの姿を見ない土地は無かったと言って過言では無い。
  満洲では鉄路上を銃弾を冒して占領に向う列車の後部には娘子軍が乗って居た事さえあると言う。
 当時満洲や上海へは隣へ行くように気軽に渡れたが、太平洋戦争で占領した各地ともなると、そう簡単には行かない。
 此の娘子軍達がどんな風にして進出するのかと言うと先ず現地からの要求で行く場合がある。
 例えば、作戦や補給の基地になったような町や港へは前線や後方からの往来や宿泊が多い。従って前線から帰って来た将兵達の息ぬき、又是から前線へ出ようとする連中のお名残りの別宴と言ったような事がくり返される訳だ。所が誰もが殺伐な気分である為、つまらない事ですぐ立ち廻りが演ぜられたり、又予備後備の老兵などになると女なしでは夜が過せぬ等と言った猛者も居て現地人とトラブル起すようなこともある。
 現地のパンパンとよろしくやるのも結構だが、たとえマタハリ程の女が居なくても軍機上にもまずい点があるし、又南方の現地人の中には蝋燭病などと言って物凄い性病を待ったのも居て衛生管理上も具合が悪い。従って野放しにして置くより大和なでしこ軍を輸入した方が気分も落ちつくし、軍機上も風紀上も衛生上にも良いと言う結論になる訳だ。こうした土地には現地からの要求が無くても後方の司令部から現地の事情を考慮して送ると言う場合もある。
 だから中には折角粋をきかせた考えで送ったのに、現地の指揮官が受けつけないので宙に迷ったなどと言う例がないではない。

 例えば昭和十七、八年頃トラック島では、折から激化したソロモン戦の為、ラバウル行の娘子軍が停帯して居るのに加えて、マーシャル群島方面に予定されて居た女軍を同方面の指揮官が受入れを拒否した為、トラック固有の女達と合せて約三〇〇名もがせまい島内で氾濫した事がある。
 その次の場合は業者自体が国策便乗のバスに乗り遅れまいとする遠大な計画の下に当局に運動して進出したのも相当多い。が是は勿論金儲けが唯一の目的だから大体大根拠地たる都会地に限られるようだ。

◆あばずれと純情型
 こうして何拠かの基地に娘子軍の進出が決められると内地に於ける軍駐屯地や軍港の料亭は、或ひは御用商人顔役等が肝煎りで必要人員を集めるのが常だ。内地の料理屋をそっくり移動したのもあるようだし、新たに募集したのもある。
 其の編成も行く場所、其の要求等でピンからキリまである。
 士官専用のものから、下士官兵用、軍属用、或いは飛行場作りの徴傭工員用と言った工合に分れて居て、其の営業所、営業状況もさまざまである。
 ニッパ椰子で葺いた屋根にベニヤ板一枚と言った家からシュミーズー枚のお姐さんが顔を出すと言う赤線区域そこのけの店もあれば、現地の家を徴発した洋館造りの家で営業して居る所もある。其の又洋館の中を畳敷きに改装した家もあれば、或は幽逡な山蔭に数寄屋造りを忽然と建てて、島田に裾をひいた美人が現われる所もあると言った工合であった。
 戦時中内地で営業して居た料亭も、それはそれなりに多少なりとも軍に関係が無い所は少なかったであろうが、連隊のある町や軍港以外の土地の料理屋もずい分現地に店を出して居た。茅場町の古い料亭其角などもそうであるし、読売新聞の隣の数寄屋寮はマカッサルに大川と言う高級料亭を経営して居て、はるばる内地から椛を空輸して日本酒の醸造までもして居た。
 東銀座で大和と言う赤提灯を出して居るおでん屋は新嘉披のジョホールバルの新喜楽と言う料理屋の後身であるし、有名な岐阜の浅野屋もトラックに進出して居た。だが南の方にだけ話を限定しなければ、中国、満洲方面に店を出して居た家、行っていた娘などは無数と言ってもよく、銀座あたりのバー、キャバレーで全然内地しか知らない女ばかりだと言う店は殆ど無いと言ってもよいであろう。
 では、こうした占領地へ進出する女達はどんな人が行ったのだろうか。
 大きく区別すると大体二種類に分けられる。即ちあばずれ型と純情型である。
 どうせ内地は食いつめた。流れ流れて落ち行く先はという訳で住み替え、住み替え行く女達。 昭和の始頃、私は揚子江を百浬も上った宜昌に居たが、其処に芸者が二人居た。長崎、上海、漢口と住み替えて邦人が僅か三十人位の宜昌に住みついた訳だ。
 又、仏印進駐後西貢で、私か少尉時代に膨湖島の馬公で芸者をして居た女に会った。大阪から台北、高雄、馬公と移って西貢に住み替えたのである。
 こうした人達はだからいずれあばずれの名に恥じぬ人であるが、元来が男にだまされたり、いれ上げたりと言う夫婦善哉型が殆どなので案外気のよい女達が多く、それに芸達者な連中も多い。しかし身体を酷使して居る結果、麻薬中毒の人も少なくなかったようだ。
 もっとも日本の女は昔から天草女の名で、大きく言えば世界に鳴りひびいて居た訳だから、海外雄飛の先輩の名を辱かしめない勇敢な女性は掃いて捨てる程あるのであろう。米兵につきまとう洋パンは何も敗戦後日本女性が突如思想的変化を生じた訳ではなく、南の方にも戦前から新嘉坡あたりは勿論、遠くスエズ辺りまで行って居たし、上海の河向こうには米兵のオンリーが群れをなして住み、其の中の数名は支那事変中米水兵に附いて日本軍爆撃下の重慶にも住んで居た。
 もう一方の純情型と来ると是にも幾種類かあるようだ。好きな人が出征したから私もと言う槨子の葉蔭の再会を夢みるロマンス型や、純真な気持で国策に従う者、或ひは募集者の甘言にだまされた者等である。
 実際現地での仕事も唯給仕だけと言う綺麗なものから、最初から肉体だけを唯一の目的にするものとに分れては居たものの、行く先々の状況、戦況の変化、それに明日を知らぬデスペレートな気分などに支配されて、純情型の夢一筋で無事内地へ帰って来た女性は稀ではないのだろうか。
 こうした娘子軍を私は先にやまとなでしこの名で呼んだが、此の女達の中には相当多数の「トラジの花」や、「ジャスミンの花」も混って居た。
 徴傭工員や下士官兵相手にはむしろ半島出身の女性の方が多かったであろう。
 彼女達は勿論彼女達だけで一単位をしめて居るのだが、日本語は無論出来るし、体格は立派だし、それに当時の人種的感情から言って内地出身の兵に対するサービスもよく、タフで純真であるので一般に好評であった。が半島と言っても余程辺鄙な所から来るらしく、彼女達の日本語が全然兵隊用語その借を覚えこんで居るのは哀れにもほほえましかった。彼女達が戦争の形勢が悪くなってからも尽した沼ぐましい純情な話は各地で数多く伝えられていて、現在の日韓両国の関係を考えると感慨深いものがある。

◆あるエピソード
 次にお伝えするのは実際に特要員として現地に渡り、終戦後引揚げて来て現在新橋駅前の狸小路でビーフンを売り物の台湾料理屋を開いて居る元台南「あづま」の女将の話である。
 「私かマニラヘ渡りましたのは十七年の十二月でした。 私の店は台南にありましたので当時南方進出の気運が強かった頃ですから、高雄、台南と次々に建設される海軍の航空部隊の将校連中がよく遊びに見えました。そんな関係で太平洋戦争が始まってマニラが落ちると直ぐに、台北の海軍武官府にお百度をふんで、現地での営業希望をお願いして置いたのですが、許可が下りましたのは十七年の暮でした。早速私の家に居た妓を中心に十三名の芸者を集め、それに板前、髪結、大工、左官まで全員三十名で其の年中に高雄を出発致しました。
 船は海軍の特務艇で手を延せば右舷と左舷が両手でつなげそうな小さな船に便乗したのです。一行の他に芸者が着る衣裳からそれにすぐお正月ですから紋つきも用意致しましたし、食器、畳、壁土までも用意すると言ふ仲々大所帯でした。途中当に揺れましたが先ずは無事に着いた所は、マニラ市のパコ区バダンバヤンでサンマルセリノのフリーメーソンのお寺を割り当てられました。パイプオルガンのある家でした。

 此の家を改装して料亭にしたのですが、既設の宗数的なものはさわらぬように注意したものの妙な工合でした。
 マニラには海軍関係は士官以上のが私共一軒、下士官兵さんのが他に四、五軒ありましたが、陸軍関係は部隊が多い為士官以上用が広松と言ふのがありました他、下士官兵用は数十軒もありました。其の頃は全くよき時代のマニラで、私共は外出するのにも内地の芸者姿で街を歩いたものでした。
 其の後、バンゼルマシン行きの船で沈められた別府の蔦屋の人が増えたりして芸者は二十名程になりましたが、だんだん米軍の反攻がきびしくなり、十九年九月海軍側の特要員は全員内地への帰還命令が出ました。もっとも陸軍側は引き上げ命令が出ず全員街に残っておりましたが、海軍側は十九年十一月までに氷川丸で内地へ引揚げた訳です。

 私の所も一緒に引き揚げさせましたが、私はもともと海軍のおかげで此の地へ来て、良い時だけ勤め、戦況が悪いと直ぐ逃げて帰るのではあまりにも情けなく思われましたので、陸軍側の方々も残って居る事だし、私だけは残して頂き度いとお願いして、私と弟とすずめと言う芸者と板前だけは、何かお手伝する事でもあればと、皆様と同じく苦労をするつもりで残りました。もう其の頃は毎日のような空襲でしたが、病院のお手伝いなどして過ごして居ります中、十月に入ると直ぐ米軍がレイテ島に上陸し、マニラはもう大変な混乱でした。こうして一月七日私共はリンガエン湾に上陸する米船団がマニラ沖を航進して行くのを眺めながら、三年を過ごしたマニラを棄て徒歩で避退地へ出発しました。もんぺに運動靴、背にリュックサック、両手に包みと言う姿です。
 山道を二週間の行進の間に、包の着換へは一つ棄て、二つ棄て、運動靴は底が破れて、バヨンボンと言う所に着いた時は文字通り着のみ着のままの姿でした。
 早川機関少将指揮の軍部の人達と一緒でしたが、もう此の時は死ぬ覚悟でした。
 八月十七日米軍の飛行機が終戦を告げたビラを撒いて行きました。
 それからカガヤンに集結し、一月五日病院船氷川丸で引揚者として内地の土地を踏んだ訳です」

◆半年で前借金返済
 彼女達は大体当時四、五千円の前借金によって前線に赴いたが、契約期間の標準は1ヵ年位であった。これを早い者は僅か三ヵ月普通六ヵ月位で返済したということであるから、その過重な労苦は到底われわれには想像出来ない。米軍の反撃が予想以上に早かったので、空襲や雷撃の危険に曝される機会が想像以上に多かった。契約期間が切れても、適当な便船がないため、前線で終戦を迎えた者も少くなかった。彼女達の貯金高は相当なものだった。当時五、六千円から一万位のものが普通だったし、中には三万円も貯金した者があったと聞いて、誰も驚く処である。当時の金であるから、今の金に直せば、相当な額となる筈である。これによっていかに彼女達が、前線基地の衆目の対象だったかが判るのである。
 前線の彼女達の相手は勿論軍人軍属に限られたことであるが、この相手の中にも、さまざまなことがあった。何と云っても戦闘機や爆撃機の搭乗員が一番人気があった。あっさりしていて金遣いも荒かった。前線部隊の軍人は休息の時間と給与とが限られていたが、民政部関係の従軍文官や報道部関係の従軍班員は、時問的にも経済的にも恵まれていたので、彼女達を独占する機会もあり、物議をかもす中心となった者もいた。しかし一番ちゃっかりしていたのは、彼女達を直接管理する立場にあった特権階級がいたことである。
 配給や移動を取扱う者が絶対の権能を有していたことは、何処の社会でも、何時の時代でも同じことだった。
 マリアナのような処は別であるが、概ね戦局が悪化し、戦線となるおそれのある処では、一般婦女子の引揚を前以て行うのが通例であった。勿論特要員の撤退も行われたが、この引揚は大陸と違って容易なものではなかった。相当の犠牲者を出したのである。
 占領地には家族の同伴が許されなかったので、艦隊は女の同胞として特要員の送還を重視し、どこの部隊でも、その撤退には意を用いて、慎重を期していた。赴任させる時と同様であった。彼女達の中には、遂に内地帰還の機を逸し、特志看護婦に転身した例もあるが、敵の空襲により戦死した者もあった。
 特要員の大部分は責任者の班長に引率されて、無事内地へ帰還した。現在落着のある生活に入った者も少くないであろうが、大半の者は戦前の生活を今もなお続けているのではなかろうか。若しそうであって、不幸の中にあるならば、いばらの路を切りひらいて、落着のある生活に入っていただきたい。多幸を祈って已まない。
  (「特要員と言う名の部隊」より)

汚名への反論 No1  支那の場合

汚名への反論 No1  
支那の場合
突然、慰安婦に抱きつかれ・・・。
強引な客引きに驚く
  元独混第十旅団一等兵 M・K(匿名希望、北九州市 80歳)
  昭和史研究所會報 第29号 平成11年9月10日号

 昭和十四年頃渡支、初めての作戦行動の折に、山東省章邱県の或る駅(駅名は忘れた)前附近で気付いたこと。初年兵で初めて討伐参加で「色気」どころか命がけの出陣であった。駅前で集結中、駅前から少しはなれた砂ぼこりの路上に而して、土でかためたような支那の田舎の小屋と云った感じ(三坪位)の入口に。むしろ゛かぶら下げてあり、その前に苦力らしき支那人が一人で立っており、兵隊相手にお金をもらっていた。二、三名の古兵殿が丸腰ではなかったが、一二〇発の小銃弾を入れた弾薬ごう付きの帯剣だけはキチット付けてゐるのを見て異様に感じた。寸暇を利用しての″ピー買い々を初めて見た。我々初年兵には無用のことで之からの戦闘の方が気がかりであった。
 昭和十四年八月頃歴城県の或る駅に配属され、更に約四十㎞奥地の部落に駐屯勤務していた頃のことである(人口五十戸位で豊かな感じがした村である)。深夜部落の北歩哨線を交代しての帰り、余り広くない路上でいきなり暴漢ではない、支那婦人の独特の変な化粧の″におい々のする四十歳前後のバーさんに暗闇の中で抱きつかれてビックリした。簡単な誘いがあり、若さのいたりと好奇心で、任務終了報告後、便所に行くと断り、意を決して小屋を訪ねた。”しみ油”でのうす暗い灯りの下、化物のような大きな陰口、足を上げた動作は、二度ビックリ。気分が悪くなり看看料三角(もう)(三十銭)位払って早々と退散した。この部落は、私か引っかかった処がある位で他には無いようでしたが、この種のショートルーピー(人目を盗んでやる)は、大なり小なりあったと兵隊仲間では聴いたことはよくあったが、我々は常に敵襲を予期していたので、女どころではないと云うのが実情であった。
        ◇
 出先中隊の駐屯する処には必ずと云って、支那ピーが四人~五人位近くに住んで居るというのが実情のようでした。但し、兵営よりかなりはなれた処にあった。代金は史料のとおりだったと記憶する。田舎では案外安かったのではないか。若い兵隊は遊び半分でふざけたものが多かった。懸命に通うものは先づ無かった。毎日死を忘れることのない日々であり、自分の身を護ること、襲撃に対する備え等々、反面内地に帰還する心で一杯。之が本心で、一日千秋の想いであった。戦友も1/2は戦死。今日生き永らえていることがありかたく、常に戦友の。御冥福”を祈り現地で至る処で御世話になった。
好意的な支那の方々の事は終生忘れることは出来ません。

韓国軍“専用”の性処理施設

2014年05月07日(東スポWeb )

慰安婦問題を追及する国にあった韓国軍“専用”の性処理施設 韓国による“従軍”慰安婦追及と、米国に慰安婦像を作るなど、世界に向けてのロビー活動が止まらない。その結果もあって先月末、オバマ大統領(52)が韓国を訪問した際には「甚だしい人権侵害だ」と指摘。朴槿恵大統領(62)は日本に「誠意ある行動が必要」と具体的措置を取るよう求めた。しかし、韓国国内を見ると、いまだに韓国軍“専用”の性処理施設が2つも存在するのだ。

 韓国では2004年、性売買特別法が施行された。買春をしたら1年以下の懲役か300万ウオン(約29万円)の罰金。そのため風俗店が半減。一般人や観光客が遊びに行く有名風俗街が壊滅した。

 韓国人ジャーナリストは「売春女性が海外に大量流出。韓国の国会議員が調査した結果、韓国外で売春をしている韓国人女性は10万人以上いて、そのうち5万人が日本、3万人が米国だと発表されました」と語る。

 ところが、韓国と北朝鮮との軍事境界線である“38度線”の板門店から約40キロの所に、ヨンジョッコルという町がある。そこには一般人や観光客がほとんど知らない“ちょいの間”街がある。

 月刊情報誌「アジアンキング」(マイウェイ出版)の編集長で、世界の風俗事情に詳しいブルーレット奥岳氏が潜入に成功した。

「20~30年前からある風俗街です。国境を守る軍人はソウルなどの風俗街に遠征するのが難しいので、ここを利用しています。一見、田舎町ですが、その中の高い壁で囲まれている要塞のような所の中に、50軒以上のちょいの間があるんです。入り口の表門には韓国軍警察がいて『入るな』と止めるんですが、これは性売買特別法に対しての表向きのポーズ。軍警察がいない時間には簡単に入ることができます。24時間営業。観光客はほとんど見かけません」と奥岳氏。

 韓国の風俗街といえば、ガラス越しに女性を見て、気に入ったコがいれば、店内に入って交渉というスタイル。ヨンジョッコルも同様だったという。
「料金は10万ウオン(約9900円)で“本番”。ソウルの1・5倍です。歓楽街ではなく、他に何もない基地近くのということで高めの設定ですが、女性のレベルも高いんです。プレー時間が特に決まっているわけではなく、射精したら終了ということです。女性に『お客さんはどんな人?』と聞いたら『軍人に決まってるわ』と言ってました」(同)

 軍人専用に性サービスを行っているというわけだ。しかも、女性たちは搾取されているという。

 奥岳氏は「プレー料金は店と女性の折半ですから、女性は1人の客から5万ウオン(約4900円)しか手にできない。女性たちは整形で借金し、就職できずに、ここで働いているというケースばかり。借金を返すために、1日6人以上の客を取るコもいるということです」と語る。

 また、近くにもう一つの韓国軍“専用”のちょいの間街もあるという。

「ヨンジョッコルから車で15分ぐらいの所には、ホブオンニのちょいの間街もあります。こちらは10軒程度のこぢんまりしたちょいの間街ですが、客層のメーンは、やはり韓国軍。20万ウオン(約1万9800円)ほどで泊まりのサービスもあるので、仲間に顔を合わせたくない上級将校クラスがよく顔を見せるのだそうです」と奥岳氏。

 日本の自衛隊員も休日には風俗遊びをするが、さすがに自衛隊専用の風俗などない。ある自衛隊員は「自衛隊員は一般人と同じく、繁華街に行き風俗遊びするだけです」と語る。軍人だけを相手して成り立つ、いびつな風俗街…。韓国はまず足元を見つめる必要があるのかもしれない。

TITLE:慰安婦問題を追及する国にあった韓国軍“専用”の性処理施設 - ライブドアニュース
DATE:2014年5月12日(月)
URL:http://news.livedoor.com/article/detail/8808559/

朴槿恵」大統領の父は「米軍慰安婦」管理者だった!

朴槿恵」大統領の父は「米軍慰安婦」管理者だった!
[大新聞が報じない「韓国」の馬脚]〈週刊新潮〉

【相手には口を極めて罪を問い、自らの罪には目を瞑(つむ)る。これこそ、韓国の朴槿恵(パククネ)大統領(61)の政治姿勢である。実は大新聞は報じないものの、彼女の父親が“米軍慰安婦”を管理していたという驚嘆の事実が露見したのだ。なのになぜ、日本に歴史認識を問えるのか。】

 ことあるごとに、韓国の朴槿恵大統領は、世界各国の指導者に対して、“慰安婦問題”を持ち出し、日本の不行状をアピールしてきた。

 今年5月、就任後初の訪米では、わざわざオバマ大統領に「日本は正しい歴史認識を持つべき」と訴え、さらに中国の習近平国家主席には共同声明に日本批判の文言を盛り込むことを提案し、11月にはファンロンパイEU大統領に、「日本には後ろ向きの政治家がいる」と反日感情を露にした。

 史実に基づかない真っ赤なウソだらけの主張を唱えながら、わが国をここぞとばかりに辱(はずかし)めてきたわけだが、実は、朴大統領にとって、天に唾する行為ではなかったか。
 それは、韓国の国会の場で白日の下に晒された。
 11月6日に開かれた国会の女性家族委員会で、野党・民主党の兪承希(ユスンヒ)という女性議員が質疑に立ち、
「“米軍慰安婦”という言葉、聞いたことがありますか?」
 女性家族部の趙允旋(チョユンソン)長官にそう切り出すと、
「ここに、“基地村”の性売買が合法的なレベルを超え、非常に組織的に国家が主導したという証言と証拠があります」
 と述べ、その場で国家記録院から取り寄せたという文書を公開したのである。
「それには、“基地村浄化対策”というタイトルが付けられていました」
 と解説するのは、ソウル特派員だ。

「韓国でも、日本で言うところの売春防止法である“淪落行為等防止法”で性売買は禁止されていた。ところが、米軍相手の売春婦の場合、政府にお墨付きを与えられたのです。1977年作成のその文書には、全国62カ所の“基地村”に9935人の売春婦が生活していたと記され、彼女たちの性病対策や専用アパートの建設など周辺整備の方針が示されていた。なにより問題なのは、文書に署名しているのが朴大統領の父親、朴正煕(パクチョンヒ)元大統領だったことです」

 16年もの長きにわたって独裁政権を率いた元大統領であり、なおかつ、現職大統領の父親は売春宿の親玉とでも言うべき存在だったのだ。しかし、韓国では、兪議員が公開した文書については、ほとんど報じられていない。なぜなのか。

「こちらでは、左派系の『ハンギョレ新聞』や『京郷新聞』がわずかに触れた程度。日本の首相は元慰安婦に土下座すべきとまで書き立てる最大手の『朝鮮日報』などは、日本という敵に塩を送ることになりかねないからか、一切記事にしていない。一方、政治の世界では、反日に関して与野党一枚岩。ただ、兪議員の所属する民主党には人権活動家やフェミニストが少なくないので、女性の人権問題として捉え、あえてこれを取り上げたのです」(同)

 ともあれ、あらためて韓国の慰安婦の歴史を繙(ひもと)くと、わが国を批判する資格があるのかと首を傾げざるを得なくなる。

 そもそも、“米軍慰安婦”の前には、朝鮮戦争時、“韓国軍慰安婦”が存在していた。それは、02年、立命館大学の国際シンポジウムで、韓国の金貴玉(キムギオク)慶南大客員教授(当時)によって初めて明らかにされた。韓国陸軍本部が56年に編纂した『後方戦史(人事篇)』のなかに、“特殊慰安隊”と呼ばれた軍慰安所の存在を裏付ける記述を見つけたのだ。

 その後、金教授は『軍隊と性暴力』に収録された論文において、
〈設置時期は不明確だが、一九五一年夏ごろに戦線が現在の休戦ライン付近で膠着状態に入ってからと思われる。閉鎖されたのは一九五四年三月である。(略)陸軍本部はまる四年近く軍「慰安所」を運営したのだ〉とし、
〈(『後方戦史』の)実績統計表によれば、一人の「慰安婦」が一日に六回以上「慰安」を強要されていたことがわかる。また、「出動慰安」の場合、一日二〇~三〇回の「慰安」を強要されたものと考えられる。(略)前線での「慰安部隊」の利用はチケット制であった。しかし誰にでもチケットが配られたわけではない。戦場で勇敢に戦い、功を挙げた順番に配られる〉

 要するに軍直轄の慰安所だったのだが、前線に慰安婦を送るときには1人ずつドラム缶に押し込み、“補給品”名目でトラックに積んでいたという。

■“みなさんは愛国者”
 もとより韓国政府や朝日新聞などは“日本軍慰安婦”の強制連行を騒ぎ立てているものの、未だにその証拠はなんら見つかっていない。翻って、“韓国軍慰安婦”の場合はどうだったのか。
 聞き取り調査の結果として、金教授は、
〈十代後半の未婚女性で、一九五一年春まで咸鏡(ハムギョン)南道永興(ヨンフン)郡に住んでいた。ある日、韓国軍情報機関員、いわゆる北派工作員たちにより拉致され、一日で韓国軍の軍「慰安婦」へと転落した。(略)また、強姦の結果、「慰安婦」とならざるを得なくなったケースもある。(略)韓国軍「慰安婦」制度はあくまで軍による性奴隷制度であり、女性自身は性奴隷であったといえる〉と明らかにしている。

 すなわち、口を極めて日本を批判しながら、当の韓国が強制連行という罪を犯していたのだ。にもかかわらず、韓国国内ではこれらの事実はほぼ黙殺され、『後方戦史』は現在、閲覧不可の状態になっているという。
おまけに、韓国の官営セックスビジネスは、それで終わらなかった。

 朝鮮戦争が53年に休戦になると、駐留米軍の基地周辺に、“基地村”が形成され、政府公認の売春婦が集められたのである。
韓国問題に詳しいジャーナリストによれば、
「米軍政下の47年、韓国では公娼制度が廃止されました。とはいっても、基地村は実質的に公娼の復活だった。米軍相手の売春婦はUN慰安婦、洋マダム、洋公主(ヤンコンジュ)などと呼ばれ、韓国政府は彼女たちを登録制にし、強制的に性病検査を受けさせていたのです」

 そして、“基地村”が本格化するのは、軍事クーデターによって朴正煕政権が樹立されてからだという。
「淪落行為等防止法を61年に制定する一方、特定地域のみ売春行為を容認し、104カ所の“赤線地帯”を設定しました。そのほとんどが、ソウルや北朝鮮国境に隣接する京畿道の基地村でした。韓国政府からすれば、北朝鮮に対峙するうえで駐韓米軍は最大の後ろ盾であり、おまけに外貨獲得のための必要不可欠な存在だった。それゆえ、売春婦を“みなさんは愛国者です”などとおだて上げ、積極的に活用しました」(同)

 当時、米軍慰安婦は2万人を数え、稼ぎ出す外貨は年間1000万ドル(現在の価値に換算すると150億円相当)にのぼった。
「70年代に入ると、米軍側は、韓国政府に対して、基地村の環境改善を強硬に要求するようになった。それに伴い、朴正煕大統領は『基地村浄化委員会』を立ち上げました。浄化とは、主に性病対策のことで、女性たちの徹底検査に乗り出した。国会で兪議員が公開したのは、その一環として朴正煕大統領が署名した文書だったのです」(同)

■ダブルスタンダード
 国家の安全保障上、あるいは財政上も重要な役割を担っていたとされる米軍慰安婦は、どのような生活を送っていたのか。
 64年、22歳のときにその世界に足を踏み入れ、米軍慰安婦として25年間を過ごした金蓮子(キムヨンジャ)さんは、『基地村の女たち』という手記でこう綴っている。

〈基地村のホールで働く女たちは、みな政府が発行する検診証がないと営業できなかった。毎週一回ずつ、性病検査を依託された産婦人科医に行って検診を受けた。(略)その時は知るはずもなかった。「大韓民国は淪落[売春]行為が法で禁止されている国」だということを。数年後にその事実を知ってとても驚いたものだ〉
 彼女たちは性病に罹っていると判定されると、モンキーハウスと名付けられた施設に収容された。
〈女たちは誰もがモンキーハウスでの生活を恐れた。ベッド、毛布、薬品、医者……、すべてが米製の収容所で、犯罪者扱いされながら、毎日米軍たちに股を開き、きれいな女かそうでないかを検査されるのは屈辱的なことだった〉
 また、なによりも頭を悩ませたのは妊娠と堕胎だという。
〈病院に行くとお金がたくさんかかり、それがすべて自分の借金になるので、病院に行かず薬を飲んだ。生理不順に効く薬をたくさん飲むと子どもが下りるという噂があり、女たちはやたらとその薬を求めた。(略)薬を飲むと一晩中激しい腹痛に襲われる。冷や汗が出て、鋭い刃が休みなく下腹部をえぐるように痛かった。(略)どれほど血が出たかわからない。何日か血を下し続けると、こぶしのような塊が出てきた。(略)その後、私は気を失ってしまった〉
 大勢の女性たちが悲惨な生活を余儀なくされた基地村は96年に公的管理ではなくなったものの、今なお存在している。

 戦後、米軍占領下の日本でも、一般女性への性的被害を食い止める防波堤として、政府の管理・監督する『特殊慰安施設協会』(RAA)が立ち上げられた。しかし、ルーズベルト元大統領夫人の反対や性病の蔓延を理由に、わずか数カ月で廃止。それ以降、外国の軍人に、日本は国策として女性を差し出すようなマネはしていない。実際のところ、韓国の方こそ、看過できない慰安婦問題を抱えているのではないのか。

 国際政治学者の中西輝政京都大学名誉教授は、
「朴槿恵大統領は、自分の父親が慰安所の管理者だった事実をひた隠しにしながら、執拗に日本叩きを繰り返した。偽善としか言いようのないダブルスタンダードな政治姿勢を、日本政府は公の場で追及すべきです」

 日本的な悪しき態度であるだんまりが、国際社会での地位低下を招いているのは間違いない。
 さらに、何かにつけて朴槿恵大統領が口にする“正しい歴史認識”という言葉に対し、疑問を呈するのは哲学者の適菜収氏だ。

「歴史の持つ性質を真に理解していれば軽々しくそんな言葉を言えないはずです。常に、歴史とは社会的状況や時代から逃れられない存在。なので、一方的に歴史認識を押し付けるのは、あまりに浅薄です。ましてや、歴史学の門外漢である政治家ならば、なおさら謙虚かつ慎重な判断に基づき、歴史を語らねばなりません」

 安易に歴史認識を振りかざして相手を非難すれば、いずれ歴史に復讐されることになるのだ。

※「週刊新潮」2013年11月28日号

韓国がひた隠しする韓国軍「慰安婦」関連資料

韓国がひた隠しする韓国軍「慰安婦」関連資料
加瀬英明氏のコラム

 橋下大阪市長の「慰安婦」をめぐる発言が、内外で大きな波紋をつくった。

 いつものように、韓国の反日世論が涌き立った。

 ことあるごとに、日本に悪態をついて快感に浸たる。なぜ、韓国はこのようにいじけているのかと思う。

 だが、困ったことに、アメリカでも日本の慰安婦問題となると、中国、韓国の多年にわたる工作によって、日本が先の大戦中に無辜のアジア女性を拉致して、軍の「性奴隷(セックス・スレイブ)」となるのを強いたと、ひろく信じられている。

 河野官房長官による慰安婦についての談話、日本が前大戦に当たってアジアを侵略したという村山首相談話を否定することには、アメリカの国内世論から強い反発を招くことになるので、オバマ政権も日本のなかでそのような動きがあることに、反撥している。

 日本の官憲が人攫いのように、女性の意志に抗って慰安婦となることを強制したようなことは、ありえない。

 慰安婦であれ、前大戦で侵略を働いたというのであれ、南京事件であれ、事実無根であるが、民主主義国で一国の政府がまったく虚偽の事実を、公的に認めるような奇想天外なことは、ありえないことだ。そのうえ、謝罪している。全世界が事実だと信じ込んでいるのも、当然だ。

 それだけに、河野、村山談話の罪は重い。日本が国家の安全を守るのに当たって、日本の汚名を清ぐのを急がねばならない。日本の名誉を回復することが、日本の価値を高め、日本外交に力を与えることになる。

 どの国であっても、軍隊が外地で戦う場合には、将兵が性病にかかることがないように、兵士の性欲の処理にかかわって、管理するものだ。日本軍も例外ではなかった。日本軍の場合には、売春宿を経営する業者に女性を募らせて、慰安所を設けた。

 いったい、韓国には、軍人のための慰安婦がいなかったのだろうか?

 私は日韓国交樹立の前年に、韓国をジャーナリストとして訪れてから、足繁く通ったが、『東亜日報(ドンアイルボ)』をはじめとする韓国の主要新聞に、米軍のための「慰安婦(ウイアンプ)」を募集する広告を、よく目にした。「慰安婦」という言葉は、旧日本時代から引き継いでいた。

 韓国における「慰安婦」について、韓国の学者グループによる研究があるが、2年前に『軍隊と性暴力』(現代史料出版)として訳出刊行された。

 同書は、「慰安婦」が朝鮮戦争の勃発から、国連軍(米軍)と韓国政府がかかわって管理されたことが、克明に検証している。

 韓国では、米兵相手の「慰安婦」を、「洋公主(ヤンゴンジユ)」(外人向け王女)、「洋(ヤン)ガルボ」(外人向け売春婦)、「国連婦人(ユーエヌマダム)」、「国連婦人(ミセス・ユーエヌ)」と呼んでいたという。米軍向けの売春地区は、「基地村(キジチヨン)」と呼ばれた。

 「慰安婦」の「目的は、第一に一般女性を保護するため、第二に韓国政府から米軍兵士に感謝の意を示すため、第三に兵士の士気高揚」のためと、述べている。

 韓国軍にも、慰安婦がいた。「『慰安婦』として働くことになった女性たちは、『自発的動機』がほとんどなかった。」「ある日、韓国軍情報機関員たちにより拉致され、1日で韓国軍『慰安婦』へと転落した。」

 「国家の立場からみれば公娼であっても、女性たちの立場からみれば、韓国軍『慰安婦』制度はあくまでも軍による性奴隷制度であり、女性自身は性奴隷(ソンノーエ)であった」と、論じている。

 2002年に韓国陸軍の「慰安婦」についての研究が発表された直後に、「韓国の国防部資料室にあった韓国軍『慰安婦』関連資料の閲覧が禁止された。(略)『日本軍「慰安婦」問題でもないのに‥‥』と言葉を濁らせた」という。

 ソウルの国会と、アメリカ大使館前にも、慰安婦像を設置することになるのだろうか。

『軍隊と性暴力 朝鮮半島の20世紀』

■『軍隊と性暴力 朝鮮半島の20世紀』からの一部抜粋
 また、韓国の学者グループによる研究で、2年前に『軍隊と性暴力』
(現代史料出版)として訳出刊行された書物には、朝鮮戦争において、
「ある日、韓国軍情報機関員たちにより拉致され、1日で韓国軍『慰安婦』
へと転落した。」ことが記されており、加瀬英明氏がコラムで紹介しています。

韓国がひた隠しする韓国軍「慰安婦」関連資料
http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi

 韓国の日本叩きは無制限に行われ、韓国に都合が悪い事実はひた隠しに
隠していますので、韓国に都合の悪い事実を一人でも多くの方と情報を共有し
拡散が必要と思いましたので、上記の資料を読んで一部抜粋してみました。

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宋連玉・金栄編著 『軍隊と性暴力 朝鮮半島の20世紀』 現代史料出版
第三部 解放後南朝鮮・韓国の軍事主義と性管理
第七章 朝鮮戦争時の韓国軍「慰安婦」制度について 金貴玉(キム・キオック)(鄭栄桓訳)
1 問題提起
2 国家暴力と韓国軍の軍「慰安所」
3 朝鮮戦争当時の韓国軍「慰安隊」の実態を明かす
4 解き明かさねばならない問題
5 結論

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1 問題提起(p284)
(p285)
 私は、1996年に分断と戦争の犠牲者に関する現地調査を行う過程で、朝鮮戦争当時、大韓民国陸軍が徴集した軍「慰安婦」が存在したことを知った。
だが、この事実を公開するまでには7年の月日がかかった。2002年に韓国陸軍の軍「慰安婦」を扱った論文を発表した直後は日本と韓国の放送メディアや新聞も、目新しさからこの問題を報道したが、またすぐに歴史の闇に放りこまれてしまった。
そして論文発表の直後、韓国の国防部所属資料室にあった韓国軍「慰安婦」関連資料の閲覧は禁止され、ほとんどのメディアも示し合わせたかのように沈黙した。
「日本軍『慰安婦』問題でもないのに……」と言葉を濁らせたのだ。

 この時、私はあることに気づいた。これまで韓国の学会や女性運動は、日本軍「慰安所」制度と公娼制には連続性があるとする主張に対して辛辣に批判してきたが、一方では韓国軍「慰安婦」問題に対しては「公娼」であると断定し、議論の余地のないものとする傾向があるということが見えてきたのである。一部の進歩的な男性たちですら、民族主義の名のもとに私の研究成果を身内の恥をさらすものとみなし、日本の極右の弁明の材料となりうると警告した。

 私もこうした事実の発見を喜んだわけではない。だが1996年に韓国軍「慰安婦」の存在を知り、その後より具体的な事実に触れるにつれ、不快感を隠すことは到底できなくなっていった。なぜあれほど軽蔑した日帝の軍「慰安所」を、韓国軍は朝鮮の地に作ったのか。私はこの問題を解明しなければならないと考えた。

 日本軍と同じように韓国軍が軍「慰安所」を作ったのは、男性の耐え難い生理学的本能が普遍的に存在するからなのか?インドシナ戦争時にフランス軍によって「移動式娼婦村」が作られ、ベトナム戦争当時に米軍専用のベトナム女性の「売春宿」が設けられたように、軍「慰安所」はあらゆる戦争の必要悪なのか?韓国軍「慰安所」設置はこうした普遍的現象の一部に過ぎないものなのか?もしそうならば、朝鮮戦争当時に韓国軍が作った「慰安所」の実態と性格はどのようなものだったのか?誰が作り、何が行われていたのか?そもそも軍「慰安所」の「慰安婦」たちとはどのような人を指すのか?また、韓国軍「慰安婦」たちにこれまで沈黙を強いてきた原因は何か。このような韓国軍「慰安婦」をめぐるさまざまな疑問を提起することから、私はこの問題にアプローチしてみたい。

 現時点で私は、大韓民国陸軍本部が1956年に発刊した『後方戦史(人事篇)』
(以下『後方戦史』)以外に軍「慰安所」に関する文書を探し出せていない。

2 国家暴力と韓国軍の軍「慰安所」(p287)

(p288) 朝鮮南部においては、老斤里(ノグンニ)事件や居昌(コチャン)良民虐殺事件、大田(テジョン)刑務所収監者処刑事件のような数多くの例に見られるように、相当数の民間人たちが米軍や韓国軍、警察、右翼青年などの国家組織により不法に虐殺された。
民間人による大量虐殺の場合も、それは国家権力の庇護のもとになされている。虐殺の主体が軍隊や警察、民間人のいずれであっても、こうした虐殺は「国家の暴力」といえるだろう。

 しかし虐殺事件だけが国家暴力なのではない。戦時中にほしいままに行われた性暴力もまた、国家暴力のカテゴリーに加えられる。以前私は、朝鮮戦争前後の国家暴力により女性に加えられたさまざまな性暴力を、四種類に類型化したことがある。すなわち、直接的強姦による暴力、性器や女性の身体への虐待及び幼児殺人による母性に対する暴力、軍人の拉致による強制結婚や性奴隷化、拘禁の間の性拷問などである。これらのうち最も蔓延したものは強姦であったが、軍人の拉致あるいは強制結婚や性奴隷化も少なからずあった。

 性奴隷化は個別的なものと集団的なものに分けることができる。一人、あるいは少数の女性たちが軍人により軍部隊へと拉致され、昼には「下女」として働き、夜には「慰安」を強要された。こうした類型に属する軍「慰安婦」も相当広範に認められる。私が1999年にインタビューした、朝鮮戦争に参戦した米国人ポール・フェンチャー (Paul Fancher) が属していた米軍部隊にも軍「慰安所」があった。また、韓国軍により体系的に「特殊慰安隊」が作られ、そこで軍「慰安婦」たちは軍人を「慰安」するよう強要されたのだ。

3 朝鮮戦争当時の韓国軍「慰安隊」の実態を明かす(p288)
(5)「特殊慰安隊」実績統計表(p291)
(p292) 上の実績統計表によれば、一人の「慰安婦」が一日に六回以上「慰安」を強要されていたことがわかる。また、「出動慰安」の場合、一日に20~30回の「慰安」を強要されたものと考えられる。

4 解き明かさねばならない問題(p293)
(p296) 第三に、狭い意味での軍「慰安所」と軍「慰安婦」の性格をどのように見るべきだろうか?『後方戦史』に書かれているように、軍「慰安所」は国家組織により設立・管理される公娼制に基づいており、軍「慰安婦」は軍隊組織にそれまでなかった「第五種補給品」と別に称されもした。一般の公娼制に伴う性病検診についても軍部隊が直接実施した。

 つまり、国家機構であるところの陸軍本部は当時、軍「慰安所」の性格を「公娼」としてとらえていたといえる。公娼制と軍「慰安婦」は自発性において同一であるとみるのは難しいが、一般的に公娼制というと、そこには女性の自発性があるという前提をもって認識する傾向があるだろう。そのような背景のもと、例えば太平洋戦争のころに極少数でも、日本人「慰安婦」のなかには天皇に対する忠誠心と愛国心を抱いていた女性が、自らすすんで「慰安婦」になった場合があったと考えられる。では、朝鮮戦争期の韓国人女性のなかにも、国家への忠誠心と愛国心の発露として軍「慰安婦」になった者がいたと考えられるだろうか。

 『後方戦史』は、「慰安婦」が軍「慰安所」に来ることになった過程や動機について全く言及していない。公開募集をしたという記録も見つけることはできていないが、金喜午の回顧録に、その女性たちのほとんどが、かならずしも器量良しには見えない幼い女性たちであるとしており、戦争前に私娼で働いていた女性だとは考えにくい。

 実際に軍「慰安婦」として働くことになった女性たちの例からは、「自発的動機」がほとんどなかったのではないかと思われる。ある女性は十代後半の未婚女性で、1951年春まで咸鏡南道永興(ヨンフン)郡に住んでいた。ある日、韓国軍情報機関員、いわゆる北派工作員たちにより拉致され、一日で韓国軍の軍「慰安婦」へと転落した。
彼女はこのことに関する証言を拒んだが、拉致した北派工作員二名によりこの事実が証言された。

 すべての軍「慰安婦」たちがこのようであったと推定することは難しい。だが、他の「慰安婦」にされそうになった女性の証言からは、いわゆる「アカ」と疑われた状況におかれたため、軍人に殺されるかもしれないという恐怖心から軍「慰安婦」となることを拒めなかったことがわかる。また、強姦の結果、「慰安婦」とならざるを得なくなったケースもある。戦争による貧困と、家族から保護・扶養されることが難しいという困難な条件が幾重にも重なり、女性たちは「慰安婦」にならざるを得なくなったのかもしれない。
こうしたことを考えてみても、また、朝鮮人女性たちの伝統的家父長制的純潔意識を考慮してみても、朝鮮戦争当時、特に未婚女性たちが自発的に軍「慰安隊」に志願したと判断することには無理がある。

 よって国家の立場からみれば公娼であったとしても、女性たちの立場からみれば韓国軍「慰安婦」制度はあくまで軍による性奴隷制度であり、女性自身は性奴隷であったといえるだろう。そして、何人かの男性の証言にもあるが、1954年3月に軍「慰安隊」が閉鎖されたとき、日本軍と同じように、大部分の女性たちを捨てたに違いないのである。

(p298) 第四に、韓国軍「慰安婦」問題が語られない理由は何だろうか?
いくつかの要因が複合的に作用しているといえる。家父長制イデオロギー、民族主義イデオロギー、そして、反共イデオロギーなどが同時に作用しているのではないか。

 日本軍「慰安婦」問題と比較するならば、被害女性が証言を始めたとはいえ、未だにはるかに多い女性たちが日本軍性奴隷であった事実を隠したり、名乗り出たとしても秘密を守り続けているのでだが、その一方で日本軍による犯罪行為だと認識することにより、「性奴隷」概念が受け入れられるようになった。しかし、韓国軍「慰安婦」問題に関してはどうだろうか。彼女たちは愛国心からというよりも、日本軍「慰安婦」と同じく生存に対する危機感から強制的に「慰安婦」にさせられたのである。朝鮮戦争時に軍「慰安婦」と接した経験を持つ男たちが「韓国軍『慰安婦』は「日本人」とではなく「韓国人」とそうしたのだから、それでもましだろう」という弁明をしているが、この言葉からは、この問題の隠蔽に関して民族主義的イデオロギーと家父長制イデオロギーの双方が同時に作用していることを確認できる。

 また現代韓国の反共イデオロギーが支配的な雰囲気においては、韓国軍の非道を明らかにすること自体がレッドコンプレックスを刺激する可能性があった。
多くの女性たちが「アカ」と疑われることにより軍「慰安婦」となることを強要された状況もまた、反共イデオロギーと韓国軍「慰安婦」問題を分かちがたいものとしている。

 拉致により韓国軍「慰安婦」とされた女性たちに、真実を究明できる時代が来たのだとどんなに言っても、彼女たちは「私にこれ以上連絡するな」という言葉を残して口を噤んでしまう。それは、彼女自身が真実究明により苦痛を負うことを避けたいだけではなく、貧しい息子に軍「慰安婦」の子どもという足かせをかけたくないためでもあるだろう。

5 結論(p300)
(p300) 韓国軍「慰安所」が設置され、軍「慰安婦」が存在したことは厳然たる事実である。しかし1991年、金学順が「私は日本軍慰安婦であった」と告白したように、自らが韓国軍「慰安婦」であったことを証言する女性が出てくるかは疑問だ。
周辺の証言により韓国軍「慰安婦」であることがわかった二名の女性も、そうした事実を証言することを拒み、涙と沈黙で答えるのみであった。
韓国軍「慰安婦」問題に接近する過程でわかったことは、この問題が日本軍「慰安婦」問題と別個のものではなく、植民地主義が続く過程で現れたものであるという事実である。

 国家権力や家父長制イデオロギーにより日本軍「慰安婦」や韓国軍「慰安婦」がみな沈黙を強いられたという点で、二つの問題は同一である。だが、民族主義の異なった作用の仕方は、両者に差異を生じさせた。言い換えれば、日帝による軍「慰安婦」問題は、紆余曲折はあったが、加害者日帝に対し朝鮮人が問題提起することは当然であるという共感を得ることができたのに対し、韓国軍「慰安婦」問題については、韓国人だからこそ問題提起できないという情緒が相当に強かったようにみえる。2000年代に入り、韓国では民主主義の認識の成熟とともに過去事整理運動がどの時代よりも急進的に進められている。
国家暴力としての韓国軍「慰安婦」問題も、植民地清算、過去事整理運動の線上で真実が糾明されなければならない重要な問題である。

 人類史、特に近代資本主義の歴史を振り返ると、そこでは常に戦争と性暴力が繰り返されてきた。しかし、国家暴力としての性暴力が発生する動機には、男性の「節制できない性欲」よりも深刻な問題がある。戦時性暴力を通じて、直接的な加害者や国家権力は、他者に羞恥心と屈辱感を刻印して屈服させ、服従させることができる。ひいては純潔イデオロギーを用いて被害者に「汚された体」との意識を持たせ、そうした身体の政治学を通して、国家とは敵対的問題にならないようにした。そして、被害者が国家イデオロギー、反共イデオロギーを受容するように仕向け、国家に忠誠を誓わせる結果を生んだ。

 これまで韓国の国家権力は、数十年間朝鮮戦争期の韓国軍「慰安婦」、すなわち韓国軍性奴隷の問題を隠しつづけ、今でも反省の色を見せていない。
しかし韓国の学校教科書も教えているように、真実は勝利するのである。
韓国の民衆が数十年間、血と汗を流して独裁と闘い、あらゆる犠牲を払ってやっとの思いで獲得してきた民主主義の価値を、自ら投げ捨ててはならないのだ。

「従軍慰安婦は売春業」李栄薫ソウル大教授

「従軍慰安婦は売春業」李栄薫ソウル大教授
2004/9/3 朝鮮日報

韓国挺身隊(従軍慰安婦の韓国内での通称)問題対策協議会(常任代表: 申蕙秀(シン・ヘス))は2日に放送された「MBC100分討論」でパネリストとして出演した李栄薫(イ・ヨンフン)ソウル大学経済学科教授の挺身隊関連の発言に対し3日、声明書を出し、李教授の教授職辞任を要求した。

 韓国挺身隊問題対策協議会は「李教授の発言は日本の右翼の中でも極右からやっと出てくる主張で、私たちを驚愕と怒りに震えさせる」とし、「これは日本人の妄言で傷付けられた被害者たちの息の根を止めるもの」と主張している。

 韓国挺身隊問題対策協議会はまた「こうした植民史観を持った者が国立大教授としての資格があるのか疑問」とし、「李教授は被害者と国民の前に公開謝罪後、自主的に辞任し、ソウル大も李教授を罷免せよ」と主張している。

 李教授は「過去史真相究明論争」をテーマに開かれたこの日の討論で、過去史に対する民間人レベルの反省を強調する過程で挺身隊を商業的目的を持った売春業になぞらえたかのような発言をしたことで騒動を巻き起こしている。

 李教授は2日の夜、「韓国戦争当時、韓国人による慰安所や米軍部隊近くのテキサス村に対する韓国人の反省と省察がない」と日本軍従軍慰安婦を米軍部隊の売春業になぞらえた。

 また「朝鮮総督府が強制的に慰安婦を動員したと、どの学者が主張しているのか」とし、「日本は挺身隊を管理した責任があるが、韓国民間人の問題も取り上げるべきだ」と主張した。

 こうした李教授の発言が電波を通じ放送されると、MBC「100分討論」のHP掲示板とソウル大経済学部ホームページ、インターネットポータルサイトなどにはネチズンの抗議が殺到し、韓国挺身隊問題対策協議会は李教授の教授職辞任を要求している。

 某ネチズンはあるポータルサイトに「『100分討論』を見てあまりにも腹が立ち、投稿した」とし、「本当にこういった考え方を持った人間が教授なのか」と批判した。

 さらに別のネチズンは「韓国トップの大学の教授という人が慰安婦が商業的な売春婦だったと言ったことに、本当に呆れる」としながら、「自身の名をかけ教授職を辞任すべき」と要求している。

http://www.chosunonline.com/article/20040903000051

朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度

朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度 
韓国の研究者発表〔朝日新聞〕


朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったことが23日、立命館大学(京都市北区)で開かれている「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム日本大会(朝日新聞社後援)で明らかにされた。韓国軍慰安婦について日本で公になったのは初めて。発表した韓国・慶南大客員教授の金貴玉(キム・ギオク)さん(40)=社会学=は「日本軍の慰安婦制度をまねたものではないか」とみている。

金さんは96年、離散家族のインタビューの中で、「50年10月、韓国軍の捕虜になり、軍慰安隊の女性と出会った」という男性の証言を得た。以後5年間インタビューを重ね、「直接慰安所を利用した」「軍に拉致されて慰安婦にされかかった」という男女8人の証言を聞いた。

さらに金さんは、韓国の陸軍本部が56年に編さんした公文書『後方戦史(人事編)』に「固定式慰安所-特殊慰安隊」の記述を見つけた。設置目的として「異性に対するあこがれから引き起こされる生理作用による性格の変化等により、抑うつ症及びその他支障を来す事を予防するため」とあり、4カ所、89人の慰安婦が52年だけで20万4560回の慰安を行った、と記す特殊慰安隊実績統計表が付されている。

証言と併せ、軍隊が直接経営していた慰安所があった、と金さんは結論づけた。
軍関係者の証言の中には、軍の補給品は第1から第4までしかないのに、「第5種補給品」の受領指令があり、一個中隊に「昼間8時間の制限で6人の慰安婦があてがわれた」とする内容のものもある。

どんな人が慰安婦になったかは明らかではないが、朝鮮戦争時に娼婦(しょうふ)が急増し、30万人にも及んだことから、金さんは「戦時の強姦(ごうかん)や夫の戦死がきっかけで慰安婦になった民間人も少なくない」と見ている。

金さんは「設置主体だった陸軍の幹部の多くは日本軍の経験者だった。韓国軍の慰安婦が名乗り出るためには、日本軍慰安婦問題の解決が欠かせない。韓国政府と、当時軍統帥権を握っていた米国の責任も追及したい」と話している。

    ◇

大阪外国語大学の藤目ゆき助教授(歴史学)の話 
非常に重要な報告だ。軍慰安婦については、韓国でもほとんど知られておらず、発見といっていい。韓国にいて韓国軍の暗部を問うのは難しい。同胞の女性を性奴隷化した自国社会を直接問うことになるからだ。アジア女性史研究の上でも、軍慰安婦と現在の軍事基地周辺での性暴力がどのようにつながっているのか強調文を知る助けになる。


「韓国戦争中にも軍慰安婦存在」韓国教授が主張
中央日報 2002.02.24 東京=呉デ泳(オ・デヨン)特派員

日本軍の慰安婦制度を真似た慰安婦制度が、韓国戦争当時、韓国軍にもあったという主張が提起されたと朝日新聞が24日報道した。

韓国の慶南(キョンナム)大学の客員教授の金貴玉(キム・キオック、40)氏は、23日京都の立命館大学で開かれた国際シンポジウムでこのように発表したと同新聞は伝えた。

金教授は「1996年以後、5年間『直接慰安所を利用したことがある』、『軍にら致され、慰安婦になった』など男女8人の証言を聴取した」と明らかにした。

金教授はまた「韓国陸軍本部が1956年編さんした公文書『後方戦史』に『固定式慰安所-特殊慰安隊』と記録された部分を発見し、これには4カ所で89人の慰安婦が1952年に限って20万4560回の慰安活動をしたという統計資料が添付されていた」と同新聞は付け加えた。

一方、国防軍事編纂研究所の関係者は『当時、軍は売春婦と合意の下で場所を提供した。また慰安行為の対価は部隊運営費から支給されたと聞いている」とし「しかし、日本の植民地時代に日本軍が人権を無視し、一般庶民を強制に連れてきて運営した従軍慰安所とは違う」と説明している。

私が見た従軍慰安婦の正体

小野田寛郎自然塾理事長  「正論」平成17年1月号 
首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

 戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

 野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。

 淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。
 では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

◆漢口の「慰安所」を見学
 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。
 日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。

難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。
 私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。

 私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう、小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。
 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。

 私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。
 群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。料金は女性の出身地によって上中下がある。また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

◆どこにもいなかった「性的奴隷」
 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

 私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

 彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

 先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。

 ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。
 当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。

 一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。

 サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。
 以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。
 私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。

「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い
 次に、軍関与の暴論について証言する。 私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。
 だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。
 南昌には師団司令部があった。「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。

「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。もちろん勤務は二十四時間である。
 私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

 考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

 「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。部隊が移動する時もそうなるだろう。

 私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。

 もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。

 戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。
 軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。

「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。

 現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。
「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。根源に人間が生存し続けるために必要とする性(さが)が存在するからだ。

「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。
 

米軍の性処理 ペトナム戦争とその後

アジアに撒き散らす尊敬できない米軍の足跡 
第二次大戦後の冷戦時代で、もっとも長く戦闘がつづいたのはフランスが主役の第一次(一九四五~五四)と、アメリカが主役になった第二次(一九六一~七五)のベトナム戦争であろう。
 戦争と性の問題がここでも登場するが、その態様は基本的に第二次大戦期と変らない。ベトナム軍は主として長期のゲリラ戦術に依存したので、仏米軍による女性へのレイプ、拷問、虐殺の事例が少なくない。
 フランス軍が持ちこんだのは、植民地車の伝統的慣習になっていた「移動慰安所」(Bordel Mobile de Campagne)であった。慰安婦は北アフリカ出身者が多く、存否をめぐる論議はたえなかったが、現地人女性は防諜の上で望ましくないという観点もあり最後までつづいた、とバーナード・フォールは書いている。この方式は、日本人・朝鮮人の慰安婦連れで転戦した中国大陸の日本軍と似ている。

 第二次ベトナム戦争ではピーク時の米兵は五十万を超えたが、九割近くが第一線以外の後方勤務であり、サイゴンを中心にベトナム人女性による売春産業は繁栄をきわめた。米軍の公式戦史はもちろん新聞も、この領域にふみこんだ記事はほとんど報道していない。幸いライケに駐屯した第一師団第三旅団(兵力四千)の駐屯キャンプにおける慰安所の実況について、スーザン・ブラウンミラーがピーター・アーネット記者(ビューリッツァー賞受賞者)に試みたヒアリングがあるので、次に要旨を紹介しよう。

 一九六六年頃までに、各師団のキャンプと周辺には「公認の軍用売春宿」(Official military brothels)が設置された。ライケでは鉄条網で囲まれたキャンプの内側に二棟の「リクリエーション・センター」があった。バーとバンド演奏所の他に六〇室の個室があり、そこで六〇人のベトナム人女性が住みこみで働らいていた。彼女たちは米兵の好みに合わせて、『プレイボーイ』のヌード写真を飾り、シリコン注射で胸を大きくしていた。性サービスは「手早く、要領よく本番だけ」(quick,straight and routine)がモットーで、一日に八人から十人をこなす。料金は五○○ピアストル(ニドル相当)で、女の手取りは二〇〇ピアストル、残りは経営者が取った。彼女たちを集めたのは地方のボスで、カネの一部は市長まで流れた。この方式で、米軍は「ディズニーランド」とも呼ばれた慰安所に手を汚していない形にしていたが、監督は旅団長で、ウエストモーランド司令官もペンタゴンも黙認していたのである。女たちは週ごとに軍医の検診を受け、安全を示す標札をぶらさげていたが、それでも米兵の性病感染率は千分比で二〇〇(一九六九年)に達していた。

 これで見ると、日本軍の慰安婦システムをそっくり模倣したのではないかと思われるほどすべてが酷似しているが、条件や環境が同じなら誰が考えても似た方式におちついただけのことかもしれないべトナム戦争末期には、この種の女性たちが三〇万~五〇万人をかぞえたとも言われる。戦争が終ると彼女たちの「更正」が問題になる。最初はリハビリ・キャンプヘ入れられるが、そのうち外人観光客用のダンサーヘ転出したとエンローは書いている。ベトナム戦を戦ったのは米軍だけではない。英軍も豪州軍もインドネシア軍も参戦しているが、最近になって注目を集めてきたのは米軍に次ぐ延べ三十一万人を派兵、五千人とも三万人ともされる混血児を残してきた韓国軍である

 長くタブー視されていた韓国の派兵と兵土たちに残したトラウマをとりあげた映画「ホワイト・バッジ」(一九九二)の公開がきっかけになったが、慰安婦問題に関わっている朝鮮人女性のなかには「韓国人はベトナム人殺しと女買いの悪いイメージを残したのです……ベトナム(に対して韓国は三十数年間、過去を清算しなかったのです)と言い出す人も出ている。
 ベトナム戦争にかぎらず、アジアの売春産業と米軍の基地経済は切っても切れぬ関係にあるようだ。日本(沖縄をふくむ)や韓国では米軍の駐留が米世紀前後の長さにわたるので、構造化していると言ってよいだろう。とくにアジア諸国の経済水準が低かった一九七〇年代以前は、ドルの威力が大きく、米軍は基地周辺に特権的な売春システムを築きあげ、各国政府はその下請的任務を引き受けさせられていた。関連の犯罪やトラブルが起きても、「治外法権」的な処理がまかり通っていた。

 その間に売春の態様はさま変りしていく。日本本土では売春防止法(一九五六)の成立をきっかけに女性たちの境遇は逐次改善されていったが、沖縄では一九七二年の本土復帰まで前借金など戦前の本土に近い搾取形態が残っていた。
 沖縄の地位が向上すると、こんどはより安価なフィリピンの女性が移入され、似たような役割を担った。韓国では、日本と同じように、米軍占頷下の一九四七年十一月、公娼制度(管理売春)を禁止する法令が出たが、やはり有名無実に終る。

 朝鮮戦争(一九五〇~五三)は、多くの未亡人と孤児を生みだした。一九五六年の韓国政府統計によると、全国で五十九万人もの戦争米亡人がいて、こうした母子家庭などの女性たちが、生活難のため米兵相手の売春婦となった。五七年の統計では、その数は四万人と推定されている。六二年には「倫落行為等防止法」が成立したが、これまた形だけのものに終る。
 朝鮮戦争後も、ひき続き米軍は韓国に駐留した。売春婦たちはドルを目あてに、米軍基地周辺の「特定地域」に群がった。「ヤンコンジュ」(洋公主と呼ばれる米兵相手の売春婦は見下される存在だが、最近でも二万七千人をかぞえるという。なかでも有名なのは三十八度線に近い東豆川基地で、ピーク時の六五〇〇人からは減ったが、最近でも六十数店に一五〇〇人の米兵用売春婦がひしめいている。強制検診制があり、女たちは安全カードが必携だというから、往年の日本軍慰安所と瓜二つである。

 しかし一九八二年にここを調査した臼杵敬子によると、慰安婦になった動機は「同棲した男の裏切」「結婚の破綻」「家族からの疎外」が多く、以前のような家庭の貧困という背景は少ないという。また米軍師団長が売春抑制を指令すると、互助会がストをうって米軍を屈伏させた話もある。有名なキーセン観光や「ジャパゆき」さんのたぐいも、一方ではフェミニストたちの猛反発を受けるが、売春に依存する経済構造から見れば、失業ないし外貨収入の減少を招き、貧困への逆戻りを強いる矛盾となる

 ペトナム戦争時に米兵の休息地として賑ったフィリピンやタイも米軍の引揚げで深刻な打撃を受けたが、カンボジア内戦を収拾するため、国連の平和維持部隊(UNTAC)が一九九二年に派遣されたときは、一時的に売春景気が復活した。
 しかし旧ユーゴスラビアの内戦(一九九二)で、「民族浄化」を名目とした組織的レイプや強制妊娠、慰安所の設置が、国際法廷による裁判にかけられようとしているように、「戦争と性」の関わり方は変貌を遂げようとしているように思われる。

 湾岸戦争(一九九〇~九一)では、職業的娼婦に代って兵士同士の性充足法が一般化したようである。 米大統領の諮問機関である「女性の軍務委員会」の調査によると、参戦した男女混成部隊の兵士四四四二人に対するアンケート調査で、六四%が「前線で異性兵士と何らかの性関係があった」と回答した。その頃、これまで中絶が事実上禁止されていた米軍関係の病院でも、中絶が実施出来るようになったという。
 佐藤和秀が「女性兵士を男性兵士は慰安婦にし、男性兵士を女性兵士は慰安夫にし・・・いくら戦線で遊んでも、軍が中絶で跡始末をつけてくれる」と書いたような情景となったわけだ。



(1)Bernard B.Fall,Street without Joy (Harrisburg,1961)pp.126-27
(2)Susan Brownmiller.Against Our Will(Simon and Schuster.1975)pp..94-95
(3) Cynthia Enloe.op.cit,dt.pp.33.34.
(4)『世界』一九九三年八月号の宮崎真子稿、朴根好『韓国の経済発展とベトナム戦争』(御茶の水書房、一九九三)参照。
(5)『世界』一九九七年四月号の富山妙子との対談における尹明淑発言。
(6)『女性の人権アジア法廷』(明石書店、一九九四)の高里鈴代論稿を参照、一九八九年調査では七三六〇人以上の売春婦がいた。
(7)尹真玉編『朝鮮人女性がみた〈慰安婦問題〉』の金富子論文、一七六ページ、申蕩秀前掲書、五五ページ。
(8)臼杵敬子『現代の慰安婦たち』(徳間書店、一九九二)に米軍基地周辺の売春事情が紹介されている。
(9)毎日新聞ニューヨーク電(一九九二年十月四日付)
(10)『正論』 一九九三年十二月号の佐藤和秀稿。

『慰安婦と戦場の性』新潮選書 秦 郁彦著から抜粋

韓国・朝鮮の慰安婦

朝鮮人業者が従軍慰安婦を連れて戦地を回っていたという証言
「石枕 (下巻)」 張俊河 安宇植訳 1976年 サイマル出版会

(著者は日本軍を脱走して中国で活動していた上海臨時政府に参加し、金九主席の側近になっていた。)

私たちをなおのこと嘆かせたのは、新しい事実だった。日本軍が降伏する直前(1945年8月15日)まで通訳か、それでなければ前線地区を回って阿片を商ったり日本軍慰安婦の抱え主を演じた連中までが、一朝にして光復軍(韓国臨時政府の軍隊)の帽子を手に入れ、独立運動家、亡命者、革命家などを自称する、とうてい見るに忍びない風潮が横行したことだった。のみならず、同じく異国にある同胞たちの財産を、そうした連中であればあるほど先に立って没収して回るのが普通だった。

著者は戦後、言論人として民主化運動の先頭に立ち"韓国の良心"といわれた人である。


韓国には今も軍人専門と思われる慰安婦がいる
「いい加減にしろ韓国」 豊田有恒 平成6年 詳伝社

軍隊の行くところ、女はつきものである。日本国内でも、基地の近くには慰安所があった。これらは、すべて民営である。だが、女たちの健康管理には、軍が介入した。なぜなら、当時、性病が蔓延していたため、軍としても放置できなかったからだ。これは、他国の軍隊でも同じことである。いざというとき、兵隊が病気で戦えないのでは、戦争にならないからだ。

非武装地帯(南北国境)の付近で、韓国軍の兵営のある場所にも、現在、売春街がある。ついでながら、たまには、韓国から北韓(北朝鮮)へ亡命する兵士がでることは、日本ではあまり知られていない。女と博打と酒で借金がかさんで、にっちもさっちも行かなくなる兵士が、軍事分界線を越えて、北へ逃げることがある。北では、偉大なる首領さまを慕って、やってきた勇士ということで、大歓迎になる。だが、宣伝に使われたあげく、いつの間にか、消息を聞かなくなる。利用価値がなくなって粛清されたわけだろう。

また、いまは、観光客に人気の街だが、あの梨泰院(ソウルの繁華街にあるファッションタウン)は、もともと近くにある米軍第八軍団の基地を、あてこんだものだ。70年代初めに行ったときは、怪しげなパーが多く、混血の子を抱いた女を、見かけたものだった。まえにも説明したが、梨泰院(イーテウォン)は、かつて異胎院(イーテウォン)という文字を宛てられていた。つまり、外国との混血児を収容した場所だった。その伝統は、つい最近まで生きていたというわけだろう。もっとも、いまでは様変わりして、米軍は追い出されかけている。

韓国中央日報日本語版 / 「韓国戦争中にも軍慰安婦存在」韓国教授が主張
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=24331&servcode=400§code=400

韓国「基地村」買春 http://www.jrcl.net/framek649.html


「立ち直れない韓国」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮半島国家管理売春史の歴史歪曲

最近、朝鮮史の専門家まで、朝鮮の「妓生(キーセン)」は、ただの「踊り子」や「楽師」、せいぜい日本の「芸者」のようなもので、「娼妓」、「売春婦」ではない、と美化する傾向がある。それは、朝鮮娼妓史に対する無知か、それとも知っていても、わざと歴史歪曲しているかのどちらかに違いない。朝鮮の妓生は、ただ詞をつくったり、詩を吟じたり、あるいは楽器を弾きながら、両班・貴族たちと酒を汲み交わしたりする、芸能人やら文学少女であったかのように美化することは、明らかに歴史歪曲の確信犯である。朝鮮半島の妓生は、それが官妓(官庁に置かれたキーセン)であろうと、芸のみ売って、春を売らなかったという歴史認識は明らかに勉強不足だ。
(中略)
朝鮮の宗主国への営妓(軍隊慰安婦)、官妓の進貢は元の時代からすでに正史や野史に表われている。しかし統一新羅の時代から、唐軍に強制連行された高句麗、百済人は、婦女子が多かった。彼女らの運命は奴婢に、もしくは官妓、宮妓、営妓、私妓になることは、当時の社会背景からみれば推測できる。元の時代になってから、朝鮮半島は一躍、東アジア最大の宦官と貢女(女の献上品)の供給地となったことは、諸史に散見できる。また貢女や営妓の献上についての要求は、ベつに朝鮮半島とは限らず、すでにジンギスカンの時代に、征服された中央アジア諸国の国王は、競って美女と名馬を献上したので、高麗国王も貢女を要求された。それは処女を原則とし、しばしば国中の結婚を禁止して、要求に応ぜざるをえない場合もあった。もちろんそれは汗(皇帝)の宮廷に限らず、諸王や権臣もたびたび貢女を要求した。貢女には、宮妓だけでなく、官妓や営妓になるものもみられた。高麗が元に服属した後の元宗15年3月、元からの南宋軍人のために、高麗の婦女140名を要求したことがあった。高麗政府は「結婚都監」を設け、市井の独女、逆賊の妻、僧人の女を集めて、数を満たした。そのときは処女、童女ではなく、独身婦女や罪人の妻を強制連行して、1人の化粧代を絹12匹(布地24反に相当)で、モンゴル政府に売ったのである。これは政府という国家権力による人身売買と強制連行ともいえよう。その翌年の忠烈元年に、元は蛮子軍(南宋の降人部隊)1400人を高麗に送ってきたので、蛮子軍に営妓を売るために高麗政府は「寡婦処女推考別監」を設け、役人を諸道に出して婦女を推考、選別していたこともあった。
(中略)
教材として日韓の教科書に採用された幻の「従軍慰安婦」そのものが、はたして存在していたか、いなかったか、今日でも未決のままである。「なかった」派の主張によれば、「政府が直接関与した例は一つもなかった」である。しかし、韓国人からすれば、かつて朝鮮半島は宗主国の中華帝国諸王朝に貢女を進貢するアジア最大の貢女の産地であった。現在でも世界有数の国家管埋売春の国である。長い歴史文化と現在の「状況論理」からすれば、「(従軍慰安婦は)存在したに決まっている」と想像するのも無理からぬことだ。しかし、どうみても「あったか、なかったか」はっきりしないことを、無理やりに「あった」ことにして教科書で教え、相手に「謝罪」を強要することは、はたして良識にかなうものだろうか。そこにも「正しい歴史認識」が必要となろう。


「いい加減にしろ韓国」 豊田有恒 平成6年 詳伝社
妓生は”中国人接待担当”国家公務員

卑近な例をあげると、妓生というサービス嬢が、韓国に存在する。大方の日本人は、日本でいえば、吉原の遊女みたいなものだと思っているらしいが、大間違いだ。本来、妓生とは、外務省の儀典局の職員みたいな資格なのだ。中国からやってきた天使(エンジェルという意味ではない。天とは、中国という意味なのだ。つまり、中国の使者という意味)を応接するために、存在している。詩歌管弦の道に秀でていて、中国語がぺらぺらで、頭もよくないと勤まらない役職なのである。しかも、接待する相手の中国人の好みに合わせて、美人でないといけない。たまたま使節の中国人が、旅の無聊(ぶりょう)を訴えれば、夜伽の相手もするというわけだ。いわゆる売春婦ではない。れっきとした国家公務員なのだ。現在はともかく、日本の遊女より、はるかに格が上なのだ。

韓国で、有名な暴君の燕山君(在位1494~1506)は、名刹円覚寺を破壊して、その跡地に妓生の養成所を建てた。この場所が、今のパゴダ公園なのだが、韓国人は、このエピソードについては、あまり語りたがらない。パゴダ公園は、日本に対する3・1運動の発生地として有名だから、そっちの由来を紹介しておいたほうが、ジャパン・バッシングの役に立つわけだろう。対中国というケースでは、よりすぐりの美女に教育を施して、高級コールガールみたいなこともさせた。このように、中国に対しては、徹底的に卑屈になりきった歴史を、長いあいだ継続してきた。

妓生は、官庁に制度的に設置された朝鮮の伝統的な芸妓で、歌舞をもって遊宴にはべらなければならなかった。また、両班に侍寝するすることもあり、これを守庁といった。身分的には官庁の所有になる「公奴婢」であり、妓生の娘は「奴婢制度」によって母の身分を継承せねばならなかった。まさしく性奴隷といえよう。


「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社
李朝時代には、両班、中人、奴婢の他に、妓籍(キジョ)という戸籍があった。妓生(キーセン)が妓籍に属した。両班であれば、もちろん金を払わねばならなかったが、妓生とはいくらでも寝ることができた。両班が妓生を呼びだして、一夜をともにすることを「守庁」(スチョン)といった。庁は役所のことである。役所を守るといって、妓生を呼んで家に帰らなかったのだから、ユーモアがあった。妓生側からは「スチョントゥンダ」(官庁に入る)といった。夜、一人で役所を守るのは寂しいのだ。そこで妓生と役所で一夜を楽しんだ。役所では「守庁」は公認された。

妓生を愛人として生まれた子は、庶属(ソージョク)となった。庶属は常人扱いだった。両班は、妓生との間にできた娘が年ごろになると、親しい友人に贈ったり、自分の上司の長官に貢ぎ物として棒げた。「肌の若いのがよいだろう。君、持っていって遊ベ」というようなことを言って、友人に進呈したから、もう人間扱いではない。韓国は好色な文化である。日本よりも、もっと陽気であけっぴろげだ。


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
なぜ韓国の国家管理売春で、日本人だけ非難されるのか

日韓併合後5年後の1916年、「貸座敷娼妓取締規制」が発布された。このことが朝鮮半島初めての公娼制度の全面導入であったという主張となっている。歴史を直視せず、都合よくつまみ食いするわけである。法治国家だから、売買春を中心とする「水商売」を取り締まるのは当たり前のことである。しかし、過去の「慰安婦」を国家犯罪として非難しながら、現在の国家管理売春を免罪とするのは異常である。

1970年代には、朝鮮半島統一運動勢力が進歩的文化人と手を組み、日本のマスコミを総動員して、朴大統領の売春親光政策の徹底追及に明け暮れていた。日本の女性問題運動家、市民連動家も競ってこのキャンペーンと呼応し、日本男性の買春旅行を国の「恥」として、同じく徹底的に追及し、マスコミを騒がした。考えてみれぱ、それは朴大統領のいわゆる「国家戦略産業」としての「観光立国」を潰そうとするキャンペーンだったのであろう。統一運動勢力は朴政権の国家売春政策を批判し、女性問題運動家も「国辱として日本男性の買春親光を非難し、双方とも大義名分が立つ。アメリカの週刊誌『タイム』は、この日本人観光客のキーセン買春の狂態ぶりを報道し、世界的な話題ともなった。
韓国の国家管理売春は、写真付きの登録制で身分を保険社会部に登録して、証明書を所有し、定期検診を週一回行なうものだった。国家管理下の売春婦の数については、『腐触する社会――公害と妓生観光』(朝鮮統一問題研究会編)によれぱ、全国で20万人にものぼるという。

『腐敗する社会』によれば、韓国の「妓生学校」は「時には有名人の講話を聞かせたり、現代韓国の経済政策、観光誘致の重要性について説教し、もっぱら外貨獲得のために献身する」ことを勧めているという。日本人観光客を相手にしていたので、「日本語学校」を設け、観光客に安心して買える「商品」として高く売り出している)と述ベている。

文教部長、閔寛植は1973年4月、東京の「韓国学園」に教職員や民団幹部まで集めて、韓国女性が国家のための経済的建設に欠くべからざる外貨獲得への献身的努力をしていることに、最大級の賛辞を呈したとも伝えられている。

朴政権が非難されるのは、売春を国策として奨励し、「美徳」として外貨稼ぎに躍起になっていたということにある。
さらに彼女たちを「特訓」して、「芸術使節団」や「芸能人」として証明書を発行し、日本まで遠征させたことである。KCIAの対日政財界工作として、韓国の妓生は「外交官用」の旅券まで持ち、日本政財界の大物相手の専門家として踏んぱっていたのだ。いわゆる「日韓癒着」は、韓国の妓生が国家のために大きな役割を果たしていたから生じたともいわれ、彼女たちは、さらに対米議会工作にも使われているいう。

「大日本史番外編朝鮮の巻」から引用

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